ブラッドは、呆けていた。 積み重なった本の上に座り、背を丸めていた。以前にも増して本の散らばる居間の中心に、彼女が座っている。 片付けると言いながら、散らばった本を手当たり次第に広げては読み、それに飽きたらまた同じ事を繰り返す。 その状況が、朝から続いていた。ギルディオスがいれば違っていたのだろうが、彼は朝から出掛けている。 なんでも、剣の修練をしてくるのだそうだ。行き先は決まって、西にあるフィフィリアンヌの城なのだそうだ。 明日まで帰ってこない、とギルディオスは言っていた。その間に、荒れている居間を片付けようと言うことになった。 だが、一向に進んでいない。それどころかフィリオラは、一塊になっていた本を床一面に広げてしまっていた。 おかげで、足の踏み場が一切なくなったので、ブラッドとフィリオラの靴は裏返してテーブルに載せられている。 無心に本に見入っているフィリオラは、無言だった。やかましくはないが高めの声が聞こえず、部屋は静かだ。 フィリオラが喋らないとブラッドも喋ることがないので、自然と黙っていたが、あまり黙っているのも楽ではない。 だが、話題らしい話題が思い付かないので、結局黙っていた。仕方なしにブラッドは、足元から適当な本を取った。 竜族古代魔法の歴史、と金文字で題名が書かれていた。開くと、中には細かい文字がびっしりと詰まっていた。 文体も堅苦しく、内容も今一つ掴めない。魔法と思しき単語はたまに現れるが、意味が解るのはそれぐらいだ。 ブラッドは身を傾げ、本の上に座り込んでいるフィリオラの手元を覗いてみた。その本の題名は、銀文字だった。 彼女の読む本には、精霊魔法史、とある。その著者の名前を良く見てみると、ランス・ヴァトラス、とあった。 ブラッドは、聞いた覚えがあるな、と思った。思い出してみると、それはギルディオスの息子の名前だった。 希代の天才精霊魔導師のランスには、以前から伝記で読んで覚えがあったが、まさか彼の息子だったとは。 意外だなぁと思う反面、絶対に小難しいであろう本を熱心に読み耽るフィリオラの感覚が、解らなくなった。 堅苦しくて難しい言葉ばかりが並ぶ本など、面白いとは思えないのに。ブラッドは、手にしていた本を置いた。 ブラッドは身を乗り出し、先程の本の近くから別の本を掴んだ。その題名は、麗しき恋と青春、と書いてあった。 題名で中身の予想は付いたが、少し読んでみたくなった。ブラッドは、恐る恐る終盤辺りのページを開けた。 思った通り、延々と甘ったるい愛情の描写が続き、うんざりした。ブラッドはその本を閉じ、ぽいっと放った。 どっ、と本の角が床に床にある本の表紙に落ち、倒れた。その音で顔を上げたフィリオラは、ブラッドに振り向く。 「何するんですか、ブラッドさん。本は大事に扱って下さいよ、値が張るんですから」 「フィオの感覚が理解出来ねぇ」 「はい?」 目を丸めたフィリオラに、ブラッドは今し方放り投げた恋愛小説の本を指した。 「なんで、魔法の歴史書の傍に恋愛小説なんて置いてあるのさ。分類したらどうなんだよ」 「私には、どこに何があるか解っているから良いんですよ」 フィリオラは本を閉じ、よいしょ、と腰を上げた。ブラッドは、変な顔をする。 「それ、ただ物臭なだけじゃね?」 「いえいえ。大御婆様が言うにはですね、あんまりきっちり整理するとどこに何があるかが簡単になっちゃって、物を探す時に頭を使わなくなってしまうので、とっ散らかしておいた方が頭が鈍らないんだそうですよ」 「それ、ただの屁理屈じゃん。片付けたくないから言い訳したんだろ」 「え、そうなんですか?」 きょとんとしたフィリオラに、そうだよ、とブラッドは呆れながら返す。 「普通は、どこに何があるか解り易くするのが整理する目的なんだよ」 「私、小さい頃に大御婆様からさっきのことを言われたんですけど、筋が通ってるなーとしか思いませんでした」 「通ってるようで全然通ってないんだけど」 「そう言われてみれば、そうかもしれませんねぇ」 精霊魔法史を胸に抱き、フィリオラは首をかしげた。二つに括られた黒に近い緑髪が、肩から滑り落ちる。 