ドラゴンは笑わない




主のいない家で



カインは、立ち止まってしまった。


扉を開けたまま、薄暗い部屋の中を見回す。埃っぽい空気に差し込こんだ光が、淡い筋を作っていた。
肩の上で、カトリーヌがぎぃと鳴く。長い鼻筋を前へ突き出し、ひくつかせていたが、ひょいと首をかしげる。
カトリーヌの顎を撫でながら、カインは部屋に一歩踏み込んだ。本に埋め尽くされた室内には、誰の気配もない。
暖炉の火も消えていて、静かな寒さが広がっていた。カインは後ろ手に扉を閉め、とりあえず、中に進んだ。
部屋の右奧の、二階へ続く階段の手前には、大きな机が置いてある。その上の本は、以前よりも増えていた。
机の右手前、窓際の作業台も同様だった。薬瓶や実験器具がぞんざいに並べられ、片付けられていない。
相変わらず整理整頓の欠片も見られない室内に、カインは笑った。彼女の性格は、以前と変わりないようだ。
だが、カインは少し居づらい気分だった。住人は一人もいないのに、勝手に中に入ってしまったからだ。
三人がどこへ行ったか考えてみたが、皆目見当が付かない。付き合いはまだ短いのだから、当然かもしれない。
ぐいぐいとカトリーヌに擦り寄られつつ、カインは、とりあえず冷え切った暖炉前のソファーに腰を下ろした。
群青色のマントを引き抜き、背もたれの向こうに下ろした。かしゃん、と腰元のレイピアが床に当たる。

「頼み事をしてきたのって、フィフィリアンヌさんの方じゃないかなぁ…」

カインは胸元に手を入れ、彼女に頼まれて見繕ってきたものに触れた。かさり、と紙の音がする。

「なのにいないなんて。なんていうか、あの人らしいや」

ばさばさっ、と耳の傍でカトリーヌが羽ばたいた。小さな体を浮かばせ、するりとテーブルの上に降りる。
古びたテーブルに舞い降りると、カトリーヌはカインを見上げた。赤いリボンの付いた尾を、少し振る。
薄黄色の鋭くも幼い目を見、カインは笑む。カトリーヌは、きぃ、と細く高い声を上げ、ぐいっと首を持ち上げた。
大人しくしている、と言う意思表示だろう。物分かりの良い幼子を、カインは撫でながら褒める。

「良い子だ、カトリーヌ。フィフィリアンヌさんが来るまで、待っていような」

ことん、と人間のものらしき足音がした。その音にカトリーヌは素早く反応し、玄関へ振り向いた。
カインが顔を上げると、分厚い扉が外側から叩かれた。こんこんこん、と三回、人の手が当てられる。
思わず、カインはカトリーヌと顔を見合わせた。住人の所在を確かめるのであれば、この家の主ではない。
扉の向こう側で、少年と女性の声がする。少年らしき声が女性を宥めていたが、女性が押し切ったようだった。
直後、がちゃりと取っ手が回され、勢い良く扉が開かれた。二人の人影が、逆光の中に立っている。

「こんちゃーっすぅ!」

メイスを高々と振り上げながら、修道服姿の女性が機嫌良く挨拶した。満面の笑みで、武器を掲げている。
突然の来客とその行動に、カインは驚き、思わずソファーから落ちかけた。ごん、と後頭部が背もたれに当たる。
すると、その後ろから申し訳なさそうな顔をした少年が出てきた。魔導師らしく、長い杖を持っていた。

「武器振り上げながら扉開けるなんて、どこの強盗だよ」

「あいや」

言われて気付いたように、修道士はメイスを下ろす。少年はため息を吐いてから、カインを見る。
見慣れぬ人間に警戒しているのか、少年は表情を固めた。慎重に、杖でカインを指す。

「それで、あなたは?」

「あ、僕?」

ずり落ちかけたソファーから起き上がり、カインは笑顔を作る。何はなくとも、笑うべきだと思った。
立ち上がって、マントを整えた。警戒している少年ときょとんとしている修道士へ、簡単に事情を説明した。

