ドラゴンは眠らない




黒竜戦記 前



竜王軍が勝利を収め、竜王都に帰還した翌日。
ギルディオスは、暇を持て余していた。竜王都に避難したのはいいものの、これといった仕事がなかった。
竜王軍騎士団からの誘いを蹴ってしまったこともあるのだが、客人扱いで、雑用もあまり与えられていない。
それに、竜王都に残っているのは女子供ばかりなので、必然的に残っている仕事も女のものばかりになる。
生きていた頃も死んだ後も、女のやる仕事はほとんどやったことないので、手を貸すことも出来ずにいた。
竜王城のそびえる島を囲む湖の畔に座り、バスタードソードに錆止め油を塗りながら、ぼんやりしていた。
湖面を駆け抜けた風が、さあっとさざ波を作った。赤い頭飾りがなびき、自分の影絵がゆらゆらと揺れる。
穏やかな空の下、涼やかな水音が聞こえている。高地の竜王都にも初夏が訪れており、日差しが少し熱い。
本当に、暇だった。伯爵は、医療部隊の手伝いに行ったフィフィリアンヌが連れて行ってしまったのだ。
伯爵は無駄口と自賛ばかりで鬱陶しいが、調合した魔法薬の試薬に使うことも出来る、便利な存在だ。
それでなくても、彼が傍にいなくては、フィフィリアンヌは強烈な方向音痴のせいですぐに道に迷ってしまう。
自分から戦いには参加しない、と言い出したのだから、この状況に不満を持つべきではないとは解っている。
だが、多少なりとも疎外感を覚えているのは確かだ。年甲斐もなく、一人でいるのは寂しい、と思ってしまった。
バスタードソードを鞘に戻して足元に横たえ、背を丸めていると、ギルディオスの背後に足音が近付いてきた。
振り返ると、逆光の中、女が立っていた。青い翼を広げ、細長いツノの伸びた、引き締まった体の女だった。
短く切った深い青の髪は男のようで、顔立ちも少年のような青竜族の女に、ギルディオスは見覚えがあった。
以前に見た時は、清らかな白い巫女の衣装を着ていたが、今は、東方の装甲と男の服に身を固めている。
ギルディオスはしばらく彼女を見上げていたが、ようやくその名を思い出したので、立ち上がって挨拶する。

「確か、あんた、ウェンディとか言ったっけか?」

「嬉しいね、あたしの名前を覚えていてくれて」

青竜族の女、ウェンディは、差し出されたギルディオスの手を握った。その手は硬く、鍛え上げられている。

「竜神祭のことは、忘れられねぇからな。覚えてもいるさ」

ウェンディの手を放したギルディオスは、両手を上向ける。ウェンディは、少年のような笑みになる。

「あたしもだ。長いこと生きてるけど、アンジェリーナ様のお姿をちゃんと見たのは、あの時だけだから」

「そうなのか?」

ギルディオスが意外そうにすると、ウェンディは頷いた。

「アンジェリーナ様は、竜王都の守護魔導師の中でも、特にお姿を見せない方なんだ。他の三方の守護魔導師の方々は、式典とかでお姿を見せて下さるけど、アンジェリーナ様はそうじゃないんだ。噂じゃあ、竜女神様みたいなお美しい方だって話だったけど、実物は予想以上だったから、忘れようにも忘れられないんだよ」

「そう、なのか…」

ウェンディの言葉が信じられず、ギルディオスは不思議な心境になった。確かに、彼女が偉いことは知っている。
竜族ではないので、守護魔導師がどれほどの地位と権力を持っているのかは知らないが、感覚としては解る。
だが、それはあくまでも感覚であり、実感ではない。それにギルディオスは、彼女と事ある事に会っている。
といってもそれは、フィフィリアンヌの城にやってきたアンジェリーナと顔を合わせている、だけに過ぎないが。
それでも、頻繁に会っていることには違いないので、なかなか姿を見せない、と言われると、妙な感じがする。

