フィフィリアンヌは、窓の外を見上げていた。 少女の横たわるベッドの傍で、黒竜族の医者は診断書をめくっていた。書き込まれた紙が、何枚も重なっている。 その一枚を広げて、医者は手を止めた。フィフィリアンヌと診断書を見比べてから、淡々とした調子で言う。 「左下腹部から右胸部下に掛けての創傷、右肩の裂傷、左翼には矢の貫通が二カ所。手酷くやられたな」 「言われずとも解っている。自分の体だ」 抗弁するフィフィリアンヌに、医者はやりにくそうな顔をしたが説明を続ける。 「君は割に運がいいみたいで、骨にはあまり傷はなかった。胸部の切り傷は、あの盗賊の踏み込みが浅かったか、力が足りなかったかで内臓に届いていなかった。だが、右胸部下の肋骨だけは少し刃が掠っていたようで、僅かながら欠けている。だがどれも、数日安静にすれば確実に回復する。骨も再生する。問題は、出血量ぐらいだな」 「ならば、増血剤を寄越せ。鎮痛剤はいらんから、栄養剤とそれを処方してくれればいい」 「患者が医者に指図しないでくれ。いらんと言われても、鎮痛剤は処方するぞ。骨の再生時に痛みがあるからな」 太い眉をしかめ、黒竜族の医者は診断書をもう一枚めくった。墨のように真っ黒い髪を、浅黒い指で掻く。 全体的に色素が濃く、瞳の色も若干暗めだ。長身というわけではないが小柄でもなく、中程の体格をしている。 若年時の外見を維持することの多い竜族にしては珍しく、外見は四十代程だった。趣味だ、と以前言っていた。 診断書を下ろし、医者はベッドの端に腰掛けた。包帯まみれのフィフィリアンヌに、親しげに笑う。 「フィフィリアンヌ。君との付き合いも割と長いが、初めてじゃないかな、君を診たのは」 「私は医者と取引はあるが、縁はないからな」 窓から目線を外さずに、フィフィリアンヌは返した。医者、ファイド・ドラグリクは苦笑する。 「君の場合、大抵の病気は自分でなんとか出来てしまうからなぁ」 「ファイド。それで、数日とはどれくらいなのだ」 「早くて四日、遅くて六日、ってとこだな。だが君は体力がないから、六日は掛かる。全治は七日かな」 体重も身長も筋肉も脂肪もないし、とファイドは彼女を指した。掛け布団の膨らみは、あまり高くない。 フィフィリアンヌはファイドの言い回しが少し癪に障ったが、寝起きで頭が回らなかったので言い返せなかった。 首を動かし、白衣の下に翼を隠した背を見上げる。診断書をべらべらとめくっている、ファイドに言った。 「起き上がるのには?」 「二日は掛かるね。今日起き上がると、治り途中の左翼が引きつって痛いから起きちゃならんぞ」 「セイラはどうしている」 「セイラはね。左右上腕と右下腹部、両腿の外と左脛の内側、尾の右下に掛けての創傷がちょっとひどかったが、どれも表皮だけだ。右下腹部はぎりぎりな具合だったが、どれも治る傷だ。彼、といえばいいのかな、彼の場合は、君よりも体力があるから、大体三日で傷は塞がる。が、体力が完全に戻るまでは、更に二三日は掛かるから、完治時期は君と大体同じだよ。二人とも一週間ってところだな」 ゆっくり休みたまえよ、とファイドは診断書を振ってみせる。すると、病室の扉が、何度か乱暴に叩かれた。 ファイドが返事をすると、扉が押し開かれる。薄暗い廊下から、大きなカバンを担いだ大柄な甲冑が入ってきた。 ギルディオスは革のカバンを、ベッドの脇に下ろした。よ、とフィフィリアンヌへ片手を挙げてみせる。 「起きたって聞いたんで、宿から荷物持ってきたぜ。フィル、割と大丈夫そうだな」 ギルディオスは腰に下げていたフラスコを外し、フィフィリアンヌの枕元に置いた。その中で、伯爵が蠢く。 目の前のフィフィリアンヌへ、柔らかな体を細長くして伸ばした。ぺちり、とガラスの内側に当てる。 「貴君の顔色は冴えておらんが、それはいつものことである。まぁ、生きているのであればいいのである」 普段通りのギルディオスと伯爵に、フィフィリアンヌはなぜか安堵した。窓からの明かりで、銀色が照っている。 