「オレは戦争を起こしたくもあったんだが、それ以前に目的があったんだ。その計画は、こうさ」 グレイスの目が、フィフィリアンヌに合わせられた。フィフィリアンヌは、呪術師を睨み返す。 巫女の衣装でくるんだ金属板を、しっかり抱き締めていた。熱さの失せた魔導鉱石が、ずしりと重たい。 「まず、そこの人造魔物を竜王都に送り込んだ。人間の匂いが染み込んでいるから、竜族が警戒するのは当然だ。となると、荒事がお好きでない竜王は、外の者であるフィフィリアンヌを呼びつけるはずだ。実際、呼びつけたがな。そして、フィフィリアンヌは、可愛い顔してゲテモノ趣味だ。人造魔物を気に入らないはずがないし、背中の入れ墨を見て、同情もしちゃう。他人から優しくされたことのなかった人造魔物は、そんなふうに優しいフィフィリアンヌを好きにならないわけがない。だから、二人が仲良くなるのは当然だわな」 抑揚の付いた、感情のこもった声は続く。 「二人が仲良くなったところで、バロニス共を突っ込んだ。セイラの元の持ち主であり、ドラゴン・スレイヤーでもあるから、色々とやりやすかったこともあるんだがな。そいつらを適当にそそのかして、フィフィリアンヌに向かわせたらどうなると思う? 人造魔物、セイラは優しいから、迷わず盾になる。初めての友達を守るために、命を張る」 そして、とグレイスは一呼吸置いた。 「フィフィリアンヌにとっても、セイラは最初の友達だろ? だから、大事な友達を傷付けられて怒らないはずがない。オレは、その怒りが欲しかった。いつも澄ましてつんけんしてる女が、怒り狂って泣き喚く姿を、見たかったってのもあるが。だが、ちょいと事態が予想と違ってきたんだ」 「…オレか」 ギルディオスが、悔しげな声を絞り出した。這いつくばって、拳を握り締めている。 グレイスは、そうだとも、とやけに陽気になる。魔法陣の残る右手を、倒れている甲冑に差し出す。 「フィフィリアンヌの怒りも強かったんだが、あんたの怒りの方が突き抜けてたんだよな。標的変更、ってわけさ」 掠れた血文字が、グレイスの手のひらにあった。二重の円が、途切れている。 「ちょいと煽っただけで、面白いくらいに大炎上してくれるしな。オレとしても、その方がやりやすいしね」 グレイスの詭弁の理由は、たったこれだけだった。これだけのために、人間を、竜を、容易く殺した。 ギルディオスの胸の底には、魔導鉱石はない。だが、じりじりとした熱さが沸き起こってきた気がしていた。 しかし、怒りは起きてくれない。グレイスに根こそぎ吸い取られたせいで、感情が高ぶってくれなかった。 体に力が入らず、闘志が沸き起こらない。立ち上がらなければ、フィフィリアンヌを、大事な娘を守れない。 ぬるついた右手を、どごん、と地面に殴り付けた。土がこびりつき、乾いた血が多少剥がれた。 怒りと憎しみを糧にして、呪術師は笑っている。怒りが失せた今、力が生まれない今、胸中には絶望しかない。 ギルディオスは、泣きたくなってきた。グレイスの計画を壊そうとしていたはずなのに、結局は手駒に過ぎなかった。 馬鹿だ。自分は、どこまでも馬鹿だ。悔しくて、腹立たしくて、叫び声を上げたかったが大きな声は出なかった。 グレイスに、怒りと一緒に魔力まで吸われたらしい。意識は保っているが、今度こそ、体が動かせなかった。 足音と影が、頭上にやってきた。魔法陣の付いた血臭のする手が頭飾りを引っ張り、くいっと上げさせた。 すぐ目の前に、グレイスがしゃがみ込んでいた。上機嫌な顔をして、ギルディオスを見下ろしている。 「てなわけだからさ。