ドラゴンは笑わない




竜に恋をした日



カインは、勢い良くむせた。


飲み損ねた紅茶が気管支に入ってしまい、かなり苦しくなってしまった。激しく咳き込み、背を丸める。
しばらく咳き込み続けて、ようやく落ち着いた。涙の滲んだ目元を拭ってから、痛む喉へ紅茶を流し込んだ。
膝の上で、カトリーヌが心配げにしている。カインは幼いワイバーンを撫でつつ、向かい側に座る少年に言った。

「なんでいきなり、そんなことを聞くんです?」

「前々から、なんか気になってたんですよね」

しれっとした様子で、ランスは頬杖を付いている。カインは、はぁ、と気の抜けた返事をした。

「でも、どうしてランス君が聞くんです? どちらかっていうと、こういう話が好きなのはパトリシアさんじゃ」

「私は別にぃ、他人の色恋に興味はないわよーん」

ティーカップを揺らしながら、ランスの隣でパトリシアは笑う。カインはもう一度、はぁ、とだけ返した。
カインはまだ熱い紅茶の入ったティーカップを、ソーサーに置いた。どうにも、変な気分になってしまう。
少々の恨みを込めつつ、カインは左隣に座るメアリーを窺う。こうなってしまったのは、彼女のせいだと思った。
数日前の深夜、カインとメアリーはフィフィリアンヌ一行を見送った。その後、メアリーがカインに自宅に誘ってきた。
カインはとりあえず行くと答え、その日時である今日の午後にやってきたところ、ランスとパトリシアもいたのだ。
そしてランスが、いきなりカインに訊いてきたのである。いつ頃、フィフィリアンヌに惚れたのか、と。
ランスらしからぬ言葉と、前置きのない不意打ちのせいで、カインはむせてしまっていたのだった。
前置きのない会話は、ギルディオスの影響だろう。変な部分だけが似たんだな、とカインはげんなりした。
メアリーは長い足を組み、テーブルに寄り掛かる。体を傾け、興味深げにカインを覗き込む。

「そうだねぇ、あたしも聞いてみたいよ。なんであんたが、フィルに惚れちゃったのかをさぁ」

「ていうか、どの辺りで接点があったのかが知りたいんだよね」

ランスはジャムを塗られたケーキを取り、頬張った。カインは、ランスに苦笑する。

「えと、君の本音はそこなんですか?」

「まぁね。フィフィリアンヌ・ドラグーンは、そんなに堅気じゃない仕事をしているから結構気になるんだよ」

自分のティーカップに、ランスは砂糖を二杯入れた。軽く、スプーンで掻き回していく。

「この辺一帯を治めている伝統ある名家のストレイン家と、ハーフドラゴンの関わりってやつがさ」

「名家ってほどじゃないですけど…」

ランスの言い方に、カインは頬を掻いた。ストレイン家は領地が広いだけで、資産は大したことがない。
パトリシアは、長く柔らかなブロンドの髪にくるりと指を絡めた。あからさまに、嫌そうにする。

「あんまりご謙遜なさらないで下さいませ、未来の領主様」

「パトリシアさん、そんなに僕が嫌いなんですか?」

「カインさん自体は嫌いじゃないけど、貴族がなぁんか嫌いなのよねん」

ぷいっと顔を逸らし、パトリシアはむくれる。要するに、地位と気位の高い者達が気に食わないらしい。
カインは多少は腑に落ちたが、納得は出来なかった。家柄の話だけで、そこまで怒る理由が解らない。
だが恐らくは、ギルディオスの爬虫類嫌いと同じようなものなのだろう。理由はないが、とにかく嫌いなのだ。
そう自分を納得させ、カインはパトリシアの横顔から目線を外した。無表情に近いランスと、目が合う。

