ブラッドは、茹だっていた。 首都から旧王都に戻ってきて、一ヶ月半が過ぎた。季節は移り変わり、穏やかな春から暑い夏となっていた。 一ヶ月半の間に、色々な事があった。フィリオラの魔導師免許の謹慎が解けたので、彼女の仕事が再開した。 スライム増殖暴走事件の賠償金を払うため、貧窮し続けている財布を潤すために、働きに働いている。 客の方も彼女が戻ってくるのを待っていたようで、ひっきりなしに仕事が舞い込み、休みなどほとんどない。 そのおかげで、フィリオラの弟子であるブラッドとキャロルの授業は、近頃はめっきり停滞してしまっている。 だが、フィリオラが進められない分はリチャードに手助けしてもらっているので、今のところはなんとかなっている。 他にも、様々な変化があった。旧王都にやってきたダニエルとフローレンスは、それぞれで働き始めている。 同じ仕事場の方がいいだろう、ということで、二人揃って旧王都郊外の鉄工所に勤め、作業員として働いている。 どちらも世間に慣れていないので試行錯誤をする日々ではあるが、一ヶ月半も経つと慣れてきたようだった。 二人は現在、サラの共同住宅に住んでいる。ダニエルは三○三号室で、フローレンスは二○三号室に入居した。 いつのまにか共同住宅を出ていたキャロルは、今はヴァトラスの屋敷にいるので、ブラッドはよくそちらに行く。 リチャードから魔法と勉強を教わるため、というのもあるが、フィリオラがいないので話し相手が欲しいのだ。 キャロル自身も、ブラッドを相手にどうでもいいことを話すのが楽しいようで、仕事を早々に切り上げてくる。 近頃は、キャロルの表情が随分と明るくなったと思う。そして彼女は、よくリチャードと目を合わせている。 その度にキャロルは照れくさそうに頬を緩めているので、二人がどういう関係なのかは、おのずと解った。 フィリオラも、レオナルドを相手にするとそういった反応をしているのを、ちょくちょく目にしているからである。 首都から旧王都に戻ってきた途端、フィリオラとレオナルドは、やけに近付いていることが多くなっている。 どちらも気恥ずかしげながらも嬉しそうなので、ブラッドは、二人の関係が隣人ではなくなったのだと察した。 フィリオラは魔導師の仕事の合間を縫って、用事はなくてもレオナルドの部屋に行き、その逆も多くなった。 何をしているのか、とそれとなく二人に別々に尋ねてみたが、どちらも笑ってばかりいて答えてくれなかった。 ブラッドは、今の状況に多少なりとも疎外感を覚えているが、以前のように家出をしたくなるほどではない。 むしろ、邪魔をしてはいけない、と思っていた。下手に手を出してしまっては、面倒なことになりそうだからだ。 日常生活の忙しさで忘れがちな世間の情勢は、いつのまにか大変なことになっていて、戦争が拡大していた。 共和国が隣国へ仕掛けた侵略戦争は、始めた当初は共和国が優勢だったが、近頃は劣勢に追い込まれている。 そのため、共和国の経済は徐々に破綻を始めていた。現時点では辛うじて保っているが、崩壊は時間の問題だ。 子供であるブラッドには、戦争と経済がどう関わっているのかは掴めなかったが、大変なのだとは解った。 フィリオラが仕事でもらってくる報酬も、以前に比べて目に見えて減っているし、店の商品も少なくなった。 そして、以前に比べて街中で見掛ける兵士の数が格段に増え、旧王都に来る機関車には難民が乗ってくる。 旧王都は戦地から遠いので実感はなかったが、戦争の気配と共和国の綻びを、肌で感じる機会は多かった。 世の中は大変なんだ、これがセンソウなんだ、とは思っていたが、だからといって何をするわけでもなかった。 ブラッドはぼんやりとした頭で様々な出来事を思い出していたが、一向に冴えてこず、次第にうんざりしてきた。 居間の出窓は全開にしていたが、共同住宅の両脇に建物があるので、風通しが悪く、熱気は籠もったままだった。 窓の外に見える太陽は、憎らしいほどぎらぎらと輝いている。湿気を含んだ夏の暑さは、煩わしくてたまらない。 ブラッドは服の両袖を捲り上げた腕を、ぺたりとテーブルに載せた。少しひんやりしたが、すぐにそれは失せた。 「あーむかつくー…」 静かな部屋に、覇気のない自分の声だけが広がった。テーブルに突っ伏してみても、結果は同じだった。 「おーわんねぇー…」 ブラッドが突っ伏したすぐ脇には、広げられたままの帳面があり、片方のページには書きかけの文章がある。 帳面の隣には、厚い魔導書が開いてある。その本の中程の、くっきりと折り目の付いたページが広げられていた。 ページの左右には共和国語の文章があり、それを魔法文字にして書き写すのが、リチャードからの宿題だった。 