魔導鉱石を頂くのは、諦めてやるよ」 「ありがてぇ話だな」 疲れ果てた声が、甲冑から洩れる。ギルディオスは目を逸らしたかったが、出来なかった。 「その代わり、戦い続けてくれよ。怒って怒って、誰かを憎め。オレはそれを、残さず奪ってやるからさ」 「変態の言うことなんざ、誰が聞くかよ」 「それがなぁ、聞かざるを得ないのさ。あんたと、あんたの周囲を守るためにもな」 グレイスは、ギルディオスの目の前に顔を寄せた。 「一週間後、帝国にあんたの手配書をばらまいてやる。バロニス一行を殺した、荒くれ剣士として紹介してやるよ。そしたら、どうなると思う? 賞金稼ぎが、王国にごろごろやってくるぞ。あんたの魂を打ち砕きに、あんたを殺して賞金を得るために。賞金稼ぎ共は、手段を選ぶかな? 選ばねぇだろうなぁ、きっと」 灰色の目が、大きく見開かれる。 「ギルディオス・ヴァトラス。王国には、愛しい妻と大事な息子がいるんだろ? 戦わないと、殺されちまうぞー?」 「…てめぇは、そんなに、オレが嫌いか」 「嬉しいねぇ、そこまで嫌ってもらえるとは。だが、オレはちょっと違うんだ」 気恥ずかしげに、グレイスは頬を掻いた。照れ笑いしている。 「オレは、あんたが好きなんだ。フィフィリアンヌもゲルシュタインも好きだが、あんたはもっと好きなんだ」 グレイスの言葉を、セイラはぼんやりした意識で聞いていた。この声には、聞き覚えがあった。 フィフィリアンヌが施してくれた回復魔法のおかげで、血は足りていなかったが、痛みは失せてくれていた。 回転の鈍い頭を巡らせ、グレイスの言葉を飲み込む。あの男は、好きだから、好きな相手を痛め付ける。 それが信じられず、恐ろしかった。セイラは首を傾け、自分の腕に縋る少女へ金色の単眼を向けた。 彼女は翼に矢が刺さっていたが、傷だらけだったが、生きている。安心と同時に、嬉しさが込み上げてきた。 だからこそ、グレイスが許せなくなってきた。好きなら好きで、どうして大事に思うことが出来ないのか。 セイラは関節に力を込め、痛む腹を気にしながら、上体を起こした。塞がったばかりの傷が、びっと引きつる。 「セイラ、動いてはいかん!」 突然のことに、フィフィリアンヌは動転して声を上げた。赤紫の巨体が、ゆっくりと起き上がっていく。 セイラは口の両端を上向け、牙を覗かせて笑ってみせた。少女は、泣き濡れた顔をしている。 綺麗だった衣装は乱れて破け、赤黒く汚れている。セイラは動きの鈍い指先を伸ばし、白い頬を拭った。 「セイラ、平気」 そうは言ったものの、手足を動かすと傷口が痛んだ。焼けた腹も治りきっていないし、貧血気味でもある。 だが、また倒れるわけにはいかなかった。大事な彼女や彼らを、守るためには立たなくてはならない。 セイラは膝を曲げて、中腰に立った。あの屈強な彼が、力強いギルディオスが倒れてしまっている。 その頭上には、あの男がいた。数週間前、自分をバロニス一行から解放し、竜王都に逃がしたあの男だ。 いい人間でないことは、最初から察していた。だが、ここまであくどいとは、予想だにしていなかった。 セイラは、灰色の男に向き直った。少しも血に汚れていないグレイスが、この場所では場違いのように見えた。 「…グレイス」 「お、起きたか。さすがはドラゴンの血を持つ人造魔物、逞しいねぇ」 「オ前、ギリィ、フィリィ、ゲリィ、好キ。ナラ、ナゼ、痛ク、サセル?」 「好きだからに決まってんだろ。好きだから、ひどい目に遭わせるんだ。好きだから、苦しむ姿を見たいんだ」 「解ラ、ナイ。セイラ、オ前、嫌イ!」 金色の単眼が、強められた。セイラはグレイスを睨みながら、身を乗り出す。 