ドラゴンは眠らない




人で在るために



重たい足を引き摺って、ダニエルは共同住宅に帰り着いた。
正面玄関の階段の下に、ヴェイパーが立っていた。その背後にはブラッドが座っていて、話していたようだった。
半吸血鬼の少年は夜目が利くらしく、ダニエルが共同住宅に近付く前に、お帰りダニーさん、と声を掛けてきた。
ダニエルが玄関にやってくると、ブラッドは立ち上がった。階段の段差のおかげで、二人の目線が揃った。

「遅かったね、ダニーさん。何してたん?」

「そういうお前達は」

ダニエルが尋ねると、ん、とブラッドはヴェイパーを指した。

「ヴェイパーに色々と教えてたん。オレ達と一緒の時の、ギルのおっちゃんのことをさ」

「うん。いっぱい、はなし、きいた。たいちょう、しあわせ、そうだった」

ぎち、とヴェイパーは首を軋ませて頷いた。ブラッドは、見るからに沈んでいるダニエルに、心配げな顔をした。

「ダニーさん、フローレンス姉ちゃんと何かあったん?」

なんで解るんだ、とダニエルが問おうとすると、ブラッドは苦笑しながらまたヴェイパーを指した。

「ヴェイパーが。フローレンス姉ちゃんの思念読んで、オレに寄越してきたんだよ」

「ふろーれんす、ないて、いたから。しねんのなかに、ふくたいちょうが、いたから」

不安げに、ヴェイパーは声を沈ませる。

「ふくたいちょう。ふろーれんすに、なにか、あったんですか?」

ダニエルは答えようとしたが、言葉に詰まった。彼女を傷付けてしまったことで傷が出来ていて、それが痛んだ。
同時に、自己嫌悪もかなり強くなっていた。部下の心中を察してやれない上官など、上に立つに相応しくない。
絞り出すように、なんでもない、とだけ言い残し、共同住宅に入った。ブラッドは、その背を見送るしかなかった。
暗がりに上半分が没している共同住宅を見上げると、三階の窓が開いていて、フィリオラが顔を出していた。
どうでしたか、と小さな声で尋ねられ、ブラッドは首を横に振った。フィリオラは心配そうに、眉を下げている。