その文章は、一見すれば普通に見えるものなのだが、よく読めば魔法陣に用いる文字の羅列が含まれている。 文章を書く練習と魔法文字の暗記、魔法となる言葉の復習が一度に出来るから、と言われてやらされている。 確かにそうかもしれないし、理に適っているかもしれないが、ブラッドにとっては、ただうんざりするだけだった。 リチャードの授業は、初歩をじっくり教え込んでくるフィリオラと違って、効率と成果を常に重視している。 授業に付いていくことが出来れば面白いだろうし、確実に勉強になるのだろうが、付いていけなくては意味がない。 キャロルは自分で何度も復習をしているので付いていけているのだが、ブラッドは復習などほとんどしていない。 フィリオラにもリチャードにも、それではいけない、と言われているが、なかなか改善することが出来なかった。 勉強自体は嫌いではないし、新しいことを覚えるのは楽しいが、一度成功すればそれでいいような気がしてしまう。 一度出来たんだから、という妙な自信だけが付いて、実際のところは身に付いていない魔法も結構あったりする。 ブラッドは温くなった紅茶の中に指を入れて濡らし、テーブルに簡単な魔法陣を描くと、その端を小突いた。 「我が意のままとなれ」 魔法陣を成している紅茶は、少しばかり持ち上がった。だが、水滴になることもなく、崩れ落ちてしまった。 ブラッドは眉間をしかめて、起き上がった。魔力を操るどころか、魔力を魔法に昇華させることが出来ていない。 さすがにやばいかもしれない。ブラッドは布巾でテーブルを拭ってから、紅茶を呷り、帳面と魔導書を閉じた。 「どこでやるかなー」 独り言を言いながら、ブラッドは自分の部屋に向かった。扉を開け放ち、雑然としている部屋に踏み入った。 フィリオラから片付けろと言われながらも片付けられてない床を歩き、壁に立て掛けておいた杖を手に取った。 あまり長さのない木製の杖で、先端には魔力出力補助のための、水色の魔導鉱石が填め込まれているものだ。 床と同様に散らかった机の上から初級魔法の魔導書を取って脇に抱え、合い鍵を取り、部屋を出て扉を閉めた。 三○一号室から廊下に出ると、鍵を掛け、階段を下りていく。昼下がりなので、共同住宅の中は静かだった。 階段を一階まで下りると、玄関前の広間にずんぐりとした機械人形が突っ立っていた。ヴェイパーである。 ヴェイパーは階段を下りてきたブラッドに気付き、ぎちり、と首を動かす。無表情な仮面じみた顔が、少年に向く。 「ぶらっど。どこ、いく」 「外だよ外。魔法の練習にさ。ヴェイパーも一緒に行こうぜ」 ブラッドは両開きの扉を両方とも開け、全開にさせた。ヴェイパーは、開かれた玄関から高い空を仰いだ。 「そと、あつい。そと、でたら、じょうききかん、やけつきそう」 「水さえ絶やさなきゃ平気だ、ってフローレンス姉ちゃんが言ってたじゃんか。減ったら足してやるよ」 オレの魔法で、とにかっと笑ったブラッドに、ヴェイパーはかなり不安そうにした。 「すいとう、もって、いったほうが、いいとおもう。ぶらっどの、まほう、あんまり、たよりにならない」 「心外だなぁ」 ブラッドはあまり面白くなさそうにしたが、ヴェイパーに杖を預けると、階段を勢い良く駆け上っていった。 しばらくすると、ブラッドは金属製の水筒を抱えて戻ってきた。歩くたびに、ちゃぽちゃぽと小さく水音がした。 ヴェイパーはブラッドの杖と水筒を交換してから、身を屈め、慎重に外に踏み出した。途端に、気温が増した。 日陰でひんやりとしていた玄関と違い、地面から照り返る日光が眩しく、空気にかなりの熱が立ち込めている。 この国の夏は短いとはいえ、暑い時は暑い。ヴェイパーはそっと歩いて階段を下りると、たまらなくなった。 「う」 ヴェイパーは苦しげに唸ると、関節の繋ぎ目を開き、背中の煙突も開け放った。どしゅう、と蒸気が溢れ出した。 辺りには白い蒸気が立ち込め、一層暑さが増してしまった。ブラッドは蒸気に辟易しながら、彼の隣で止まる。 「水、いる?」 「うん」 ヴェイパーはこっくりと頷き、ぎち、と背中を曲げた。丸い背に付いている四角い蓋が独りでに動き、開いた。 分厚い金属がずれると、その中に冷却用の水を流し込むための穴が開いていて、そこからも蒸気が出ていた。 ブラッドはヴェイパーの手から水筒を取ると、蓋を開いた。背伸びをして、彼の背中の穴に水筒の口を当てる。 一気に中身を全部流し込むと、うあー、とヴェイパーは心地良さそうな声を漏らした。水が冷たいからだろう。 「もう、いい。おなか、いっぱい」 「こっちは空っぽになっちまったけどな」 あー面倒くせぇ、とブラッドは嫌そうにぼやいてから玄関に戻っていった。また、中央の階段を駆け上っていく。 