ドラゴンは眠らない




黒竜戦記 中



数日後。東王都付近を制圧した竜王軍は、野営地を造り、駐留していた。
擬態の姿となった兵士達は、束の間の休息を楽しんでいた。竜王都から届けられた酒も、振る舞われていた。
エドワードは、周囲を近衛兵に固められつつ、その光景を眺めていた。酒には、口を付けていなかったが。
野営地の後ろにある東王都は、王都に比べれば大分小さく、王都のような巨大で分厚い城壁は造られていない。
だが、その代わりに深い堀がぐるりと巡らせてある。その水面は細かな波が立ち、眩しい西日で輝いていた。
エドワード率いる竜王軍第二大隊は、帝国軍との一進一退の攻防を続けていたが、勝機は見えていなかった。
なんとかして戦況を覆さなくては、消耗戦を繰り返して兵士達を死なせた挙げ句に、敗北してしまうだろう。
エドワードは、思うように進まなくなってしまった戦況に、焦燥を感じていたが、顔には出さないようにした。
野営地の目の前に広がる大地は、数日前の小競り合いの後に焼き払われていて、真っ黒な焦土と化していた。
そこを抜けてきた風は、煤の匂いに肉の焼ける匂いが混じっており、なんともいえない不快感をもたらした。
手中のグラスを揺らし、琥珀色の酒を弄びながら、エドワードは、竜王都に残してきた幼妻に思いを馳せていた。
エドワードの妻であるリーザとは、戦争が始まる数ヶ月前に結婚したばかりで、まだ子供を成してはいなかった。
リーザは、エドワードの生家であるドラゴニア家の血筋の白竜の娘で、エドワードとは多少血が繋がっている。
それ自体は、ドラゴニア家のような名門の家系ではよくあることなので、二人とも気にしてはいなかった。
問題は、リーザが若すぎることだった。彼女の年齢は四十にも満たず、子供と言っても差し支えがない。
老化が遅い分、成長も人間に比べれば大分遅い竜族の成人は三十五だ。だから、彼女は成人したばかりだった。
エドワードの年齢は二百五十を越えているので、リーザはまるきりの子供でしかなく、かなり戸惑ってしまった。
なので、夫婦としてやるべきことを一度もしたことがない。エドワードが、リーザに欲情出来ないからだった。
リーザは育ちの良い可愛らしい娘だが、言動にあまり落ち着きがなく、事ある事にエドワードに寄ってくる。
その様は、妻というよりも歳の離れた妹のようで、一度そうだと思うと、もうそうだとしか思えなくなった。
以前に、彼女から抱いてくれと言われたこともあったが、子供を犯すような気がして、その気になれなかった。
だが、今は別だった。長い間戦場で戦い続けていると、他人が恋しくなってしまい、無性に誰かに触れたかった。
元々、それほど性欲は強い方ではないのだが、戦い続けていると強制的に禁欲状態が続き、溜まってもいた。
エドワードは、無意識にため息を零した。それに気付いた近衛兵の一人が、エドワードを覗き込んできた。