「そうですか…。フローレンスさんの様子、普通じゃありませんでしたけど…」

「ダニーさんも、なんか変だったぜ」

ブラッドが首を捻ると、フィリオラは窓から身を乗り出し、少年を見下ろす。

「ですけど、こういう場合は下手に手出しをしない方がいいですね。お二人の問題ですから」

「うん。それが、いい」

ヴェイパーはフィリオラを見上げ、頷いた。ブラッドはあまり腑に落ちていなかったが、頷いた。

「じゃあ、オレも何もしねぇけどさ」

「あんまり夜更かししないで下さいね、ブラッドさん。明日もお勉強があるんですから」

フィリオラは笑んでから、窓を締めた。ブラッドは生返事をしてから、階段に座り直した。ヴェイパーも、腰を下ろす。
フィリオラの声が聞こえなくなると、街は途端に静まった。建物の窓から漏れてくる明かりも、数えるほどしかない。
いつのまにか、住宅街は寂れていた。以前は、夜でも多少の人通りがあって、話し声もちらほらと聞こえていた。
なのに今は、人間がいない。皆、共和国軍に徴兵されてしまったのだ。レオナルドの同僚も、幾人か戦いに出た。
キャロルのような境遇の女も、日に日に増えていることだろう。男が去るということは、女が残されるということだ。
今頃、リチャードはどうしているだろう。最初はあまり好きではなかったが、近頃は、彼のことは好きになっていた。
以前のように人を利用することも少なくなったし、キャロルを愛したことで性格が大分丸くなり、優しくもなっていた。
魔法の勉強の進め方は相変わらず早かったが、その分的確な場所をきっちり教えてくれて、使える魔法も増えた。
次は、今よりも一段階上の魔法陣の扱いを教えてもらうはずだったのに、その前にリチャードは出征してしまった。
一人残されたキャロルは、毎日泣いている。見ている方が痛々しくなるほどだが、彼女は、笑ってみせてくる。
それがまた苦しげで、笑顔にすらなっていなかったが、ブラッドやフィリオラを不安がらせないように必死なのだ。
戦争なんて、この世にいらないものだ。誰も彼もが苦しんで、傷付け合って、誰一人として幸せになんてならない。
なのに、戦争は拡大している。首都壊滅以降は新聞も途絶えたが、時折、行商人達が戦況を話しているのを聞く。
彼らの言葉の端々だけでも、共和国の都市や街が破壊され、国土が焼き尽くされそうとしているのは解った。
ブラッドは、重たい不安と恐ろしさに苛まれていたが、出来る限りそれから目を逸らし、勉強に励んでいた。
現実逃避だと解っていても、そうするしかなかった。それぐらいしか、ブラッドがやっていられることはないのだ。
もっと、強くなりたい。早く大きくなって、もっと、皆の役に立ちたい。ブラッドはそう強く思い、夜空を睨んだ。
悔しさばかりが、募っていた。




二○三号室の前に、ダニエルは立っていた。
扉を打ち付けようと伸ばした手を、力なく下ろした。扉の奧からは、弱々しいすすり泣きの声が聞こえていた。
空気に混じるフローレンスの思念も、絶望だけを伝えてくる。頭の芯に、ちりちりとした痺れの感覚が起きる。
後悔の念ばかりが、胸を締め付ける。フローレンスの悲痛な泣き顔と吐き捨てられた言葉が、忘れられない。
着飾って化粧をした彼女は、美しかった。時間が経ってから、ようやく、彼女が女であることを思い出した。
いつも男のように振る舞っていて、女らしさとは無縁の世界で生きてきたから、すっかり忘れてしまっていた。
恋がしたい、という思いも良く解る。異能者として生まれたならば、一度は願ってしまう、決して叶わぬ願いだ。
ダニエルも、レオナルドが羨ましいと思ったのは一度ではない。彼のように、どうにかなるほど女を好いてみたい。
だが、出来るはずがない。軍の中に生きてきた男は女のあしらい方など知らないし、力の暴走が何より恐ろしい。
感情に任せて動いて、力が暴れ出してしまったら、惚れた相手を傷付けるかもしれない。そんな、不安があった。
だから、恋愛などしてはいけない。ダニエルがいつのまにか思っていたことを、彼女も思っていたようだった。
しかし、フローレンスは気付かないうちに変わっていた。軍人でも異能者でもなく、女として生きたがったのだ。
それを、真っ向から否定してしまった。ダニエルは自己嫌悪にじりじりと焼かれながら、扉をじっと睨んでいた。
鍵を開けるのは容易い。念動力を使って、錠前を外してしまえばいい。だが、そんなことをしては、いけない。
力による苦しみなら、力を使って解決するべきではない。それに、悪いのは、間違いなくダニエルなのだ。
上手い謝罪の言葉は思い付かなかったが、言うだけ言ってみようと思った。どれか一つでも、届いて欲しい。