ギルディオスはおもむろに右手を伸ばすと、フィフィリアンヌの前髪を上げた。額を出させると、手のひらを当てた。 彼は左手を自分の額辺りに当て、んー、と少し考えるように唸る。しばらくしてから、両方とも離した。 「熱は出てねぇな。人間だったら、二三日はうなされちまうんだがなぁ。やっぱり凄ぇな、ドラゴンは」 「何をするのだ、ギルディオス」 一呼吸遅れて、フィフィリアンヌは言い返した。これはこれは、と枕元で伯爵が楽しげに笑う。 「さすがの貴君も、負傷で体力が落ちているようであるな。普段に比べて、格段に反応が遅い」 「仕方なかろう。血が足りんのだ」 掛け布団の上に両腕を出すと、フィフィリアンヌは腕を組んだ。ギルディオスを、睨むように見上げる。 彼女の不機嫌そうな表情に、ギルディオスは安心したように笑った。身を屈め、ヘルムを寄せる。 「だろうな。血が足りてたら、オレは出会い頭にけなされてるはずだからな」 「体さえ動けば、貴様の頭を蹴り飛ばしてやりたいところだ」 フィフィリアンヌは眉を吊り上げ、口元を歪めた。頭も冴えてきたので、言葉は上手く出てきた。 「ギルディオス、まず最初に言っておこう。私は貴様の娘などではないし、娘呼ばわりされる覚えもない。私の父上はロバート・ドラグーンただ一人であり、馬鹿なニワトリ頭などではないからだ。それに、私は貴様を傭兵として雇った覚えはないぞ。しかもなんだ、あの値段は。たった五人の人間相手に金貨十枚とは、少しばかり高すぎる」 「そうかねぇ」 くいっと、ギルディオスは首を捻る。そうだとも、とフィフィリアンヌは頷く。 「その上、貴様が殺したのは盗賊の男一人だけだろうが。割に合わんではないか」 「ま、ありゃあ口実みてぇなもんだったからな。普通に助けるーとか言うの、なんか恥ずかしいんだよなぁ」 気恥ずかしげに、ギルディオスは顔を逸らした。照れくさいのか、声が笑っている。 「まぁ、だから、金貨十枚は冗談だ。別に払ってくれなくても良いぜ」 「誰も払わん、とは言っておらんぞ」 「うぇ?」 面食らったように、ギルディオスは声を裏返した。フィフィリアンヌは片手を挙げ、小指以外を握る。 「十枚はやれんが、五分の一の二枚ならくれてやってもいいぞ。一人は殺したのだから、働いたことには違いない」 ギルディオスは、まじまじと彼女を見つめてしまった。フィフィリアンヌの言ったことが、信じられない。 伯爵も同様らしく、ごぼり、と一際大きな泡を吐き出した。悩んでいるのか、ぐにゅりと体を捩っている。 フィフィリアンヌは二人の反応に、顔をしかめた。ここまで妙に思われると、あまり面白くない。 「それで。いるのか、いらんのか」 「あ、あああいるいるいるいる! くれるんならもらう!」 慌てて、ギルディオスは挙手する。フィフィリアンヌは、カバンの右側を指した。 「金貨の袋は、薬瓶の脇に押し込んである。瓶を割るなよ」 「了解、了解ー」 浮かれながら、ギルディオスはカバンの蓋を開ける。がちゃがちゃと薬瓶を避け、麻袋を見つけ出した。 口を固く結んでいた紐を解き、中から金貨を二枚取り出した。再び口を締めてから、カバンも閉じる。 ギルディオスは、右手をベッドに差し出してみせた。フィフィリアンヌは、彼の手にある金貨の枚数を確かめた。 「確かに二枚だ。ちょろまかしおったら、承知せんぞ」 「オレがそんなことするかよ、信用ねぇなぁもう」 そうは言いながらも、ギルディオスは意気揚々として立ち上がる。ちゃりん、と手の中で金貨を鳴らす。 手のひらで弄びながら、これを何に使おうかと考えていた。これだけの金があれば、何かが買えるはずだ。 ギルディオスは、がちゃりと金貨を握り締める。そしてようやく、病室に医者がいることに気付いた。 「いたんすか、お医者様」 「最初っからね。それも、君らの視界に思い切り入る位置に。少々寂しかったぞ」 不満げに、ファイドは甲冑を見上げた。すんません、とギルディオスは金貨を持った手で後頭部を押さえる。 