「どうかなさいましたか、閣下」

「いや」

エドワードは手を付けていない酒を足元に置くと、黒竜族と赤竜族の混血である近衛兵を見上げた。

「お前には、妻はいるか」

「残念ながら、自分にはおりません」

少々情けなさそうに、近衛兵は眉を下げる。エドワードは、長い銀髪を掻き上げ、乱した。

「私には、いるといえばいる。だが、まだ女にはしてやれていないがな」

エドワードの脳裏に、快活な少女の姿が蘇る。幼すぎる妻は、愛らしい声を弾ませて、ころころと良く笑う。
結婚させられたばかりの頃は、リーザが鬱陶しかった。エド様、エド様、と何かにつけて呼び付けるからだ。
他愛もないことを理由に傍にいたがり、時には竜王城の門でエドワードの仕事が明けるのを待っていたりした。
最初は、見知らぬ男の元へ嫁がされたから不安なのだと思っていたが、彼女はそうではないのだと説明した。
リーザはまだ子供でございます、ですから男の方の喜ばせ方も接し方も、何一つ存じてはいないのです。
ですから、どんなことでも良いですから、エド様のことを知りたいのです。知って、喜ばせて差し上げたいのです。
そう言いながら、リーザは気恥ずかしげに頬を染めていた。彼女の方は、エドワードに惚れていたようだった。
だが、エドワードはそうもいかなかった。彼女の扱い方が解らず、妻ではなく子供として接してばかりだった。
帰ったら、ちゃんと女として接してやろう。そして、自分が死んでしまう前に、一度だけでも抱いてやろう。
そう思いながら、エドワードは竜王都の方向に振り返った。すると、東王都の向こうから、竜の影が近付いてきた。
西日に半身を照らされた立派な緑竜は、力強く羽ばたきながら野営地の上へとやってくると、ぐるりと巡った。
次第に高度を下げて足を下ろし、地面に擦って減速した。着地した緑竜は、息を荒げていて、尾に火傷がある。
緑竜の元へ兵士が駆け寄るよりも先に、緑竜はエドワードの方へと向き直ると、首を下げて腹這いになる。

「自分は、第四大隊上等兵、レック・ドラグーンであります! 副将軍閣下へ、第四大隊隊長、ウェストン・ドラグシス大佐からの緊急の連絡であります!」

「どうした、何があった!」

エドワードが立ち上がると、緑竜は野太い声を張り上げる。

「やられました! 帝国軍の狙いは、東王都付近の領土を取り戻すことではなかったのです! こちらは陽動だったのです! 現在、帝国軍は、東王都とは逆方向から進軍し、契約獣のワイバーンなどを引き連れた大部隊を」

緑竜は一度言葉を切ってから、血を吐かんばかりに叫んだ。



「竜王都へと、進めております!」



その絶叫に、竜王軍の兵士は動きを止めた。エドワードは大きく目を見開いていたが、部下に問うた。

「竜王都への報告は」

「自分と同じ所属の、テリー・ドラゴール少尉が向かわれました。ですが、思いの外敵の足が早いのであります。我ら第四大隊も竜王都へと向かっておりますが、到着には時間が掛かります」

緑竜の兵士、レックは眉間に深いシワを刻んだ。エドワードは白いマントを広げ、兵士達に手を振り翳す。

「聞いての通りだ! 総員、出撃準備! 直ちに竜王都へ向かい、帝国軍を迎え撃つ!」

「任務了解!」

一斉に、竜王軍の兵士達から声が上がった。軍靴が揃えた動きで叩き合わせられ、かん、と硬い音が響いた。
慌ただしく動き回り始めた兵士達を見ていたエドワードは、ふと、影と強い気配を感じて、上空を仰いだ。
近衛兵も、彼と同じように空を見上げた。東から藍色に変わりつつある空の高い場所を、巨体が抜けていく。
薄暗くなってきたので、その竜の色は見えなかったが、魔力の気配と雰囲気で、それが誰であるかが解った。

「アンジェリーナ様…」

エドワードの呟きは、兵士達の喧噪に掻き消されてしまった。竜の影は、北東へと向かって飛んでいった。
その先には、竜王都がある。エドワードは、アンジェリーナも気掛かりだったが、今はそれどころではない。
一刻も早く、竜王都に向かわなければならない。竜王都には多少の手勢は残っているが、負傷者ばかりだ。
竜王も、王妃も、王子も、王女も、いずれも守らなくては。そうしなければ、竜王家の血筋が途絶えてしまう。
ガルムは既に向かっただろう。あの男のことだ、兵士達の尻に火を点ける勢いで怒鳴って、追い立てたはずだ。
こちらも、そうしなくては。エドワードは、擬態の変化を解き、元の竜の姿に戻っている兵士達を、見据えた。
彼らは、竜王都の危機に対する不安と、竜王を守りたいという意思を示すために、力強い咆哮を繰り返していた。
いつになく、士気は高まっていた。