どん、とギルディオスのすぐ脇に手を付いた。動じずにいるグレイスへ、声を荒げた。 「離レロ! ギリィ、触ルナ!」 「おいおい、薄情だなぁ。バロニス共から、助けてやった恩を忘れたのか?」 「助ケタ、違ウ! オ前、セイラ、手駒、シタ!」 「そう怒るなよ。あんまりオレに突っ掛かると、可愛いレベッカちゃんが」 グレイスは立ち上がり、単眼を見上げる。セイラの目の前に、するりと小さな影が滑り込んできた。 幼女は背中の翼を広げて、両手の爪を突き出した。レベッカは浮かびながら、うふふ、と小さく笑みを零した。 「喉を潰して、歌えなくさせちゃいますよぉー?」 「帰レ。グレイス、二度ト、来ルナ!」 セイラは背筋を伸ばし、声を強く上げた。ばん、と腰の赤い翼を張り詰めさせ、長い尾を振り下ろす。 軽い震動が地面に起こったあと、空気が震えた。満月に向かって、異形の魔物は威嚇のために咆哮した。 音楽のようなセイラの咆哮を、グレイスは楽しんだ。竜族とはまた違った響きが、セイラの鳴き声にはあった。 フィフィリアンヌは、戦う姿勢のセイラに縋った。グレイスの脇に出、大きな腕を抱き締める。 「やめろセイラ、戦うな! お願いだ、動かないでくれ!」 咆哮が、唐突に詰まった。がぼっ、と水音がした途端に、セイラは何度も咳き込んで背を曲げる。 フィフィリアンヌはセイラの腕に体を押し当て、何度も首を横に振る。セイラは、荒い息を繰り返している。 セイラは苦しげな息を整えて、また顔を上げた。だが、咆哮は出ず、苦しげな咳ばかりが吐き出された。 フィフィリアンヌは、涙が出てきた。傷が痛いこともあるが、セイラの優しさが、嬉しくて辛かった。 「…お願いだ。良い子だから」 ふと、レベッカは西の塔を見上げた。グレイスはそちらを見ずに、フィフィリアンヌを眺めている。 レベッカが翼を広げ、グレイスの頭上に浮かび上がった。直後、激しい閃光が空中を走り、幼女を直撃した。 一瞬遅れて、鋭い爆音が響いた。幼女の衣服が焼けているらしく、焦げ臭さと煙が漂い始めた。 煙が消え失せ、レベッカの姿が確認出来るようになった。メイド服に焦げは出来ているが、本人は無傷だった。 ギルディオスは、雷撃を放った者を探した。フィフィリアンヌが西の塔を見上げているので、それに倣う。 塔の窓からはみ出た新緑のマントが、強い風に乱されている。長い緑髪がなびき、女の影を大きくさせていた。 「聞こえなかった?」 右手を曲げ、ぱちり、と電流を爆ぜさせた。アンジェリーナは、良く通る声を発した。 「帰りなさい、グレイス・ルー。次はその石人形ごと、吹っ飛ばして差し上げるわ」 アンジェリーナは窓枠を乗り越え、壁を軽く蹴り上げた。とん、と空中に躍り出、翼を大きく広げた。 ほとんど羽ばたかずに、真っ直ぐにフィフィリアンヌに向かってきた。遮ろうとしたレベッカを、蹴り落とす。 レベッカは姿勢を戻そうとしたが、雷撃が残っていたせいで反応が遅れた。背中から、どん、と地面に落ちた。 「きゃん!」 「セイラが言ったでしょ。さっさと帰らないとひどいわよ、このド変態」 フィフィリアンヌの前に舞い降り、アンジェリーナはグレイスを見据える。右手を突き出し、声を低くした。 「言っておきますけどね、あんたが考えてるほど、竜族も人間も馬鹿じゃないわ。一族を皆殺しにされたらまだしも、同族を一人二人殺されただけで、戦争なんてなるわけがないじゃない」 けどね、と、アンジェリーナは絶叫する。 「それとこれとは別よ! 私の娘を泣かせて傷付けたあんたを、私は、未来永劫許さない!」 