ドラゴンは眠らない




黒竜戦記 中



竜王軍と帝国軍の戦争が始まり、一年半が過ぎた。


戦況は、日に日に悪化していた。当初は優勢と思われていた竜王軍には弱点があり、帝国軍はそこを突いた。
それは、圧倒的な兵力の差だった。どれほど竜に力があれど、竜族の絶対数は、人間を遥かに下回っていた。
そして、開戦直後は竜との戦いに慣れていなかった帝国軍も、竜族の扱いに慣れ、着実に戦果を上げていった。
一時期は竜王軍が征服した帝国領土も、あっという間に取り返し、その戦いで竜王軍は多数の戦死者を出した。
竜王軍が劣勢へと追い込まれていくのとは裏腹に、帝国軍は王国軍と結託し、兵力を更に増強していった。
その数、十万。対する竜王軍の残存兵力は、新たに志願した兵士も含めても、五千足らずしかいなかった。
だが、竜王軍は、その圧倒的な戦力差に怯むことはなく、開戦当時と変わらぬ勢いで猛攻撃を続けていた。
当初、この戦争は、人々の間では人竜戦争と呼称されていたが、竜王軍の将軍が黒竜だと解ると変化した。
自軍の兵士を見捨てても戦略を優先し、命乞いをする人間を無慈悲に切り裂く、恐ろしき将軍への畏怖を込め。
黒竜戦争、と称されるようになった。




その日も、竜王都には負傷した兵士が運ばれてきていた。
兵士の中でもまだ軽傷の兵士達が、深い傷を負った兵士の頭と尾を持って、減速しながら舞い降りてきた。
竜王都の外れにある草原には、彼らと同じように帰還した竜王軍兵士達がおり、痛みで苦しげに呻いていた。
青々とした夏草は兵士達の流す血に汚れ、どす黒くなっている。中には、腕が化膿して壊死した者もいる。
草の上に横たわる竜達の間を、竜王軍の医療部隊の医者達と、その手伝いの女達が忙しく駆け回っていた。
ギルディオスは、赤竜族の兵士の尾に深く刺さった剣を、引き抜いた。抜く瞬間に、兵士がぐっと呻いた。
その口元から、貧血と消耗のためか、胃の内容物が溢れ出た。胃液の中には、人のものらしき鎧があった。
ギルディオスはそれをなるべく見ないようにしつつ、帝国軍の剣を放り投げ、傷口から溢れる血を布で拭う。
白かった布が兵士の血で赤黒くなり、絞れるほど血が染み込んだ頃、ようやく医者の一人が駆けてきた。
白竜族の医者は、ギルディオスに礼を言ってから、兵士の傷を見た。ウロコが砕かれ、肉が露出している。