エドワード率いる竜王軍第二大隊が、竜王都に到着したのは夜明け前だった。
どれだけ急いでも、距離だけは縮まない。魔導師達の消耗を考えると、空間移動魔法の乱用は出来なかった。
東から昇ってきた朝日が、都から立ち上る煙を照らしていた。近付いていくにつれ、煙の匂いが強まった。
空を飛びながら、竜王都近辺の山を見下ろすと、竜王軍のものと思しき魔法の砲撃で斜面が抉られていた。
山道には、撃ち落とされたものと思しきワイバーンの死体が転がっていて、無惨にも焼き尽くされていた。
尖った山々を越え、川を遡っていくと、竜王都の姿が見えた。山に囲まれた都の中央では、湖が輝いている。
だが、その湖の中央には、城はそびえていなかった。半分以上が損壊し、城のある島も崩れかけていた。
その光景だけで、兵士達は息を飲んだ。エドワードも背筋に寒気が走ったが、ぐっと牙を噛み締めて堪えた。
高度を下げていくと、煙と死臭が鼻を突く。竜王都の街並みは、以前の姿が思い出せないほど、破壊されていた。
人間の死体も多かったが、竜の死体も多く転がっていた。そのいくつかは、腹が吹き飛び、臓物が零れている。
恐らく、魔法を発動させないために魔導師を喰らったのだろう。それは、歩兵が行う、本当に最後の手段だ。
一人でも多くの敵兵を滅ぼし、少しでも大きな被害をもたらすために、魔導師の魔法を腹の内で炸裂させる。
よく見ると、魔導師を喰らって腹の割れた兵士達の大半は、傷に治療を施された形跡があり、治りかけていた。
死している兵士の大半は、竜王都で傷を癒していた者達だった。最期の力を振り絞って、戦ったのだろう。
エドワードは、彼らの執念と戦意に敬意を払うため、大きく息を吸い込んでから、一際大きな声で咆えた。
背後の兵士達も、同じように咆哮した。同胞が死んだ悔しさと、故郷が滅ぼされた嘆きが、入り混じっていた。
竜王城の傍に、見知った姿があった。返り血に汚れた甲冑を着たウェストンが、エドワードを見上げていた。
エドワードは部下達に指示し、降下した。竜王城付近に着地すると、擬態の姿に変化し、魔法で服を身に纏う。
竜王城に繋がる橋の手前で、ウェストンは己の部下達と共に立っていたが、目線は城を囲む湖に向いていた。
湖面には人間の死体が浮かんでいたが、その下の泥の中に、朝日に映える銀色の肌を持った竜が沈んでいた。
自分で自分の舌を噛み切ったのか、牙の間から血が溢れている。その銀竜の傍で、もう一体銀竜が死んでいた。
水中で死んでいる銀竜の数は、五。それぞれ、竜王、王妃、第一王子、第二王子、第一王女であった。
エドワードの背後で、兵士達がくずおれた。ウェストンはこれ以上ないほど悔しげな顔をして、言葉を絞り出した。

「副将軍閣下。陛下や、殿下は、自害をなされたのであります」

ウェストンは、震えるほど強く拳を握っていた。手のひらに食い込んだ爪が皮を破り、指の間から血が滴る。

「人間に辱められるくらいなら、と…」

「で、ですが、将軍閣下は勝利なされたんでありますよね…?」

エドワードの背後から、兵士がウェストンに問い掛けた。ウェストンは顔を上げ、まだ火の燻る竜王都を見渡した。

「辛うじて、相打ちでした。アンジェリーナ様を除いた三方の守護魔導師も戦われたのですが、女子供を逃がすことを優先したために、都を守りきることは出来なかった。帝国軍は全滅させることは出来たが、我々の完全なる敗北です。守るべき君主を、死なせてしまったのですから」

