ドラゴンは笑わない




二人きりの地下迷宮



ギルディオスは、夢を見ていた。


腹が熱く、そして痛い。薄暗いヘルムの中で、涙が滲んで熱っぽい目を動かしてみる。
夕暮れの空が、細い隙間から見えた。赤々と照らされている薄い雲が、のんびりと風に流されていた。
甲冑を伝わって、じわりとした大地の冷たさが体に染み入った。溢れ続ける血と共に、体温も下がっていく。
土の柔らかな匂いに、つんと鉄臭さが混じる。己の生温い血が、じわじわと地面に広がりつつあった。
頭上に、影の固まりが立っていた。漆黒の馬にまたがり、深い闇のような甲冑を纏った見知らぬ騎士。
馬の手綱が引かれ、前足が高く持ち上がる。力強く嘶いた馬は、騎士を揺らしながらどこかへ駆けていった。
あれが、死に神なんだろうか。ギルディオスは、ぼやけた視界と共に鈍ってきた、思考を巡らせる。
傍らに倒れていた彼女が、小さく唸り、身動きした。傷は負っていないようだが、彼の返り血を浴びている。
はっと息を飲み、メアリーは跳ねるように起き上がった。ヘルムを脱ぎ捨て、彼に縋り付く。
ギルディオスは力の入らない右手を広げ、バスタードソードを放した。その手を、妻は握り締める。

「…ギル」

夫の痛みを受け止めてやりたいのか、メアリーはギルディオスの手を強く握り、胸元に当てた。
ギルディオスは答えようとしたが、喉に詰まった血が声を潰してしまった。がぼっ、と粘度のある水音がした。
予想以上に、傷は深かったらしい。ギルディオスは目線を下げ、腹部に突き立てられている影を見上げた。
あの騎士の剣が、大地と体を繋ぎ止めていた。赤黒く汚れたそれから目を外し、涙を零す妻を見る。
メアリーは肩を震わせ、声を押し殺して泣いていた。泥と血に汚れた浅黒い頬を、悲しみが洗い流している。
ぱたぱたと指先に落ちる水滴に、ギルディオスは嬉しくなる。ああ、愛されているのだな、と。
愛している、と彼女へ言おうとしたが、言葉にならなかった。甲冑からは、声にならない息だけが漏れる。
感覚の鈍ってきた指を出来るだけ伸ばし、顔を伏せているメアリーの顎と頬に、触れさせた。

「ギルディオス」

震えた声で呼ばれた名に、ギルディオスは目を細める。腹の痛みは、徐々に痺れへと変わってきていた。
メアリーは、彼の手を握ったまま身を屈める。かしゃん、とヘルムが開かれ、ギルディオスの視界が広がった。
涙に濡れた彼女の唇が、血に汚れた唇を浄めてくれた。顔を離したメアリーは、口元を押さえ、肩を震わせる。
ふと、足音がした。甲冑と武器のの擦れ合う戦士の足音が、メアリーの背後へ向かって駆けてきた。
メアリーは体を起こしてヘルムを取り、足音の主を見上げた。夕陽の逆光を浴び、戦友の顔は見えない。
戦友は膝を付き、ギルディオスの腹に突き立てられた剣を見、深く息を吐いた。首を、横に振る。
メアリーはヘルムを被り、背後に落ちていた自身のバスタードソードを取った。背筋を伸ばし、顔を上げた。
戦友は立ち上がると、戦いの続く草原へ手を向けて駆けていった。メアリーは頷いたが、一度、振り向いた。
かしゃん、と、ギルディオスのヘルムを閉じてやった。目元のヘルムを開けた彼女は、静かに呟いた。

「ちょっと行ってくるね。すぐに、迎えに来るからさ」

ギルディオスは笑み、頷く。メアリーは、泣き笑いのような声を洩らす。

「だから生きていて。お願い、ギル」

どん、と地面にバスタードソードを突き立てたメアリーは、足に力を込めながら立ち上がった。
顔に彼女の影が掛かり、ギルディオスの視界はまた暗くなる。妻の姿は、勇ましく、そして美しかった。
悲しみを振り払うかのように、メアリーは猛る。胸を張り、夜へと傾く空に獣じみた叫びを響かせる。
バスタードソードを引き抜くと横に構え、兵士達が殺し合う戦場へと一直線に駆け出していった。
妻を見送ってから、ギルディオスは空を見上げる。口中の鉄の味に、彼女の涙が混ざり、少しだけ和らいだ。
ゆったりと広がった雲は、西へと沈む太陽の、最後の煌めきを帯びていた。それはまるで、炎だった。
そして。最後の記憶は、焼け付きそうな夕焼け空となった。