「フィフィリアンヌから聞いたんだけど、あんた、騎士団の誘いを蹴ったんだって?」

ウェンディは竜王城を仰ぎ、眩しげにした。

「まぁな。金貨五千枚、ってのはちょっと惹かれるものはあったが、どうにも嫌でよ」

ギルディオスはウェンディに倣い、竜王城を見上げた。強固で巨大な城は、新緑の山脈を背負っている。

「オレの本業は、人間を殺すことなんだよ。その相手は、帝国の兵士共か、タチの悪い賊か、ごくごくたまに魔物だ。若い頃に一度だけワイバーンを相手にしたことがあるが、竜は一度だってやったことはねぇ。これからも、竜だけはやれねぇと思うぜ」

「なんか変だね。それなら、尚更あんたは騎士団に手を貸すべきじゃないのか? 人を殺すのが本業なんだろ?」

訝しげなウェンディに、ギルディオスはヘルムを向けた。

「ああ、そうだ。けどな、どうしても戦いたくはねぇんだ。竜族とはよ」

「それ、どういう意味だよ」

「許せねぇんだよ、どっちのやり方も」

ギルディオスはヘルムを上向け、滑らかな銀色に竜王城を映した。

「帝国が悪いのは昔からのことだから、オレも慣れちゃいるんだが、今度だけは別だ。竜族も自国の民も煽るだけ煽って、死なせようとしてやがる。進軍するついでに王国領土もせしめちまおうとか、王国への圧制を強くしちまおうとか、そういう腹も見えるが、帝国の目的はそこじゃねぇ。ただ、戦うだけなんだ。ここ数百年大人しくしてた竜族を怒らせて、下界に引き摺り下ろして殺しまくって、皮剥いで骨切って武器にして、その武器でまた竜を殺すんだ。全くよう、竜が何をしたってんだよ」

「だから、将軍閣下は、帝国と戦ってるんじゃないか。それも許せないってのか?」

少し腹立たしげなウェンディに、ギルディオスは頷く。

「ああ。ガルムのやり方も、充分許せねぇ。あいつは、必要以上に人を殺しちまうからな。一昨日の初戦だって、そうだったじゃねぇか。本陣に切り込んで敵将の首を刎ねて、残った兵士は捕虜にでもしちまえばいいものを、全部焼き殺しちまいやがった。帝国が許せないのは解るが、やりすぎなんだよ、ガルムは」

「あんた、将軍閣下を侮辱する気か!?」

ウェンディは素早く腰を落とし、腰に提げていた青竜刀を抜こうとした。ギルディオスは、彼女を制する。

「違ぇよ。落ち着け、ウェンディ」

「将軍閣下は、青竜族に戦う機会を与えて下さったんだ! 憎き帝国を滅ぼす手伝いをさせて下さって、一族全てを竜王都へと招いて下さったんだ! あの御方は、誰よりも誇り高い竜だ! それ以上将軍閣下を侮辱するならば、この場で切り捨てる!」

柄に手を掛けたウェンディは、今すぐにでも刀を引き抜きそうだった。ギルディオスは、口調を落ち着ける。

「オレは別に、ガルムを侮辱したわけじゃねぇよ。オレも、あいつの誇りの高さは充分知っている。オレも、あんなに誇りが高い男は滅多にいないと思うし、ガルムのそういうところは好きだ。けどな、それとこれとは別なんだ。解ってくれや、ウェンディ」