「僕はその、フィフィリアンヌさんに用事があって来たんですが、いなかったので。待とうと思いまして」

「てことは、無駄足だったのかもねぇーん」

修道士は笑いながら、少年にしなだれかかる。少年は、杖で彼女を押し返す。

「いいさ、僕も待たせてもらうよ。どうせ、そんなに急ぎじゃないし」

「それで、君達は一体?」

カインが尋ねると、少年は訝しげにカインを見据えた。かしゃん、と杖の先が床に当たる。

「僕の方が聞きたいな。あなたみたいな上流階級の人間が、なんでこの家にいるんだ?」

「あらホント、貴族の方じゃない。この家の主とは、どういうご関係で?」

メイスを腰に下げてから、修道士はまじまじとカインを眺めた。カインは、胸元を押さえる。

「彼女とは、知り合いなんですよ。頼まれたものがあって、僕はそれを届けに来たんですが」

「フィフィリアンヌ・ドラグーンはいなかった、と。参ったな…」

少年は杖を抱き、部屋の中に入ってきた。それを、小走りに修道士が追いかける。
カインが何か言う前に、二人はさっさとソファーに座ってしまった。カインも、仕方なく座り直す。
二人の来客に、カトリーヌは何事かと低い声で唸った。カトリーヌを見、少年は物珍しそうに首を曲げる。

「ワイバーンの幼生?」

「あ、その子はカトリーヌって言うんです」

「ワイバーンがカトリーヌぅ?」

名を聞いた途端、修道士は思い切り変な顔をする。カインは言い返したくなったが、堪えた。
少年は部屋を見回していたが、ちょっと眉をひそめた。落胆と安心を混ぜたような、呟きが漏れる。

「父さんもいないか…」

「父さんって、もしかして、ギルディオスさんのことですか?」

「そうだよ。僕はその息子で、ランス・ヴァトラス」

あまり言いたくなさそうに、少年は答えた。カインは、ギルディオスの印象と懸け離れた息子に少し驚いた。
魔導師だからということもあるのだろうが、父親ほど感情的でない。落ち着いているを通り越して、どこか冷たい。
修道士はランスに寄り掛かって抱き締めながら、にっこりと微笑んだ。彼の黒髪に、頬を寄せる。

「でもって、私はパトリシア・ガロルド。ランス君とパーティ組んでて、前衛やってまーす」

「だけど、あなたは修道士でしょ? 普通は後方支援なんじゃ」

「ぶっちゃけ、私は支援魔法が得意じゃないのよぅ。ぶん殴ってぶっ壊す方が好きなの」

と、パトリシアはけらけら笑った。カインは、はぁ、と力なく返す。

「えと、僕はカイン・ストレインと申します。どうぞ、お見知り置きを」

「それで、そのカインさんはどうしてフィフィリアンヌ・ドラグーンに用があるんです?」

不審そうに、ランスはカインを見上げた。薄茶色の瞳が、疑わしげに細められる。
カインは少年らしからぬランスの態度に辟易しながら、胸元から一通の手紙を取り出した。

「フィフィリアンヌさんに頼まれて、ディアード家の仮面舞踏会の招待状を手配してきたんです」

「仮面舞踏会ぃ?」

ランスは面食らったのか、変な声を出した。ええ、とカインは頷き、招待状の手紙を眺めた。
金縁の装飾が施された封筒には、フィフィリアンヌの名と、ディアード家の家紋である双頭蛇が印されていた。
裏返すと、ディアード家当主の名が書かれている。カインは、招待状の封蝋から目線を上げた。

「ええ。あの人にしては不思議だなーとは思ったんですけど、頼まれたので、持ってきたんです」

「舞踏どころか社交辞令も知らなさそうな、あのハーフドラゴンが、貴族に混じって舞踏会?」

趣味の悪い冗談だ、とランスは口の端を引きつらせた。カインは、むっとしてしまう。

「そりゃ、フィフィリアンヌさんは無愛想で性格悪くて金にがめついですけど、そんな言い方はないでしょう」

「カインさんこそ、その言い方はないんじゃありません?」

笑いを堪えるためか、パトリシアは口元を押さえながら言った。ぎぃ、とカトリーヌが頷いた。
パトリシアは立ち上がり、暖炉の前にしゃがみ込んだ。脇に積んであった薪を数本と焚き付けを、中に放る。
ソファーの方へ戻ってくると、彼女はランスに何かを頼んだ。ランスは仕方なさそうに片手を挙げ、小さく唱えた。
ぼっ、と焚き付けの上に炎が走り、めらめらと燃え出した。パトリシアは歓声を上げ、ぱちぱちと拍手する。

