ドラゴンは笑わない




眠れるドラゴン



ギルディオスは、振り向きざまに高らかに叫んだ。


「種仕込んじまえ、種!」

唐突な言葉と声に面食らい、カインはぎょっとした。肩の上に乗るカトリーヌも、目を丸くしている。
当のギルディオスは、薪を割っていた斧を下ろし、さも自信ありげに胸を張っていた。そして、笑っている。
カインは気恥ずかしさを覚えながら、ギルディオスに返す。状況が、さっぱり理解出来なかった。

「出会い頭に猥談を始めないで下さい」

「あー、悪ぃ悪ぃ。前置きしないで話しちゃうんだよなぁ、たまに」

がりがりとヘルムを掻き、ギルディオスは苦笑する。カインは甲冑の肩越しに、石造りの家を見上げた。
溶けかけた雪をうっすらと屋根に乗せた灰色の家は、静まり返っている。主は、まだ眠っているようだった。
カインはほっとしたような残念なような、複雑な気分になった。そして、ギルディオスに尋ねる。

「それで、さっきの発言の意味は何なんですか?」

「いやな、フィルが言うには、お前には婚約者がいるんだってな」

「ええ、いますけど。エリカさんが」

「んでよ、カインはその女と結婚したくないらしいんだってな」

「ええ、まぁ。ですけど、それとこれと何の関係があるんですか?」

「ちょっと考えてみたんだけどな。そういう許嫁を蹴って、別な女と結婚するのに一番な確実な方法ってのは!」

勢い良く斧をカインに突き付け、ギルディオスは自信ありげに声を上げた。

「結婚前に、別な女を孕ませちまえばいいと思うのさ!」

「…短絡的だなぁ」

呆れながら、カインは退いて斧との距離を開けた。だがこれで、やっと先程のことに納得が出来た。
はぁ、と白い息を吐いてから、カインは肩にしがみつくカトリーヌを撫でた。ぎぃ、と高い声を洩らす。
結局のところギルディオスが何を言いたいのか、大体の予想が付いた。カインは言いづらかったが、言った。

「えーと、つまり、僕に、フィフィリアンヌさんと、既成事実を作れと言いたいわけですね?」

「おうよ!」

深く頷いたギルディオスは、びしっと親指を立てて突き出してみせる。

「いい作戦だろう!」

「とても馬鹿な作戦だと思います」

「そうかぁ? やることやっちまえば、大体の結婚は転けるもんなんだが」

「そういう問題じゃないんですけど」

カインは、ギルディオスの浅い考えにげんなりしてしまった。フィフィリアンヌがどう思うか、をまるで考えていない。
第一、彼女の部屋に行ったところで、事が出来るはずがない。カインは多少想像し、顔を伏せて押さえた。
先日の仮面舞踏会で見た、彼女の白く細い首筋や、触れてしまった肌の柔らかさなどが、ありありと蘇ってきた。
フィフィリアンヌは、年齢はかなり上だが体は確実に少女だ。そんな相手を、手込めに出来るはずがない。
カインは頬の熱さを感じ、手の甲で押さえる。もう一方の頬を、ぺしゃりとカトリーヌが舐めてくれた。

「えーと、なんていうか、僕には無理だと思います。ていうか何を考えてるんですか、あなたは」

「あんまりにも進展がねぇからさ、ちょっとは先へ進んで欲しくてよ」

ギルディオスは、あっけらかんと答えた。斧を下ろし、笑う。

「その方が、見てる方としても面白いんだよな」

「僕の恋は娯楽ですか」

「うん」

カインのぼやきに、こくんとギルディオスは頷いた。悪気の欠片もない声だった。
かなり無神経な答えに、カインは変な顔になってしまう。きっぱり言われると、怒る気にもならない。

