フィリオラは、ぼんやりしていた。 鮮やかな夏の太陽に照らされた庭で、青々と茂った植物が輝いていた。白い日差しは、鋭く目を刺してくる。 開け放たれた窓から流れてくる温い風が、汗ばんだ肌を撫でた。レースカーテンが、ふわりと揺らいでいる。 だが、フィリオラの目は庭を見ていなかった。遠くを望んではいるのだが、何も映してはおらず、虚ろだった。 胸が苦しかった。ずきずきとした痛みがあるが、それを凌ぐほどの熱い感情が起き、心をぐらつかせていた。 レオナルドの表情が、意図せずとも現れる。先へ進むことを拒むたびに、彼は落胆しているのは明らかだった。 それでも、受け入れられない。先へ進んでしまったら後へは戻れないのだから、進むことはいけないのだ。 すいません、レオさん。何度目か解らない謝罪を胸の中で呟いたフィリオラは、深く、ため息を吐いた。 気を戻すと、心配げなキャロルと訝しげなブラッドが、フィリオラを覗き込んでいた。フィリオラは、慌てる。 「あ、別になんでもありませんよ、なんでも」 「具合でも悪いんですか?」 キャロルは魔法文字を書き連ねていた帳面からペンを上げ、傍らに置いた。フィリオラは、とりあえず笑った。 「いえ、そうじゃないんです。ただ、ちょっとぼんやりしちゃっただけなんです」 「なら、いいんだけどさぁ」 あまり腑に落ちない様子だったが、ブラッドは帳面に目を戻した。拙い魔法文字を連ね、文章を書いていく。 フィリオラは微笑んでいたが、すぐに表情が曇ってしまった。無理に笑っても、心中は沈んだままだった。 キャロルは不安げな眼差しで、向かい側のソファーに座るフィリオラと、机に座るリチャードを見比べた。 最近は、フィリオラの授業の場所はヴァトラスの屋敷になっていた。こっちの方が広いから、というのが理由だ。 魔導師の仕事が忙しくなってきたフィリオラに代わって、リチャードが授業を引き受けている、というのもある。 幅の広い机で頬杖を付いていたリチャードは、キャロルと目が合うと笑った。キャロルは、ぱっと頬を染める。 そういうことじゃないんです、とキャロルが首を横に振るとリチャードは、解っている、と言うように頷いた。 リチャードは、浮かない表情のフィリオラの横顔を見下ろした。首都から帰ってきてすぐは、とても明るかった。 本当に幸せそうで嬉しそうで、いつも以上によく笑っていた。だが、ここしばらくの彼女は、沈みがちだった。 レオナルドと恋愛関係にあることは本人が語ってくれたので知っているが、思わしくないとは聞いていない。 もしや、レオナルドが何かやらかしたのでは、と思った。以前ほどではないが、彼の血の気の多さは変わらない。 首都での騒動の際には異能部隊基地で大暴れした、とも聞く。フィリオラに、力任せに何かしたかもしれない。 だとしたら、大事だ。リチャードは不安げに眉を下げているキャロルに目をやってから、フィリオラに向く。 「フィオちゃん」 「え、あ、はい」 間を置いてから反応したフィリオラは、リチャードを見上げた。リチャードは、穏やかに笑ってみせる。 「レオと、何かあったの?」 「いえ、そうじゃないんです。別に、レオさんは悪くないんです」 フィリオラは笑っていたが、言葉の端々が震えていた。リチャードは身を乗り出し、彼女を見下ろした。 「じゃあ、何か別のことが気掛かりなのかい?」 「そういうわけじゃ、ないんです。ですけど、先生に相談するほどのことでもないですから」 ごめんなさい、とフィリオラは目を伏せた。リチャードは困ったような顔になると、キャロルを見下ろした。 キャロルは一瞬戸惑ったが、頷いた。男よりも女の方が話しやすいだろう、とリチャードは思っているのだろう。 俯いて目線を落としているフィリオラは、いつになく落ち込んでいる。