「…メアリー」

薄暗く湿っぽい石壁を見つめながら、ギルディオスは意識を戻した。しばらく、眠っていたらしい。
周囲には、眠る前に倒した亡者達の腐肉と汚らしい汁が散らばっていた。体中に、死の匂いが付いている。
力任せに砕いた頭蓋骨が、暗い空間でやけに白かった。破片の一つを、ハガネアリが噛んでいる。
ギルディオスは魔力不足のため、ぼんやりとした意識の中、傍らに置いた革袋を探っていった。
金属に填め込まれた、赤い魔導鉱石を出す。ギルディオスはそれを見つめていたが、胸元へ押し当てる。

「寂しいなぁーおい」

胸が温まる感覚に、ギルディオスは落ち着いた。これには、フィフィリアンヌの魔力が込めてある。
薄く光っていた魔導鉱石は、彼の手の下で光を失った。充填されていた魔力が、尽きたのだ。
ギルディオスは道具を納めた革袋の中に放り、ため息を吐いた。この生活は、もう四日目になる。

「帰りてぇなー」

独り言を呟きながら、ギルディオスは腰を上げ、立ち上がった。湿気と汚れで、ぎしりと関節が軋む。
燃料代わりに魔力と魔導鉱石を込められた、鉱石ランプが光っている。弱い明かりが、彼の影を伸ばす。
すぐ奧にも、石壁が続いていた。苔の生えた狭く細長い空間に、ギルディオスは辟易していた。
魔物の蠢く地下迷宮では、違和感を放つフラスコが置かれている。その中身は、ワインレッドの軟体だ。
ギルディオスは屈み込むと、すぽんとフラスコの栓を抜く。一瞬びくりとした伯爵は、喚いた。

「何がメアリーだ、何が帰りたいだね、ギルディオス! 早くワインを注いでくれたまえ、我が輩は乾いている!」

「自分でやれよ。出来るんだから」

やる気なく言いながら、ギルディオスは革袋を探った。大きめのワイン瓶を取り出し、蓋を開ける。
半分ほどになった赤ワインが、緑色のボトルの中で、たぽんと揺れる。それを傾けて、フラスコに注ぐ。
どぼどぼと乱暴に注がれたワインを吸い込み、伯爵は少し唸った。満足げに、ふるふると蠢く。

「そうだとも、それでいいのだよギルディオス」

「全く…なんであんたみてぇなのと、一緒に行かなきゃならねぇんだか」

「それはもう二十七度目であるぞ、ギルディオス」

「言わせろよこれくらい。それもこれもフィルのせいだ。いきなりこんな仕事を押し付けやがって」

「それは、貴君が借金を返済しないからだ。仕事を割り当てられたことを、ありがたく思うのが筋であるぞ」

「解ってるさ。だがなんで、地下迷宮で魔物討伐なんだよ! 一人でする仕事じゃねぇよ!」

「うむ。一般的には、五六人ほどのパーティで行う探索と戦闘であるぞ」

「だろー? 一人で出来るわけねぇだろ、そんなもん」

「はっはっはっはっはっは、我が輩がいるではないか」

「うるせぇ。魔導拳銃もねぇし、支援魔法の一つも使えねぇ伯爵が、何の役に立つってんだよ」

「マッピングの一つも出来ないニワトリ頭には言われたくはないな。我が輩がいなければ、貴君は迷子だぞ」

「そのマッピング技術も、行きがけにフィルが叩き込んでくれたんだろうが」

「はっはっはっはっはっはっはっは」

「笑って誤魔化すなよ。しょーもねぇ」

伯爵から顔を逸らし、ギルディオスは壁に立て掛けておいたバスタードソードを取った。

「で、昨日から気になってんだけどよ」

「なんだねギルディオス」

にゅるにゅると細長く伸ばした先端で、伯爵は転がされていたコルク栓を取った。それを引き寄せ、塞ぐ。
バスタードソードを背負ったギルディオスは、革袋を担いだ。伯爵のフラスコを掴み、持ち上げる。

