ギルディオスは、辟易していた。 草の汁と泥に汚れた甲冑の手を見つめていたが、どっかりと腰を下ろした。銀色は、色がくすんでしまっている。 ギルディオスのの傍らには、山と積まれた草があった。そして、家の周囲から転がしてきた石の山も出来ていた。 どれだけ片付けてもきりがない。それどころか、庭の整備をすればするほど雑務が増えていくような気がした。 顔を上げ、ちらりと右手へ振り返る。腐った縄の落ちた井戸は、既に涸れていて、中は枯れ葉で埋まっていた。 あれも掘り起こさないとな、と思いながら、ギルディオスは腰を上げた。少し休めば、体力は戻ってくる。 だが、一度潰えたやる気を取り戻すには手間が掛かる。立ったところで、すぐに行動に移すことは出来なかった。 昨日のうちに磨いた窓から、家の中を覗く。中では、作業台に様々な瓶を並べているフィフィリアンヌがいた。 薬の注文が来たとのことで、今朝からずっと作業をしている。何の薬が出来るのか、ギルディオスには解らない。 まるで片付けた形跡のない机の上には、ワイングラスに満ちた伯爵がいた。本人によれば、見守っているらしい。 ギルディオスは首へと手を当て、がきりと動かす。肩は凝っていないが、気分的なものだった。 「オレ、何してんだろ…」 摘み取った雑草の山を見、ギルディオスはひっそりと呟いた。まるで、小間使いのようだった。 いや、それならまだいい。目の前に立つ石造りの家の主に、金貨八百三十枚もの借金をしている身だ。 あまりの情けなさに、ギルディオスは少々自己嫌悪に陥ってしまった。だがすぐに、気を取り直す。 錆び付いたシャベルで雑草の山を持ち上げ、先程掘っておいた深い穴の中へ投じる。臨時のゴミ捨て場だ。 大きく開けたはずの穴は、既に三分の二程度が埋まっていた。それだけ、この家を取り囲む雑草が多かったのだ。 この作業を始めたのは、早朝のはずだった。なのに、昼を過ぎても半分も片付いてはいない状態だった。 フィフィリアンヌは雰囲気は神経質そうだが、その中身はずぼらなのだ。ギルディオスは、そう痛感した。 東の城下町へ伸びる細い道は、一昨日にギルディオスの墓を直しに赴いたあとは、一度も通っていない。 買い出しにもほとんど出ず、来客もない。そうした他人と接しない生活が、ずぼらに拍車を掛けたのかもしれない。 ギルディオスもそう几帳面な方ではないのだが、ここまでひどいのは初めてだったので、げんなりしていた。 それでも薪だけは用意してあるのは、冬が近付いているからだろう。この国の短い夏は、当に過ぎ去っている。 割られずに放置してある薪の山を見、ギルディオスはため息を吐いた。この分だと、斧も錆びているだろう。 「砥石がありゃいいんだけどな…」 独り言を呟きながら、ギルディオスは立ち上がった。ずるずると足を引きずるように、倉庫へ向かった。 高くがっしりした壁に備え付けられた木製の扉を開くと、蝶番が嫌な音を立てる。ギルディオスは肩を竦めた。 相当長い間、倉庫を開けていなかったのか、半地下の倉庫はかなり黴臭かった。おまけに湿気っぽい。 石の床に足を下ろすと、ぬるついた感触があった。ギルディオスは足を滑らせないようにしながら、奥へ進む。 開け放った扉から入る明かりだけでは、中の様子はよく解らなかった。壊れた実験器具が、辺りに転がっている。 その破片を踏んでしまったのか、ぱきり、とガラスの砕けた音が響いた。ギルディオスは、片足を挙げた。 足の下には、埃を被っている試験管の破片が、更に細かくなっていた。これを踏んでしまったらしい。 乱暴にそれを蹴飛ばしてから、ギルディオスは倉庫を進む。どこに何があるか、まるで見当が付かない。 歩いていくと、足に当たる床の感触が少し変わった。