ドラゴンは眠らない




灰色の客人



グレイスは、飽き飽きしていた。


油染みの付いてしまった敷物の上には、大小様々な歯車やバネ、回転軸や円筒の軸などが散らばっていた。
歪んだ銀色の外装が転がされており、魔導金属糸が千切れたままの首やひしゃげた腹部装甲も放られていた。
右手側には七日前から広げっぱなしの設計図があり、左手側には中身が散らかりっぱなしの工具箱があった。
敷物の中央には、中途半端な状態の機械があった。緑の魔導鉱石を核に、魔導金属の部品が組まれている。
神経の役割をする魔導金属糸、魂の意思と体の動きを添わせる歯車、魔導鉱石の魔力を原動力にする仕掛け。
廃工場での戦闘で破損した部品を点検交換し、油を差して組み上げ始めてから、かれこれ七日は過ぎていた。
気合いを入れて、思い切り複雑に作ってしまったせいで、整備も修理も通常の数倍の手間が掛かってしまう。
ここ数日、あまり寝ずに組み上げたが、それでも終わらなかった。いい加減に止めたかったが、そうもいかない。
魔法で直せれば簡単なのだが、魔法が通じないような仕掛けを施してあるため、それは出来ないことだった。
修理しなければ、アルゼンタムは動けない。アルゼンタムが動かないと、旧王都を騒がせて暇を潰せない。
なのでグレイスは、仕方なしに山のような細かい部品を睨み合う日々を続けていたが、正直うんざりしていた。
冷たい床に胡座を掻いて座っているグレイスの前には、吊り上がった目と口で笑っている仮面が置かれていた。
綺麗に磨かれた仮面には、血の染みは残っていない。その仮面を手に取ったグレイスは、眉間をしかめた。

「あーもう忌々しいっ」

「うけけけけけけけけけけっ! ハァーヤク直せ直せよ直してくれヨォ御主人様ぁん」

顔だけのアルゼンタムは、妙に甘ったるい口調になる。胸部装甲の本体の魔導鉱石から、声を出したのだ。
鏡のような仮面には、苛立ちを露わにした丸メガネを掛けた男が映っている。グレイスは、声を落とす。

「だぁーれのせいでこうなったと思ってんだよ、このガラクタが。あんたが負けたのが原因だろうが」

「ダーァッテェー、オイラってば強い奴と戦うの初めてだったシィー、ギルちゃんギルっちギルディオスがあんなに強いなんて知らなかったシィー、御主人様ッツウカてめぇはちっとも手ぇ貸してくれなかったしヨォオオオオオオオ!」

急に叫んだアルゼンタムは、がたがたと胸部装甲を揺らした。グレイスは仮面を床に放り、両手を上向ける。

「だってぇー、オレってば肉弾戦超苦手だしぃー、魔法が制限されてたせいで呪いも使えなかったんだしぃー?」

「語尾上げるなヨォオオオオオオオ! 超ウゼェ超ウザ過ぎ超ウザッテェエエエエエエエエ!」

喚きながら、ごっとん、とアルゼンタムの胸部装甲が跳ねた。グレイスは、丸メガネの奧で目を丸くする。

「わぁー超元気ぃー」

「超絶ウッゼェエエエエエエエエ!」

再びアルゼンタムが跳ねようとした瞬間、銃声が轟いた。破裂音と共に胸部装甲の手前の床が、砕け散る。
ひび割れの中心には、鉛玉が埋まっていた。グレイスは振り向き、硝煙のつんとした煙が漂ってくる先を辿る。
大きなベッドの上で、寝乱れた寝間着を直しながら、女性が不機嫌そうにしていた。長い黒髪を、掻き上げる。
女性は、じゃきり、と弾倉を回して熱を持った銃を構え直した。彼女の目に射竦められ、グレイスは肩を竦める。

「そう怒るなよぉ、ロザリア」

「どうしてそのガラクタを寝室で修理するのよ、この馬鹿亭主が」

女性、ロザリアは唇を歪めた。この部屋は、豪奢な調度品がいくつも並べられた、夫婦の寝室なのである。
その一角を占める天蓋付きベッドから下りたロザリアは、部屋履きを引っかけ、窓際に座る彼へと歩み寄った。
灰色の城の前庭を見渡せる、見晴らしの良い背の高い窓の前を、アルゼンタムの部品と装甲が占領している。
朝日できらきらと輝く、部品の前に座るグレイスに、ロザリアは銃口を向けた。かち、と軽く引き金を絞る。

