伯爵は、暇を持て余していた。 鉄格子の外された洞窟から見える森は、雨と霧で煙っている。土が湿り、泥の匂いが漂っていた。 久方ぶりにワイングラスに入り、その球形に軟体質の体を落ち着けていた。湿気の多い空気が、心地良い。 薄暗い洞窟の奧では、セイラが横たわっている。単眼は固く閉じられ、頭の下には柔らかな枕があった。 巨体の傍らに座り、フィフィリアンヌは無言で本を読んでいた。周囲には、読み終えた本が投げてある。 セイラの背、翼の根元から上には、たっぷりと布が巻かれている。消毒薬が滲み、薄く色が付いていた。 つい先程、竜族の医者がセイラの背に施されていた魔法陣の入れ墨を消していったのだ。 同時に解呪も行い、セイラに掛けられた呪いは全て消された。これで異形は、本当の自由を手にしたのだ。 鎮痛のための麻酔がかなり効いたようで、セイラは大きな体を縮めて丸まり、深く眠り込んでいる。 ギルディオスはといえば、彼もまた無言だった。石を握り、がりがりと地面に擦り付けている。 何かの字を書いては、その度に考えるように唸っている。乱雑で下手くそな文字を、睨み付けていた。 表面の平らな岩に、ワイングラスは置かれていた。そこから伯爵は体を伸ばしたが、すぐに引っ込めた。 ギルディオスの書く文字に興味はないし、見たところで、別段面白いことがあるわけでもなさそうだ。 伯爵は細長くした先端を、すいっと竜王都の方向へ向けた。エドワードは、式典の練習があるから来なかった。 なんでも、間近に迫った竜神祭のためなのだそうだ。なので今日は人数が少なく、余計に暇だった。 雨脚は、次第に激しくなってきた。時折、遠くの空に青白い閃光が走り、数秒後に鈍い唸りが響いてくる。 ごろごろと空気を震わす雷鳴に、伯爵も連動する。僅かながら、軟体質の表面がふるふると揺れた。 こういう日は、決まって思い出す記憶がある。六十四年前、彼女の手で生み出されたばかりの頃のことを。 伯爵は、己の意識を遠のかせる。とぽん、と先端を本体に落とし、視点を己の内部に移す。 そして浅い眠りに入り、徐々に記憶を蘇らせていった。 ざあざあと雨が降り、窓を伝っていた。 冷え切ったガラスに指を這わせていた少女は、それを外した。袖を引っ張り、書いたばかりの字を擦る。 きゅっ、と結露が消え、拙い文字の魔法陣は消えた。彼女は身を引き、雑然とした居間を見回す。 今回も、何も起きていない。陣を書いただけでは発動しないと解っているが、やはり少しばかり不安だった。 小さな翼を持った背を窓に向けると、小走りにテーブルへ戻った。大きな椅子を引き出し、登って座った。 しおりの挟まった魔導書を開き、ぱらぱらとめくった。変形魔法術、と書かれた箇所で少女の手が止まる。 「やはり、杖を使った方が良さそうだ。魔力が安定しないと、ちゃんと発動しないからな」 深い赤の瞳が、古びた本を睨んでいた。おもむろに手を伸ばし、頭に生えているツノを掴んだ。 ちらりと窓を見、そこに映る自分を見た。フィフィリアンヌが顔を歪めると、窓の顔も不機嫌そうになる。 ツノから手を放して背を曲げると、自然と翼が広がってしまう。それを縮めてから、ぽつりと呟いた。 「父上、遅いなぁ」 大量の本と石版が置かれたテーブルに、ぺたりと横たわった。フィフィリアンヌは、目を閉じる。 ざあざあと、雨音だけが聞こえてくる。他に聞こえてくるものと言えば、自分の呼吸ぐらいなものだった。 すぐにこの状態が嫌になり、フィフィリアンヌは体を起こした。椅子から下り、とん、と床に足を落とす。 部屋の奧へ行き、背伸びをして背の高い扉を開いた。ぎしり、と重い扉を押しやってから、自室に入る。 背中で扉を押して、ばたんと閉める。フィフィリアンヌは薄暗い部屋を見回しつつ、そっと足を進めた。 本棚に囲まれている机の上には、フラスコが置かれていた。その中には、でろりとした液体が満ちている。 机の前の椅子を引き出して、フィフィリアンヌはその上に登った。椅子に立ち、フラスコを取る。 口を塞いでいたコルク栓を引き抜くと、ぽん、と軽い音がした。少女は口に目を当て、フラスコの中を覗く。 「うん、培養は成功している」 フラスコを持ったまま、フィフィリアンヌは本を引き寄せた。開くと、折れ目の付いた部分がすぐに出た。 人造魔生物の製造と培養法、と書かれた項目を指でなぞっていく。それを追って、大きな目も動いた。 「まだ足りないものは、確か…」 小難しげな表情になり、フィフィリアンヌは材料名を見据える。そのいくつかは、既に横線が引いてある。 細い指が、横線が引かれていない箇所で止まった。そこには、高魔力を有する者の血液、とあった。 フィフィリアンヌは、薄紫の液体が入ったフラスコを机に置いた。むっとしながら、腕を組む。 「要するに、私の血が必要なのだな。たかがスライムのくせして、なんということだ」 不意に、激しい閃光が室内を照らした。一瞬、フラスコと少女の姿が照らされ、部屋の中に浮かび上がる。 数秒後に、低い雷鳴が轟いた。フィフィリアンヌは机から精一杯身を乗り出し、窓へと顔を近付けた。 冷たいガラスにぺたりと額を当て、外の景色に目を凝らす。細い縦線が目の前を滑り、地面に降り注いでいる。 左右へ目を動かし、息を殺し、入念に外の音を聞き取る。雨音と雷鳴に混じって、別の音が聞こえていた。 フィフィリアンヌはぱっと表情を明るくし、窓から顔を離した。椅子から飛び降り、扉へ駆け出した。 急いで扉を開け、居間に戻った。重たい足音が玄関の階段を昇ってきて、次第に近付いてきていた。 がちゃりと取っ手が回され、扉が押し開かれる。雨を肩に伝わせた屈強な騎士が、息を荒げながら立っていた。 太い剣を握り締めた手で、片腕を押さえている。赤黒い筋が雨に混じり、ぱたぱたと足元に落ちている。 