ドラゴンは笑わない




彼らの邂逅



最後の記憶は、焼け付きそうな空だった。


自分の返り血で汚れた甲冑の内側から見えたその色は、いやに印象に残っている。
だんだん視界が狭くなって、体の自由が奪われ、腹を貫いている剣から感じていた痛みも消えていった。
それが、彼が生きていた頃に見た、死の直前の記憶だった。




だからこそ、彼には現在の状況を信じることが出来なかった。
腹を貫かれたあの時、確実に自分は死んだはずなのだ。大量の血が体から溢れる感触も、まだ覚えている。
なのに、外が見えている。おまけに手足があり、頭もあり、体も存在していて、挙げ句に動かすことが出来た。
だがその手はよく見ると、銀色の円筒が連なった無機物。墓土の湿った匂いが残る、自分の甲冑だった。
ランプの明かりの下、目の前の手を動かしてみる。中身のないそれは、意思のままに、指の部分が伸ばされた。
ギルディオスは、手前にあるテーブルに置かれたワイングラスへ顔を映す。同じく銀色の、ヘルムが映り込んだ。
赤い頭飾りを付けた、流線形の隙間が左右に二つずつ空いている独特のヘルム。以前から、見慣れた顔だった。
生身の体で生き返ったのではない。ならば、なぜ今、自分はこんな体となってこんなところにいるのか。
ギルディオスはとりあえず状況を認識するべく、室内を見回した。雑然と本が積まれていて、圧迫感があった。
壁という壁は本に埋め尽くされ、窓の部分だけ空間があった。右奧の棚だけは、本ではなくて瓶が並んでいた。
不意に、幼い声がした。

「成功はしたようだな」

その声に振り向くと、大量の本に占領されている机の上に、闇色の長いローブを着た少女が腰掛けていた。
傍らには並々と赤ワインの満ちたグラスが置かれ、足を組んでいる。一見して、彼女が人間ではないことが解った。
尖った長い耳に、深い緑の髪。頭部から生えている、二本のツノ。そして、髪と同じく緑色の小さな翼が背にある。
竜族の者だ。ギルディオスは条件反射で腰を落とし手を当てたが、そこに剣はなく、所在なく手を降ろす。

「あんたは?」

鎧の中に反響し、こもった声が出る。少女はワイングラスを持ち、ギルディオスへ向ける。

「その前に貴様が名乗れ。騎士だろう」

「違う。オレはただの剣士で、この鎧は戦友からのもらいもんなんだよ」

ギルディオスは、鋭い目付きの少女を見下ろす。がん、と鉄で出来た胸へ手を当てた。

「ギルディオス・ヴァトラス、しがない傭兵だ。オレは死んだはずだが?」

「フィフィリアンヌ・ドラグーン。私が貴様の魂を墓場で捕まえて、その鎧に押し込めたのだ」

たぽん、とワイングラスを揺らしながら、フィフィリアンヌは口元から鋭い牙を覗かせた。

「面白いな。貴様は死んで五年は経つはずだが、魂がまだ明確だとは。魔導鉱石に宿しても、弱まっていない」

「それだけ未練がましいってことさ。妻子残して死んだんだから」

ギルディオスは、またテーブルのワイングラスへ自分の顔を映した。ヘルムへ手を掛け、かしゃりと開けてみる。
案の定、空っぽの闇があるだけで、中身はなかった。骸骨もゾンビもなく、土塊も詰まっていなかった。
不思議に思い、ギルディオスが首をかしげていると、フィフィリアンヌはあからさまに馬鹿にした口調になる。

