ドラゴンは笑わない




忘却の理由



ギルディオスは、滝を眺めていた。


割に大きさのある滝壺の中では、セイラが楽しげに遊んでいた。雪解け水の冷たさは、彼には関係ないらしい。
どおどおと激しく注ぎ込む水の下に飛び込んでみたり、深く潜ってみたり、延々と一人遊びをしている。
リヴァイアサンが混じっているだけのことはあり、セイラの泳ぎは上手だった。滑るように、水中を巡る。
不意に、水面が大きく割れた。ざばぁ、と高く水飛沫を上げながら、赤紫の巨体が跳ね上がっていく。
きらきらと水滴を散らしながら、腰の赤い翼を広げる。長く太い尾がゆっくりと揺れ、空中に飛び上がった。
高音の鳴き声を上げたセイラは、くるりと身を翻した。頭を水面に向け、真っ逆さまに突っ込む。
どばん、と盛大に水柱が立った。勢い良く跳ね飛んだ飛沫のいくらかが、ギルディオスらに降り注いできた。
一瞬、冷たい重みが頭にやってきた。直後、大量の水が崩れ落ち、数秒間、視界が塞がれてしまう。
頭からつま先まで、ぐしょぐしょに濡れてしまった。頭飾りを軽く絞ってみると、ぼたぼたと水が落ちた。
手前の岩に置いておいた伯爵のフラスコは、勢いに負けて落下していた。びしょ濡れの草むらに、転がっている。
ギルディオスは背中のマントを外すと、ぎゅっと捻って絞った。頭飾りと同じように、びちゃびちゃと水が滴る。
すると、滝壺の底で影が動いた。ざばりと水面が割れると、三本ツノの頭が現れて上昇し、上半身が現れた。
側頭部の辺りを、大きな四つ指の手で押さえている。少し気恥ずかしげに、セイラは単眼を伏せた。

「頭、ブツケタ」

「あれだけ勢い付けりゃ、当然だろ。次からは気を付けろよ、セイラ」

水を飛ばすため、ギルディオスはぐるぐると赤いマントを振り回す。ウン、とセイラは頷く。

「解ッタ。痛イ、嫌」

すぐにまた、セイラは水中に没した。滝の流れ込む方へ、すいっと巨大な影が動いていった。
ギルディオスは、全く、とぼやきながらも少し嬉しくなっていた。水面下のセイラを、目で追っていく。
その大きな背にあった忌まわしい呪いは、綺麗に消えていた。魔法陣も六人の署名も、もうどこにもない。
薬液で焼いたばかりの皮膚も、フィフィリアンヌの薬とセイラ自身の生命力のおかげで、傷痕は残っていない。
ギルディオスは、多少水気の残るマントでヘルムを拭いた。水気を拭ってから、がしゃり、と手近な岩に腰掛ける。
草と土にまみれているフラスコが、ごとごとと身動きした。苛立った声を上げ、伯爵は球形の中で暴れた。

「ギルディオスよ! 早く我が輩を拾いたまえ、何をしているのだ!」

「あーはいはい」

面倒に思いながらも、ギルディオスはフラスコを拾った。乱暴に水中に突っ込み、揺らして汚れを取る。
べっとりと張り付いていた草や泥が落ち、球形の表面はつるりと輝く。が、その中身はぐずぐずになっていた。
滑らかだったスライムが歪み、妙にでこぼこしている。徐々にへたれた伯爵は、力なく洩らした。

「いきなり…何を、するのであるか…」

「ちょっと振っただけだぜ?」

ギルディオスは、不思議そうに首をかしげた。伯爵はふるふると震えていたが、うにょりと体を丸める。
球体となったスライムは、渦を作るように身を捻っていった。そして、ワインレッドのとぐろが出来上がった。
とぐろは次第に馴染み、表面が平坦になる。伯爵は中央をへこませると、外側の一部を細くして持ち上げた。

