ドラゴンは眠らない




束の間の平穏



ギルディオスは、遊んでいた。


昨日まで降り続いていた雪が止み、清々しく空が晴れ渡っていた。吹き付ける風は冷たいが、日差しは温かい。
遠くに見えている旧王都の城壁の上には、こんもりと雪が積もっていて、綿帽子を被せたかのようだった。
真っ白な雪原は鋭い日光を照り返し、甲冑の装甲もぎらつかせていた。その体には、雪がまとわりついている。
ギルディオスは頭を振り、ヘルムの隙間に詰まった雪を払い落とした。足元の雪を掴むと、ぎゅっと握る。
それを投げようと構えた瞬間、胸元目掛けて雪玉が飛んできた。避けるよりも前に、どちゃっ、と激突する。
ギルディオスは濡れた胸元をぐいっと拭ってから、振りかぶった。急いで逃げていく少年の背に、雪玉を投げる。

「そらぁっ!」

高々と振り上げられた手から雪玉が放られ、一直線に黒衣の少年の背に向かう。直後、その背に当たった。
あでっ、と声を上げた少年は、真正面から転んだ。顔から雪に埋もれた彼は、背をさすりながら起き上がる。
雪原の中では一際目立つ黒のコートを着込んでいるブラッドは、胸を張るギルディオスに振り返り、むくれた。

「上手く行かねー…」

「そう簡単なもんじゃねぇさ。何度も何度も修練して、やっとこさっとこ強くなれるんだよ」

ギルディオスは固く踏み締められた足元の雪ではなく、柔らかな雪を一掴みすると、両手で握って丸くさせる。

「誰だってそうさ。オレだってな、最初っから剣を上手く使えたわけじゃねぇんだぞ」

「そりゃそうだけどさ」

ブラッドはコートに付いた雪を払ってから、手袋を填めた手で雪を取り、ぎゅっと握り固める。

「でもさ、おっちゃん」

「うん?」

ギルディオスは雪玉を手の上で軽く投げ、弄んだ。ブラッドは白い息を吐き出しながら、声を上げる。

「オレも、おっちゃんみたいに強くなれるかな!」

「おう、なれるなれる。ラッドはこれから大きくなるんだ、もしかしたら、オレよりも強くなるかもしれねぇぞ?」

ギルディオスが頷くと、ブラッドは少し照れくさそうに笑んだ。

「そうかな」

「そうさ。いくらだって、鍛えようがあるさ」

ギルディオスは、褒め言葉に戸惑いながらも嬉しそうなブラッドを見つめた。少年の頬は、寒さで赤くなっている。
しばらく見ないうちに、少し背が伸びたような気がする。魔法の勉強も捗っていて、使える魔法も大分増えた。
体も地道ながら鍛えているらしいが、先程からやっている雪玉遊びで調べてみたら、あまり大したことはなかった。
走る速さも変わっていないし、すぐに転んでしまう。ギルディオスの投げる雪玉からも、ほとんど逃げられていない。
やはり、彼は、まだまだ子供なのだ。だが逆を言えば、これからいくらでも鍛えようがある、ということでもある。
出会った当初は捻くれていたのに、素直になった。最初の頃は好きでなかった勉強も、今は楽しげにやっている。
本当に、ブラッドは成長した。照れ隠しに表情を固めた少年は振りかぶると、ギルディオスに向かって投げ付けた。
一直線に空を切った雪玉が、ギルディオスの真正面に向かってくる。ギルディオスが身を引くと、すぐ脇を抜けた。
少年の放った雪玉は雪原に落ち、小さな穴を作った。少年に向くと、ブラッドは悔しげに次の雪玉を作っている。
この雪玉遊びは、ギルディオスに修練を付けて欲しい、とブラッドが言ってきたので修練という名目で始めた。
最初は、足場の悪い場所でどれだけ動き回れるか、というのが本題だったのだが、気付けばそうでなくなった。
いつのまにやら、遊びが本題になっている。というより、ギルディオスが雪で遊ぶのを楽しんでしまったからだ。
修練としての意味はなくなってしまったが、まぁいいか、と思いながらギルディオスは大きく振りかぶった。