くるんと丸っこい青い目を上向けるフィリオラを見上げ、ブラッドはここ最近思っていたことを言ってみた。 「フィオってさ、頭が良いのか悪いのか、さっぱり解らないんだけど」 「私は、私を馬鹿だと思ってますけど」 「そこで認めちゃうのかよ。普通は否定するもんじゃないの?」 「だって、いちいち否定したら余計に馬鹿らしくなっちゃうから、って小父様が言っていたんです」 「だから肯定するわけ?」 「はい。否定する理由もありませんし、私も自分が抜けてるなーって自覚してますから」 「具体的には?」 「えーと、そうですねぇ。魔導師のお仕事で頂くお代金のお釣りを間違えたり、何もないところで転んだり、魔法陣に書く魔法文字の順番を入れ違えちゃったり、うっかりレオさんの部屋と私の部屋を間違えそうになったり、お料理に入れる香辛料と魔法薬を間違えちゃったり、何度通っても迷っちゃう道があるし…。まぁ、色々とですね」 気恥ずかしげなフィリオラに、ブラッドは呆れ果て、ため息を吐いた。 「…よくそんなんで、魔導師になれたよなぁ」 「私も不思議です。よくもまぁ、こんなに頭の緩い人間が一発で魔導師免許試験に合格したなーと思いますよ」 精霊魔法史をテーブルに載せたフィリオラは、床に屈み込むと、数冊の本を拾ってテーブルに載せていった。 ブラッドに背を向けて腰を曲げた状態になっているので、膝上丈のスカートがずり上がった。少年は、目を逸らす。 フィリオラに色気はまるで感じないが、それでも下穿きを見る気にはならない。見てはいけない気がするからだ。 分厚い本を細い腕に抱えたフィリオラは、ブラッドに尻を向けたまま振り向き、顔を逸らしている少年に言った。 「あの、ブラッドさん」 「なんだよ」 あらぬ方向を睨んだブラッドが乱暴に返すと、フィリオラは背筋を伸ばし、また首をかしげた。 「私、あなたのお引っ越しお祝いしましたっけ?」 「する気なのか、今更。オレがこの部屋に来て、もう二週間は経ってるんだけど」 「だって、しないと悪いじゃないですか。それに、お友達が増えることは嬉しいことですから」 抱えていた本をどさりとテーブルに置いたフィリオラは、あ、と思い出したように隣室側の壁を指す。 「そういえば、レオさんもそうですね。あの人も、ここに越してきてしばらく経ちますけどお祝いしてませんね」 「しなくていいよ、あんな奴。フィオも嫌いなんだろ、あいつ」 ブラッドは、レオナルドの部屋に面した壁を睨む。フィリオラは眉を下げ、少し俯く。 「嫌いですよ。今朝だって、挨拶しようとしたら思い切り無視されちゃいましたし。ですけど、その、私は、出来ることならレオさんと仲良くなりたいんです」 「やっぱ、フィオの感覚って解らない。どうしてそこまで、あの男に好かれたいんだよ」 惚れてんの、とブラッドが呟くと、フィリオラは首を左右に振る。 「違いますよ、そんなんじゃありません。ただ、このままでいたくないってだけなんです。レオさんの家の方々とは仲が良いので、レオさんとだけ仲が悪いってのはやりづらいですし、胃も痛くなってきちゃうんですよね」 フィリオラはブラッドを見下ろし、不思議そうに尋ねた。 「そういうブラッドさんは、どうしてレオさんが嫌いなんですか?」 「サツだから」 頬杖を付いたブラッドは、眉間を歪めた。 「父ちゃんが殺された時、一応国家警察が調べに来たんだけど、そいつらがオレを疑いやがってさぁ。オレが殺してないって何度言っても聞かないし、取り調べって言いながら脅しに掛かって来たんだ。オレが父ちゃんを殺したって言わせたくて、うんざりするほど怒鳴られたし殴られた。いつまで経ってもそんなんばっかりで、犯人なんかちっとも捜そうとしないからオレが犯人を殺してやろうって思って、ここに来たんだ」 「そうだったんですか」 フィリオラの相槌に、ブラッドは苦々しげにした。 「そうなんだよ」 「それじゃあ、尚のことレオさんと一緒にお祝いしなきゃいけませんね!」 起伏の少ない胸の前で両手を合わせたフィリオラに、ブラッドは呆気に取られた。 「…は?」 「そりゃ確かに、国家警察の中にも悪い人はいるでしょうけど、レオさんはそうじゃないかもしれないじゃないですか。