ヴェイパーはかんかんに熱していた魔導鉱石式蒸気機関を冷却させ、また新たな蒸気を関節から浮かばせた。 薄い雲のような蒸気が、弱い風によって掻き消された。ヴェイパーは、三階建ての共同住宅を見上げてみた。 三階の部屋からは、ブラッドが動いている物音がする。彼が戻ってくるまで、もうしばらくあるようだった。 空は、どこまでも高く濃密な色をしている。春のような柔らかさも、秋のような穏やかさもない、強い色だった。 ヴェイパーは、少し苦手だった。気温が高すぎて蒸気機関の調節が上手く行かないから、というだけではない。 一片も穢れのない、潔いほどの青空には、妙に後ろめたくなる。有機物しか、受け入れない気配がするのだ。 こうして空の下に立っていると、己が異物であるという自覚がおのずと湧いてくる。森の中も、海の傍も然りだ。 無論、それはヴェイパーの勝手な感覚だ。他の魔導兵器に聞いたことなどないし、聞いても答えは返ってこない。 この世界は有機物が中心で、有機物こそが命であるので、無機物から生まれた自分は生命体ではないのだ。 だから、いてはいけない気がした。人造の存在で、その上無機物でしかない自分は、この世界に相応しくない。 ほんの少し、ダニエルやフローレンスの悩みが解った気がした。上官二人の悩みは、世間と軍人のずれだった。 長い間軍で暮らしていた二人にとって、世間大衆は異世界も同然で、見知らぬことばかりの世界なのである。 故に、二人が働き始めた頃は、ダニエルもフローレンスも戸惑ってばかりいた。何もかも、軍隊とは勝手が違う。 人を殺すために覚えた技など役に立たないし、異能力を完全に封じなければならないし、戦闘など行わない。 上官からの命令があれば、それに忠実に従っていれば良いのだが、命令がなくなると却って困ってしまう。 二人は新しい世界での日々に苦しんでいたが、近頃はそうでもなく、逆に楽しむような素振りすら見せている。 それは、二人が生き物だからだろう。生きている者は適応性を持っているので、状況に応じることが出来る。 だが、ヴェイパーはいつまで経っても状況に応じられなかった。未だに、ブラッドの言動が解らないことがある。 戦闘以外に役に立たない魔導兵器を連れて歩くことにも、一緒に遊ぼうと誘うことも、理解出来なかった。 疑問符ばかりが頭に浮かんでいたが、玄関から足音が近付いてきたので、ヴェイパーは玄関に意識を戻した。 鍔の広い帽子を被った婦人、サラだった。サラは日向に突っ立っているヴェイパーに気付き、あら、と立ち止まる。 「ヴェイパーさん、ブラッド君とお出掛け?」 「うん。また、つれて、いかれる」 ヴェイパーは、玄関の階段を下りてきたサラに顔を向けた。サラは片手に持っていた日傘を広げ、差し掛けた。 「今日も暑いわねぇ。あなたは鉄で出来ているから、余計に暑いのでしょうね」 「うん。あつい」 こくんと頷いたヴェイパーに、サラは優しく微笑んだ。 「気を付けて行ってらっしゃいね」 「うん」 ヴェイパーが頷くと、それじゃあね、とサラは手を振った。日傘をくるくると回しながら、石畳を軽快に歩いていく。 サラの後ろ姿は路地を曲がって、見えなくなった。ヴェイパーは、彼女の言葉の意味が掴めず、首をかしげた。 気を付けて、と言われても、何に気を付ければいいのか解らない。この場には、敵兵など存在しないのだから。 ぐるりと辺りを見回してみても、感じられるのは一般人の緩んだ気配だけで、張り詰めた兵士の気配などない。 戦闘ならば別だが、日常で何を気を付けろと言うのか。ヴェイパーが思考に耽ろうとすると、ブラッドが戻ってきた。 今度は肩からカバンを提げていて、魔導書と水筒を詰め込んでいた。玄関の扉を閉めてから、足早にやってきた。 「じゃ、行こうぜ!」 「どこ?」 「どこでもいいじゃんか、広いところだよ。魔法をバシバシ撃っても平気な場所だよ」 ブラッドは浮かれながら、ヴェイパーに背を向けて歩き出した。ヴェイパーは、その小さく頼りない背に続いた。 少年の体重の軽い足音と、機械人形の重量のある足音が重なった。住宅街は、この暑さで人通りが少なかった。 ブラッドは、空を見上げた。すかっと気分良く晴れた青空は気持ち良く、ほんの一瞬だけだが暑さを忘れた。 こういう日は、水の魔法を使えばさぞかし清々しいだろう。失敗してぶちまけても、冷たい水なら最高だ。 額に滲んだ汗を袖でぐいっと拭ってから、歩調を早めた。一刻も早く、旧王都の外の野原に行きたかった。 草原を抜ける爽やかな風を、無性に浴びたかった。 二人は旧王都の外に出、小川の流れる草原にやってきていた。 ブラッドがいつも行っている、旧王都の西側とは逆の東側に出てみて、丁度良く見つけた広い場所だった。 西側と同じく立ち並んだ工場街の奧に抜けて、深い森のすぐ傍にある草原だった。