「いやーんランス君すごーい、さぁすがー」

「あのさあパティ、こんなことで魔法を使わせないでくれる?」

片手を下ろし、ランスはぼやく。カインは感心しつつ、炎と少年を見比べる。

「呪文からして、精霊魔法かな? だけど、器用だね。攻撃魔法の出力を下げるのは、上げるより大変なのに」

「攻撃魔法っていっても、一番簡単な子供でも使えるやつだしね。簡単な方が、色々と応用が利くんだよ」

どこか面倒そうに言いながら、ランスは頬杖を付いた。冷め切った目線が、カインから外れされる。
きっと、笑えば愛嬌のある少年なのだろう。だが、全体の印象と表情が大人びすぎていて、打ち消されている。
カインはランスに、フィフィリアンヌとはまた違った違和感を覚えた。きしゃあ、とカトリーヌが鳴き声を上げる。
彼が片手を伸ばすと、その指先をカトリーヌは親しみを込めて軽く噛む。割れた舌先が、カインの指をなぞった。

「そういえば、ランス君はフィフィリアンヌさんにどんな用事があるんです?」

「本を借りにね」

顔を上げ、ランスは薄暗い天井を見上げる。暖炉の柔らかな明かりが、三人の影を天井まで伸ばしていた。

「精霊の分布図が載ってる魔導書を王立図書館に借りに行ったら、ここにあるって言われて」

「ちゃーんと司書に紹介状を書いてもらってきたから、又借り出来るんですよん」

いつのまにか、パトリシアは台所からポットを持ってきた。中の水がたぽんと揺れるそれを、暖炉の前に置く。
脇に紅茶の缶を抱え、パトリシアは周囲を見回す。棚の上にティーセットを見つけると、それも持ってきた。
他人の家なのに、まるで自分の家のように物を出してくるパトリシアに、カインはあまりいい気はしなかった。
着々とお茶の準備を進める彼女に、カインは言った。カトリーヌの口から指を抜き、ハンカチで拭く。

「フィフィリアンヌさんの家なのに、勝手に出していいのかい?」

「紅茶なら大丈夫って、前回来たときにフィルさんが言ってましたから。たぶん大丈夫っしょ!」

自信ありげに、パトリシアは親指を立てた。その神経の太さに、カインは呆れてしまう。

「あなたね…。遠慮ってものを知らないんですか」

「パティに礼儀と遠慮は求めない方がいいよ。その上、この人、修道士のくせして戒律の半分も言えないんだ」

司書の紹介状を出して眺めながら、ランスはため息を吐いた。カインは、パトリシアを見上げる。
白いティーカップとソーサーを三つずつ重ね、かちゃりと持ち上げる。彼女は、怒ったように頬を張る。

「あー、ひっどいなぁ。修道院から出たら、すっぽーんと忘れちゃったのよん」

「普通は毎日思い返して、神へ捧ぐ御心を清らかに保つもんだろ」

「私の心はランス君のものよぉん」

いやーん、と自分で照れながら、パトリシアは小走りに台所へ向かった。俯いたランスは、額を押さえている。
カインは身を屈めて、少年の表情を覗き見た。照れくさそうでもありながら、どこか鬱陶しそうでもあった。
複雑な彼の胸中を察し、カインは思わず笑ってしまう。ランスはすぐさま顔を上げ、カインを睨んだ。

「何がおかしいんですか」

「いや、別に」

カインは、笑いを堪える。ランスは短めの前髪をいじりながら、不機嫌そうに眉を吊り上げた。

「先に言っておくけど、僕とパティは別になんでもないですからね!」

「はいはい」

必死なランスに、カインは頷いてやった。ランスは前髪を握り、困ったように目を逸らしている。
すっかり冷静さが消えてしまった少年の頬は、暖炉の明かりを受けているせいもあり、心なしか色が赤く見えた。
自分を落ち着けるため、ランスは深呼吸した。ゆっくりと息を吐きながら、ちらりとカインを窺う。
少年のような青年は、甘えてきたカトリーヌを構っている。その目は優しげで、幼いワイバーンを愛でている。
正直、ランスはカインに戸惑っていた。噂では聞いたことがあったが、本当にいるとは思わなかったのだ。
竜族をこよなく愛し、ワイバーンを従える貴族の若者。その者と、まさかこんな場所で会ってしまうとは。
しかも、先程の口ぶりからして、フィフィリアンヌに惚れているらしい。ランスは、カインの感性を疑ってしまう。
見たところ、カインには魔導の心得はあるように思える。ならば、フィフィリアンヌから畏怖ぐらいは感じるはずだ。
ランスはカインに目線を戻し、尋ねてみることにした。竜族を恐れない者に、興味があった。