「こりゃ、縫わなきゃダメだな」

「再生封じの呪文が描いてあったからなぁ、これ」

ギルディオスは、背後に投げた帝国軍の剣を見下ろした。べっとりと汚れた刃には、魔法文字が刻まれている。
草原の外れには、同じように兵士から引き抜かれた武器の山が築かれていて、いずれも竜の血に汚れている。
それらには、びっしりと魔法文字が刻み込まれていて、ものによっては魔法陣すら施されているものもある。
一年半にも渡る竜族との戦争の末、帝国軍は知恵を付け、ドラゴン・スレイヤー達もすっかり腕を磨いた。
開戦したばかりの頃は、再生能力の高い竜族を殺すのに手間取っていたが、近頃では手早く殺してしまう。
帝国軍の魔導師が、竜族の再生能力を妨げる方法を見つけ、それを帝国軍の魔導師部隊に広めたからである。
竜族の再生能力は、その身に宿る大量の魔力を根源にしている。魔力で傷を塞ぎ、血を増やし、骨すら復元する。
だが、逆を言ってしまえば、魔力を高めることが出来なければ肉体を再生出来ない、ということなのである。
その弱点を知った帝国の魔導師部隊は、最前線で竜と戦う歩兵達と協力し、このような作戦を展開した。
魔力を制する魔法を施した剣を竜に突き刺し、魔力の流れを乱し、魔力弾を打ち込んで魔力中枢を掻き乱す。
その結果、竜の体に漲る魔力は傷口に流れ込まなくなり、負傷は回復せず、竜王軍の兵士は怯んでしまう。
そうして怯んだ隙に、魔法の集中砲火を浴びせられてしまえば、さすがの竜と言えども、ひとたまりもない。
この、姑息で確実な方法で殺された竜王軍の歩兵は、どれほどの数になっているのか、考えたくもなかった。
ギルディオスは、医療部隊の医者に言われるがままに、彼の持ってきた道具を手渡しながら、辺りを見回した。
動き回る女達から離れた位置にいるフィフィリアンヌは、薬の詰まったカバンを抱え、どこかを睨んでいた。
ギルディオスは、何の気なしに彼女の視線を辿った。赤い瞳が睨む先には、やはり、負傷した竜がいた。
その竜の傷は、他の兵士達に比べたら相当に深く、竜王都まで飛んでこられたのが奇跡だと思えるほどだ。
尾の骨が砕かれているのか、青いウロコに包まれた太い尾は変な方向に曲がり、片目は槍で潰されている。
半開きの口からは、真っ赤な舌がでろりと垂れ下がり、血と胃液の混じった唾液が牙の隙間から流れていた。
その負傷した青竜の傍には、青竜族の女、ウェンディがいた。傷付いた青竜に縋り、悲痛な叫び声を上げる。

「ほら、あたしだよ! 解るか、解るだろう、あたしだよ、フォウロン!」

だが、青竜は反応しない。ウェンディは血と唾液に服が汚れるのも構わず、青竜の顔にしがみ付く。

「帰ってきたんだよ、竜王都に戻ってこられたんだよ! 一緒に、東竜都に戻ろうって約束しただろう!」

だくだくと涙を流しながら、ウェンディは絶叫する。握り締めた拳で、青竜の肌を何度も叩く。

「お願いだよぅ、起きて、起きてようフォウロン!」

「かえって、きたのか」

掠れた、力のない声がした。竜の苦しげな呻き声と、魔法で作った男の声が、入り混じる。

「おれは…かえって、こられたのか」

「そうだよ、帰ってきたんだよ、フォウロン!」

ウェンディは、青竜の目元に顔を近付けた。巨大な赤い瞳が動き、彼女を捉える。

「…すまん」

「あ、謝る必要なんて、どこにあるんだよ! 大丈夫だよフォウロン、すぐに体は治るよ、片目がなくたってフォウロンはフォウロンなんだから、あたし、ちっとも気にしてないから!」

ウェンディは、無理に声を明るくさせた。フォウロンの目元が僅かに緩み、涙が滲み出た。

「とうりゅうとに、かえったら、おまえと、おれの」

こを、と言い掛けて、フォウロンの声が詰まった。ウェンディがはっとして体を起こすと、太い喉が引きつった。
切り裂かれた腹が上下し、喉の内側を何かが迫り上がってきたかと思うと、ごばっと勢い良く吐き出した。
目一杯開かれた口の中から出てきたのは、中途半端に消化された馬と、甲冑と、数人の人間の死体だった。
ウェンディは身を引いたまま、立ち尽くしていた。フォウロンの嘔吐は止まらず、際限なく胃液を吐き続ける。
飛び散った胃液の強烈な酸が、ウェンディの服の裾を焼いていたが、彼女はそこに気を向ける余裕はなかった。
フォウロンは首を持ち上げたかと思うと、咆えた。悔しげに、苦しげに、悲しげに、力の限り咆え続けた。

「ダメだよフォウロン、動いちゃダメだ、動いたら死んじまうよぉ!」

ウェンディが縋ろうとすると、フォウロンは頭を下げ、血の混じった胃液に汚れた鼻先を彼女に擦り付けた。
荒っぽい愛撫に胸を押されたウェンディは、彼にやり返そうとしたが、青竜の巨体がぐらりと揺らいだ。
切なげなか細い鳴き声を漏らしながら、竜は倒れた。震動で地面が揺らぎ、ウェンディの足元も揺らいだ。
己の血と吐瀉物に汚れた草むらに倒れ込んだ青竜は、最後の力を奮い立たせて、愛しい女を見つめていた。
力強く見開かれていた目の、瞼が震えた。爪が全て折れた手が落ちると、赤い瞳からも、輝きが失せた。
血溜まりと胃液に頭を浸した青竜の巨大な肉体から、魂の気配が失せていくのが、感覚に伝わってきた。
その気配が完全に失せると、ウェンディは力なく地面に座り込んだ。震えた声を漏らしていたが、絶叫した。

