少女は、街を歩いていた。 革靴の底を石畳に当てて鳴らしながら、背筋を伸ばしていた。目深に、鍔の広い白の帽子を被っている。 一片の穢れのない白いワンピースを着込み、同じく白い上着を羽織っている。革靴だけが、つやりと黒い。 すると、その足が止まった。細い顎に華奢な指を添え、小さな唇を困惑気味に薄く開き、辺りを見回している。 手に提げたバスケットを持ち直し、不安げに眉を下げている。蒸気自動車が通り過ぎ、スカートがなびいた。 吊り上がってはいるが端正な目が、彷徨った。その様子に気付いた警官は、彼女の前に止まり、身を屈める。 「お嬢ちゃん。道にでも迷ったのかい?」 「ええ。街の中は、慣れないものですから」 困りながらも恥じらいの混じった表情を目元に浮かべ、少女はバスケットの中を探り、紙を出した。 「こちらへは、どう行けばよろしいのでしょうか?」 少女から紙を受け取った警官は、それを広げた。ああ、と左側の路地を指す。 「この共同住宅なら、すぐ近くだよ。あそこを左に曲がって路地を奧まで進んで、その右側の三つ目の建物だから。壁の色が赤いから、近くに行けばすぐに解ると思うよ」 「ありがとうございました」 警官から紙を受け取ってから、少女は深々と頭を下げて礼をした。小さな肩から、艶のある黒髪が滑り落ちる。 もう一度礼を述べてから、少女は背を向けた。確かな足取りで石畳を踏み締めながら、路地を曲がっていった。 警官は少女の背を見送りながら、その整った容貌を思い出していた。出来の良い、白磁の人形のようだった。 色素の薄い肌に頼りない首筋、しっとりと濡れた黒い瞳孔と花びらのような薄い唇。可愛いというよりも美しい。 あと十年成長していたら誘ったんだがな、と思いながら、警官は自分の持ち場へと戻るべく歩き出していった。 少女の甘い残り香は、蒸気自動車の排気ですぐに掻き消された。 こつ、と革靴が止まった。 少女は立ち止まると、赤レンガで造られた共同住宅を見上げた。三階建ての、新しさの残る高層建築だ。 白い帽子を直してから、正面玄関の階段を慎重に昇り始めた。中程まで昇ると、玄関の扉が中から開かれた。 玄関の扉を開けたサラは、あら、と珍しそうな顔をした。水の入ったポットを抱えた彼女は、少女に寄る。 「珍しいですね。今日は、何かご用事でも?」 「ええ、少し」 少女は唇の前に人差し指を立ててみせた。そうですか、とサラは頷き、扉を開け放った。 「彼女の部屋には二人ともいませんよ。男の子ならいますけど。下で待っていますか?」 「構いませんわ」 階段を昇りきった少女は扉を手で押さえ、下にいるサラに振り向いた。サラは、笑いを噛み殺している。 「ああ、ごめんなさい、あなたがそうだとなんだか可笑しくって」 「私もそう思いますわ」 笑むように目を細めた少女は、扉をゆっくりと閉めた。サラは閉まった扉に背を向けて、階段を下りきった。 階段を挟むように並べてある鉢植えに水を注いでやりながら、まだ沸き起こってくる笑いを口元に浮かべる。 あの姿を、あの二人が見たらどんな反応をするのか容易に想像が出来た。そして、彼の気配にも気付いていた。 きっと、彼も笑いを噛み殺しているに違いない。大方、事が終わったら盛大な高笑いをするつもりなのだろう。 その様を想像したサラは、また笑い出しそうになった。 三○一号室で、ブラッドは暇を持て余していた。 フィリオラとギルディオスが買い出しに出掛けたので、その留守番だった。ソファーに寝転がり、天井を見上げる。 二人がいないと、部屋は静かだった。開け放たれた出窓の前に、洗ったばかりのマントが吊られて揺れている。 黒く重たいカーテンのようなそれは、風に吹かれるたびに水の匂いを広げた。ブラッドは、横目に黒を捉える。 大分汚れていたから、とフィリオラが半ば強引に洗った。