遠くには、城が見えた。 古びた灰色の城が斜面の上にそびえているのだが、その一角だけ、妙に近寄りがたい雰囲気が漂っていた。 ブラッドは涼やかな小川に足を浸し、灰色の城を見上げた。その主の名を、前に聞かされたことがある。 「確か、グレイス・ルーとかいう人の城だっけ」 絶対に関わってはいけない、とギルディオスにもフィリオラにもレオナルドにも、強く強く念を押された者の名だ。 ブラッドも、ルーという名はちらりと聞いたことがある。中世から長らえている、恐ろしい腕を持った呪術師だと。 呪術の恐ろしさは以前に伯爵から聞かされたし、グレイスという男がどれほどえげつないかも三人に聞かされた。 だが、話だけでは実感は沸かないので、ブラッドはグレイス・ルーがそれほど怖い存在だとは思えなかった。 それでも、三人にこれでもかと言われたので、なるべく関わらないことにしよう、と思い、城から目を外した。 ヴェイパーを見ると、ヴェイパーは身構えていた。腰を落として両腕を前に突き出し、戦闘態勢になっている。 「何やってんだよ」 「けいかい」 ブラッドに問われたので、ヴェイパーは灰色の城を見据えたまま答えた。 「ぐれいす・るー、とくいっきゅうきけんしてい、されている。だから、けいかい、する」 「特一級危険指定?」 「うん。きょうわこくせいふのさだめた、きけんじんぶつの、ひょうかの、いちばんうえ。いちばん、きけん」 「それって凄ぇの?」 「うん、すごい。ぐれいす・るーのほかには、なんにんも、いない。なかでも、いちばん、きけん」 「へー。でも、別にどうでもいいや」 「なんで」 それはおかしい、とでも言いたげなヴェイパーに、ブラッドは首筋の汗を拭った。 「暑ぃんだもん」 「あつくても、きけんなものは、きけん」 「そうか? このクソ暑いのに変な奴とやり合ったら、余計に暑くなっちまうじゃん」 だからやだ、とブラッドは両腕の袖を捲り上げ、小川に両手を突っ込んだ。ヴェイパーは、首をかしげる。 「なんで?」 「なんで、って言われてもなぁ。暑いものは暑いんだよ」 小川の水を掬ったブラッドは、ばしゃりと顔に浴びせてから上体を起こした。ヴェイパーは、唸る。 「それ、りゆうに、なっていない」 ヴェイパーは戦闘姿勢を解除しないまま、ブラッドに視点だけを向けた。 「ぶらっど、いつも、そう。わけ、わからない。なんで、いつも、う゛ぇいぱー、つれて、いく。せんとうが、ないなら、う゛ぇいぱーと、いっしょに、いる、いみも、りゆうも、ない」 「意味はあるよ。オレ、ヴェイパーと遊びたいもん」 「りゆうは」 「ない!」 胸を張ったブラッドは、きっぱりと言い切った。ヴェイパーは面食らってしまい、声を裏返した。 「ない!?」 信じられない。魔導兵器を使役するのに理由がないなんて、それでは相当な軍紀違反であり無駄ではないか。 懲罰ものだ。いや、それ以上かもしれない。ヴェイパーは妙に態度が大きいブラッドを、食い入るように見ていた。 ちっとも合理的でないし、理由がなければ動くべきではない。フローレンスにも、あまり動くなと言われている。 フローレンスの命令には、ヴェイパーの燃料である魔力の消耗を少なくするため、という明確な理由がある。 世間の中で暮らす上では下手に目立ってはいけない、という意味もある。だが、ブラッドの言葉は無茶苦茶だ。 遊びたい、というのも解らない。戦闘専門の機械人形を相手に行える娯楽など、一切ないはずだというのに。 ヴェイパーは呆気に取られて、構えていた腕を下ろした。得意満面のブラッドは、勢い良くヴェイパーを指した。 「だってよー、遊ぶのに理由なんているか? いらねぇだろうがそんなもん!」 「でも、なんで、う゛ぇいぱーが、あいて?」 いつにも増して首をかしげているヴェイパーに、ブラッドは宣言するように声を上げた。 「ヴェイパーだから! でっかくてカッコ良い機械人形だから! それだけ!」 「…は?」 「だぁってさー、ギルのおっちゃんがいなくなっちまったんだもん。だからこー、寂しいわけよ」 今度はいやにつまらなさそうに、ブラッドは眉を下げた。 「おっちゃんってさ、甲冑じゃん。だから、オレ、その辺も含めておっちゃんが大好きなんだよ。カッコ良いから」 「りかい、できない」 「えー、出来ねぇのー? 出来たらして欲しいなー。あーでも、フローレンスの姉ちゃんなら解るかも」 「なんで?」 「だって、フローレンス姉ちゃんって機械好きじゃん。だから、おっちゃんのカッコ良さも解ってると思うんだ」 「たしかに、たいちょうは、つよいし、しょうさだし、いいひと。だけど、かっちゅうだから、かっこいいって、なに?」 「わっかんねーかなー。あの、ピカピカってした感じとか、ずしっと重たい感じとか、あと、魔導拳銃と剣!」 