「…アンジェリーナ様と、フィフィリアンヌに免じて、今は許してやる。だが、次はないぞ」

引き抜きかけた青竜刀を戻し、ちん、と鍔を鳴らした。ウェンディは太めの眉を吊り上げ、口元を歪める。

「確かにあんたは、竜神祭で竜巫女を守った英雄だ。だが、それだけに過ぎない。身の程を知れ、口を弁えろ」

「へいへい」

気のない声で返事をしたギルディオスは、いきり立っているウェンディに目をやったが、彼女は顔を逸らした。
今まで、青竜族と接したことは少なかったが、彼女の気質はギルディオスの知る竜族とは大分違っている。
ギルディオスの知る竜族、竜王都に生きる竜族達は、現在の竜王の方針もあり、穏やかな思想を持っていた。
人と竜との距離を保つために、戦いを好まず、山の奥深くにある都でひっそりと暮らしていくのを好んでいる。
だが、青竜族は違う。ウェンディもそうなのだが、竜王都にやってきた青竜族達は、気が強い者が多かった。
竜王軍の行う戦闘訓練とは違った、東方の武術の鍛錬をしている青竜族の姿を見たのは、一度や二度ではない。
恐らく、竜王都を中心とした西方の竜族と、東竜都を中心とした東方の竜族では、血筋が違っているのだろう。
ウェンディの顔立ちも、西方の竜族とは違う。ギルディオスの親友、マーク・スラウのように、彫りが浅めだ。
肌の色も僅かに黄色掛かっていて、黄色人種に近しい。東方に適応するうちに、そうなってきたのだろう。
大陸は広い。西と東では、距離も遠ければ地形も違い、人種も違うのだから、思考も違ってきて当然だ。
むしろ、そうでなければ不自然だ。同じ人間であっても言葉が違うように、同じ竜でも、違うのが普通だ。
竜王城からは、訓練を行う騎士達の掛け声が響き、剣を叩き合わせたと思しき鋭い金属音が響いていた。
都の至る場所で、軍旗がはためいていた。




その頃。フィフィリアンヌは、竜王軍の倉庫にいた。
早速、大量に作った魔法薬が足りなくなったので、その材料を漁るべく、倉庫をひっくり返しにやってきた。
あまり期待していなかったが、そこはさすがに竜王軍のもので、質の良い魔法植物が大量に保存してあった。
半地下の倉庫は薄暗く、空気も湿っている。目当てのものを捜し回っていると、時折足元の物を蹴ってしまう。
それを煩わしく思いながらも、魔法植物が溜め込んである棚から必要な魔法植物を取り出し、袋に詰めていた。
フィフィリアンヌの抱えている麻袋が一杯になったので、倉庫から出ようとすると、出入り口に人影が立った。
開け放たれた扉の四角い光の中に、光を纏った者がいた。よく見ると、それは光ではなく、白いマントだった。
フィフィリアンヌは、それが誰なのかすぐに察した。袋を抱えたまま近付いていくと、うやうやしく頭を下げる。

「これはこれは、副将軍閣下」

フィフィリアンヌはわざとらしい態度で礼をし、表情の硬いエドワードを上目に見た。

「閣下ともあろう御方が、このような場所に、どのようなご用件でいらしたのでありますか」

「君は軍に関わってはいるが、私の部下ではない。顔を上げてくれ、フィフィリアンヌ」

エドワードが苦笑すると、フィフィリアンヌは体を起こした。白衣の裾を翻し、副将軍に歩み寄る。

「まぁ、私とて、貴様のような輩の下に付く気は毛頭ないがな。どうせなら、上に立つ方が面白い」

「エドワードよ。副将軍である貴君が部下を使わずに、直々にこの女に接触するとは、一体どのような厄介事を頼む気なのであるか?」

フィフィリアンヌの腰のベルトに提げられたフラスコの中で、赤紫のスライム、伯爵がぐにゅりと身を捩った。
エドワードは、表情を曇らせた。磨き上げられた白銀の装甲が、外からの日差しで、眩しいほどに輝いていた。

「あまり、気は進まないんだが、将軍命令であるから伝えないわけにはいかないんだ」

「ほう」

フィフィリアンヌは、あまり興味がなさそうだった。エドワードは目を伏せていたが、意を決し、少女を見据える。

「毒の調合を頼む。成竜、五千人分を」

「その数でその量となると、兵士の自決用の毒ということか。なるほど、ガルムらしい命令だな」

フィフィリアンヌが素っ気なく言うと、エドワードは顔を逸らし、拳を固める。

「ああ、あの男らしい命令だ。だが、私には全く理解出来ん」

「出来ないならするな。ただでさえ、貴様は心労が多い。その上で、下らんことで頭を悩ませて胃を痛めては、軍務に関わってしまう。兵士を率いる副将軍が倒れてしまっては、せっかく高まった士気が地に落ちてしまうぞ」