「いくらあなたの仕事だからって言っても、その馬鹿笑いだけは我慢出来ないわ。魔導鉱石、撃ち抜かせて」

「そりゃダメだ。そんなことしたらアルっちの魂がなくなっちまう」

と、グレイスはへらへらと笑った。銃口を下げたロザリアは額を押さえ、ため息を吐く。

「だけど、選りに選ってなんで寝室なのよ。いくらでも他に部屋はあるでしょう?」

「アルっちに見せ付けてやろうと思って」

「何をよ?」

ロザリアが訝しむと、グレイスはやたらと真面目な顔をした。

「オレとお前の夜の営み」

「別に、そんなに大したものじゃないと思うけど」

平然と、ロザリアは言い返した。グレイスは眉を下げ、不満げにする。

「そこで照れてくれなきゃ面白くないだろうが。ロザリアって乾いてるよなぁー、そういうところが」

「十代の小娘じゃあるまいし、そんなことでいちいち感情的になってたら疲れるだけよ」

馬鹿じゃないの、とロザリアは切れ長の目を逸らした。そうかねぇ、とグレイスは朝日を浴びた妻を見上げた。
グレイスのそれよりも僅かに色が明るい、艶のある長い黒髪、滑らかで張りのある肌、意志の強い焦げ茶の瞳。
きつめだが、顔立ちは整っている。彼女のどこにも、かつて愛した白化の少女の名残は見て取れなかった。
ロザリアは、グレイスが遠い昔に初めて愛した白化の少女、ロザンナの魂が転生した女性なのである。
二年前までは国家警察の刑事であったが、事件を起こすグレイスを追いながら、グレイスに惹かれていった。
そしてグレイスも、ロザンナの転生後である彼女をあしらいながらも、追い続けてくる彼女を欲しくなっていった。
月並みな愛とは言い難い感情を互いに抱いていた二人は、互いの感情を満たすために互いを求め、愛とした。
そして二人は添い、一歳になる娘ヴィクトリアと、グレイスの傀儡であるレベッカと共に灰色の城で暮らしている。
その、あまり普通ではない家族の闖入者が、アルゼンタムだった。唐突に、グレイスが造り上げたのである。
気の触れた高笑いをする機械仕掛けの魔導兵器は、夜な夜な外出したかと思うと、大抵は血に濡れて帰ってくる。
アルゼンタムが旧王都の連続猟奇殺人犯であることは、物的証拠から見て、十中八九、間違いなさそうだった。
ロザリアは六弾倉式の拳銃を持ったまま、グレイスに近付いた。夫の背に覆い被さると、首に腕を巻き付ける。

「ねぇグレイス。なんでこいつは、機械式なのに銃器を持っていないの?」

「指先の刃物と瞬発力に、機械仕掛けで強化した腕力。それだけあれば、人間なんざさくさく殺せるから、それだけで充分なんだよ。無駄に仕掛けを増やしても、アルっちみたいな戦い方をする奴には邪魔なだけだからな」

「そうかしら。ただ切って散らしてぶちまけるだけじゃ、あんまり面白みがないわ」

グレイスに頬を寄せたロザリアは、愉悦の笑みを浮かべる。

「斬撃よりも銃撃の方が、余程美しいと思わない?」

「ソォカァアアアア? ズッバズバズバ切っちまった方がタァノシクってキィモチイイゼェエエエエエ?」

「じゃあ、試してみる? 弾丸に貫かれる衝撃の快感と硝煙の心地良さを」

グレイスの肩から右腕を下ろしたロザリアは、銃口をアルゼンタムの胸装甲に埋まる魔導鉱石に突き付けた。
ごつっ、と銃口が緑の魔導鉱石に押し当てられる。先程発射したときの熱が、まだほのかに残っている。
引き金が僅かに軋む金属音が、寝室に響いた。アルゼンタムはさすがに恐ろしくなり、甲高い声を低める。

「アーウーアー…」

「撃つんじゃないぞ」

グレイスの手が、ロザリアの頬を撫でた。ロザリアは魔導鉱石から銃口を外し、ふっと笑ってみせる。

「まぁ、どうせ撃つなら動く標的の方が楽しいわ。身動きの取れない相手をいたぶっても、楽しくないもの」

「イィーカレテんなぁーオーイ」

「あなたにだけは言われたくないわね」

心外そうに、ロザリアは眉根を歪めた。すると、寝室の扉が数回叩かれ、グレイスは振り返って返事をした。

「なんだー、レベッカちゃん」

大きな両開きの扉が開かれ、隙間からメイド姿の幼女が顔を覗かせた。その髪型は、一見しただけで奇抜だった。
鮮やかな色合いの濃い桃色の髪が、頭の両脇でバネのように巻かれている。幼女が首をかしげると、揺れる。
メイド姿の幼女、レベッカは青紫の瞳が特徴的な大きな目を動かし、窓際にいる主とその妻へ愛らしく微笑んだ。