「ふぉうろおおおおおおおんっ!」

だが、青竜は二度と起き上がることはなかった。見開かれている赤い瞳は、もう何も映してはいなかった。
ギルディオスは、泣き喚くウェンディを見つめていた。オレが死んだ時、メアリーもああだったのかな、と。
何度見ても、嫌な光景だ。戦場から戻ってきた勇敢なる戦士達は、愛する女に見守られて、次々に死んでいく。
女、或いは自分の子に会うためだけに残していた最後の気力を使い果たすと、皆、呆気なく事切れてしまう。
やはり、最後の支えはそれなのだ。竜王と将軍への忠誠心などよりも、誰かへの愛情の方が余程強い力となる。
守りたい者がいるから、彼らは戦う。守らなければならないから、戦って戦って、そして、死んでしまうのだ。
どうにかして命を取り留めさせたいとは思うが、帝国軍は竜王軍の兵士の全てに致命傷となる傷を与えている。
どれだけ医者が手を尽くしても、どれだけ魔法で傷を塞ごうとも、どれだけ薬を使おうとも、死ぬ時は死ぬ。
ギルディオスは、フィフィリアンヌに目線を戻した。美しい少女は、無表情のように見えるが、違っていた。
細い眉を吊り上げて、目元を歪め、薄い唇を噛み締めている。やはり彼女も、悔しくてならないようだった。
ギルディオスは、都に振り返った。竜王都の奧には、周囲の森を切り開いて作った、戦士達の墓場があった。
まだ新しい墓場には、大量のツノが突き立てられていた。




竜王城を囲む湖の傍で、ウェンディは声を殺して泣いていた。
自分の腕に牙を突き立てて噛み締めていたが、涙は止まらず、拭った傍から溢れ出して頬を伝い落ちていく。
口中には自分の血の味と、フォウロンが倒れた際に少しだけ口に入ってしまった彼の血の味が、混じっていた。
長い間腕を噛んでいるので、力の入らなくなった顎が震えている。ウェンディは、彼との記憶を思い出した。
ウェンディと同じく、東竜都の出身のフォウロンは、幼い頃からいつも近くにいた兄弟のような存在の男だった。
フォウロンは、口調と態度こそ荒っぽかったが気持ちが優しく、ウェンディに東方の武術を教えてくれた。
将軍に竜王都に赴いた時、ウェンディは兵士に志願して戦うつもりでいたが、フォウロンは戦うなと言った。
同族のため、竜王のため、将軍のために戦う必要がある、と言ったウェンディに、フォウロンは声を荒げた。
戦うのは男の仕事だ、女は戦う必要はない。その言葉にウェンディは怒ってしまい、フォウロンを張り飛ばした。
あたしは戦士だ、だから戦うんだ。それに、フォウロンは言い返した。違う、お前は女だ、ただの女なんだ。
いつになく女だ女だと言うフォウロンに、ウェンディは怒っていたが戸惑ってしまい、言葉に詰まってしまった。
フォウロンがウェンディを女だと言うのは少なく、逆に、お前は男だろう、とからかうことの方が多かったのだ。
だから、次第に妙な気がしてきたウェンディが訝っていると、フォウロンはあらぬ方向を見ながら、言った。
お前は女だ、だからオレが戦う。戦って、守るんだ。その時の彼は、照れくさそうで、情けなさそうだった。
それが、一年ほど前の出来事だ。その日を境に、フォウロンとウェンディの関係は、兄弟から男女になった。
最初はどちらもぎこちなかったが、毎日のように接するうちに互いに慣れ、ようやく体を重ねたところだった。
竜王軍と帝国軍との戦いが終わったら、一緒に東竜都に帰り、結婚して家族になろうという約束をした。
帝国軍との戦いへ出撃するフォウロンを見送ったのが、一週間前だった。その様は、ありありと覚えている。
飛行部隊と共に飛び立つ前に、彼が言い残していった言葉が蘇る。帰ってきたら、すぐにでも孕ませてやる。
ウェンディは、子供を成せる体になっていた。だが、体を重ねた回数が少ないので、精は放たれていなかった。
行為の最中に、そうしてくれと頼んだこともあったが、フォウロンがやけに照れて、してくれなかったのだ。
ウェンディは彼の子が作れなかったことが悔しかったが、彼はもっと悔しいのだと思うと、涙の量は増した。
腕を噛み締める顎を緩め、肩を上下させた。痛みと激情で感覚が鈍っており、背後の気配に気付かなかった。
間を置いてから、ウェンディは腕から牙を抜いて振り返った。街明かりを背負った、大柄な影が立っていた。