「どうしてオレがニワトリ頭なんだよ? 意味が解らねぇんだけど」

「至って簡単なことだ、ギルディオスよ。貴君の馬鹿げた頭飾りが、ニワトリのトサカにしか見えないのだよ」

そして、と伯爵はフラスコの中から甲冑を指した。べちょり、とガラスにスライムがぶつかる。

「ニワトリは馬鹿だ、三歩も歩けば全てを忘れる。貴君に当て嵌まる、実に良き言い回しではないか」

「聞いたオレが馬鹿だったよ」

腰に巻いたベルトを回し、ギルディオスは金具を前に出した。かちん、とそこにフラスコを挟む。
伯爵の書いた地図を広げ、通ってきた通路と目標を確かめる。あと一階、地下へ進まなくてはならない。
だが、下層に繋がる階段は、今いる位置からは遠かった。昨日、通る通路を一本間違えてしまったのだ。
ギルディオスは地図をなぞって、これから進むべき方向を見定めた。多少遠回りだが、仕方ない。
地図を丸めてヘルムを開き、その中に放り込む。すとん、と胸と腹にかけて軽い音がし、地図が納められた。
荷物と伯爵をがちゃがちゃ言わせながら、ギルディオスは歩き出した。


すっかり見慣れた冒険者の死体を避けながら、ギルディオスは細めの通路を進んでいた。
この地下迷宮は、十数代前の王が唐突に作ったもので、中の構造は決して冒険には向いていない。
罠も少なく、地下に住み着いた魔物達もあまり強くはなく、古代の秘宝が奥深くに隠されているわけでもない。
つまりこれは、本当に趣味で作っただけなのだ。意味があるかと問われれば、王家はないと答えるだろう。
ロウソクの燃え尽きた燭台が、ちらちらと鉱石ランプで照らされる。錆び付いていて、光りもしない。
苔とカビでぬるついた石壁に触れないように歩きながら、ギルディオスは黙っていた。喋る理由がないからだ。
自分の足音にやかましさを感じながら、とりあえず抜いておいたバスタードソードを下げる。

「敵、いねぇなぁ…」

「当然のことだとも。昨日の探索の際に、貴君がむやみやたらにゾンビを切り倒したからだ」

「あー、そうだったなぁ」

がりがりとヘルムを掻きながら、ギルディオスは歩いていく。

「パトリシアが剣に掛けてくれた不死者浄化の魔法、別にいらなかったかもな。ゾンビが再生しないのは楽だけど、どうにもつまんねぇや」

「それもそうであるな、ギルディオス。粗野なバスタードソードには、麗しく繊細な聖なる力は相応しくはない」

「うるせぇやい」

ギルディオスは剣を上げ、目の前を飛んできたツノコウモリに向けた。手首を返し、軽く剣を振り下ろす。
出会い頭に両断されたツノコウモリは、どさりと落ちる。上と下でしばらく動いていたが、息絶えた。
ギルディオスはしゃがみ、ばきん、とツノコウモリのツノを切り落とした。革袋を下ろして開き、中に拾い入れる。

「ま、こんなんでいいだろ。こいつのツノ、もう五十は集めた気がするぜ」

「残る材料は、生きたクラヤミトカゲ二十匹にイワミミズ十五匹、クサラセゴケをたっぷりと、だぞ」

「フィルの奴め」

四日間、集めに集めた材料で重たくなった革袋を担ぎ直し、ギルディオスはぼやいた。

「どれだけ、変なの集めさせりゃ気が済むんだよ。自分でやれよ、こんなこと」

「フィフィリアンヌの出不精にも、困ったものであるな」

うむ、と伯爵は頷くように揺らぐ。ギルディオスは肩を落とし、ずりずりと足を進める。

「ホントだよ」

べちゃり、べちゃり、と重たく水っぽい足音が聞こえた。何かを引き摺る、布擦れの音も。
ギルディオスは正直やる気は起きなかったが、仕方なく振り返った。ゆっくりと、足音は近付いてくる。
今し方通ってきた通路の先を、影が塞いだ。むっとした獣臭さが満ち、ギルディオスは内心で顔をしかめた。
長い首をもたげながら、口に死体をくわえた巨大なトカゲが顔を見せた。黒い目が、じろりと動く。
顔の幅は通路よりも大きく、どうやら入ることは出来ないらしい。ばしん、と壁の向こうが尾で叩かれた。
脂ぎったウロコがぎらついていて、赤い口元に挟まれた死体が揺れる。掲げられたかと思うと、それは飲まれた。
ごきゅりと喉が鳴らされ、でっぷりとした腹に人の大きさの膨らみが出来る。思わず、彼は身を引く。