左足も引き摺るようにして歩き、どん、と部屋に踏み入った。がしゃりと剣を落とし、膝を付く。 「…ただいま」 「彼の者の血潮に眠りし命の鼓動よ、我が言霊の前に力を示し、そして従いたまえ」 騎士の前に膝を付き、フィフィリアンヌは彼の胸へ手を置く。目を閉じ、魔力を高める。 「生への脈動よ、癒しの力と成り変われ。発動」 騎士と少女の足元から、ふわりと柔らかく温かな風が舞い上がった。それは騎士を取り巻き、抜けた。 ぱたり、と、腕と指先を伝った血が床に染みた。騎士は右腕から手を外し、痛みの失せた傷口を確かめる。 そこにはもう熱も痛みもなく、あるのは血の名残だけだった。彼の胸の下で、幼い娘は肩を落としている。 捻った挙げ句に斬り付けられた左足も、痛みはない。フィフィリアンヌの魔法は、年齢に似合わず威力がある。 返り血と泥がべっとり付いたガントレットを外し、足元へ放った。汚れた大きな手で、娘をぐしゃりと撫でた。 「ありがとな、フィフィリアンヌ」 「流れ出た血の量も元に戻せたら良いのだが、私にはそこまでの技能はない」 申し訳なさそうに、フィフィリアンヌは目を伏せる。騎士はヘルムを外し、笑って娘を抱く。 「傷が治るだけで充分だ。血なんざ、喰って寝りゃ一晩で元に戻る。気にするな」 「そうか? 私としては、不充分だ」 鉄臭い甲冑に頬と手を押し当て、フィフィリアンヌは呟いた。冷たい金属の、奧は熱い。 「父上に戦いを強いているのは私だ。だから、何も充分ではない」 「オレとしちゃあ、それだけで充分だ。あんまり細かいことを気にするな、子供なんだから」 フィフィリアンヌの顔を上げさせ、騎士はにいっと笑う。そうか、と少女は少しだけ口元を緩めた。 騎士は立ち上がり、足元の剣を取った。ロバート、と刃に刻まれた名に血が入り、文字が濃くなっている。 すらりと鞘に戻してから、ぱちん、と甲冑を外す。血と泥に汚れた武装を脱ぎながら、娘を見下ろす。 「それで、あのスライムは完成したのか?」 「まだだ。ネバリグサの粘液と水中花を煮出した薬液を配合して摂取させ、体組織の培養には成功したのだが」 フィフィリアンヌは、困ったように眉間をしかめる。最後の材料を、入れる気にならない。 「高魔力を有する者の血液を入れなければ、完成しないようなのだ。スライムのくせに」 「それじゃ、オレの血はダメだなぁ。ちったぁ魔力はあるが、魔導師ほどじゃない」 残念そうに、ロバートは苦笑した。血が染み、破れた袖を押さえる。 「せっかく、だくだく流れてたのになぁ。使い物にもならねぇとはな」 「父上の血は勿体ない。たかがスライムなどには、入れてはならんのだ!」 父親を見上げ、フィフィリアンヌは頬を張ってむくれた。そうかねぇ、とロバートは不思議そうにする。 フィフィリアンヌは深く頷き、真っ平らな胸を張る。父親の血は誇り高く、素晴らしいと思っているからだ。 「そのうち指でも切ってしまったときに、私の血を入れるからいいのだ!」 「でもよ、完成させないでおくとダメになっちゃったりしないのか?」 「防腐と湿度補充のために、定期的に赤ワインを与えよ、との指示がある。その通りにすれば、大丈夫だ」 「んじゃ、そのワインを入れ忘れたら?」 「腐るかもしれん。最近は雨ばっかりだし、カビも生えるかも」 「自分で作ったんだから、スライムの世話は自分でしろよ、フィフィリアンヌ」 身を屈め、ロバートはフィフィリアンヌの頭を軽く叩いた。フィフィリアンヌは、仕方なさそうに頷く。 よぉし良い子だ、とロバートは笑ってから立ち上がった。武装を居間の端に押しやってから、台所に向かう。 その様子を、彼は扉の隙間から見つめていた。フラスコの中、こぽん、と小さく気泡を浮かばせる。 外が暗いせいで、夜のような部屋から、じっと居間を見据える。己を作った少女は、赤ワインの瓶を捜している。 頼りない足音が走る音を、床と空気の振動で感じていた。希薄ながらも、彼の自我は生まれ始めていた。 最後の材料を落とされるのはいつになるだろうか、と思いながら、意識と視点を窓に向ける。 強い雨は、未だに降り続いており、外の世界をぼやけさせていた。 食卓に似合わぬフラスコが、テーブルに置かれていた。 薄紫の液体に、危なっかしい手付きでワインが流し込まれる。どぼどぼと、赤紫の液体が薄紫に注がれた。 フィフィリアンヌはワインの瓶を置いてから、フラスコを軽く揺らした。すぐに馴染み、双方の色が混ざり合った。 きゅぽん、とコルク栓をしてから、フィフィリアンヌはフラスコから離れた。それを、ロバートが手に取った。 ロバートはフラスコをランプに翳し、未完成のスライムを透かす。赤っぽい紫が、ロバートの黒い瞳に映る。 「おお、本当にスライムだ。こういう雨の日には、よく水溜まりにいるんだよなぁ」 「野生のスライムとは違うぞ。あれは草を腐らせ泥と水を喰うが、こいつはワインしか受け付けん、らしい」 照れくさそうに、フィフィリアンヌは返した。感心しきりのロバートは、テーブル越しに娘を見下ろす。 「こいつはまた、どえらい箱入りスライムだな」 ロバートからフラスコを受け取り、フィフィリアンヌは自分の食卓の側に置いてから、椅子に座り直した。 目の前に置かれた料理を一瞥した途端、顔をしかめる。どの料理も、べっとりと脂ぎった光を放っている。 どれもこれも、ただバターで焼かれているだけだ。塩を掛けられているわけでもなく、ただ、バターだけだ。 フィフィリアンヌは、心底げんなりしてしまった。一際ぎらついているベーコンを、少しだけ食べた。 「毎度ながら思うのだが、父上。せめて塩は掛けてくれ、お願いだから」 「あ、悪い。忘れちまうんだよなー、なんか」 「普通は忘れないぞ、たぶん。まぁ、生のまま皿に乗せただけの、母上よりは相当にマシだけど」 やりきれない、といった表情で、フィフィリアンヌはぼやいた。