「フィルしか目に入ってなかったもんでして」 「君と会うのは二度目のはずなんだがなぁ、ギルディオス。今日の早朝、セイラの病室で会ったばかりだろう?」 残念げに、ファイドは首を振る。ギルディオスはなんだか申し訳なくなってしまい、力なく笑った。 別に、物覚えが悪いというわけではない。ただ本当に、フィフィリアンヌのことしか頭になかったのだ。 ファイドに言われるまで、彼の存在に気付いていなかった。視界に入っていたはずなのに、見えていなかった。 そこまで、彼女のことしか考えられない自分が、ギルディオスは少し意外だった。本気で、娘だと思い始めている。 それが、強くなり始めている。以前は漠然と思っていただけなのに、今は彼女が大事で愛しくて仕方ない。 父親の心境だよなぁ、と思いながらギルディオスはフィフィリアンヌを見下ろす。呆れたように、彼女は眉を曲げる。 「ほんの数時間前のことすら覚えられんのか、貴様は」 「別にお医者様のことを忘れたわけじゃねぇよ。だからー、そのー、なんだよ」 ギルディオスは、がりがりとヘルムを掻く。だが、面と向かって理由を言う気にはならなかった。 それなりに気心の知れた関係だからこそ、恥ずかしくてならない。これもまた、父親のような心境だった。 目を覚ましてくれたことが嬉しくて、以前と同じく悪態を吐いてくれることに安心したことを言ってやりたかった。 だが、一度照れてしまうと、全部が照れくさくなってしまった。ギルディオスは、意味もなく天井を見上げていた。 フィフィリアンヌは、やけに照れているギルディオスを見上げていたが、ふん、と息を漏らして顔を逸らした。 ギルディオスと顔を合わせているのが、無性にやりづらかった。弱っている姿だから、というのもあった。 竜神祭での戦いで泣いてしまったことを、ギルディオスに見られたからというのも、やりづらさの一つだった。 セイラと自分のために戦ってくれた彼に、礼儀として礼は言っておきたい。だが、今は言えそうになかった。 顔を逸らし合うフィフィリアンヌとギルディオスを、伯爵は見比べる。両者の心境が見て取れ、笑った。 「はっはっはっはっはっは。貴君らはどうしてこう、肝心な部分で素直になれんのであろうなぁ」 「うるせぇ軟体生物」 「黙らぬか役立たず」 間髪入れずに、二人が言い返した。伯爵は二人の態度に、また高笑いする。 「はっはっはっはっはっは。二人とも冴えておらんぞ、皮肉に切れがないのである」 「叩き割るぞ」 顔を向けずに、フィフィリアンヌはすいっと片手を挙げた。手刀が、ぴたりとフラスコに合わせられる。 は、と伯爵は笑うのを止めた。視点を上げると、後方でギルディオスが片足を挙げていて、踏む体勢になっている。 微笑ましいなぁ、とファイドは三人の光景を楽しく思っていた。多少物騒だが、仲が良い光景には変わりない。 不意に、扉が叩かれた。その硬い音に、ギルディオスは片足を下ろし、フィフィリアンヌは手刀をシーツに置いた。 ファイドはベッドから立ち上がり、どうぞ、と返した。若干の間を置いてから、扉が内側へ押し開かれる。 扉の隙間から、表情を強張らせたアンジェリーナが顔を覗かせた。これはこれは、とファイドは笑う。 「アンジェリーナ様。またですか」 「…余計なことを言わないでちょうだい」 上半身を病室に入れ、アンジェリーナはファイドを睨む。ギルディオスは振り向き、彼女の母を眺めた。 竜神祭で見たときよりも、多少疲れているように見えた。しなやかな緑髪が少しほつれ、目元も赤らんでいる。 何より、態度が張り詰めていない。さすがに自分の娘が心配だったんだな、とギルディオスは察した。 アンジェリーナはおずおずとした動きで病室に入り、後ろ手に扉を閉めた。マントが挟まったので、引っこ抜く。 ギルディオスの陰に隠れている娘を、体を傾げて覗いた。小さく息を吐いてから、ファイドを払うような仕草をする。 ファイドはギルディオスのマントを引き、アンジェリーナを指した。ギルディオスは伯爵を取り、頷いた。 こういう場合は、二人だけにしておくべきだ。