「あの、ランス君、なんですか?」

「さっさと話してもらいたいなーって思って。フィフィリアンヌ・ドラグーンに惚れたときの話を」

「ですけど僕は、まだ話すだなんて言ってませんけど」

「そうですか。で、フィフィリアンヌ・ドラグーンのどの辺りが可愛く思えたんですか、カインさん?」

「あの人は、あれで結構抜けてるんですよねぇ、色々と。まぁ、そこが、なんだか可愛いなぁーと…」

「でしょうねぇ。それで、何年前ぐらいのこと?」

「僕が十一歳の頃でしたから、そうですね、大体六年ぐらい前の…」

顔を緩めながらそこまで話し、カインはふと気付いた。ランスは、得意げな顔になる。

「話してくれましたね。じゃ、続きをお願いします」

「って、これって誘導尋問じゃないですか! 何するんですか、ランス君!」

「いやー扱いやすいなぁ、カインさんは。僕なんかに引っかかっちゃうんだもん」

にやにやしながら、ランスは腕を組む。パトリシアも興味が出てきたのか、身を乗り出してきた。

「それでそれでぇー? 六年前に、何があったんですぅー?」

「話しちまったもんは仕方ないよ、カイン。さっさと続けておくれよ、聞きたいんだから」

カインに顔を寄せ、メアリーはにいっと笑う。カインは後退ろうとしたが、椅子が少し動いただけだった。
ぎぃ、とカトリーヌが高い声を上げた。ぱたぱたと翼を上下させながら、じっとカインを見つめている。
中腰に立ったランスは、カトリーヌを見下ろした。カトリーヌは首を持ち上げ、ランスへぎぃぎぃと鳴いた。
ランスは体を戻し、すとんと座り直す。顎に手を添え、にんまりと得意げな笑みを浮かべた。

「カトリーヌも聞きたいんだそうですよ」

「…嘘ですよね?」

出来る限り身を引きながら、カインは口元を引きつらせる。ランスは、ゆっくりと首を横に振る。

「いいえ。ちゃんと言いましたよ、カトリーヌは。精霊魔導師を舐めちゃいけません」

カインは、おずおずとカトリーヌを見下ろした。膝に掴まる小さなワイバーンは、ぎゅる、と小さく唸る。
ランスが言うと、妙な説得力がある。もしかしたら、本当に彼はカトリーヌの言葉を聞けるのかもしれない。
だとしたら、話さないわけにいかないような気がしてきた。カインは、興味津々な彼らを見回した。

「仕方ありません」

カインは椅子を元の位置に戻し、深く腰掛けた。ランスは、いつになく楽しげな目をしている。
その表情が少し気になったが、カインは目線を上に向けた。板張りの天井を見つめ、記憶を探っていく。
正直、あまり乗り気ではなかったが話し始めた。忘れもしない、六年前のある日のことを。




良く晴れた、初夏の日のことだった。
巨大なストレインの屋敷に見下ろされた、広い庭園をカインは一人でぶらついていた。
手入れの行き届いた植木や花々の間を歩きながら、ぼんやりしていた。今日は、やることがなかった。
家庭教師が来ない日だし、歳の離れた二人の兄は軍務に出掛けた。執事やメイドも、近くに見当たらない。
かといって、本を読む気にはならない。埃っぽい書庫や部屋の中に籠もるのは、体に良くないからだ。
元々弱い気管支を埃で痛めてはいけない、ということで、読書の時間は医者から制限されていたこともある。
カインとしては、それはこの上なく不満だった。竜族に関する伝記や資料を、読み漁れないのだから。
無気力なまま、青々とした生け垣の間を歩いていた。カインは、何の気なしに空を見上げた。

「ドラゴン、飛んでないなぁ…」

澄み切った青空には、ドラゴンの影は見えなかった。昔から、一度たりとて本物を見たことはない。
そのことをぼやくたび、見てみたいと思えば思うほど見られなくなるぞ、と、長兄からよく茶化されていた。
カインはそれを思い出し、少しむくれた。ただ自分の運が悪いだけなのだ、と内心で反論して思い直した。
新緑の生け垣に沿って、ずっと庭を歩いていった。庭師と父親の趣味もあり、生け垣は多少入り組んでいた。
何度目かの角を曲がると、細い道の奧に塀が現れた。白塗りの背の高い塀は、眩しく光っているかのようだ。
ふと、視界に黒が入ってきた。白い塀の前に、黒い衣服を身に纏った少女が、いつのまにか立っていた。
先の尖った黒い帽子を被っていて、同じく黒いマントを付けていた。長い髪が、首の後ろで一括りにされている。
その体格は、カインとあまり変わらなかった。帽子を除いてしまえば、身長はカインより低いだろう。
不意に、魔女のような少女はこちらに向いた。吊り上がった赤い目がじろりと動き、カインを映す。

「貴様、この家の者か」

「え、まぁ」

カインは、とりあえず答えた。真正面から見ると、魔女の顔は、少々きつめだったが端正なものだった。
だが、全体的に幼い。この子の年齢は自分とあまり変わらないのではないか、とカインは感じた。
魔女は、肩から提げた大きなカバンを持ち直す。がちゃり、とその中で何かがぶつかって硬い音がした。