「ああ、ようやく落ち着いたのである。危うく、分離してしまうところだったではないか」

「あれぐらいで?」

あまりの脆弱さに、ギルディオスは笑った。伯爵は、ぱちん、とガラスの内側を殴り付ける。

「我が輩は美しく繊細で優雅であるのだぞ! 気を遣って扱いたまえ、ニワトリ頭め!」

「ていうか、何と何に分離するんだ?」

こん、とギルディオスはフラスコを小突く。伯爵は力を込め、銀色が当てられた部分をべちべちと殴った。

「水分と粘体に決まっているのである。そんなことも想像が付かんのかね」

「考えたことねぇもん」

「誠に嘆かわしいのである。このような馬鹿と友情を結んだ、男の顔を見てみたいものであるな」

「ダチ?」

「そうである。あれから、一度も貴君が話してくれないせいで、今ひとつ想像が付かんのだよ」

うにゅり、と伯爵は先端を縮めた。スライムの本体に、とぽんと沈められる。

「マーク・スラウとかいう、盗賊出の賞金稼ぎのことである」

「マーク?」

心当たりのない名に、ギルディオスは聞き返した。伯爵は怪訝に思ったが、続ける。

「そうである。いつか、地下の迷宮探索を行った際、唐突に話してくれたではないか。そしてその男の名を、セイラの洞窟で、下手な字で書き綴っていたではないか」

「それ、いつだ?」

ギルディオスは身を乗り出し、ヘルムをフラスコに近付けた。ばさり、と赤い頭飾りが前方に落ちた。
その反応に、伯爵は戸惑いながらも答えた。どうにも、先程から話が噛み合っていない。

「二日前の、雷雨の日であるぞ。セイラの洞窟に行けば、まだ残っているはずである」

「二日前っつーと、確かに嵐だったが、オレは字なんか書いた記憶はねぇぞ。伯爵の思い違いじゃねぇの?」

「いいや、確かに貴君が字を書き散らすところを見ている。第一、我が輩は誇り高いのであるから、嘘は吐かぬ」

「だが、オレは本当に書いちゃいないぜ。それに、マーク・スラウなんて、今の今まで聞いたことのない名だしよ」

「ギルディオスよ。ならば貴君は、その前の日のことは覚えているのであるか?」

「三日前か? ああ、まぁな」

完璧じゃねぇけど、と、ギルディオスは体を起こして足を組む。

「フィルが医者を呼んできて、セイラの背中の入れ墨を消させたんだよな。で、オレらはずーっと暇だった」

「そして、我が輩達の他に、誰がいたのかね?」

「エドだろ。あいつが来たからやっと暇じゃなくなって、三人して長話してたんだよな」

「そうである。午後になって、エドワードがやってきたのだ。して、その会話の内容は覚えているのかね?」

「えらく細かく聞くな。んーと確か、酒の種類と飲み方だった気がする。竜と人間じゃ、嗜好が違うってのをさ」

「うむ、我が輩もそう記憶しているぞ。では再び聞くが、マーク・スラウに聞き覚えはないのかね?」

「だーから、ないつってんだろ。何をそんなにこだわるんだよ」

うんざりしたのか、ギルディオスは嫌そうにする。いつのまにか、セイラが二人を見下ろしていた。
単眼を動かして、両者を交互に見た。伯爵はセイラに、心配するでない、と言ってから甲冑を見上げる。

「我が輩の判断であるから断言は出来んが、貴君には、呪いが掛けられているようであるな」

「呪いって、グレイスの言ってたあれか?」

ギルディオスは、一月ほど前の事を思い出した。仮面舞踏会の後、姿を現したグレイスに言われたのだ。
呪いが掛けられている、と。だが彼はそれだけしか言わず、肝心な呪いの正体については教えてくれなかった。
そうである、と伯爵は頷くように中央を少しへこませた。体全体に少し力を入れ、徐々にへこみを戻す。