ギルディオスはファイドに引っ張られながら、病室を出て行った。 ばたん、と扉が閉められた。アンジェリーナは扉を見つめていたが、長い髪を掻き上げ、ベッドに歩み寄る。 フィフィリアンヌは、背中で母親の気配を強く感じていた。ギルディオス以上に、やりづらくてならなかった。 ファイドの様子だと、眠っている間にも幾度か来ていたらしい。どういう顔をするべきか、迷ってしまう。 それ以前に、母親と二人だけになるのは六十数年ぶりだ。どうするべきか、など最初から解るはずもなかった。 フィフィリアンヌは壁を睨んでいたが、仕方がないので顔を戻した。ベッドの脇に目をやると、母親が立っている。 珍しく、アンジェリーナは笑っていなかった。いつもの多大な自信はどこにも見えず、どこか不安そうだった。 アンジェリーナは壁際に置かれていた椅子を引いて、座った。すらりとした足を組むと、頬杖を付く。 「起きるの、遅いわよ。もう昼も過ぎちゃったわよ」 吊り上がった目が、窓へ向く。中庭を越え、その向こうの大部屋へ合わせられた。 「セイラって子は、とっくに起きてたわ。あんたを起こすためにずーっと歌ってたけど、さっき寝ちゃった」 フィフィリアンヌが黙っていると、アンジェリーナは独り言のように続けた。 「ファイドも私もよしなさい、って言ったのにねぇ。でもま、疲れただけだし、明日の朝には起きるでしょ」 弱い風が、半分ほど開けた窓から滑り込んできた。フィフィリアンヌの前髪が揺らぎ、頬を撫でていった。 アンジェリーナは垂れ下げていた左手を挙げ、ぱちんと指を弾いた。途端に、がっ、と窓が二つとも全開になった。 風の量が増し、病室の空気を動かしていく。薬臭さに日光の匂いが混じり、いくらか穏やかなものになる。 横着な母親に呆れながらも、フィフィリアンヌはありがたく思っていた。新しい空気は、弱った体に心地良い。 中庭で花が咲いているらしく、僅かに甘い香りが混じっていた。フィフィリアンヌは、天井を見上げる。 「母上。何の用だ」 「べっつにぃ。いい加減に起きたかなー、とか思って。起きてなきゃ、傷口抉ってやろうと思ってたんだけどね」 澄ましながら、アンジェリーナは口の端を上げた。鮮やかな紅色が、にぃっと広がる。 「しっかしフィフィーナリリアンヌ、あんたって変なのに好かれてるのねぇ。あーんな呪術師なんかにねぇ」 「好きで好かれているわけではない。私は嫌いだ」 「でも、取引はしてるんでしょ?」 「注文されれば、作らぬわけにもいくまい。作ったならば、売らねばなるまい」 「商魂逞しいっつーか、がめついわねぇあんた」 「物の売買とはそういうものだ。魔法を使っているだけで金をもらっている母上には、到底解るまい」 「ほほほほほほ。私の才能はね、無限の価値があるのよ。金貨一千枚積まれても、まだまだ足りないくらいだわ」 「貴様は半年で一万枚ほど、王家や貴族共からふんだくっているからな。私よりがめついぞ」 「なんで知ってんのよ」 「私が幼い頃に、ふんぞり返って高笑いしながら話してくれたではないか。二時間ほど掛けて」 「なんで覚えてんのよ」 「覚えているとも。貴様ほど強烈な女のことなど、忘れる方が難しい」 フィフィリアンヌは、力の入っていない声を落とした。白い天井は、外からの日差しで明るくなっている。 中庭に池でもあるのか、光は揺らめいていた。傍らに座る母親の装飾品が反射して、視界の端がやけに眩しい。 母親に会った日のことは、少しも忘れてはいない。フィフィリアンヌは平たい天井を、ぼんやりと見つめた。 アンジェリーナの言動が強烈だったせいもあるのだが、何よりも、父親がとても嬉しそうだったからだ。 自分に笑いかけるよりも、ずっと嬉しそうに父親は笑っていた。それが嬉しくて羨ましく、ほんの少し妬ましかった。 フィフィリアンヌは、揺らぎそうな感情を抑え込んだ。記憶の底に押し込めていた、母との思い出を呼び起こす。 「私の三歳の誕生日、五歳の夏に海へ行った日、十歳の初秋、父上の葬儀、五年前の魔導論評会」 何の気なしに、フィフィリアンヌは口に出していった。