「丁度良い。教えてくれ」

「何を?」

見慣れぬ少女にいきなり尋ねられ、カインは戸惑ってしまった。貴様、などと呼ばれたのは初めてだ。
普通に返事をしてから、敬語で返した方が良かったかな、とちらりと後悔した。もしかしたら、年上かもしれない。
塀と庭を一瞥した魔女は、視線を真正面に据えた。固く締めていた薄い唇を開き、幼い声を張る。


「ここはどこだ」


真顔で、魔女は迷子を宣言した。やけに堂々とした態度と噛み合わない言葉に、カインは面食らった。
普通、迷子であれば困っているはずだ。なのにこの少女は、意味もなく自信に溢れている。ように見えた。
カインはどうしようかと考えていたが、そうこうしているうちに、魔女は真っ直ぐに歩み寄ってきた。
一気に間合いを詰められ、カインは一二歩後退った。魔女は、くいっと帽子の幅広い鍔を持ち上げる。

「どこをどう通れば、屋敷に行けるのか解らんのだ」

「僕の家に用事があるんですか?」

「ああ。この家の、ストレイン家の当主に頼まれて来たのだが」

「大爺様に、ですか。じゃあなんで、正門から入ってこないのさ?」

「その正門がどちらなのか、今ひとつ解らなかったのだ。だから、手っ取り早く塀を越えたのだが」

「…迷ったんだ」

「そうなのだ」

こくんと、魔女は頷いた。カインは、彼女のことを笑うべきか笑わざるべきか迷ってしまった。
だが結局、口を噤んで笑いを押し込めた。見た目はちゃんとしているが、内心では困っているかもしれない。
そんな彼女を、笑ってしまうのはひどすぎる。特に女性には配慮すべきだ、と、日頃から教えられている。
しかし、どうやって塀を越えたのだろうか。カインは少し身を下げ、やたら高い屋敷の塀を見上げた。
塀の上には、防犯のために先の尖った柵も付いている。あれに触れないで乗り越えることは、不可能だ。
空でも飛ばない限り、無理だろう。カインはまるで表情を変えない魔女と、白く高い塀を見比べる。

「だけど君は、どうやって塀を乗り越えたんだい?」

「飛んだに決まっている」

「でも、飛行魔法は色々と不安定で、優れた魔導師でも扱いが難しいって聞いたけど」

「魔法ではない。それでは回りくどくて面倒なのでな」

「じゃ、どうやって」

「貴様、なぜそこまで聞きたがるのだ」

魔女は目元をしかめ、眉を吊り上げた。怒らせてしまったと思い、カインは笑顔を作る。

「あ、じゃあいいです」

「ならば聞くな。無意味な会話をしてしまったではないか」

「すいません」

「なぜ謝る」

「…なんとなく」

理由が見当たらないため、カインは口籠もる。彼女と話していると、怒られているような心境になってしまう。
上から物を言われているせいだろう。軍人のような堅苦しい口調であるため、それが余計に強調されている。
先程思ったように、彼女は見た目通りの年齢ではないのかもしれない。魔女を見、カインはその年齢を考えた。
だが、まるで見当が付かなかった。年上と思えば年上に見えてくるし、下だと思えば下に見えてしまう。
さらりとした濃緑の髪の間から、小さな耳が見えていた。それは上に長く伸びていて、先が尖っている。
ようやく、カインは魔女が人間でないと理解した。髪と目の色は、珍しいな、と思っただけだった。

「あの、君って、一体…」

「想像に任せる。結論を言えば、貴様は逃げ出しかねんからな」

魔女は軽い足取りで、カインの隣を通り過ぎた。擦れ違う瞬間、黒いマントが広がって下が僅かに覗く。
薄っぺらい闇色の奧に、緑の何かがあった。カインはそれが何なのか、すぐには解らなかった。
振り返り、屋敷へ進む魔女の背を見た。歩調に合わせて揺れるマントは、時折、何かに引っかかっている。
カインは立ち尽くしていたが、彼女へ向き直った。書物に書かれていた事項と、魔女の外見を重ねた。
赤き瞳を滾らせ、岩石の如き肌を持ち、空を往く、大地の大いなる申し子。人を模せば、髪色は肌と似る。
彼らの擬態が完全でない場合は、耳が尖り、瞳の色は赤いままである。その種族の名は、確か。