「案ずるな、死骸は使用していない。感覚で解るだろうが。貴様の本体は、胸部の魔導鉱石に詰めてある」

「つまりオレは、魂だけで生きてるのか?」

「いや、生きてはいない。固形化した残留思念、魂を魔導鉱石に融合させることで、意識として昇格させただけだ」

「…解るようで解らんよーな」

「ちなみに、貴様に使った魔導鉱石は一級品だ。ウェルロギア地方のディープレッド、軽く金貨五百枚はする」

袖口の広いローブから、フィフィリアンヌは小さな手を出した。その手には、深い赤の鉱石が握られている。
鉱石は少女の手よりも大きく、荒く割られた表面は美しくぎらついている。見るからに、値の張りそうな石だった。
あれが胸に入っているのか、と思ったギルディオスはその鉱石と自分の胸を見比べたが、実感は沸かなかった。
ことん、と魔導鉱石を机に置いたフィフィリアンヌは、竜族特有の赤い瞳でギルディオスを見据えた。

「払え」

「あのさぁ」

開けていたヘルムを元に戻し、ギルディオスはフィフィリアンヌへ呟いた。

「…普通、こういうのってタダじゃないのか?」

「私は善意で貴様を蘇らせたわけではない。研究の一環だ」

足を組んで頬杖を付き、フィフィリアンヌは吊り上がった目を細める。

「といっても、これは趣味だがな。だから、少しは経費は引いてやろう。金貨七百五十枚、きっちり払え」

「高くなってるじゃねぇかよ!」

「当然だ。甲冑の修繕費に魔導鉱石の加工代、石に魂を癒着させるための薬液十数種類、まだまだあるぞ?」

ワイングラスを置いたフィフィリアンヌは手を挙げ、細い指を折っていく。長めの指が、手のひらの中に隠れた。
ギルディオスは呆然と少女の白い手を見つめていたが、思わず後退った。どん、と背後の本棚にぶつかる。

「…守銭奴か?」

「いや、違う。真っ当な代金を求めているだけだ」

「でもお前、さっき趣味だって」

「貴様が蘇らなければ請求はしないつもりだったのだが、蘇ったのであれば請求するべきだと思ったまでだ」

「だけどオレ、死人だぜ?」

「稼げ。見たところ、貴様は腕の立つ傭兵だったようだからな。戦いでもなんでもするがいい」

「そう簡単に言うなよ…」

額に当たるであろう辺りを押さえ、ギルディオスは項垂れた。がしゅり、と首の関節が擦れて鳴った。
金貨七百五十枚なんて、稼げやしない。単独の傭兵の仕事では、稼げてせいぜい銀貨五十枚だというのに。
そんな金額を、簡単に返せるわけがない。ギルディオスは机の座ったままの少女を、ヘルムの隙間から睨む。

「何回死ねばいいと思ってんだよ。大体な、戦うのもそんなに楽な仕事じゃないんだぜ」

「死ぬたびに請求額は増えるぞ」

「あーもう…」

がりがりと頭部を掻き、ギルディオスはため息を吐く。だがヘルムから出たのは、弱い空気の流れだけだった。
本棚から背を外し、室内を見回した。幼い少女が一人で暮らすには、この部屋は少々大きすぎるように見えた。
天井と床の間を塞ぐように、窓以外の壁は全て本と棚で埋められている。その一つの棚には、ビンが並んでいる。
怪しげな生き物の浸かった色鮮やかな液体や、気泡の出ているもの。大小様々なビンの中身は、薬のようだった。
その棚の前には、やけに大きな作業台があった。ランプの上に乗せられたフラスコが、僅かに湯気を立てている。
積み重ねられた本の隙間に見える窓の外は、ずしりとした闇で、奧が見えなかった。僅かな月明かりすらない。
ギルディオスは窓から目を外し、フィフィリアンヌを見下ろした。少女は、再びワイングラスを傾けている。