黒の上下も洗われて、彼女の寝室で乾かされている。 なので今のブラッドは、フィリオラがレオナルドから無理矢理に借りてきてくれた、レオナルドの服を着ていた。 上も下もだぶだぶで、いつも以上に袖や裾を折らないと身動きが取れない。情けなかったが、仕方なかった。 水分で光沢を帯びたマントを見ながら、あれを羽織って出てきた日のことを思い出した。あの日は、夢中だった。 いつものように夜に起きて、地下で眠る父を起こしに行った。地下室の扉を開けると、父は消失していた。 弱々しい光を放つランプを浴び、床が鈍く光っていた。それが血であると解るまで、間が空いたのを覚えている。 そして、その血は細かいものを凝結させていた。丁度、乾いた地面に水を流したように、黒く固まっていた。 遠い昔から言い伝えられている通り、殺された吸血鬼は、父は無惨な灰と化していた。父の、死体だった。 父親の姿が消えてしまった地下室からは、部屋の物もごっそりと消えていて、本棚も全て空になっていた。 引き出しという引き出しを全て開け、ベッドまでひっくり返して見つけ出したのは、たった一通の手紙だった。 ラミアン・ブラドール様へ、フィフィリアンヌ・ドラグーンより。便箋の文面は、印字機で書き記してあった。 親愛なる愚かな吸血鬼へ。何も知らずに死すことほど空しいことはないと思うので、私の策略を教えてやろう。 私は貴様の背後に寄る。そして、貴様が気付かぬうちに、貴様の牙が私の喉を破る前に、貴様の心の蔵を貫く。 脆弱な人間とは違い、強固なる力を宿せし魂をもらい受ける。せいぜい、この世を去る寂しさを噛み締めていろ。 味気ない印字機の文面を思い出し、ブラッドは苛立ちが湧いた。手紙を残すなど、良い度胸をしている。 フィフィリアンヌ・ドラグーンがどんな女かは知らないが、喉笛を噛み切って血を吸い尽くしてやりたい。 いくらまずい血でも、父の仇の血は一滴たりとも残したくはない。全て、己の血肉と魔力に変えてやるのだ。 復讐心を滾らせていると、扉が数回、外から叩かれた。ブラッドは面倒に思いながらも、起き上がった。 「なんだよもう」 玄関の扉の取っ手を回し、開けた。扉と壁との隙間から廊下を覗いてみると、白い服を着た少女が立っていた。 澄んだ黒い瞳が、少年を映していた。不健康に思えるほど白い頬をした、ブラッドよりも少し年上の少女だ。 色彩の弱い顔立ちの中で唯一血の色が出ている薄い唇が開き、幼いながらも礼儀正しい言葉が発せられた。 「あの、フィリオラお姉様のお部屋ですよね?」 「そうだけど」 ブラッドがぞんざいに答えると、少女はブラッドの肩越しに部屋の中を見回した。 「お姉様、いらっしゃらないのかしら」 「フィオなら、ギルのおっちゃんと買い出しに出たけど。オレはその留守番」 「いつ頃戻って来られるか、解ります?」 困ったように、少女は細い眉を下げた。繊細で壊れてしまいそうな表情に、ブラッドはぎくりと動揺した。 「もう少ししたら、帰ってくるんじゃないの?」 「では、中で待たせて頂いてもよろしいでしょうか」 「べ、別にオレは構わないけど」 多少上擦った声を落ち着け、ブラッドは無理矢理笑った。どくどくと体の内側が脈打つ、不可解な感覚がある。 それでは、と軽く頭を下げた少女は、ブラッドの隣を通り過ぎた。擦れ違い様に、ふわりと甘い香りが漂う。 花にも似ているが、それよりも優しい香りだった。物珍しげに居間を見回す少女の後ろ姿は、どこか頼りない。 見るからに手触りの良さそうな長い黒髪が、背を覆っていた。少女が振り向くと、後ろ髪の滑らかな光沢が歪む。 「随分とちらかってますけど。お姉様らしくありませんわ」 「あ、うん。色々とあってさぁ」 ブラッドはやけに恥ずかしくなりながら、大量の本や魔法薬が散らばる居間を見渡した。この間、広げたままだ。 