セイラは、泣いていた。 金色の単眼は潤み切って目元は歪み、次から次へと滴が溢れている。顎と牙を伝い、ぼたぼたと落ちていた。 しきりにしゃくり上げるせいで、喉が鳴っている。奥歯を噛み締めて巨体を縮め、なんとか泣き声を堪えていた。 足元からこちらを見上げる主、フィフィリアンヌは困ったような顔をしていた。セイラは、余計に悲しくなる。 包帯も取れてケガの完治した二人は、あの洞窟の前で対峙していた。セイラの背後には、暗く深い坑がある。 大量にこぼれ落ちた涙が、水溜まりとなっていた。フィフィリアンヌは、涙の溜まった足元と異形を見比べた。 「聞き分けてくれんか、セイラ」 「ウー…」 唸りながら、セイラは背を丸めた。言葉が、いつも以上に途切れる。 「フィリィ、行、ク、イー、ヤー…」 「しばらく待てば、また必ず会える。だから、堪えてくれんか」 「イー、ヤァー」 語尾を上げて声を張り、セイラはかぶりを振った。ばらばらっと涙が飛び散り、雨のように降り注いだ。 堪えていた泣き声が洩れ、ついには泣きじゃくり始めてしまった。低い唸り声が、洞窟に反響して森に広がる。 ぺたんと腰を下ろして座り込み、泣きじゃくっている巨体の異形は駄々をこねる幼子そのものだった。 実際、年齢は低いのかもしれない。仰々しい外見と見上げるほどの体格のせいで、解らないだけなのだろう。 朝からずっと、セイラはこの調子だった。ギルディオスは腕を組み、フィフィリアンヌとセイラを見比べた。 事の原因は、フィフィリアンヌが王都へ帰ると言ったことからだった。ケガも治ったので潮時だ、と言ったのだ。 だが、王都へ帰る際にセイラを連れていくことは出来ない。フィフィリアンヌはセイラに、その旨を説明した。 石造りの家はセイラを入れるには小さすぎるし、なによりあの家は人家に近い。気付かれて、恐れられてしまう。 そうなれば、冒険者が魔物退治だと乗り込んで来かねないし、なにより狭い場所ではセイラが哀れでならない。 広い家を確保してから必ず迎えに来る、と彼女は説明したのだが、セイラはその配慮を少し勘違いした。 フィフィリアンヌが王都へ去るのは、自分が用済みとなったから。捨てるために、置いていくのだと思ったのだ。 セイラは、先程から同じ言葉を繰り返していた。ぐずぐずと鼻を詰まらせ、変に上擦った声で言う。 「フィリィ、セイ、ラ、捨テ、ルー」 「だから、違うと言っているだろう。私はセイラを捨てるようなことはしない」 「ジャ、ア、ナンデ、セイラ、連レ、テ、行カ、ナイ」 「今のままでは、セイラを連れて帰ってもろくなことにはならんからだ。それに、家が狭いのだ」 「行ー、クー」 「必ず迎えに来る。だから、それまで待っていてくれ。良い子だから」 「セイラ、一緒、行ー、クー!」 盛大に泣き出したセイラは、首をもたげた。三本のツノが目立つ頭を振り、イヤ、イヤ、イヤァ、と連呼する。 その度に、ばちゃばちゃと涙の雨が降り注いできた。ギルディオスは、すっかり頭から濡れてしまっていた。 水とは違って塩気があるため、甲冑だけでなくマントや頭飾りがべっとりしている。あまり、気分は良くない。 あとで洗わないとな、と思いながら、ギルディオスはセイラを見上げた。吠えながら、わんわん泣いている。 その泣き声は良く通り、洞窟だけでなく山肌まで揺さぶっていた。怒りの咆哮にも似た、嘆きの歌声だ。 セイラの泣き声に辟易しているのか、元来子供が苦手なのか、伯爵は先程から黙り込んでいて静かだった。 ギルディオスは、俯いて額を押さえているフィフィリアンヌを見下ろした。口元が歪み、困っているようだった。 