両親とも、料理があまりにも下手なのだ。 ロバートは騎士を続けていたから、料理を覚えられなかったのは仕方ない。一番の問題は、母親だった。 緑竜族の名家に生まれたせいか、一切の料理を知らなかった。結婚するまで、果物すら剥いたことがなかった。 おまけに自尊心が高く気位の固まりなので、苦手なことはやりたくないと言い張り、練習すらしない。 よって、フィフィリアンヌは母親の料理をほとんど食べたことがない。というか、作られても食べられない。 火を通すべきものに火も通さず、そのまま皿に乗せるだけなのだから。これを料理というのか、それすら怪しい。 彼女が滅多にこの家に来ないことが、まだ救いだった。フィフィリアンヌは、美しい母親の姿を思い出す。 「…父上。なぜ、母上のような女と結婚しちゃったのだ?」 「そりゃ惚れたからに決まってるだろ。愚問だなぁ」 「うん、まぁ、外見はそんなに悪くないが。でも父上は、よくあの性格に付いていくことが出来るな」 「あれで結構、アンジェリーナには可愛いところがあるんだぞ? お前が知らないだけさ、フィフィリアンヌ」 「具体的に、母上のどの辺りが可愛いのだ? 私には、微塵も思い当たらんぞ」 フィフィリアンヌは、一ヶ月程前に会ったときの母親の言動を思い出し、唇を曲げた。 「暇さえあれば鏡を見ているし、下らないことにいちいち嫌味を言うし、意味もなく自分の外見を自慢するし…」 「そこが可愛いんじゃないか」 「どこがだぁ!」 テーブルに両手を叩き付け、フィフィリアンヌは立ち上がった。 「父上は変だ、変だ、とてつもなく変だ!」 「そうかねぇ。すげぇ美人に思いっ切り罵られるのは、なかなか快感だと思うんだがなぁ」 娘の反応を見、ロバートは可笑しげに笑った。バターにまみれた野菜の入った皿を、自分の方へ引き寄せた。 フィフィリアンヌは椅子に腰を下ろし、食べかけのベーコンをかじった。脂が嫌だったが、なんとか飲み込む。 コップを取り、ぐいっと水を喉に流し込む。だがそれでも、胃の中に充ち満ちた重苦しさは抜けなかった。 フィフィリアンヌは胸も腹も一杯になってしまったが、目の前には、まだまだ料理らしき物の皿が残っている。 正直食べたくはなかったが、下手に残すと、やたらと父親に心配されてしまう。なので、仕方なく食べた。 ごってりと油を吸ったイモを口に押し込み、嫌々ながら噛んだ。そしてそれを、無理矢理飲み下す。 絶対体に悪い、とフィフィリアンヌは思っていた。だがそれを、どうしても父親に言うことは出来なかった。 これ以上、父親に負担を掛けたくない。ロバートは連日のように、この家の周囲にやってくる者達と戦っている。 それでなくとも、自分はまだ子供なのだ。大したことでなくても手を借りてしまうし、借りなくてはならない。 半分とはいえ竜族であるせいで、王国軍の兵士や冒険者などに狙われてしまうため、外を出歩くことも出来ない。 だから最低限の手伝いである、食材の買い出しにも行けない。一人で外で遊ぶなど、以ての外である。 戦うことが出来るなら、外へ出て父親と共に襲撃者と戦えるのだが、そのための剣術も魔法も知らなかった。 幼い頃から友人もおらず、遊び相手がいなかったため、充分な運動が出来なかった。だから、体も脆弱だ。 気を抜けばすぐに熱が出るし、魔力が低下してドラゴンの姿に戻ることもある。その度に、父親に迷惑が掛かる。 父親は何事にも飄々としているが、それはきっと、娘に不安をもたらさないための作戦なのだと思っていた。 王国軍や周囲の人間から攻め立てられる日々で、ロバートが辛くないはずがない。むしろ、辛くて当然だ。 と、フィフィリアンヌは常々思っていたが言うことはなかった。というより、父に気遣って言えなかった。 フィフィリアンヌは、父親の背後の窓を見た。顔をしかめながら食事を摂る、ツノを生やした少女がいる。 「フィフィリアンヌ。確かにお前さんの言う通り、アンジェリーナはとんでもない女だよ」 フィフィリアンヌが目線を手前に戻すと、ロバートは少しばかり悲しげな目をして笑っていた。 ワインボトルを取り、ぽん、とコルク栓を抜いた。ロバートは、自分のコップにだくだくとワインを注ぐ。 「でもな、それでもオレは好きなんだ。アンジェリーナもオレが好きだったから、お前がいるんだよ」 「でも、母上に同じことを聞いたら、ろくな答えが返ってこなかったぞ」 フィフィリアンヌはフォークを置き、頬杖を付いた。短く切り揃えられた緑髪が、さらりと肩に触れる。 「妥協しただの仕方なかっただの、そんなのばっかりだ。本当に、母上は父上が好きなのか?」 「好きじゃなきゃ、オレの血が混じった子供なんて産まないさ」 嬉しげに、ロバートは目を細める。テーブルから身を乗り出し、妻と良く似た顔立ちの娘を覗き込む。 自分の面影はほとんどなく、髪の色も目の色もアンジェリーナのものだ。赤く鋭い目の、瞳孔は縦長だ。 唯一似ているのは、趣味ぐらいなものだ。ロバートの持ってきた本を、娘は手当たり次第に読んでいる。 長く尖った耳が、肩の上で真っ直ぐ切り揃えた髪から覗いている。ロバートは髪を軽く梳き、耳に掛けてやる。 外に出ることが少ないせいで、顔色はあまり良くない。血の気の薄い頬を、優しく撫でてやった。 「フィフィーナリリアンヌ。お前はちゃーんとここにいるんだから、変な心配はするな。な?」 「心配はしていない」 「んじゃあなんだ?」 ロバートは、少し首をかしげる。少女らしからぬ切れ長の目が、すいっと逸れた。 「父上。私が人であったら、いや、人でなくとも、ツノと翼がなかったらどうだったのだ?」 「どうって…そりゃあ。そうなるとオレの血が強いってことだから、黒髪黒目の可愛い女の子だろ」 「そうじゃない。私がドラゴンでなくて、普通の人間であったなら」 「どうもこうもない。