幼いが、抑揚のない平坦な声が、薄暗い倉庫に広がった。エドワードは、即座に顔を上げる。

「…下らないだと?」

「ああ、下らん。充分に下らん。ニワトリ頭が、妙な意地を張って戦わないのと同じぐらいに下らん」

フィフィリアンヌは、あからさまに馬鹿にした口調になる。

「この期に及んで、何を思い悩むというのだ。貴様の仕事は、戦略を練り、兵を率い、竜族を滅ぼしに掛かってくる帝国とやり合うことだけだ。竜王と将軍の判断によって始められた戦争なのだから、その両者の部下である貴様は、両者の命令に忠実に従って戦うことが義務であり任務なのだ。副将軍と言えど、兵士は兵士に違いない。竜王軍の駒に、将軍の手駒の一つに過ぎない貴様が、将軍の判断にいちいち文句を付けることなど無駄というものだ。そんなにガルムのやり方が気に食わないなら、あの男の首を刎ねて将軍の座に座ればいいではないか。まぁ、その前に斬り返されて、貴様が死んでしまうだろうがな」

フィフィリアンヌの弁舌に、エドワードは歯噛みした。彼女は続ける。

「私とて、決して、不本意な仕事をしておらんわけではない。医療部隊に配備された民間の薬剤補給係に過ぎないとはいえ、下される命令は兵士のものとなんら変わらん。いや、兵士よりも扱いは悪いかもしれん。兵士という括りがないから、軍規が適応されない。すなわち、竜王軍が取り決めた労働時間を超越した労働を強いられても、文句を言えんと言うことだ。事実、今もそうだ。帝国北部の戦場から引き上げた兵士共の治療が終わって、消耗した薬剤の補給を始めようとしたら、毒薬の調合を頼まれてしまった。そんなに、一度に物事を頼まないでくれんか。私の腕は二本で頭は一つだ、確実に仕事をこなそうと思ったら、一つの仕事しか出来ん」

エドワードの傍を通り抜けたフィフィリアンヌは、倉庫の外へ出た。石畳の上で、足を止める。

「それは、貴様とて同じことだ。いくら竜とて、頭は一つで目玉は二つ、口は一つで体も一つだ。貴様は立場上、やることも考えることもしなくてはならないことも多いだろうが、やれることは常に一つだ。ガルムもそうだ。奴も奴なりに、やれることをやっているに過ぎん。それにガルムは、竜王軍評議会と竜王家と議会から選ばれた男だ。戦いに勝利する才能を見出されているからこそ、奴は将軍に成り上がったのだ。軍属でもなんでもない家系の次男で、志願兵から騎士へと昇進し、そして将軍の座を得た叩き上げだ。騎士の家系であり、一族の経歴に甘えて呆気なく騎士になり、理想を謳うばかりでろくな戦果を上げない貴様とは大違いだ」

「私は、誰も死なせたくないだけだ!」

思わず、エドワードは声を荒げた。フィフィリアンヌは振り返りもせず、言い返す。

「それが下らん理想だと言うのだ、エドワード」

「大事な部下を一人でも死なせたくないと願うことが、いけないというのか!」

エドワードは、フィフィリアンヌの背に詰め寄る。フィフィリアンヌは、横目に副将軍を見上げる。

「別に誰も、貴様が部下を思う心を否定してはおらん。これで戦争さえ起きなければ、貴様はそれは素晴らしい指導者として持ち上げられていたことだろうが、今は開戦直後だぞ。士気を高め、敵意を煽り、人を殺すことを奨励し、同族のために命を散らすことが当然になっている。そんな中で、誰も死ぬな死なせるなと叫んだところで、誰も聞き入れるはずがない。それが、あのガルムなら尚のことだ。貴様、ガルムとは随分長い付き合いだろう。それなのに、未だに奴の思考が解らんというのか? 副将軍たるもの、まさか、そこまで馬鹿ではあるまい」