それが、合図であったかのように、兵士達が駆け出した。アンジェリーナを中心に、グレイスを取り囲む。 兵士の人垣が、あっという間に出来上がった。ギルディオスは地面から、竜王軍の足元を見上げた。 槍を構えた兵士達は、皆、表情を強張らせている。竜王の隣を守っている将軍は驚いていたが、止めなかった。 無数の槍の穂先を、グレイスはぐるりと見回した。背中をさすりながら、レベッカが起き上がる。 「御主人様ー、痛いですぅー」 「レベッカ。この数、相手出来るか?」 グレイスが尋ねると、レベッカはふるふると首を振った。不満げに、むくれる。 「アンジェリーナの雷撃で、魔力が七割も吹っ飛んじゃいましたー。満量なら出来るけど、今は無理ですー」 「ま、そろそろ逃げ時だったし、丁度良いか」 レベッカを抱き上げて肩に乗せ、グレイスは片足を曲げた。足元に、ぐるりと二重の円を描く。 つま先で、簡単な魔法陣が描かれていった。兵士達は動こうとしたが、アンジェリーナが彼らを制止した。 ギルディオスの頭上で、とん、とつま先が止まった。グレイスはギルディオスへ、手を振ってみせる。 「じゃあな、ギルディオス・ヴァトラス。また会おうぜ」 その魔法陣から、弱い風が起こった。ふわりとグレイスを巡り、灰色の影を薄らがせていった。 風が吹き抜けると同時に、グレイスは姿を消した。魔法陣はでろりと解けて土に馴染み、消えてしまった。 竜王軍は、どよめいた。探せぇ、と誰かの声が上がったが、アンジェリーナは首を横に振る。 「無駄よ。大分長距離を移動したみたいだから、近くにはいないわね。深追いしちゃダメよ」 「しかし、アンジェリーナ様!」 兵士の一人がアンジェリーナに迫るとアンジェリーナは、押さえなさい、と声を静めた。 「深追いしてあなた達までやられたら、それこそ奴の思う壺よ。人間共を殺した竜として、帝国に売られちゃうわ」 セイラに寄り掛かるフィフィリアンヌは、目を閉じていた。グレイスがいなくなったことで、気が抜けたらしい。 アンジェリーナは娘に触れようとしたが、手を下げた。するとセイラが、少女ごと腕を差し出した。 「アンジェ、フィリィ、オ願イ」 「頼まれちゃ、仕方ないわね」 アンジェリーナは内心でセイラに感謝しつつ、言い訳した。フィフィリアンヌは、気を失っているようだ。 小さな肩を抱えて、傷に触れないようにしながら抱き締めた。七十数年ぶりに抱いた娘は、大きくなっていた。 頼りない腕には血が滴り、翼は貫かれている。アンジェリーナはフィフィリアンヌの髪に、頬を寄せた。 「早く、医者を呼ばないとね。この子とセイラ、どっちも治してあげないと」 母親に抱かれたフィフィリアンヌは、安らいでいるように見えた。セイラは、なんとなく嬉しくなる。 足から力が抜け、頭がふらついた。緊張がほどけたセイラは、ぐらりと傾き、俯せに倒れ込んでしまった。 慌てて避けた兵士達は、医者だぁ、と口々に叫んだ。喧噪が頭上を飛び交い、兵士や民衆が駆け回っている。 仲間の死体を呆然と見つめている聖職者は、座り込んでいたが、数人の兵士に立たされて連行されていった。 焦点の定まらない目をして、竜王城へ引き摺られていく。何があったのか、理解し切れていないようだった アンジェリーナはしゃがみ込み、フィフィリアンヌを腕に乗せた。髪を撫で、頬の汚れを拭ってやる。 フィフィリアンヌの腕が緩み、ごとん、と何かが落ちた。銀色の楕円がごろりと転がり、甲冑にぶつかった。 頭部にやってきた衝撃と、魂が近付いた感覚に、ギルディオスは意識を戻した。周りが、やけに騒がしい。 ギルディオスは金属板を取ってから、体を起こした。