「よう」

ギルディオスは、片手で草原の方向を示した。

「明日にでも、全部、焼くってよ」

ギルディオスの言葉が何を指しているのか、ウェンディにはすぐに解った。それは、死んだ竜の死体のことだ。
死体を長く残しておいて、腐らせてしまっては悪い病が起きてしまうし、焼却処理しなければ墓が作れない。
それでなくても巨大な竜の墓を作るのは大変な作業だが、その仕事を行うのは、手の空いている女達だ。
男達に比べれば非力な女達に負担を掛けないように、死した兵士が醜態を晒さないために、焼いてしまうのだ。
仕方ないことだ、必要なことだ、とは思うが、出来ることならフォウロンを焼いて欲しくない、とウェンディは思った。
死体であっても、もう少しだけ近くにいたい。だが、死者に近付いてはいけない、と医者達が口々に言ってくる。
死んだ兵士に施された魔法が効いてしまうかもしれないし、何かしらの毒が仕掛けられているもしれないからだ。
ウェンディは、ギルディオスの背後の山を見上げた。野戦病院と化した草原には、かがり火が焚かれている。
泣き疲れて呆けているウェンディを見下ろしたギルディオスは、その口元と腕が、血塗れであることに気付いた。
恐らく、泣き声を堪えるために、噛み締めていたのだろう。ウェンディは気も強いが、自尊心も高い女だ。
それが痛々しくて、ギルディオスは彼女を慰めてやりたくなったが、浮かび掛けてきた言葉を押し込めた。
こういう時に、下手な言葉を掛けるべきではない。それに、ギルディオスは、戦わないことを選んでいる。
ギルディオスは、この戦争では戦わないと決断したことは間違っていないと思うし、決意が揺らいだことはない。
人に、帝国軍に味方したいなどとは思わないし、かといって、一介の傭兵如きが、竜族の力になれるはずはない。
だから、どっちつかずでいるよりも、いっそのことどちらも切り捨ててしまって、誰とも戦わない道を選んだのだ。
だが、傍目から見れば、戦いから逃げているようにしか見えない。なので、竜族から罵倒されたこともある。
ウェンディも、そう思っているかもしれない。そうであれば、余計なことは言わない方が、彼女を乱さないで済む。
ギルディオスは黙りこくったまま、ウェンディに背を向けた。背中に乗せたバスタードソードが、装甲に当たる。
歩き出そうとすると、気力の抜けた声が掛かった。ウェンディは、赤いマントを羽織った甲冑の背を見上げる。

「待って」

「ん」

ギルディオスが振り向くと、ウェンディは自身の血で汚れた口元を拭い、呟いた。

「あんた、さぁ」

泣いていたせいで、彼女の言葉は不明瞭だった。

「あんたも、自分の女、残して死んだんだよね」

「ああ」

「死んだ時、悔しかった?」

「当然だ。悔しくないわけがねぇ」

ギルディオスの呟きに、ウェンディは涙が蘇り、ぼたぼたと足元に落とした。

「…フォウロンも?」

「そりゃ、そうだろうぜ」

ギルディオスは、無数のかがり火に囲まれている、草原の野戦病院に目をやった。

「けどよ、死ぬ前にお前に会えて、奴はちったあ救われたと思うぜ。まぁ、オレの想像でしかねぇけど」

甲冑の言葉は淡々としていたが、それでいて、物悲しげだった。

「死ぬのってのは、楽じゃねぇしすっげぇ寂しい。けどよ、戦場で訳も解らないうちに死んじまうのに比べたら、好きな女の傍で逝っちまう方が、余程いいに決まってらぁな。それと、間違っても後なんか追うんじゃねぇぞ。自分が死んだせいで好きな女に死なれちまった、なんてことをフォウロンの奴が知ったら、それこそ、死んでも死にきれねぇから」