「フローレンス」

廊下に、ダニエルの苦しげな声が広がった。扉の内側で、すすり泣きが止まった。

「私が悪かった」

今更何よ、もう遅いわよ。そんな思念が返ってきた。

「すまん。私にも、お前の気持ちは良く解るはずなんだが、解っていたはずなんだが…」

解っていたなら、なんであんなこと言うのよ。恋ぐらい、してみてもいいじゃない。

「すまん」

あたしには、副隊長の気持ちなんて全然解らない。副隊長の心、読めないんだし。

「そうなのか?」

そうなのよ。長いこと近くにいたせいで、たぶん、副隊長はあたしの力に耐性が出来ちゃってるのよ。

「かもしれんな」

だから、恋出来ると思ったの。副隊長なら、心が読めない相手だったら、恋愛が出来るかなあって。

「そういうことか」

ちょっとぐらい、付き合ってくれてもいいじゃない。そりゃ、あたしは副隊長の好みじゃないだろうけどさ。

「フローレンス…」

すすり泣きは、盛大な泣き声に変わった。ぶつりと途切れた思念の代わりに、強い感情の精神波が放たれてくる。
とても、痛々しかった。彼女の心の痛みがそのまま溢れ出してきて、ダニエルの魂すらも侵食しそうなほどだった。
このままだと、彼女は折れてしまいそうに思えた。普段の明るさの奧に押し込めていた弱さが、露わになっている。
近付いて、触れて、抱き締めてやりたい。それぐらいしか、出来そうにない。そんな衝動と痛みが、起きていた。
心臓が締め上げられるような痛みに始まり、重たい苦しさが広がり、彼女の姿が思考から離れなくなっていた。
以前に、レオナルドの思念から感じた感覚に似ている。フィリオラを悲しませた時の、彼の記憶にあった感情だ。
これは、何なのだろう。考えなくても解るはずなのについ考えてしまって、ダニエルは自分に呆れてしまった。
そういえば、いつもそうだった。自分は上官だから、という言い訳を付け加えて、フローレンスの傍にばかりいた。
異能部隊基地が破壊された直後も、旧王都への旅路も、いや、それよりも前から、何かにつけていたではないか。
目に付くから、危なっかしいから、心配だから、部下だから。そんな理由を付けて、少女の頃から近くにいた。
ギルディオスを越えたい、という思いも、突き詰めれば彼女に行き当たる。視線を、あちらから外させたかった。
思い出した。というより、思い出さないようにしていたのだ。冷徹な軍人として生きる自分に、似合わないからと。
どうせそのうちどちらかが死ぬのだから、打ち明けなくても良い、秘めたままで死んでしまった方が相応しい、と。
だから、こんなに苦しいんだ。ダニエルは衝動と痛みの真相を知ると、目の前の扉を吹き飛ばしたくなった。
そして、思い切り己を殴ってしまいたかった。二つの遣り切れない思いが混じり合った結果、扉に頭を当てた。
ごっ、と硬い音がして、額が痛くなった。フローレンスの泣き声は押さえ込まれていて、一層苦しげだった。

「…すまん」

ダニエルは自分への怒りと苛立ちを押し込めて、漏らした。

「ここを、開けてくれ」

ほんとうに、ほんとうに、悪いって、思ってるの。

「ああ」

扉の内側から、足音が近付いてきた。がしゃり、と中で鍵が開けられて錠が外れ、取っ手が回り、扉が開いた。
細い隙間の奧に、泣き濡れた青緑色の瞳が覗いた。整えた髪も乱れて、化粧も涙で洗い流されてしまっている。
フローレンスがダニエルに言葉を掛けようと唇を開いたが、言葉を出す前に、強い力で抱き竦められてしまった。
太い腕に背中を押さえ込まれ、身動き出来ないように固められてしまった。フローレンスは、訳が解らなかった。
間近から、激しく高鳴る鼓動が聞こえてくる。それがダニエルのものだ、と気付いたフローレンスは、呟いた。

「おなじだ」

レオナルドやフィリオラが互いを思う時の鼓動の音と、良く似ている。フローレンスは、彼の胸に顔を埋めた。
身長差のせいで、胸よりもやや下に押し当てる恰好となった。心臓、魔力中枢が近いからか、彼の思念が読めた。
すまない、私が悪かった、何もかも私が悪い、そんなつもりじゃなかった、なんでこうも器用に出来ないんだ。
何が上官だ、何が副隊長だ。そんなものを理由にして、近くにいたいだけじゃないか、挙げ句に隊長に妬いて。