「それも、割と高度な呪いである。効力は弱まっているようではあるが、それでも強い呪いであるぞ」

「でもオレは、別に変なことになっちゃいねぇぞ。体も腐らねぇし、言えない言葉もねぇし」

「種類が違うのである。貴君に掛けられた呪いは、思い出そうとした記憶を、その傍から消す呪いのようなのだ」

伯爵は、目の前のヘルムを見据える。隙間の奧には、ぽっかりと闇が広がっていた。

「人は、忘れたくない記憶を何度も思い返すものだ。それを利用した、なんとも趣味の悪いものなのである」

「どういうことだ?」

「簡単に言えば、底なし沼である。思い出そう思い出そうとすればするほど、記憶が消えていくのだ」

呪いがあると考えなければ、この事態には説明が付かない。伯爵は、地下迷宮での会話を思い返す。

「貴君の話によれば、マーク・スラウという男は、戦友であったそうだ。貴君とその妻、そしてマーク・スラウの三人でパーティを組み、良く戦いに出ていたそうだ。盗賊出の賞金稼ぎで、貴君と組んでいた頃は金がなかったらしいぞ。そして貴君は、今度彼に会ったらとことん問い詰める、とも言っていたぞ。何を問う気であったのかは、知らんがね」

「…なんだと?」

伯爵の話を聞き終え、ギルディオスは呆然としてしまった。何のことだか、さっぱり解らなかった。
先日地下迷宮にヒトクイネズミを狩りに行ったことと、伯爵と一緒だったことはちゃんと記憶している。
だが、そんな会話をした覚えは少しもない。記憶に隙間が出来ているわけでもないのに、何も覚えていない。
酒を飲んでいたのなら話は別だが、体が甲冑なのだから、飲めるはずもない。素面の時の、出来事だ。
どこの誰が、自分に呪いを掛けたのか。ギルディオスは考えたが、見当も付かなかった。

「どこの誰だよ、こんな変な呪いを掛けやがったのは」

ギルディオスは頬杖を付き、目線を落とした。グレイスの言っていたことは、本当だったのだ。
呪いが掛けられている。しかもそれは、底のない沼と同じ、あがけばあがくほど悪化する類の呪いだった。
この呪いが掛けられたのは、たぶん生前だろう。墓に入った者に、呪いを掛けるような者はいない。
では、誰が。恨みなら、腐るほど買った。傭兵という仕事柄、人を殺して金を貰って生きてきたのだから。
それでも、生きている相手から恨まれることは少ないはずだ。と、自分ではそう思っている。
だがそれは、あくまでも自己判断だ。端から見れば、いつどこで誰から恨まれているのか解らない。
呪いの正体も、完全に解ったわけではない。伯爵は、多少魔法の知識はあるが別に魔導師ではないのだ。
記憶がない、ということ自体を覚えていないことを知った途端、どこか自分があやふやに思えてしまった。
足元の地盤が緩んだような、じわじわと染み入る不安だ。いつ沈んでしまうかと思うと、恐ろしくなってしまう。
ふと影を感じ、ギルディオスは顔を上げた。心配げなセイラが、大きな手を甲冑へ向けて伸ばしていた。

「ギリィ、呪イ、怖イ?」

「ちょっとな」

少し笑い、ギルディオスはセイラを見上げる。濡れた赤紫の固い肌が、日差しでつやりとしていた。
セイラは背中の翼を折り畳み、背筋を伸ばした。ざばぁ、と滝壺から上がり、身を乗り出す。

「セイラ、解ル。呪イ、確カニ、怖イ。デモ、フィリィ、消シテ、クレタ」

「オレが頼んだら別料金なんだろうなー、きっと…」

ギルディオスは冗談半分に言ってみたが、半分は本気だった。彼女なら、間違いなく請求してくるだろう。
金貨八百九十枚の借金に上乗せされてしまったら、それこそ一大事だ。返す目処は、未だに付いていないのだ。