「…いーやー」

がしゃん、と石壁に背中をぶつけ、ギルディオスは顔を伏せた。ぬめついたウロコが、どうにも気色悪かった。
いつか、生きたヘビを甲冑の中に入れたことを思い出してしまった。嫌悪感で、肩が震え出しそうになっていた。
恐怖と嫌悪感を押さえ込みながら、ギルディオスはちらりと前を見る。クラヤミトカゲが、低く唸っている。
そして、背後を見た。魔物の死体で作られた巨大な巣があり、窪んだ中心で何かが動き回っている。
金属の擦れ合っているような、クラヤミトカゲの親の鳴き声に反応し、巣の中でじたばたと数十匹の影が暴れた。
どうやら、このクラヤミトカゲは親子のようだった。大方、あの巨大な親は、子供達に餌を持ってきたのだろう。
ひくっ、とギルディオスは思わず息を飲んでいた。前後をトカゲに挟まれ、泣きたくなってきた。

「いーやいやいやいやいや嫌ぁあー!」

激しく頭を左右に振り、ギルディオスは背をへばりつかせた。べたり、とマントが壁に張り付く。
ギルディオスが動くたびに、がちゃがちゃと腰のフラスコが当たる。伯爵は、淡々と言う。

「情けないことだな、ギルディオスよ。クラヤミトカゲの親を殺してから、子供を生け捕れば簡単ではないか」

「嫌なもんは嫌ー! ていうかなんだよ、その悪魔みたいな手段はー!」

「合理的な方法ではないか。子供を先に捕らえ、親に逆襲されるよりはいいであろう」

「他人事みてぇに言うなー!」

「他人事なのだよ」

「人でなしー!」

「我が輩はゲルシュタイン・スライマス。誇り高いスライムではあるが、人間ではないのである」

「言ってみただけだー!」

自棄になり、ギルディオスは力一杯叫んだ。しゃくり上げながら、気を落ち着けるために呼吸を繰り返した。
もう一度、左右を窺ってみた。クラヤミトカゲの親は、細い通路の出入り口に目を押し付け、動かしている。
ぎゅるぎゅると底の見えない瞳が前後し、ギルディオスの足元に転がる、魔物達の死体を見つめる。
その目線が上がり、巣の中で暴れ回る子供達に向けられた。答えるように、ぢぃぢぃぢぃ、と鳴き声が上がる。
大きく肩を上下させながら、ギルディオスは震える手でバスタードソードを握り締めた。

「…おうちに帰ってもいいかなぁ?」

「外界へ繋がる空間転移魔法の施された部屋は、地下二階にしかないのだぞ。そして、その部屋は」

「へいへい、解ってるさ。オレが追いつめたヘドロオオカミが、魔法陣ごと部屋をぶっ壊しちゃったんだよなぁ」

勿体ないことをしちゃったぜ、と呟きながら、ギルディオスは腰を落として剣を構えた。

「でもってもう一つの空間転移部屋があるのは、今から行く最下層、地下四階のど真ん中」

「つまり、我が輩達が外へ戻るためには、嫌でも地下四階に行かなければならないのである」

「風呂入りてぇ」

「会話に脈絡を付けたまえ」

「オレ、あんたと話すの飽きちゃったんだよ」

「それは奇遇だな。我が輩も、貴君と言葉を交わすのは飽き飽きしている」

「そりゃどうも!」

ギルディオスは身を屈め、前方へ踏み込んでいた足で床を蹴った。だん、と黒いウロコの壁に斬り掛かった。
ぎしゃあ、とうねりながら体を捩ったクラヤミトカゲの親は、寸でのところで剣を避けてしまった。
カビで滑る床に足を擦りつつ、ギルディオスは幅広の通路に出た。すぐ前には、巨大な爬虫類の顔がある。
耳元まで裂けた大きな口が開かれ、ねばついた唾液が縦に伸び、その間から細長い舌が差し出される。
クラヤミトカゲの親の喉元には、先程飲み込んだ冒険者の物と思しき、紺色の布の切れ端が引っかかっていた。
うげ、と声を洩らしたギルディオスは、ちょっと身を引いた。すぐさま、巨大なトカゲは歩み寄ってきた。
どんどんどん、と床を踏み揺らしながら、ギルディオスに寄ってくる。がばん、と目の前で口が全開にされる。
ばしん、と太くぬめる尾が壁を殴った。枯れた苔とカビの粉が、ぱらぱらと天井から舞い落ちてきた。
ギルディオスは頭を振り、赤い頭飾りから汚れを払う。視線を戻すと、頭上に太い前足が迫ってきていた。