「妬いた…?」

フローレンスの小さな声に、ダニエルは頷いた。フローレンスの感覚には、更にダニエルの思念が流れ込んでくる。
ああそうだ、妬いていた。いつも隊長にばかり向いているものだから、隊長を越えて、こちらに向けたかった。
いつの頃からかは解らない。だが、気付いたらそうなっていたんだ。心を読まれないのは、いっそ好都合だった。
私は馬鹿だ。とんでもない馬鹿だ。お前を傷付けるまで、押さえ込んでいた本心に気付かなかったんだからな。
言葉の羅列と同時に、感情も流れ込んでくる。冷徹なダニエルらしからぬ熱いものが、どっと溢れ出してきた。
その熱と勢いに、フローレンスは頬を赤くした。力を押さえて阻もうと思っても、押さえられないほど勢いが強い。
あたし、意識されているんだ。そう感じた直後、フローレンスは無性に照れくさくなって彼の胸を押そうとした。
だが、ダニエルの腕は一向に緩まず、逆に閉じこめられてしまった。フローレンスは、かなり混乱してきた。

「なに、これぇ…」

あの二人から読んだものよりも、ずっと温度が高い。そして、遥かに強烈だ。自分に、向けられているからだ。
鼓動が跳ねた。ダニエルが傍にいることが、抱き締められていることが急に恥ずかしくなって、体が熱くなった。

「え、あっ、やだやだやだぁ」

これはダニエルの感情だ、彼の感覚だ。そう思っても、体の中に生まれた熱はどんどん温度を上げていく。
彼のものを感じたから勘違いしているんだ、うっかり共有してしまったんだ、だからこれは自分のものじゃない。
フローレンスはそう思い込もうとしたが、出来なかった。この感情が他人のものでないと、自分が一番解っていた。
とても怖い。振り回されてしまいそうで、恐ろしい。押し止めようとしても、勝手に温度は上がっていってしまう。

「やだぁ…」

このままだと、恋をしてしまう。ダニエルに流されて、彼に恋をしてしまいそうだ。すると、ダニエルの腕が緩んだ。
両肩を押されて、彼との距離が開いた。ダニエルはかなり申し訳なさそうな顔をしていたが、顔を逸らした。
その横顔は、気恥ずかしげでもあった。フローレンスは自分の鼓動が速まっていることを感じながら、俯いた。

「て、ことは、さ。副隊長、って」

ダニエルは答えずに、顔を押さえてしまった。表情を隠そうとしたようだったが、手の下から口元は見えていた。
一見すると、苦々しげに歪められていた。だが、僅かに感じ取れる彼の思念からは、相当な照れが滲み出ていた。
どのくらい前からなんだろう、とフローレンスは思ったが、見当も付かなかった。彼との付き合いは、かなり長い。
フローレンスが異能部隊に参入した十五年前、つまり、フローレンスが十歳で彼が十九歳の頃から仲間だった。
歳の離れた兄のように思っていたし、近寄りがたい雰囲気もあったし、何より思念が読めないので解らなかった。
だが、思い出してみればそうだ。あの頃はどういう意味なのかは解らなかったが、ダニエルから意識されていた。
近付こうとしても態度を邪険にされたり、ギルディオスとばかりいると嫌味を言われたり、やけに怒られたり。
先程の思念から察するに、ダニエル自身も自覚していなかった節もあるようだ。それなら、解らないはずだ。
だが、だからといって、何も今になってそれを自覚することはないだろう。いくらなんでも、遅すぎやしないか。
フローレンスはまだ鼓動は落ち着いていなかったが、彼の鈍さにげんなりしてきて、涙が引っ込んでしまった。