「うむ。それは間違いあるまい。フィフィリアンヌの魔法技術は確かなのだが、値段が高いのが難点である」

フラスコの中で、伯爵はぐにゅりと体を曲げた。捻りの付いたスライムが、するりと伸びる。

「掛けられた呪術の調査と判定、そして解呪を含めれば…そうであるな、金貨二十五枚ほどにはなるであろう」

「…うげ」

借金が増えた様を想像し、ギルディオスは声を潰す。何があってもフィルに頼むもんか、と内心で誓った。
セイラは顔を上げ、空を仰ぐ。徐々に上体を逸らしていき、滝を囲む木々の上に目線を据えた。
滝の激しい水音に混じり、ばさり、と羽ばたく音が聞こえてきた。音の方向に体を向け、セイラは立ち上がる。
空と森の間を滑るようにして、二人がやってきた。大きな翼を広げたフィフィリアンヌと、エドワードだった。
フィフィリアンヌは、やたらに大きな鉄鍋を下げていた。時折それが、何かとぶつかって鈍い金属音を出している。
前方を飛ぶエドワードも、大きく膨らんだ麻袋を担いでいる。やはり中から、がちゃがちゃと音がしていた。
先に高度を下げたエドワードは、するりと彼らの頭上を巡り、足を曲げた。どん、と慣れた動きで着地する。
フィフィリアンヌは鉄鍋を抱え込んでから、徐々に高度を下げた。とん、と慎重に地面に舞い降りた。
そして、ごとん、と巨大な鉄鍋を地面に転がした。翼を折り畳んで小さくし、彼女は一息吐く。

「礼を言うぞ、エドワード」

「なに、気にするな、フィフィリアンヌ。鍋は、後で洗って返してもらえばそれでいい」

エドワードは、翼を縮めずに下げた。がちゃり、と麻袋を足元に置く。

「しかし驚いたな、君が方向音痴だとは。通りで、一人で出歩かないわけだ」

フィフィリアンヌは不機嫌そうに口元を曲げ、エドワードから顔を逸らした。彼は、少し可笑しげに笑っている。
意外な事実に、ギルディオスは驚いた。だが、考えてみれば、彼女はいつも自分か伯爵を連れて歩いていた。
なぜ連れていくのか解らなかったが、そういうことなら納得が出来る。余程、ひどい方向音痴なのだろう。
それじゃ、とエドワードは上昇した。何度か羽ばたくと、手を振りながら旋回して高度を上げ、竜王都へ向かった。
ギルディオスはセイラと一緒に手を振っていたが、フィフィリアンヌを見下ろした。彼女は、背を向けている。

「そっかー。お前、方向音痴だったのか」

「悪いか」

相当に恥ずかしいのか、フィフィリアンヌは俯いた。ギルディオスは、にやにやした声を出す。

「いんや、別にぃ」

「フィリィ、コレ、何、使ウ?」

不思議そうに、セイラは鉄鍋を指した。中には、三つほど、一回り小さなものが重ねて入れられていた。
それらの中心には、巨大な壷が押し込まれていた。壷の表面には、砂糖、と大きく印されている。
ああ、とフィフィリアンヌは後方のセイラに振り向いた。大きな鉄鍋に手を掛けながら、セイラを見上げる。

「この近くに、野イチゴの群生地を見つけたのでな。せっかくだから、ジャムでも作ろうと思ったのだ」

「似合わねぇなぁー、おい」

と、ギルディオスは半笑いになる。フィフィリアンヌは、新緑の茂る森を見た。

「無論、ただ作るだけではないがな。薬用のものと毒入りのものに作り分け、売り捌くのだ」

「だけど売れんのか、毒入りジャムなんて?」

ギルディオスが訝しむと、フィフィリアンヌは腕を組み、少し首をかしげた。

「売れるのだ、これが。私も意外なのだが、割と需要があるのだ」

「はっはっはっはっは。世間には、酔狂な輩が多いのだよ」

ごとり、とフラスコを動かし、伯爵は笑った。フィフィリアンヌはそちらを見、つかつかと歩いていった。
少女は身を屈めると、おもむろにフラスコを掴んだ。コルク栓が引き抜かれると、ぽん、と軽い音が響いた。
フィフィリアンヌは砂糖壷を出してから、小さめの鍋を取り出した。フラスコを逆さにし、上下に振った。
何度目か振られたあと、ぼとり、とスライムが鍋に落ちた。黒い鉄の底を、赤紫のスライムがぬるぬると動く。

「フィフィリアンヌよ、何をするのかね!」

「貴様には、ジャムの毒味をしてもらう。毒を入れる前の味も、見てもらうぞ」

「そのようなこと、貴君がやりたまえ!」

「私の舌が、当てにならんことを知っているだろうが。かといって、セイラに喰わせるわけにもいかん」

「…それも、そうであるな。腹でも下してしまったら、それこそセイラが哀れであるぞ」

伯爵の言葉に、ギルディオスは何度も頷いた。食べたことはなくとも、彼女の料理がまともでないと解る。
手を加えられた料理を食べ慣れないセイラなら、余計にそのひどさを受けてしまうのは間違いない。
たとえ味見程度にしか食べなくとも、ひどいものはひどいのだ。ギルディオスは、セイラへ顔を向ける。