「なぁ、フィフィ。お前、ここで何してるんだ? ただのガキじゃなさそうだが」

「見て解らんかこの凡人め。魔法薬学の研究に決まっている」

グラスを揺らしてワインを混ぜていたが、彼女はそれを口元に当てる。半分飲んでから、ギルディオスを睨む。

「それから、二度と私をその名前で呼ぶな。次にそう呼んだら、鎧ごと魔導鉱石を噛み砕いてやるぞ」

「お前、女だろ? そう呼んだ方が、ちょっとは可愛げが出ると思うんだが」

「貴様に愛想を振りまいたところで、何になるというのだ」

「…かっわいくねぇー」

顔を逸らし、ギルディオスは嘆いた。この年代の少女は、普通ならもっと可愛げがあるものなのに。
だが、妥当な愛称であるフィフィがダメならどう呼ぶべきか。しばらく考えてから、ギルディオスは呟く。

「んじゃ、フィルか? それならいいだろ」

「許容範囲だ」

「どうせなら、オレの名前も略せよ。長いだろ?」

「そうでもない。だが、気が向いたら縮めて呼んでやろう」

残ったワインを一気に煽ると、フィフィリアンヌはあまり気が向いていないような口調で返した。
空になったグラスへ、どぼどぼとワインを注ぐ。フィフィリアンヌは、ボトルを机に重なった本の上に置いた。

「金がなければ、ワインでも構わん。南リリアス産の五十年物を八十本」

「まーたどえらい高級品だな。そんなもん、あるわけないだろ」

「だが金は返せ。私も金はいる」

「そうだとも。我が輩を生かすためにも金は必要なのであるぞ、ギルディオス」

唐突に、低いがよく通る男の声が混じった。その声に、フィフィリアンヌはそうであると言いたげに頷いている。
それがどこから聞こえたのか、ギルディオスには解らなかった。だがそれが、部屋の中なのは間違いない。
戦闘時のくせで、腰を落としながら気配を伺う。だが、明確な気配は、フィフィリアンヌ以外にはなかった。
ならば、どこから。ヘルムの奧からじっと周囲を睨んでいると、また、低い声が聞こえてきた。

「我が輩が解らんのかね、ギルディオスとやら。剣士とは鈍い生き物なのであるな」

テーブルの上のワイングラスが、ごとん、と動いた。ギルディオスは、すぐさまそちらに顔を向ける。
暖炉の前に据えられた低いテーブルに、大振りのワイングラスが置かれていた。その中身は、艶のあるワインだ。
また、そのワイングラスが動く。ほんの少し跳ね、とん、とテーブルの板がガラスに当たって鳴った。
ギルディオスが構えると、ワイングラスの中身がぶにょっと揺れる。にゅるりと昇り、グラスのフチへ出た。
先端がテーブルへ向いたかと思うと、ずるりと溢れ出、テーブルの上に墜落した。べちゃっ、と水音がする。
ゲル状のワインはぬるぬると進んでギルディオスへ近付くと、ひょいっと先端を持ち上げてみせた。

「申し遅れたのである。我が輩はゲルシュタイン・スライマスと申す者である。伯爵と呼んでくれたまえ」

「どこが伯爵なんだ?」

「はっはっはっはっは。我が輩が伯爵でなければ、なんだと言うんだ? え、この力馬鹿め」

「…ただのスライムだろ。ていうか、いきなりそんなこと決め付けるなよ」

ギルディオスは多少呆れながら、テーブルの上で動き回る、赤ワインのような色合いのスライムを見下ろした。
どう見ても、こんなスライムに爵位があるとは思えなかった。間違いなく、爵位は自称なのだろう。
だが、意思のあるものは初めてだった。ギルディオスは物珍しさもあって、しばらく伯爵を眺めていた。
にゅるにゅるとテーブルを移動した伯爵は、器用にワイングラスの表面を伝って自力で中に戻る。
ぽちょん、と跳ねるようにグラスに落下し、伯爵は中に戻った。フィフィリアンヌは、ギルディオスを見上げる。

「伯爵は伯爵だ。私の作ったスライムに、どういうわけだか魂が宿ってな。原因は、まぁ解っているが」

作っている最中に私の血が入ったのだ、と、フィフィリアンヌは自身のワイングラスを掲げてみせる。
滑らかなガラスの曲線に、表情の見えない甲冑が映り込む。それを見据え、フィフィリアンヌは言う。