「まどうけんじゅうと、けん?」 「そう、あれだよあれ。おっちゃんがすっげぇカッコ良いのは、すっげぇイカした武器があるからなんだよな!」 ぐっと拳を握ったブラッドは、目を輝かせている。 「結構前に、リチャードさんが作ったニセアルゼンタムと戦うのを見たことがあるんだけどさ、それがマジで凄ぇの! あんなでかい剣なのに軽々振り回すし、扱いが面倒そうな魔導拳銃を上手いこと使うし、しかもその魔法の使い方がイカしてるし、おまけに空まで飛んじゃうし! シビれちまうよ!」 「しび…?」 「ああ、マジで感動したってこと」 「よく、わからない」 ヴェイパーは、ブラッドの感覚が掴めなかった。ギルディオスの戦闘は見事だが、なぜ、戦闘に感動するのだ。 確かに、ギルディオスは強い。長年の経験によって、近接戦闘に関しては異能部隊では最も優れている戦士だ。 普段は割と軽い言動をするにもかかわらず、いざ戦いとなれば、素早く切り替えて冷静かつ確実に敵を倒す。 中世時代の友人の見様見真似だ、という暗殺技術もなかなかのもので、力ばかりでなく技も持ち合わせている。 だが、それとこれとは違う。ヴェイパーには、他人の戦闘に見入ったことも、それに感動したこともない。 そもそも、戦闘というものは見るものではない。戦闘は、いかに効率よく敵兵を排除していくかが目的なのだ。 それが異能部隊であれば尚のことで、特殊部隊とも遜色のない活動をしていた彼らにとっては最優先事項だ。 隊員の戦闘に見入っていたら、自分がやられてしまう。感動などする前に、与えられた任務を遂行するのが先だ。 なぜ、彼はそんなことを思うのだろう。ギルディオスは、ブラッドにとってはそこまで魅力のある存在なのか。 ギルディオスは、過ちを犯した。その過ちがいかなるものか、ダニエルから事細かに説明されて理解している。 そして、その過ちは許されないものだということも理解している。だからこそ、上官は姿を消したのだとも。 過ちを犯した人間は、罪を償おうとも許されるとは限らない。罪が重ければ重いほど、許しは得られない。 感動とは、尊敬に近しい感情だと聞く。つまり、ギルディオスは、感動されるに値しない位置付けのはずだ。 ブラッドの話から察するに、ギルディオスの戦闘はフィリオラ確保作戦以前のものらしいが、時間など関係ない。 いかなる理由と場合でも、罪を犯してしまえば、罪を犯した人間に対する評価は天から地に落ちるのが当然だ。 なのに、ブラッドはギルディオスに対する評価を変えていないようだ。そんなことが、有り得るのだろうか。 人の感情は身勝手で己に合理的に出来ている、と思っている。何事も、受け止め方は身勝手なものなのだ。 だから、ブラッドは罪を犯したギルディオスに幻滅しているのが普通であり、人間の感情ではそうなるはずだ。 ヴェイパーは、困惑していた。任務を忠実に遂行するために単純化された思考では、理解不能だった。 「わから、ない…」 ヴェイパーは、胸の魔導鉱石に熱さを感じた。思考を最大限に動かしているせいで、過熱してしまったらしい。 「ぶらっどが、ちっとも、わからない。う゛ぇいぱーには、ひとつも、りかい、できない」 「どうしてだよ?」 ブラッドは小川から出ると、ヴェイパーの前にやってきた。ヴェイパーは、少年を見下ろす。 「だって、たいちょう、つみを、おかした。その、つみは、ゆるされない、ものだって、ふくたいちょうも、ふろーれんすも、いっていた。なのに、ぶらっどは、たいちょうに、かんどう、している。かんどうは、そんけいに、あたいする、かんじょう。だけど、たいちょうは、つみを、おかした、ざいにんの、ようなもの。ざいにんを、なぜ、そんけい、できる?」 ブラッドはヴェイパーの起伏のない言葉を聞きながら、目を伏せた。ギルディオスは、確かに罪を犯している。 部下を救えなかった過去から、フィリオラを裏切ってまで異能部隊を守ろうとしたが、守り切れなかった。 どれもこれも、そう簡単に許せるものではないし、ブラッドも未だに許せていない部分が多少なりともある。 結果として異能部隊も裏切ったこともそうだが、フィリオラを裏切っていたことが、何よりも許せなかった。 あの状況では仕方なかった、とは思うし、それしか方法がなかったのだとも解っているが、やはり許せない。 だが、許せなくとも、好きであることには変わりない。それは、あの出来事から一ヶ月半を過ぎても同じだった。 最初はブラッドも、いつかギルディオスに幻滅してしまう日が来るだろうと思っていたが、その日は来なかった。 むしろそれどころか、彼の過去を知って、罪を背負っていても逃げずに戦っていたと知って、一層好きになった。 おかしな感情だと思うが、本当にそうなのだから仕方ない。