「いっくぞーラッドー!」

ブラッドは雪玉を持ったまま立ち上がったが、直後、べしゃっと肩に雪玉が炸裂し、その衝撃でよろけてしまった。
倒れることはなかったが、雪に足を取られてしまった。ギルディオスは上機嫌に、子供のように笑っていた。
大人気なく笑い転げる甲冑に、ブラッドは勢い良く雪玉を投げた。それを受けたギルディオスは、少しよろけた。
やりやがったなー、とは言うがとても楽しげなギルディオスと、本気になっている息子を、ラミアンは眺めていた。
離れた位置から、雪玉の応酬を続ける二人を見ていた。どちらも、当初の目的を忘れて雪遊びに没頭している。
背後に向くと、ヴェイパーが黙々と雪玉を転がして大きくしている。雪原には、彼の大きな足跡が続いている。
ヴェイパーの歩き回った周囲には、巨大な雪玉がいくつも並んでいて、さながら岩場のようになっていた。
これといった目的もなく作っているらしく、彼は雪玉がある程度大きくなったら、また新しいものを造っていた。
なんとも、妙な光景だった。ラミアンは一人遊びを続けるヴェイパーから目線を外し、仮面の顔を上向けた。
冬らしい、高い空だった。空の端々には風で千切れた雲が散らばっていて、澄み切った青を際立たせている。
胸元の緑色の魔導鉱石が日光を撥ね、眩しかった。ラミアンは内心で目を細めていたが、気は立っていた。
この体になっていると、魂がほとんど剥き出しになっている状態なので、生前にも増して感覚が鋭敏になっていた。
アルゼンタムの頃は感じられなかった、というより、使い方を忘れていた感覚の探知範囲を徐々に広げていく。
天気が良く程良い強さの風が吹いていると、大気中を流れているほんの僅かな魔力の流れは、感じやすい。
魔力を高ぶらせて表層に出し、その魔力を受けた。まだ遥か遠くだったが、間違いなく、彼は近付いてきている。
一度は彼と感覚を繋ぎ合わせたため、よく解る。鋭利で激しく、それでいて冷ややかな魔力の気配がやってくる。
彼、すなわち、ジョセフィーヌの体を器としたキース・ドラグーンが旧王都に来るのは、もう二三日後だろう。
共和国の戦況は悪化の一途を辿っていて、負け続けて弱体化した共和国軍は、国の内側へと後退を始めている。
本来の役割を成さなくなってしまった機関車は、ひっきりなしに旧王都へやってきては、兵士達を置いていく。
だが、その兵士達はいずれも消耗していて、士気はかなり低い。一時の逃げ場として、旧王都を選んだのだろう。
しかしそれは、良策ではない。ただでさえ弱っている軍隊を一カ所に集めなどしたら、総攻撃を喰らうだけだ。
ラミアンは、背の高い城壁に囲まれた旧王都を仰いだ。旧王都がやられるのが先か、キースを倒すのが先か。
どちらにせよ、覚悟は決めておかねばならない。かつて殺しきれなかった男を、妻の体と共に殺すのだから。
刃は落としてあるが充分に鋭い指先を、きち、と軋ませた。喰い散らかした人々と、同じようにすればいい。
首筋を切り裂いて腹を引き裂き、臓物を散らして血を撒き散らす。そうすれば、確実に両者とも死ぬのだ。
邪心の固まりであるキースを殺すことに、躊躇うことはない。妻を犠牲にすることは心苦しかったが、仕方ない。
これは全て、償いもせずに罪を重ねて生きてきた、己の幸せばかりを求めた自分自身への罰なのだから。
ふと、影が掛かった。振り返ると、雪にまみれた大きな手を振っているヴェイパーが、背後に立っていた。