「セイラ。フィルの作るもんは、薬以外は喰っちゃダメだぞ」

「フィリィ、ソンナニ、料理、下手?」

「うむ。地獄の住人が作った方がまともに思えるくらいに、あの女は、料理が恐ろしく下手なのである」

するりと先端を伸ばした伯爵は、それを軽く振る。セイラは首を捻っていたが、頷いた。

「解ッタ。セイラ、喰ワナイ」

「…ふん」

フィフィリアンヌは、不機嫌極まりない顔になっていた。鍋から砂糖壷を抱えて出すと、地面に置いた。
エドワードの持ってきた麻袋を開け、中を探り、カゴを二つ取り出した。その片方を、甲冑へ投げる。

「手伝え、ギルディオス。私一人では、収集するのに手間が掛かるのでな」

「えぇー」

カゴを受け取ったギルディオスは、変な声を出した。フィフィリアンヌは、カゴを脇に抱える。

「貴様ぐらいしか、役に立つ者がおらんのだ」

「だーけど、この歳になってイチゴ摘みなんて女々しいこと…。やりたくねぇよ、オレ」

「やりたくなくとも、やるのだ。貴様に拒否権はない」

「へいへい」

気のない返事をし、ギルディオスは肩を落とす。これ以上言い返したところで、勝ち目はない。
フィフィリアンヌは森の奧を見定め、さっさと歩き出していった。ギルディオスは、仕方なくその後を追う。
小さな背が、長く伸びた草を踏み分けて森を突き進んでいく。その背は、時折あらぬ方向に進みそうになっていた。
太い木々の間から、野イチゴの群生地が見えた。ギルディオスはそれに気付いたが、なんとなく言わなかった。
フィフィリアンヌは左右を見回していたが、その群生地には気付かず、別の方向に向かって行ってしまう。
そんなことを、何度か繰り返した。いくら歩いても歩いても、フィフィリアンヌは群生地に近付けなかった。
しばらくの間、ぐるぐると歩いていたが、フィフィリアンヌは立ち止まった。振り返り、言いづらそうに言った。

「すまんが…ギルディオス」

「あーはいはい。ていうかよ、最初からオレが前を歩いてりゃ良かったんじゃねぇの?」

フィフィリアンヌを追い越しながら、ギルディオスは笑う。フィフィリアンヌは、情けなさそうに顔を伏せた。

「そうだな」

ギルディオスは草を掻き分け、周囲を見回す。先程見つけた群生地は、割と近い位置にあった。
鬱蒼とした森の中に出来た、広場のような場所だった。柔らかな日差しの下で、赤い実が輝いているのが見える。
目測で、現在地と群生地の距離を測ってみた。あまり開いているわけではなく、解りやすいほど近かった。
樹木もそれほど入り組んではいないし、むしろ見通しがいいほどだ。これで、なぜ迷うのだろうか。
ギルディオスはそれが不思議で仕方なかったが、尋ねないことにした。敢えて訊くのは、意地悪でしかない。
こういうことは天性の問題であり、自分ではどうにも出来ないことだからだ。


昼過ぎまで掛かって集めた野イチゴは、大量だった。
滝の傍に石のカマドが作られ、その上に巨大な鍋が置かれていた。野イチゴが、ぐつぐつと煮詰まっている。
砂糖と野イチゴの甘ったるい匂いが、湯気と共に広がる。フィフィリアンヌは、大きな鍋を掻き回していた。
鍋に合わせた長い杓子を引き抜くと、少しばかりジャムをすくい取った。それを、伯爵の鍋に落とす。
ぼたり、と赤い固まりがスライムにまとわりついた。ギルディオスはその熱さを想像し、思わず肩を竦める。

「うぉおおう!」

ジャムはやはり熱かったのか、伯爵の悲鳴が上がった。鍋の底で、伯爵はふるふると震えている。
滝壺から上がったセイラは、大きな岩に座っていた。余り物の野イチゴを食べていたが、その手を止める。