「あたしさぁ」

ウェンディは涙でぼやけた視界を上げ、かがり火に照らされた草原と山と、その奧の星空を仰いだ。

「フォウロンが、初めてなんだ。あんなに好きになったのも、まぐわったのも、全部。だから、全部、あげちまうつもりでいたんだ。なのに、勝手に、先に」

ウェンディは唇を震わせ、声を上擦らせる。

「…死んじまいやがってぇ」

「あいつも、死にたくって死んだわけじゃねぇんだ。責めてやるな」

ギルディオスが言うと、ウェンディは喚いた。

「解ってるようそんなこと! 解ってるから、腹が立つんじゃないか! フォウロンが悔しいのも悲しいのも解るから、腹が立って腹が立って仕方ないんだぁ!」

人間共めぇ、よくもあたしの男を、と髪を振り乱しながら叫び散らすウェンディに、ギルディオスは背を向けた。
竜王都に滞在している一年半の間に、人と竜の隔たりと、己の力の無さを、ギルディオスは思い知っていた。
ギルディオスは、出来ることならウェンディを出陣させてやりたかったが、するべきではない、とも思った。
ウェンディが死んでしまえば、その分だけ生み出される竜の数が減り、竜族が滅びへと進んでしまうだろう。
しかし、ウェンディの悔しさは相当なものだ。どこかで晴らしてやらなければ、方向を違えるかもしれない。
だが、それを竜王軍に進言することは出来ない。ギルディオスは、あくまでも客人であり、軍人ではないのだ。
焦燥を抱いたまま、ギルディオスは湖畔から離れた。




その頃。ガルムは、竜王城の一室にいた。
窓を開いて夜風を入れ、香と情交の匂いを散らした。鉱石ランプに照らされた寝台のシーツは、乱れている。
軍服を直しながら、ガルムは晴れ渡らない心中を持て余していた。どれだけ女を蹂躙しても、満足しない。
女の柔らかな体は、戦いで高ぶった神経を落ち着けてその場の欲望を満たしてくれるが、それだけだった。
先程もそうだった。アンジェリーナに似ている女を、と思って呼び寄せた緑竜族の女を、力任せに貫いた。
だが、少しも満たされなかった。何度行おうとも同じことで、そのうちに女が気を失ったので、連れ出させた。
ガルムは、言い表しようのない不安に襲われていた。竜王軍の劣勢もさることながら、己の心中が揺れている。
帝国軍と王国軍とのひっきりなしの戦闘に追われ、竜王都に帰ってくることもままならず、彼女を目に出来ない。
そうすれば、あの動揺もなくなるだろうと思ったのだが、アンジェリーナへの恋情と欲動は増すばかりだった。
戦いにだけ集中しろ。他のものは、アンジェリーナも、エドワードも、死にゆく兵士も、何も見てはいけない。
見てしまったら、揺らいでしまう。ガルムが自分の内に築いてきた、確固たる正義に、疑念を抱いてしまうだろう。
戦っていて、思う時がある。帝国軍の圧倒的な軍勢と真正面からぶつかり、消耗戦を繰り返していて良いのか、と。
なるべく死者を出さないように戦略を練っても、最終的には最前線に頼らずを得なくなり、兵士達が死していく。
それが、辛くないはずがない。どれだけ彼らのことを、消耗品だ、手駒だと思っていても、同族は同族なのだ。
火照りの残る体を苛立つ心中を落ち着けるべく、酒の瓶に手を伸ばし、グラスに空けずにそのまま煽った。
喉を焼け焦がしそうな液体を一気に胃に流し込み、瓶を口から外した。口元を拭っていると、扉が叩かれた。