「気が済んだのかい、ヴェイパー」

ラミアンが尋ねると、ヴェイパーは頷いた。

「うん。とりあえず」

ヴェイパーは手首を振り、円筒を連ねた指の関節に詰まった雪を払い落とした。ラミアンは、笑い返す。

「そうか。それは良かったな」

「らみあん。らみあんは、じょーを、ころすの」

ヴェイパーは、平坦な口調で言った。彼が心を読めるのを知っているので、ラミアンは戸惑うことなく返した。

「ああ。それが私に残された役割であり、事を終わらせることが出来る唯一の方法なのだよ」

「でも、らみあん。らみあんは、じょーのこと、すごく、すごく、すき」

「ああ、そうだ。私はジョーを愛している。彼女が愛しくてたまらない」

ラミアンは、内心で微笑んだ。ヴェイパーは俯くと、苦しげに唸った。

「…なのに、ころす?」

「私とて、彼女を殺してしまいたくはない。出来ることならジョーを取り戻し、ブラッディと共に生きていたい」

なるべく平静を装ってはいたが、ラミアンの声は少し震えていた。

「だがな、ヴェイパー。もう、それしか、あの男を止める手立ては残されていないのだよ」

「ほんとうに、ほんとうに、ほかには、ないの?」

ヴェイパーは雪の付いた手を、ぎちりと握り締めた。ラミアンは、頷く。

「会長とも話し合ったのだがね、それが一番確実であり有効だろう、という結論に達したのだよ」

「でも、いきもの、ころすの、よくない。とても、よくない。じゆう、うばう、いけない」

首を左右に振るヴェイパーに、ラミアンは体格にそぐわない大きな手を、彼の胸に添えた。

「ありがとう、ヴェイパー。君は、優しいな」

ヴェイパーはまだ何か言いたげだったが、うぅ、と低く呻いた。ラミアンは、彼の胸をそっと優しく撫でてやった。
眩しい日光を浴び、滑らかに磨き上げられた銀色の指は輝いている。そこには、仮面の顔が映り込んでいた。
吊り上がった目元に吊り上がった口元の、狂気の笑みを浮かべた仮面。これを外しても、決して元には戻れない。
ならば、徹底的に壊してしまうのも手だ。ソォーレもいいかもシィーレネェーナァアアアア、と内心で呟いた。
今となっては、アルゼンタムであった日々は遠い。だが、彼は別人ではなく、ラミアンの一部であり全てだった。
普段は理性で押さえ込んでいる本能が露出した、剥き出しの人格である彼は、ラミアンの底の部分だとも言える。
気分を高揚させれば、すぐに彼は出てくる。古くからの付き合いの友人に会うような、懐かしさすらあった。
彼女を殺す時は、狂気の機械人形に戻ろう。そうすれば、ほんの少しだけは、苦しみが軽くなるかもしれない。
たとえ、そこに、一片の救いもなかろうとも。




ヴァトラスの屋敷の玄関前の広間では、フローレンスが座り込んでいた。
スイセンの家紋が描かれた床に描かれている、巨大な魔法陣の中心に座っているのだが、かなり眠たげだった。
辛うじて目は開いているが、目は虚ろで何も映していない。それもそのはず、彼女は二日間眠っていないのだ。
黒の塗料で描かれた魔法陣の外では、キャロルは朝食を載せた盆を立っていたが、フローレンスを覗き込んだ。

「あの、フローレンスさん」

「話し掛けないで」

六芒星の中心で胡座を掻いているフローレンスは乱暴に言い、魔法陣に書き連ねてある魔法文字に触れた。

「えー、とー、あー、ここも雑音ばっかりでマジうぜぇ。ていうかごちゃごちゃうるせぇんだよてめぇら!」

その言葉の荒さにキャロルはびくりとしてしまい、盆の上の紅茶を少し零した。フローレンスは、舌打ちしている。
肩を叩かれたので振り返ると、ダニエルが首を横に振っている。キャロルは、困惑した眼差しをダニエルに向ける。
二人は、五日ほど前からヴァトラスの屋敷にいた。来たと思ったら、いきなり広間に魔法陣を描いてしまった。
それが何であるか尋ねたが、ろくに説明もされないまま居座られ、キャロルは仕方なく二人の世話をしていた。
日が経つにつれて魔法陣に座り込んでいるフローレンスが荒れていくので、だんだん彼女が怖くなってきた。
キャロルが怯え気味に眉を下げているのを見、ダニエルは苦笑してしまった。その気持ちは、解らないでもない。
魔法文字の上に手を這わせていたフローレンスは、不意に動きを止めた。ばん、と手を付くと、声を張り上げた。