もう一つの部屋を片付けて引っ張り出し、ブラッドの居場所を作ったのはいいが、片付けられなかったのだ。 レオナルドとの軋轢で、フィリオラが落ち込んでしまったからである。だがギルディオスは、一切手を貸さない。 なんでも彼は、こういうことは手伝っちゃダメだ、との信念があるらしい。ブラッドには今一つ理解出来なかったが。 少女は埃を被った本の表紙を、小さな白い手で払った。舞い上がった埃を吸い、けほっ、と小さく咳をした。 「ところで。あなたは、どこのどなたですか?」 「あのさ、言っても、びびらない?」 「何をですか?」 不思議そうに、少女は小首を傾げた。ブラッドは目線をうろつかせたが、少女に戻す。 「オレ、人間じゃないから。半分だけだけど、吸血鬼なんだよ」 「それは私も同じですわ。フィリオラお姉様の妹なのですから、竜の血が体に流れていますもの」 少女は、胸元に手を当てた。ブラッドは嬉しくなって笑ったが、すぐに変な顔をする。 「にしちゃあ、似てないぞ。フィオの奴は落ち着きがちっともないのに、妹の方が落ち着いてるなんて」 「お姉様は元気な方だから」 バスケットをテーブルに乗せた少女は、ブラッドに向き直った。スカートをつまんで広げ、膝を曲げて一礼する。 「フィリナ・ストレインと申します。どうぞお見知り置きを」 「あ、いや、こちらこそ。オレ、ブラッド・ブラドールってんだ」 照れくさくなって、ブラッドはぐしゃぐしゃと髪を掻き乱した。上目に彼女を見上げたが、また目を逸らしてしまう。 見入ってしまいそうになる。こんなに美しい少女は初めてだ。清楚でそつのない振る舞いが、拍車を掛けている。 今までに感じたことのない感情の奔流が、全身を巡っていた。頬が紅潮しているのか、顔が熱いような気がした。 少女、フィリナは口元さえ動かなかったが、吊り上がり気味だが整った目は、品のある笑みを浮かべていた。 恋かもしれない。ブラッドは、顔を緩めながらそう思った。 少女は、柔らかな湯気の昇る紅茶を注いでいた。 二つ並んだティーカップへ交互に紅茶を入れていき、どちらも八割ほど満ちる。その片方が、ブラッドの前に来る。 食卓に座ったブラッドは、いつになく緊張していた。目の前に砂糖壷もあったのだが、何も入れずに一口飲んだ。 深みのある華やかな香りが、一気に広がった。甘さはなかったが、それを補うほどの香りがあり、少し驚いた。 フィリナは少年の向かい側に座ると、自分の分の紅茶を飲んだ。ティーカップを口から放し、頬に手を添える。 「お姉様らしいわ。混ぜてあるのね」 「何を?」 「お茶の葉ですわ。オートヴォー、ディセプス、ユネインですわね。基本はディセプスですけれど」 「何それ」 「紅茶の名前ですわ。生産地と種類によって香りが違いますの。さすがはお姉様、混ぜ方が上手いですわね」 今度、是非真似をしてみましょう、とフィリナは感心したように頷くと、すいっとティーカップを傾けた。 ブラッドは彼女の真似をして味わってみたが、まるで解らなくなった。意識が、舌へと向かわないせいだ。 フィリナは紅茶を半分ほど飲んでから、かちゃりとソーサーに載せた。バスケットに、黒い瞳が向かう。 「そうですわ。お菓子も出しましょう。持ってきましたの」 バスケットを引き寄せたフィリナは、椅子に膝立ちになって開いた。いくつかの瓶を、中から取り出していく。 その中に、なぜかフラスコが混じっていた。粘っこい赤紫の液体がたっぷり入っている、大振りなフラスコだった。 食卓にごろりと転がったフラスコは、奇妙だった。中に満ちているものが何なのか、まるで見当が付かなかった。 「それは?」 ブラッドがフラスコを指すと、フィリナははにかんだ。 「今は秘密です」 どくりと心臓が跳ね、息が詰まってしまった。ブラッドは何か言おうと思ったが、動揺と困惑で言葉にならない。 