エドワードは、言葉が出てこなかった。目の前の状況を理解しようとしても、頭に血が巡ってきてくれない。
もう、終わりだ。竜王都があるからこそ、竜王家が長らえていたからこそ、竜族達は命を懸けて戦っていた。
竜王都は、竜族の故郷だ。その故郷と、その主である何千年にも渡って長らえてきた竜王族が、死に絶えた。
たとえ、竜王軍が全員死したとしても、竜王族さえ生き延びることが出来れば、再建出来るはずだと信じていた。
それが、全て。エドワードは絶望と虚無感で膝が笑ってしまい、倒れてしまいそうだったが、辛うじて立っていた。
この場にガルムがいないことに気付いていたし、それが異様であるとも解っていたが、体が動かなかった。
滅びた都に差し込む朝日は、場違いなほど、清浄だった。




竜王都に再び夜が訪れた頃、ようやく街の火は消えた。
兵士達や、生き残りの医療部隊の面々は忙しく走り回っていた。死した兵士達を、そのままにしておけないのだ。
生きている者の傷を治し、死んだ者は燃やす。その作業だけで精一杯で、崩れた都には手を付けられなかった。
竜の死体の数百倍の数がある人間の死体も、腐敗が始まってしまう前に一塊にして、街の外れで燃やしている。
骨まで燃やすつもりらしく、その炎はやけに強かった。人の脂が溶けて骨が崩れるたびに、死体の山が揺れた。
竜王家の死体は、一番丁重に扱われた。竜王城を囲む湖の湖底を掘り、その奥深くへと、全員を沈めてやった。
日が落ちても、まだ作業は続いていた。人と竜の死体を燃やす炎が大きいため、かがり火がいらないほどだった。
エドワードは、崩壊した竜王城を見上げていた。石組みの分厚い壁が、無数の魔力弾によって抉られていた。
嵐のような忙しさが僅かでも落ち着くと、途端に空しさが全身に襲い掛かり、崩れ落ちてしまいそうになる。
栄華を誇っていた竜王都は、死体が山積みにされ、家々が破壊され、炎の燻る、この世の地獄と化していた。
足音が近付いてきたので、振り返ると、疲れ果てた表情のファイドが立っていた。白衣は、どこも白くはない。

「今、連絡役の魔導師が戻って来ましてね。女子供は、無事に逃げ切れたそうですよ、閣下」

ファイドは、赤黒い汚れのこびり付いた手を、白衣に擦り付けた。乾いた血液が、剥がれ落ちる。

「当分の間は東竜都にいさせるように、将軍閣下がご命令されました。それなら、もう大丈夫でしょう。東竜都は、人の踏み入ることの出来ない山の奥に存在する都です。そこであれば、さすがの帝国も、進軍出来ますまい」

「それは、良かった」

エドワードは、深く息を吐いた。ファイドは、連日の激務のせいで頬が痩けており、立ち姿も弱々しかった。

「今度もまた、ひどい戦いでしたよ、閣下。帝国軍は竜王都に進軍してくるや否や、手始めに女子供を殺しに掛かりましてね。無論、それは兵士達が守り抜いたのですが、その兵士達はいずれも負傷しておりました。どうせ殺されるのなら殺し返してから殺されてやると誰も彼もが叫びまして、まぁ、ああいうことになったのであります」

ファイドの目線が動いたので、エドワードはそれを辿った。焼き尽くされた竜の死体は、骨だけになっている。
肋骨、背骨、翼の骨、頭蓋骨、尾の骨、足の骨、手の骨、脊椎、骨盤。それらが、大量に積み重なっていた。
みし、と何かが軋んだ。直後、真っ黒に煤けた竜の骨が砕け、皮の失せた翼が落ち、乾いた音を立てて崩壊した。
火の粉の混じった黒い粉塵が舞い上がったが、山を下りてきた冷ややかな風が吹き付けて、掻き乱された。