「いよっしゃああああああ!」

その声の大きさにかなり驚いてしまい、キャロルは両手から盆を落としてしまった。足元で、食器が砕け散る。
だが、フローレンスはその音に気付くこともなく、にやりと口元を上向けながら魔法文字を手で押さえ付けた。

「来た来た来た来たぁー! 一度掴んじまえばこっちのもんだぜぇい!」

フローレンスは目を閉じていたが、すぐに見開いた。ダニエルに振り向き、叫ぶ。

「地図寄越せや地図ぅ!」

「あ、ああ、解った」

彼女の粗暴な態度にダニエルは呆気に取られていたが、頷いた。魔法陣の外に置いてあった、地図を投げる。
それを素早く受け取ったフローレンスは、引き裂く勢いで広げて床に押し当て、旧王都周辺をじっと睨んだ。
人差し指で地図の道筋をなぞっていたが、にかっと変な笑みになった。その顔のまま、ダニエルに振り向く。

「ペン寄越せや副隊長ぉ!」

「事が終わったらすぐに眠れ、フローレンス」

ダニエルは念動力でインク壷とペンを軽く浮かばせると、手を動かし、フローレンスの手元に向かわせた。
フローレンスはペンを掴むと、がぼっとインク壷に浸した。軸まで黒くなったペンを抜き、地図の上に滑らせる。
滑らかな動きで、ペン先は道筋を辿っていった。平地を抜け、山を越え、街道から外れた道を黒い線がなぞる。
それが旧王都まで辿り着くと、フローレンスはペンを投げ捨てた。あー、と唸りながら首を曲げ、関節を鳴らす。

「兵士の足並みが遅いからきっぱりとは言えないけど、あと二日半ぐらいで第二連隊は旧王都に到着するね」

「指揮官は」

ダニエルが上官の顔で尋ねると、フローレンスは大きく欠伸をした。

「特務部隊が指揮権を握ってるから、言わずもがなよ。んでー、第二連隊は旧王都を守るって名目で来るみたいだけど、実質撤退だよこりゃ。装備も兵力もかなり消耗しているんだけど、特務部隊がいるからなんとか保ててるって感じ。連合軍は共和国領土の北東から攻めてきているから、幸か不幸か、西側の旧王都近くには現時点では来ていないけど、来るのは時間の問題だね。共和国領土の四分の一、北部一帯を制圧しちゃったから、奴らは調子に乗りまくってる。ていうか、これは作戦かな。旧王都周辺の軍備を甘くして、そこに共和国軍を誘い入れて叩き潰す、ってな具合かな。あー、うん、うん、そうかも。南部地方の小国を抱き込んであるみたいだし、たぶん、あちらさんはそのつもりだわ。うわー超最低ー、超エグーい」

フローレンスは、抑揚なく一本調子で言い切った。ダニエルは彼女の視た思念を受け取り、苦々しげにする。

「奴の腹の内が見えたな」

「たぶん、大佐どのは、旧王都で双方をかち合わせて全滅させるつもりなんでしょ。性格悪ぅ」

フローレンスは後方に両手を付き、上半身を反らして足を投げ出した。

「隊長の話で聞いたあいつの言葉、人の世界を滅ぼす、ってのはあながち冗談じゃなさそうねー」

「あ、あの…」

キャロルは、困惑しながら二人を見比べた。フローレンスは、まるで戦場を見てきたようなことを言っている。
だが、彼女は、昨日の朝から魔法陣の中から一歩も動いていないし、空間転移魔法を使った様子もなかった。
なのに、なぜこんなに情報を掴んでいるのだろう。訳も解らずにいるキャロルに、フローレンスは振り向いた。