ぬるついたものから、じゃりっとした硬いものになる。 ほんの少し、明かりを感じた。天井の右の隅から、四角形の輪郭をした細い光が入り込んでいた。 その明かりの下には、頼りない梯子が付いている。あれは、家の中から倉庫へ降りるための入り口らしかった。 フィフィリアンヌの体格に合わせたように、小さな入口の周辺には、まるで掻き集めたように物が固められていた。 恐らくこれは、物を探す手間を省くためなのだろう。だが、この一角は、無秩序そのものだった。 足元の砂の正体は、積み重ねられた粉末鉱石の袋が破れ、そこからこぼれ落ちたものだった。色は青い。 ギルディオスは無意識に変な声を洩らしながら、その一帯へ足を踏み入れる。何があるか、解ったものではない。 「…こりゃカオスだな」 壁に立て掛けられた様々な道具を眺めていると、ようやく目当てのものを見つけることが出来た。 予想通り、斧の刃はすっかり錆び付いて赤茶けている。これでは、薪どころか何も切れそうになかった。 ギルディオスはうんざりしながら、その斧を手に取った。フィフィリアンヌが使うものなので、小型で軽かった。 「ないよりはマシか。で、砥石の野郎はどこだ?」 独り言を続けながら、しゃがみ込む。倉庫全体が薄暗い影に沈んでいるせいで、物の形がよく解らない。 石のような物体を手に取り、感触を確かめていく。生前よりは鈍いが触覚はあり、多少の違いは解った。 中腰になり、ひとしきり調べた。様々な物が押し込められた道具箱から砥石を見つけたが、やはり汚れていた。 埃を払ってから、肝心の水がないことに気付いた。この家の井戸は、土と枯れ葉に埋まってしまっているのだ。 ギルディオスは梯子の上に手を伸ばし、内側から四角く細い光の入る部分を叩いてみた。数回、殴り付ける。 すると、返答があった。不機嫌そうなフィフィリアンヌの声と共に、ぎいっと四角い扉が開けられる。 尖った耳元へこぼれた髪を乗せながら、彼女は嫌そうにギルディオスを見下ろした。逆光で、目の色が陰る。 「普通に声を掛けたらどうだ、ギルディオス。震動で薬剤の配合が変わってしまったら、どうしてくれるのだ」 「水場、あるか? 斧でも研ごうと思ったんだが」 「あるぞ。南西にしばらく歩けば川がある、そこで研げばいいだろう」 だがなんでそんなものを、とフィフィリアンヌは眉をしかめる。ギルディオスは、おおげさにため息を吐いた。 「お前がずぼらだからだよ。ちったあ手入れしろ、刃物ぐらい。鍛冶屋が泣くぜ」 「知ったことではない。それに、私には用のないものだ」 「使うったら使うんだよ。南西に行けば確実にあるんだな、川は」 「少しは私を信用しろ。それで、その斧を研いだらどうするつもりだ」 「決まってるだろ、薪を割っちまうんだよ。フィル、ほんっとお前って奴は生活に無頓着だな!」 「喰って寝れば生きていけるぞ」 淡々と言い返すフィフィリアンヌに、ギルディオスは顔を背けて首を振る。 「お前なぁー…」 「用事は済んだか。私は仕事に戻る」 身を引いたフィフィリアンヌは、ばたんと扉を閉めてしまった。埃が落ち、ギルディオスのヘルムに掛かる。 色鮮やかだった頭部の羽根飾りが少し汚れたので、彼はそれを払う。決して、良い気分ではない。 墓を直したあとにフィフィリアンヌがくれた、腰より少し上の長さの真新しい赤のマントも払い、斧を担いだ。 「…オレも仕事に戻るとしますか」 砥石を持ち、もう一度ため息を吐いてから、ギルディオスは黴臭い倉庫を後にした。 鬱蒼とした森に出、太陽を見上げて東西南北を確かめてから、川のある方向を目指すことにした。 南西に歩いていくと、森が開けてきた。空気から、僅かに湿度が減っていく。 歩くに連れて小さな水音も近付いてきていて、フィフィリアンヌの話は確かなものだということが解った。 