ブラッドは、浮き浮きしていた。 真新しいマントを羽織り、意味もなく回ってみる。末広がりの影が足元に丸く出来、窓に映る影もくるりと回る。 両腕でマントを広げ、その下に着ている黒の上下も窓に映してみる。袖もズボンも、折り返されていない。 ぴったりと体に合った衣装が嬉しくて、ブラッドはにやけてしまう。やはり、服は自分の体に合っていた方がいい。 前に着ていた黒い衣装は、父親のものを無理に着ていたから寸法が合っていなかった。だが、この衣装は違う。 昼間にギルディオスに連れていってもらった仕立屋で、ちゃんと寸法を測って作ってもらった、自分だけのものだ。 ブラッドは無性に嬉しくて、ずっと窓の前で自分を眺めていた。暖炉の明かりが反射して、鏡のようになっている。 赤らんだ光を受けて闇の中に浮かぶ少年は、だらしなく笑っている。それがまた可笑しくて、また笑ってしまう。 もっとよく見ようと思い、窓に歩み寄ろうとした。すると、左手奥の扉の取っ手が回り、寝室の扉が開かれた。 ブラッドは緩んでいた顔を元に戻し、そちらに向いた。ギルディオスはフィリオラの部屋から出ると、扉を閉める。 「フィオ、起きたくないってよ」 「フィオの奴、風邪でも引いたん?」 ブラッドが尋ねると、いやぁ、とギルディオスは首をかしげた。 「そういうんじゃなさそうだが…。まぁ、本人が調子が悪いってんなら、無理させちゃいけねぇだろ」 そう言いながら、ギルディオスは片付けられていない食卓に目をやった。皿の上に、紙巻き煙草の吸い殻がある。 誰かが来たのは間違いない。その人物がフィリオラに何かしらのことをしたのも、間違いないと見ていいだろう。 割に几帳面なフィリオラが、吸い殻を片付けないままにしてしまっているのだから、余程のことだったのだろう。 その相手が誰であるか考えてみたが、思い当たる節はないわけではない。最近、あの男は喫煙するようになった。 レオナルドも喫煙するが、彼が吸っているものは国内産の紙巻き煙草で、この吸い殻は国外産の紙巻き煙草だ。 ギルディオスの知っている限りでは、国内産よりも遥かに値の張る国外産を吸うのは、グレイスぐらいなものだ。 だが、グレイスがフィリオラに接する利点も、フィリオラを追い込む利点も思い当たらず、また首をかしげた。 考えても仕方がない。元よりグレイスの思考など理解出来ないのだから、考えるだけ無駄というものだ。 ギルディオスは意識を戻し、ブラッドに向いた。明らかに嬉しそうなのだが、その表情を消しているようだった。 いつものような、どこか澄ました顔を装おうとしてはいるが、口元が緩んでいる。相当、嬉しかったのだろう。 ギルディオスは、黒に身を固めたブラッドの姿が映る窓の先を見た。とっぷりと日が暮れて、もう夜中だった。 高層建築の窓や民家にちらほらと明かりが見えるだけで、月明かりもまるでないので、重たい闇に包まれている。 「なぁ、ラッド」 「んー?」 ブラッドは呼ばれるままに、ギルディオスに振り返った。ギルディオスは、黒衣の少年を見下ろす。 「外、歩いてくるか?」 「なんでだよ」 不思議そうなブラッドに、ギルディオスは逆手にフィリオラの部屋の扉を指し示した。 「フィオが寝付くまで、静かにしといてやろうと思ってよ」 「そんなに調子悪いのか、フィオ」 ブラッドは、フィリオラの部屋の扉に目をやる。ギルディオスはブラッドの頭に手を置き、軽く叩いた。 「吸血鬼なら、夜に外を出歩くのは好きだろ?」 「まぁ、うん」 ブラッドが頷くと、ギルディオスは巨大な剣を背負い、壁に掛けてあった部屋の鍵を取り、玄関に向かった。 「んじゃ、行こうぜ。