娘を抱えたアンジェリーナが、座っていた。 「アンジェリーナ。フィル、無事か?」 「なんとかね。深い傷は翼と肩だけみたいだし、何日かすれば良くなるわ」 愛おしげに、アンジェリーナは娘を見つめた。涙に濡れた目元を、そっと拭ってやる。 「強がって、無茶しちゃって。変な部分だけ、あの人に似ちゃったのねぇ」 ギルディオスは、何も言ってはいけない気がした。なので、黙っていることにした。 自分の手に戻ってきた魔導鉱石は、失ったはずの魔力が戻っていた。フィフィリアンヌが、入れてくれたらしい。 意識も明確になっているし、怒りを吸われた際に抜けた感情も戻っている。大方、このせいで気絶したのだろう。 ただでさえ体力が落ちて、魔力も安定していないはずなのに。やはり優しいのだな、とギルディオスは思った。 ギルディオスは、何気なく夜空を見上げた。周囲は、祭りが再開されたかのような騒ぎになっている。 満月は夜空の中心に浮かんでいて、青白く輝いていた。竜女神に、何もかも見下ろされていたような気がした。 グレイスの言った手配書のことは、気掛かりといえば気掛かりだ。だが、今から不安になっても仕方がない。 その時はその時だ。と、ギルディオスは内心で思い、夜空を横切る星の運河を見つめた。 竜神祭の夜は、着実に更けていた。 東側の山脈が、朝日に白んでいた。 ギルディオスは、腹の中が心配だった。千切れたベルトを直して金属板を填めたが、応急手当に過ぎない。 ぴったり填っていないらしく、甲冑の内側にぶつかっていた。小さい衝撃だが、多少気になってしまう。 完全とは行かないまでも、右手に付いた血や返り血は水で洗い流してある。汚れが落ちて、清々しかった。 竜王城の門をくぐると、守衛の兵士が軽く頭を下げてきてくれた。ギルディオスも、頭を下げ返す。 兵士の脇を通り過ぎ、橋へ向かっていった。フィフィリアンヌのために戦ったおかげで、竜族達の態度が緩んだ。 セイラも同様で、危険な存在ではない、と認知された。アンジェリーナの計らいもあり、手厚い看護を受けていた。 襲撃をされたことは決して良いことではないが、その結果は悪いわけではない。少々、不思議な気がしていた。 ギルディオスは軽い足取りで、橋の手前まで歩いていった。欄干に、ぽつんとフラスコが置いてある。 「よぉ、伯爵」 「遅いのである、ギルディオス。朝が来てしまったではないか」 結露の浮いたフラスコが、ごとん、と前進した。冷え切っているのか、伯爵の動きは鈍い。 「フィフィリアンヌとセイラは、竜王城の中であるか?」 「おうよ。フィルもセイラも寝てるけど、まぁ大丈夫だって医者が言ってたぜ」 欄干に背を預け、ギルディオスは伯爵の隣に立った。ようやく落ち着いたので、深く息を吐く。 「なんとも騒がしい夜だったぜ。グレイスの野郎が絡んでくると、面倒なことばっかり起きやがる」 「それが奴の趣味なのである。付き合わされる我が輩達は、堪ったものではないが」 「全くだよ」 軽く肩を竦め、ギルディオスは苦笑した。グレイスの告白を思い出し、背筋がぞわりとした。 「おまけに、あの変態に好きだって言われちゃうしよー…。オレ、男色の気はねぇんだけどなぁ」 「グレイスにはあるのである」 「うげ。マジに変態だな。でもよ、あいつはレベッカとかフィルみてぇなのが好きなんじゃねぇの?」 「なんでも、女は小さい方が、男は大きい方がいいのだそうだ。我が輩には欠片も解らぬ嗜好である」 「オレも解んねぇ。ていうか解りたくねぇ!」 嫌悪感に任せ、ギルディオスは声を上げた。朝靄の漂い始めた湖畔に、悲劇的な叫びが響く。 