まばらになった木々が途切れ、清らかな水の走る小川が現れた。反対側の上流には、数軒の民家も見える。 城下町とは、反対側にある街だった。ギルディオスは茂っている雑草を蹴散らしながら、進んでいく。 川の傍にやってくると、しゃがみ込んだ。砥石と斧を水へ付けてから、近くの平らな岩の上に砥石を据える。 力を込めて磨き出そうとしたが、その前に手を止めた。小川の対岸に、白い馬を休めている男がいた。 明らかに上流階級と解る服装に、育ちの良い白馬を連れている。だが階級章はなく、軍人ではなさそうだ。 人の良さそうな顔立ちをしたその青年も、ギルディオスに気付いた。振り向くと、腰元へ下げた剣へ手を当てる。 「待て、構えるな。オレは何もしない」 青年はレイピアを少し抜いたが、かちん、と元に戻した。だが、まだ訝しげにギルディオスを見据える。 ギルディオスは腰を上げて立ち上がると、背中に乗せているバスタードソードを指した。 「それに、お前の腕でオレに勝てるわけがない。そんなに腰が引けてちゃ、殺せる相手も殺せないぞ」 「…名を名乗れ」 茶色い髪の間から覗く青い瞳で、青年はギルディオスを睨んだ。ギルディオスは、腕を組む。 「ギルディオス・ヴァトラス。そういう兄ちゃんは」 「カイン。カイン・ストレイン」 「ああ、ストレイン家の三男坊か。通りで見たことあるツラだと思ったら」 記憶を探りながら、ギルディオスは呟く。彼が、昔に一度だけ王家に出向いたとき、列席していた貴族の一人だ。 カインの方も、どうやらギルディオスの名に覚えがあるようだった。しばらく考えてから、慎重に呟く。 「ヴァトラスというと…魔導師ヴァトラの筋の?」 「の、出来損ないの次男だよ」 「…ご自分でそれを言うんですか、あなたは」 「そうでも言わないと、兄ちゃんは完全に思い当たらないだろ?」 「ええ、まぁ」 妙に納得した顔で、カインは頷いた。ギルディオスは内心で、少し嫌になっていた。 この自己紹介の方法は、一番屈辱的なものだった。だが、この場合は仕方がなかったのだ。 ギルディオスは、そう無理矢理自分を納得させた。警戒心が解けたようで、カインは、ひょいと小川を飛び越える。 小走りにギルディオスへ近付いてくると、申し訳なさそうに笑った。成人して間もないらしく、表情が幼い。 「ごめんなさい。見慣れない方でしたから、つい構えてしまって」 「いや、別に。いきなりこんなのに出会って、警戒しない方がおかしいさ」 そう返してから、ギルディオスは草むらの中へ腰を下ろす。カインは、甲冑の肩越しにその手元を見下ろした。 「斧ですか?」 「ちょっとな。あんまり錆びてるんで、研ごうと思ってよ」 「はぁ…」 屈み込み、カインは膝を抱えるような格好になる。かしゃん、とレイピアの鞘の先が地面に当たった。 しばらく斧とギルディオスを見比べていたが、少し不可解げに整った眉を歪める。視線が、ヘルムで止まった。 カインは大人しげな目元を強め、まじまじとギルディオスを見つめていた。そして、弾かれるように後退った。 「嘘ぉ!?」 「これもちょっとあってな。この間、変な女に蘇らされたばっかりでよ」 オレもまだこの体に慣れてねぇんだ、と笑い、ギルディオスはヘルムを上げる。顔のない空間が現れる。 ヘルムの下にぽっかりと広がった暗闇を眺めて、カインはぽかんとしていた。態勢を直すと、また膝を抱えた。 「ああ、まぁ、そういう魔法もあるか…」 「らしいな。まぁ、オレはそういう理屈の固まりみたいなことは知らないから、なんとも言えねぇが」 「で、どんな感じなんです? その分だと、あなたは魂だけの状態ということになりますが」 「変な感じだよ。