適当にそこいら歩いてこようや」 ブラッドはその背を追い、小走りに駆けた。ギルディオスの開けた扉から廊下に出掛けたが、一度、振り返った。 フィリオラの部屋はひっそりと静まっていて、彼女らしくなかった。心配になると同時に、寂しくもなっていた。 ブラッドはその寂しさの原因から目を逸らし、冷え切った廊下に出た。 二人は、人通りのない道を並んで歩いていた。 規則正しく、金属の擦れる重たい足音が石畳に跳ね返る。その少し後に、体重の軽い足音が続いていく。 甲冑が片手にぶら下げた鉱石ランプが、青白い光を放っている。ブラッドの魔力で、明かりを灯したものだ。 旧王都の大通りから外れた道は、二人の足音以外の音はしない。春先とはいえ夜風は冷たく、頬を切る。 引き摺らない長さのマントの前を掻き合わせ、ブラッドは口元をひん曲げた。寒さは、あまり得意ではない。 襟の立ったマントに首をすぼめている少年を見下ろし、ギルディオスは空いている方の手でヘルムを掻いた。 「あー、悪ぃ。オレは寒さとか関係ないから忘れちまってた。上着、持ってくるんだったな」 「…帰ったら、なんか飲む」 声を少し震わせながら、ブラッドは俯いた。乾いた寒さが吹き付け、服を擦り抜けて体の芯に染み入ってくる。 横目に、ギルディオスを見上げた。かなり身長が高く、目線を上げただけではその顔まで見ることは出来ない。 上背に比例して腰も割に高く、ぎちぎちと軋みながら動く腰の装甲の付け根が、ブラッドの目線の位置だった。 どういう構造で動いているのか、未だに解らなかった。魂を込めた魔導鉱石を見たら、余計に解らなくなった。 楕円の金属板に埋められた赤い魔導鉱石があるだけで、空っぽの甲冑が意志を持って喋り、独りでに動く。 フィリオラは、魔導鉱石への魂癒着の仕組みと理論を説明してくれたが、こんがらがってしまっただけだった。 視線を後ろに動かすと、腰までの長さしかない赤いマントと、その上に背負われたバスタードソードが目に入る。 見るからに古びた、ただ巨大なだけの武器だった。鞘だけでも、ブラッドの身長と変わらない長さがあった。 こんなに巨大な金属の固まりを楽に背負っているギルディオスは、やはり、楽にこれを振り回せるのだろう。 今までに一度もバスタードソードを抜いた姿を見たことはないが、想像しただけでも、迫力がある光景だ。 月明かりに似た青白い光につやりと照らされた腹部装甲には、革のベルトが巻かれており、拳銃が下げてある。 ホルスターから突き出たグリップには、猛々しいハヤブサの浮き彫りがある。ストレイン家の家紋だった。 「おっちゃん」 「んあ?」 ギルディオスが歩調を弱めると、ブラッドは甲冑の隣に追い付き、腰の魔導拳銃を指す。 「これさぁ、なんでヴァトラスじゃなくてストレインの家紋なわけ?」 「んー、ああ。こいつはな、むかーしむかしにもらったんだよ」 むかーしにな、ともう一度繰り返してから、ギルディオスは腰の魔導拳銃を見下ろす。 「フィルの旦那のカインが、オレのために造って寄越してくれたんだ。竜と人の世界を繋げてくれて、フィルと自分を引き合わせてくれた礼だっつってな。普通の魔導拳銃より造りが凝っててよ、思念で魔法の出力を変化させることが出来るんだ。オレは魔法は一切使えねぇから、重宝してるんだ」 「おっちゃんってさ、本当に魔法が使えねぇの?」 「ああ、使えない。生きてた頃も死んでる今も、ずうっと魔力は欠片も持ってねぇ」 ギルディオスは、がつん、と胸装甲を拳で叩いた。 「まぁ、どえらく怒っちまうと別だけどな。ちょいとだけど力が起きて、熱ーくなっちまうんだ」 「熱くって、レオさんの発火能力みたいな?」 