「ドラゴン、なのかい?」

すると、魔女の足が止まった。ゆらりと、カインへ振り向く。

「だとしたら?」

カインはぐっと拳を握り締め、表情を固めた。平然とした面持ちで、魔女はカインを見据えている。
さあ、と弱い風が生け垣を揺らした。少女のマントをゆるやかにはためかせ、ふわりと持ち上げていった。
その下には、折り畳まれた翼が隠されていた。鮮やかな若草色をした、小さなドラゴンの翼があった。
風が止み、またマントが舞い降りる。魔女の小さな背は布に隠されてしまい、元の闇に覆われた。
カインは目を見開いていたが、一度瞬きした。今し方見た光景が、彼女の背の翼が、すぐには信じられなかった。
だが、間違いない。きちんと影も付いていたし、小さな翼の根元は、色素の薄い肌にしっかりと根付いていた。
魔女を見つめながら、カインは徐々に嬉しさを感じた。そして、喜びに任せて声を上げた。


「嬉しいです!」


きょとんとしたように、魔女の目が丸まった。意外だったらしい。

「貴様、正気か?」

「正気も何も、僕は嬉しくて仕方ないや! だって、やっと本物に会えたんだ!」

カインは、興奮に頬を紅潮させた。魔女は少し困ったように、眉間を細い指先で押さえる。

「珍しい反応だ。貴様のような輩は、父上以外にはいないと思っていたが」

「それじゃ、ハーフドラゴンなのかい?」

「そこまで説明する気はなかったのだが、まぁいい。確かに私は、半竜半人だ」

やりづらいのか、魔女は目線を逸らした。カインは歓声を上げながら、彼女の元へ駆け寄った。
今度は、魔女が後退る番だった。距離を詰めてくる少年と間合いを広げるため、ずりずりと身を下げていく。
カインがあまりにも近寄るので、魔女の背は生け垣に埋まった。ばさり、と帽子が枝に引っかかる。

「なぜ近寄る」

「翼があるってことは、帽子の下にはツノが?」

興味に任せ、カインは身を寄せた。頭半分背の低い魔女は、帽子を押さえて口元を歪める。

「…貴様」

「はい?」

「蹴るぞ。どかなければ、本気で貴様を蹴り倒すぞ」

片足を高く挙げ、魔女は平坦だった声を僅かに低めた。どかん、と靴底がカインの胸に当てられる。
固い感触と声色に、カインはやっと自分が何をしていたのか自覚した。申し訳なくなり、顔を伏せる。

「ごめんなさい」

「まずそこをどけ。謝られるのはそれからだ」

腹立たしげな魔女は、ぐいっと足首を捻った。かかとの固い角が、カインの鳩尾に押し込まれる。
胃と肺への圧迫感に、カインは思わずむせそうになった。後退ってから、痛みの残る鳩尾を押さえた。
全く、と洩らしながら、魔女は掲げていた足を降ろした。めくれあがったスカートを押さえ、元に戻す。

「女に対する礼儀というものを知らんのか」

「ほんとに、ごめんなさい」

「解ればいい」

「あの」

「なんだ」

「君は、女性なんだよね? だったら、なんでそんな言葉遣いをするんだい?」

「ただの趣味だ」

「…結構、変わってるんだね。でも、せっかく可愛いんだし、もっと普通の喋り方をした方が」

「私にとってはこれが普通だ。ついでに言えば、この方が商売柄色々と便利なのでな」

大きく膨らんだ革製のカバンを、がちゃりと肩に乗せた。魔女はカインから遠ざかり、背を向ける。
そのまま、屋敷へ向かって歩き出した。色鮮やかな花々の間を、闇から切り取られたような黒い姿が抜けていく。
足音に混じって聞こえる、がちゃがちゃと硬い音に、カインは彼女の職業を想像した。が、思い当たらなかった。
魔法が使えて、道具を使う職業。あの衣装で思い出すのは占術師だが、竜族の占術師がいるとは思えない。
竜族の世界にはいるのかもしれないが、わざわざ貴族の当主が、人間が呼びつけるような職ではないだろう。
かといって、魔導師にしては装備が緩い。魔導師ならば、魔力安定と発動補助のために杖を持っているはずだ。
カインはそこまで考えて、顔を上げた。いつのまにか、魔女の姿は生け垣の間に消え、視界から失せていた。
彼女はちゃんと家に着けたのかな、と思いながら、カインは屋敷に向かって歩き出した。
しばらく歩いていると、背後に足音が止まった。振り返ると、前に進んだはずの魔女がなぜか後ろにいた。
辺りを見回した魔女は、少し首をかしげる。カインが変な顔をしていると、魔女は不思議そうに言った。