「御主人様ー。ヴィクトリアちゃんがお目覚めですー」

「ああ、もうそんな時間か」

グレイスは、調度品の上にある古びた時計を見上げた。文字盤には、魔導鉱石が埋め込まれている。

「んで、本日のご所望は?」

「十九体目のぬいぐるみさんが、木っ端微塵に吹っ飛びましたー」

「んじゃ、新手を手に入れてくるかぁ」

ロザリアの腕から脱したグレイスが立ち上がると、レベッカは少しつまらなさそうにする。

「お使いくらいー、私が行きますよー」

「いいの。オレも外に出たかったし、アルっちとずーっと会話してるとこっちまでイカれちまいそうになるし」

引き籠もるのは嫌いなの、とグレイスは背筋を伸ばした。妻の黒髪を指で梳き、笑む。

「お前の分も、何か買ってきてやるよ」

「いいわよ、別に」

「んじゃ、いつもの弾丸十箱でいいんだな?」

「そうね。大分撃ち尽くしてきたから、そろそろ入り用ね」

少し嬉しそうに、ロザリアは口元を綻ばせた。グレイスは身を屈め、ロザリアに口付けてから姿勢を戻した。
衣装掛けに引っ掛けてあった灰色のコートを取ると、それを肩に担ぎ、鏡台の前に転がしてあった拳銃を取る。
ベルトの間に拳銃を差し込むと、扉に向かっていく。レベッカはグレイスが近付くと同時に、扉を開き切る。

「それでー、御主人様ー、今日はどこへ行かれるんですかー?」

「フィリオラの部屋にでも行ってみるさ。隣にヴァトラスの末裔が越してきたみてぇだしな」

にいっと笑ったグレイスは、足取りも軽く廊下を歩いていった。行ってらっしゃいませー、とレベッカは頭を下げる。
主の姿が見えなくなってから、レベッカは寝室に残されたロザリアとばらばらになっているアルゼンタムに向いた。
ロザリアは立ち上がると、長い髪を掻き上げた。敷物に投げられている銀色の仮面を一瞥し、嘲笑った。

「アルゼンタム。あなた、愛されていないわねぇ」

「でーすねー」

レベッカは、にこにこと笑っている。アルゼンタムから興味が失せたのか、ロザリアはくるりと背を向けた。
ナァー、オーイィー、などとアルゼンタムが話し掛けるが、ロザリアは無表情に衣装戸棚を開け、服を取り出した。
躊躇なく寝間着を脱ぎ、均整の取れたしなやかな肢体を露わにした。簡素ながらも上質な服を、着込んでいく。
アルゼンタムはしきりに声を出すが、ロザリアは一向に反応せず、レベッカも小走りに廊下を駆けていった。
オイラって超孤独ゥー、と呟いてみたが、やはりロザリアは目線もくれない。アルゼンタムは、無性に寂しくなった。
ただひたすらに文句を言い合うだけであっても、話に付き合って構ってくれる分だけ、グレイスの方が余程マシだ。
アルゼンタムも外に出たくなったが、体が分解されていては無理だった。




共同住宅の三階の廊下で、フィリオラは固まっていた。
中に詰めた野菜を潰しそうなほどに、買い物袋を強く抱き締めながら、階段に背を向けて緊張を隠していた。
規則正しく、階段を昇ってくる足音がする。その気配と魔力の雰囲気だけで、それが誰なのか解っていた。
どくどくと脈打っている鼓動を堪えるために唇を噛んでいると、その足音が、フィリオラの背後で立ち止まった。

「おい」

響きのある、少し低めの声。フィリオラがびくっと肩を震わせると、レオナルドは変な顔をした。

「なんでオレの部屋の前で突っ立っているんだ」

「ああ、いえ、別にっ、なんでもありません」

フィリオラは飛び退き、片手をぶんぶんと振った。その拍子に買い物袋からリンゴが転げ、床に落ちた。

「あ、あのう」

「なんだ」

鍵を出したレオナルドは、三○二号室の鍵穴に差し込んだ。フィリオラはリンゴを拾うと、上目に彼を見上げる。

「何か、聞いて、いたりしませんよね…?」

「抽象的過ぎて意味が掴めないが」

振り向きもせず、レオナルドは淡々と返した。フィリオラはリンゴを袖で磨いて袋に戻すと、深く息を吐いた。
どうやら、レオナルドは先日の失態を知っていないようだ。それが聞きたいがために、彼の帰りを待っていた。
それが嬉しく、沈んでいた気分が久々に弾んだ。フィリオラはポケットから鍵を出すと、自室の鍵穴に差し込んだ。
じゃきり、と錠が壁の中で外れる音がする。取っ手を回して引くと、玄関に直結した居間が視界に入ってきた。
そこに、有り得ない存在がいた。食卓に灰色のコートを着た男が座っていて、片手を挙げて楽しげに笑った。