「あの、カインさん。あなたは、ドラゴンが、フィフィリアンヌ・ドラグーンが怖くないんですか?」

「怖いどころか、美しい女性だと思いませんか?」

「え、まぁ。目は怖いけど、顔はそこそこいいかなーとは」

「だろう? だが僕はね、それだけではなく全てに惹かれたんです。怖いなんて、思うはずがないじゃないか!」

ソファーを蹴飛ばしそうな勢いで立ち上がり、カインはぐっと拳を握る。

「彼女が僕を見てくれなくとも、僕は彼女を愛しているんです! そりゃもう体の奧から心の底から!」

「…はぁ」

「一方的な片思いだというのは承知の上! 半分とはいえ、彼女は竜族! だが、それがなんなんだ!」

呆然とするランスを横目に、カインはうっとりしながら演説を続けた。

「愛は全てを乗り越える、最高の魔法なのさ! だから僕は、フィフィリアンヌさんを愛し続ける!」

「…そんなに好きなんですか」

力なく呟いたランスに、カインは力強く頷いた。ランスは、出来るものなら頭を抱えてしまいたかった。
テーブルの上で、カトリーヌは小さく唸る。きゅうん、と高い声を洩らして、顔を逸らしてしまう。
台所から戻ってきたパトリシアは、三人分のティーセットを並べた。ティーポットを開け、中に茶葉を落とす。
ぽかんとしているランスの隣に座ると、おもむろに彼に擦り寄って腕を回した。変に甘ったるい声になる。

「私もランス君がだぁい好きよ。だから、遠慮せずに愛して愛してぇん」

「パティ、聞いてたの?」

身をずり下げるランスに、パトリシアはしがみつきながら笑む。

「そりゃ聞こえるわよーん」

逃げ腰のランスに体重を掛けたパトリシアは、恍惚としているカインと項垂れるカトリーヌに気付いた。
ランスの腕を抱いたまま、背を曲げて顔を近付ける。カトリーヌは、しゅんとしたように目を伏せている。
パトリシアはカトリーヌを少し撫でてやり、笑った。ランスを抱え込みながら、カインを見上げる。

「カインさん、この子、フィルさんに妬いてますよ」

「へ?」

張っていた胸を戻し、カインはカトリーヌを見下ろす。すると、カトリーヌは顔を逸らした。
必死に逃げようとするランスを押さえつつ、パトリシアは笑う。ワイバーンの乙女心が、可愛らしい。

「ほらね」

「そうなのか、カトリーヌ?」

ソファーに座り直し、カインはカトリーヌに手を出す。ちらりと目を向けたが、カトリーヌは近寄らない。
以前よりも大きくなった翼をばさりと上下させ、カトリーヌは体を浮かせる。弱い風を起こし、するりと飛ぶ。
しばらく彼らの頭上を巡っていたが、滑空し、本棚の上に乗ってしまった。そこから三人を見下ろし、ぎぃ、と鳴く。
高い位置に乗ったカトリーヌは、カインを睨むように、薄黄色の目を細める。ばしん、と尾が本棚の上を叩いた。
思わぬことに、カインは苦笑してしまった。嬉しいといえば嬉しいのだが、やはり複雑だった。

「カトリーヌの機嫌が治るまで、待つしかないかな」

パトリシアにのしかかられながら、ランスは上目に本棚の上を見た。小さなワイバーンが、拗ねている。
カトリーヌの周りを、ふわりと精霊が巡っていた。影よりも霧よりも薄い姿が、空気に混じっている。
窓の隙間から入り込んだ風の精霊が、大きく澄んだ目を細め、微笑んでいる。それは、カトリーヌの上に乗った。
うふふふふ。あなたもこのこも、かわいいわ。そして、あのりゅうのこも、とてもかわいいわ。
風の精霊の囁きに、ランスは内心で反論する。そんなことを言われても、苦手な相手は苦手なのだ、と。


しばらく待っても、家の主は帰ってこなかった。
カインはソファーから中腰に立ち、窓の向こうを見てみた。だが、足音もなければ気配もない。
すとんと座り直してから、湯気を昇らせるティーカップを取った。並々と、良い香りの紅茶が満ちている。
家で飲むものよりは香りの広がりは弱いものの、悪くはない出来だった。カインは、それを少し飲む。
ランスは砂糖を二杯入れた紅茶を飲んでいたが、ティーカップを下ろす。かちり、と陶器が触れ合って鳴る。