それに、どうせならブラッドさんもレオさんと仲良くなって胃の痛みから解放された方がいいと思うんですよ!」 「いや、オレは胃は痛くない。むしろフィオの思考のせいで頭が痛い」 本当に痛くなった気がして、ブラッドは額を押さえた。竜族への偏見で凝り固まったあの男が、善良なものか。 竜族だけではなく他の魔物族に対しても偏見を持っているかもしれないし、その可能性の方が遥かに高い。 それに、レオナルドがフィリオラの歓迎を素直に受け止めるだろうか。恐らく、普通には受け止めないだろう。 敵意を持っている人間というものは、敵意を持った相手も同じように敵意を持っている、と考えているものだ。 だから、事が穏やかに済むはずがない。そんな確信を覚えながら、ブラッドは、深く深くため息を吐いた。 無性に、ギルディオスに帰ってきて欲しくて仕方なかった。 その夜。レオナルドは、苛々していた。 夕暮れに陰る街を歩きながら、捜査に疲れた足を引き摺っていた。感情の波が落ち着かず、力も熱している。 魔力鎮静剤の丸薬を取り出すと、口の中に放った。がりっ、と固く小さな玉を噛み砕き、苦い破片を飲み下す。 コートのポケットに両手を突っ込んで、火の入った街灯に照らされた石畳を睨みながら、黙々と進んでいく。 理不尽で仕方ない。そんな思いが胸と言わず全身を満たしていて、強い苛立ちと怒りを沸き上がらせていた。 今朝出勤すると、廃工場殺人放火事件の捜査本部が解散されていた。それは、数日前に起きた事件だった。 旧王都外れの廃工場が突如燃え、鎮火してから工場内を調べると、ばらばらになった焼死体がごっそり出てきた。 どれもこれも惨殺されていて、中には頭蓋骨の原型が残っていない者もいたほどだ。かなり、猟奇的な事件だ。 それらの死体に残っていた衣服の燃え残りには、軍のものと思しき縫い付けがあり、死体は軍人のようだった。 いよいよ謎が深まってきた、と思った時、いきなり上層部から捜査本部の解散命令が出され、解散してしまった。 明らかに軍部からの圧力だと解るのだが、何をそこまでして隠す必要があるのだろう。後ろめたいのだろうか。 だが、それでは被害者達が哀れでならない。殺された真相を解き明かされずに、闇の中に葬られたのだから。 しかし、軍部が直接関わってしまえば、国家警察はもう手出しが出来ない。権力の差が大きすぎるからだ。 ここ数十年の間で軍事国家と化しつつある共和国は、軍事力増強が最優先であり、民衆は二の次にされている。 警察も同様で、他の行政と同じく、軍部に良いように扱われている。レオナルドは、それも腹立たしくなった。 社会正義を行うために警察官になったのに、これでは軍部の手先どころか、食い物に過ぎないではないか。 叫びたい気持ちを堪えながら石畳を踏み付け、赤いレンガの共同住宅に向かった。あと、二軒先にある。 共同住宅の前に到着し、階段を昇った。玄関の扉の取っ手に手を伸ばして回そうとすると、ぎち、と勝手に回った。 レオナルドが躊躇していると、扉は内側から開かれた。玄関先には、短いツノの生えた少女が立っていた。 「なんだ」 所在のなくなった手を下ろしたレオナルドは、ランプを持って表情を強張らせているフィリオラを見下ろす。 「えと、その…お帰りなさい、レオさん」 しどろもどろに言ったフィリオラに、レオナルドは反対側の扉を引いて開け、中に入った。 「入り口に突っ立っていられると迷惑だ」 「あ、あのぉ」 中央の階段を昇るレオナルドの背に、フィリオラは手を伸ばした。階段の途中で、レオナルドは振り向く。 「なんだ。鬱陶しい」 「レオさん、お夕飯、まだですよね?」 「残業明けだぞ。入れなければ身が持たん」 「あ、でも、まだ入りますよね?」 「少しはな」 何が言いたい、とレオナルドは目元をしかめた。フィリオラは身を縮めていたが、顔を上げる。 「お引っ越しお祝いしましょう!」 「こんな夜中に?」 「だって、レオさんがなかなか帰ってこないから、始めるに始められなかったんですもん!」 緊張で頬を紅潮させながら、フィリオラはつかつかと歩いてきた。階段を昇り、レオナルドの腕を取る。 「さあ行きましょう! ていうか来てくれないと困るんです!」 