軽蔑どころか馬鹿にしきったフィフィリアンヌの口振りに、エドワードは神経を逆撫でされそうになったが、堪えた。
あまり付き合うと、フィフィリアンヌの調子に乗せられる。彼女の並べ立てる言葉は、危険な罠のようなものだ。
押し黙ったエドワードに、フィフィリアンヌは少し面白くなってきた。だが、これ以上遊んでは時間の無駄になる。
それでなくても、医療部隊の補給係は仕事が多い。負傷する者は途絶えないのだから、薬の注文も途絶えない。
フィフィリアンヌが歩き出そうとすると、エドワードは口を開いた。ここまで言われて、言い返さないのも悔しい。

「ならば、フィフィリアンヌ」

エドワードの声に、フィフィリアンヌは横顔だけ向けた。エドワードは、彼女を指す。

「君ならば、君が私と同じ立場になったのであれば、どうするというのだ」

「決まっておる」

フィフィリアンヌは、魔法薬の材料を入れた袋を担ぎ直した。がさり、と中で乾いた草が鳴る。

「上官の命令に従うまでだ」

思い掛けない、言葉だった。エドワードは、フィフィリアンヌは誰の命令に従わないものだと思っていたからだ。
だから、軍に入ってもそういうものなのだろう、と自分の内で勝手に結論付けていたらしく、多少なりとも戸惑った。
フィフィリアンヌは、至極当然だと言わんばかりの顔をしていた。言葉に詰まっているエドワードに、背を向ける。

「用がないのなら行くぞ。私は忙しい。全く、副将軍というのは暇な仕事のようだな」

「はっはっはっはっはっはっはっは。それには我が輩も同感であるぞ、フィフィリアンヌよ」

伯爵の低く響きのある笑い声が響き、フィフィリアンヌの小さな背と共に遠ざかっていき、倉庫の角を曲がった。
エドワードは、その場に立ち尽くしていた。フィフィリアンヌへの怒りが湧きそうになったが、筋違いだと堪えた。
彼女は、悪意を持って言ったわけではない。他意はあったかもしれないが、言葉はかなりきついが、正論だった。
そうだ。理想を果たそうと思ってばかりで、現実を見失い掛けていた。自分は、あくまでもガルムの部下だ。
過去に、騎士団で同僚であったから、その頃の感覚をずっと引き摺っていた。彼と自分を、同列に見ていた。
だが、立場は大いに違う。将軍と副将軍は、名前すら似ているが、背負っているものの大きさは桁違いなのだ。
ガルムも、何も考えずに殺戮を命じたわけではない。帝国に畏怖を与え、圧倒するために、敵を全滅させたのだ。
考えてみれば、その方が犠牲は減るかもしれない。帝国軍が怯んでくれるなら、その分、竜王軍は有利に戦える。
エドワードはゆらりと体を傾げて、倉庫の壁に寄り掛かった。マントに覆われた翼に、石壁の冷たさが伝わる。
頭に、血が上り過ぎていた。もう少し冷静な思考をしなくては、自分のせいで、無駄に兵士を死なせてしまう。
自決用の毒薬も、使うとは限らない。作って持たせるだけでも、兵士に覚悟を定めさせ、士気の向上に繋がる。
ガルムがそう考えて命じたのかは解らないが、エドワードは、少なくとも自分はそう思っておくことにしておいた。
そうでも考えなければ、将軍への憤りが起きそうだった。