泥臭くて不器用な部分も含めて、彼が好きなのだ。 男としても、人としても、父親としても。ブラッドは目を上げてヴェイパーを見上げ、明るい笑顔を見せた。 「でも、好きなもんは好きなんだよ。カッコ良いもんはカッコ良いんだよ。ヴェイパーはどうなんだ?」 「う゛ぇいぱーは…」 ヴェイパーはブラッドの笑顔を見つつ、思考したが、結論はやはり出なかった。 「わからない」 「好きとか嫌いとか色々あるじゃん。そのどれかでいいよ」 「その、どれでも、ない。ざいにんは、みつけしだい、しょぶん、するのが、しごと。だけど、たいちょうは、たいちょう。だから、たいちょうを、しょぶんは、できない。だけど、ざいにんは、ざいにん…」 「ヴェイパーってさぁ、結構頭固いよなー」 ブラッドは、厄介そうに言った。 「旧王都に来て一ヶ月半も過ぎてんだし、いい加減に異能部隊から離れたらどうなんだよ。今は自由なんだし」 「じゆう?」 「そう、自由。だって、こうしてオレと遊んでるじゃん。だから自由なの」 ブラッドは、こんこん、とヴェイパーの腕装甲を拳で小突いた。日差しを長く浴びているので、熱していた。 「自由ってのは何してもいい、ってことだよ。だから、ヴェイパーが勝手に考えたっていいんだよ」 自由に、一人で勝手に思考をする。つまり、余計なことを考えろ、という意味だ。と、ヴェイパーは受け取った。 それはいけない。精密な機械のように動いている部隊の中では、勝手に独り善がりな思考を持ってはいけない。 一人でも無駄な行動を取れば、作戦が破綻しかねないし敗北しかねない。だから、いつも、こう言われていた。 余計なことを考えるな。任務遂行だけを考えろ。実際、戦闘では、ヴェイパーは自己判断で戦ったことはない。 いつもフローレンスが精神感応で操縦してくれて、ヴェイパー自身はほとんど何も考えずに、ただ戦っていた。 だから、楽だった。人を殴り潰す感触にも、己の体に似た血の鉄臭さにも、化け物だと罵られても、動じなかった。 故に、余計なことを考えるな、という命令は真理だと確信している。だからこそ、ブラッドの言葉が信じられない。 「かってに、かんがえちゃ、いけない。さくせんが、しっぱい、する」 「だーからさー、なんでそう考えちゃうかなー。あーもう、言っても解らねぇんだったら実行するまでだ!」 ブラッドは地面に転がしていた杖を拾い、魔力を高めた。どん、と草むらに杖を突くと、草が倒れて土が出た。 その土に、二重の円と六芒星を描いていった。拙い魔法文字を二重の円の間に書き終え、魔法陣の上に立つ。 「涼やかなる流れよ、その囁きを止め、我が声を聞け!」 不意に、小川の水が動きを止めた。ブラッドの魔力によって押し止められた川の流れは、徐々に溜まっていく。 みるみるうちに水球は膨れ上がり、揺らぎながら浮かび始めた。水の球体が川から離れると、流れは戻った。 ブラッドは両足を魔法陣に踏ん張って、杖を横にして前に突き出した。水色の魔導鉱石に、手を添える。 「我が心のままに、我が力のままに、我が願うままとなれ!」 うるうると流動している大きな水球は、表面を震わせながら形を変えていく。水を通った日光が、屈折している。 頭部が出来、肩が出張り、胸が作られ、腰が絞られ、腕と足が伸びる。ざばぁ、と頭の先端から何かが出た。 ニワトリのトサカに似た、頭飾りだった。水球から変化したそれは地面に足を付けると、ヴェイパーに向いた。 「おっちゃんの完成!」 ブラッドは魔導鉱石から手を放し、杖の先を水で出来たギルディオスに向けた。 「次、ヴェイパー! 何がいいか言ってみろ!」 「え?」 きょとんとしたヴェイパーに、ブラッドは楽しげに笑った。 「この魔法、前にフィオ姉ちゃんから教えてもらったんだけどさ、すっげぇ面白いんだ。水がオレの考えたまんまに形を変えるから、楽しくって仕方ねぇの。だから、ヴェイパーもきっと面白いぜ。何がいいか、なんでもいいから言ってみてくれよ!」 「う、うぅん…」 いきなりそんなことを言われても、困ってしまう。ヴェイパーは俯いていたが、しばらくして顔を上げた。 「じゃ、じゃあ、たいちょう」 「それは今やってるじゃん。別のだよ、別の」 「じゃ、じゃあ…。ふぃお」 おずおずと言ったヴェイパーに、ブラッドは頷いた。 「任務了解!」 ブラッドは水で出来たギルディオスを凝視し、内側から魔力を込み上げさせた。心を静め、力を高めていく。 透き通っている大柄な甲冑は、うねりながら姿を変えていった。ごぼり、と時折、水泡が浮かんでは消える。 トサカに似た頭飾りを持っていた頭部は小さめとなり、大きく出張っていた肩もしぼみ、体形が変わった。 短いツノの生えた頭、膨らみの小さな胸、華奢な腰に細めの足。