人だろうがドラゴンだろうが、オレの娘は娘。それでいいだろ」 「良くはない」 フィフィリアンヌは父親の手の下から、玄関へ目を向ける。雨水と血の水溜まりが、未だに残っていた。 壁に立て掛けられた剣と甲冑が、手入れをされるのを待っている。銀色の甲冑は、腹部に深い傷がある。 玄関脇には、ロバートが王国軍時代に使っていた前垂れが掛けられていた。有翼の獅子の紋章が印されている。 かつて、ロバートが将来有望な騎士だった頃の名残だ。フィフィリアンヌは、居たたまれない気分になった。 あの地位から引き摺り落としたのは母親であり、そして自分なのだ。その上今は、昔の仲間が敵となっている。 せめて、自分がドラゴンでなかったら。このような状態は作られず、生まれなかったはずだ。 フィフィリアンヌは、目線を食卓に戻した。そして上に向け、父親を視界に入れる。 「母上も母上だ。私にツノと翼があるのを知っておきながら、父上の、人の世界に置いていった」 「あっちもあっちで事情があるのさ。竜族の中にゃ人間嫌いがいるらしいから、つまりはお前のためなんだよ」 そういうことだ、とロバートは付け加えた。フィフィリアンヌは、怪訝そうな顔になる。 「だが私には、母上は育児放棄をしたとしか思えんのだが。もう思いっ切り」 「オレもまぁ、ちょろーっとそう思うときもあるけどさ…。だけど、まぁ、気にするな!」 「何をなのだ?」 「色々だ。アンジェリーナのことも、ツノも翼も、オレの料理の味も」 「最後のは気にするぞ、私じゃなくても」 「あんまり細かく突っ込まないでくれ、フィフィリアンヌ。ちょいとやりづらいから」 苦笑いしつつ、ロバートはぐしゃりとフィフィリアンヌの髪を撫でた。少女は、少し不満げな目になる。 身を引いて椅子に戻り、ロバートは食事の続きを始めた。フィフィリアンヌは、ふと、フラスコを見てみた。 中身の液体はワインを吸い、量が増えていた。水っぽかった液体が粘度を増し、背景があまり透けていない。 このスライムは、確実に成長しているようだった。フラスコの底に、不意に小さな気泡が生まれた。 ゆっくりと赤紫の中を動き、徐々に上昇してきた。迫り上がってきた気泡は水面を破り、ぱちりと爆ぜた。 彼は、こちらを見つめる少女を見ていた。嬉しそうに、だがどこか不安げに、スライムを眺めている。 スライムはまた、意識して気泡を作ってみた。すると少女はフラスコへ顔を近付け、興味深げに瞳を丸めた。 粘り気を増した体の中を、すいっと一粒の泡が動く。その感触が、朧気な自我を僅かながら強めてくれた。 だが、自我を高めるには、決定的な何かが足りていない。彼は歯痒さを感じながら、思考していった。 己を固めるためには、体を動かすためには、言葉を発するためには、魔力の量が根本から足りないのだ。 そのための力は、目の前の少女から感じられた。半ば本能的なもので、彼女の力が必要なのだ、と察した。 彼は、一刻も早く、彼女に力を要求したかった。だが、要求するための言葉は、形になってくれない。 どうすれば言葉が生まれるのか、どうすれば音を発することが出来るのか。彼は、悩み続けた。 そうするうちに、ごぼり、と少し大きめの気泡が出来上がった。骨のない体は、常に思考と連動している。 彼は意識的に気泡を作りながら、窓の方へ視点を向けた。ロバートは、娘の横顔を見つめている。 夜になり、窓の外は更に暗くなった。雷鳴は納まってはいたが、雨は少しも弱まっていない。 これが止むのは、もうしばらく後になるだろう。と、彼は、漠然と感じていた。 フィフィリアンヌは、床に座り込んでいた。 握り締めた白墨は大分削れていて、床に付いた膝と裾も白くなっている。伸ばした袖で、足元を擦る。 今し方書いたばかりの魔法文字が消え、魔法陣が途切れた。途切れた二重の円に、白墨を滑らせ、繋いだ。 ランプの明かりだけが頼りなので、魔法文字を書き間違えてばかりだ。これでもう、三度目になる。 フィフィリアンヌは自分に苛々しながら、白墨をごりごりと床に当てた。力を込め、しっかりと文字を書く。 風雨は強さを増して、がたがたと窓を揺らがせた。遠くでカミナリが鳴っているのか、低い音もある。 長時間座っているため、体が底冷えしてきていた。それでも、フィフィリアンヌは魔法陣を書き続けていた。 背筋に、ぞくりと嫌な悪寒が走る。これが熱の出る兆候だと解っていたが、眠る気にはならなかった。 魔法陣に魔法文字を書き加えながら、フィフィリアンヌは、ずっとこんなことを考え続けていた。 父上が戦わなければならないのは、自分にツノと翼があるからだ。それさえ消せば、きっともう大丈夫。 短絡的かつ、浅はかな考えだった。消したところで、事態の根本的な解決策になるわけではない。 フィフィリアンヌ自身が狩られそうになっている理由としては、帝国と王国の摩擦があった。 帝国は王国の密偵を人質に取り、その人質の命を盾にして、皇帝へ捧ぐドラゴンの生き血を要求していた。 王国は、妻子にドラゴンを持つロバートに、そのどちらかを渡してくれるよう頼んできた。 しかし当然ながら、彼は断った。妻子の身に危機が降りかかる、と感じたロバートは騎士団を退団した。 王国は、交渉と奪取のために、毎日のように使者をロバートの元へ送った。彼は、やはり当然ながら戦った。 愛しい妻と血を分けた娘を守るため、そして、帝国に屈しそうな王家へ意見するため、戦い続けた。 しかし、ロバートは真相をフィフィリアンヌへは話さなかった。話したら、娘は自ら帝国に身を売るだろう。 それが解っているから、出来るだけ事実をぼかして話し、笑えるだけ笑っていたのだった。 だが、フィフィリアンヌはそうは考えなかった。自分がドラゴンだから、自分が悪いからこうなっているのだと。 