「あれとは違う。レオみたいに制御なんて出来ねぇし、ただ過熱しちまうだけで、炎なんて作れねぇんだ」 「へぇ」 ブラッドは、それが意外だった。レオナルドの先祖であるギルディオスも、強大な力を持っていると思っていた。 増して、その息子は歴史に名を残すほどの魔導師だ。普段の姿からは知らない、凄い部分があると考えていた。 凄いところがあるとすればその腕力と肉体だが、それぐらいだ。常に飄々としていて、あっけらかんとしている。 親しみやすい気の良さと、年嵩の割に幼さが垣間見える性格は、ブラッドにとって歳の離れた兄のようだった。 本当は凄いのかもしれないが、ブラッドとしては、ギルディオスはあまり凄くなさそうにしか思えなかった。 歩くに連れて、通りの家々がまばらになっていく。みっちりと並んでいた建物の間に隙間が空き、風が強まる。 動いているから体温は上がってきたが、それでも寒いものは寒い。ブラッドは襟元を握り締め、肩を縮めた。 次第に、景色が見慣れないものになってきた。レオナルドに案内された市街地からも外れた、細い通りに入った。 遠くに見えていた強固な城壁が近付き、吹き付ける風が細く鳴っている。それは、女の泣き声にも似ていた。 ブラッドは、ギルディオスに行き先を尋ねようとした。だが、手を伸ばすより先に、彼は先を歩いていってしまう。 少しは待ってくれても良いじゃないか、とむくれながら、ブラッドはギルディオスから引き離されないように歩いた。 大小二つの影が、足早に夜の街を抜けていった。 歩き通して行き着いた先は、見知らぬ場所だった。 ブラッドは体がすっかり温まり、息を荒げてすらいた。それほどまでに、ギルディオスの歩調は早かったのだ。 暗闇の奧には、小高い丘があるのが解った。ギルディオスの持つ鉱石ランプの弱い光で、辛うじて見えていた。 背の低い柵に取り囲まれていて、古びた門がある。表面が風化した石の門柱には、昔の文字で書いてあった。 市民共同墓地、と。ブラッドは一度瞬きをしてから、閉ざされた門の向こうに目線を向け、無数の石碑を見つけた。 全て、古い墓石だった。門柱と同じように、長い間風雨に晒されているらしく、滑らかとは言い難い状態だった。 ふと気付くと、ギルディオスは門ではなく柵へと向かっていった。おもむろに柵に手を掛けると、軽く乗り越えた。 どん、と柵の中に着地した甲冑は、ブラッドを手招いた。ブラッドは躊躇したが、ギルディオスの元へ駆け寄る。 マントをまとめてから柵に足を掛けて踏み越え、ブラッドは飛んだ。たん、とギルディオスの隣に着地する。 片手に抱えていたマントが千切れていないか確かめてから、柵の中を見渡した。一面に、墓石が並んでいる。 ブラッドが物珍しげにしていると、ギルディオスは夜空を仰いだ。無数の星の散らばる藍色の空を、見つめている。 「もうちょい、歩くぞ」 「え、ここじゃないの?」 「丘の向こうなんだ」 いつになく落ち着いた声色で言い、ギルディオスは歩調を遅くして歩き出した。ブラッドは、その背を追いかける。 目の前に、バスタードソードを載せて赤いマントを羽織った背がある。追い付いても、またすぐに離れてしまう。 彼の言葉通り、丘を登っていった。あまり高さはないが、びっしりと墓石が並んでおり、気味の悪い光景だった。 ブラッドは墓地の暗い雰囲気が怖かったが、顔には出さないようにして、黙々とギルディオスに続いて歩く。 丘の山頂を越えて、下っていった。墓石の間に造られた狭い歩道は、丘の向こう側まで続いており、伸びていた。 それを辿るようにして、甲冑は進む。迷うことなく、一点だけを見定めている。