「これでもう、何人になるでしょうなぁ。私達が、葬った同族は」

ファイドは、空しげだった。

「ああして焼くたびに、思うのです。戦いなんて、するものではないのだなぁ、と」

エドワードは、その言葉に返せなかった。そうだと言いたい気もするが、そうでないとも言いたい気がした。
戦えば戦うほど、同族は死ぬ。だが、戦わなければ戦わなかった分だけ、やはり、同族は殺されてしまう。
どちらが良いのか、とも思うが、どちらとも良くないことだ。殺戮には、いいことなど何一つもありはしないのだ。
街の至るところで、兵士達が打ち拉がれている。瓦礫を片付ける手を止めて、牙を噛み締め、涙を流している。
帝国と戦いを始めなければ、竜王都は滅びなかったかもしれない。いや、彼らは、死ななかったかもしれない。
ガルムを殺してでも、戦いを止めるべきだったのかもしれない。エドワードの内を、様々な後悔が入り乱れた。
喚き散らしたい衝動を抑え、肩を震わせていると、ファイドが顔を上げたので、エドワードはそちらに向いた。
藍色の夜空の一点が、白く浮かび上がっていた。魔力によって開かれた空間が閉じる際の、歪みが感じられた。
歪みが消えると、白い影の輪郭が明確になった。小さな翼を羽ばたかせた白竜族の少女が、飛び降りてきた。

「エド様ぁ!」

花嫁衣装にも似た純白の服に身を包んだ少女は、真っ直ぐにエドワードの前に降りてきて、しがみ付いた。
いきなりの重みにエドワードはよろけかけたが、姿勢を戻した。装甲に顔を押し当てている、少女を見下ろす。

「リーザ…」

それは、エドワードの幼妻だった。滑らかな銀髪の所々は汚れていて、白い服にもかぎ裂きが出来ている。
リーザは短い腕を回し、エドワードの腰を力一杯抱き締めた。小さな肩が細かく震えていて、声も弱い。

「ああ、生きておられた…」

エドワードは、リーザの震える背に手を回そうとしたが、下げた。

「どうして戻ってきた! 将軍閣下の指示に従わないか、リーザ!」

エドワードに怒鳴られたリーザは、びくりと身を跳ねた。甲冑に押し当てていた顔を離し、後退する。

「申し訳…ございません」

リーザの大きな目から、ぼろぼろと大粒の涙が落ちる。エドワードは罪悪感が湧いたが、更に叫んだ。

「私は軍務の最中だ! 余計な手出しをすれば、それ相応の罰を与える!」

「お仕置きならいくらでもお受けいたします! どんな折檻をされても構いません! リーザは、エド様に一目お会いしたかっただけでございます!」

リーザは小さな手を胸の前で握り締め、張り裂けそうな声を張った。エドワードは、少女から顔を背けた。
幼妻は、哀れなほどに震えている。空間転移魔法を使ってやってきたのだろうが、それでも怖かったのだろう。
竜王都にまだ帝国軍がいるかもしれないし、もしかしたらエドワードが死んでいるのではないかと、不安だったろう。
それを慰め、怒鳴ったことを詫びるのは容易い。だが、彼女が無用な危険を冒してやってきたのは間違いない。
ただでさえ数の減った竜族の、それも女を死なせるようなことになってしまっては、滅亡への速度は増してくる。
会いたいから、というだけのことで、種族の存亡を危機に晒してしまうかもしれない行動は、頂けなかった。
たかが女一人、と思うかもしれないが、されど女一人だ。女が一人減れば、生み出せる竜の数は大分減るのだ。
エドワードが肩を怒らせていると、ファイドの手が置かれた。ファイドは、泣きじゃくっている少女を見下ろす。

「閣下のお気持ちも解りますが、リーザ様のお気持ちも良く解ります。どうか、あまりお怒りにならないで頂けませんでしょうか、閣下」

「しかし」

エドワードは、物悲しげなファイドの横顔を見てから、リーザを見下ろした。リーザは、地に膝を付ける。

「エド様がご無事な姿を拝見出来ただけでも、リーザは満足です。ご命令とあらば、すぐにでも、皆のいる東竜都に戻りましょう。ですが、もう一時だけでも、お側にいさせて下さらないでしょうか」