がっくりと肩を落としながら、生身でなくて良かった、と少し安心した。死んでいたことに、初めて感謝した。 早く王国に帰りたいような気もしたが、帰りたくないような気もした。帰れば、再びグレイスに近付いてしまう。 家族を取るか貞操を取るか、本気で悩んでしまう自分が嫌になった。ギルディオスは、力なく洩らす。 「…オレって不幸」 「はっはっはっはっはっはっはっは。今更気付いたのであるか、ニワトリ頭よ」 可笑しげに、伯爵は笑う。うん、とギルディオスは小さく頷いた。 「考えてみたらよ、死んだ後の方がろくでもねぇな。普通さ、死人てのは安らかに眠るもんじゃねぇの?」 「フィフィリアンヌと出会った時点で、普通を求めてはいけないことを忘れたのであるか?」 「忘れちゃいねぇけどさ。あーもう、泣きてぇー」 欄干に両腕を乗せて、ずるりとへたり込んだ。弱く差し込んできた朝日が、橋に届き、甲冑を照らし出した。 ギルディオスは温かさと眩しさを感じながら、足元に出来た薄い影を見下ろした。頭飾りが、トサカのようだ。 二人が黙ると、竜王城から人の気配が感じられた。それぞれに作業をする、兵士達の会話も聞こえてきていた。 バロニスらとの戦いの名残は、片付けられつつあった。彼らの死体も撤去され、血溜まりにも土が掛けられた。 彼らの死体がどうなるのか、ギルディオスは少し気になった。四つの死体は墓に埋葬されるのか、されないのか。 だがそれは、今となってはどうでもいいことだ。侵略者の死体など、丁重に葬られた試しがないのだ。 きっと、墓場の隅に埋められるだけだろう。そしていつしか忘れ去られ、竜族の歴史の一端にもならない。 人間など、冒険者などそんなものだ。余程の名声を上げない限り、道中で果ててしまえばそれまでの存在なのだ。 去年の秋まで、ギルディオス自身もそうだった。戦争で命を落とし、墓に埋められ、未練を残して死に絶えた。 それを、恐らくは偶然だろうが、彼女が掘り起こしてくれた。死した魂に力を与え、鋼の体に埋め込んでくれた。 結果として、念願であった妻子との再会も果たせたし、フィフィリアンヌと伯爵との日々も割と楽しい。 フィフィリアンヌには、感謝している。借金を負わされたが、それでも、自由に動く体を持てたことは嬉しい。 彼女が目覚めたら、何をしてやろうか。逆に、起き覚めに怒られ、文句を言われてしまうかもしれない。 ギルディオスは、アンジェリーナに抱かれていた彼女の姿を思い起こした。これから先が、楽しみになってきた。 「フィルの奴、アンジェリーナに抱かれたのを覚えてりゃいいんだけどなぁ」 「そんなことがあったのかね?」 「ん、まぁな。セイラが気を遣って、アンジェリーナに渡してやったのさ。フィルは気絶してたけどな」 ギルディオスの話に伯爵は、ふむ、と考えるような声を出した。粘着質が、少し歪む。 「覚えているかもしれないし、覚えておらんかもしれんな。だが、なんにせよ、二人の問題である」 「オレらが口を挟めるわけもねぇよな、ああいうの」 「アンジェリーナもフィフィリアンヌも、どちらも親と子であると思っているはずなのであるが…いやはや」 多少呆れたように、伯爵は体を捻った。ぐにゅり、と冷えたスライムがよじれる。 ギルディオスは頭飾りを背に払ってから、頭の後ろで手を組んだ。朝焼けてきた空を仰ぐ。 「どっちもどっち、意地っ張りみてぇだしなぁ。似なくていいとこだけ似てんだよなぁ、あの親子は」 「時間はいくらでもある。我が輩達は、二人を静観するしかないのである」 「だぁな」 足も組んで、ギルディオスは欄干に体重を預けた。