「んー、ああ、これ? あたしの力と魔法を組み合わせて、いわゆる遠視をしていたのよ」

「異能部隊には遠視能力者はいなかったからな。斥候を出さないで偵察するには、これが一番なんだ」

ダニエルは、くたびれ果てているフローレンスを見下ろした。

「だが、今回は少し距離が遠かったからな。ご苦労だった、フローレンス」

「成功するかどうか怪しかったけど、まぁ、なんとかなってくれたわー。グレイスさんのおかげだわ、こりゃ」

眠たげに目を擦っているフローレンスに、キャロルは首をかしげた。

「どうしてそこで、グレイスさんが出てくるんですか?」

「あの人ね、リチャードさんに思念と一緒に情報ぶち込む時に、呪いを掛けておいてくれたのよ。つっても大したもんじゃなくって、リチャードさん本人にも影響は出ないんだけど、あたしみたいなのにとっちゃ、目印になるもんなのよ。要するに、リチャードさんだけ思念の具合が変わるようにしておいてくれたのよ。当然だけど、大佐どのに感付かれないような仕掛けもしてね。最初はあたしも気付かなかったんだけどさぁ、遠視のついでに、リチャードさんの思念を掴んで探ってたら、グレイスさんの魔力の残留思念が出てきたわけよ。で、何かなーと思って、よくよく視てみたら、呪いだったってわけ。いやー助かったわー、マジで」

フローレンスは伸びをすると、魔法陣の上に横たわった。

「おかげで、リチャードさんが知っている情報が面白いように視られたわ。あの人、中尉だし、大佐どのの近くにいるから、その辺の情報をいい感じに掴んでてくれたのよねー」

フローレンスは、とろんと瞼を下げた。キャロルはぎゅっとエプロンを握り締め、呟いた。

「それじゃあ、リチャードさんは…」

「あー、うん。生きてる生きてるぅ。安心してねキャロルちゃん」

フローレンスは寝転がったまま、手をひらひらと振ってみせた。その手がぱたりと落ちると、彼女は目を閉じた。
すぐに寝入ってしまったのか、フローレンスは寝息を立て始めた。キャロルは、今し方言われた言葉を反芻した。
リチャードが、生きている。エプロンを握り締めていた手を外し、キャロルは目元に滲んできた涙を拭った。
泣くのは、リチャードが帰ってきてからだ。キャロルは嬉しさで表情を緩ませながら、胸の前で手を組む。

「本当に、本当なんですね、ダニエルさん」

「フローレンスが寄越してきた思念の中に、確かに視えていた。私も、リチャード・ヴァトラスの生存を断言しよう」

良かったな、と笑んだダニエルを、キャロルは涙目で見上げ、大きく頷いた。

「はい!」

「だが、彼が帰ってくる前に、この惨状をどうにかしなければならないな」

ダニエルは申し訳なさそうに眉を下げ、目線を床に落とした。キャロルはその先を辿り、あ、と口元を押さえた。
スイセンの家紋が描かれている広間の床は巨大な魔法陣で埋め尽くされ、その周辺には物が散らばっていた。
魔法陣を描くために持ってきた貴重な魔導書が開き放しで放置されており、それが、何冊も積み重ねられている。
黒い塗料で描かれた魔法陣はすっかり乾いていて、とてもじゃないが、少し擦っただけでは取れそうになかった。
魔法陣の内側には、ここ数日の間にフローレンスが食べ散らかした名残があり、汚れた食器が転がっている。
事が終わるまで中に入ってはいけない、と彼女に言われたため、片付けようにも片付けられなかったのだった。
そして足元を見下ろすと、先程落としてしまった食器が砕けていて、床に零れた紅茶をパンが吸い込んでいた。
キャロルは、ダニエルと顔を見合わせた。ダニエルは情けない顔をしていたが、苦笑し、少女に手を差し伸べた。