「気安く触るな!」 フィリオラの手を振り解き、レオナルドは少女の背を睨んだ。フィリオラは少しよろけたが、姿勢を戻した。 階段の数段上からレオナルドを見下ろしたフィリオラは、泣きそうになっていた。青い瞳が、どんどん潤む。 レオナルドは肩を震わせるフィリオラの隣を過ぎようとしたが、止まった。見ると、彼女の手が袖を掴んでいる。 「ほんとに、ちょっとだけでいいですから」 弱々しく涙が混じったフィリオラの声に、レオナルドはさすがに罪悪感を覚えた。泣かせるつもりなどなかった。 ぐい、と袖を引くフィリオラの手を見ていたが、レオナルドは顔を背けた。なるべく感情を込めず、平坦に言う。 「少しだけだぞ」 「ふぁい」 嬉しそうな泣き声で返したフィリオラは、レオナルドの袖から手を放した。小走りに階段を駆け、昇っていった。 小さな背の上で、二つに括られた髪が揺れながら遠ざかる。途中で転びそうになったが、なんとか転ばずに行く。 全く、とレオナルドは内心でぼやきながら、フィリオラに掴まれたコートの右腕を見た。シワが残っている。 そのシワを直してから、階段を昇った。少し付き合ったらすぐに自室に戻って、酒でも喰らって眠ってしまおう。 苛立ちから目を逸らすには、それが一番だからだ。 三○一号室の扉を叩くと、すぐに高い声で返事があった。 レオナルドが一歩身を引くと、扉が開かれた。顔を出したフィリオラは、どうぞどうぞ、と部屋の中を示した。 だが、暗かった。食卓には燭台が置かれていたが、ロウソクに火は灯っておらず、暖炉も冷たいままだった。 食卓には、かなり不機嫌そうな顔をした少年が座っていた。レオナルドを見ようともせず、固く唇を締めている。 レオナルドはそれが少し癪に障ったが、フィリオラに引っ張られたので中に入った。扉を閉めると、更に暗くなる。 フィリオラはレオナルドから手を放すと、テーブルを指した。彼女の指の先には、ロウソクの立った燭台がある。 「さあレオさん、付けちゃって下さい」 「オレはマッチじゃないんだが」 レオナルドは不愉快だったが、目を燭台に向ける。照準を合わせて力を絞り、ロウソクの芯に向けて力を放った。 不意に火が現れ、ロウソクに灯った。燭台に刺さっていた三つのロウソクは、明かりを揺らし、食卓を照らす。 ついでだ、と思い、レオナルドは暖炉に目線をやった。いくつか転がされている薪を見据え、抑えた力を撃った。 どしゅっ、と薪の一つが燃え盛り、轟々と炎が溢れた。フィリオラは感心したように手を叩き、歓声を上げる。 「凄いですー、さすがですねぇレオさん」 「火ぃ出すぐらい、ちょっと魔力があれば誰だって出来るじゃん」 ブラッドは八等分にされたパイの一切れを取ると、かぶりついた。レオナルドは、黒衣の少年に目を向ける。 「勘違いして欲しくはないな、これは魔法じゃない。魔法は魔力を制御して扱うものだが、オレの力は魔力そのものなんでな。押さえ込むのも操るのも、強い精神力が必要なんだ」 「じゃ、あんたは精神力が弱いわけだ。この間、鍵穴溶かしてたし」 残ったパイの半分を口に放り、ブラッドは咀嚼した。レオナルドは、フィリオラを一瞥する。 「この女が鬱陶しかったからだ」 「えと、とりあえず、食べましょう? 一杯作りましたから」 フィリオラはぎこちない笑顔を作り、ぎくしゃくとした動作で、テーブルの上に並んだ様々な料理を指し示した。 レオナルドは目線を下げ、並べられた料理を見下ろした。冷めてはいるが、どの皿も良い匂いを漂わせていた。 収穫祭と見紛うような鳥の丸焼きに、魚の香草焼き、挽肉と野菜のパイに果実酒の染みたケーキなどがある。 「一人で作ったにしては、時間と手間の掛かるものばかりだが」 疑わしげなレオナルドに、フィリオラは苦笑いした。 「まぁ、大分サラさんに手伝って頂いたんですけどね。良い感じに出来ましたから、どうぞ食べて下さい」 フィリオラはブラッドの向かいに座ると、左の椅子を引いて彼を見上げた。レオナルドは仕方なく、そこに座る。 レオナルドは取り皿に魚の香草焼きを取ると、身を崩して口に入れた。味付けも焼き加減も申し分なかった。 身を傾けたフィリオラは、レオナルドを覗き込んだ。