「貴族とお茶を飲んでるのに、とやかく言われないのって珍しいや」

「そういえばそうかも。私も修道院の頃、貴族出の子と飲んだことあるけど、うるさかったのよねーん」

ティースプーンでカップの中身を掻き回していたが、パトリシアはその手を止めた。

「作法がないだの飲み方が悪いだの温度が高いだのー、って。たかが紅茶に、よくそこまで文句が言えるわよね」

「他に趣味がないからですよ。だから、一つのことに固執しちゃうんだよなぁ」

なんだか申し訳ない気分になり、カインはティーカップを下ろした。その中に、砂糖を一杯半入れる。
ゆっくり混ぜ、完全に砂糖を溶かす。銀色のスプーンを取り出し、ソーサーの上に横たえた。

「遊び暮らすのも、これはこれで大変ですよ。人付き合いばっかりで、やりたいことも出来ませんし」

「そうかな」

ふと、ランスが呟いた。カインはティーカップを持ち、ソファーに寄り掛かる。

「そうですよ。明けても暮れても観劇やパーティの誘いは来るし、ちょくちょく遠出して顔出ししなきゃならないし」

「それ、自慢?」

嫌そうに、パトリシアは口元を曲げる。カインは、首を横に振った。

「僕としては愚痴のつもりなんですけどね。兄様達の軍の式典に引っ張り出されるし、さっさと結婚しろって母様からは急かされるし、意味もなく王宮に招かれるし、習いたくもない勉学ばっかり教え込まれて、本当にやりたい勉強は出来ないし…。いっそのこと、庶民に生まれたら良かったと思うときがありますよ」

「高貴な御方の、実に高貴なお悩みですことー」

腹立たしげに、パトリシアはむくれた。ティーカップに残っていた紅茶を、ぐいっと飲み干した。
ティーポットを取り、どぼどぼと新しく注いだ。腹立ちを紛らわすため、それもまた一気に飲んでしまう。
飲み終えるとパトリシアは、がちゃん、とティーカップをソーサーに叩き付けた。ランスは、思わず肩を竦める。

「…酒じゃないんだから」

パトリシアの苛立つ姿を横目に、カインは続ける。怒るのも当然だとは思うが、言いたいのだ。

「二人の兄様が揃って軍務に付いちゃったせいで、僕がストレイン家の当主にならなくてはいけないし」

「そういうのを、天空から宝石って言うんだよなぁ」

と、ランスは悪気なく言った。カインは、眉間を歪める。

「別に幸運でもなんでもないですよ、当主の座なんて。鬱陶しいだけの肩書きですし」

「じゃ、親戚にでも譲ればいいじゃないのよ」

つんとした口調で、パトリシアは言い放つ。カインの愚痴が、とにかく気に入らないのだ。
そういうわけにも行かないんだよ、と、カインは目線を上げた。本棚の上の、カトリーヌを見つめる。

「親戚連中は、金遣いが荒くて自己中心的な輩ばかりなんですよ。そんな連中に屋敷と財産を乗っ取られてみろ、下々を苦しめてしまうだけですよ。それに、カトリーヌも親戚からは相当に嫌われてしまって。お父様がいなければ、僕もどうなっていたやら。そんなお父様の頼みだから、断るに断れないんです」

「ドラゴンの亜種であるワイバーンを好きになる人間の方が、少ないと思うけどな」

ティーカップを揺らしながら、ランスは本棚へ振り返る。小さなワイバーンは、そっぽを向いていた。
湯気の少なくなった紅茶を飲んでから、カインは一息吐く。かちり、とティーカップをソーサーに載せた。

「とにかく、仕方ないんですよ。僕が当主にならなければ、この森も含めたストレイン家の領地が荒れてしまうから」

「え? そうだったの?」

意外そうに、パトリシアは辺りを見回した。ランスは知っていたのか、驚きもせずに紅茶を傾けている。
ソファーに身を沈めながら、カインは頷いた。片手を上げて人差し指を立て、ぐるっと回す。

「ええ。この辺り一帯の土地は、代々僕の家が納めていましてね」

「そうと知ってたら、もっと愛想良くしとくんだったわ」

ちぃ、とパトリシアは舌打ちして指を弾いた。ランスは、ティーカップから顔を上げる。

「もう遅いよ、パティ」

「でも、領地が広いだけで財産はそんなに多くないから、あんまり期待しない方がいいですよ」

打算的な修道士に、カインは苦笑してしまう。途端にパトリシアは、なんだぁ、と肩を落とした。
カインはティーポットを持ち上げ、紅茶をティーカップへ注いだ。すっかり濃くなった紅茶が、並々と満ちる。