キャロルは彼女に、慎重に声を掛けた。 「フィリオラさん。辛いんでしたら、話してみた方が少しは楽になると思いますよ」 フィリオラはキャロルに目を向けたが、躊躇いがちに目線を外し、膝の上で手を握り締めた。 「そうでしょうか」 ブラッドはフィリオラが心配ではあったが、言葉が見当たらなかった。リチャードを見ると、首を横に振った。 黙っていろ、ということなのだろう。ブラッドは黙っているのは歯痒く感じたが、仕方なく、それに従った。 下手に言葉を掛けて、フィリオラを落ち込ませるのもいけないと思ったが、やはり悔しいものは悔しかった。 むっつりとしたブラッドは、ソファーに深く座り込んだ。向かい側に座るフィリオラは、憂いげに俯いている。 フィリオラは、膝の上で握り締めた手を見つめていた。かなり力を入れてしまい、爪が手のひらに食い込んでいた。 彼を受け入れたら、一つになってしまったら、いけない。けれど、もっと近付いて触れていたい欲動も湧いていた。 これ以上進んだら、後には戻れない。戻れなくなってしまったら、今よりももっと、彼を悲しませるかもしれない。 だから、受け入れてはいけない。けれど、彼と一つになってしまいたい。相反する感情が、胸の内で渦巻いていた。 私は人じゃない。私は竜だ。竜でなかったら、すぐにでもレオナルドを受け入れていた。だが、ドラゴンなのだ。 異能部隊基地で、十何年かぶりに竜に変化した時に、痛感した。自分は、どう足掻いても人間ではないことを。 この状態では人間にしか見えないが、内側は紛れもなく竜だ。だから体の内側も、人であるとは限らないのだ。 形だけなら彼と繋がることは出来るかもしれないが、そこから先があるとは思えない。ないのかもしれない。 久々に、自分に流れる竜の血が憎らしくて腹立たしくて、嫌になってしまった。やはり、好きになどなれない。 「レオさんは、悪くないんです。本当に。いけないのは、私の方ですから。私は、人間じゃありませんから」 泣き出しそうになるのを堪えるために、フィリオラはぎゅっと目を閉じた。腕を握る手にも、力を込める。 「私が、ドラゴンだからなんです。それだけの、ことなんです」 リチャードはなんとなくだったが、フィリオラの悩みが掴めた。彼女らしくない言葉に、悩みの理由が現れていた。 人外である彼女が人外であるということを気に病んでいる要因は、ありふれた話ならば、生殖機能の問題だろう。 魔導師などという商売をしていると、その手の相談を、人外と人間の両者から持ちかけられる場合があるのだ。 見た目だけは人間の魔物族と人間との間に子供は成せるのか、というのがよくある内容で、答えも決まっている。 出来る場合もあるし、出来ない場合もある、というものだ。人と魔物の生殖は、ほとんど両者の相性と運なのだ。 純血の竜族は、魔力が高いために人間との繁殖が可能だが、それ以外の魔物族では微妙なものとなっている。 ブラッドのような吸血鬼族は人間に近いのでまだ出来るのだが、普通の魔物と人間では、人と動物と同じなのだ。 情交は可能でも、そこから先には至れない。例え子供が出来たとしても、まともに育つことなど滅多にない。 恐らくフィリオラは、それを気に掛けているのだ。人に近いが竜である彼女は、生殖器が完璧とは限らない。 一方に傾いていればまだ良いのだが、フィリオラは竜族の末裔であるが故に、どちらの要素も持っている。 竜にはない月経はあるが、人にはないツノも生えているし変化も出来る。どっちつかずの、曖昧な肉体なのだ。 しかも、その月経は大分重いと来ている。月経が重いということは、子供を成せない体である可能性は高い。 フィリオラは魔法や竜の知識に長けているので、不安が増大したのだろう。