「いよう、お帰りフィリオラ! この間の大失態、見事なもんだったぜー?」

再び、フィリオラは硬直した。大きな目を出来る限り見開いて、腕に抱えていた買い物袋を落としてしまった。
どさどさっ、といくつかの野菜や果物が袋の口からこぼれた。何事かと、レオナルドは彼女の部屋に顔を向けた。
途端に、レオナルドは身構えた。我が物顔でフィリオラの部屋で寛いでいる丸メガネを掛けた男を、睨み付ける。

「…お前は」

「そういきり立つなよ、レオちゃん」

男は肩に載せていた三つ編みを背に放り、ぱちん、と指を弾いた。突然、レオナルドの背が何かに押された。
姿勢を整えようとしたが足も何かに引っ掛けられたようになり、前につんのめり、フィリオラの背を押した。
わひゃっ、と変な悲鳴を上げたフィリオラは、背中にぶつかってきたレオナルドと共に、居間の床に倒れ込んだ。
もう一度、指を弾く乾いた破裂音が響いた、すると、独りでに玄関の扉が閉まり、かしゃりと鍵も掛けられた。
灰色の男はにんまりと面白そうに笑い、倒れたレオナルドとその下敷きになっているフィリオラを見下ろした。

「いつまで押し倒してんだよ」

「お前がやったことだろうが!」

フィリオラの上から起き上がったレオナルドは、声を荒げた。彼の下で潰れていたフィリオラも、起き上がる。
痛みと驚きで滲んだ涙を拭うと、いつにも増して険悪な表情のレオナルドと、灰色の男を交互に見上げた。
にやにやしながら、長い足を組んで座っている灰色のコートを着込んだ男。それは、間違いなくあの男だった。
フィリオラはこの時点で泣きたくなっていたが、辛うじて我慢し、形の歪んだ野菜や果物を買い物袋に入れる。

「あのぉ、グレイスさん。なんで、私の部屋に入っているんですか? 鍵、閉まってたはずなんですけど」

「んー、ああ。開けた。空間転移魔法で入っても良かったんだけど、こっちの方が早いから」

灰色の男、グレイスは、手の中から先の曲がった針金を出した。レオナルドは、グレイスを指差して叫ぶ。

「グレイス・ルー! 不法侵入の現行犯で逮捕する!」

「ご冗談を。平の刑事に捕まるほど、弱ってねぇよ。オレはただ、遊びに来ただけだっつーの」

椅子から立ち上がったグレイスは、フィリオラの前を通り過ぎた。レオナルドの前を塞ぐように立ち、近寄る。
少し憶したレオナルドが一歩下がると、グレイスは更に間を詰めてきた。そのまま、壁まで追い詰められてしまう。
レオナルドはすぐ目の前のグレイスを睨んでいると、グレイスはレオナルドの顎を掴み、くいっと持ち上げた。
そして、おもむろに唇と唇を重ね合わせた。レオナルドがぎょっとして下がろうとしたが、身動きが取れない。
グレイスの体で腕を押さえられた上に、慣れない感触で動揺してしまった。目を見開き、固まってしまう。
ひゃう、と小さく声を上げたフィリオラは顔を両手で覆った。なぜか解らないが、見てはいけない気がした。
水音を立てながらレオナルドの唇を離したグレイスは、唇を舐めた。レオナルドは、ずるりと座り込んでしまう。

「いやーなかなか。悪くないねぇ、あんたみたいな男も」

口元を押さえたレオナルドは、必死に気色悪さを堪えていた。他人の舌が割って入ってくる感触が残っている。
ぬめりのある温かなものが歯をなぞり、無理矢理に舌を絡められ、最後には唇を舐められて吸われてしまった。
グレイスは、背を丸めて青ざめているレオナルドを見下ろしていたが、顔を両手で覆っているフィリオラに向く。