事態の真相を知らないせいで、ロバートが説明をしないせいで、ずれた考えを信じ込んでしまった結果だった。 冷たい床に膝を付き、がりがりと白墨を動かしていたが、フィフィリアンヌはその手を止めて目元を擦った。 フィフィリアンヌの、視界がぼやけた。軽い頭痛の起きた額に手を当てると、若干だが熱っぽさがある。 「う」 雨は止まず、屋根がぱたぱたと小さく鳴っている。ランプの明かりが映った窓を、ふと見上げた。 青白い閃光が、森の木々の上を走った。鋭く強烈な光が上空を駆け抜けていき、夜の闇を切り裂いた。 フィフィリアンヌが雷光を見つめていると、間を置かずして大気が揺さぶられた。激しい雷鳴が、ガラスも揺らす。 どこかにカミナリが落ちたのか、爆発音が轟いた。フィフィリアンヌは魔法陣を見下ろし、表情を固める。 「それどころではない」 早く、魔法陣を完成させなければ。早く、変形の魔法を自分に掛けなければ。 フィフィリアンヌは本で読んだ魔法陣を思い出しながら、立ち上がる。魔法陣は、大部分が完成していた。 二重の円の間には、拙い魔法文字が綴られていた。だが中心の円は、まだ中に何も書かれていない。 フィフィリアンヌはしゃがみ込み、ぐいっと線を引いた。歪まないように気を付けながら、六芒星を描いていく。 がりっ、と最後の線を引いた。フィフィリアンヌは一息吐いてから、魔法陣の全体を見回した。 大丈夫。失敗していない。ランプを翳して入念に文字を確かめてから、一歩二歩、身を引いていった。 ランプを机の上に置き、スライムの入ったフラスコを押しやった。机に立て掛けておいた、杖を取った。 以前、母親がくれたものだ。銀色の細い杖を魔法陣の中心に突き立てると、フィフィリアンヌは目を閉じる。 「魂の器にて力の器、そして、血肉の滾りし我の器よ。造形の神と魂の母に背き、心のままの姿となれ」 冷え切った銀の杖を握り締め、フィフィリアンヌは魔力を込める。 「発動」 魔法陣の周囲から、するりと空気が滑り出る。前髪とスカートを揺らしながら、天井へ向かい、消えた。 慎重に目を開けて、フィフィリアンヌはそっと鏡を覗き込んだ。ベッドの脇の姿見に、上半身を映した。 ランプの明かりを受けた、多少怯え気味の少女の顔があった。その頭部には、二本のツノは見当たらなかった。 恐る恐る背中に手を当ててみるが、小さな翼は生えていなかった。根元の位置に触れると、肩甲骨があった。 瞳も髪も深い黒になっていて、ロバートのそれと良く似ていた。色が違うだけで、かなり印象が違う。 フィフィリアンヌは身を乗り出して、目を見開いてみた。ランプを近付けてみると、丸い瞳孔が縮まった。 髪を掻き上げて耳に触れてみると、先は尖っていない。丸みを帯びた耳の先を、そっとなぞる。 フィフィリアンヌは嬉しくなり、声を上げそうになった。杖をベッドに放り投げ、鏡に縋る。 「私だ」 ずっと望んでいた、人の娘の姿。フィフィリアンヌはツノのあった位置を、両手で押さえてみた。 「そうだ、これが私なのだ。本当は、こういう姿をしているはずなのだ!」 姿見に縋ったフィフィリアンヌは、鏡に額を当てた。鏡面の冷たさが、熱を持ち始めた額に心地良かった。 フィフィリアンヌは鏡から離れ、もう一度、上から下まで自分を見てみた。何度見ても、人間の少女だ。 一刻も早く、父親に見せなければ。そう思い、フィフィリアンヌは部屋の扉を開けた。 居間を覗き見ると、武装の手入れをする後ろ姿があった。暖炉の前で剣を拭い、掲げている。 フィフィリアンヌは扉を押し開けると、駆け出した。頭痛で足元はおぼつかなかったが、精一杯駆ける。 「父上!」 ロバートは剣を下ろし、娘に振り向いた。一瞬きょとんとしたが、すぐに目を見開く。 「フィフィリアンヌ、お前、何をしたんだ!」 「父上の言った通りだ。私はドラゴンでなくなれば、黒髪黒目だったのだな!」 ロバートの膝へ、フィフィリアンヌは勢い良く飛び込んだ。父親の大きな足に縋り付き、身を縮める。 暖炉の明かりに照らされた娘の姿を、ロバートは眺めてみた。短いツノも小さな翼も、本当になくなっている。 大方、変形の黒魔法を使ったのだろう。心底嬉しそうな娘を見下ろしながら、ロバートは言った。 「馬鹿、むやみに魔力を使うな。お前は体力がないんだから、すぐに体に来ちまうんだぞ」 フィフィリアンヌの額に、ロバートは手を当てた。言わんこっちゃない、と彼は顔をしかめる。 「ほれ、もう熱っぽいじゃないか。その魔法を解いて、さっさと寝ろ」 「父上、嬉しくないのか?」 フィフィリアンヌは、大きな手の下から父親を見上げた。ロバートの服を、固く握り締める。 きっと、喜んでくれるのだと思っていた。あの悲しげなものではなく、心底嬉しそうに笑ってくれるものだと。 だが、逆に心配させてしまった。それどころか、父親は怒っているのかもしれないとすら思った。 そう思ったら、フィフィリアンヌは情けなくなった。自分のしたことが、間違いかもしれないと感じた。 顔を伏せてしまった娘を、ロバートは軽く撫でてやった。フィフィリアンヌの心遣いは嬉しいが、物悲しかった。 「嬉しくないわけじゃない。オレと同じ髪色のお前が見られて、そりゃあ嬉しいさ」 でもな、とロバートはフィフィリアンヌの小さな肩を抱き寄せる。 「無理してそうなってんだったら、見ても嬉しくねぇよ。オレは、フィフィリアンヌが元気ならそれでいいんだ」 「嘘だ」 「嘘じゃあないさ。じゃあなんで、お前は嘘だって思うんだ?」 「父上は人間だ。だから、私が人間であった方が父上もずっと楽だし、幸せになれるはずなのだ」 「オレは充分幸せだ。そりゃあ戦い続けるのはちょいときついが、傷はお前が治してくれるしよ。そういうお前は?」 「…解らない」 フィフィリアンヌは、声を詰まらせた。ぐいっと、父親の膝に額を押し当てる。 「解らない。