体はないのに、鎧を着ている感覚はある」 砥石に当てた斧を擦らせながら、ギルディオスは返す。カインは、はぁ、と洩らしてから呟き始めた。 「黒…いや、魂の蘇生と固定なら白寄り…ああでも、むしろ呪術か…いやだけど、そんな呪術は今まで…」 「どういう系統の魔法なのか、オレに聞くんじゃねぇぞ。聞くんだったらフィルに聞け」 「フィルという女性が、ギルディオスさんの魂を蘇らせたんですか?」 「フィフィリアンヌだ。女性ってより、ガキだな。だがありゃ、見た目通りの歳ってわけじゃなさそうだな」 話しながら、ギルディオスは刃を研いでいった。赤茶けていた表面が次第に削れ、刃が見えてくる。 汚れた砥石と斧を川に付け、綺麗にしてから、また研ぎ始めた。カインは腕を組み、なにやら唸っている。 それを横目に、ギルディオスは作業を続けた。刀剣類が好きなので、こういう刃物をいじるのは楽しかった。 何かを考えていた顔のカインは、ふと顔を上げた。いきなりギルディオスに振り向き、声を上げる。 「その人って、あの、魔女みたいな格好していたりしません?」 「魔女…っつーか、うん、まぁそうだな」 「この森にやっぱり住んでいたんだ、あの人は!」 「いや、人っていうかさ」 「良かった、僕の読みは外れていなかったんだ! 次に会ったときでいいですけど、案内してくれませんか?」 「どこに?」 「決まっています、そのフィフィリアンヌさんの所へ!」 「いやー…あいつにゃ会わないほうがいいと思うぞ、色んな意味で。ていうか、なんで会いたいんだ?」 ギルディオスの問いに、途端にカインは黙ってしまった。あらぬ方を見、気恥ずかしげな顔になる。 その反応だけで、カインがフィフィリアンヌに対して浅からぬ憧れを持っているのは、明確に解った。 確かに、顔だけ見ればフィフィリアンヌは可愛らしいかもしれない。だが、あのろくでもない性格だ。 ギルディオスはカインを止めてやりたかったが、一人で勝手に照れている彼を見ていると、その気が失せた。 この生真面目そうな青年というより少年の、淡い恋の行方が気になってきたのだ。ギルディオスは笑う。 「んじゃあ、また今度な。今日はオレも忙しい」 「あ、あの!」 「んあ?」 「そういうあなたは、フィフィリアンヌさんとどういう関わりが?」 おずおずと尋ねてきたカインに、ギルディオスは乾いた笑い声を発した。 「面白可笑しい関係さ」 「はぁ」 理解しかねる表情で答えたカインは、ギルディオスへ一礼してから対岸へ待たせてある馬へ駆けていった。 すぐにまたがると、少々ぎこちない操縦ながらも道へ走らせていった。ひづめの音が、次第に遠ざかる。 ギルディオスは研ぎかけの斧を砥石へ滑らせていたが、その手を止めた。カインの走り去った先を見つめる。 川の上流にある小さな町へ、ひづめの音は進んでいった。ギルディオスは、なんとなくその先を追っていった。 家並みの奧に一際目立つ大きな屋敷に、ギルディオスの視線が止まる。恐らく、あれがストレインの屋敷だろう。 城下周辺の貴族の邸宅ほどではないが、それでも大したものだ。高い屋根には、立派な飾りが載っていた。 ギルディオスは斧を動かしながら、その屋敷を眺めていた。そして、つい笑ってしまった。 「ろーくでもねぇ女に惚れたもんだなぁ」 森の奧の家に戻ったギルディオスは、早速報告をした。 ギルディオスは薪を砕きながら、カインという名の青年に会ったことと、彼との会話内容を主の少女に話した。 「ストレイン?」 フィフィリアンヌが反応したのは、名前ではなく家の名だった。石壁に填め込まれた窓枠に、腕ごとビンを載せた。 おうよ、とギルディオスは頷いた。彼の周囲に散らばる薪は、砕かれるように割られて山と積まれている。 足で薪の一つを立てたギルディオスは、研いだばかりの斧を振り下ろす。