目的の場所を、覚えているようだ。 不意に、ギルディオスの足音が止まった。ブラッドは離れていた距離を詰めて追い付くと、彼の見下ろす墓を見た。 ギルディオス・ヴァトラス。享年二十九歳。戦死。ブラッドには読みづらい中世時代の字体で、名前が記してあった。 ブラッドがまじまじと墓石を見つめていると、ギルディオスは屈んだ。親しい友人に挨拶するように、墓を叩く。 「よう」 「おっちゃんの、墓?」 ブラッドは目の前の墓石と、そこに名を刻まれている甲冑を、見比べた。 「そうだ。こん中には、オレの骨が入ってんだ」 んで、とギルディオスは左隣の墓石を示し、その次に右隣の墓を指し示す。 「こっちがランス。息子な。右にあるのがメアリー、オレの女房だ。で、オレの右斜め向かいにあるのが兄貴」 ギルディオスの銀色の指先は向かい側の墓の列に向き、白い花が手向けられた、古い墓を指した。 「イノセンタス・ヴァトラスだ。オレを殺した男でもある」 「え、でも、おっちゃんの墓には戦死って」 「戦場で殺されたんだよ、イノに」 ギルディオスは兄の墓に向き直った。鉱石ランプの明かりで、白いスイセンの花弁が青ざめている。 「色々あったのさ、色々とな。イノを一人で死なせなかったことだけが、救いだけどな」 「救い?」 ブラッドは、ギルディオスを見上げた。過去を話すギルディオスの口調は、穏やかだった。 「そうだ。イノはずっと一人だったんだ。双子の兄貴で、オレとは違って強い魔力を持ってて、魔法の才能があって、頭が良かったんだ。でもな、オレは、イノを見捨てたんだ。一人にしちまったんだ。この世でただ一人の片割れを、追い込んじまったんだ。一人になっちまったイノは、一人でいるのが嫌で、妹のジュリアを愛して手に入れようとしたんだが、結局無理だった。イノは他にも色々とやらかしていてな、竜族を殺す手伝いをしたり、ランスを自分の世界に引き込もうとしたり、ジュリアが造った魔物の子達を縛り付けたり、しちまったんだ」 ギルディオスは、兄の墓石を撫でた。愛おしげに、優しく手を滑らす。 「器用じゃなかったんだ。素直になれなかったんだ。オレとは違って、気位の高ぇ男だったからな」 ギルディオスは、イノセンタスの墓を撫でる手を止めた。兄の名の下に刻まれた、スイセンの浮き彫りを見下ろす。 「オレは、イノがやったことを、まだ許しちゃいねぇ。けどな、愛してるんだ」 「それって、兄弟だから?」 「ああ。イノは、この世でたった一人の兄貴だからな」 ギルディオスは、笑っている。ブラッドは強い不可解さを覚え、ギルディオスから目を逸らす。 「わかんねぇ」 「解らなくていい。オレにしか解らねぇし、オレじゃなきゃ解らねぇと思うから」 オレだけのことだし、とギルディオスは鉱石ランプを手にして立ち上がった。ブラッドの背後の、己の墓を指す。 「ラッド。尻が冷えるかもしれねぇけど、オレの墓にでも座っとけ。結構歩いたからな」 「けど、墓だよ。なんか、悪い気がするんだけど」 ブラッドが変な顔をすると、ギルディオスはこんこんと自分の胸を小突く。 「本人がいいっつってんだ。気にすんじゃねぇ」 いい気はしなかったが、断る気も起きず、ブラッドはギルディオスの墓に座った。底冷えする冷たさが滲み出る。 ギルディオスは鉱石ランプを揺らしながら、自分の墓がある方へとやってきた。一度立ち止まり、妻の墓を撫でる。 月明かりのような青白い光を浴びたヘルムの横顔を、ブラッドは何の気なしに眺めてみた。表情は、解らない。 底が見えなかった。飄々とした相変わらずの口調で話される、重みのある過去が、それを更に深めていた。 