「僕、帰ります」

「まぁ待て待て待て、そう嫌そうな顔をするな」

ギルディオスは、逃げ腰のカインのマントを引っ張り、ぐいっと引き寄せた。びん、と布が張り詰める。
いきなり首が絞まり、カインはむせた。数歩後退してマントを緩めて襟元を広げ、再びげほげほと咳き込む。
何度か深呼吸してから、カインはギルディオスに振り返る。甲冑は、しっかりとマントを握っていた。

「普通はしますよ。ギルディオスさん、あなたはフィフィリアンヌさんと僕をなんだと思ってるんですか」

「まぁまぁ。ここに来たんなら、フィルに用事があるはずだろ?」

「ええ、一応は。カトリーヌが風邪を引いたら困るので、予防薬を買いに」

「んじゃ、理由はあるわけだ」

ギルディオスは、顔があればにんまりしているであろう声を出した。カインは、嫌な予感がしてきた。

「あの、ですけど、フィフィリアンヌさんは眠っているみたいですし、今日のところは…」

「眠ってるから行け」

「はい?」

「行けったら行け。進展しろ、あわよくば手を出せ!」

カインを振り向かせたギルディオスは、がしりと胸倉を掴んだ。ぎぃ、とカトリーヌが飛び上がる。
目の前に寄せられたヘルムから顔を逸らして、カインは呟く。気持ちはありがたいが、正直かなり迷惑だった。

「…無理ですってば」

「せっかく好きな女が寝てるってのに、手も出さねぇのかよ。お前、本当に男か?」

「普通は出しませんよ。好きな相手なら、尚更だと思いますが」

「まぁとにかく、行くだけ行ってみろや」

ギルディオスはカインの胸倉から手を放すと腕を掴み、引き摺った。カインは逃げようとしたが、出来なかった。
冷たいガントレットに握られた腕は、どんどん玄関に引き寄せられていく。抵抗しようにも、力の差がありすぎる。
強引に進んだところで、それは進展とは言わないのではないか。そう思いながら、今一度、彼女の家を見上げた。
小さなワイバーンが、針葉樹に守られた家の上空を、くるくると滑るように飛んでいた。




初めて、カインはこの家の二階に上がっていた。
狭い階段の先には、やはり狭い廊下があり、扉が二つあった。その一方が、フィフィリアンヌの寝室のようだ。
廊下の奧には少し大きめの出窓があり、窓に近い方に両開きの扉が一つと、反対側の壁の階段側に一つ。
ギルディオスは、大きな体を曲げるように縮める。窓の近い方の扉を、伯爵のワイングラスを持った手で指した。

「んで、あっちが寝室な。オレは入ったことないけど」

「我が輩も、入ったことは数えるほどしかないのである。中がどうなっているか、少しも記憶しておらんぞ」

うにゅりと持ち上がった伯爵は、窓に近い扉を指した。日光がほんのりと透けて、床に赤っぽい光が落ちている。
カインは両開きの重たそうな扉を見つめていたが、二人へ振り向いた。少しも、気は進まなかった。

「だったら尚のこと、僕なんかが入っちゃいけないじゃ」

「だからこそ入るのだよ。いざ踏み込まん、竜の眠る洞窟へ!」

伯爵は、伸ばした先端をびしりとカインに突き付ける。カインは、眉をしかめた。

「伯爵さん。あなたも、僕の恋を娯楽だと思ってるんですね」

「はっはっはっはっはっはっはっは。当然であるとも!」

「なんだかなぁもう、この人達…」

呆れ果てたカインは、もう笑うしかなかった。この二人に、まともな思考を求めてはいけないようだ。
家に入る際に肩に戻ってきたカトリーヌは、きぃきぃ、と同情するように、カインの頬へ鼻先を擦り寄せた。
カトリーヌの短いツノの間を指先でなぞり、カインは安堵する。この中でまともなのは、カトリーヌだけらしい。
カインはカトリーヌを撫でながら、体を反転させて階段へ向かおうとした。が、またもやマントを掴まれてしまった。
がくんと頭が後ろへ下がり、一瞬、視界が揺れる。天井が目に入り、その間にギルディオスが顔を出す。