「なぜ、貴様が前にいるのだ?」

「それは僕が言いたいよ。前に向かったのに、なんで後ろから出てくるのさ」

あまりにもひどい方向音痴に、カインは呆れた。魔女は、弱ったな、とかしげていた首を戻した。

「やはり伯爵も持ってくるべきだったか…。あれがおらんと、今ひとつ方向感覚が定まってくれん」

「伯爵?」

「すまんが、屋敷まで案内してくれんか。このままでは、今日の分の仕事が終わらん」

「いや、まず僕の質問に答えてよ」

「先程あれだけ答えたではないか。もういいだろう」

「それとこれとは別な気がするけど」

「同じだとも」

と、魔女は面倒そうに言い捨てた。つまり、事ある事に説明を繰り返すのが億劫で仕方ないのだ。
カインはそれを察し、ああ、と頷いた。彼女の気持ちは解らないでもないが、同じと言うのはどうかと思う。
無表情な魔女は、じっとカインを見据えていた。細い眉を曲げ、苛立ちの混じった声になる。

「それで。案内するのか、しないのか?」

「まぁ、するけど」

「ならばなぜ、貴様は、私の顔を見ているのだ」

ほとんど瞬きをせずに、魔女の目はカインを映している。魔導鉱石のような赤が、帽子の下で陰っていた。
弱い風が吹き下りてきて、庭の中を通り過ぎていった。生け垣の間を、庭園の花々の甘い香りが抜けていく。
爽やかな空気の流れが、黒と緑を揺らしていた。血の気の薄い頬を、風に合わせて毛先が撫でる。
しばらく、カインは魔女を見つめていた。これで笑いでもしたら、きっとかなり可愛いんだろうな、と思った。
吊り上がった目元が和らげられ、固く締められた口元が上向く。凛とした声を転がして、楽しげに肩を震わす。
そんな光景を、カインは想像してみた。だが、それは有り得ないことだ、と直感的に感じる。
これだけ話していても、彼女の表情はほとんど変わらない。唯一感情が出るのは、目元と眉くらいなもの。
しかしそれも、険しいものばかりだ。まぁ、僕のせいなんだけどね、とカインは内心で苦笑いした。
親しくなれば、それ以外のものも見られるかもしれない。カインは、無性に見たくなっていた。
名も知らない竜族の魔女のことが、知りたくなっていた。様々な質問が、浮かんでは消えていった。
これ以上、質問をするべきなのだろうか。だが彼女は、先程言ったように、もう答えてはくれないだろう。
だが、これくらいであれば彼女も答えてくれるはずだ。そう思い、カインは魔女に尋ねた。

「君の、名前は?」

「先に貴様が名乗れ。それが礼儀だろう」

「あ、ごめんなさい」

軽く頭を下げてから、カインはますます自分が情けなくなった。礼儀を忘れ、先走ってばかりだ。
おまけに、謝ってばかりいる。別に謝る必要はないんじゃないか、とは思うが、謝らずにはいられないのだ。
カインは胸を張り、手を当てた。日頃から教え込まれているように、礼をしながら名乗る。

「ストレイン家の三男、カイン・ストレインと申します」

「そうか。通りで、見たことのある顔立ちをしているわけだ。貴様は、この家の血族だったのか」

魔女は屋敷に目を向けていたが、まぁいい、とカインに戻した。

「フィフィリアンヌ・ドラグーン。貴様の祖父であり当主であるジャンカルロ・ストレイン侯爵に、魔法薬をいくつか注文されてな。そいつが出来上がったので、持ってきたのだ」

「ああ、そういえば」

カインは、先日の夕食の席を思い出した。値は張るがいい薬がある、それを近々買う、と祖父が言っていた。
祖父が言うには、若い頃に痛めた腰を治すためと、年齢と共に落ちてきた体力を取り戻すためらしい。
ならばこの魔女、もとい、フィフィリアンヌ・ドラグーンは魔法薬を製造する職業をしているのだろう。
魔導師にも、他の職業にも見えなかった理由はこれではっきりした。そもそも、系統が違うのだから当然だ。
カインは彼女を屋敷へ案内するため、歩き出した。少し後ろを、体重の軽い足音が付いてくる。
生け垣の間をしばらく進み、振り返った。四五歩ほど離れて歩いていたフィフィリアンヌも、立ち止まる。