「うおわっ」

体を下げると、どごん、とクラヤミトカゲの前足が壁に埋まる。砕けた石の破片がいくつか落ち、甲冑を叩いた。
騒がしい金属音が終わった頃、ギルディオスは頭上を見る。前足のすぐ上で、灰色の喉元がひくついている。
ギルディオスは中腰になって立つと、かちゃりと剣先を上げた。そして、力を込めて打ち込んだ。

「だぁっ!」

ずぶずぶり、とバスタードソードが埋まる感覚があった。剣と共に前に進むと、背後へ血溜まりが出来る。
そのまま前進し続け、ギルディオスはクラヤミトカゲの腹まで裂く。がちり、と剣に何かが当たった。
壁に前足を打ち込んだまま、クラヤミトカゲの親は叫んでいる。腹を割かれる痛みに、喚き散らしている。
クラヤミトカゲの腹から剣を抜き、ギルディオスは身を引いた。なんだか、同情してしまう。

「痛いもんなぁ、腹は」

ぎゃおぎゃおぎゃお、とのたうち回るクラヤミトカゲの親は、傷口のある腹を上にして転がった。
太く長い尾が床に叩き付けられ、びしりとヒビが走った。灰色の腹の裂傷から、青黒い血が流れ出している。
ギルディオスは布を取り出し、剣にへばり付いた青い血をぬぐい取る。親は、まだ暴れ続けていた。
動けば動くほど傷は深まり、流れる血は増えていく。ギルディオスの足元にまで、血溜まりは広がってきた。
足を上げて血を避け、ギルディオスはクラヤミトカゲを見下ろした。深く裂けた喉が、上下するたびに血に汚れる。
不意に、黒い目がじろりと向いた。恨みと怒り、悲しみと嘆きの混じった目に、ギルディオスは呟く。

「あんたの子供、もらっていくぜ」

がばあ、と血を吐き出しながらクラヤミトカゲの親は叫ぶ。ギルディオスは、顔を逸らした。

「…悪ぃ」

背を向けて、巣に向かう。細い通路を歩いていると、クラヤミトカゲの親が憎々しげに猛った。
石壁を揺さぶる叫びが、苦しげに響く。だがその声は弱まり、どだっ、と首が落ちて床に叩き付けられた。
一度、ギルディオスは振り返った。幅広の通路を塞ぐ、巨大なトカゲの死体は、目を見開いていた。
細い通路の奧に目を戻し、ギルディオスは革袋を下ろして中を探る。麻袋と、魔物用睡眠剤を取り出した。
獣の皮や冒険者の衣服を押し固めて作られた巣に、親よりは遥かに小さなクラヤミトカゲがひしめいていた。
ギルディオスは生理的嫌悪感と同時に、ちりっと胸が痛んだ。それを払拭し、睡眠剤の瓶を開ける。

「大人しくしな、ガキ共」

「三流悪役のようであるな」

「うるせぇ黙ってろ」

伯爵に言い返しながら、ギルディオスは睡眠剤をクラヤミトカゲの子供達へ振りまいた。
薄紫の薬液は、ほのかに甘い香りを放ちながら、黒くぬめった子供達の感覚に染み入っていった。
一匹の目がとろりとしたかと思うと、次々に項垂れて眠り始めた。その威力に、ギルディオスは感心した。

「効きが早ぇな、この薬」

「フィフィリアンヌの作ったものであるからな、効き目の保証は最初から付いている」

「凄ぇなぁ、フィルって」

今更ながら、ギルディオスはフィフィリアンヌの技術力を知った。あの少女の、肩書きは伊達ではない。
瓶を革袋に入れてから、気持ちよさそうに眠る子供の一匹を掴んだ。ガントレットに、ぬるりとした感触がある。
ないはずの背筋をぞわつかせながら、ギルディオスは麻袋に詰め込んでいった。嫌なことの連続だ。
投げ込みながら、数を数えていく。最低でも二十匹、とフィフィリアンヌに命じられたのだ。
手のひらよりもやや大きいクラヤミトカゲの子供を袋に投げ入れながら、ギルディオスは力なく言う。