「いざ行かん、勇者どの!」

「ギルディオスさんまで…。勇者って、なんですかそれ」

「気分さ気分。さ、行ってこーい!」

ぐいっと引っ張り上げられたカインは、力任せに窓の方へ押し出された。何歩か、つんのめる。
なんとか立ち直ってから、階段へ顔を向ける。すると階段の前に、ギルディオスが腕を組んで立っていた。
階段を塞ぐ壁となった甲冑に、カインはもう何も言えなくなった。逃げることも許されないらしい。
カトリーヌは、ばさりと翼を上下させ、するりと浮かび上がる。カインが止める前に、幼子は飛び去った。
かつん、と小さな前足が、ギルディオスの頭部を掴む。薄黄の目を潤ませたカトリーヌは、ぎしゃあと吠える。
遂に、最後の頼りまでが去ってしまった。カインはカトリーヌへ伸ばしていた手を、ゆっくり下ろした。

「…行けばいいんですね、行けば」

「おうよ! 武運を祈るぜ!」

ギルディオスは拳を振り上げ、どん、と梁にぶつけた。顔を逸らし、カインは両開きの扉を見た。

「でも僕は、フィフィリアンヌさんに何もしませんからね。本当にしませんからね」

「はっはっはっはっは。その理性、いつまで持つかな? 若人よ」

「黙って下さい」

伯爵に素早く言い返し、カインは廊下を歩いていった。窓に近付くにつれ、日差しが眩しくなる。
窓から差し込む温かな光に照らされた扉は、古びた金具が光っていた。厚い扉は、しっかり閉められている。
取っ手の下を見ると、鍵は付いている。閉まっていることを期待するべきか迷いながら、カインは取っ手を掴む。
ざらついた冷たい感触が、手に染み込んでくる。ここまで来たら、さすがに後へは引き返せない。
がちゃり、と割と軽い音がした。あっさりと開いた扉を引きながら、カインは力なく笑ってしまった。

「そりゃそうだよな、フィフィリアンヌさんだもんな…」

ちらりと、階段の方を窺った。ギルディオスと伯爵とカトリーヌは、揃えたように頷いた。
仕方ないことなんだ、と自分に言い訳しながら、カインはずしりと重たい扉を開いた。ぎしり、と蝶番が軋む。
嬉しいような困ったような、期待するような不安なような。そんな奇妙な感情が、胸中に渦巻いている。
半分ほど開いた扉の中へ、カインは踏み入った。入った瞬間は、なぜか目を閉じてしまっていた。


慎重に、カインは目を開けた。
広めの寝室は、壁の一面が、みっしりと本の詰まった棚に支配されていた。一階と、差ほど景色は変わらない。
一階の机よりも小さめの机には、書きかけの帳面が広げられている。その上に、羽根ペンが転がされていた。
物が少ないので、一階ほど雑然とした印象は受けない。それでも、机の周囲はごちゃごちゃしている。
机上に出来た本の塔の上には、飲みかけのワインボトルが置かれており、グラスが口へ被せられていた。
本棚と机とは反対の壁、廊下側に、洋服ダンスを見つけた。壁に沿って、割と大きめのものが居座っている。
装飾の少ないタンスの上は、珍しく整理されていた。穏やかな面差しの、ブロンズの女神像が立っていた。
天へ向けて差し出された手には、黒ずんだ細い鎖が絡んでいる。古びたロザリオが、引っかけられていた。
カインは足音を立てないようにしながら、その女神像へ近付いた。よく見ると、女神の冠にはツノがある。
しなやかな体を覆う布の背からは、大きな翼が伸び、足元には太い尾がある。これは、竜族の女神らしい。
カインは、この女神の名をすぐに思い出した。太古の竜族の母であり、偉大なる竜の女神、フォリュス。
竜女神フォリュス像をひとしきり眺めていたが、カインは気を取り直した。そしてやっと、部屋の奥を見た。
古びた大きなベッドが、部屋の一角を占めていた。周囲に本棚がない代わり、本の城壁が出来ている。
灰色掛かった掛け布団が、べろりと大きくめくれ上がっている。その下で、彼女は小さく丸まっていた。
カインは一歩一歩近付いて、フィフィリアンヌの様子を窺った。横向きになって背を丸め、翼を閉じている。
枕元には、眠る前まで読んでいたと思しき本が、数冊置かれていた。枕は、本の下敷きになってしまっている。
縛られていない緑髪が、畳まれた翼の上を滑り、シーツに広がっていた。カインは、徐々に目線を動かす。
長い髪に覆われた横顔は、穏やかに目が閉じられていた。フィフィリアンヌが起きる気配は、まるでなかった。
寝顔だけ見ると、彼女は子供にしか見えなかった。安心し切って、熟睡している子供の姿だ。
屈んで膝を付き、カインはフィフィリアンヌを眺めた。その表情に、少々不安になってしまった。