「なぜ止まる。さっさと行かんか」

彼女に向き直り、カインは深く息を吸った。先程から、訳の解らない緊張が起こってきていた。
いつのまにか固く握っていた拳を開き、力んでいた肩を落とす。もう一度深呼吸をしてから、気を取り直した。
走ったわけでもないのに、胸が痛い。埃っぽい場所にいたわけでもないのに、上手く息が出来ない。
それは、フィフィリアンヌを見れば見るほど強くなる。理由の解らない苦しさで、カインはかなり困ってしまった。
当のフィフィリアンヌは、訝しげに眉を曲げている。顔を強張らせているカインに、また首をかしげた。
出来るなら、もう少しだけでも距離を詰めていたい。もっと近付いて、間近で竜の少女を眺めていたい。
だが、そのための方法が思い当たらなかった。高鳴った胸の痛みと混乱した思考で、カインはぐるぐるしていた。
夏の気配を帯び始めた日差しが、少々熱かった。だがそれ以上に、頬がやけに熱くなっている感覚があった。
カインはぐっと拳を握り、腹に力を入れた。こうでもしないと、言葉が上手く出てこない。

「また、迷子になったらいけないから!」

叫ぶように言い放ち、カインはずかずかとフィフィリアンヌに近付いた。彼女は、ちょっと身を引く。
袖口の広いローブの下に出た手を、奪うように取る。白く頼りない手首を掴むと、ひやりと冷たい感触があった。
薄い皮膚の下に、血が流れているとは思えない。日陰でトカゲを捕まえたときの、あの温度に似ている。
カインは力を込めないよう気を遣いながら、フィフィリアンヌを引っ張った。なるべく振り返らず、一気に歩く。
生け垣の奧には、巨大なストレインの屋敷が待ち構えていた。逆光で、赤く厚い壁が陰っている。
大股に歩き続けながら、カインは願ってしまった。出来るなら、屋敷に着かないで欲しい、このままでいたい。
力を込めなくとも、掴んでいると体温が移った。僅かに温かくなった少女の手首を、そっと握り締める。
いくつか角を曲がると、生け垣が途切れた。円形に作られた生け垣の中心には、水を湛えた池が造られている。
池を通り過ぎてから、カインは顔を上げた。女神像が中心に据えられた人工池の向こうに、屋敷がそびえていた。
そして直線上には、色鮮やかな赤いバラで作られたアーチがあった。アーチの間には、両開きの扉がある。
あそこを開いてしまえば、彼女の近くには居られない。屋敷に入れば、メイドが案内をするだろう。
カインは荒くなった息を落ち着けるため、唾を飲み下す。だが、何も喉に落ちず、乾いて痛いだけだった。
不意に、カインの手首に冷たいものが触れた。直後、ぱん、と乾いた破裂音がし、強めに手が弾かれた。
振り向くと、フィフィリアンヌが左手を引き、右手を振り上げていた。カインの右手には、赤く痕が付いている。
どうやら、叩かれてしまったらしい。カインは少し痛みのある右手の甲を、左手で押さえた。

「…ごめんなさい」

「案内に感謝はする。だが、いきなり手を取るな」

カインの隣を通り過ぎたフィフィリアンヌは、振り向き、なんともいえない表情を目元に浮かばせる。

「正直、驚いたぞ。おまけに離さないものだから、どうしていいか、解らなくなったではないか」

「だよね…。そうだよね、普通」

困っているらしいフィフィリアンヌに、カインは笑ってしまった。少しは、女らしいところもあるようだ。
全く、とぼやいてから、フィフィリアンヌは足早に扉へ向かっていった。黒い後ろ姿が、屋敷の広い影に沈む。
扉に掛けられた金属輪で叩き、魔女は少し身を引いた。しばらくすると、内側から開かれた。
顔を出した若いメイドは、幼い少女を一瞬訝しんだが、説明された途端に態度を和らげて頭を下げた。
フィフィリアンヌはカインをちらりと横目に見たが、何も言わず、メイドに案内されて屋敷へ入っていった。
呆然と突っ立っていたカインは、全身の力が抜けていくのを感じた。緊張が解け、強張っていた体が元に戻る。
池の傍らに置かれたベンチに歩み寄り、すとんと座り込んだ。肩を落とし、深く深く息を吐き出した。
胸の痛みは、まだ残っていた。ずきずきとした痛みは次第に熱くなり、なんともやりづらい感覚に変わってきた。
丸めていた背を伸ばし、カインは熱を持った頬を押さえた。自分だけに聞こえるよう、小さく呟いた。