ばぎゃん、と木材は四つに砕けた。 割れた薪は、乱暴に蹴飛ばされた。西日によって頬を染められているフィフィリアンヌに、振り向いた。 「知っているのか?」 「その家系の総元締めがそろそろ寿命でな。延命の薬を、何度か売ったことがある」 大事そうに薬瓶を抱えたフィフィリアンヌの脇に、ワイングラスに入った伯爵が置かれていた。 窓枠へ前進し、にゅるりと触手のように体を細長く伸ばした。それを、すいっとギルディオスへ向ける。 「うむ。割と金払いのいい貴族であったと、我が輩は覚えているのであるぞ」 「んでーそのストレインの三男坊がさ、お前に会いたいらしいんだよ」 ギルディオスは斧を高々と振り上げ、薪を粉砕した。木が砕けた拍子に、破片が高く散る。 窓まで飛んできた細かい木片に、フィフィリアンヌは顔をしかめた。片手で、髪に付いた木片を払う。 「それがどうかしたのか」 「面識ないのか、もしかして」 「あるわけがない。私が会ったことがあるのは、ストレインの本家夫妻だけだ。貴様、なぜこんな話をするのだ?」 「いやな、カインがお前に惚れてるらしいんだ」 「訳が解らん。そもそも恋愛感情というものは、互いに面識があってこそ発生するものではないのか?」 「オレもそう思うぜ、フィル。たぶん、カインが一方的にフィルを見初めたんじゃないか?」 「実に勝手な話であるな。我が輩が思うに、その男、あまり女を見る目はないと見える」 にゅるん、と伸ばされた伯爵の体が揺らいだ。力を抜いたのか、たぽんとワイングラスに落ちる。 フィフィリアンヌは、横目にワイングラスに満ちているスライムを睨んだが、ギルディオスを見下ろした。 玄関の階段脇に、叩き割った薪を積み重ねていった。がしゃがしゃと手を擦り合わせ、埃を払っている。 フィフィリアンヌは薬液の詰まった瓶を抱えていたが、窓を半分下げた。ギルディオスへ背を向け、呟く。 「そろそろ中に戻れ。私の食事の後に、貴様にも与えねばならん」 「え? この体って、物が食えるのか?」 「馬鹿め、単なる比喩だ。私の腹が満ちねば、貴様に与えられる分の魔力も起きんからな」 少しガラスの曇っている窓を下げ、ぴしゃんと閉められた。フィフィリアンヌの足音が、室内に遠ざかっていった。 ギルディオスは若干の汚れが残る銀色の指先で、がりがりと頭部を掻いた。そして、苦笑する。 「言ってみただけじゃねぇか」 「はっはっはっはっは。あの女に冗談が通じると思う方が馬鹿なのだよ、ギルディオス」 窓の隙間から、伯爵がずるりとワイン色をはみださせる。だがすぐに、それは中へ引っ込んだ。 ぎいぎいぎい、と近くの木の上で鳥が喚き立てる。飛び立ったのか、ばさばさと羽ばたく音が聞こえてきた。 ギルディオスは徐々に暗くなる夜空を見上げながら、がしゃんと肩を落とした。無性に、空しくなってきた。 鳥が飛び立つ際に揺らしていった枝から、数枚の葉が落ちてくる。その一枚が、ヘルムの隙間を塞ぐように乗る。 茶色く乾いた葉を取り除き、それを手の中でぐしゃりと握り潰したギルディオスは、今日二度目の言葉を呟いた。 「…オレ、本当になーにしてんだろ」 記憶に蘇るのは、愛しい妻と息子の姿だった。自分が死んでから後のことは、当然ながら解らない。 戦場で知り合った同じく傭兵で重剣士の妻、メアリーのことが気掛かりで仕方なかった。 夫の欲目もあるが、彼女は美人だ。だから、死んでいる間に他の男が言い寄ってきても不思議ではない。 そう考えた途端、ギルディオスは凄まじく不安に駆られた。今すぐに、城下の自宅へ駆けていきたくなった。 息子にも会いたい。精霊魔導師の資格を手にして、張り切っていた姿をよく覚えている。死ぬ直前のことだ。 