どれだけ強いのか、どれほどの過去を持っているのか、どれくらい経験を重ねているのか、想像が付けられない。 ブラッドは、夜風に弱く揺れるマントを引いて体にまとわりつかせた。考えてみても、陳腐なものしか出てこない。 なんとなくでしかなかったが、フィリオラがあそこまで彼を慕う理由が、解った気がした。 大柄な影と小さな影は、揃って墓に座っていた。 ギルディオスはブラッドを落とさないように、半分だけ墓石に座っていた。中途半端な姿勢だが、辛そうではない。 頬に触れる空気が、一層冷たさを増していた。夜が深まって冷え込みが強まり、魂まで温度が下がりそうだった。 ブラッドは出来る限り体を縮め、腹の底で魔力を高めていた。これで、多少は体温を維持することが出来る。 ギルディオスは腕を組んでいて、バスタードソードは墓に立て掛けて足の間に置いていた。時折、頭飾りがなびく。 日中は排気や蒸気で隠れている空も、工場が眠る夜ばかりは澄んでいた。冴えた藍色に、小さな光が散っている。 ブラッドが星を見上げていると、ギルディオスは少年の頭に手を載せた。唐突に訪れた冷たさに、少年は驚いた。 「うぉっ!」 「あ、悪ぃ。そんなに冷てぇか?」 悪気のなさそうなギルディオスに、ブラッドは声を上げる。 「冷たいよ! おっちゃん、自分の体のこと考えてくれよ!」 「すまん」 平謝りしたギルディオスは、がりがりとヘルムを掻いた。ブラッドは座り直してから、むくれる。 「ていうかさ、なんでそうも頭を撫でてくるわけ? オレ、そんなにガキじゃないよ」 「そうかねぇ。オレに取っちゃ、ラッドもフィオもおんなじだ」 「フィオとオレは違うよ。オレ、あんなに馬鹿じゃない」 ブラッドが言い返すとギルディオスは、いやいやいや、と首を振ってみせる。 「同じさぁ。二人とも、オレの子供みてぇなもんだからな」 「おっちゃんの子供って、ランスって人だけだろ」 「血が繋がってるのはそうなんだがな。繋がってなくたってな、そう思えちまうんだよ」 「どうして?」 「さぁな。オレがただ、図々しいだけかもしれねぇけどな」 「ホントだよ」 ブラッドが嫌そうにすると、ギルディオスはちょっと肩を竦めた。 「ま、実の親じゃねぇからな。そう言われても、言われた方は変に思うのが普通なんだ」 実の親。ブラッドはその言葉に少し顔をしかめたが、表情を消した。ギルディオスは、それにめざとく気付いた。 今度は服越しに、ブラッドの肩に触れた。手のひらに軽く納まるほど小さな肩を、ガントレットの手が握る。 「なぁ、ラッド。お前から親父さんの話は少し聞いたが、おふくろさんの話は聞かないな。なんかあるのか?」 「覚えて、ないんだ」 ブラッドは言いづらかったが、言葉にした。ずっと言わないでいるよりも、言った方が楽になると思った。 「父ちゃんから母ちゃんの話はたまに聞いたけど少しだけだったし、顔も知らないんだ」 「サラさんには、似てないんだな? お前、よくサラさんを見てるから、てっきり似てるのかと思ってたが」 「解らないけどさ、母ちゃんってあんな感じなのかなーって思うと、つい見ちゃうんだ。サラさんのこと」 ブラッドは、服越しでも解るほど冷たい、ギルディオスの手を肩に感じていた。 「フィオもさ、ほら、料理作るじゃん? 母ちゃんがいるってああいう感じなのかなーって、思う時があるんだよね」 「大体あんな感じだが、ちょいと違うな。フィオはどちらかってぇと、姉貴に近いんじゃねぇのかな」 「オレ、兄弟いないんだけど」 「無理に解ろうとしなくてもいいさ。んで、親父さんはどういう人だったんだ?」 「んー…」 記憶を呼び起こしながら、ブラッドは唸った。