「じゅういち、じゅうに、じゅうさん、じゅうしー…」

「十五、十六、十七、十八、十九、二十、二十一、二十二、二十三」

ギルディオスとは対照的に、きっぱりとした口調で伯爵が数えた。二十三匹目が、袋に落とされる。
ぬめついた手を壁に擦り付けて、ギルディオスはしゃくり上げる。もう、泣きたくて仕方ない。

「あーもう、トカゲきらーい」

「言い付けより三匹も多いが、まぁ良いだろう。さて、次はイワミミズ十五匹を収集するのだぞ」

「ミミズは割に平気だからいいけどさ…」

青黒い返り血とぬめりに汚れた自分に、ギルディオスは既視感を覚えた。生前も、こんなことをした記憶がある。
傭兵になりたての頃で、メアリーに恋い焦がれていた時代のことだ。歳もまだ、二十を越えていなかった。
クラヤミトカゲと良く似た魔物、砂地に潜み人を喰らう、巨大なスナボリトカゲを討伐しに行ったのだ。
標的が爬虫類と聞いて恐れてはいたが、メアリーがいる手前では、弱気を出すわけにはいかなかった。
必死に虚勢を張りながら前進し、スナボリトカゲの巣まで辿り付いたものの、やはり本物に出会うとダメだった。
逃げ出すことはなかったが、泣くことはなかったが、足がまるで動かなかったことを良く覚えている。
結局、深傷を負ったスナボリトカゲが自分へ突っ込んでくるまで、戦えなかった。悔しく、情けない思い出だ。
殺し終えたスナボリトカゲを解体しながら、メアリーと戦友に散々笑われ、からかわれてしまった。
ギルみたいなでかい男にも怖いものがあるんだねぇ、と、メアリーは、なぜか嬉しそうに笑っていた。
戦友も笑いながら、言っていた。なぁメアリー、どうせ旦那に選ぶなら、怖いものがない男がいいぜ、と。
一つ年上のその戦友の名を、ギルディオスは思い出せなかった。だが、しばらくして思い出した。