隔世遺伝なのか、息子のランスにはギルディオスの家系によく見られる、高威力の魔力が備わっていた。 死してから、五年も過ぎ去ってしまっている。ランスは、今年で十三歳になっているはずだ。 だが、今更会いにいったところで、妻子はどういう反応をするのだろう。怯えられるか、恐れられるか。 それとも、疎ましがられるか。悪い想像ばかりが、ギルディオスの魂を次々に駆け巡っていく。 どうしようもない不安と喪失感に襲われながら、重たくなった足取りで、割と大きい玄関の扉へ向かっていった。 今、彼が戻れる場所は、この中にしかないのだ。 咀嚼していたものをワインで流し込んでから、フィフィリアンヌは訝しげにギルディオスを眺めた。 暖炉の前に置かれたテーブルへ、項垂れた格好で突っ伏している。頭飾りが、でろりと太い首筋に絡んでいた。 フィフィリアンヌは、訳の解らないスープを食べていた。その皿の脇に置いた、伯爵のグラスへワインを流し込む。 「何を唐突に落ち込んでいるのだ、貴様は」 「うるせぇやい。どうせお前にゃ解らないだろうさ」 「我が輩は解りたくもないぞ」 注がれた赤ワインを体へ染み込ませ、伯爵は潤ったような声を出す。中身が、ほんの少し増えている。 チーズを囓っていたフィフィリアンヌは、項垂れたままのギルディオスへ目をやる。 「ギルディオス。それほどまでに、妻子が気になるのか?」 「決まってるだろ」 力なく呟いたギルディオスを一瞥し、フィフィリアンヌは空になった自分のワイングラスへワインを注ぎ込んだ。 並々と赤紫で満ちたグラスを小さな手で掴み、揺らしながら口元へ運ぶ。薄い唇の隙間から、鋭い牙が見えた。 それは、彼女が人ならざる者だという証のようなものだった。かちり、とその牙がグラスのフチへ当たる。 小さな唇に、すいっとワインが流し込まれる。その様子を見つめながら、ギルディオスは尋ねた。 「なぁ、フィル」 「なんだ」 「なんで、お前はオレを掘り起こしたんだ?」 俯せの姿勢のまま、ギルディオスは顔を上げた。テーブルの向こうに、暖炉を背にした少女が座っている。 あまり長さのない二本のツノが、傾げられた。背中の小さな翼を畳みながら、フィフィリアンヌは頬杖を付く。 片手でワイングラスを揺らしながら、目線をギルディオスから外した。赤い瞳が伏せられ、皿の中に向かった。 「これといった理由はない。貴様の墓場が目に付いた、それだけだ」 「だろうな。そんなことだろうと思ったよ」 体を起こしたギルディオスは、腕を組む。首を突き出し、フィフィリアンヌへ顔を寄せた。 やるせない気分もあって、フィフィリアンヌの言葉に苛立ってしまった。その感情のまま、声を上げる。 「そんなんで振り回されてるこっちは、たまったもんじゃねぇんだよ!」 「なぜ唐突に怒るのだ、貴様は。別に私は、振り回しているつもりはない」 「勝手に蘇らせやがったのはそっちだろうが、充分振り回してるじゃねぇか!」 「貴様が蘇ったのだ。私は魔導鉱石と魂へ術や力を施しはしたが、貴様自身の意思がなければ蘇ることはない」 「そう…なのか?」 「言ったはずだ。魂とは、固形化した残留思念だと。だから魂のみの状態でも、貴様に意思はあったのだ」 「覚えてないぜ」 「強烈かつ潜在的に願っていたのだろう。そして、蘇ったあとの一番の目的が」 空になったワイングラスをギルディオスへ突き付け、フィフィリアンヌは睨むように目元を強めた。 「妻子に会うことではないのか?」 ワイングラスと、その奧の赤い瞳にギルディオスの無機質な顔が映り込む。ランプに照らされ、ヘルムが光る。 明確だが曖昧だった死の直前の記憶を、手繰り寄せるように、ギルディオスは過去を思い出していった。 炎のような夕焼け空。腹を貫き、臓物を引き裂いた剣の冷たさ。