エドワードは呼吸を繰り返し、いきり立ってしまった神経を落ち着け、つい怒鳴ってしまったことを悔やんだ。
戦場でエドワードが彼女が恋しくなったのなら、エドワードを好いているらしい彼女の寂しさは、その数十倍だ。
不安も、恐怖も、あったことだろう。だが、それを押さえ込んで、愛する夫の姿を見るためだけに、危険を冒した。
責めるべきだ、とする軍人の思考と、抱き締めて宥めて詫びるべきだ、という本来の己の思考が鬩ぎ合った。
ファイドはすいっと身を引き、それでは私は仕事がありますので、とエドワードに言い残してから立ち去った。
エドワードは、瓦礫の街に消えていく、白衣を着た背を、しばらく目で追っていたが、目の前の妻に戻した。
リーザは涙を拭うこともないまま、エドワードを見つめていた。苦しげだったが、とても愛おしげだった。

「こうしてご無事な姿を拝見出来ただけでも、リーザは満足でございます、エド様」

リーザは、厳しい顔付きのエドワードを見上げていた。

「ですが、一つだけ心残りがあるとするならば、エド様と繋がることが出来なかったことでございましょう」

白竜の少女は、泣き濡れた笑みを消した。それは、エドワードが以前に見ていた幼い表情とは、違っていた。
結婚したばかりの頃のリーザは、どこからどう見ても子供だった。体格も、性格も、表情も、何もかもが幼かった。
だが、戦争が起きたために離れている間に、すっかり変わっていた。表情に、女らしさが含まれるようになった。
政略結婚にも等しい結婚だったが、エドワードに幼い恋心を抱いていた彼女は、それを愛へと昇華させたのだ。
寂しさと悲しさに押し潰されそうになっても、戦争の恐怖に責め立てられても、エドワードだけが支えになった。
副将軍の夫。親子以上に歳の離れた男。愛するどころか子供扱いしかしてこない夫だが、夫は、夫だったのだ。
だからせめて、妻の本分を果たしたかった。悦ばせてやることは出来ないかもしれないが、受けることは出来る。
リーザは既に固めていた決意を据え、深く息を吐いた。白い翼を下げ、身を乗り出して夫へと体を寄せた。

「一度だけでも、よろしいのです」

エドワードは、迷っていた。リーザの願いを受けてやりたいし、事実、自分自身もそうしたいと思っていた。
だが、いざそうしようと思うと、やはり躊躇ってしまう。表情が大人びたとはいえ、彼女の体は子供のままだ。

「だが」

エドワードの呟きに、リーザは首を横に振る。

「エド様の御剣によって与えられる痛みであれば、本望でございます」

少女の前に膝を付いたエドワードは、手を伸ばした。リーザはすぐさまエドワードの胸に飛び込み、縋り付いた。
腕に収めたのも、ちゃんと触れたのも、吐息を傍に感じるのも、鼓動を聞くのも、匂いを知るのも、初めてだった。
妻の体は小さく、腕に力を込めれば、呆気なく折れてしまいそうだった。元の姿に戻っても、そうなのだろう。
リーザは、エドワードの腕の力強さに、胸が詰まった。これをどれだけ求めていたのかなど、彼は知らないだろう。
装甲の付いた手袋を填めた手が、そっと髪を撫でてくる。リーザは間近にあるエドワードの首筋に、舌を這わせた。
柔らかな濡れたものが、首を這う感触がある。エドワードは背筋がぞくりと逆立ってしまうほどの、欲情を覚えた。
彼女は子供だ、とはもう思えなくなった。この場で彼女の全てを知り尽くし、貪ってしまいたい衝動が湧いてくる。
だが、ここは竜王城の御前であり、竜王族の亡骸が沈めてある湖の傍だ。そんなところで、交わってはいけない。
最後の理性でリーザを押し戻したエドワードは、即座に彼女を抱き上げて、戦場にならなかった場所に向かった。
森の奧の、洞窟を目指した。