透明な水のフィリオラが、出来上がった。 水のフィリオラはくるりと回ってみせ、ヴェイパーに向き直るとちょっと首をかしげた。彼女の仕草だった。 ブラッドは目一杯集中して、水のフィリオラを動かしていた。少しでも気を抜くと、簡単に崩壊してしまうのだ。 ヴェイパーは、また呆気に取られていた。これは、魔法の使い方として正しいとは言えないのではないだろうか。 魔法は、火器よりも効率よく、異能力を遥かに凌ぐ、優れた兵器だ。それを、こんな遊びに使っていいものか。 だが、やけに楽しかった。ヴェイパーの言った通りに、ブラッドの操っている水がフィリオラへと姿を変えた。 もっともっと、他のものに姿を変えてほしくなった。しかし、やはり、軍紀違反ではないかと思うと躊躇われた。 ブラッドはヴェイパーが顔を伏せたのを見、少し苛立った。集中力を途切れさせないようにしながら、声を上げる。 「だーから、なんでもいいんだってば! はい次!」 「じゃ、んと、ふろーれんす」 「あいよー」 ブラッドはヴェイパーが乗ってきたことが嬉しく、楽しくなってきた。彼も、ちゃんと自由に思考出来るではないか。 そうなれば、これからはヴェイパーと遊ぶのがもっと面白くなる。色々な魔法で、彼と沢山遊べることだろう。 ブラッドは水をフローレンスへと変えながら、にやにやしていた。浮かんでくる笑みが、押さえきれなかった。 巨体の機械人形は、まじまじと水で出来たフローレンスを覗き込んでいる。なのでブラッドは、動かしてやった。 普段の彼女の動作に似せた動きをさせると、ヴェイパーは小さく、わぁ、と漏らした。面白くなってきたらしい。 もっともっと面白くさせてやる。そう意気込んだブラッドは、水を操る魔力の出力を上げ、更に動かしていった。 そのまま、二人は水の魔法で日が暮れるまで遊んだ。その頃には、ヴェイパーは軍の規則など失念していた。 無心に、自由に、ブラッドと遊んでいた。意味も理由も見当たらなかったが、とても楽しく、面白い一時だった。 少年と遊び呆けている間は、少しだけ、異物感が失せていた。青い空に対しても、後ろめたく思わなくなった。 この世界に相応しかろうと相応しくなかろうと、有機物でなかろうと、自分はここに存在しているのだから。 友人を得るという感覚は、こういうことなのかもしれない。ヴェイパーは、今更ながらブラッドの言葉が解った。 遊ぶのには理由はいらない。友人になるのに意味はいらない。そして、無機物であろうとも、自由でいてもいい。 少しだけだが、少年を理解出来た気がした。 その夜。ブラッドは、にこにこしていた。 初めてヴェイパーとまともに友達らしいことを出来たから、嬉しくて楽しくて仕方なく、浮かれっぱなしだった。 三○一号室の居間で、フィリオラの作った夕食を食べながら延々と話した。グレイス・ルーの部分は省いていたが。 ブラッドの向かい側に座っているレオナルドと、隣に座るフィリオラは、時折相槌を打ちながら聞いてくれていた。 レオナルドは、ギルディオスがいない椅子を埋めるかのように、旧王都に戻ってきた日から食事を共にしている。 だが、理由はそれだけではないのは明らかで、レオナルドは気が付けばフィリオラを見ていて、彼女も同様だった。 ブラッドは話を止め、二人を見比べた。薄暗い中でも解るほど頬を染めていたフィリオラは、慌てふためいた。 「え、あ、なんでしょう!」 「オレ、やっぱり邪魔?」 ブラッドが不満げにすると、フィリオラは狼狽えながら手を横に振る。 「ええ、ああ、いえ、そうじゃないんです! そういうことじゃないんです!」 「へー」 気のない声を漏らしながら、ブラッドはレオナルドに向いた。レオナルドも、狼狽えたように身を引く。 「ああ、そうだ! 別にそういうことじゃない!」 「そうです、そうなんです。ただ、でも、その、なんか、目が、レオさんに、行っちゃって…」 フィリオラは、目線を彷徨わせる。レオナルドは緩みかけた口元を押さえ、あらぬ方向に向いた。 「そうだ、それだけだ」 「そんなに見つめ合うぐらいなら、さっさとしけ込んでいちゃつきゃいいじゃん」 ブラッドが変な顔をすると、フィリオラはもじもじしている。 「だ、だって…。二人だけになると、レオさん、へ、変なことするんですもん…」 「だから、恋愛関係というのはそういうもんなんだって何度言えば解るんだ、お前は」 呆れているのか、レオナルドはため息を零した。ブラッドは居たたまれなくなり、項垂れた。 「二人だけでやってくれよ、そういうの。あーもう、マジで見てらんねー」 二人が互いを意識し合う光景を、時たま見るだけならまだいいのだが、ブラッドはこれを毎日のように見ていた。 朝食の時も同じようなもので、一日一回なら我慢出来るが二回となればうんざりしていた。