マント越しに、石の冷たさが染みてくる。 空気は未だに冷たく、夜の匂いを残している。完全な朝を迎えるまで、もうしばらくありそうだった。 どこからともなく、ぎぃぎぃぎぃ、と鳥の鳴き声がした。聞きようによっては、ワイバーンの声にも聞こえる。 ワイバーンかもしれないな、とギルディオスはちらりと思った。竜の棲む都に、いてもおかしくはない。 ぬるぬるとフラスコを這い上がってきた伯爵は、ぽん、とコルク栓を押し抜いた。栓を持ち上げ、彼へ向ける。 「時にギルディオスよ」 「んだよ」 「貴君はフィフィリアンヌを娘と見ていたわけであったが、あの女は貴君をどう思っているのであるか?」 「オレに聞くなよ。フィルに聞け」 「それでは、我が輩は貴君にとっての何であるか?」 「いきなり変なこと聞くなぁ、らしくねぇぞ」 と、ギルディオスは訝しげな声を出した。背を曲げて、ずいっとスライムにヘルムを近付ける。 至近距離に迫った銀色が、ぎらりと照った。その眩しさと距離の無さに、伯爵はゆらりと栓を遠ざける。 「いいではないか! 我が輩も気になったのだ、それだけである!」 「嘘でぇー、それだけじゃねぇだろ」 「嘘ではない!」 「ムキになるなよ。まぁあれだろ、寂しかったんだろ?」 にやりとした声を出し、ギルディオスは顎に手を添える。内心を言い当てられ、伯爵はびくりと震えた。 「根拠のない妄想を言うでない、そんなわけが、わけがあるものか」 「まぁオレだって、夜中から朝まで放置されてたら寂しいしよ。気持ちは解るぜー、うん」 「ニワトリ頭になど、同情されたくないのである」 拗ねた声で言い、伯爵はコルク栓を逸らした。するすると体を縮め、フラスコに戻っていった。 ぎゅっ、とガラスの口が塞がれる。ごぼごぼと小さく気泡を吐き出しながら、赤紫は僅かに震えていた。 ギルディオスは彼の本心を察し、笑った。スライムの入ったフラスコを掴み取り、竜王城へと歩いていく。 「そう意地を張るなよ。オレもお前とだけじゃ暇なんでね、フィルとセイラでも見舞いに行こうや」 「こら、我が輩を振り回すでない!」 ギルディオスが大股に歩くので、上下が激しかった。腕が振られると、その勢いで伯爵は揺れてしまう。 剥がれたと思えば、すぐにぶつかり、べちょりと軟体が歪んだ。元々形のないスライムだが、崩れそうになる。 普段の定位置である腰のベルトが、なんと平穏であったことか。伯爵は、準備の悪い甲冑を恨んだ。 ギルディオスは伯爵を大きく振り回しながら、意気揚々と歩いていった。ついさっきくぐった門を、逆にくぐる。 竜王城の正面へ繋がっている広大な広場を、小走りに進む。するとその先に、白い影が待っていた。 長く広い階段を挟んでいる巨大な柱から、彼は背を外した。エドワードは片手を挙げて、二人に振ってみせる。 ギルディオスは彼に気付き、駆け寄った。散々揺さぶられたせいで、伯爵は一言も発しなかった。 「どうした、エド」 「セイラの意識が戻ったので、報告にと思ってね」 嬉しそうに、エドワードは表情を緩ませた。ギルディオスのガントレットを取り、引く。 「フィフィリアンヌはまだ眠ってはいるが、今日中には起きるさ。さあ、セイラがあなた方に会いたがっている」 「セイラの傷は?」 エドワードの手を振り解いて、ギルディオスは階段を昇る彼を見上げた。白いマントが広がり、振り返る。 追って昇ってきたギルディオスを見下ろし、エドワードは笑う。朝日が、銀髪を煌めかせている。 「見た目は凄かったんだが、そんなに深くはなかったんだ。表皮が裂けていただけで、筋は無事だったんだ」 「そうか」 エドワードの報告に、ギルディオスは安堵した。