父親であるラミアンとの記憶も、あまり多いとは言い難かった。 ラミアンは、棺桶の中で眠っているか、或いは本を読んでいるかだった。父親の部屋には、大量の本があった。 その内容は幼い頃から解らなかったし、触れるなと言われていたこともあったから、一度も読んだことはなかった。 気難しげな横顔と、生粋の吸血鬼の証である銀色の瞳しか、覚えていない。父からの愛情も、覚えになかった。 それでも、殺されたのであれば仇を討たなければならない、と思い、あの手紙を引っ掴んで旧王都に出てきた。 あまり深く思い合っていたわけではなかったが、そうしなければいけない、という念に駆られて復讐に走った。 ブラッドは、急に変な気分になった。なぜ、復讐をしようと思ったのか。その理由が、はっきりと浮かばなかった。 「よく、解らねぇ」 「親父さんのことがか?」 「ていうか、オレが」 ブラッドは、夜空を仰ぎ見た。巨大な星の運河が、藍色の空の果てまで横たわっている。 「なんでオレ、復讐しようと思ったんだろ。父ちゃんのことは嫌いじゃなかったけど、そんなに凄く好きだってわけでもないんだ。だけどさ、殺されたと思ったら凄く悔しくなってきて居ても立っても居られなくて、旧王都に来たんだ。でも、フィフィリアンヌ・ドラグーンが父ちゃんを殺したんじゃないって解ったら、なんか、気ぃ抜けちゃったんだよな。オレ、本当に復讐したかったのかなぁ、って思うんだ」 「難しいな」 「うん。すっげぇ難しい」 けどさ、とブラッドは小さく呟いた。言葉と同時に、白い息が吐き出される。 「そうしなきゃ、ダメな気がしたんだ。復讐しに行かなきゃ、父ちゃんに悪い気がして」 「どうしてだ?」 「どうしてなんだろうな。自分のことなのに、さっぱり解んねぇや」 「そっか」 ギルディオスは身を屈め、ブラッドと目線を合わせた。色白な少年の顔色は、鉱石ランプの光と寒さで青白い。 少年の黒い瞳は、光を帯びて輝いていた。視線は何も捉えておらず、厚い闇に覆われた墓場を通り過ぎていた。 ギルディオスはブラッドの体温が移った手を、彼の頭に置いた。先程より冷えていないので、今度は平気だった。 「そろそろ帰るか? 風邪引いたらいけねぇしよ」 ん、とブラッドは頷いた。頭に載せられた手の感触が心地良く、なぜか解らないが、少し嬉しいような気がした。 手足の先は冷え切っていたが、体の芯だけは不思議と温かかった。魔力中枢とは違う部分が、熱を持っている。 新しい服を着た時の嬉しさにも似ていたが、どこか違うものだった。ブラッドは、自然と顔が緩んでいた。 夜の墓場は寒いはずなのに、居心地が良かった。 共同住宅の三○一号室に戻ると、居間は暖められていた。 ブラッドは不思議に思いながら、部屋に入った。テーブルのランプは点いていないが、暖炉の前が煌々と明るい。 ギルディオスはバスタードソードと魔導拳銃を外してから、暖炉の方に向き直った。その前で、影が丸まっている。 寝間着の上に上着を着たフィリオラが、火の入った暖炉の前に座っていた。帰ってきた二人に、笑顔を向ける。 「お帰りなさい」 「フィオ、起きてて大丈夫なのか?」 ブラッドが言うと、フィリオラは少しだけ憂いげな目をしたが、すぐに表情を明るくさせる。 「ええ。一杯眠ったので、もう平気です。ご心配をお掛けしました」 立ち上がったフィリオラは、テーブルの上からランプを取った。ガラスの覆いを上げて、中の芯に向けて息を吹く。 微かな吐息が過ぎた後には、火が灯っていた。ブラッドがきょとんとしたのを見て、フィリオラは得意げに笑む。 