何も言わずに食べ続けている彼に、少し満足した。 これで、料理の味が悪かったらすぐに帰っただろう。フィリオラは、料理を教え込んでくれた母とサラに感謝した。 ブラッドも、ただ黙々と食べていた。彼も味に文句を言わないので、別段、出来の悪い料理はないようだった。 鳥の丸焼きを切り分けたフィリオラは、二人の前に置いた。肉汁の染み出る鶏肉を囓り、ブラッドは目を上げた。 ロウソクに照らされたレオナルドは、無表情だった。というより、食べることで会話を消そうとしているようだ。 味わってすらいないようで、機械的に押し込んでいくだけだ。ブラッドはぺろりと唇を舐め、失敗だな、と思った。 フィリオラの算段は、容易に想像が付く。同じ食卓を囲めば親交が深まってくれる、とでも考えていたのだろう。 だが、これでは何も変わらない。レオナルドとの関係も、変わるどころかむしろ悪化してしまう可能性の方が高い。 やっぱりフィオは馬鹿だ。そう思いながらブラッドは、フィリオラの作った魔力安定剤入りのワインを飲んだ。 レオナルドはしばらく食べ続けていたが、大分腹に溜まってきていた。さすがに、強引に詰め込むのも限界がある。 赤ワインのボトルを取るとグラスに注ぎ、呷った。食べる手を止めたレオナルドに、フィリオラは振り向いた。 「おいしかったですか?」 「塩が薄いが、他はこれといって問題は見当たらない」 「私はこれくらいの方が好きなんですけどね。喉が渇かなくて」 レオナルドのぞんざいな答えに、フィリオラは嬉しそうに表情を緩ませた。レオナルドは、それを横目に見る。 「何がそんなに嬉しい。お前はオレが嫌いなんだろうが」 「ええ、嫌いですよ。レオさんのそういうところが」 ですけどね、と言いながら、フィリオラはレオナルドのグラスにワインを注いだ。赤紫が、半分ほど満ちる。 「きっと、レオさんにもいいところはあると思うんです。私が、それを知らないだけなんだと思うんですよ」 「オレはお前に長所があるとは思えないが」 刺々しく言い放ったレオナルドに、フィリオラはちょっと臆したが、ブラッドに向く。 「私にもちょっとはありますよね、ブラッドさん?」 「フィオにも長所が全くないわけじゃないんだろうけど、差し当たって思い付かねぇや」 真顔で返したブラッドに、フィリオラは肩を竦めた。うぅ、と小さく唸る。 「…ひどいです」 「まず、頭が足りない。他人の都合をまるで考えない。自分の価値観を他人に押し付ける。すぐに泣く、喚く、何かと言えばギルディオスさんにすぐ頼る。魔導師としての自覚が足りない」 レオナルドは、淡々と並べ立てた。その言い草が癪に障り、フィリオラはレオナルドに言い返す。 「レオさんは、そうやってすぐに嫌なことを言います。愛想がありません。いつもなんだか怒っています。お隣なのに挨拶しても返してくれません!」 「中途半端な敬語が鬱陶しい」 「お料理の感想を言ってくれません!」 「落ち着きがない」 「すっごく意地悪です!」 「ギルディオスさんを私物化している」 「も、物の言い方がきついです!」 「胸がない。尻も足も肉がない」 「しっ、仕方ないじゃないですか! 個人差ってものがあるんですから!」 「竜であることを隠していない」 「隠したってどうにかなるもんじゃありませんし、それに、ツノは切ってもすぐに生えて来ちゃうんですよ」 「年相応の言動をしない」 「レオさんだって充分大人気ないですよ。一回りくらい年上なのに、意地悪なことばっかり言って」 「それはお前が馬鹿だからだ」 「なんですかそれ」 「馬鹿だから、言いたくなるんだ」 レオナルドは、にやりとした笑みを作った。フィリオラは困惑し、細い眉を下げる。 「そりゃあ…私は、馬鹿ですけど…」 「ああ、うん。そうだ、フィオの長所ってそれぐらいだ」 唐突に会話に割り込んだブラッドは、フォークでフィリオラを指した。 「馬鹿を自覚している」 「それ、長所なんでしょうか?」 不満げな表情のフィリオラに、ブラッドはこっくりと頷いた。 「無自覚でいるよりずっと良いと思う。オレ的には」 「いや、それも長所とは言えないな。