「これって…」

先日読んだ小説に、書いてあった感情と似ていた。
そして、それの名称は。


「恋、だったりするのかな?」


まさかなぁ、と笑い飛ばしたくなったが、カインは思い直した。胸は確実に痛く、思考は彼女に支配されている。
目を閉じずとも、視界には魔女の姿がちらついた。少しも表情は崩さなかったが、割に抜けている少女だった。
その落差が、どうしようもなく愛おしかった。もっと近付いて、抜けた部分を助けてやりたくなった。
カインはじりじりとした熱を胸中に抱えながら、彼女の入っていった扉を見つめた。

「次に会うときは、もう少し、気を付けます」

思い返してみなくても、彼女に対する態度は反省点が多すぎる。カインは、自分が情けなかった。
もっと、女性には優しくなろう。出来るだけ気を遣って、次こそは怒られないようにしなくては。
右手に残る手首の感触が、消えてしまうのが惜しくてたまらない。敢えて握らず、だらりと下げていた。
カインは青空を仰いだが、もう、ドラゴンの姿を捜すことはなかった。目当ての相手が、現れてくれたのだ。
だからもう、空を見上げて竜の影を捜す必要はない。今度からは、フィフィリアンヌを追いかければいいのだ。
フィフィリアンヌ・ドラグーン。ハーフドラゴンの少女の名を、カインは幾度となく思い返していた。
次に会うときは、いつになるか解らないが、きっとまた会える。いや、会いに行くのだ。
たとえ何年掛かってしまおうとも、必ず。




そこまで話し終えて、カインは椅子にへたり込んだ。
初恋と共に、幼い頃の所業まで露見してしまった。とてつもなく恥ずかしく、情けないことこの上なかった。
中身が半分ほど残ったティーカップを取り、冷めた紅茶を流し込む。味も素っ気も、感じられなかった。
テーブルの向こうでは、パトリシアはあまり面白くなさそうな顔をしており、ランスに至っては黙り込んでいる。
メアリーも同じようなもので、無理矢理聞き出した割には、話の内容に満足していないようだった。
ランスはティーポットを取ると、紅茶をティーカップに注いだ。それを少し飲んでから、呟く。

「…それだけ?」

「はい、それだけです」

カインが頷くと、パトリシアは不満げに唸る。目元をしかめ、唇を尖らせる。

「ていうか、これだけで恋に落ちるもんなのー? しかもそれを六年も続けてるなんて、マジで有り得ないわ!」

「思いっ切り片思いだし、フィルの方はさっぱりじゃないか。よくもまぁ、こんな救いのない恋を…」

半笑いになり、メアリーはカインを見下ろす。カインはむくれ、彼らから顔を背ける。

「悪かったですね。でも僕は、それからずっと好きなんですから」

「でも、意外っちゃ意外かな。フィフィリアンヌ・ドラグーンが方向音痴だったとは」

と、ランスは珍しそうに言った。だぁねぇ、とメアリーは頷き、自分のティーカップに紅茶を注ぎ入れる。

「あたしらが知らないだけで、実は欠点まみれなのかもしれないねぇ。あの子はさ」

「ああもう、なぁんか無性に苛々するわぁー!」

跳ねるように立ち上がると、パトリシアは椅子の上に立った。だん、と片足をテーブルに載せる。
上半身を前に傾け、カインをびしっと指した。大きな胸を張り、力を込めた声を上げた。

「カインさん! フィルさんのこと、諦めるか攻めるかのどっちかにしなさい!」

「そう言われましても…」

目の前に突き出されたパトリシアの指から、カインは目を逸らす。それが出来たら、苦労はしない。
くぁーっ、と、パトリシアは妙な声を漏らして首を振る。胸の前で手を組むと、あらぬ方向を見上げた。