「一応、代々で王国軍の軍務に関わってはいるけど、政治とはあまり縁のない家系ですしね」

「へらへらした苦労知らずのお坊ちゃんかと思ってたけど、割に大変な立ち位置にいるんだなぁ」

ランスの言葉に、カインは力なく笑った。

「ていうか、なんで君はそんなに言うことがきついんですか?」

「まぁ、暇なんだよね。他にやることもないから」

空になったティーカップを下ろし、ランスは足を組む。その上で、手袋を填めた指も組ませる。
ランスは暖炉の炎を見つめていたが、鋭い目の上で、眉が下げられた。少しだけ、冷たい表情が和らぐ。

「僕も、似たような感じかなぁ…」

「何がです?」

カインの問いに、ランスの目が伏せられる。薄茶色が、陰った。

「色々とね。天才天才って良く言われるんだけど、これで結構大変なんだよね」

「ランス君てね、魔力が強い上に感覚が鋭敏すぎて、いっつも精霊の声が聞こえちゃってるの。凄いっしょ?」

と、すかさずパトリシアが割り込んだ。ランスは、天井を仰ぐ。

「気を抜いて魔力を強めちゃうと、それがうるさいのなんのって。僕が眠たかろうが痛かろうが、関係なしだよ?」

「それは大変ですね」

カインはその辛さを想像したが、理解は出来なかった。魔法は使えるが、魔力はそれほど強くないのだ。
膝の上の手を握り締め、ランスはむくれた。次第に怒りが湧いてきたのか、ぐっと眉が吊り上がる。

「そのせいで、何度気が違っちゃいそうになったことか。…苛々するんだよね、意味もなく話し掛けられると!」

「…はぁ」

「精霊共は、僕を顎で使うんだ! やれ水が汚れたのやれ木が切られたのやれ大地が割れただのって!」

相当溜まっていたのか、ランスは声を張る。どん、と自分の膝を叩いた。

「毎回思うんだけど、そんなの自分達でやれよ! 精霊なんだから! 大体、僕は魔導師であって巫女じゃない!」

「んでもって、精霊信仰の強い土地だと、ランス君はすーぐに拝まれちゃうしねー」

三杯目の紅茶に砂糖を入れたパトリシアは、かちゃかちゃとスプーンを回した。ランスは、深く頷く。

「精霊の器にされかけたことなんて一度や二度じゃないし、精霊を騙った邪霊に魂を喰われかけたこともある!」

あまりの剣幕に飲まれてしてしまい、カインは何も言えない。ランスは、更に喚いた。

「精霊も人間も、僕をなんだと思ってるんだ! 暇さえあれば修業と勉強をさせられて、全然遊べないしさぁ!」

息を荒げて肩を上下させるランスに、カインは心から同情した。天才少年は、見かけよりも苦労をしている。
だが、先程喚き散らしたことを、全て彼はこなしてきたのだ。恐らく、ランスは生真面目すぎるのだ。
周囲の頼みを断れず、期待に背けない。己に対して、潔癖なまでに真面目さを貫いてしまっているのだ。
このままでは、いつか限界が来てしまうことだろう。もう既に、充分限界なのかもしれない。
ごん、とランスは組んだ手を額に当て、俯いてしまう。パトリシアはその頭を、よしよし、と撫でている。

「魔法都市から王都に帰ってきても、ずうっと勉強させられてるもんねぇ。そりゃ溜まるわよねぇ」

「久々に、まともに怒った気がするよ」

消え入りそうなほど小さな声を、ランスは漏らす。パトリシアは、ランスの肩を抱いてやる。

「よーしよし。落ち着くまで、お姉さんが一緒にいてあげるぞー」

「いつものことでしょ」

「いやぁん、そこで突っ込まないでよぉ」

ぎゅっとランスを腕に納めながら、パトリシアはむくれる。だがすぐに、表情が緩んだ。
怒ったことで気力が尽きたのか、ランスは抵抗しない。それを良いことに、パトリシアは彼を抱き寄せる。
この二人は、これはこれで均衡が取れているようだ。カインは、それが少し羨ましくなった。
ランスにとって、パトリシアは姉であり妹であり母親のような間柄なのだ。だから、甘え合えている。
ふと、頭上を風が抜けた。カインが見上げると、カトリーヌが尾のリボンを靡かせ、くるくると旋回していた。
カインが手を伸ばすと、するりと下りてきた。どん、と腕を前足で掴むと、カトリーヌは薄黄色の目を向けてきた。
きゅうん、と申し訳なさそうな声を出し、カトリーヌはカインに擦り寄る。カインは、思わず笑った。