自覚をしていても馬鹿が直らないということは、根本から馬鹿なんだ」 救いようがないぞ、とレオナルドは嘲笑する。フィリオラは二人を見比べていたが、ぽつりと呟いた。 「あの、レオさんとブラッドさん、私で遊んでません?」 「やっと気付いたか。やはり馬鹿だ」 「うん、馬鹿だ」 レオナルドの言葉に、ブラッドは同意した。フィリオラは怒りたいらしく頬を張っていたが、泣きそうでもあった。 「あんまり馬鹿馬鹿言わないで下さい…」 ブラッドは、レオナルドを見上げてみた。ロウソクの炎を受けて、薄茶の髪と瞳が赤味掛かった色になっている。 彼の目は、鋭くもあるが穏やかな表情を浮かべていた。フィリオラを言い負かしたのが楽しいのか、満足げだ。 不意に、その目がこちらに向いた。ブラッドが反応に迷っていると、レオナルドは実に楽しげな顔で笑った。 この男のそんな表情を見るのは、これが初めてだった。ブラッドはなんとなく嬉しくなって、にぃっと笑ってみせた。 どちらの笑顔にも、底意地の悪さが滲み出ていた。フィリオラをからかうことで共有した感情なのだから、当然だ。 割に、気が合うのかもしれない。二人は揃ってそう思いながら、しょげたフィリオラを横目に笑い続けていた。 二人の転居を祝う会は、彼女の思惑とは違う結果をもたらしていた。 翌日。フィリオラは、不機嫌だった。 むすっとした彼女は床に散らばっている本をまとめ、分類して整理していた。喋らないので、作業は捗っている。 本の片付けを手伝いながら、ギルディオスは少し不思議だった。べったり甘えてくるフィリオラが、甘えてこない。 それはそれで都合が良いのだが、どうにもしっくり来なかった。急激な変化が起こるほど、彼女は大人ではない。 眉を吊り上げて不愉快そうなフィリオラの表情は、フィフィリアンヌに似ていた。顔立ちが近いのだから、当然だ。 彼女は魔法陣に関する研究書や資料書を積み重ね、自室へ運んでいく。居間に戻ると、甲冑を見上げた。 「小父様ぁ」 「んあ?」 ギルディオスは、一際分厚い魔法薬草辞典を十冊重ねて持ち上げた。フィリオラは、むくれている。 「私、そんなに馬鹿でしょうか」 「何かあったのか?」 「昨日、ブラッドさんとレオさんのお引っ越しお祝いを口実にレオさんを招いたんですけど」 「無茶苦茶言われたんだな」 「はい。これでもかってほど、レオさんになじられちゃいました」 フィリオラは埃除けに付けたエプロンをいじっていたが、つまらなさそうに呟いた。 「ですけど、なんでそこで、レオさんとブラッドさんが仲良しになっちゃうんでしょうか」 「そういやぁ、ラッドもレオも朝からいねぇな。レオは確か、非番のはずだが」 「旧王都の中を案内してくるんだそうです。レオさんがブラッドさんを」 腑に落ちないのか、フィリオラは眉根をしかめていた。白いエプロンは握り締められ、歪んでいる。 「なんか理不尽です。なんかすっきりしません。どうして私は、レオさんと仲良くなれないんでしょうか」 「また、作戦失敗か?」 「みたいです」 悔しげなフィリオラに、ギルディオスは笑ってしまった。なぜここまで必死になるのか解らず、可笑しくなった。 がしゃがしゃと肩を震わせて笑う甲冑にフィリオラは、小父様までぇ、と嘆いたがギルディオスは笑い続けていた。 フィリオラは拗ねてしまい、くるりと背を向けた。すっかり本に埋め尽くされた自室に戻ると、窓を開け放った。 埃っぽい空気に、排気混じりの風が混じった。フィリオラはベッドに座ると窓枠に寄り掛かり、頬杖を付いた。 なぜ、こうも上手く行かないんだろう。どうしてレオナルドは、ああも意地の悪いことばかりを言うのだろうか。 そして、どうすれば、彼はこちらを見てくれるのだろうか。嫌いだけど、嫌いだからこそ、その本心が気になった。 どこからか流れてきた蒸気を含んだ煙が、共同住宅の前を覆う。先の見えない白い霧が、立ち込めていた。 それは、フィリオラの心中にも似ていた。 底の浅い、彼女の策謀。それは、思い掛けない結末を招いた。 謀らずも、吸血鬼の少年と若き刑事の間に、友情が生じることとなった。 だが、彼女は、依然として彼の心を開くことが出来なかった。 まだまだ、先は長いようである。 05 10/25 |