父上がここにいることは幸せだとは思うけど、他はそうじゃない。だから、よく解らない」 「そっか」 その答えにロバートは、少し笑った。うん、とフィフィリアンヌは悲しそうな声で頷いた。 涙に濡れてしまった柔らかな頬に、ロバートは指を当ててみた。額に触れたときより、熱さが増している。 フィフィリアンヌは、力の抜けた小さな体をロバートに預けていた。頭痛と眠気で、朦朧としている。 ロバートはやれやれと思いながら、娘の小さな体を抱え上げた。体重のない少女は、軽々と持ち上がった。 居間からフィフィリアンヌの部屋に入り、ロバートは足で扉を閉めてから、ベッドに近付いた。 投げてあった杖を机に置いてから、布団をめくり上げ、そっと娘を横たわらせる。彼は、その隣に座った。 「そこのスライム」 ロバートは机を見上げ、置かれているフラスコを見据えた。彼は、思わぬ事にびくりとする。 まさか、話し掛けられるとは思ってもみなかったのだ。動揺が気泡となり、ごぼり、と溢れ出てきた。 ロバートは、ぐったりとしているフィフィリアンヌを撫でていた。娘を見下ろしながら、独り言のように呟いた。 「お前さんには、意思がありそうだからな。ちょいと、頼まれ事をしてくれないか」 彼は、ロバートを見つめていた。視点を、彫りの深い横顔に合わせる。 「知っての通り、フィフィリアンヌにゃ遊び相手がいない。オレか本か、魔法ぐらいなもんさ。だから」 ロバートの目線が上がり、彼の視線と合わさった。こぽり、と小さく気泡が生まれ出る。 「出来る限りでいいんだが、オレの子と仲良くしてやってくれ。多少口が悪いが、根は良い子なんだ」 彼は、答えることが出来なかった。意識には言葉が浮かぶが、それが音として発せられない。 どうしようもないもどかしさと、己を認めてもらった充実感が満ちる。ぐにゅり、とフラスコに沿って動いた。 ロバートは、頼むな、とスライムにもう一度言ってから、頬を紅潮させて眠っている娘を見下ろした。 とん、とん、と規則正しく少女の枕元を叩く。ロバートは声を落として、ゆっくりと歌い始めた。 戦火に集え、勇みの申し子。強き心、鎧に秘めて。戦女神の加護の元に。王家に勝利を、そして栄光を。 笑顔を消した父親と、涙を目元に滲ませて眠る娘。彼は二人を眺めながら、じっと歌を聴いていた。 そして、思った。二人は、それぞれで苦しんでいる。互いが愛しいが故に、思考が噛み合わないのだ。 しかしまた、それが二人の幸せなのだ。歌声に滲んでいる父親の愛情を感じ、彼はぐにゅりと蠢く。 そこまで頼まれては、致し方ない。我が輩は、貴君の命を聞こうではないか。そして、出来る限りの事はしよう。 言葉には出来なかったが、彼はそう思った。明確な形を持ち始めた意識が、柔らかな体を震わせた。 虚ろな夢から、フィフィリアンヌは目を覚ました。 まだどこかぼんやりする頭を押さえ、上目に机の向こうの窓を見た。雨は止んでいないが、弱まっている。 じわりと床から這い上がってくる湿気に辟易しながら、寝返りを打った。傍らに、父親の体温が残っている。 また、ロバートに面倒を掛けてしまった。フィフィリアンヌは自己嫌悪に陥りながら、枕に顔を埋めた。 ばさり、と背中で何かが伸びた。頭を動かすと、ごっ、とベッドの柱に固い物がぶつかる音がした。 フィフィリアンヌはすぐさま覚醒し、跳ね起きた。両側頭部に手を伸ばして指を曲げると、それに触れた。 手を降ろして背中に回すと、骨と皮の感触がある。滑らかで固い手触りの、冷たい爬虫類の翼だ。 見たくはなかったが、鏡を見た。髪の色も、針葉樹のような深い緑に戻っていた。 「…嫌だ」 魔法は、眠っている間に解けてしまった。魔力が足りなかった上、集中力が切れたからである。 以前に母親が、言った言葉が脳裏に過ぎる。魔法ってもんはね、絶対じゃない上に不安定なのよ、すっごく。 頭では理解出来ていたが、受け付けたくなかった。好きでない母親と良く似た、人でない姿を、一切も。 フィフィリアンヌはベッドから降り、壁に掛けられていた剣を取った。父親が授けてくれた、護身のための剣だ。 ずしりと重たい柄を握り、ずっ、と鞘から引き抜いた。つやりとした細身の銀色に、幼い顔が映る。 身を守るのだ。これ以上、体を竜に侵食されないように。少しでも、父親と同じ人間に近付けるように。 フィフィリアンヌは、剣を背中に下ろす。翼の根元に刃を合わせると、ぐいっと、振り下ろした。 「んぐっ」 唇を噛み、悲鳴を堪えた。鋭い牙が下唇を切り、生温い血の味が口内を満たした。 ばきりと骨が切られ、皮が裂かれる。焼け付くような熱さが起き、翼の根元から溢れた流れが、腰まで落ちる。 奥歯を噛み締めて激痛を堪え、フィフィリアンヌは剣を持ち上げた。髪を避け、ツノの根元に剣を当てた。 下から上に向けて、刃を動かした。少し引っかかったがすぐに通り抜け、ツノは二本とも切り落とされた。 ごとん、とツノは二本とも足元に転がり、翼の落ちた血の海に落ちた。フィフィリアンヌは、剣を下ろす。 ずきずきと痺れるような痛みを感じながら、背後を見下ろした。緑色の翼は、ツノと同じく、血溜まりに沈んでいた。 これで、ようやく人になれる。涙に汚れた頬をぐいっと手の甲で拭い、フィフィリアンヌは床にしゃがみ込んだ。 剣を置き、切り落としたばかりの翼へ手を伸ばす。すると、背中の傷口に、違和感を感じた。 慌てて立ち上がり、鏡に背中を映した。赤黒く染まった服を避け、手で血を拭ったが、傷には触れない。 それどころか、切ったばかりの骨の根元が、緑色の皮に塞がれている。フィフィリアンヌは、思い出した。 竜族の再生能力は、不死身にも思えるほどのものだと。二日もすれば、ツノも翼も元に戻ってしまう。 まだ残っている痛みと絶望感に、フィフィリアンヌは肩を震わせた。だん、と鏡を殴り付ける。 