彼女のいる位置はセイラの目の前なので、ギルディオス以上に濡れていた。まるで、雨に降られた後のようだ。 後頭部でまとめた長い緑髪はへたれ、背中に張り付いていた。闇色のローブも、肉の薄い体に張り付いている。 フィフィリアンヌは濡れそぼった前髪を掻き上げ、広めの額を出した。そこに当てた手の下で、目線が下がる。 「…弱ったな」 フィフィリアンヌは、小さく息を吐いた。涙に濡れた顔を拭って、手に付いたセイラの涙を少し舐めた。 涙の強い塩気に、彼の悲しみが染みているように感じた。すぐ目の前に、更に涙が滴り落ちるのが見える。 セイラは泣き声を抑えていたが、そのせいで喉がひくついていた。ひゃくっ、としゃっくりのようになっていた。 イヤ、とまたセイラは悲しげな声を上げる。フィフィリアンヌは、くるりとセイラに背を向けた。 「後でまた来る」 顔を上げず、フィフィリアンヌは森へと歩いていった。ギルディオスはセイラを見上げ、片手を挙げる。 「あ、んじゃあ後でな、セイラ」 おい待てよ、とギルディオスは森へ踏み行っていく少女の背を追った。がしゃがしゃと、重たい足音が遠ざかる。 三人の姿は、すぐに深い木々の下に消えていった。強い風が吹き抜け、ざあ、と木々の枝を擦り合わせた。 音は消えていないが、静寂が訪れたような気分になった。セイラは、濡れた頬が乾いてくるのを感じる。 泣き声を止められても、しゃくり上げるのは止まらなかった。泣き叫んだせいで喉が痛く、声が掠れていた。 フィフィリアンヌの歩いていった方向を見つめ、セイラは強烈な寂しさに襲われた。胸の奥が、詰まりそうだった。 自分の泣き声がうるさく、水っぽい呼吸音が鬱陶しかった。泣き止もうと思ったが、思えば思うほど辛くなる。 項垂れた彼女の口元を思い出し、背を丸めた。あれは怒っているのだ。我が侭な自分が、疎ましかったのだ。 嫌われたかもしれない。セイラは寂しさと共に絶望感を覚えながら、もたついた動きで腰を上げた。 のろのろと洞窟に戻ると、どっかりと座り込み、翼を折り畳んで岩肌に背を預けた。薄暗く、冷たい空間だ。 燦々と眩しい日光を避けるように、セイラは身をずり下げた。地下水の滲む岩に寄り掛かり、目を伏せる。 冷たい影の中にいると、妙に落ち着いた。昔から、生まれた頃から、そのような世界にいたせいだろう。 セイラは、漠然と過去を思い出していた。今までにも数度、主だと思った相手から捨てられている。 一度目は、母と思った創造主の女からだった。セイラは、東方の田舎町で魔導師の女に造られた存在だった。 薬液と培養液に満ちた池から、生まれ出た。外に出ると、周りには数体の人造魔物が立っていて見守っていた。 自分と同じように、彼らはあらゆる魔物を組み合わせた体をしていた。セイラは、彼らを兄弟だと思った。 翼を持ったワーウルフ、獅子の牙とツメを持つ女、人の姿をしたクモ。姿形は違えど、彼らは兄と姉だった。 他にも、様々な魔物がいたような気がする。彼らは皆、セイラを名前では呼ばずに三本ツノとだけ呼んだ。 兄弟達が、母と呼ぶ女がいた。いつも家の中にいて、魔物の死体を切り刻み、魔法陣の上で繋ぎ合わせていた。 母は黒いローブに身を隠し、時たま兄弟達に指示を出した。兄弟達は逆らうことなく、母に従い、どこかへ行った。 そのまま、彼らは帰ってこなかった。セイラは兄弟の行方を母に尋ねたが、母は答えず、背を向けるだけだった。 セイラは、母が怖かった。効率の良い敵の殺し方、人間に対する服従を教えてくれたが、それが無性に怖かった。 逆らえば、母の言うような方法で殺されてしまうのだと思っていたからだ。