「羨ましくなったんだな、カトリーヌ」

気恥ずかしくなったのか、カトリーヌは顔を伏せてしまった。ぎゅる、と小さな喉の奧から唸り声がする。
カインの胸元に、ぐいぐいと短いツノが押し付けられる。その間を、カインは軽く撫でてやった。
まるで人間の幼子のようなカトリーヌが、可愛くてならない。ダークブルーの硬い肌に、何度も指を滑らせる。
すべすべとした手触りをカインは楽しんでいたが、ふと、カトリーヌは顔を上げる。玄関を見、一声鳴く。
それに気付き、ランスはぐいっとパトリシアを引き剥がす。押しやられたパトリシアは、残念そうに唇を尖らせた。
重たく金属の擦れる足音が、体重の軽い足音に重なって近付いてきていた。同時に、複数の声も聞こえてくる。
がしゃん、がしゃん、がしゃん、と玄関の前まで昇ってきた。がちゃりと取っ手が回され、扉が開けられた。

「お?」

扉を開け放った格好で、銀色の甲冑は動きを止めた。肩に担いでいた木箱を、足元に下ろす。
ギルディオスの後方から顔を出した少女は、いつのまにか家にいる来客達を眺め、不思議そうにしている。
フィフィリアンヌの腰に下げられたフラスコが、ごとりと揺れる。伯爵は、球体に沿って蠢いた。

「これはこれは。いつのまにやってきたのかね、君達は」

「だーからなぁ、フィル。家を空けるときは、鍵を掛けろっていつも言ってるだろ?」

呆れながら、ギルディオスはフィフィリアンヌを見下ろす。暖炉の前に座る、息子達を指した。

「ランス達だったから良かったけど、盗賊でも来たらどうすんだよ。不用心すぎだぜ」

「盗まれるほど貴重なものはないぞ」

フィフィリアンヌの気のない答えに、ギルディオスはがりがりとヘルムを掻いた。

「あーのなぁおい、そういう問題じゃねぇだろうが。お前って、常識のどっかしらが欠けてねぇか?」

「いきなりお邪魔して、すいません」

ソファーから立ち上がり、カインは頭を下げた。いや、とフィフィリアンヌはそっけなく返した。
ギルディオスは足元に置いた木箱を、がつんとつま先で叩いた。がちゃり、とその中で瓶が揺れる。

「ちぃと食糧を買い出してきてたのさ。だけどフィルの奴、主食じゃなくてワインばっかり買い込みやがるんだぜ」

ほれ、とギルディオスは後ろ手に外を指した。カインは身を傾け、外に止めてある荷車を見下ろす。
確かに彼の言う通り、荷台にはワイン瓶の詰まった木箱が乗せられている。それも、十箱はあるようだ。
肝心の食料品はといえば、三箱ぐらいしかない。必要最低限にしても、割合として少なすぎる。
先の尖った帽子を脱ぎながら、フィフィリアンヌは顔を逸らす。ふん、とあまり面白くなさそうにする。

「私の勝手だ。それに、喰うのは私しかおらん。あまり量があっても、腐るだけだ」

「ついでに言えばだな、もう少し野菜も買えよ。肉ばっかりだと、体に悪いぜ」

ギルディオスの小言を無視し、フィフィリアンヌは机に向かう。マントも外し、帽子と共に机へ放った。
腰のベルトから金具とフラスコを外し、ぽん、とフラスコの栓を抜いた。中身を、手近なワイングラスに注ぐ。
ちゃぽんとワイングラスに落ちた伯爵は、安堵のような声を洩らす。フラスコよりも、落ち着くらしい。
机に置いてあったワインボトルを開け、フィフィリアンヌはどぼどぼとグラスに注ぎ込む。

「それで、貴様らは私に何の用だ」

「あ、そうでした。頼まれてた招待状、持ってきました」

胸元を探り、カインは金文字の並ぶ封筒を取り出した。それを、フィフィリアンヌに差し出す。
ワイングラスを持った方の手を出したフィフィリアンヌは、器用に薬指と小指で、その封筒を受け取る。