「ま、そんなわけだから」

フィリオラは両手をそっと顔から外し、いつのまにか紅潮した頬に触れた。先程とは違い、動揺が起きている。
他人が深く口付け合う様など、初めて見た。しかもそれが、男同士。胸が痛むような、不思議な動揺だった。
今までに感じたことのない感覚にどきどきしながら、フィリオラは俯いた。状況を把握しようとしても、出来ない。
それほどまでに、二人が口付ける絵は強烈だった。


食卓に座ったレオナルドは、顔を歪めていた。
気分の悪さも残っているし、吐き戻してしまった胃液の味が舌に残っている。中身がなくて、本当に良かった。
夜勤明けで何も食べていなかったことが幸いした。これで食べてでもいたら、その場で戻していただろう。
台所から出てきたエプロン姿のフィリオラは、湯気の立つマグカップを持っていた。それを、青年に差し出す。

「牛乳、温めましたので、どうぞ。少しは落ち着くと思います」

「何も混ぜてないだろうな」

マグカップを受け取ったレオナルドは、弱っていながらも毒づいてきた。フィリオラはむくれる。

「なんにも混ぜてませんよ。お砂糖もハチミツも魔法薬も毒薬も、なーんにも混ぜていないただの牛乳です!」

「混ぜる気だったのか?」

頬杖を付いたグレイスが彼女を上目に見ると、フィリオラは肩を縮めて俯いた。

「レオさんにはしませんよ。…グレイスさんには、するかもしれませんけど」

「いっそ含ませろ。むしろ、喉に押し込んで窒息させた上で心臓を抉ると確実にやれるぞ」

温かな牛乳を啜ってから、レオナルドは目を据わらせた。フィリオラはレオナルドを見、変な顔をする。

「刑事さんの言う言葉じゃないですよ、それ」

「だーけどフィリオラ、お前、あんな大事を起こしたのによく魔導師免許を剥奪されなかったよなぁ」

グレイスが楽しげに言うと、フィリオラはびくっと肩を跳ねた。

「…なんで、知っているんですかぁ」

「知るも何も。フィフィリアンヌの裏工作に一枚噛んじゃったんだよね、オレ」

身を乗り出したグレイスは、フィリオラを見据えた。

「役所の報告書の偽造書が足りないからってフィフィリアンヌに言われてさ、何枚か売ったんだよね。だから」

「お前、何をしたんだ?」

怪訝そうに、レオナルドがフィリオラに振り向く。フィリオラは数歩後退すると、頭を抱えて座り込む。

「ああああごめんなさいごめんなさいごめんなさい、そんなつもりじゃ全く全然絶対になかったんですぅー!」

「まぁ、原因のほとんどはフィフィリアンヌなんだけどな。あの女とブラッドとかいうガキンチョ吸血鬼が、フィリオラの仕事にちょっかい出したせいで、大増殖したスライムが大暴れして土壌汚染しちまった上に、ブラッドが勝手に魔法を使って魔導師法規違反しやがった責任の全部がフィリオラに来ちまって、今、こいつは魔導師協会から謹慎処分を受けてる真っ最中なのさ」

三ヶ月の魔導商用禁止だとよ、とグレイスはフィリオラを指した。頭を抱えて丸まった少女は、震えている。
レオナルドは牛乳を半分ほど飲み下してから、フィリオラを見下ろした。きつく目を閉じて、今にも泣きそうだ。
話だけ聞けば、彼女は完全な被害者だ。非があるのは他の者達なのに、咎められているのはフィリオラだけだ。
レオナルドは、理不尽極まりないと感じた。だがフィリオラは、まるで自分が悪いかのように怯えている。
フィリオラは泣き声を堪えているらしく、切なげな声が洩れていた。レオナルドは、彼女に呆れてしまった。

「お前、とことん馬鹿だな」

「あう」

フィリオラが耳を塞いでしまったので、レオナルドは小さくため息を吐く。

「そこまでいいようにされて、なぜ怒らない」

「で、ですけど、相手が大御婆様ですし…」

「相手が誰であろうと、怒るべき時は怒れ。それとも何か、お前は怒りはしないのか?」

すると、フィリオラは幼さの残る青い目を丸くした。その表情に、レオナルドは不思議そうにする。

「なんだ」

「あ、いえ、その…。レオさんが、私のこと、責めたり毒づいたりなじったりしないのは珍しいなぁ、って…」

「して欲しいのか? して欲しければするが」

「そういう意味じゃないですよ!」

だからレオさんて嫌い、とフィリオラはそっぽを向いた。少しは彼も優しいかと思ったが、やはり優しくはない。
意地悪で、辛辣で、言うことに必ず棘がある。好きになりたくても、これでは好きになりようがないではないか。
不愉快げに膨れているフィリオラの横顔と、何か物足りなさそうなレオナルドを見比べたグレイスは、青年に囁く。