「この責任は、私達にある。出来る限り、手伝わせてもらおう」

「とりあえず、フローレンスさんを寝室に運びませんとね。お掃除のやり方は、後でみっちり教えますので」

気弱なダニエルが妙に可笑しくて、キャロルは笑った。ダニエルは、口元を引きつらせる。

「ああ、頼むよ。私は戦闘のやり方なら知っているが、そういうことはよく知らないからな」

ダニエルは、食器を片付け始めたキャロルを横目に、魔法が力を失ったのを確かめてから、魔法陣に入った。
遠視の魔法を使っている最中のフローレンスは、その精神感応能力を最大限に高めているので、危険なのだ。
彼女自身の精神が露わになっているから、ということもあるのだが、下手に触れたら彼女に跳ね返されてしまう。
フローレンスは、長年の経験と訓練によって、異能部隊の隊員の中でも特に強靱な精神力を持っている。
そんな彼女が、遠視の最中に放出している精神波は強烈なので、まともに喰らったら精神が乱されてしまう。
そうなってしまっては、気を失うどころでは済まない可能性があるので、フローレンスに近付くに近付けなかった。
ダニエルは、六芒星の中心で眠っているフローレンスを抱き起こした。脱力していて、ぐにゃりと首を曲げた。
数日ぶりに触れた彼女は、魔力だけでなく精神力や体力も消耗しているので、普段よりも体温が低かった。
抱きかかえて立ち上がると、フローレンスの体重がずしりと腕にやってきたが、念動力を使う気にはならなかった。
念動力など使ったら、彼女に触れた実感が失せてしまう。ダニエルは、無防備に眠る彼女を見下ろし、笑った。
先程、戦場の情報と共にダニエルへ流れ込んできた彼女の思念は、ダニエルに近付けないことを寂しがっていた。
魔法陣を隔てているだけの距離なのに無性に切ない、ともあり、ダニエルは彼女が愛おしくてたまらなくなった。
切なかったのは私も同じだ、とダニエルは思念でフローレンスに言い返してから、抱えている腕に力を込めた。
戦いが近付いてくる実感が、嫌でも沸いていた。フローレンスを通じて視た戦場の情景は、かなり凄まじかった。
そして、彼の姿も視えた。あと数日もしないうちに、異能部隊の面々を人でなくした諸悪の根源が、やってくる。
ダニエルはフローレンスの穏やかな寝顔を見下ろしていたが、心中に漲ってきた、彼への戦意を高めていった。
戦いは、近付いている。




共同住宅の三○一号室の居間は、大量の本によって埋め尽くされていた。
書庫と化していたブラッドの部屋から出したものや、フィリオラの寝室、居間の本棚から出した本を広げていた。
並べていくうちに埃が舞い上がってきたので、出窓はおろか玄関の扉も開けていて、冷たい風が通り抜けていた。
古びた本特有のカビ臭さが空気に満ちていて、フィリオラは空咳をした。エプロンを払うと、埃が舞い落ちる。

「お掃除、毎日していたんですけどねぇ…」

「仕方あるまい。人が暮らしておれば、どうやっても埃は立つものだ」

本の置かれていない隙間を縫うように歩いてきたフィフィリアンヌは、珍しいことに、エプロンドレスを着ていた。
深い緑色のエプロンドレスには、やはり埃が付いていて、少女の顔の下半分はマスク代わりに布が巻いてあった。
フィリオラも同様に、白い布で口と鼻を覆っている。だがそれでも、多少なりとも埃を吸い込んでしまっていた。
本が全て出されて空っぽになっている本棚は水拭きしてあり、湿気を帯びた板が、日光を浴びて光っていた。
フィフィリアンヌはフィリオラの隣までやってくると、積み重ねられている本の上に立ち、居間を見回した。