「ああ、そうだったな。カイン、もう一つ頼んで良いか?」

「何をです?」

「私は夜会用の衣装を持っていない。適当なのを見繕って、舞踏会の日までに用意してくれないか」

「はい、喜んで!」

満面の笑みで、カインは頷いた。つまりこれは、好みの衣装を彼女に着せられる、ということだ。
すると、どん、といきなり重みが頭にやってきた。カインが見上げると、カトリーヌが飛び乗っている。
カインの後頭部の辺りで、ばしばしと尾が振られている。相当に不機嫌なのか、時折、カインの背が殴られた。
ぐぎぃ、とカトリーヌは低い声を洩らした。フィフィリアンヌは空いている方の手を伸ばし、幼子を撫でる。

「カトリーヌ、そう妬くな。誰もお前の主人は奪わん」

「そうだよカトリーヌ。フィフィリアンヌさんはね、僕なんか歯牙にも掛けてくれないから」

自分で言いながら、カインは物悲しくなった。フィフィリアンヌは、何も言わずにこっくりと頷いた。
そこで肯定して欲しくないなぁ、と思いながらもカインは反論出来なかった。紛れもない、事実だからだ。
カトリーヌは主人の言葉に安心したのか、ぎぃ、と頭をカインへ擦り寄せた。薄黄の目が、嬉しげに細まった。
まるで進展しそうにない上に後退していくカインの恋愛模様に、ギルディオスは内心で笑ってしまう。
木箱を担いで暖炉の前にやってくると、息子の様子が、いつもと違うことに気付いた。俯いて、目を擦っている。
少し気恥ずかしげな動きで、ランスの目は父親を捉えた。だが、それがすぐに逸らされてしまった。

「…なんか、気ぃ抜けた」

「ランス、お前、泣いてたろ?」

息子の前にしゃがみ、ギルディオスは笑う。ランスは、父親から顔を逸らす。

「久々に怒ったせいだよ。そしたら父さんが帰ってきて、それで、なんか」

「気が抜けた、と。お前、いっつも感情押し込めてるもんなぁ。しんどくて当たり前だよな」

「僕、帰る」

父親に顔を見せないようにしながら、ランスは立ち上がる。杖を取り、足早に玄関を出て行ってしまう。
パトリシアはギルディオスとランスを見比べたが、立ち上がり、急いでランスを追いかけた。
待ってよぉ、と高い声が遠ざかっていく。パトリシアが締め損ねた扉は、徐々に動き、がちゃりと閉まった。
ギルディオスは木箱を置き、腰を上げる。今し方まで息子の座っていた場所に、どっかりと座った。

「ランスの奴め。親父になんか、気ぃ遣うことねぇだろうが」

「さっきから思ってたんですけど、ランス君って、ギルディオスさんに欠片も似てませんよね」

「はっはっはっはっは。やはり、カインもそう思うか。我が輩もそう感じてならない」

伯爵とカインの言葉にギルディオスは肩を竦めたが、言い返さなかった。それは、自分がよく知っている。
自分が受け継ぐことの出来なかった、大魔導師ヴァトラの血を継ぎ、美しい妻に良く似た愛息子。
だがそれでも、時折、遺伝子の繋がりを感じることはある。クセや嗜好は、ごくたまにだが似ているのだ。
ギルディオスとしては、それで充分だった。この喜びは親じゃなきゃ解るまい、と、思いながら笑った。

「ランスはランス。オレはオレなんだよ」

「それで、そのランスも私に用事があったのではないのか?」

二人の出て行った扉を見つめながら、フィフィリアンヌはワイングラスを軽く揺らす。

「何もせずに、帰ってしまったぞ」

「ありゃ」

そう言われて、カインも気付いた。魔導書を又借りする、というのが、ランスの当初の目的のはずだ。
だが、父親の前で泣いてしまった照れで、出て行ってしまった。しかも、パトリシアも一緒に。
カインはまた、ランスに同情した。気位の高そうな彼のこと、すぐに戻ってくることは出来ないだろう。
本を借りなければならない義務感と、照れくささの間に、挟まれてしまっているに違いない。
ランスの心境を思い、カインは笑う。同世代である少年の心が、よく解るからだ。

「そのうち、来るんじゃないですか? 彼も、ちゃんと用事があったわけだし」




結局、そのうちがやってきたのは、夕暮れの頃だった。
パトリシアに背中を押されたり、せっつかれたりされながら、ランスはフィフィリアンヌの家に戻ってきた。
魔導書を又借りすることは出来たのだが、気恥ずかしさと照れで、父親の顔をまともに見ることはなかった。
石造りの家から全速力で走り去っていく息子を、ギルディオスは、微笑ましく思いながら見送った。
どれだけ優れていようとも、どれだけ力があろうとも、どれだけ冷めていようとも。

やはり彼は、十三才の少年に過ぎないのである。






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