だくだくと溢れていく、己の血の生温い温度。 「うげ」 傷の感覚まで思い出し、ギルディオスは腹を押さえた。なんとか気を取り直し、更に思い出していく。 死ぬ前の願い。それはやはり、フィフィリアンヌの言う通り、愛する妻子に再び会うことだ。 致命傷を受けたはずの腹部は修復されていて、傷は残っていなかった。つるりとした感触が、手に伝わる。 だがその中にあるのは、魂を込めた魔導鉱石一つだ。生前の、鍛え上げられた戦士の体ではない。 腹部に当てたガントレットに、ギルディオスは力を込めてみる。ぎしり、と金属が軋んだだけだった。 もし、この体が甲冑でなくて生身のものであったなら。きっと、躊躇わずに妻子の元へ行けたことだろう。 魂を蘇らせられるフィフィリアンヌなら、生身の体を作ることも出来るのではないか。ふと、そんな考えが過ぎった。 フィフィリアンヌは俯いているギルディオスを眺めていたが、またグラスにワインを注ぎ込んだ。 「生身の体を与えることは出来んぞ。私も万能というわけではない」 「お前、なんでオレの考えが」 「貴様の考えることなど予想が付く。貴様の魂が完全に魔導鉱石へ癒着するまで、あと十ヶ月程は掛かるぞ」 「金貨八十枚分の魔力となりゃ、それくらい掛かるだろうと思ってたよ」 「癒着が完了したら、まずは私へ金を返せ。それから」 「ああ。十ヶ月もありゃ、腹も決まるさ。オレも男だ、メアリーとランスに会いに行くか行かないかは、自分で決める」 「恐れられることを恐れずに、か。ふむ、なかなか格好の良いことであるな、ギルディオスよ」 ごとん、とワイングラスが動く。伯爵の入ったグラスへ、ギルディオスは顔を向けた。 「止せやい。オレはな、ここまで悩んでる自分が女々しくって嫌になっちまいそうなんだから」 「貴様も人間ということだな」 半分ほど飲んだワイングラスを置き、フィフィリアンヌは目を細める。狡猾な、少女らしからぬ表情だった。 上体を逸らして足を組んだギルディオスは、フィフィリアンヌの手元を見下ろした。皿の中は、混沌としている。 「それで、フィル。そのカオスみたいなスープは何なんだ?」 「味はする。喰えないこともないぞ」 「ちったぁまともな物を食えよ。そんなんだから、お前は胸がないんだな」 「簡単に決め付けるな。そもそも私の体形など、貴様には一切の関係もないことだ」 「フィルがいくつかは知らねぇが、まともに食った方がいいのは確かだぜ。頭使う仕事なんだろ?」 「体だけの仕事をしていた貴様に何が解る」 「体あってこその頭じゃないか」 優位に立てたせいか、いやに楽しげにギルディオスは笑う。フィフィリアンヌは、妙な色のスープを啜る。 ずりゅっとワイングラスから溢れ出た伯爵は、触角のように伸ばした先端をギルディオスへ向け、振った。 「ギルディオスよ、教えてやろう。フィフィリアンヌに一切期待してはならぬのは、愛想と生活能力、そして」 「料理の腕だろ」 可笑しげに言ったギルディオスへ、伯爵の先端が頷くように上下した。途端に、二人は笑い合った。 不機嫌そうに眉間をしかめていたが、フィフィリアンヌは二人を無視する。具の煮崩れたスープを、食べ続ける。 一見丁寧な物腰だが、伯爵は口が悪い。たった数滴分とはいえ、自分の血を与えてしまったせいだろうか。 そんなことを考えながら、フィフィリアンヌは乾いたパンを頬張る。目の前で笑っている甲冑が、がしゃがしゃ鳴る。 また、唐突に笑っている。落ち込んでいたと思ったら怒って、怒っていたと思ったら笑っている。 感情の起伏が少ないフィフィリアンヌにとって、上下の激しいギルディオスの感情は不思議でならなかった。 だが、嫌いではない。むしろ、見ていて面白い類の馬鹿だ。