「ひょっとしてさぁ、レオちゃんて好きな子には意地悪しちゃう人だったりする?」

「こんな幼児体形で頭の緩い馬鹿な女を、誰が好きなものか」

間髪入れず、レオナルドはグレイスに言い返した。フィリオラはグレイスに振り返り、レオナルドを指す。

「そっ、そうですよ、こんなに性格が悪くて根性曲がってて刺々しい人なんて、大嫌いなんですから!」

「えー。オレから見たら、微笑ましーい関係にしか見えないけどなぁ」

「どこが!」

同時に、フィリオラとレオナルドはグレイスに叫んだ。グレイスは二人を指し、にんまりする。

「そういうところが」

二人は、顔を見合わせた。改めて、互いをまじまじと見つめてみるが、絶対に恋愛対象にはならないと思った。
そもそも、どちらも外見も性格も恋愛対象に掠りもしていない。好きになるはずがない、と二人とも感じていた。
目線を合わせていると、次第に嫌悪感が起きてきた。レオナルドは侮蔑を込めて目を逸らし、乱暴に椅子に座る。
フィリオラも勢い良く顔を逸らし、背を向けた。グレイスの隣から椅子を引っ張り出すと、離れた位置に座った。
二度と目線を合わすまい、という雰囲気の二人に、グレイスはにやけていた。なかなか、見ていて楽しいのだ。
そのまま、揃って押し黙ってしまった。テーブルで湯気を昇らせていたマグカップも、いつしか冷めてしまった。
外からは、遠くの工場から聞こえる規則的な低音が流れていた。蒸気自動車の重々しい走行音も、建物に響く。
グレイスはコートのポケットを探って紙巻き煙草を一本出すと、唇に挟んだ。レオナルドに、目を向ける。

「付けてくれたら嬉しいんだが」

「自分でやれ」

レオナルドの突き放した答えに、グレイスは残念そうに息を吐いた。片手を紙巻き煙草の前に出し、火を灯す。
独特の刺激を持つ煙を深く吸ってから、ゆっくりと吐き出した。その白煙を吸い、フィリオラは少しむせた。
グレイスは食卓に重ねて置かれていた皿を一つ取ると、それに灰を落とした。不意に、笑みに邪心が混じる。

「ま、苛々して当然だよな。当局は、旧王都で頻発する連続殺人犯の手掛かりすら掴めてねぇんだから」

レオナルドが表情を歪めると、グレイスは満足げに目を細めた。

「最初の事件は、七十三日前の早朝。胸部を鋭利なもので切開された上に心臓と肺臓を奪われ、小腸を引き摺り出された若い女の死体が、旧王都内北区四番街の商店街で発見された。二番目の事件は、六十一日前の白昼。旧王都内中央区の金融街を巡回中の警察官が路地裏に引き込まれ、ほんの一時の間に、喉笛と心臓を貫かれて失血死した。死体からは血液の七割が吸い取られたかのように奪われていて、制服を着ていなければ誰だか解らないほどだった。三番目の事件は、五十六日前の深夜。旧王都内南区の住宅街。夜中に眠れないと言って起きた子供が外に出た途端、何者かが子供の首を掻き切って落とした。母親の目の前だ。茫然自失の母親の前で子供の腹は割かれ、心臓と胃袋と肋骨を数本奪われた。四番目の事件は、五十四日前の夕方。仕事を終えた魔導師が家路に急いでいた途中で何者かにぶつかり、そのまま、骨盤を鋭利で大きなものに貫かれた。千切れた下半身は放り捨てられ、上半身は切った腹部を下から抉ったかのようにごっそりと中身がなくなっていた」

グレイスは、紙巻き煙草を噛み締めながら、にたりとした。

「この後も、四十二日前の五番目の事件、三十五日前の六番目の事件、二十九日前の七番目の事件、十二日前の八番目の事件、七日前の九番目の事件、と続くわけなんだが、国家警察はそれを一つだって解決してはいねぇ。不甲斐ねぇけど、まぁ仕方ねぇよな。目撃証言は皆無だし、物証らしい物証は残っていねぇし、犯人の足跡すら現場にないんだからな。当局も馬鹿なもんだぜ、相手が人間だと思い込んでやがるんだから」