薄情な母との、数少ない思い出だ。 アンジェリーナは長い髪を指ですくい、尖った耳に掛けた。右の耳たぶで、銀のピアスがちかりと輝く。 「まだあるわよ。あんたが生まれた日、あの人とあんたを王国へ追いやった二歳の秋」 平坦に、アンジェリーナは言った。敢えて、感情を込めなかった。 「この間に城で会ったとき、竜神祭、で、今。たったこれだけ、十回よ、私とあんたが会ったのは」 「母上」 声色の変わった母親に、フィフィリアンヌは呟いた。少しだけ、気になっていた。 「なぜ、私を気に掛ける。なぜ、私に会っている。それだけしか会っていないのであれば、情も移らんはずだが」 部屋を照らしていた日差しが、少し弱まった。太陽に雲でも掛かったのか、病室が薄い暗さに包まれる。 アンジェリーナは俯き、薄暗いせいもあり、表情は解りづらかった。しなやかな手元に、薄い唇が隠される。 フィフィリアンヌが今までに見てきたどの表情とも、違っていた。少々戸惑ったが、言い続けた。 「なぜ、今になって私に近付く。六十年以上も放っておいたというのに、訳が解らん」 「そうね。私にも、良く解らないわ」 アンジェリーナは遠い目をして、雲がまばらに散る空を見上げた。 「理由なんて、あるんだかないんだか。ホント、何を今更ーって感じ」 アンジェリーナは、痛々しい娘をちらりと見た。白い服の襟元から、肩に巻き付けられた包帯が覗いている。 出来ることなら、フィフィリアンヌをもう一度抱き締めてやりたかった。だが、今はそれは出来ない。 傷を悪化させてしまうだけだし、せっかく治りかけた傷口が開いてしまうからだ。二三日後かな、と思った。 理由は、当然ながらあった。自分に良く似た愛しい娘が、元気でいるか、ちゃんとしているか確かめるためだ。 何年経とうが、親は親だ。フィフィリアンヌのことは、放っておいていても、やはり心配になってしまう。 なので竜神祭での戦いは、見るに堪えなかった。アンジェリーナはそれを言おうとしたが、別の言葉が出てきた。 「その傷が治ったら、さっさと帰っちゃいなさいよ」 治った後も、しばらくいてほしい。近くから、娘の姿を見ていたい。 「あんたの用事は、どうせもう終わってるんでしょ?」 色々と言いつけて、引き留めてしまいたい。あの甲冑や異形の話も、娘の口から聞いてみたい。 「フィフィーナリリアンヌ。帰ったら、あんたの身辺ごたごたしそうなんだし、その方が手っ取り早くていいでしょ」 その時は、また、助けてやりたい。そうは思っていても、言葉に出来なかった。 言うこと全てが刺々しくなり、本心からずれていた。アンジェリーナは、強く自分を嫌悪した。 どうして、素直になることが出来ないのか。悔しさと情けなさが、ずきりと胸を刺した。 「…そうだな」 小さく、フィフィリアンヌは返した。多少なりとも予想していたこととはいえ、母の言葉はきつかった。 ここは竜の世界であり、半竜半人の自分の居場所ではない。母の故郷ではあるが、決して自分の故郷ではない。 解り切っていたことだったが、それでも痛いものがあった。フィフィリアンヌは、ぎゅっと掛け布団を握る。 「治り次第、帰るとも。私の仕事は、当に終わっている。竜神祭も、無理に参加させられただけに過ぎん」 竜神祭の夜、気を失う寸前に感じた母親の体温は、やはり夢だと思った。この女が、抱き締めるはずがない。 嫌っているはずなのに、なぜか嬉しかった。すぐ目の前にいた母親は、優しい笑顔をしていた。 有り得ない。有り得たはずがない。フィフィリアンヌは母に抱かれた感触と、朧気な記憶を払拭する。 「貴様が私をあまり好きでないように、私もあまり好きではない」 好きになれない。愛してくれないのだから、好きになろうとしても出来ない。だから。 「理由がないのであれば、近付かんでくれ。母上」 何も言わず、アンジェリーナは俯いたまま立ち上がった。がたん、と椅子がずり下がり、床が鳴る。 それもそうね、と言おうとした。