「マーク・スラウ」

「いきなり何を言うのかね、貴君は」

不思議そうな伯爵に、ギルディオスは返す。思い出せた名の主は、戦友であり親友だった。

「マークってのは、オレの戦友でさ。昔は、メアリーとそいつとで三人で組んで、良く戦いに出てたんだ」

「ほう。珍しいなギルディオス、貴君の昔話とは」

「今まで思い出せなかっただけさ。クラヤミトカゲを倒したら、思い出したんだ。昔、似たようなの倒したなーって」

「マーク・スラウか。どこかで聞いたことがあるような気がするが、ううむ…」

「マークは盗賊出の賞金稼ぎだからな。堅気でない暮らしをしてりゃ、少しは耳に入るんだろうさ」

「うむ、思い出したぞ!」

変に気合いを入れ、伯爵は声を上げた。フラスコの栓を抜き、にゅるりと先端を伸ばす。

「七年ほど前、グレイスの元を尋ねてきた人間だ」

「なんでそこで、あの野郎の名前が出てくるんだよ!」

ぎょっとして、ギルディオスは声を上げる。伯爵は、すいっと甲冑を指した。

「ええい、我が輩に聞くな! 我が輩もフィフィリアンヌも、グレイスから僅かに又聞きした程度で、マークという男がいかなる目的でグレイスに接触したのかは解らんのだよ」

「じゃ、なんでグレイスはお前らにマークが来たことを話したんだよ?」

「珍しかったから、だそうだ。あの城に訪れる人間にしては、金の手持ちが恐ろしく少ない男だったのだそうだ」

「オレら、貧乏だったからなぁ…」

妙なところを嘆きながら、ギルディオスは壁に寄り掛かった。伯爵は続ける。

「とにかく、我が輩が知っているのはこれだけだ。続きをグレイスに聞くかね、ギルディオス?」

「誰が好き好んで、あのえげつない野郎に隙を見せに行くもんかよ。気になるけど絶対に聞かねぇ」

「そう言うと思っておったよ。我が輩も、出来ればあの男には近付きたくはないのである」

つるんと滑るようにフラスコに戻り、伯爵は蓋を閉めた。きゅっ、とコルク栓がガラスに填め込まれる。
ギルディオスは混乱しそうな思考を整理しながら、壁から背を外す。湿気を吸ったマントが、べりっと剥がれた。
妻と共に笑う戦友の姿が、顔以外は大まかに思い出された。人好きのする青年で、根の優しい男だった。
盗賊一家に生まれたのに盗賊にはならず、賞金稼ぎになった理由も、悪人を倒したかったからなのだそうだ。
冗談で、義賊にでもなれ、と彼を茶化していた記憶もある。グレイスのような輩は、恨み憎む性分の男だ。
理解が出来ない。というか、マークからグレイスに近付いたという事実自体が飲み込めない。

「マークの野郎、今度会ったら、とことん問い詰めてやろうじゃねぇか!」

そう意気込んだギルディオスを、伯爵は急かした。とんとん、とフラスコを叩く。

「だが今は、早く荷物を担いではくれまいか。この地点に踏み止まる意味は皆無だぞ」

「あ、ああそうだな」

クラヤミトカゲの子供を詰めた麻袋を、ぐいっと革袋に押し込んだ。肩に担ぐと、ずしりと重みが来る。
ギルディオスは一段と増えた重さに戸惑いながらも、ヘルムを開け、中に手を突っ込んで地図を取り出した。
昨日一日、この階層を歩き回って伯爵に書かせた地図を眺め、階段の方向を確かめた。ここからは、近い。
クラヤミトカゲの巣を薙ぎ払って通路を広げてから、ギルディオスは進んだ。いくつか、角を曲がる。
細い通路が途切れ、幅広の通路に出る。しんとした空間の右手に、大きな金属製の扉が待っていた。
ギルディオスは扉の前に立つと、力を込めて蹴り飛ばした。ばきん、と錆びた鍵が砕けて落ちた。
扉が開いた途端、カビ臭い風が巻き起こった。視界を塞いだ砂埃を手で払ってから、奧を覗く。

「おー、あったあった」

幅の狭い階段が、下の階層へと繋がっていた。狭い段の途中には、朽ちた人骨が、ばらけて落ちている。
ギルディオスはその骨を飛び越え、階段を下りていく。一段下りるたびに、空気に湿度が増した。
とん、と最後の段を下りた。先程まで居た地下三階よりも、若干ながら天井が低くなっていた。
今し方蹴り壊した扉と良く似た扉に、ギルディオスは足を当てた。そしてまた、どがん、と蹴り飛ばす。
鉱石ランプの青白く淡い光が、軋みながら開いた扉の向こうを照らした。石壁は、まだまだ続いている。
ギルディオスは地下四階へと踏み出しながら、ぼんやりと思考していた。戦友の姿が、視界にちらつく。
そういえば、自分が死ぬ直前にメアリーを呼びに来たのは、マークだったな、と。
記憶を辿って、彼の顔を形作る。だがそれは、明確な映像として意識に浮かび上がってくることはなかった。
あの時、戦友が妻と自分に何を言っていたのか。そのことだけが、少しも思い出せなかった。
過去の記憶の中で明確なものは、メアリーの悲しくも美しい姿と、あの闇のような騎士だけだった。

艶やかで重々しい、漆黒の甲冑。
高く上げられた、二本の前足。
立ち去る際の、後ろ姿。

そして。

少しも揺らがなかった、背中越しの地面。

それの意味を、ギルディオスは漠然と考え続けた。
だが、いつまでたっても、記憶と同様に形にはならなかった。
霧のような思考を固められないまま、出口の見えない地下迷宮を歩き続けた。
歩きながら、ギルディオスは、誰かにこう言われているような気がしてならなかった。


記憶を辿ってはならない。

過去を見てはならない。

過ぎた出来事を、確かめてはいけない。


ずきりと鋭い頭痛が、空っぽのヘルムにある。思わず、ないはずの目元をしかめた。
がしゃがしゃと規則正しい自分の足音が、石壁に反響し、兵隊の足音のように聞こえてきた。
いつのまにか頭痛は消えていて、それと同時に、闇の騎士の記憶も薄らいでいた。








05 1/13