「竜か魔物か、とでも言いたいのか?」

レオナルドが苛立ちを混ぜた口調で言うと、いやいや、とグレイスは首を横に振る。

「そのどっちでもねぇよ。この事件の犯人はな、そもそも生き物とは違うんだ。オレの造った機械人形が、ぜぇーんぶやったんだからな」

「それって、レベッカちゃんのことですか?」

恐る恐るフィリオラが尋ねると、違う違う、とグレイスは手を横に振ってみせる。

「レベッカは人なんざ喰わねぇよ。あいつは石だから、ナマモノは喰えないんだよ」

「じゃあ、なんなんだ」

レオナルドは焦燥を強く滲ませ、吐き捨てた。グレイスは深く息を吸い、紙巻き煙草の火を強めさせた。
わざと悠長に煙を吐き出してから、紙巻き煙草を指に挟み、唇から離した。それを、レオナルドに向ける。

「このオレ様が魔導と機械工学の粋を集めて造った、最高の機械人形さ。名前はアルゼンタム、防弾防刃防魔法効果を備えた魔導金属糸製のマントを羽織り、同じく魔導金属製の機械仕掛けの体を持つ、超イケてて超イカれてやがるイカレポンチだよ。まぁ、今は壊れちまってるから連れてくることが出来ないが、お前らはそのうち会うことになるだろうな。現場にせよ、何にせよ、一度ぐらいは顔を合わせることになるだろうぜ。オレの最高傑作に」

真意が、全く掴めなかった。なぜ、犯人と思しき存在の情報を渡すのか、レオナルドには意図が解らなかった。
グレイスの丸メガネは日光を反射していて、白く光っている。目の表情が見えず、口だけが不気味に笑っている。
だが、グレイスの言葉が真実ならば、納得出来る部分がいくつもある。被害者の死体にも、共通点が生まれる。
レオナルドは、何度もそれを鑑識や上司に証言していたが、誰も本気で取り合ってくれなかったことだった。
しかし、グレイスの話を根拠にすることは出来ない。今し方の会話を報告しても、逆に疑われてしまうだけだ。
邪悪の化身の呪術師と癒着しているのではないか、知り過ぎているお前が事件の真犯人なのではないのか、と。
そうなるのが容易に想像が付き、レオナルドは歯噛みした。苛立ちが力を湧き起こしたので、拳を握って堪える。
彼の周囲の空気が、熱を持った。フィリオラはそれに気付くと、心配になり、体を傾けてレオナルドを覗き込む。

「大丈夫ですか?」

それに答えることもなく、レオナルドは暖炉へと視線をずらした。燃えさしの数本の薪を、じっと睨み付ける。
直後、爆発にも似た炎が一瞬にして薪を焦がした。その勢いで薪が跳ね、がらがらっ、と暖炉の中で転げた。
レオナルドは拳を緩めると、眉間を押さえた。暴れ出しそうな力を押し込めていると、魔力が高ぶって頭痛がする。
フィリオラはレオナルドの苦しげな表情が気になっていたが、やたらと楽しげな顔のグレイスに目を向けた。
グレイスは半分ほど吸った紙巻き煙草を、ざりっ、と皿に押し付けて火を消した。立ち上がり、コートの裾を直す。

「んじゃ、オレ、用事あるから。また来るぜ」

「もう来ないで下さい」

フィリオラは強く言おうと思ったが、弱々しい口調にしかならなかった。グレイスは、コートの襟元を整える。

「ああそう? でも来るぜー、来るなって言われたら余計に来たくなっちゃうタチなんでね」

レオナルドの隣を通り過ぎたグレイスは、廊下に繋がる扉を開けた。横顔だけ見せると、屈託なく笑む。

「じゃ、またな」

そのまま、グレイスは廊下に出た。扉が閉じられてその姿が見えなくなると、フィリオラは肩を落とした。
グレイス・ルー。レオナルドとはまた違った意味で、苦手な男だった。性格も存在も何もかも、苦手だった。
大それたことをやるわりに飄々としていて掴み所がなく、いつもへらへらと笑っていながら、邪心に満ちている。
全く持って、理解出来ない。フィリオラはやけに気疲れしてしまい、泣いた後のようにくたびれてしまった。
レオナルドを横目に窺うと、まだ眉間を押さえている。彼の周囲からはまだ熱が感じられ、同時に魔力もある。
きっと、魔力が飽和しているに違いない。発散させてやれば楽になるのだが、この場には、燃やせるものはない。
どうするべきかとフィリオラが考えていると、レオナルドは顔を上げた。フィリオラを引き寄せ、顎を持ち上げる。