「竜族の芸当ですよ」 お茶を淹れてきますね、とフィリオラはブラッドに言うと、ランプに覆いを被せてから持ち、台所に入っていった。 ぱたぱたと室内履きを鳴らす軽い足音が、台所から聞こえてくる。ブラッドは、体を温めるために暖炉に寄った。 フィリオラの座っていた位置よりも手前に屈み、炎に手を翳した。氷のようだった指先に、血が巡る感覚が起きる。 ギルディオスは、ブラッドのすぐ後ろに腰を下ろした。胡座を掻くと頬杖を付き、ぎちり、と前傾姿勢になる。 「ありがてぇなぁ」 「うん」 ブラッドは手足を温めながら、少し笑った。しばらくすると、フィリオラが両手にマグカップを持って戻ってきた。 その片方をブラッドに差し出したので、ブラッドは両手で受け取った。熱いはずなのに、温度差で熱くなかった。 中には、優しい色合いのミルクティーが入っていた。フィリオラはブラッドの隣に座り、どうぞ、と勧めてくる。 「外は寒かったでしょうから、甘ーくしました」 「…甘」 一口飲んで、ブラッドは漏らした。本当に甘ったるく、これでもかと言わんばかりにハチミツが入っている。 それでも、体を温めるために飲んでいった。混ぜられているのハチミツだけではないようで、僅かに刺激もある。 ブラッドがそれを尋ねようとすると、フィリオラは先に答えた。柔らかな湯気を昇らせるカップを、床に下ろす。 「ハチミツと一緒に、ショウガを少し入れたんですよ。温まりますから」 「それはいいんだけどさ、ゲロ甘い」 ブラッドがうんざりした顔をしたので、フィリオラはあまり面白くなさそうにむくれた。 「私はこれくらい甘ーい方が好きなんです」 「やりすぎだっつの」 「私はそうは思いません。甘いものがしっかり甘いと、幸せな気持ちになれるじゃないですか」 「フィオは甘ーいのが好きだからなぁ」 と、ギルディオスは可笑しげに笑う。ブラッドはマグカップに半分ほどになったミルクティーを、ぐいっと傾ける。 一気に飲もうかと思ったが、やはり甘ったるかった。途中でカップを戻して、口の中の液体を飲み下した。 だが、決して悪いわけではなかった。元々甘いものは嫌いじゃないし、フィリオラの作る菓子類は美味しいと思う。 ただ、本当に甘すぎるだけだ。ブラッドは、フィオらしいや、と思いながら中身の残るマグカップを見下ろした。 「そういえば、ブラッドさん」 フィリオラは体を傾けて、ブラッドの前に顔を出した。 「その服、新しく仕立ててきたんですね」 「今頃気付いたのかよ」 やけに気恥ずかしくなり、ブラッドは顔を背けた。フィリオラは、にっこりと笑った。 「良くお似合いですよ」 ブラッドは何か言おうと思ったが、気恥ずかしさで何も言えなかった。褒められて嬉しいはずなのに、照れくさい。 確かに、フィリオラに見てもらいたかったし、褒めてもらいたかった。だが、本当にそうなるとやりづらい。 ブラッドは曖昧な表情のまま、彼女に背を向けた。自分でも捻くれているとは思ったが、どうにも出来なかった。 ブラッドの後ろ姿に、ギルディオスは喉の奥で笑っていた。少年の子供らしさが微笑ましくて、仕方なかった。 二人に背を向けたブラッドは、マントを抜けてくる温かさを背に受けながら、甘ったるいミルクティーを飲み続けた。 やりづらくて、照れくさくて、嬉しかった。ブラッドは熱々としているマグカップを、両手で大事に握り締めた。 どの感情も感覚も、悪くなかった。 凍えるような夜の墓場で、吸血鬼の少年は、甲冑の手に温かみを覚えた。 それがなんであるか、解らなくても、解ることが出来なくとも。 少年が感じ得たものは、決して、嘘ではない。そして。 決して、無駄なものではないのである。 05 11/7 |