「入れ」

ガルムが返事をすると、扉が開いた。血と泥に汚れた白衣を着た少女が、挨拶もなく入ってきた。

「いい身分だな、将軍閣下」

白衣の少女、フィフィリアンヌは頭に巻いていた布を外すと、頭を左右に振って濃緑の長い髪を散らした。
その布を白衣のポケットに押し込むと、髪を掻き上げた。汗の中に、鉄錆と土の混じった匂いが零れる。

「女を抱いている暇があったら、部下の治療を手伝ったらどうだ。ファイドの奴は、今日も飲まず食わずだぞ」

フィフィリアンヌは無遠慮に歩み寄ってくると、ガルムを下から睨んだ。

「第五分隊の死者は二十八だ。生存者も、そのほとんどが再起不能だ。見た目はまともでも、魔力中枢を乱されておったり魂を潰されかけておったりで、とてもじゃないが元には戻せん。皆、じきに死ぬ」

「その報告は既に受けている」

ガルムが機械的に返すと、フィフィリアンヌは手首に巻いていた紐を外して、長い髪を首の後ろで括った。

「聞け。報告はまだある。その死者、負傷者の大半は、百にも満たない歳の若者ばかりだ。いずれも貴様と貴様の煽り立てた誇りを信じて、竜族の再建を夢見て、その牙と爪を振るい、そして敗れ去った。現在までの戦死者数は、九百七十一。現存兵力は、私が知っている限りで、三千二百五十四。対する帝国軍王国軍の軍勢は、およそ九万五千。近隣諸国から援護で、その数は更に増えると思われる」

フィフィリアンヌは、語気を強めた。

「引くなら今だ。これ以上の犠牲を出しても、結果は何一つ変わりはせんぞ」

「却下する。たとえ最後の一人になろうとも、我々は戦い抜くのだ!」

ガルムは表情を硬くしたフィフィリアンヌを見下ろし、その襟元を掴むと力任せに引き寄せた。

「身の程を弁えろ、半竜半人! 首をへし折られたいのか!」

真正面から、二人は視線をぶつけた。殺気立っているガルムの目に怯むことなく、フィフィリアンヌは見返す。
そのまましばらく睨み合っていたが、ガルムはフィフィリアンヌを投げ飛ばすように離し、肩を軽く突いた。
フィフィリアンヌは少しよろけたが、姿勢を戻した。形の歪んでしまった襟を正してから、将軍を見上げる。

「それで、何の用事だ。この忙しい時に呼び出しおって、助けられる負傷者が死にでもしたらどうしてくれる」

ガルムは酒が回ってきたのを感じながら、思い人に良く似た面差しの少女を見下ろした。

「戦闘高揚剤を作れるか」

「貴様らしくもない算段だな。竜としての誇りを重んじる貴様が、そんな即物的な策に頼ろうとは」

フィフィリアンヌは、馬鹿馬鹿しげに目を逸らす。ガルムは彼女の細い顎を掴むと、強引に目線を戻させる。

「答えろ。作れるか作れないか、と聞いているんだ!」

「作れるぞ。私の本業だからな」

フィフィリアンヌは、頬に食い込んでくるガルムの指の太さに辟易し、眉根を歪める。

「だが、竜に効くものとなると、その威力は並大抵のものではない。戦闘高揚剤、すなわち、向精神薬の類は神経を冒すものだから、薬の効果が切れても影響は多大に残る。薬が効いている最中は、痛覚だけでなく様々な感覚が鈍るから、平常通りの動きを望むでないぞ。痛みが失せて気分が高揚している分、無謀な行動に及び、結果として命を落とす兵が増えてしまうだろう。それでも、作らせるのか」