だが、アンジェリーナは喉に物が詰まったような気分になり、返せなかった。 無表情なフィフィリアンヌの目は、天井を映していた。母親似の目は、もう母へと向けられることはない。 仕方のないことだ。当然の結果だ。フィフィリアンヌに嫌われているのは、今に始まったことではない。 アンジェリーナはかなり名残惜しかったが、扉に歩き出した。これ以上、ここにいてはいけないと思った。 「母上」 フィフィリアンヌは、目線を横に向ける。なぜ母を呼び止めたのか、自分でも良く解らなかった。 振り向いたアンジェリーナは、驚いたような顔をしている。その目がこちらを見ていて、初めて両者の目が合った。 「十一回目は、あると思うか?」 「…あるんじゃないの?」 アンジェリーナの声は、僅かに震えていた。すぐに、いつもの調子に戻す。 「あんたと私が、生きていればの話だけど」 足早に、アンジェリーナは病室を後にした。静かに扉が閉められると、すぐさま足音が駆けていった。 余程急いでいるのか、あっという間に遠ざかっていった。フィフィリアンヌは、また天井を見上げる。 会話の内容を、反芻する。嫌味にまみれているのはいつものことだが、少し、様子が違っているように感じた。 どこか、優しいような気がした。セイラの様子も教えてくれた上に、身辺を気遣うようなことも言っていた。 「気のせいだ」 あのアンジェリーナが、優しくするはずがない。フィフィリアンヌは目を伏せ、視界に残る母の姿を消そうとした。 だがなぜか、母の姿は少しも消えてはくれなかった。こんなに長く顔を合わせたのは久々だな、とも思った。 体力が落ちているせいか、眠たくなってきた。寝入るために固く目を閉じると、母親の優しい笑顔が浮かぶ。 妙に落ち着いた気分になりながら、フィフィリアンヌは睡魔に身を委ねた。意識が薄らぎ、沈んでいく。 ほんの少しかもしれないけど、愛されているのかもしれない。眠りに落ちる寸前、そんなことをちらりと思った。 温かな春の日差しに包まれていると、誰かの腕の中にいるかのようで、とても心地良かった。 ギルディオスは、調子外れな歌声に足を止めた。 手のひらに落ちてきた金貨二枚を受け止め、ちゃりっと握る。その声の主を捜して、左右を見回した。 回廊の窓から、ギルディオスはずいっと身を乗り出した。声は西側から聞こえており、聞き覚えのある声だった。 雲の散る高い空を背負った、西の塔が目に入った。窓が開いているようで、空を透かしたガラスが光っていた。 そのガラスの奧に、誰かが腰掛けていた。長い足を下ろして空を見上げ、下手な子守歌を歌っている。 長い緑髪がさらりと広がり、新緑のマントがなびいている。アンジェリーナは、音程のずれた歌を歌い続けていた。 子守歌を歌う彼女の横顔は、いつになく嬉しそうだった。フィフィリアンヌと同じ場所で、同じように音を外す。 ギルディオスは下手な歌で脱力感に襲われながらも、嬉しくなった。きっと、娘といいことがあったに違いない。 回廊の窓枠に、ごとんと伯爵を置いた。ギルディオスは窓枠に背を預け、アンジェリーナの歌声に聞き入る。 「フィルの音痴って、遺伝だったんだな」 「そういうことである。ロバートどのは、まだまともであったのだがな」 いやはや、と伯爵は可笑しげな声になる。ギルディオスも、なんとなく笑ってしまう。 「本当に、似なくていいところだけが似てるぜ」 母親の顔をして、アンジェリーナは歌い続けていた。上げるべき部分を下げて、下げるべき部分を上げて。 空よ空よ、高くあれ。草木よ花よ、強くあれ。風よ光よ、清くあれ。炎よ、温かく穏やかにあれ。 この世を見下ろす、神の優しきゆりかごで。闇を避けて深く眠れ。 愛しき我が子よ、どうか、健やかにあれ。 竜の母は愛を示せず、竜の娘は愛を受け止められない。どちらも、器用でないために。 二人を繋ぐべき者は亡く、今はただ、緩やかに時を長らえて行くのみ。 少しばかり、どちらかが素直になることさえ出来れば。 母と娘は、愛し合えるはずなのである。 05 4/4 |