「それでどうする、ギルディオス。支払いのために戦いにでも赴くか? それとも、その体で妻子に会いに行くか?」

「そりゃあ決まってる!」

即答したギルディオスは、硬く拳を握る。だん、とフィフィリアンヌへ間合いを詰めた。

「フィル、ここはどこだ! 城下はどの方角にあるか教えろ!」

「会いに行くのか」

「ああ。それが、旦那ってもんだろ?」

少々照れくさそうに、ギルディオスは笑う。フィフィリアンヌは、ふん、と息を洩らす。

「城下へは東へ一直線だ。森の中には私の通り道がある、そこを辿ればいい」

「で、オレの剣はどこだ? 背中が軽いと落ち着かなくてよ」

ギルディオスの問いに、ん、とフィフィリアンヌの手が挙げられる。本の詰まった本棚の隙間を、指先が示す。
積み重ねられた本の間に、幅の広いバスタードソードが押し込められている。鞘の表面が、泥で汚れていた。
間違いなく、それは己の使っていた剣だった。ギルディオスは妙な安堵感を覚えながら、それを手に取る。
身の丈程もある剣をすらりと鞘から抜くと、がん、と肩に乗せた。磨き上げられた刃に、ヘルムの横顔が映る。
ギルディオスは剣を振り、ひゅおん、と埃っぽい空気を切り裂いた。それを見上げ、フィフィリアンヌは呟く。

「だが城下まで、貴様の力が持つのか?」

「体力なら有り余ってるさ。この体は疲れを知らねぇみたいだし、走れば朝までには…」

「貴様自身の魔力のことを言っているのだ。魔力が尽きれば、魂と魔導鉱石の融合が解けてしまうのだぞ」

「そうなのか? 一度くっつけちまえば、ずっとそのままじゃねぇのか?」

「馬鹿が。癒着溶液の魔力が無限に続くはずがなかろう。こいつを持ってみろ」

本の隙間に手を突っ込み、フィフィリアンヌは円形の平べったいものを取り出した。それを、無造作に投げる。
それを受け取り、ギルディオスは手の中を見下ろす。金属製で細かい細工がされており、中心に針が付いている。
何かの宝石で作られた大小の目盛りが文字盤に並んでおり、輝いている。一見すると、懐中時計に似ていた。
訝しみながらギルディオスが文字盤を睨んでいると、にゅるりとスライムが伸び上がり、彼の手元へ張り付く。

「おや? フィフィリアンヌよ、少しも針が動く気配がないのであるぞ」

「伯爵、それは本当か? 珍しい人間もいるものだな、いや、死者か」

物珍しげに、フィフィリアンヌは顎へ手を添えた。ギルディオスは伯爵を引き剥がし、文字盤を彼女へ向けてみた。
見せつけられた文字盤に、フィフィリアンヌは妙な顔をする。その反応に、ギルディオスは訝しみながら尋ねる。

「なぁ、これなんだ?」

「そいつは精度の高い魔力測定器で、持った者の魔力を見つけ出し、計る魔導機械だ」

渡せ、とフィフィリアンヌはギルディオスへ手を伸ばす。ギルディオスは、魔力測定器を投げ返した。
少女の手には大きめの魔力測定器が、受け止められた。フィフィリアンヌは、鈍い金色の針を見下ろした。
途端に針は動き出し、かちかちと歯車の噛み合う小さな音が響く。それが、ほぼ一周した場所で止まる。
ギルディオスは、フィフィリアンヌの手元を覗き込むように見下ろす。彼女は、魔力測定器を甲冑に突き付ける。