洞窟の、冷え切った湿り気のある空気が、熱の残る体に心地良かった。
エドワードは、体の下で息を荒げるリーザを感じながら、かつてここにいた、澄んだ歌声の魔物を思い出していた。
グレイスの策略によって竜王都に放り込まれた、巨体で単眼の魔物、セイラを鎖で縛り付けていた牢獄なのだ。
深い闇に支配された洞窟の奧には、黒光りする太い鉄柱が並んでいて、手錠の付いた鎖が垂れ下がっていた。
すまない、セイラ、君の場所を借りてしまった。エドワードは心中でそう呟き、少女の中から身を引こうとした。
すると、腕を掴まれた。リーザは、慣れない痛みと感覚に脱力した手でエドワードを引き留め、首を横に振る。

「お離れに、ならないで下さいまし」

「だが、抜かなければ、痛みが消えぬぞ」

エドワードが困惑すると、リーザはぎこちなく笑った。素肌の肩に土が付き、汚れている。

「よろしいのです。エド様がお側にいることを感じられるのであれば、痛みでもなんでも構いません」

リーザは恍惚としながら、目を細めた。

「本来の姿であれば、もっとよろしかったのに。ですけど、それでは、他の方々に見咎められてしまいますものね」

「…そうだな」

エドワードは、力の抜けている少女を抱き起こし、腕に収めた。うっすらと汗ばんだ、互いの肌が接した。
起き上がったことで、彼女の狭い中の更に奧へと進んでしまったらしく、多少苦しげな声が彼女から漏れた。
リーザは、エドワードの広い背に手を回した。胎内にある彼は、相当な熱さと存在感を誇り、苦しいほどだった。

「夢なら、覚めないで下さいまし」

リーザはエドワードの胸に顔を埋め、彼の体温を味わった。

「ずっと、ずうっと、願っておりました。妻になったばかりの頃は、エド様のこと、あまりお好きではありませんでした。軍の方ですし、お優しいですけど近寄りがたくて、どうしたら良いのか解らなくて、お父様やお母様に接する時のように接してしまってばかりでございました。エド様のお側にいれば妻らしい接し方が解ると思って、なるべく近くにいようとしましたけれど、その頃の私は今以上に子供でございましたので、何一つとして解らないままで、結局は同じことを繰り返してばかりでございました」

独り言のように喋るリーザを、エドワードは優しく撫でていた。

「けれど、エド様が竜王都からお離れになって、帝国との戦いに赴くようになって、やっと解ってきたのでございます。妻というものは、ただ傍にいるだけのものではなくて、夫の帰りを待ち、夫の無事を祈るのが一番の役割なのだと。私の体は、見ての通りの子供でございますから、エド様のような御方を満たせはしないと思いますので、私の出来ることはそれだけしかないのでございます。ですから、私は、ずっとエド様のお帰りになる時を待ち侘びておりました。戦いで傷を負われぬように、竜女神様への祈りも一日足りとて欠かしたことはございませんでした。東竜都へと逃げ延びる時も、ずっと思っておりました。どうかご無事であられますように、どうかお怪我をなさいませんように、と…」

リーザは、エドワードの手がツノに触れたのを感じ、少しくすぐったい気持ちになった。

「愛しております、エド様。エド様と繋がることが出来て、リーザは嬉しくてなりません」

エドワードは、力なく寄り掛かってきた幼妻を支えた。

「リーザ」

「なんでございましょう、エド様」

上目に尋ね返してきたリーザを、エドワードは見下ろした。

「なぜ君は、そこまで私を愛するのだ。私は、今日この日まで、君を妻だと思ったことなどなかった。妻として扱ったことなどなかったし、女として見たのも今日が初めてだ。戦いが始まる以前も、始まった後も、私は軍の仕事ばかりしていて、君に目を向けなかった。決して、良い夫であったとは言えない。そんな男の、どこを愛するというのだ」