と、フィフィリアンヌは思いながら食事を続けた。 作る際に考え事をしながら味を調えてしまったせいか、スープの味は塩辛かった。 冷たい鎧に当てていた額を外し、フィフィリアンヌは身を引いた。ギルディオスは、己の胸に手を当てる。 生まれつき魔力を持っていなかったせいで、魔力に今だ慣れていない。魔導鉱石は、また熱を帯びている。 じわりとした熱が弱まり、体へ馴染んでいくのを感じながら、ギルディオスは実験器具の並ぶ作業台へ座った。 フィフィリアンヌはそれを咎めるような目をしたが、何も言わずに背を向けた。ローブの背に、長い髪が揺れる。 深緑の髪がきつく結われていることが、女性らしさに欠けたフィフィリアンヌの、唯一の女らしさのように見えた。 ギルディオスは、深い闇に沈んだ森へ目を向けた。窓には、ランプの明かりに照らされた自分が映り込んでいる。 机に広げてあった数冊の本を閉じ、フィフィリアンヌは一冊を腕に抱く。ふと、ギルディオスを見上げた。 「ギルディオス」 「なんだよいきなり」 「貴様、なぜいちいち私に世話を焼くのだ。貴様にとって私の生活など、それこそ何の関係もないことだ」 「オレも人の親だからな。なんか、フィルが娘みたいに思えてよ」 「私は貴様より年上だぞ」 「ああ、それはなんとなく解ってる。お前の外見のせいさ」 ガキだからな、とギルディオスは冗談めかして笑った。フィフィリアンヌは、苦々しげに呟く。 「好きで成長が止まったわけではない」 「だろうな。だが、これから当分お前と付き合わなきゃならない上に、借金を抱えてるんだ」 組んでいた腕を解き、ギルディオスは片手を挙げてひらひらさせた。 「それくらいしても、問題はないだろ?」 「好きにしろ」 これ以上付き合いたくない、といった様子で答えたフィフィリアンヌは、足早に階段を昇っていった。 小さな足音が天井の上を通っていったあと、二階から扉を開閉する音が聞こえてきた。寝室に入ったのだろう。 ギルディオスはランプの明かりを少し弱めながら、本の積まれた室内を見回した。以前は、居間だったらしい。 テーブルや暖炉にその名残はあるが、今となっては立派な研究室だ。年月を掛けて、すっかり改造されたようだ。 ギルディオスはテーブルに置かれたワイングラス、伯爵へ近付いた。薄暗いせいで、ワインレッドが濃く見える。 「なぁ、伯爵」 「なんだねギルディオス」 「オレはフィルに嫌われているのか、それとも好かれているのか?」 「我が輩の感覚に過ぎぬが、貴君はそれなりに好かれている方だと思うぞ」 「そうかい。なら良かった」 伯爵から身を引き、ギルディオスは階段を見上げた。家と同じく石で組まれていて、少し幅が狭い。 ランプの傍らに立つ自分の影が長く伸び、大きな鎧の影が出来ていた。腰に手を当てると、同じ動きをした。 たぽん、と伯爵が揺れる。薬液の棚からは、ビンの中から気泡が破裂する音が僅かに聞こえた。 ギルディオスはしばらく階段を見上げていたが、伯爵を見下ろす。 「少なくとも、十ヶ月は付き合う相手なんだ。せいぜい、仲良くしておきたいところなんでね」 混沌とした部屋に佇んでいた甲冑は、銀色の指先でランプの火を落とした。すると、部屋は深い闇に覆われた。 周囲のものにぶつかりながら、ギルディオスは床へと座った。寝床はないので、床に座っているしかない。 バスタードソードを傍らに置いて腕を組み、本棚に背を預けた。ごん、と後頭部が棚らしき場所にぶつかった。 暗がりの底で、彼は緩やかに眠りへと落ちていった。 重たい闇が全てを包む中、ハーフドラゴンとスライムと死者の奇妙な生活は幕を開ける。 石造りの家に住まう彼らの、調和も規律もない日々が、森の奧で始まった。 秋の初めの、ある日のことである。 04 10/11 |