「奇跡でも起きない限り、叶わないわよこんな恋。神様だって、さすがに助けきれないわよん」

「そうか、接点はやっぱり魔法薬か。まぁ、そんなところだろうとは思ってたけどね」

ランスが椅子に背を預けると、ぎしりと軋んだ。カインは、変な笑いを浮かべる。

「予想が付いているんだったら、最初から聞かないで下さいよ」

カインの膝の上で、ごそりとカトリーヌが動いた。いつのまにか眠っていたようで、目が半開きになっている。
赤いリボンの結ばれた尾をぱたぱたと振り、ぐいっと体を起こす。前足の爪を立て、背筋を伸ばした。
翼も広げて伸びをしながら、くわぁと牙の並ぶ口を開いた。薄黄の丸っこい目を、何度か瞬きしている。
カインはまだ眠たげなカトリーヌの顎を撫でてやりながら、ランスに尋ねた。先程から、気になっていた。

「そういえばランス君、カトリーヌの言葉、本当に解るんですか?」

「ああ、あれ? 嘘ですよ」

あっさりと、ランスは悪気なく答えた。テーブルから身を乗り出し、カトリーヌを見下ろした。
手を伸ばすと、小さなワイバーンは起き上がった。軽く尾を振って、きしゃあ、とランスへ声を上げた。

「精霊はともかく、魔物はさっぱりでね。雰囲気で掴めないことはないけど、理解とまではいかないんだ」

「じゃあ、なんでそんな嘘を吐いたんですか」

カインが呆れながら問うと、ランスはにやりと意地の悪い笑みになる。

「嘘も方便、ハッタリと愚者は使いよう、ってね。ああでも言わなきゃ、話してくれなかったでしょうから」

「そりゃあまぁ、そうかもしれませんけど、だからってねぇ…」

はぁ、とため息を吐いてから、カインは体を起こした。座り直し、カトリーヌを抱きかかえる。

「ランス君。君ってさぁ、ちっとも子供らしくないよね」

「良く言われます」

作った笑顔になり、ランスはにこにこしている。この辺りも子供らしくないな、とカインは再びげんなりした。
ランスには才能もあるし、実際頭も良い。だからこそ、多少どころか、相当ひねくれてしまっているのだろう。
だからって年上をからかって欲しくないなぁ、とカインは思った。だが、口には出せなかった。
ランス君は充分子供よぉー、と高い声を上げたパトリシアがランスに寄りかかり、しがみついている。
この状況では、何を言っても無駄に違いない。こうなってしまっては、両者とも相手に掛かりきりになるからだ。
すると、カインのティーカップに温かな紅茶が注がれた。傍らを見ると、メアリーがティーポットを傾けている。

「ま、やれるだけ頑張りなよ。フィルも一応は女だし、落ちはしなくても、傾きはするんじゃないのかい?」

「メアリーさんは、フィフィリアンヌさんに脈があると思うんですか?」

カインが訝しむと、メアリーはにっと笑った。頬杖を付き、鳶色の目を細める。

「ないだろうけど、なければないで出来るかもしれないじゃないか。少なくとも、あたしはそう思うね」

「そういう考え方もありますね」

と、カインは妙に納得してしまった。メアリーの言っていることは確実ではないが、根拠がないわけでもない。
そうだよ、とメアリーは頷く。自分のティーカップに砂糖を入れ、かちゃかちゃとかき混ぜていった。
カインはまだ熱い紅茶を、ゆっくりと飲んでいった。胃の中に熱が入り、じんわりと広がってくる。
照れくささで怒りながら、ランスは逃げようとしている。そんな彼を押さえ込むパトリシアは、とても幸せそうだ。
カインはふと、窓の外を見上げた。ゆるやかに雲が動き、四角く切り取られた空に白の領域を増やしていく。
竜王都で、今、彼女は何をしているのだろうか。新月の深夜に見た、若草色の竜の姿が脳裏に浮かぶ。
じわり、と痛みを伴った熱が胸に沸き起こった。たとえどんな姿であろうと、やはり、彼女は彼女なのだ。
己の思いが叶う可能性が、欠片もなくとも。竜の少女が、フィフィリアンヌが、愛おしく恋しくてならない。
いつか、あの赤い瞳に、自分が映ることがあってほしい。そしていつか、彼女が笑うことがあってほしい。
そう、カインは願っていた。




六年越しの、静かな片思い。救いはなくとも、彼は彼女を思い続ける。
いつか起きるかもしれない奇跡を待ち望み、向けられない瞳を追い求めている。
そんな彼の願いを、無駄と言い切ってしまうのは、少々短絡的かもしれない。

色恋とは、何が起きるか解らないものなのである。






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