「副隊長の馬鹿」

「否定はしない」

ダニエルが力なく呟くと、フローレンスは涙に濡れた頬を拭った。

「普通さぁ、解るでしょうがそれぐらい。あたしが隊長にべったりするのが面白くないなーってのが嫉妬だって」

「それが、解らなかったんだ」

「超絶馬鹿」

フローレンスが吐き捨てると、ダニエルは情けなく言った。

「いくらでも言ってくれ…」

「馬鹿。大馬鹿。戦闘馬鹿。世間知らず。箱入り軍人。超最低。超最悪。超絶無神経。軍と結婚しちゃえ」

フローレンスの言葉がきつくなるに連れて、ダニエルは肩を落とした。

「否定は、出来ない」

「…あたしも、馬鹿だ」

フローレンスは乱れた髪をいじって、壁に背を預けた。

「恰好だけどうにかしたって、どうにかなるはずないってのにねぇ。あたしはあたしで、化け物は化け物なんだし」

「化け物、か」

ダニエルが彼女の言葉を繰り返すと、フローレンスは頷いた。

「だって、そうじゃん。だから、恋したら、ちゃんとした人間になれるかなって思ったんだけどさぁ…」

「ちゃんとしていようがいなかろうが、してしまうものはしてしまうぞ」

「なんかもう、やんなっちゃう」

フローレンスは、自分の胸元に手を当てた。その下では、普段よりも鼓動が速く脈打っている。

「どきどきしてる」

「それが、なぜ嫌なのだ?」

ダニエルが訝しげにすると、フローレンスはむっとした。

「副隊長なんかが相手だから」

「なんかって、なんかはないだろうが!」

ダニエルはその言い草に腹立たしくなり、反射的に声を上げてしまった。

「この間から気になっていたんだが、お前、どうして私をなんかだと言うんだ! そんなにダメなのか、私は!」

「ダメ、っていうか、旦那にしたくない」

「は?」

「だってさ、副隊長ってあたしと違って最初から異能部隊にいたじゃない? だから、超世間知らずなわけよ」

「ああ、まぁな」

ダニエルは頷いた。確かに、物心着いた頃から異能部隊で戦っていた。フローレンスは、盛大にため息を零す。

「だから、結婚するにはものすごーく向いてないの、副隊長は。異能部隊ってどんな奴もそんな感じだったし、その中じゃ副隊長はまだまともかなーって思っていたんだけど、旦那は一生物だから、どうせ選ぶんだったら、もうちょっと見極めてから選びたいなって思っていたわけよ」

「だから、なんか、なのか?」

「そう」

フローレンスは、落胆しているダニエルに追い打ちを掛ける。

「副隊長って、兵士としては立派だし統率者にも向いているだろうけど、男としては最低だもん。色々と」

「さすがに、ちょっと、来たぞ」

そこまで言われてしまっては、多少なりともダニエルの自尊心が痛んだ。自覚していても、言葉にされると厳しい。
ダニエルが渋い顔をしていると、フローレンスはやりづらそうに顔を逸らした。少し、照れくさそうだった。

「でも、さぁ」

フローレンスは、恐る恐る、ダニエルを見上げた。

「もうちょっと、どきどきしてみたい」

「いい…のか?」

ダニエルが戸惑っていると、フローレンスはダニエルの胸元を握り締めた。

「もう少しぐらい、恋愛ごっこ、させてくれたっていいじゃない」

「私の方は、至って本気だ」

ダニエルはフローレンスの肩を掴むと、引き寄せた。再び距離が狭まると、フローレンスは僅かに身動いだ。
また、鼓動が痛くなる。冷めたはずの頬が熱くなり、見たこともない眼差しの上官がすぐ目の前にいる。
とても、怖い。感じたことのない感情が体の中で暴れ回り、その感情のままに、力が生じてしまいそうになる。
肩を押さえているダニエルの手が、熱かった。目の前が陰り、距離がなくなったかと思うと、口が塞がれた。
柔らかく、慣れない感触が唇にある。口付けられている、と解った途端、フローレンスは大きく目を見開いた。
怖い。けれど、抗えない。フローレンスはそっと目を閉じて、暴れ回る鼓動を感じながら、彼に思念を送った。
ダメだけど、嫌いじゃない。もっともっとどきどき出来たら、副隊長のこと、好きになっちゃうかもしれない。
させてやる。いくらだって、させてやる。ダニエルの思念が返ってくると、フローレンスは力を抜き、身を委ねた。
苦しいほど、切なくなる。これが恋なのかもしれない、と思うと、恋なんだ、と言葉ではない言葉で返ってきた。
怖いけど、苦しいけど、もっと深入りしてしまいたい。自分は化け物かもしれないけど、この感情を味わっていたい。
フローレンスは、かかとを上げてダニエルの首に腕を回した。触れているだけだった唇を、深く重ね合わせる。
彼の強い思念は、鼓動を更に速まらせていた。