「口を開け」

思い掛けないことにフィリオラが戸惑っていると、レオナルドは彼女の薄い唇を開かせ、唇を押し付けてきた。
動揺と混乱で渇いた口の中に舌がねじ込まれ、早まる鼓動で胸が痛くなる。熱が、舌と唇から流れ込んでくる。
それは、彼の魔力だった。体を巡る血の温度すら上げるような、じりじりと体内を焦がす、炎にも似た力だった。
強引に押し込まれた舌の違和感と魔力の強さに、フィリオラは身を下げようとしたが、顎を掴まれて動けない。
熱さと苦しさで、涙が出てきた。息の詰まった喉でしゃくり上げ始めると、ようやくレオナルドは顔を放した。
フィリオラは背を丸め、唇を押さえた。声を殺し、だくだくと溢れる涙を何度も拭うが、納まってはくれなかった。
やっぱり、この人は嫌いだ。フィリオラは膝に落ちる自分の涙を見つめながら、喉の奥に嗚咽を押し止めていた。
レオナルドは、静かに立ち上がった。フィリオラが俯いたままでいると、彼は彼女に背を向け、扉を開けた。

「怒りたければ、怒ればいい」

「…きらいです、だいきらいです、レオさんなんて、ほんとうに、きらい」

声を震わせ、フィリオラは泣き出した。レオナルドは彼女の弱った声を背に受けていたが、廊下に歩み出た。
後ろ手に扉を閉めると、ぐしゃりと前髪を握り締めた。体に満ちていた魔力は彼女に注いだので、抜けている。
だが、他のものが胸中に満ち始めていた。なぜ、あんなことをしてしまったのか。己のことなのに、解らない。
魔力を発散させる手立ては他にも色々とあったはずなのに、どうして、彼女に注ぐことを選択してしまったのか。
後悔ばかりが過ぎり、レオナルドは項垂れた。唇にはフィリオラの感触が、舌にはフィリオラの味が、残っている。
それは、しばらく消えることはなかった。




日も暮れかけた頃、グレイスは街を歩いていた。
ヴィクトリアのための新しいぬいぐるみを抱えながら、ロザリアのための新品の弾丸十箱を手に提げていた。
仕事を終えて家路に急ぐ人々や、労働者達で賑わい始めた酒場を横目に見ながら、のんびりと歩いていた。
雑踏に紛れていても、誰も何も言わない。昨今の人間は魔力どころ感覚も鈍いので、気付かれにくいのだ。
昔であれば、勘の良い魔導師や賞金稼ぎが気付いてくれたのだが、ここ百年はそんなことはなくなっている。
楽ではあったが、寂しくもあった。多少の物足りなさを感じながら、グレイスは足取りを速めようとして、止めた。
雑踏の間に、彼がいた。グレイスが手を挙げると、彼はこちらに気付いて振り向き、親しげに笑ってみせた。
グレイスが駆け寄ると、彼はその手に抱えられたぬいぐるみを指した。グレイスは、ぬいぐるみを見下ろす。

「これな、娘にやるんだよ。じゃかすかぬいぐるみを吹っ飛ばすんだよなー、ヴィクトリアは」

彼は少し可笑しげに、唇の端を上向けた。グレイスはぬいぐるみを持っている方の手で、頬を掻く。

「んでさぁ、アルっちの修理、あんまり捗ってねぇんだよな。悪ぃ」

構わない、とでも言うように彼は首を横に振った。グレイスは申し訳なさそうに苦笑する。

「かなーり手ぇ掛けて造っちまったから、もう面倒で面倒でよー。だが、近いうちには終わると思うから」

彼は頷くと、グレイスに背を向けた。じゃーな、とグレイスは軽く手を振ってから、隣を通り過ぎていった。
その後ろ姿を見送ってから、彼は歩き出した。近頃、アルゼンタムの姿を見ないと思ったら、案の定壊れていた。
仕方がない。壊れてしまったのであれば、直さなければどうしようもない。機械仕掛けは、その辺りが面倒だ。
アルゼンタムが動いていなければ、しばらくは暇になってしまう。彼は軽くため息を吐き、歩調を早めた。
だが、少しばかりの辛抱だ。楽しいことは、あまり早く進んでしまわないほうが、却って楽しくなってくるものだ。
彼は鼻先に載せたメガネを直し、ひっそりと笑った。




思い掛けない来客は、灰色の悪しき男。
呪術師の操る言葉は若き刑事を乱し、そして、竜の末裔をも乱した。
掻き乱された二人の心と感情は、未だに噛み合うことはない。

唇を重ねようとも、心は重ならないのである。






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