「ゲリィ、大変。凄ク、熱ソウ」

「セイラよ、我が輩に同情してくれるのは貴君だけであるな…」

悲劇的に嘆いた伯爵は、蠢き、溶岩のようなジャムを体に馴染ませた。湯気が、ふわりと立ち上る。

「…えー、甘さは、問題はないのである。だがこれ以上砂糖を入れては、酸味も素っ気もなくなってしまうぞ」

「そうか。ならば、砂糖はもういいな」

フィフィリアンヌは伯爵の鍋から顔を上げ、砂糖壷へ向いた。砂糖壷には、まだ半分ほど中身が残っている。
ギルディオスは、砂糖壷に重たい蓋を乗せた。紐で固く縛ってから、残り二つの小さな鍋を指す。

「なぁフィル。この黄色いイチゴって、なんなんだ?」

「それはキイロニガイチゴといって、鎮痛と鎮静作用のあるイチゴだ。使いようでは、睡眠薬となる」

どぽん、と大鍋に杓子が落とされた。フィフィリアンヌは、黄色いイチゴが半分ほど入った鍋に目をやる。
大振りで張りのいい、楕円の実が光っている。つやりとした色鮮やかな黄色が、やたらに眩しい。

「だが、あまりにも苦いので、素のままでは喰えん。だからジャムに混ぜ込んで、甘さでごまかすのだ」

「んで、こっちのは?」

ギルディオスは、もう一方の鍋を指した。野イチゴに良く似た、薄紅色の実が半分ほど入れられている。
小さく丸い実は甘そうで、おいしそうに見える。フィフィリアンヌは顔を上げ、甲冑へ顔を向ける。

「ヘビノメイチゴという、毒素を多く含んだイチゴだ。一つ食べたぐらいでは大したことはないが、長期に渡って摂取を続ければ、血流を著しく悪化させる作用を持つ。特に末端部、手足の先への作用が強く、壊死を起こさせる上に、腐らせてしまう。味も甘いので気付かれにくいため、暗殺に使用される場合が多い」

フィフィリアンヌはキイロニガイチゴの入った鍋を、ぐいっと引き寄せた。熱いジャムをすくい、放り込む。
どんどん移されて、大鍋の中身は三分の一ほども減った。赤くどろりとした海に、黄色が見え隠れしている。
フィフィリアンヌはキイロニガイチゴの鍋を持ち上げ、別に作ってあったカマドの上に、どん、と乗せた。
近くに集めておいた枯れ枝や焚き付けを掻き集め、鍋と地面の隙間に入れる。身を屈めて、深く息を吸う。
そして、勢い良く吹いた。フィフィリアンヌの口元から細く炎が放たれ、ぼう、と焚き付けと枯れ枝が燃える。
フィフィリアンヌは焚き付けをもう少し足してから、立ち上がった。小さな鍋を、ぐいぐいと混ぜる。
ギルディオスはヘビノメイチゴの鍋をカマドに乗せて、彼女と同じように、焚き付けと枯れ枝を下に入れた。

「便利だなー、火ぃ吹けるなんてさ」

「本領ではないから、あまり出力はないがな」

そっけなく返したフィフィリアンヌは、鍋の湯気を払い、ジャムの色を確かめた。赤に、黄色味が混じっている。
すくい上げて垂らすと、キイロニガイチゴは溶けてきていた。でろりと杓子から滑り、ぼちゃんと落ちた。
フィフィリアンヌは底の方から何度もかき混ぜ、充分に混ぜ込んだ。もう一度、杓子に半分ほどすくい上げた。
彼女はそれを伯爵の鍋に差し出し、ぼちゃりと放り込んだ。再度、伯爵の鈍い悲鳴が上がる。

「うごぉう!」

「どうだ、伯爵。味の方は」

黄色味掛かったジャムにまみれたスライムを見下ろし、フィフィリアンヌは尋ねる。うにゅり、と伯爵は潰れる。
ぶにゅんと体を歪ませて、ジャムを馴染ませていった。甘い匂いと湯気を漂わせ、伯爵は呟いた。