そして、思い詰めてしまった。 これで無知であれば、迷わずレオナルドと行為に及んでいたはずだが、知識があると躊躇いが生まれてしまう。 可哀想に、とリチャードはレオナルドに同情した。子供が出来ようが出来まいが、弟は構わないと思うのに。 出来るのなら喜ぶだろうし、出来ないのなら別の道を進むだろう。彼も大人なのだ、それぐらいの覚悟は出来る。 リチャードは、フィリオラのいじらしいほどのレオナルドに対する思い遣りに、恋ではなく愛を感じていた。 フィリオラは、仮初めの恋ではなく本当の恋をしていた。その相手が自分の弟だと思うと、少々複雑になる。 いつまでも幼い少女だと思っていたのに、いつのまにか女に成長していることが、寂しくもあり嬉しくもあった。 フィオちゃんも大きくなったんだなぁ、とリチャードは感慨に耽ったが、フィリオラは大分苦しげな顔をしている。 だが、このままの状態だと、レオナルドもフィリオラも哀れでならない。リチャードは打開策を思い付き、言った。 「フィオちゃん。レオとやることやっちゃいなよ」 びくっと肩を跳ねたフィリオラは、目を丸くした。リチャードは、うん、と頷く。 「フィオちゃんは、レオに気を遣っているんだろう? 子供が出来なかったら悲しませる、とかで」 「なんで、お解りに」 動揺と羞恥で頬を赤らめたフィリオラに、リチャードはにんまりする。 「僕は魔導師だから、その手の相談をよく受けていたのさ。人間と人外が結婚を躊躇う理由の大体はこれなんだ。でも、やることもやらないで諦めるのはいけないなぁ。フィオちゃんの体は限りなく人間に近いんだし、やってみたら出来るかもしれないじゃない、子供」 「です、けど」 先程とは違った意味で声を震わせたフィリオラは、唇を押さえた。 「レオさんと…しちゃったら、私、ダメになっちゃいます」 一度でも彼と交わったら、欲しくてたまらなくなる。それが解っているから、先へは進めない。 「レオさんの子供が、欲しくなっちゃいますから。でも、出来なかったら、どうしようもありませんから」 ここでようやく、ブラッドは二人の会話の内容を掴めていた。最初、何をやるのかさっぱり理解出来ずにいた。 解った途端、フィリオラが何を言っているのか理解出来てぎょっとした。関係ないのに、赤くなってしまう。 この場にいて良いのか、出ていった方が良くないか、などとぐるぐると考えていたが、結局固まってしまった。 ちらりとキャロルを窺うと、同じような反応をしていた。ブラッドと目が合うと、困り果てたように眉が下がる。 ブラッドは何も言うことなど思い付かないので、ただ黙っていた。キャロルも、唇を結んで身を固めていた。 「フィオちゃん。それ、レオには話したの?」 リチャードが問うと、フィリオラは首を横に振る。リチャードは、案の定だと思った。 「やっぱりねぇ。でも、そういうことはきっちり話さないとダメだよ」 「ですけど…」 解ってはいるが、口に出せばレオナルドはどう反応するだろう。フィリオラは、それが怖かった。 「レオさんは、悪くありませんから」 「だけどねぇ、フィオちゃん。好きな女の子に拒まれるのって、男にとってはかなりきついものがあるんだよ?」 リチャードの言葉に、キャロルは赤くなって狼狽えた。 「え、あっ、ですけど、私は」 「うん。キャロルは、その辺大丈夫だと思うけどね」 にやけたリチャードに見つめられ、キャロルは情けない顔で真っ赤になった。ブラッドは、無性に逃げたくなった。 オレマジで部外者、超関係なくねー、ていうか超絶いづれー、とブラッドは口元を歪ませながら内心で呟いた。 恋って鬱陶しい。ブラッドは、フィリオラの悩みもリチャードとキャロルの仲の良さもひっくるめて、そう思った。 