「この程度の量なら、空間転移魔法を一度行えば、全て城に移せるだろう」

「でも、本当にいいんですか、大御婆様。私の本を、大御婆様のお城に移しちゃって」

フィリオラが申し訳なさそうにすると、フィフィリアンヌは吊り上がった目を細め、くぐもった声を出した。

「何、構うことはない。私の城には、部屋が有り余っているのだ。これくらいの量、どうということはない」

それに、とフィフィリアンヌは細い腕を組んだ。

「フィリオラの集めた本の中には、質の良い魔導書も混じっておるからな。戦火で燃やされてしまうのは惜しいのだ」

「来ちゃうんですね、本当に」

フィリオラは、物悲しげに呟いた。フィフィリアンヌは頷き、声を落とした。

「ああ、来る」

フィリオラは、フィフィリアンヌを見下ろした。顔の下半分を覆い隠しているので、いつも以上に表情は窺えない。
旧王都に戦いと共にやってくる諸悪の根源は、フィフィリアンヌの種違いの弟であり、そして、ラミアンの妻なのだ。
キース・ドラグーンを打ち倒すための算段は整い始めているようだが、フィリオラは、あまり気が進まなかった。
無論、キースの所業には怒りを覚えるし、彼に捕らえらて悪行を重ねているジョセフィーヌを解放するべきだと思う。
だが、本当にそれでいいのだろうか。確かに、キースを殺してしまえば、これ以上の悲劇は起きないかもしれない。
しかしそれでは、彼が気の毒だと思った。安っぽい同情だと思うし、非情になるべきだと解っているが、そう感じた。
下手に情を寄せて判断を見誤るくらいなら、すっぱりと切り捨ててしまった方が良策だ。だが、哀れでならない。
だがこんな考えは、独り善がりで自分勝手な綺麗事に過ぎない、とフィリオラは思い直し、頭から考えを払拭した。
フィフィリアンヌは目を伏せているフィリオラを見上げていたが、口元を覆っていた布を緩めて下ろし、言った。

「本の転送が終わったら、一息吐こう。紅茶でも淹れておくれ、フィリオラ」

「それじゃ、とっておきの紅茶を出しますね! とってもおいしいのがあるんですよ!」

フィリオラは表情を戻してフィフィリアンヌに笑むと、跳ねるように本の間を歩いていった。長いスカートが、翻る。
あうっ、と本にけつまずいて転びそうになっているフィリオラに、フィフィリアンヌは無意識に口元を緩めていた。
先祖返りしたからなのかもしれないが、フィリオラの表情や仕草には、カインの面影がちらほらと見えている。
顔立ちもどことなく似ているし、瞳の色などそっくりだった。末裔というよりも、娘か孫のように思えてならない。
短いツノも縦長の瞳孔も尖り気味の耳も、どれも愛おしかった。そんなフィリオラを、ストレイン家は切り捨てた。
自分達の中にも同じ竜族の血が流れているのに、姿形や力が飛び抜けているというだけで、化け物扱いした。
カインの末裔であるのだからもう少し度量が広いかと思ったが、やはり、彼らは近代の世界に生きている人間だ。
中世の遺物のような竜が恐ろしく、疎ましかったのだろう。だが、だからといって、切り捨てることはないだろう。
フィリオラを一族から弾き出したストレイン家は、彼女だけを残し、戦火を逃れるために遠方に去っていった。
大陸を離れて東方へ向かう貿易船に乗っていった、と聞く。実業家だけあって、金に物を言わせた行動だ。
ストレイン家は魔導師協会、というより、フィフィリアンヌからの援助を後ろ盾にして繁栄を果たした一族だ。
しかし、東方へ逃れてしまえば、距離の関係と東方諸国の文化の違いで魔導師協会との関係は保てなくなる。
東方にも魔導師協会に似た組織はあるのだが、魔導師協会とは根本から違い、増して、関係性など皆無なのだ。
ストレイン家は西方では栄えたかもしれないが、東方では栄えるとは限らない。むしろ、失敗する可能性が高い。
フィフィリアンヌは、にやりと目を細めた。半年も経たないうちに、資金援助を求める手紙が届くことだろう。
だが、それに答える義務はない。血族を切り捨てて生き長らえようとした彼らには、同じ報いを与えるべきだ。
当然の報復だ、とフィフィリアンヌは内心で呟いた。フィリオラは、崩れた本の塔を、積み重ね直していた。
そして立ち上がり、フィフィリアンヌの元に戻ろうとしたが、今し方積み重ねた本に足を引っかけてまた崩した。
どさどさっ、と分厚い本が本の上に転がり、埃が舞った。フィリオラはかなり情けなさそうに、眉を下げている。