「見てみろ。これが普通の反応だ。なのに貴様が持てば微動だにしないとは、一体どういうことだ?」

「オレが聞きてぇよ」

いきなりふてくされたギルディオスは、乱暴に作業台へ腰を下ろした。腕を組み、あらぬ方向へ顔を向けた。

「死んで体がなくなっても、生きてた頃と同じなのかよ」

「貴様、元々魔力のない人間なのか?」

「ああそうだ。オレんちはな、親父もおふくろもその兄貴も姉貴もその甥っ子も姪っ子も立派な魔導師だってのに」

やさぐれた口調で、ギルディオスは吐き捨てた。

「オレだけが、魔力の欠片もねぇんだよ!」

ほう、とフィフィリアンヌは物珍しげに目を丸くした。けっ、とギルディオスは変な声を出す。
魔導鉱石を置いてから机を降りたフィフィリアンヌは、ギルディオスの前に歩いてきた。甲冑を見上げ、言う。

「大抵は、どんな人間にも多少の魔力はあるはずなのだが…いや、なんとも面白いな」

「面白くない。そのせいで、オレがどれだけ苦労したと思ってる!」

「魔力が高ければ、そう偉いというものでもあるまい」

「高きゃ偉いんだよ、魔導師の家は。そういう才能に恵まれまくったドラゴンには、一生解らないだろうさ」

「貴様には私が完全なる竜族に見えるのか?」

「人間に擬態出来るんだから、高等竜でなきゃなんだってんだよ」

「不完全な擬態だ。ツノも翼も残ってしまっている。それに私の半分は人間だ、そんな者が高等なるはずがない」

「ハーフドラゴンってやつか。お前の方こそ珍しいじゃないか」

「あまり面白い体ではない。私を成している血は、どちらも中途半端なのだから」

ばさり、とフィフィリアンヌは背中の小さな翼を広げ、顔を逸らす。骨張った翼が伸び、薄い緑の皮が張られる。
後頭部で括られている、濃緑の長い髪が翼の間で揺れた。ギルディオスは、ツノの生えた少女を見下ろす。

「てことは、お前の親は」

「母上が竜族の者だ。父上は王国付きの騎士で、六十四年前に隣国との抗争で戦死した」

「なるほど。母親似ってわけか」

「そういうことになるな。私としては、父上の血が濃い方が良かったのだが」

「普通なら、ドラゴンの血が濃い方が良かったーとか言うもんじゃないのか?」

「貴様の言う普通とは、一体なんなのだ。そもそも普通というものは、限りなく曖昧な尺度なのだぞ」

「へいへい。もうフィルには普通は求めんことにするよ」

肩を竦め、ギルディオスは笑った。フィフィリアンヌは不機嫌そうに、顔を逸らす。

「最初からそうしておけ」

ふと、背中へ温かさを感じ、ギルディオスは振り返った。視界が明るくなり、部屋に舞う埃が見えた。
本棚に隠れるように填め込まれていた出窓から、柔らかな朝日が滑り込んできた。朝日が昇ってきたようだ。
細かい埃の舞う空気を照らした光は、肩越しに仁王立ちする少女に注ぐ。赤い瞳が、ぎらりと輝いている。
テーブルの上のワイングラスがごとごとと前進し、二人へ近付いた。滑らかなグラスが、朝日を跳ね返す。

「おや、朝か。この部屋で朝日を拝むのは久し振りであるな、フィフィリアンヌよ」

「そうだな、伯爵。ここしばらくは、この馬鹿の墓を掘り起こしていたせいで、墓場で朝日を見ていたからな」

眩しさに目を細めながら、フィフィリアンヌはギルディオスの前に回った。甲冑が、強い日差しに輝いている。
ギルディオスは、試しに首を一回転させてみた。すると面白いことに、真後ろを見ることが出来た。
彼が日光を一心に浴びていると、胸元にぺたりと何かが当てられた。見るとそれは、フィフィリアンヌの手だった。