レオナルドを、傷付けていたのかもしれない。そう思うと、フィリオラは押し潰されそうな胸苦しさを感じた。 子供が出来なかったら怖い。けれど、繋がりたい。日に日に増してくる彼への恋心は、彼を求めて止まないのだ。 レオナルドの部屋、或いは自分の寝室で、押し倒されたり首筋を吸われたり内股を撫でられると、ダメだった。 いやらしい、いけない、と思いながらも心地良さに流されて、何度もそのまま受け入れてしまいそうになった。 今までは辛うじて自制していたし、逃れられていたが、そろそろ限界かもしれない。やはり、彼と繋がりたい。 なんていやらしいんだろう、とフィリオラは隠れてしまいたいほど恥ずかしかったが、本心は押さえ切れない。 一度でも受け入れたら、きっと、もうダメだ。子供が出来なかったら、という不安もあるが、自制がなくなる。 フィリオラはどくどくと跳ねる心臓を押さえるように、胸に手を当てた。怖い。けれど、好きで好きで仕方ない。 すいません、レオさん。私、結構ダメです。いやらしいです。レオさんのせいです。色々と、すいません。 夏の強い日差しが、頬の熱さを増させていた。 その夜。レオナルドは、げんなりしていた。 以前は共同住宅に帰ることが、フィリオラとの時間を過ごせることが楽しみで仕方なかったのに、今は憂鬱だ。 部屋に帰り、彼女と良い雰囲気になっても、最後までは進めない。寸止めも、あまり続くと嫌になってしまう。 石畳は、昼間の暑さを吸い込んでいてじわりと温かかった。街灯の並ぶ通りを、遅い足取りで歩いていった。 赤い壁の共同住宅まで着き、玄関の階段を昇った。その途中で足を止め、三階の右端の窓を見上げてみた。 三○一号室の通り側の窓は、フィリオラの寝室だ。明かりが入っていないので、夕食の時間なのだろう。 あの寝室にも、あまり良い思い出がない。彼女の匂いのするベッドに押し倒しても、結果は同じだったのだ。 白いシーツに手首を押さえ付けて、滑らかな太股に手を滑らせた。顔を逸らした彼女の、首筋に顔を埋めた。 体の下に押さえ込んだもう一方の手は、力一杯シーツを握り締めていた。緊張で上擦った、か細い声がする。 ダメなんです、いけないんです、ごめんなさい。泣き出しそうなほど弱り果てながら、何度も中断を懇願された。 口付ければ仰け反る白い喉や細い腰が名残惜しくて、離れたくなかったが、ごめんなさい、とまた言われた。 仕方なく彼女から離れた後、どうしようもないほど切なくなってしまうことを、フィリオラは知る由もないだろう。 その後、一人で欲望を処理した後の情けないこと侘びしいこと。それまで思い出したレオナルドは、自嘲した。 「何をやっているんだ、オレは…」 今日も、そうなってしまうのだろう。レオナルドは全てを諦め、玄関の階段を昇って扉を開け、中に入った。 中央の階段を三階まで昇ったが、三階の廊下では彼女は待っていなかった。以前であれば、よく待っていた。 期待していたわけではないが、いないと寂しい。レオナルドは物悲しくなりながら、三○二号室の扉を開けた。 すると、光が漏れてきた。不思議に思いながら踏み入ると、テーブルの上のランプに明かりが点っていた。 テーブルには、皿も並べられていた。レオナルドが食卓に近寄ると、台所の方から、高い声がしてきた。 「あ、お帰りなさい」 台所から、エプロンドレスを着たフィリオラが現れた。手に持っていた料理の入った器を、テーブルに置いた。 レオナルドが一瞬反応に困ると、フィリオラはエプロンで手を拭ってから、小走りに台所に戻っていった。 長い髪をまとめてある彼女の後頭部には、あの竜の髪留めが輝いていた。ちゃんと、使ってくれているようだ。 調子外れの鼻歌混じりに、彼女は鍋から料理を器に盛っている。