些細な表情の変化ですらも、美しく愛らしかった。このままずっと、フィリナの姿を見続けていたくなる。 あ、ありましたわ、とフィリナはバスケットから油の染みた紙袋を取り出した。それを開け、食卓の皿に出す。 硬い音を立てながら皿に滑り込んだのは、綺麗な焼き色の付いたクッキーだった。バターと小麦の匂いがする。 ブラッドがクッキーに手を伸ばそうとすると、階段を昇る足音が聞こえてきた。同時に、二人の声もする。 直後、扉が開いた。野菜の入ったカゴを担いだギルディオスが足を止めると、背後からフィリオラが顔を出す。 二人はブラッドを見ずに、フィリナで目を留めていた。ギルディオスは吹き出したかと思うと、笑い出した。 「なーにやってんだよお前は」 「来て下さるなら来て下さるって、言って下さればよろしかったのに」 フィリオラはギルディオスの後ろから出ると、フィリナに歩み寄ってきた。ブラッドは、訳が解らなくなった。 可笑しげに笑うギルディオスと、どこか態度がしおらしいフィリオラ。そして、雰囲気が一変してしまったフィリナ。 フィリナは気恥ずかしげだった表情を消し、薄い唇を締めている。柔らかかった目元が、きつくなっている。 彼女は今し方までの清楚さを消し、横柄な仕草で足を組んだ。細い足が出され、滑らかな太股が露わになる。 「予告をするのは面倒なのだ」 フィリナは被っていた帽子を外し、ソファーへ投げた。その下から現れたのは、すらりと伸びた竜のツノだった。 げたげたと笑い転げていたギルディオスは、出てもいない涙を拭うようにヘルムを指で擦り、息を整えた。 「ラッド。お前も鈍いんだなぁ」 「なに、が?」 状況がさっぱり飲み込めず、ブラッドは呆然とした。フィリオラは少し躊躇したが、フィリナを手で示した。 「えと、ご紹介します。こちらは私のご先祖であり、私に現れた竜の血の持ち主で、ブラッドさんの…仇の」 「フィフィリアンヌ・ドラグーンだ」 幼さは残っているが、覇気の強い明瞭な声だった。少女は一度目を閉じて開くと、瞳孔の色が赤く変わっていた。 切り揃えられた前髪を掻き上げると、その手から色が流れ出るように髪の色が変わり、艶やかな濃緑となる。 羽織っていた上着を脱ぐと、背からは小さな翼が出ていた。それをばさりと張り詰めさせ、彼女は言った。 「良い暇潰しだったぞ。しかし、惜しかったな。それを喰っていれば、今頃は痺れていただろうに」 フィフィリアンヌの目がクッキーに向いた。ブラッドが呆気に取られていると、フィリオラはクッキーを取る。 鼻に近付けて匂いを確かめてから、ありゃりゃ、とフィリオラは苦笑しながらブラッドに振り向いた。 「本当ですよ。大御婆様ったら、相変わらず情け容赦ないですね。しかもこれ、痺れるだけじゃなくて、下手をしたら魂も抜けちゃいますよ。バターの匂いに紛れてますけど、クサラセソウの葉の匂いがします。この魔法薬って、魔力中枢に影響を及ぼす類の神経毒ですから、肉体に毒が回る前に魔力中枢が破壊されてしまうと、生きたまま魂が抜けちゃうんですよ。まぁ、肉体の方は中和剤や解毒剤でなんとか出来ますけど、肉体から外れた魂をそのままにしてしまったら、当たり前ですが死んでしまいますよ。良かったですね、ブラッドさん。うっかり食べてしまわなくて」 「…は?」 ぱかんと口を開けたブラッドに、フィフィリアンヌはにやりと目を細めた。 「貴様が私を屠るつもりのようでいたから、相応の態度を取ってやったまでだ」 「え、でも、なんで、それ」 ブラッドは途端に竜の女が恐ろしくなり、数歩後退した。悪ぃ、と玄関先でギルディオスが片手を挙げた。 「オレが報告したー。この前、フィルの奴が具象魔法の影でオレを呼び出したから、そのついでにさ」 「おっちゃん、オレの復讐、手伝ってくれるんじゃなかったのかよぉ!」 