「嫌だぁ!」 血と涙に濡れた拳が、鏡を汚す。何度も何度も殴り付けると、ぱしりとヒビが走った。 「私は、わたしはにんげんだ!」 激しくしゃくり上げながら、フィフィリアンヌは足元の剣を取った。高々と振り上げ、鏡のヒビに突き立てる。 ばしゃん、とヒビが大きくなり、ばらばらと床に砕け落ちた。フィフィリアンヌは、剣の刺さった姿見を睨んだ。 もう、何も見たくはない。激情と絶望に満ちた目で部屋を見渡すと、机の上のフラスコに自分の姿が映った。 フィフィリアンヌは机に歩み寄ると、力一杯フラスコを殴った。ばぎゃん、とスライムごと打ち砕かれる。 ガラス片とスライムの中に、小さな拳が押し込められる。赤紫の粘液に、血と涙が入り混じった。 フラスコを叩き付けた手をそのままに、フィフィリアンヌは項垂れた。肩を震わせながら、声を荒げる。 「きらいだ、きらいだ、ははうえも、どらごんも、わたしも、だいきらいだぁ!」 少女の拳の下、彼は竜の力を持った血を吸い取っていた。ぐにゅりと波打ち、手に入れた力を馴染ませる。 フィフィリアンヌは奥歯を食い縛り、泣き声を押さえ込んでいた。両手で腕を抱き、座り込む。 居間の方に激しい足音がした直後、ばん、と扉が開かれる。ロバートは、血臭と娘の姿にぎょっとした。 「フィフィリアンヌ!」 べっとりとした血溜まりが、床にあった。その中に、二枚の翼と二本のツノが落ちている。 砕け散った姿見には、新しい血を滴らせた剣が突き刺さっていた。ロバートは、何があったか察した。 そして、フィフィリアンヌは机の前にへたり込み、泣いていた。いやだ、いやだ、いやだ、と繰り返している。 ロバートに気付き、フィフィリアンヌは振り向いた。血にまみれた少女は、強く叫んだ。 「いやだ! また、つばさがはえてくるんだ! きりおとしたのに、すてたのに!」 ロバートは娘に近付き、膝を付いた。フィフィリアンヌは泣き声を上げながら、縋り付いてきた。 彼は、何も言えなかった。自分が思っていた以上に、彼女は竜族を嫌っていた。 いつもは気味が悪いほど冷静で、落ち着いた言動を好むフィフィリアンヌが、己を失って取り乱している。 相当、人間になりたかったのだ。ロバートはそれに気付けなかったことと、昨夜のやりとりを強く悔やんだ。 嬉しい、なんて思っていても言わなければ良かった。緑の方がいい、と、言うべきだったのだ。 フィフィリアンヌの人間への憧れを、余計に強めてしまった。人でない自分を、嫌悪させてしまった。 ロバートは傷口に触れないようにしながら、フィフィリアンヌを抱き寄せた。震える小さな体を、腕に納める。 「いいか、良く聞け、フィフィーナリリアンヌ」 ロバートの胸に顔を埋め、フィフィリアンヌは泣きじゃくっていた。ロバートは、静かに言う。 「お前は竜族でもあり、人間なんだ。どちらでもあるんだ。それを、誇りに思え」 「だが」 ぎゅっと拳を握り締め、フィフィリアンヌは苦しげに漏らした。 「わたしは、ちちうえとおなじひとになりたい。ひとに、なりたいのだ」 ロバートは、もう何を言って良いのか解らなくなった。ならば言わない方がいい、と思った。 泣きじゃくるフィフィリアンヌを抱え、座り込んだ。むせぶような鉄の匂いが、強く鼻を突く。 戦闘後のような部屋の光景に、ロバートは胸苦しくなる。どうして、娘がこうなるまで気付けなかったのか。 だが、後から考えても仕方のないことだ。ロバートは、翼の失せた少女の背をそっと撫で続けた。 体の傷は、竜族の生命力の強さで癒え始めていた。だが、フィフィリアンヌは一向に泣き止みそうにない。 ロバートはフィフィリアンヌをなだめつつ、ふと、視線を上げた。机のフラスコが、打ち砕かれている。 中に入っていたスライムは、机上でうるうると動いていた。赤紫が、心なしか濃くなっている。 彼はぐにゅりと体を持ち上げ、ロバートを見下ろした。ガラスがないと、外の光景ははっきりと見えた。 少女の血と涙は、途端に意識を明確にさせた。やろうと思えば、この場で言葉を発することも出来るだろう。 だが、今は何も言うべきではない。まだ己の名も決めていないのだから、名乗ることも出来ないのだから。 うにょりと机を進み、彼は窓の前に出た。フィフィリアンヌの泣き声を聞いていたら、不意に、名を思い付いた。 ゲルシュタイン・スライマス。二人が落ち着いた頃に、そう名乗ることにしよう。 そう思いながら、彼、ゲルシュタインは空を眺めた。分厚い雲に、僅かな切れ目が見えていた。 数日後、空は雲一つない快晴だった。 玄関前に、二人は立っていた。王国軍から戦場への招集を受けたロバートを、フィフィリアンヌは見送っていた。 不安げな目をして、フィフィリアンヌは父親の後ろ姿を見上げた。剣と盾を、大きな背に乗せている。 ロバートはヘルムを被ってから、振り向いた。ガントレットを付けた手を、娘を頭に置く。 「すぐに戻ってくるさ。なぁに、一週間もすれば終わる戦いさ」 フィフィリアンヌは眉を下げて目を潤め、泣きそうにしている。名残惜しげに、父親の手を掴んだ。 ロバートはしゃがみ、娘と視線を合わせた。ツノの生え戻った頭を、ぽんぽんと叩いてやる。 「だから、良い子にして待ってな。ゲルシュタインも一緒だから、寂しくないだろ?」 「父上」 フィフィリアンヌが顔を伏せると、ロバートはそれを上に向けさせ、にいっと笑った。 「そう泣きそうな顔するな。別れってやつはな、思いっ切り笑ってやるもんさ」 「…そうなのか?」 「そうだ。だから、あんまり不安がるなよ、フィフィーナリリアンヌ」 ロバートはフィフィリアンヌの両頬に手を当て、ぐいっと上に引っ張った。無理矢理、笑顔が作られる。 フィフィリアンヌは慣れない表情と引きつった頬に辟易したが、抵抗出来なかった。満足げに、父親は笑う。 