しかも、進展がない。 くっついたのはいいものの、フィリオラは直接的な恋愛関係に未だに戸惑っているし、レオナルドも意地を張る。 レオナルドの意地も照れ故のものなので、結局のところ、二人は同じ場所をぐるぐると回り続けている状態だ。 好きだと言い合えば恥も外聞もないだろう、とブラッドは思うのだが、好きだと言い合ったからこそ意識するようだ。 レオナルドとしてはいい加減に進展したいようだが、フィリオラが逃げ腰なので、攻められずにいるようだった。 ガキ臭ぇ、とブラッドは自分の年齢を差し置いて内心で呟いた。これが、本当にいい歳をした大人がする恋か。 ただでさえ蒸し暑いのに、余計に暑苦しくなってしまう。ちっとも距離が狭まらないのは、見ていて苛立ってくる。 ブラッドは、照れてしまって顔を合わせられない二人から目を外した。そして、ソファーの上のものに気付いた。 広げられたままの帳面と、魔導書だった。ブラッドは真っ新な帳面のページを見ていたが、急に立ち上がった。 「うあ!」 「ああ、あれか。兄貴の宿題だな」 レオナルドは徐々に青ざめていくブラッドに、素っ気なく言った。 「あと三ページ分は書き写せと、帳面に兄貴の字で端書きがしてあったが、やり忘れていたみたいだな」 「みたいですね。明日までに仕上げないと、三倍になって返ってきますよ。先生ですから」 あーあ、とフィリオラに哀れまれ、ブラッドはぎょっとした。 「…マジ?」 「はい。私もずっと前に、一度だけ宿題をやり切れなかった時があって、その時は十五ページだったんですけどね」 フィリオラは、情けなさそうに眉を下げた。 「三倍になって四十五ページになっちゃったんですよ」 「ブラッド、お前はまだいい方だぞ。三から九になるだけだからな」 まぁ頑張れ、と興味なさそうに返したレオナルドは、皿に残っているサラダを掻き込むように食べていった。 フィリオラは立ち上がると、紅茶でも淹れてきますー、と台所に向かっていった。ブラッドは、力なく座り込んだ。 「オレって超最低…」 「すぐに終わると思うがなぁ、たった三ページぐらい。一時間も掛からんだろうが」 至極当然のことのように言ったレオナルドに、ブラッドはむくれた。 「終わらねぇんだよ、オレは!」 「私も明日のお仕事の準備をしなきゃなりませんから、宿題が終わるまでお付き合いしますよ、ブラッドさん」 台所から、熱い紅茶の入ったポットとティーカップを持ってきたフィリオラは、テーブルに並べてから少年に向いた。 ブラッドは、うん、と自己嫌悪に陥りながら頷いた。レオナルドは関わり合いにならないつもりらしく、見もしない。 自分のことは自分でやれ、というレオナルドの意思表示なのだろうが、薄情だと思った。だが、自分が悪いのだ。 だから、一層腹立たしかった。魔法の修練は出来たかもしれないが、肝心の宿題を忘れてしまっては意味がない。 ブラッドは大きくため息を吐き、ソファーに放置されている宿題に目をやった。これでは、まだまだ父に届かない。 様々な魔法文字が読めるようになって、父親のラミアンが読んでいた本が、何の本であるかが解るようになった。 ラミアンは、魔導書を読んでいたのだ。それも、フィフィリアンヌの城で見掛けたような難しいものばかりだった。 何のために読んでいたのかは解らないが、ラミアンがかなり優れた腕を持った魔導師であったことは確かだった。 少しでもいいから、父に近付きたい。父に出来たことなら、自分にだって出来るはずだ。そう、思うようになった。 首都から帰ってきて、あの時に何も出来なかった悔しさに苛まれた。魔法を使えれば役に立てたかもしれない、と。 父に近付くために、そして、少しでも力を得るために。そのために、もっともっと勉強すると誓ったはずなのに。 ブラッドは、自己嫌悪と情けなさで泣いてしまいそうだった。ヴェイパーと遊ぶよりも、優先すべきだというのに。 強くなりたい。だが、強くなるためには、近道など存在しない。地道に確実に、己を鍛えていくしかないのだ。 ブラッドは顔を上げて窓に向き、まだ明るい夜空を見上げた。淡い藍色の空には、無数の星々が散らばっていた。 父は、あの星のどれかになっている。母も、そうかもしれない。そう思うと、沈んでいたやる気が戻ってきた。 二人が見ているのならば、頑張らなくては。立派な魔導師になって、誰かの役に立てるような男になろう。 未来は自由だが、目標を定めておくに越したことはない。 暑き夏の日差しの下で、機械人形は少年を理解する。 そして少年は、幼さ故の過ちを悔いることで、己の先を見定めた。 穏やかなる日常の先に待ち受けている、未来に向かうために。 今のところ、彼らは至って平和なのである。 06 2/6 |