早く、とエドワードは足早になって先を進んでいく。 白竜の青年の背を、ギルディオスは慌てて追いかけた。竜王城の巨大な扉は、両方とも開ききられている。 入ってすぐの大広間には、竜女神の黄金像が運び込まれていた。天へ手を伸ばし、優しく微笑む女神がいた。 ギルディオスは、しばらくそれに見入ってしまった。これだけ近付いて見たのは、初めてだった。 豊かな髪は肩から背に流れ、大きな翼に絡んでいる。優しさの中に、竜族特有の力強さが混じっていた。 よく見ると、細められている瞳には、赤い魔導鉱石が填め込まれている。上等の石らしく、澄み切った赤だ。 ギルディオスがぼんやりしていると、エドワードが駆け戻ってきた。早く、と苛立ち気味に急かした。 エドワードに生返事をしてから、ギルディオスは彼を追いかけた。天井の高い回廊には、兵士がまばらにいる。 長い回廊を走っていると、どこからか歌声が聞こえた。竜女神を称える、清らかに澄んでいるセイラの声だ。 フィフィリアンヌに聞かせているつもりなのか、一段と声が優しかった。彼が、彼女を愛している証だ。 しばらく走ると、エドワードが立ち止まった。王宮から大分離れた、大きな部屋の扉を指した。 「ここに」 ギルディオスは扉を叩き、応答がしたあとに扉を開けた。中庭に面した広間で、セイラは歌っていた。 巨体の足元に立っていた医者は、ギルディオスらに気付き、顔を向けた。どうぞ、と手で中を示す。 ギルディオスはそれに従って、部屋に入った。エドワードも続いて入り、扉を閉めた。 セイラは竜女神を称える歌を最後まで歌いきってから、声を止め、ギルディオスを見下ろした。 「ギリィ」 「セイラ、大丈夫か?」 ギルディオスは異形に近付き、見上げた。入れ墨を消したときよりも、遥かに多い包帯が巻かれている。 手足を始め、胴体や尾まで白い布で覆われていた。セイラは、布を巻かれた太い尾を振ってみせる。 「結構、平気。薬、効イテル。ダカラ、痛ク、ナイ」 セイラは、じっとギルディオスを見つめた。金色の単眼の、瞳孔が丸まる。 「ギリィ。ドウシテ、戦ウ?」 セイラの問いに、ギルディオスは唸った。伯爵を持ったまま、腕を組む。 「そうだなぁ…。一番の理由は金のためだが、今回に限っては、フィルのためかな」 「好キ、ダカラ?」 「まぁ、うん、そういうこった」 「セイラ、ギリィ、同ジ」 満足そうに、セイラは目を細めた。傷が痛むのか、ぎこちない動きで上体を回して窓の方へ向いた。 大きな窓は、中庭に面していた。あまり広さのない庭の向こうには、こちらと同じように部屋の窓があった。 ギルディオスは、セイラの視線の先を辿っていった。向かい側の部屋、小さな窓の奧にアンジェリーナがいた。 恐らく、あちらがフィフィリアンヌの病室なのだろう。アンジェリーナはこちらには気付かず、目線を落としている。 セイラは窓と壁越しに、彼女を見ていた。好いて止まない、愛すべき竜の少女の姿を思い浮かべた。 中庭に、朝日が差していた。朝露に濡れた草花が、きらきらと光っている。 セイラは、東から青くなり始めた空を見上げ、嬉しそうに笑った。 「フィリィ、好キ。ダカラ、歌ウ」 夜が明け、朝となり。祭りは終わり、日々が戻る。 人と竜の戦いも、人知れず始まり、人知れず終わる。夜明けと共に、闇へと沈む。 人の正義と竜の正義は、逆に見えるが同じであり、近く見えるが遠いもの。 彼らの愛も、また同じ。親としてのものも、友としてのものも、歪み切ったものも。 いずれも紛いのない、愛情なのである。 05 3/31 |