ブラッドがギルディオスに絶叫すると、ギルディオスは両手を上向けて肩を竦める。 「付き合うとは言ったが、手を貸すとは言ってないぜ。それに、フィルと戦うなんて無茶苦茶にも程がある」 「え、それじゃ、小父様、最初っから」 ぱあっと表情を明るくしたフィリオラにギルディオスは、うん、と頷く。 「手ぇ貸すわけねぇだろ、復讐になんか。それに、ラッドは填められてるくせぇからな。いっそのことフィルをこっち側に巻き込んでおいた方が、後々で楽だろうと思ってよ」 「信じてましたー、大好きですー、小父様愛してますー!」 きゃっ、とフィリオラはギルディオスに飛び付いた。ギルディオスはカゴを掲げて避難させ、少女を受け止める。 不愉快げに唇を歪めていたブラッドは、両の拳を強く握り締めていたが、唸るように呟いた。 「だったら、なんで、味方するようなこと言ったんだよ」 「ああでも言わなきゃ、ラッドはすぐにでもフィルに突っ掛かっていっただろ? それでお前が死にでもしちまったら、オレも寝覚めが悪いしな」 「そりゃ、そうだけど、だからって…」 ブラッドは情けなくて悔しくて、奥歯を噛んだ。ギルディオスの良心からの嘘とはいえ、裏切りには変わりない。 フィリオラを引き剥がしたギルディオスは、ブラッドの前に屈んだ。大きな銀色の手を少年の頭に乗せ、軽く叩く。 「ああ、悪かったよ。ラッド、お前を裏切っちまったことは謝る。だがな、解ってくれや」 な、とギルディオスは穏やかな声を出した。ブラッドはあまり腑に落ちていなかったが、頷いておくことにした。 頭では、ギルディオスの行動が正しかったと思っている。だが、裏切られたことによる悔しさが燻っていた。 相反する思考と感情が、胸に渦巻くばかりだった。ガキ臭い、とは思ったが、どうにも出来そうになかった。 全く、とフィフィリアンヌは腕を組んだ。あまり付き合いたくないのか、形の良い眉をひそめている。 「ニワトリ頭に百ネルゴで呼び出されてみれば、そんな下らんことだとはな」 「全くであるな。しかしフィフィリアンヌよ、貴君も大概に暇なのであるからして、多少は付き合うべきであるぞ」 ごぼ、とフラスコの中身が蠢いた。ブラッドがぎょっとして身を引くと、赤紫の粘液は泡立った。 「そうかそうかそうであるか、貴君が愚かしくもこの女に挑もうとした半吸血鬼であるな。今後のためにも、それだけはやめておいた方が賢明である。フィフィリアンヌという女に関われば、ニワトリ頭のように魂の随まで利用され喰い尽くされてしまうのである。増して復讐などしようものなら返り討ちに遭い、煮詰められて磨り潰されて魔法薬の材料と化してしまうのが関の山なのである」 「これ、なんだよ」 ブラッドが怯えながらフラスコを指すと、スライムは高笑いする。 「はっはっはっはっはっはっはっは! 我が輩は至高にして究極の生命体、神に選ばれしスライムの中のスライム、高貴であり美麗であり、類い希なる頭脳と知性溢れる喋りを持つ唯一無二の存在! その名もゲルシュタイン・スライマス! 伯爵と呼ぶが良い!」 「うるせぇ」 ごっ、とギルディオスはフラスコを小突いた。はっはっはっはっは、と伯爵はぶるぶると震える。 「久々に外へ出てきたのだ、饒舌になるのも仕方あるまい。しかしニワトリ頭、やはり貴君はニワトリ頭であるな」 「お前もうるせぇだけだよ。あーもう、頭にガンガン来るぜその笑い声」 あーうるせぇ、とギルディオスは頭を振る。フィフィリアンヌは、大柄な甲冑を見上げた。 「だが、ギルディオス。今の貴様であれば、私の手を借りずとも事が起こせるだろうに」 「なんとなくだよ、なんとなく。フィルの手ぇ借りるのは、いつものことだからな」 首を竦めたギルディオスにフィフィリアンヌは、そうか、と呟いた。