「気付きもしないんですね」

ドラゴンなのに、と笑い混じりにカインは呟き、ベッドに腕を乗せた。布が擦れ合い、音がする。
だがやはり、フィフィリアンヌは気付かない。小さな翼も、微動だにしなかった。

「少しは警戒心、持ってくれてもいいのになぁ」

気を許されているのか、それとも気にも留められていないのか。その、どちらにも思えていた。
フィフィリアンヌの小さな手は、軽く握られていた。体の前にある手を見ていたが、焦点はその後ろに向かった。
見るまいとしながらも、自然に視線が動いてしまった。カインは戸惑いつつも、彼女の胸元を見つめた。
白い寝間着は、少ししか膨らんでいない。多少なりとも起伏はあるようだったが、見ようによっては平らだ。
妙な罪悪感を覚えながら、カインはフィフィリアンヌの胸元から目を外し、そこから繋がる首筋を捉えた。
色素の薄い皮膚が、細い鎖骨によって浮かんでいた。その上に、少しばかり、しなやかな緑髪が落ちている。
カインは、何の気なしに手を出した。細く長い数本の髪を鎖骨から外してやり、彼女の肩に放った。
間を置いて、カインは何をしたのか気付いた。なんてことをしたのだろう、と、右手をシーツに押し付ける。
途端に、痛いほどの緊張が胸にやってきた。指先には、彼女の髪と肌の感触がありありと残っている。
フィフィリアンヌを見てみるも、未だに眠っている。カインは右手を挙げ、ぐっと力を込めて握り締めた。
どうしていいのか、解らなくなった。このままここにいるべきか、それとも出るべきか。
これ以上、むやみに彼女に触れてはいけない気がした。だが、出来るものなら、居続けたい。
相反する思考と感情に揺らぎながら、カインは手を降ろす。力を抜き、ぼすんとベッドに突っ伏した。

「何してんだろ、僕…」

顔を横に向け、はたと気付いた。歪んだシーツの波の奧、すぐ近くに、フィフィリアンヌの顔がある。
真正面から見ても、表情は穏やかだ。ずっと右を下にしているのか、柔らかそうな頬には布の跡が付いていた。
おまけにシーツからは、仮面舞踏会の時に感じたものと、同じ匂いがした。柔らかく、どこか優しいものだった。
カインは体を起こすと、顔を伏せた。フィフィリアンヌの、少女の匂いがすぐ傍から漂ってきている。
鼻と口元を押さえたが、目は動いてしまう。フィフィリアンヌの頬にも、髪が落ち、うっすらと影が出来ている。
手を動かすまい、とカインは強く思った。だが、意思に反し、空いている左手が伸びていってしまった。
カインは、自分の理性の弱さを情けなく思った。右手を口元から外すと、彼女の隣に腰掛ける。
左手の甲で、そっと柔らかな頬を撫でた。ひやりとした肌にカインの体温が移り、少しだけ冷たさが消える。
日光で色の明るくなった髪を取り、頬から耳元へ乗せた。尖った耳には、銀色のピアスが填められている。
頬から顎に掛けて、ゆるく指を滑らせていく。顎の下で指を止め、力を入れずに、その顎を持ってみた。
鼻筋の下で、薄い唇が締められている。カインは親指を曲げ、彼女の乾いた口元を、優しくなぞっていった。
そして、手を外した。今度は、罪悪感どころか、強烈な後悔がやってきた。