その夜。竜王城の一室で、ガルムは安らいでいた。
初戦で勝利を収めたことで、竜王は賛辞の言葉を下した。兵士の士気も高まった。民衆にも戦意が広がった。
帝国に、勝てる。そして、竜に反感を抱く人間を制圧し、竜が人と等しく生きる世界を生み出すことが出来る。
そう確信し、ガルムは口の端に笑みを作った。竜王に接見するために着ていた、軍服の襟元を緩めた。
ソファーの傍に置かれたテーブルから、竜の体にも効く酒を手に取ろうとしたが、気配を感じて手を引いた。
扉の向こうから、足音が近付いてきた。体重はあまり重くなく、優雅で、それでいて隙のない足取りだった。
その足音と気配で、それが誰であるか、すぐに解った。ガルムは無意識に張っていた警戒心を、緩めた。

「どうぞ」

扉が叩かれる前に答えると、間を置かずに扉が開いた。細い隙間から、アンジェリーナが身を滑り込ませた。
アンジェリーナは後ろ手に扉を閉めると、扉に寄り掛かった。華奢な白い腕を組み、ガルムを見下げる。

「機嫌良さそうねぇ、ガルム。まぁ、あれだけ人間殺したんだから、ちょっとぐらいは気が晴れるわよね」

「アンジェリーナ様。戦果の報告は、既に済ませたはずですが。何かご用件でも」

ガルムは床に膝を付き、アンジェリーナにかしずいた。アンジェリーナは、悠然と将軍を見下ろす。

「王都に、戦火が届く気配はある?」

「今のところはございません。帝国軍の進路と竜王軍の進路の中間にはなりますが、それぐらいです」

ガルムは、深々と頭を下げた。そう、とアンジェリーナは素っ気なく返した。

「戦地にならないって保証は?」

「断言は出来ません」

「あっそう。頼りにならないわねぇ、将軍閣下は」

アンジェリーナは、やけに残念そうに息を零した。ガルムは、更に頭を下げた。

「申し訳ございません、アンジェリーナ様」

柔らかな絨毯に押し当てた手を固く握り締めながら、ガルムは、沸き上がってくる感情を必死に押し殺していた。
腹立たしかった。そして、悔しかった。アンジェリーナの役に立てないことと、彼女の内にある夫の存在の大きさに。
アンジェリーナが、何を言いたいのかは察しが付いていた。王都には、彼女の夫であったロバートの墓がある。
そして、彼女の一人娘、フィフィリアンヌの住まう城がある。王都が戦地になれば、どちらも破壊されるだろう。
アンジェリーナは、それを守りたいのだ。守り切れる、と断言出来ないことが、ガルムの苛立ちを一層強くさせた。
帝国との戦いは、まだ始まったばかりだ。これから、戦況がどんな具合になっていくのか、全く予想出来ない。
敵の動きと自軍の動きで、ある程度のことは予想出来るが、その結果までを見通すことなど出来るはずがない。
だから、王都が戦地になるとも限らないし、ならないとも言い切れない。ガルムは、ぎちりと奥歯を噛み締めた。
アンジェリーナは、頭を下げたままの将軍を見下ろしていたが、遠い目をした。窓の外では、星が輝いている。

「ねえ、ガルム」

「なんでございましょうか」

「あんた、惚れてる女とか、いるの?」

予想もしていなかった言葉に、ガルムはぎくりとした。答えられずにいると、アンジェリーナは呟いた。

「いるんだったら、さっさと好きだとかなんとか言っておきなさい。で、子供でもなんでも作っておきなさいよ」

「なぜ、そのような、ことを」

上擦りそうな声を必死に押さえ、ガルムは問い返した。アンジェリーナは、ふっと笑った。

「その方が、後悔しないわよ。死んでも、死なれても。私はね、あの人が死んでから、ずうっと後悔してんのよ」

憂いを帯びた眼差しは色を含み、寂しげな笑みは艶めかしかった。

「フィフィーナリリアンヌが生まれてから十年が過ぎて、また子供を作れるって時期が来たのに、私はあの人の傍に行かなかった。行けなかったのよ、フィフィーナリリアンヌに変な意地張っちゃって。だから、あの人に抱かれることもなかったわ。本当は、抱いて欲しくて仕方なかったんだけどね、意地とか仕事とかが邪魔をして、私がぐずぐずしている間に、あの人は帝国に殺されて死んじゃった。馬鹿みたい、っていうか、馬鹿よねぇ私も」