ブラッドは、彼らの慣れたやり取りを聞いていた。 悪態と嫌味ばかりだが、気心が知れているのは明らかだ。三人とも、言葉尻に親しみが含まれているからだ。 軽い疎外感と嫉妬を覚えながら、ブラッドは生乾きのマントを引っ張った。ばちん、と洗濯バサミから外れる。 それを羽織り、気を張り詰めさせた。フィフィリアンヌを見据えると、先程まで感じられなかった畏怖が湧いてきた。 生物の本能を逆立てる、恐怖と威圧感。押さえ込まれていたであろう魔力の強さも、肌に染み入ってきていた。 ブラッドは、震えそうになる手を握り締めた。決意を緩めてはいけない。父のためにも、そして、自分のためにも。 復讐心を失えば、途端に虚無が押し寄せてくるからだ。 ソファーにふんぞり返ったフィフィリアンヌは、ブラッドの手紙を読んでいた。 神経質な文字で宛名を書かれた封筒も、何度も裏返していた。中身の便箋は、やはり何も書かれていなかった。 ギルディオスがそのことを言うと、フィリオラも頷いていたが、ブラッドはちゃんと書いてあると言って譲らなかった。 フィフィリアンヌは顎に手を添えていたが、新しさの残る便箋と黄ばんだ封筒を見比べ、片方の眉を吊り上げた。 「簡単な仕掛けだ」 フィフィリアンヌは三人の前に、封筒と便箋を差し出した。 「紙の古さで解る通り、これらは別物だ。しかも、便箋の方には、魔法が仕込んである。封筒から便箋を取り出して広げると、普通ならば差し出し主と書き手は同一であるから、便箋の中身もその封筒の主から当てられた手紙だと潜在的に思い込むものだ。その手段で、この手紙を出したのが私であると無意識に刷り込まれたブラッドは、中の便箋を私からの手紙だと思って読んだはずだ。その先入観と思念を利用し、文面を便箋の上に作り出したのだ」 「だが、我が輩にはただの紙にしか見えぬのである」 フィフィリアンヌの傍らに置かれたフラスコから、伯爵はにゅるりと身を伸ばした。フィフィリアンヌは続ける。 「それも簡単なことだ。人にせよ魔物にせよ、生き物は自分の尺度で物事を見ている。魔力もそれと同様で、己の尺度に合ったものほど具合が良い。この便箋には、ブラッドの魔力の波長にしか合わないように魔法が掛けられている。つまり、ブラッドにしか、便箋の内容を視認することが出来ないようにしてあるのだ」 「それじゃ、大御婆様は波長を合わせて見ているんですね」 フィリオラが言うと、フィフィリアンヌは頷く。 「少々面倒だが、やって出来ないこともないぞ。まぁ、こんな面倒な手段を用いた理由は、ブラッドを慣れない土地に追い込んで孤立させ、何らかの策に落とすためだろう。罠に填めるには、弱らせておいた方が確実だからな」 「きっと、その手紙を作った人がブラッドさんのお父様を殺したんですね」 フィリオラはぎゅっと手を握り締め、目を上げた。フィフィリアンヌは、ブラッドを見下ろす。 「そうなのか?」 「そうだよ。オレの父ちゃんは、灰になってたんだ。父ちゃんの血でその灰が固まってたのを、よぉく覚えてるよ」 ブラッドは顔を背け、苦々しげにする。 「父ちゃんの部屋ん中をひっくり返して、出てきたのはその手紙だけだったんだ。だから、オレ、ここまで来て」 「思う通りに動かされた、というわけか。フィリオラに関わった辺りは、偶然とは思えぬがな。作為を感じる」 ふむ、とフィフィリアンヌは少し面白げにした。 「血が灰を固めていた、というのも妙だ。貴様の言い回しからして、血の上に灰が散らばっていたわけではなく、灰の上に血が流されていた、という状態ではなかったのか?」 「あ、うん。良く解るな」 ブラッドが驚きつつ返すと、フィフィリアンヌは僅かに目を細めた。長い睫毛が、白い肌に影を落とす。 「子供の言い回しは比喩が少なく単純な分、想像には困らんのだ。だがブラッド、貴様の父親が何者かに殺されたのは間違いない。