「すいません」

思わず、カインは謝ってしまった。フィフィリアンヌの唇に触れていた手を、だらりと下げた。
深く息を吐いてから、左手の親指を握る。何度も手の中で擦り、感触を消そうとしたが、無駄だった。
もう、これ以上、彼女の傍にいてはいけない。何をするか解らない。そう思い、カインはベッドから立ち上がった。
すると、ぴん、とマントが突っ張った。何かに引っかかったようで、前進することが出来なくなった。
カインは群青色のマントを引き、振り返った。青を強く握った手の主は、瞼を薄く開け、赤い瞳を覗かせる。
焦点の定まらない目のまま、フィフィリアンヌは呟いた。


「ちちうえ」


「はい?」

カインはマントを引くのを止め、聞き返した。どうやら、フィフィリアンヌが起きたらしかった。
上半身を起こした彼女は、ばん、と小さな翼を広げた。手の中に握り締めたマントから、目線を上げる。
徐々に、フィフィリアンヌの目が見開かれる。カインの姿を認めると、驚いたように丸まった。

「…あ」

「えと、寝ぼけてました?」

カインの問いに、フィフィリアンヌは無言で頷いた。マントを離し、顔を伏せる。

「かもしれん」

「勝手に入って、すいませんでした」

とりあえずカインは、最初に言うべきことを言った。フィフィリアンヌは、困ったように口元を曲げる。
目線は外れて、あらぬ方向を見ていた。細い眉は吊り上がっておらず、珍しく下がっていた。
頬の色も、心なしか血色が良かった。というかあからさまに、赤らんでいるようだった。
かなり気恥ずかしげな表情で、フィフィリアンヌはカインを見上げる。ぎゅっ、とシーツを握り締めた。

「…口外するな」

「僕を、お父様と間違えたことをですか?」

「そうだ」

消え入りそうな声を出し、フィフィリアンヌは俯いてしまった。さらり、と髪が肩から落ちる。
もう、あの表情は見せてもらえないらしい。カインは、それがとてつもなく残念だった。
前に一度だけ見た、拗ねた表情も悪くない。だが、照れた表情は、段違いに可愛らしかった。
カインが敢えて答えずにいると、フィフィリアンヌはおずおずとカインを見上げる。頬の色は、まだ赤い。
懇願するような目をしたフィフィリアンヌに、カインは頷いた。嬉しさと愛しさで、つい笑ってしまう。

「解りました。言いませんよ」

「解ればいい」

ふいっと顔を逸らし、フィフィリアンヌは表情を固めた。眉も吊り上げられ、目元も強くなる。
普段の表情に戻った彼女は、ベッドから降りた。めくれ上がった布団を元に戻してから、机に向かっていく。
帳面や本の間に落ちていた紐を取ると、指で簡単に髪を梳き、頭の後ろでまとめた。紐を巻き、縛る。

「早く出ぬか。着替えられんではないか」

「あ、はい」

にやけの抜けない顔のまま、カインは頭を下げた。早く、とフィフィリアンヌは不機嫌そうに急かす。
扉を開け、廊下に出る。窓が陰っているので廊下の奥を見ると、壁に背を当てたギルディオスが待っていた。
甲冑の頭上でカトリーヌは、ぎゅるうと複雑そうな声を洩らした。ギルディオスは、ぎしりと振り向く。