翌日。共同住宅に帰る道すがら、レオナルドは呆然とした。
今、ダニエルがなんと言ったのか、すぐには信じられなかった。フローレンスを好いていた、と彼は言った。
そして、フローレンスから恋愛をしてみたいと言われたので、多少の紆余曲折の後にそういう関係になった、と。
レオナルドは、首を捻らずにはいられなかった。確かに、彼はフローレンスを気に入っていたようには思える。
それがなぜ、こんなときに進展するのだろうか。恋愛の切っ掛けというものは、どこにあるのか解らないようだ。
傍らを歩いていたダニエルは、足を止めた。彼はかなり気恥ずかしげで、口調もどことなく上擦り気味だった。

「まぁ、そういうことだ」

「この状況だというのに、気楽だな」

レオナルドの嘆きに、ダニエルはあからさまに嫌そうにした。

「お前にだけは言われたくないぞ、レオ」

「まぁ、一緒に旧王都に来る辺り、何かあるとは思っていたが。そういうことだったか」

レオナルドは、いつになく落ち着きのないダニエルを向いた。ダニエルは照れくさそうに、顔を背ける。

「悪いか」

「いや、悪くはないが」

レオナルドは、吹き付けてきた夜風の冷たさに首を縮めた。夏が終わった途端に、秋の気配が強くなっていた。
あれほど暑かった日差しも柔らかくなって、木々の葉も色がくすみ始めている。秋は、日に日に深まっている。
それに合わせて、戦況も目に見えて悪くなっている。首都が連合軍に制圧されると、次々に都市に攻め入られた。
首都周辺の街だけでなく、首都から割と離れた位置にある商業都市も壊滅同然となり、経済状態は最悪だった。
流通の要であった鉄道も、商業都市から先は連合軍によって封鎖されているので、物資の流通が出来なくなった。
旧王都は、首都側である北からの流通を完全に諦めて南側との物流で保っているが、それも時間の問題だった。
経済が破綻するのが先か、旧王都に攻め入られるのが先か。どちらにせよ、いつか、旧王都も崩壊するだろう。
レオナルドは、夜空を仰いだ。リチャードの参入した特務部隊は、今頃、どこでどのように戦っているのだろう。
そして、ギルディオスは、どこに行ったのだろうか。彼とは首都で別れたきりだったが、やはり、気掛かりだった。
ヴェイパーとフローレンスの話に寄れば、アルゼンタムも一緒らしいので、訳が解らない上に予想も付かなかった。
時折旧王都の上を過ぎる緑竜、フィフィリアンヌはこちらにいるようだが、ギルディオスの行方を捜すでもない。
敵対したままのか、それとも、今は別なのか。レオナルドは多少考えを巡らせてみたが、一向にまとまらなかった。
リチャードが特務部隊に引き入れられたことといい、結婚式の場にグレイス・ルーがいたことといい、何かある。
だが、その何かが見えてこない。この事態がまず把握出来ていないので、事の概要すら、掴めていなかった。
しかし、嫌な予感はする。ざわざわとした悪寒のような、背筋を逆撫でする気色悪いものが、蠢いている気がする。
レオナルドは言い表しようのない不安に襲われながらも、共同住宅へ急いだ。フィリオラが、帰りを待っている。
今は、そちらが優先だ。にじり寄ってくる戦争の足音に怯えるよりも、得体の知れない恐怖に捕らわれるよりも。
愛する人の元へ、向かうべきなのだ。




人であって人でないが、人である彼女の小さな願い。
そして、そんな彼女を見続けていた彼の、密やかなる思い。
異能の力を持っていようとも、その心は、やはり人のものなのだ。

彼らは決して、化け物などではないのである。







06 2/27