その犯人がこの手紙の作り手と同一であるかどうかはまだ解らんが、関係していることは間違いなかろう。しかし、外に出るのも悪くないな。少しは暇が潰せそうだ」 ブラッドは横目にフィフィリアンヌを見たが、すぐに逸らした。窓の外は薄暗く、夕暮れ時に差し掛かっていた。 淡い恋心は、見事に玉砕した。一つ二つどころか恐ろしいくらいの年上で、おまけに竜族で、フィリオラの先祖だ。 馬鹿馬鹿しくなるほど簡単に、その外見と言動に騙された。非常に情けない気分になり、ブラッドはむくれた。 フィリオラとフィフィリアンヌは、これからどうするかを話している。二人の声質は似ているが、口調と高さが違う。 時折混じる伯爵の高笑いを聞き流しながら、ブラッドは外を見つめた。何の気なしに、近くの建物を眺めていた。 レンガ造りの建物は、藍色に変わりつつある空を背負っていた。 こちらを見上げる少年を、見下ろす者がいた。 くすくすと小さく笑いながら、メガネをちゃきりと直す。冷たい夜風を浴びながら、人影が屋上に立っていた。 赤い壁の共同住宅に面した高層建築の上で、彼は事態を傍観していた。思った通りに、物事が運んでいる。 彼は笑う。肩を震わせて悦楽に満ちた笑みを口元に作りながら、声のない笑い声をしきりに上げ続けていた。 その傍らには、もう一人の影が立っていた。銀色の輪郭を纏った、銀色の顔をした、銀色の骸骨がいた。 銀色の仮面で作られた顔には、吊り上がった目元に吊り上がった口元がある。おぞましい、笑顔だった。 「うくくくくくくくくくくく」 銀色の骸骨は、がしゃりと大きな手を動かした。赤黒い染みの貼り付いた手で、笑う口元を拭う。 「イカしてるゼェエエエエエエ、イケてるゼェエエエエエ、超超超イイ感じジャアアアァーン?」 銀色の骸骨は上体を逸らし、アッハァ、と愉悦の声を漏らす。 「ナァナァナァナァ黒幕サーン、あっれっがぁー、オイラの同族カァアアアイ? オイラのセンパイカァアアアアイ?」 彼は頷く。銀色の骸骨は、首を振り回して夜空を仰ぎ、甲高い声を張り上げた。 「うかかかかかかかかかかっ! 超サイコー! 超イケテルゥウ! 超イカスゥウウウウッ!」 銀色の骸骨は、胸元に埋め込まれている緑の魔導鉱石に触れた。うけけけけけけ、と笑う。 「ダッケッドォオオオオオオ、オイラの方が何万倍もイカしてるゼェエエエエエ、イケてるゼェエエエエエ!」 星々の散り始めた夜空を背に、銀色の骸骨はばさりとマントを広げた。そして、高らかに叫んだ。 「見ぃてろよ愚民共ォオオオッ! オイラのウッツクスィー殺戮をォオオオオオオオッ!」 彼は、共同住宅を見下ろした。銀色の骸骨は、アッヒャア、と笑いながら身を屈めて見下ろす。 「ヨォロシィクナァアアア、ギルディオス・ヴァトラスゥウウウウウ。オイラは、アルゼンタムってんダァアアアアアア!」 うかかかかかっ、と鳥のような声を上げ、アルゼンタムはがくがくと首を震わせた。がしゃがしゃと金属音がする。 落ち着きのない機械人形を見下ろしていた彼は、にやりと笑った。あの女が関わるなら、もっと面白くなる。 ああ、楽しい。世界はこんなにも愉悦に満ち溢れている。彼は背筋を走る快感に体を貫かれ、身震いした。 彼はメガネの下で目を閉じ、深く息を吸い込んだ。煤と灰と油の匂いがする空気は、猥雑で俗っぽかった。 だが、嫌いではない。それを一掃した時の快感を思い浮かべれば、この汚らしい旧王都も愛おしくなってくる。 彼らは、笑い続けた。 夜に紛れて、邪心は笑う。世界を乱す快感を、その胸に思い描きながら。 誰にも知られることはなく、誰にも悟られることもないままに、笑い続ける。 静かに、確実に。陰謀の歯車は動き出し、彼らを組み込み始めた。 密やかに、事は始まったのである。 05 10/18 |