「んで?」

「で、って?」

カインが尋ね返すと、窓枠に乗せられた伯爵が先端をするりと伸ばし、カインへ向ける。

「決まっているではないか、カイン。貴君があの女に何をしたか、報告をしたまえ」

「やだなぁ。僕が何か出来るはずないじゃないですか」

「じゃあ、なんでそんなに嬉しそうなのさ。絶対に何かあったろ、フィルと」

訝しげなギルディオスに、カインは笑う。彼女との秘密が出来たことが、嬉しくて仕方ない。

「内緒です。言えるわけないじゃないですか、そんなの」

「そうか」

ぎしり、と内側から扉が開けられた。いつもの黒いローブに着替えた彼女は、片手で扉を押していた。
扉の片方を開け放ってから、フィフィリアンヌは廊下の奥を見据えた。鋭い赤の瞳に、ギルディオスが映った。
ぎぃ、とカトリーヌは羽ばたき、カインの肩に戻った。少女の声に、ギルディオスはびくりと肩を上下させた。
フィフィリアンヌは窓枠の伯爵とギルディオスを見ていたが、歩み寄ってきた。おもむろに、ワイングラスを取る。
伯爵のワイングラスを逆さにし、どごん、と窓枠に押し付けた。フィフィリアンヌは、彼らを見回す。

「先程のことは、貴様らのせいなのだな」

「あ、え、でもよ。カインは何もしてねぇって言うし、別に」

「何もなければいいというものではない。このニワトリ頭め」

伯爵を押さえながら、フィフィリアンヌはじろりとギルディオスを睨む。がしゃり、と彼は肩を竦める。

「やっぱ、ダメだった?」

「ダメに決まっている。貴様らは、私をなんだと思っているのだ!」

苛立った声を上げ、フィフィリアンヌはワイングラスの底を握る。みしり、と細かくヒビが走った。
フィフィリアンヌの手の影の下、伯爵はにゅるりと蠢いた。とん、と内側からグラスを叩く。

「うむ、これは意外だ。フィフィリアンヌに、まだ恥じらいという感情が残っていたようであるな」

「当たり前だ」

どん、とフィフィリアンヌはグラスの底を殴った。ヒビは深くなり、窓枠にグラスのフチが埋まった。
ギルディオスはじりじりと後退したが、カインに止められてしまった。カインは赤いマントの背に、手を当てる。
首を横に振るカインを見下ろし、ギルディオスは首を竦める。さすがに今回は、悪いのはこちらなのだ。

「…素直に、蹴っ飛ばされるとしますかねぇ」

「あなたが全部悪いんですよ、ギルディオスさん」

「へいへーい」

脱力した返事をし、ギルディオスはヘルムを押さえた。反論の余地は、最初からあるわけがない。
グラスの底を殴るフィフィリアンヌは、いつになく苛立っている。ギルディオスは、ふと思った。
あれは、照れ隠しに怒っているのかもしれない。考えてみれば、妻のメアリーが怒る理由も、大体がこれだ。
だとしたら、なんとも可愛いじゃないか。ギルディオスは背後のカインに、もう一度聞いてみた。

「カイン。やっぱさぁ、お前、フィルと何かあったろ?」

「いいえ。特に何も」

満面の笑みで、カインは首を振る。これはもう、肯定しているも同然だ。
ギルディオスは笑いたくなるのを堪えた。ここで笑ったら、ますます彼女は怒るだろう。
朝日を受けて陰っているフィフィリアンヌの横顔は、見れば見るほど、気恥ずかしげだった。




理性と勇気を抱え、彼が挑んだ竜の洞窟。
そこで得られたものは、思い掛けない彼女の表情と、小さな秘密の約束だった。

彼にとっては、それが何よりの宝物なのである。






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