「…問題は、ないのである。しかし、どうにも熱くて敵わんのだが」

「そうか」

フィフィリアンヌは、試しにスライムに触れてみた。柔らかな粘着質に、ずぼりと指が埋まる。
確かに彼の言う通りだった。最初の熱が抜けきらないうちに次のジャムを入れたせいか、かなりの熱だ。
熱湯に指を差し入れているような、そんな温度だった。いくら無機物のスライムとはいえ、これは辛いだろう。
さすがに、フィフィリアンヌも悪いような気がしてきた。手を抜いてからセイラを見上げ、くいっと手招く。

「セイラ。伯爵が煮えてしまいそうだから、水でも足してやってくれんか」

「解ッタ。ゲリィ、熱イ、消ス」

頷いたセイラは、滝壺へ体を向けた。身を屈めると、大きな四本指の手を水面に差し込んだ。
指の間にある水掻きを広げ、手のひら一杯に水を溜める。大量の水を持った手を、伯爵の鍋の上に傾けた。

「水」

ざばぁ、と鍋の真上から水が落とされた。セイラの手に入っていた水の大半が、小さな鍋を直撃した。
水で満杯になった鍋の周囲には、勢いで分離したと思われるスライムの破片がこぼれ落ちていた。
ふるふると震え、未だに湯気を立ち上らせている。肝心の鍋は水が溢れ出し、スライムの姿が失せていた。
フィフィリアンヌは、鍋の中を覗き込んだ。かなり薄くなったワインレッドが、辛うじて底に残っていた。

「少し、多すぎたようだな。伯爵、意識は残っているか」

「意識は残っている。だが、体を上手くまとめるのは難しいかもしれんぞ」

あまり響かない低音が、鍋越しに聞こえてきた。鍋底の伯爵は、体を動かしてみたがまとまりが悪い。
一気に水分を含んでしまったせいで、粘着質が緩んでいる。気を抜けば、溶けてしまいそうだった。
薄暗い水中でうねっていると、不意に鍋が傾けられた。途端に水が流れ出し、その勢いに負けそうになる。
伯爵はなんとか鍋底にへばり付き、堪えた。大半の水が出され、体の表面に外気が触れた。
影を感じたので視点を上げると、ギルディオスが覗き込んでいる。硬い指先が、水っぽい表面を突く。

「おー、まだ残ってたか。無事か、伯爵?」

「無事であるはすがないだろう! 貴君らは、なんといい加減なことをするのであるか!」

べちゃべちゃと水を吹き出しながら、伯爵は叫ぶ。ギルディオスの背後から、金色の単眼が現れた。

「ゲリィ、熱ク、ナイ?」

「まぁ、確かに熱は失せたのであるが…。セイラよ、次からはもう少し、水を加減して欲しいのである」

「解ッタ。セイラ、次、水、減ラス」

と、セイラは深く頷いた。伯爵はもう一言二言は言いたかったが、体に力が入らないため、出来なかった。
伯爵は体内に残っている真水を、ぴっと吹き出した。高く飛んだ水滴が、べちっ、と鍋の内側に当たる。
水っぽさは、なんとか軽減されてきた。だが、ジャムの味見というか毒味は、最低でももう一回ある。
それを想像し、伯爵は内心でぐったりしていた。今更ながら気付いたが、自分にも拒否権はないのだ。
フィフィリアンヌの傍にいる限り、スライムである限り、彼女に逆らうことは出来ないのだ。




夕方近くになった頃、フィフィリアンヌのジャムは完成した。
煮沸消毒をされた瓶に満ちたジャムは、どれも綺麗な色をしている。特に、ヘビノメイチゴが鮮やかだった。
普通のものより色が柔らかく、どちらかといえば桃色に近い。だがその中身は、暗殺に適した毒なのだ。
ヘビノメイチゴのジャムを眺めていたギルディオスは、ちょっと肩を竦めた。毒物は、やはり恐ろしい。
まだ少し熱の残る瓶を置いてから、滝壺に向かった。冷え切った雪解け水の下に、汚れた鍋が浸されている。
岩の上のフラスコは、中身が一杯になっていた。ジャムと水で増えた伯爵が、無理矢理入ったのだ。
コルク栓は浮いていて、すぐにでも落ちそうだった。色の薄いスライムが動くたび、栓もふらふらと揺れる。
滝壺の傍の岩場にもたれたセイラは、うつらうつらとしていた。大きな単眼は、瞼に閉ざされている。
その足元に、フィフィリアンヌは座っていた。セイラの赤紫の肌を、優しい手付きでそっと撫でていた。
ギルディオスは穏やかな彼女の表情を見ていたが、目を外した。少し、声を落として言った。