「どうしましょ…」

「そんなことは、城に転送した後にやれば良い。どうせ、落下の衝撃で崩れてしまうのだから」

フィフィリアンヌはスカートを持ち上げ、積み重なった本の間を歩くと、居間の中心にあるテーブルに昇った。
フィリオラも、同じようにテーブルの上に乗る。フィフィリアンヌの後ろに座ってから、床を見下ろしてみた。
まるで、本が海のようだった。テーブルが船だとすれば、床を埋め尽くしている本の塔は、さしずめ波だった。
フィフィリアンヌは片手を差し出すと、魔力を高めた。フィリオラは身を引くと、大量の本の海面を見下ろした。
背後の竜の少女を中心にして、ふわりと温かな風が舞い上がったかと思うと、一瞬にして本の海は消え失せた。
ほとんど見えてなかった居間の床が見えるようになったので、フィリオラは小さく歓声を上げ、手を叩き合わせる。

「わぁ、さすがですね!」

「距離があれば魔法陣を使うが、この部屋と城とはそれほど距離がないからな。呪文も魔法陣もいらん」

フィフィリアンヌは本のなくなった床に飛び降り、とん、とつま先を付けた。

「さて、お茶にでもしよう」

「部屋が片付いたら、お昼の準備もしなきゃ。レオさんが修練から帰ってくる頃だと思いますし、ブラッドさんも小父様も戻ってくるでしょうから」

フィリオラもテーブルから下りるとスカートを整え、小走りに台所へ駆けていった。

「ああ、そうだな。私も手を貸そう」

フィフィリアンヌは、開け放たれている出窓に目をやった。冷え切った風が滑り込み、頬に吹き付けてきた。
窓際に歩み寄ると、街を見下ろした。旧王都の街並みはすっぽりと白い雪に包まれて、日差しを撥ねていた。
首元から埃除けの布を外すと、エプロンのポケットに突っ込んだ。窓枠に置いてあった、フラスコに目をやる。
ガラスの球体の中では、赤紫の粘液が表面を艶やかに輝かせていた。にゅるり、とスライムは身を捩る。

「フィフィリアンヌよ」

「なんだ」

フィフィリアンヌは風に煽られた前髪を押さえ、伯爵を見下ろした。伯爵は、ごぼ、と気泡を吐き出した。

「…いや、なんでもないのである」

「用がないなら声を掛けるな。鬱陶しい」

フィフィリアンヌの、視線が外された。滑らかな表面をざわざわと波打たせ、伯爵はフラスコの内側で流動した。
彼女の整った顔に視点を合わせていたが、外した。旧王都の上では、どこまでも広大な青い空が広がっている。
とても、気分の良い光景だった。ガラス越しでも感じられる日光の熱に、単細胞の肉体が温められていく。
フラスコの中にいるために、素肌で感じることは出来ないが、フラスコを撫でていった風で震動が起きていた。
以前であれば、そこかしこに流れていた工場の煙はない。飛び抜けて高い時計塔から、鐘の音が聞こえていた。
ほう、と伯爵はため息と共に気泡を溢れさせた。この街が、戦いで失われてしまうのは、惜しくてならなかった。
だが、両軍が旧王都に向かっている今、何をどうしたところで旧王都で戦いが起きることは避けられない。
戦いの歯車は、一度噛み合って動き出してしまえば、止められない。憎しみと怒りの、激情の連鎖なのだから。
最初はどちらも憎い相手でなくとも、銃を向け合って戦い合えば、互いの仲間が傷付き死して憎しみが起きる。
その憎しみは、国家への忠誠の名の下に更に煽り立てられ、人々を狂気じみた戦火の中へと突き落としていく。
旧王都がその連鎖に組み込まれてしまうまで、後少しだ。今の平穏は、嵐の前の静けさ、といったところだろう。
伯爵は感覚を研ぎ澄まさせ、柔らかな体に震動を与えてくる、時計塔の低く重たい鐘の音に聞き入っていた。
束の間の安らぎを、味わっていた。




遠いはずだった戦火は、日常のすぐ傍まで歩み寄っていた。
そして、邪なる心を持った彼も、彼らの日常に踏み込もうとしている。
破壊の合間に訪れる、ほんの一時の平穏が、過ぎ去ってしまえば。

戦いが、始まるのである。






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