「動くな」

目を閉じ、フィフィリアンヌはギルディオスの胸元へ額を当てる。すると、ギルディオスは妙な感覚に襲われた。
胸の中心が、いやに熱い。焼け付くほどではないが、それでも温かいという範疇の温度ではなかった。
これは恐らく、魔力の感覚なのだ。魔導鉱石に押し込められた魂を繋ぐために、彼女が力を注ぎ込んでいるのだ。
そう思いながら、ギルディオスは首を元に戻し、彼女を見下ろした。少女とはいえ、この構図は少し照れくさい。

「フィル、お前、実は結構優しいのか?」

「せっかく面倒な思いをして掘り起こした相手だ、すぐに魂が消えてしまっては困るのでな」

「あ、そ」

じわりとした熱が広がるのを感じながら、ギルディオスは目線を逸らす。本の背表紙の影が、朝日で濃くなっている。
ごとん、とテーブルの端まで移動した伯爵は、ぐにゅりとその体を持ち上げる。ワインレッドに、日光が透けた。
触手のように細長くした一部をギルディオスへ伸ばし、伯爵は先端をふらふらさせる。スライムは、滑らかに光った。

「さてギルディオスよ。これで貴君は、我が輩達から離れることが出来なくなったのであるぞ」

「ここまで来ると先が読めるさ、オレがいくら馬鹿でもな。フィルの魔力がないと、オレはまた死ぬんだろ?」

「簡単に言えばそうだ。貴様の魂が完全に魔導鉱石へ融合するまで、私から離れることは出来んぞ」

額を外し、フィフィリアンヌは上目にギルディオスを見上げる。

「金貨八百三十枚だ」

「…また増えたぜ」

「手間賃だ。私の魔力も、そうそう無限にあるわけではない」

手を外して背を向け、フィフィリアンヌは机へ向かっていった。その背を見、ギルディオスは肩を落とす。
話せば話すほど、借金がかさんでいく。どうやって返すめどを見つけようか、ぼんやりと考えていた。
ワイングラスから滑り出た伯爵は、ずるずると移動し、テーブルの端にあったフラスコへ先端を投じた。
気味の悪い動きでフラスコの中へ体を納めると、先端を伸ばして傍らにあったコルク栓を取り、器用に蓋をする。
机の後ろから出てきたフィフィリアンヌは、ツノを隠すためなのか、魔女のような先の尖った帽子を被っていた。
翼はローブの下へ収納したのか、背中の辺りが妙に出っ張っている。彼女は黒いマントを羽織り、彼を手招く。

「行くぞ」

「どこにだよ」

「貴様の墓だ。掘り起こしたままではいかん」

「勝手に掘り起こしたのそっちだろ? お前がやれよ、そんなこと!」

「私は泥が好きではない。それに体力なら有り余っていると言っていなかったか、ギルディオス」

「そりゃそうだが、誰が好き好んで自分の墓を直しに行くんだよ!」

「埋め直さずにいたなら、貴様の骨はどこぞの死霊術師のオモチャにされるぞ」

「解ったよ、行けばいいんだろ行けば!」

「最初から、そう答えていればいいものを」

そう呟きながら、フィフィリアンヌは腰のベルトへ伯爵の詰まったフラスコを下げた。かちん、と金具を止める。
ギルディオスはごちゃごちゃぼやきながら、鞘に付いているベルトを伸ばして袈裟懸けにし、大きな剣を背負う。
彼が準備を終えたのを見てから、フィフィリアンヌは扉を開けて外へ出た。ギルディオスもそれに続いた。
針葉樹の茂る鬱蒼とした森が、石造りの家を取り囲んでいた。湿り切った、苔と土の濃い匂いが漂っている。
家の外は中と同じで、雑然としていた。雑草が溢れていて、歩くたびにがさがさと擦れてうるさいほどだった。
ギルディオスは手入れのされていない二階建ての家を眺めていたが、フィフィリアンヌに急かされ、彼女を追った。
朝露を含んだ背の高い木々の間に、人一人がやっと通れる細い道が伸びている。その先で、少女が待っている。
樹木の間から差し込む朝日を浴びて、小柄な影が地面に落ちていた。帽子の下から、鋭い赤い瞳が覗く。