リーザは、しばらく考えていたが、柔らかく笑った。

「愛してしまったから、愛しているのでございます。リーザに解るのは、それだけでございます」

「そうか」

彼女の返答が可愛らしくて、エドワードは顔を綻ばせた。リーザも更に笑み、エドワードに体を押し当ててきた。
どうして、今まで、触れ合わなかったのだろう。これほど愛らしい少女を、妻として扱わなかったのだろう。
エドワードは後悔に苛まれつつも、久々に触れた他人の温かさと、情交の心地良さに浸り、気分が安らいでいた。
彼女のためを思えば、早々に抜いてやるべきなのだろうが、離れてしまうのが名残惜しくなり、抜きたくなくなった。
動かせば痛みは増えるだろうが、動かさなければ良いだろう。そう思い、エドワードは、リーザの頬に手を添えた。
顔を上げさせ、小さく薄い唇と己のものを重ね合わせた。存分に舌を絡ませてから、顔を放すと、リーザが呟いた。

「そういえば、こちらの方は、まだでございましたね」

「そういえば、そうだな」

情欲ばかりが急いてしまって、段階を飛ばしていた。エドワードは今更ながらそれに気付き、苦笑する。

「お気になさらないで下さいませ。どれからお始めになろうとも、リーザは喜んでお受けいたします」

リーザは、少し可笑しげにした。エドワードは、彼女の柔らかな頬から手を放すと、華奢な腰の後ろで組んだ。
洞窟の外は、深い森が広がっている。竜王都の街外れで燃やされ続けている、巨大な炎の固まりが眩しかった。
遠目では、それが死体の山だとは解らない。だが、ほのかに漂ってくる煙に混じる匂いで、解ってしまう。
エドワードは、それが無性に嫌だった。体と感覚の隅々まで染み付いてしまった、戦いの勘が腹立たしい。
せめて、こういう時だけは忘れてしまいたかった。だが、体に張り詰めていた緊張感は、すぐには抜けない。

「エド様」

リーザはエドワードの肩に頭を預け、目を閉じた。

「リーザは、もう三年したらエド様の子を孕める体になります。その時はまた、抱いて下さいまし」

エドワードは彼女の言葉に答える代わりに、言った。

「リーザ。たとえ、私が死しても、絶対に後は追うな。決して自害はするな。死ぬ時は、寿命で死んでくれ」

「命令でございますか?」

「いや、約束だ。お前と私は、上官と部下ではないからな」

エドワードは、リーザの銀髪に頬を寄せた。リーザは、小さく頷いた。

「承知いたしました、エド様」

彼女の中に収めたものは、未だに衰えていなかった。エドワードは、もうしばらくこのままでいてくれ、と思った。
もう一度リーザを抱くことは、ないだろう。明確は根拠はなくとも、妙に強い確信が、エドワードの胸中にあった。
戦況は、最悪だ。どこをどうひっくり返しても、竜族が帝国に勝てるはずはなく、敗北はにじり寄ってきている。
もう、逃れることは出来ない。竜王都が滅び、竜王家が死に絶えてしまった今、竜族には明るい未来は訪れない。
未来にあるのは、滅亡だけだ。戦えば戦うほどそれは近付き、どんなに抵抗しようとも、決して消えることはない。
ガルムも、それを解っているはずだ。だが、戦わずにはいられないのだ。それが、彼の誇りであり、竜の誇りだ。
エドワードは、リーザの手触りが良く色合いの美しい銀髪を、軽く指で梳いてやりながら、内心で自嘲した。
あれほど嫌っていたガルムの価値観を、受け入れている。理想ばかりではどうにもならない、と知ったからだ。
だが、平和を求める心を忘れてはいけない。戦うことを目的として戦ってしまうように、なってはならない。
この戦いは、人を滅ぼすために始めたのではないのだから。





 


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