珍しく、アンジェリーナの口調は気弱だった。

「だから、あんたぐらいは後悔しないようにしなさいよ。惚れた相手に死なれてから後悔しても、遅いんだから」

ガルムは、アンジェリーナから目を離せなかった。今までに見たことのない表情の彼女は、とても美しかった。
手のひらにきつく爪を食い込ませていなければ、劣情に任せた言葉が、欲情が迫り上がってきそうになる。
アンジェリーナを意識してしまった時から、これ以上愛してはいけないと思った。だが、思えば思うほど、強くなる。
触れてはいけない、心を寄せてはいけない、見てはいけない、と考えれば考えるほど、意識はそちらに向いていく。
いつのまにか、喉が渇いていた。唾を飲み下し、強く目を閉じてから開き、彼女から目を逸らすために俯いた。

「ご忠告、ありがとうございます」

言えたのは、それだけだった。胸中に渦巻く様々な思いをまとめようと思っても、何一つ、形になってくれなかった。
アンジェリーナは組んでいた腕を解くと、大袈裟な仕草で髪を払い、マントを広げながらガルムに背を向けた。

「あー、なんか、すっごくらしくないこと言っちゃったわ。速攻で忘れて。忘れないと蹴り飛ばすから」

アンジェリーナは扉を開き、体を廊下に出したが、一度ガルムへ振り返った。

「別にあんたに活躍して欲しいわけじゃないけど、礼儀として言っておくわ。勇ましき竜の戦士に、竜女神の加護と、武運があらんことを」

「竜女神から与えられし我が牙と爪に、勝利の力が宿らんことを」

ガルムが返すと、アンジェリーナはするりと廊下に出、扉を閉めた。足早に、体重の軽い足音が遠ざかっていった。
彼女の気配が完全に失せてから、ガルムは息を吐いた。握り締めていた拳を開くと、うっすらと血が滲んでいた。
噛み締めていた奥歯が痛く、唇に牙が食い込んでいる。マントの下で縮めていた翼を広げ、立ち上がった。
将軍たるもの、女一人に惑わされてはいけない。しかも、それは、人と契りを交わした守護魔導師なのだから。
絶対に、触れてはいけない。だが、そう思えば思うほど、アンジェリーナが思考を占める割合は増えていく。
禁断の恋ほど燃え上がるとは、良く言ったものだ。障害が多ければ多いほど、相手を求めてしまいたくなる。
ガルムは、アンジェリーナに対する恋情と同時に高まった欲情を持て余しながら、乱暴に酒を喉に流し込んだ。
テーブルが揺れるほどグラスを叩き付け、息を荒げた。アンジェリーナの夫だけでなく、その娘にも嫉妬が湧く。
たかが女だ。見た目が美しく力もあるが、偉そうな態度と見下した口調の、本来であれば毛嫌いする類の女だ。
だが、好きだ。胸に生じる鈍い痛みと熱で、内側から焦げてしまいそうな程、愛しくてたまらず、欲してしまう。
こんなに女を欲するのは、生まれて初めてだ。女など、欲望を発散し子供を孕ませるだけのものだと思っていた。
そんなものに、惑わされている。彼女を自分のものに出来るのであれば、今すぐにでも、貫いてしまいたい。
何もこんな時に、とは思うが、止まらなかった。ガルムは軍服に付いた階級章を握り締め、理性を呼び起こした。
手の中で、将軍を示す印が歪んでいた。




まだ、世界に魔法が満ち、魔性の力を持つ者達が長らえていた時代。
気高き誇りと強き信念の元に、同族を守るために、黒き竜が戦っていた。
彼と、彼と相反する考えを持つ白き竜が、目指す先はただ一つ。

竜の世界の、平和なのである。





 


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