どうやら、こっちの部屋で夕食を作ったらしい。 レオナルドはカバンをソファーに放り投げてから、上着を脱いでネクタイを緩めた。台所から、彼女が戻ってくる。 野菜の煮物が柔らかな湯気を昇らせている皿を食卓に並べてから、フィリオラは上目に、レオナルドを見上げる。 「お帰りなさい、レオさん」 「二回も言わなくてもいいと思うが」 レオナルドは椅子を引くと、座った。フィリオラは向かい側の椅子を引き、腰掛けた。 「いいじゃないですか、それぐらい」 ランプの向こうで、フィリオラははにかんだ。暑いからか、襟刳りの広いエプロンドレスを着て、髪を上げている。 細い首筋から鎖骨、艶やかな肩まで露わになっていた。髪を後頭部に上げてあるので、一層首が目に付いた。 後れ毛が数本落ちたうなじの手前には、噛み痕が付いている。大方、ブラッドが血を吸い出して食したのだろう。 それが、いやに色気があった。色素が薄い肌に付いている牙の痕には、ほんの僅かだが、赤が残っていた。 レオナルドは、そこから目を離せなくなった。フィリオラは彼の視線に気付くと、首筋の傷痕を手で隠した。 「あ、これですか。すぐに治りますし、もう痛くありませんから大丈夫ですよ」 レオナルドは、たまらずに目を逸らした。この女、解っていてこういうことをしてんじゃないだろうな、と思った。 近頃、レオナルドは彼女の首に物凄く弱いことを自覚した。胸も足もそうなのだが、まずは首筋に目が行く。 フィリオラを女と意識した切っ掛けだからかもしれないが、華奢でほっそりとした輪郭と、白い喉元にやられる。 今も、そうだった。気を紛らわすために紙巻き煙草を取り出して銜え、先端を睨んで火を灯すと、煙を吸った。 灰皿を探そうとすると、はい、とフィリオラが手渡してくれた。それを手元に置いてから、レオナルドは言った。 「ブラッドはどうした」 「先に食べてもらいました。あっちの部屋でも同じものを作ったので」 フィリオラは、紫煙をくゆらすレオナルドを眺めた。不機嫌そうに表情を固めている横顔に、見入っていた。 こういう瞬間、素敵だなぁ、と思う。何がどうというわけではないが、レオナルドの仕草に男を感じる瞬間がある。 紙巻き煙草を半分ほど吸ったレオナルドは灰皿に押し付け、火を消した。そのまま、黙々と料理を食べ始めた。 フィリオラとしては何か言って欲しかったが、いつも言わないので、それほど気にすることもなく食べ始めた。 やはり今日も、レオナルドの表情はあまり明るくなかった。また、以前のように、不機嫌そうな顔をしている。 時折様子を窺うが、彼の目線はこちらを見ない。拒み続けてしまったから嫌われたかな、と不安が過ぎった。 レオナルドは、フィリオラの視線がやりづらかった。不安なようでいて期待しているような、そんな顔をしている。 可愛くて仕方ない。話し掛ける機会を窺っているのだろうが、時折無意識に首をかしげるのが更に可愛かった。 まとめられていない前髪が零れ、首筋に影を落とした。見てはいけないと思いながらも、そちらに目が行く。 ああもうダメだオレってダメだ、そう喚きたい気分になりながらも堪え、レオナルドは料理を口に押し込んだ。 良く煮込まれた野菜や魚の揚げ物だと食感で解っていたが、情欲のせいで、味なんて頭に伝わって来なかった。 それがまた、情けなかった。喰うか欲情するかどっちかにしろ、と思いながらも、食べる手は止められない。 大半を食べ終えてから、レオナルドはフィリオラの首筋から目線を上げた。彼女は、食べる手を止めていた。 普段もあまり食べない方なのだが、今日は特に食べていなかった。皿の上の料理が、ほとんど残っている。 レオナルドはそれを訝しんだが、とりあえず食べた。