「なぁ、フィル。オレに掛けられた呪いってのは、何だか解るか?」

「解るとも」

セイラの大きな手に背を預けているフィフィリアンヌは、少しだけ目を細めた。

「私をなんだと思っているのだ。貴様の魂を維持するために、毎日一定量の魔力を与えているのだぞ。言うならば、常日頃から貴様の意識に触れているということだ。意識というものは記憶と自我の集合体であるから、異常箇所があればすぐに解る。貴様の記憶に妙な歪みがあることは、魂を捕らえた時から知っていたことだ」

西日に染まった横顔を、フィフィリアンヌは上向けた。弱い風が抜け、長い後ろ髪を揺らす。

「この呪いは、術者の能力に頼って発動させているものではない。呪詛を掛けられた者の感情を糧とし、指定された記憶を飲み込んでいくのだ。だから、貴様のように感情的な輩には、効果覿面なのだ。私は呪術師ではないから、さすがに術者までは解らんが、概要なら掴めているぞ。知りたいか、ギルディオス」

「それ訊いたらさ、その、金、取ったり…する?」

恐る恐る、ギルディオスは言った。フィフィリアンヌは、首を横に振る。

「いや。この辺りの手数料は、魔力の代金に含まれている。だから、二度も請求する気はない」

「あ、そう…」

喜ぶべきか悲しむべきか、ギルディオスは少し迷ってしまった。気を取り直し、尋ねる。

「んで、その呪いってのは、一体なんなんだ?」


「追憶を禁ずる呪い。それが、この術の名だ」

フィフィリアンヌの語気が、僅かながら強まった。

「過去を思うほどに記憶を封じ、本当に大切なことを忘却させる呪いだ」


本当に、大切なこと。ギルディオスはヘルムを押さえ、足元を睨み付けた。
マーク・スラウ。自分の親友であり戦友であった男は、それほど大事な位置付けにいたというのか。
顔も思い出せず、名も忘れかけ、自分の中での存在すらも消え去りそうになっていた。
他にも、色々とあるはずだ。彼と関わったことも、恐らくは重要なことばかりであったはずだ。
だが、思い出そうとすればするほど、糸口は遠ざかる。これが、呪いの正体であり、効果なのだ。
この呪いを掛けた術者が誰であるかということよりも、今は、忘れ去った過去の方が重要だ。
どうすれば思い出せるのか。どうすれば、呪いを打ち破ることが出来るのか。
ギルディオスは、今までになく必死に考えた。これだけ一気に物事を考えたのは、久方ぶりだった。
考え込み始めたギルディオスを横目に、フィフィリアンヌは、大量に出来上がったジャムの山を見つめていた。
夕陽を受けたガラス瓶は、つやりと強く光っていた。深みのある赤が、隙間なく詰まっている。
ふと、フィフィリアンヌは思っていた。あれをカインにあげたとしたら、どういう反応が返ってくるのか。
無論、かなり喜ぶのだろう。それどころか、感動してしまうのかもしれない。彼は、そういう男だ。
今更ながら、フィフィリアンヌは彼との出会いを思い出した。六年ほど前に、ストレイン家の庭で起きた出来事を。
最近まで、すっかり忘れてしまっていた。思い出すにつれて、その時に覚えた不可解な感情も思い出した。
あそこまで明確な好意を向けられたのは、後にも先にも、やはりカインだけだった。
彼のことは、嫌いではない。だが、好きだというわけではない。どちらにも、決して傾かない。
フィフィリアンヌはセイラの手に寄り掛かり、しばらく考え続けた。自分は彼を、どう思っているのかを。
だが、結局。日が暮れて夜になろうとも、結論が出てくることはなかった。




じわり、じわりと。溶けた雪が水となり、土に染み込むように。
呪いは記憶を侵食し、感情は心を侵食する。確実に、着実に、事態は進む。
どちらも抗うことは難しく、どちらからも目を逸らしてはいけない。

そして、どちらからも、逃げることは出来ないのである。






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