「何をしている」

「なぁ、フィル」

フィフィリアンヌに追い付きながら、ギルディオスはもう一度家を見上げた。

「ちったあ手入れしろよ、立派な家なんだからよ」

「やるなら貴様がやれ。私は興味がない」

「ああ、やるさ。あそこまで荒れてると、いっそやりがいがあらぁな」

がちゃがちゃと足音を響かせながら、ギルディオスは歩く。意外そうに、フィフィリアンヌは彼を見上げる。

「妻子の元へ帰るのではないのか?」

「魂がちゃーんとくっついたら、会いに行くさ。また死にたくはないしな。それに」

「それに、なんだ」

「オレの奥さん、メアリーって言うんだけどな。死体と幽霊が大っ嫌いなんだ」

大嫌い、をやたら強調し、ギルディオスは苦笑した。フィフィリアンヌは、納得したような目になる。

「なるほど。貴様は意外に優しいのだな」

「意外ってなんだよ。失礼だな」

少しむくれたような声を出し、ギルディオスは腕を組む。フィフィリアンヌは返さずに、細い道の先を見た。
彼女がベルトに下げたフラスコの中で、たぽん、と伯爵が揺れる。独特の低い声が、静かな森に響く。

「はっはっはっはっは。フィフィリアンヌ、この男、単純で学はないが、悪人ではないようで我が輩は安心したぞ」

「そうだな、伯爵。私も、この馬鹿さ加減は嫌いではないぞ」

少々遅い足音を続けながら、フィフィリアンヌが答える。二人の言葉に、ギルディオスは多少安心した。
これで嫌われでもしたら、どうなるか解ったものではない。少なくとも、好かれてはいるらしい。
太い幹と葉の連なる景色が、次第にまばらになってきた。道の幅も、進むに連れて徐々に太くなってくる。
三人を照らす日差しも温度を増してきて、ギルディオスは鎧の内部が温かくなっていく感覚を覚えた。
改めて、自分の中身が空っぽだと言うことに気付く。この妙な具合に慣れるまでは、時間が掛かりそうだった。
並んでみてようやく、フィフィリアンヌはギルディオスとの体格差を感じていた。甲冑は、遥かに大きかった。
彼女自身の身長が低いと言うこともあるのだが、ギルディオスは常時見上げなければならない身長だった。
城下町へ伸びる道を、真っ直ぐに見据えるギルディオスを見上げていたが、フィフィリアンヌは目を外す。
ふと、ギルディオスはフィフィリアンヌを見下ろす。頭部に付いた赤い羽根飾りが、揺れて背中に落ちる。

「なぁ、フィルやい」

「なんだ」

「お前、よく見たら結構可愛いツラしてんのな。名前もさ、どこぞのお嬢様かって感じだぜ?」

「何が言いたい、ギルディオス」

「ちったあ笑ってみろよ。そしたら、可愛くなると思うぞ?」

身を屈めるように、ギルディオスはフィフィリアンヌを見下ろす。その影の下、吊り上がった目元が細まる。

「下らん。何を言うかと思えば」

「そうとも。フィフィリアンヌに愛想を求めるのは、オーク族に知性を求めるようなものであるぞ」

伯爵の言葉に、フィフィリアンヌはむっとしたように細い眉をしかめたが、言い返さずに歩を進めた。
どす黒いマントをなびかせながら、ギルディオスを追い越した。早足になって、城下へ続く道へ向かっていく。
ギルディオスはその後ろ姿を見送っていたが、追いかけた。遠くには、街並みが続いている。
家々からは煙が立ち上り始めていて、朝靄が風で晴れ、高い城壁に囲まれた城の姿がはっきりと見えてきた。
ギルディオスはしばらく歩いてフィフィリアンヌに追い付くと、並んで歩いていった。




これが、三人の出会いである。


とある王国の、一つの墓が豪快に掘り返されていること以外は。

それなりに、世界は平和である。






04 10/8