なるべく意識を彼女に向けないために、食べ続けた。 フィリオラはぴんと背筋を伸ばして、緊張と戦っていた。ここから先をどうするか、まるで考えていなかった。 普段のように夕食を作って彼を待つのはいいのだが、そこからどうやって、あちらに持ち込むのかが解らない。 恋愛小説などでは自然とそういう雰囲気になるのだが、その場合、恋する男女は紳士と淑女だった。 どちらもそういう柄ではないし、彼らのような洒落た文句は出てこない。というか、言ったら吹き出すだろう。 夕食を作りながら考えていたが、良い考えが出る前にレオナルドが帰ってきた。いつもより、少し早かった。 本当なら食後のお菓子ぐらいは作りたかったのだが、考えているせいで手も動かず、作れず終いだった。 ああもうどうしようどうしようどうしたらいいんだろう、とフィリオラはぐるぐると混乱して、目眩がしそうだった。 気付いたら、頬どころか全身が熱かった。物凄く照れくさいというのもあるし、彼を意識するとこうなってしまう。 レオナルドは、夕食を食べ終えた。普段であればフィリオラは紅茶を淹れてくるのだが、動きもしていない。 仕方なく、レオナルドは二本目の紙巻き煙草を取り出した。銜えて先端を睨んで火を点け、深く煙を吸う。 フィリオラは、固まったままだった。何をそんなに緊張しているのだろう、と不思議に思い、尋ねてみた。 「おい」 「はっはいぃ!」 弾かれるように立ち上がったフィリオラに、レオナルドは変な顔をした。 「お前、どうして固まっているんだ?」 「えっ、あっ、そう、ですか?」 引きつった笑みで声を上擦らせ、フィリオラは少し後退した。レオナルドは、紙巻き煙草を口から外す。 「オレは何もしていないし言っていないぞ。そこまで過剰反応されるほどのことはしていないはずだが?」 「そぉ、なんですけどぉ…」 ああ本当にどうしようどうしよう、とフィリオラはますます混乱してしまい、笑みを作ったが表情はぎこちなかった。 今日も無理か。レオナルドは、フィリオラの取り繕った変な笑顔を見上げ、落胆したが顔には出さなかった。 この様子だと、寝室に引き摺り込むどころか脱がせも出来ないだろう。それ以前に、触れられないかもしれない。 旧王都に帰ってきてすぐ、レオナルドががっついてしまって、前置きもなしに行為に持ち込もうとしたことがある。 その時はフィリオラが半泣きで逃げ出したので、脱がせもしなかったのだが、数日は彼女がやけに緊張していた。 丁度、今のように、何を言っても何をしても固まっていた。それはそれで可愛かったのだが、辛そうでもあった。 なのでそれ以降は、レオナルドは何かしらの予告をしてから持ち込もうとしているが、いつもいつも頓挫する。 だから、今回も期待しない方がいいのだ。レオナルドは強烈に空しくなりながらも、紙巻き煙草を吹かした。 フィリオラは両手で頬を押さえ、呼吸を繰り返した。なんとか落ち着かないと、肝心なことが言えなくなる。 レオナルドが三本目の紙巻き煙草に手を付けた頃に、ようやくフィリオラは少しばかり冷静さを取り戻した。 両手から頬を外すと、ぎゅっとエプロンを固く握り締めた。レオナルドを見据えると、意を決し、言った。 「あの、レオさん」 レオナルドに見上げられ、フィリオラはまた緊張しそうになったが、無理矢理押し込めた。 「だっ」 一度、言い掛けた言葉を飲み込んでしまった。フィリオラは、恥ずかしくてどうにかなってしまいそうだった。 だが、言わなければならない。言わなくては何も進まないし、レオナルドに悪いし、自分が我慢出来ない。 緊張ですっかり渇いた唇を舐めてから、フィリオラは覚悟を決めた。力を振り絞って、叫ぶように言い放った。 「抱いて下さい!」 06 2/11 |