「…そうか」

ガルムはフィフィリアンヌの顎から手を離し、身を引いた。フィフィリアンヌは、顎と頬を手の甲で拭う。

「解ったのであれば、命ずるな。私も、その手の薬を使うのは嫌いだ。薬で弛緩した竜など、見たくもない」

ガルムの様子は、平静を欠いていた。酒の酔いと情交の名残があるにしても、普段から懸け離れている。
フィフィリアンヌに触れたことも、そうだ。ガルムはフィフィリアンヌに触れるどころか、近寄りもしない。
顔を合わせたばかりの頃ほどではないが、ガルムが半竜半人であるフィフィリアンヌを、好いてはいない。
なので、命令を下すために顔を合わせることはあっても、直接手を伸ばして触れてきたことはなかった。
確かに、ガルムという男は元から血の気が多いが、いきなり怒鳴り散らすようなことは、あまりしないはずだ。
フィフィリアンヌは怪訝に思いながらも、これ以上ガルムに触れられないために、一歩後退して身構えた。

「大分荒れているようだが、鎮静剤でも作ってやろうか。金貨二十五枚で、だが」

「いや…いい」

ガルムは首を横に振ると、手近にあった椅子に腰を下ろした。肩を落とすと、背中の大きな翼も下がった。
自分が何をしたのか、間を置いてから思い知った。指先に残る、少女の肌の感触は、予想以上に滑らかだった。
それを、この女の母であるアンジェリーナに重ねないわけがなかった。己の意思とは裏腹に、欲望が増大する。
本心としては、フィフィリアンヌに鎮静剤を作ってもらって飲んでしまい、深い眠りに落ちてしまいたかった。
だが、そんなことをしてしまえば緊急事態に対処出来ないし、なにより内に漲る誇りが、それを許さなかった。
己は将軍だ。悪しき帝国を滅ぼすために、竜族の男達を率いて戦いに赴き、力の限り戦い尽くすのが役割だ。
そんな立場の男が、たとえどんな理由があろうとも、薬になど頼って眠ってしまうというのは情けなさ過ぎる。
フィフィリアンヌはまだ何か言いたげだったが、ガルムに背を向けた。白衣の裾が翻り、白い脹ら脛が覗いた。

「それで、戦闘高揚剤の注文はするのか、しないのか。それだけは聞いておかねばならん」

「その作戦は中止する。以上だ」

ガルムの答えにフィフィリアンヌは、ふん、と小さく息を吐いた。

「それで良いのだ。戦争は、狂気の世界だ。その中に更なる狂気を生み出すことは、愚行に過ぎんからな」

失礼する、とフィフィリアンヌはさっさと扉を開けて出ていった。足早な軽い足音が、次第に遠ざかっていく。
ガルムは椅子に身を沈め、腹に染み渡る酒の熱と、指先に残るフィフィリアンヌの肌の感触を、持て余していた。
狂気の世界。それは、間違いない。戦いを続けていくうちに、正常な思考が失われていくのが、自分でも解る。
誇りと竜族のため、とは言いながらも、やっていることは殺戮だ。帝国の所業と、なんら変わることはない。
ふと、我に返る瞬間がある。自分は何をやっているんだ、何のために同族を死に追いやっているのだ、と。
だが、それはすぐに払拭しなければならない。兵士達に命令を下す将軍が、戦いに疑問を持ってはいけない。
ガルムは酒の瓶に手を伸ばそうとしたが、止めた。だらりと手を下ろし、装飾の施されている天井を見上げた。
次第に、怒りと焦燥が落ち着いてきた。高ぶっていた神経が宥められると、思考も元に戻り、平静になった。
戦闘高揚剤など、使いたいはずがない。だが、勝たなければならない、と思うと、使わざるを得ないと思った。
これ以上敗北して同族の命を散らさせるよりも、薬の力に頼り、狂気と化した兵士達を暴れさせるべきだ、と。
そうしなければ、竜は滅ぶ。そして、そうでもしなければ、帝国軍と王国軍は、いや、人間は滅ぼせない。
自分の考えにぎょっとして、ガルムは椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。今、自分は何を考えていたのだ。
敵は帝国だけだ。竜族を脅かし、殺戮を繰り返してきた帝国に、それ相応の報復としての戦いを行っているのだ。
人間の全てが、敵というわけではない。しかし、ほんの一瞬ではあったが、ガルムは人の全てが敵だと思った。
焦燥に隠されていた感情が、じわりと胸の内に広がってくる。それを払拭しようと思っても、出来なかった。
どす黒いものが、魂を締め付けていた。





 


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