「オレが帰ってきたら、今度はちゃんと笑って出迎えてくれよな」 笑わされた状態のまま、フィフィリアンヌは頷いた。よし、とロバートは手を放す。 「んじゃ、行ってくらぁ」 ロバートは背を向け、軽く手を振りながら歩き出した。騎士の姿は次第に遠ざかり、森の奧に消えていった。 フィフィリアンヌは目元を擦ったが、森へ背を向けた。家の中に入り、重たい扉を引いて閉めた。 ばたん、と固く閉ざされる。薄暗い居間には、大きな父親の影も武器も鎧もなく、がらんとして見えた。 バターまみれの朝食が、テーブルに残っていた。皿の間に、中身の充ち満ちた大振りのワイングラスがあった。 フィフィリアンヌはテーブルにやってくると、そのワイングラスへどぼどぼと乱暴に赤ワインを注いだ。 「これから貴様と二人きりとは、先が思いやられてならんぞ」 「はっはっはっはっは。我が輩とて同じであるぞ、フィフィーナリリアンヌ」 ワインを吸い込み、スライムはつやりと表面を輝かせた。粘ついた体を細長くし、するりと伸ばす。 「貴君のような可愛げのない子供と、一緒にいなければならぬとは。いやはや、なんとも困ったことである」 「貴様が言うな、ゲルシュタイン。私が言いたいことだ」 むくれたフィフィリアンヌは、ぴん、とワイングラスを弾いた。その震動で、スライムに波紋が起こる。 おおう、とゲルシュタインは唸った。波紋が消えてから、低い声を居間に響かせた。 「時にフィフィリアンヌよ」 「なんだ」 「我が輩のことはゲルシュタインでなく、伯爵と呼んでくれたまえ!」 「なぜだ。貴様如きスライムに、爵位などなかろう」 「はっはっはっはっは。高貴なる魂を持つこの我が輩には、爵位こそが相応しいのである!」 「下らん」 「実に素晴らしい提案だと思わんかね、フィフィリアンヌよ」 「別に」 「貴君という者は、本当に愛嬌のない子供であるな…」 「まぁ、気が向いたら呼んでやってもいいぞ。どうせ、父上が帰ってくるまで暇なのだ」 ワイングラスを覗き込み、フィフィリアンヌはついっとグラスを撫でた。ガラス越しに、僅かに体温が伝わる。 ゲルシュタイン、もとい伯爵は、長く伸ばしていた先端を手前に向けた。視界の目前に、少女がいる。 これから、彼女とは長い付き合いになりそうだ。根拠はないが、そう思えて仕方なかった。 流し込まれた葡萄酒の渋さを全身に感じながら、彼はそんなことを考えていた。 ざあざあと、雨は未だに降り続いていた。 結局、あれからロバートは帰ってくることはなかった。帰ってきたのは、彼のロザリオだけだった。 伯爵は浅い眠りから戻り、意識を明確にさせた。しっとりと重たい洞窟の空気が、湿った体に染み入る。 ふと、ギルディオスを見てみた。胡座を掻いて岩肌に寄り掛かり、いつのまにか眠ってしまっていた。 足元には、いくつも文字が書かれていた。伯爵はそれを読んでみたが、字が下手すぎて、よく解らなかった。 辛うじて読み取れるのは、右斜め上に歪んだマーク・スラウの名だけだった。確かこれは、彼の戦友の名だ。 伯爵は、なぜギルディオスがその名を書いたのか考えてみた。だがすぐに、見当が付かないので諦めた。 赤い頭飾りを首筋に垂らした甲冑は、熟睡しているようだった。いやはや、と伯爵は内心で呟く。 洞窟の奥の方では、フィフィリアンヌも眠っていた。起き上がっているセイラの膝に、寄り掛かっている。 背中の翼を折り畳み、少女は穏やかな寝息を立てている。セイラは、彼女の肩を指先で支えていた。 セイラの屈強な胸と背中にはたっぷりと包帯が巻かれ、赤紫の肌は、その部分だけが白くなっていた。 「ゲリィ、起キタ?」 声を潜め、セイラは伯爵に言った。スライムの魔力が、僅かに高まったのを感じたのだ。 伯爵はセイラの勘の良さに驚きながら、一部を細長くし、持ち上げる。先端を、金色の単眼に向けた。 「いやはや、いやはや。我が輩が眠っている間に、二人共眠ってしまうとは。なんということであろうか」 「ゲリィ」 興味深げに、セイラは少し首をかしげた。ワインレッドのスライムを、じっと見据える。 岩の上に置かれたワイングラスは、ごとり、と前進した。セイラも首を前に出し、少し間を詰める。 「なんだね、セイラ」 「セイラ、フィリィ、好キ。ゲリィ、フィリィ、好キ?」 首をかしげたセイラは、ゆっくりと瞬きした。少し口が開かれ、ずらりと並んだ歯が隙間から覗く。 伯爵が黙ると、雨音が強く聞こえてきた。雨粒が木々の葉や地面を弾き、ぱらぱらと軽い音が鳴っている。 フィフィリアンヌの寝顔に、視点を合わせた。その表情は、六十四年前となんら変わってはいない。 だが、あの頃のような脆弱さは消えている。今の彼女に備わっているのは、経験と知識と、確かな自信だ。 伯爵は、フィフィリアンヌから視点を上げた。三本のツノを持った、単眼の魔物を見上げる。 「ああ。それなりにな」 セイラは彼の答えに満足し、きゅっと目を細める。口の端を持ち上げ、笑ってみせた。 伯爵は低く笑い声を上げ、洞窟にひとしきり響かせた。岩壁と鉄格子に反響し、声量は増した。 だがそれでも、フィフィリアンヌとギルディオスは起きることはなく、二人は揃って眠り続けていた。 その様子に少々呆れつつ、伯爵は笑うのを止めた。遠くから聞こえる雷鳴が、ワイングラスに震動を作る。 鉛色の雲から降り続ける雨と、湿度の具合を感じ、彼は思った。これが止むのはもうすぐだ、と。 竜王都を囲む山々の上に、雲の切れ間が出来ている。そこから、白い日差しが差し込んできていた。 骨を持たぬ軟体にも、確かな過去は存在する。それは、愛情と痛みに満ちたものだ。 血を分けた彼女の強さも弱さも、その父親の勇姿も何もかも、彼は知り得ている。 知っているからこそ、彼女への親愛は、悪態として吐き出しているのだ。 スライムなりの、奇妙に歪んだ好意なのである。 05 2/28 |