兄弟達も、そう思っているようだった。 ずっと、母は人ではないと思っていた。悪魔か何かの種族で、人間の姿は仮の姿で、魔の世界の者なのだと。 それを兄弟達に話すと、決まってこう返された。いいや、あの女は人間だ。間違いなく人間なんだ。 なぜ、と聞くと、やはり決まってこう返ってきた。魔物を者とせずに物とするのは、人間だけだからだ。 セイラには、ずっとその意味は解らなかった。そしてある日、セイラは母から指示を出された。 西に行き、人間の物となりなさい、と言われた。セイラは逆らうことが出来ずに、女の元から出、西へ向かった。 ずっとずっと一人で歩き続けて、町を出て山を越えて川を渡った先で、最初の主に会った。盗賊だった。 賊の男はセイラを見るなり、使えるのか、と言った。金貨百五十枚もしたんだ、使えないわけがない、とも言った。 しばらくの間、セイラは十数人の盗賊の前衛として戦った。民家に押し入り、旅団を襲い、何人もの人を殺した。 賊の男の言うことを聞かないと、母がやってくるような気がした。だからセイラは、無心になって戦い続けた。 そしてある日、いつものように街を襲った。だが途中で盗賊達は姿を消し、セイラだけが取り残された。 セイラは追いかけてきた軍の者達に捕らえられ、地下牢に押し込められた。数日後、外に出された。 新しい主だ。ありがたく思え。生かされているんだからな。運が良いな、お前は。イノセンタス様のお計らいだ。 兵士達が何を言っているのか、よく解らなかった。だがセイラは、物として扱われたのだ、とだけ悟った。 二番目にセイラを手に入れた魔導師は、セイラをあらゆる目に遭わせた。何をされたのか、覚えていないほどだ。 どんなときもセイラを引き連れて、事ある事に魔法を浴びせた。大した威力はなかったが、かなりの回数だった。 日によっては、その魔導師の魔力が尽きるまで付き合わされた。朝から晩まで、雷撃がやってきた日もあった。 だがある日、唐突にその魔導師はセイラを売りに出した。魔導師は、金がなくなったんだ、とだけ言った。 そしてセイラは、通りすがったバロニス一行に買い取られた。その後は、思い出したくない記憶ばかりだ。 ただ一つ覚えているのは、自分を標的に魔法の練習をしていたシルフィーナに、こう尋ねたときのことだった。 どうして、ヒトは自分を物として扱うのか。どうして、簡単に捨てたり魔法の練習台にしたりするのか。 するとシルフィーナは、鼻で笑ってこう答えた。そりゃあ決まってるわ、あなたが卑しい魔物だからよ。 魔物は物であり、決して、者などではない。兄弟達の言っていたことは、こういうことだったのだ。 途端に、セイラは悲しくなった。人間達の言われるがままに、物として生きてしまっていた自分が情けなくなった。 それから、抵抗出来るだけ抵抗した。物ではなく者として扱って欲しいがために、バロニスらに逆らった。 他者を殺したくない。誰も傷付けたくない。言われるがままに戦えば、自分はただの物と成り下がってしまうから。 物ではなく者として見てくれたのは、エドワードが最初だった。だが彼は、立場のせいで、距離を置いていた。 そして、フィフィリアンヌがやってきた。彼女は会ったときから目を見てくれて、気に入ってくれた。 名を付けてくれた上に、歌ってくれ、とだけ言ってくれた。戦わずとも傷付かずともいい、ということだ。 それが、セイラにはとても嬉しかった。いつも傍にいてくれて、笑いはしないが優しい彼女が何よりも好きだった。 だからこそ、自分の人格を認めてくれた彼らが、傍から離れてしまうことがとても恐ろしくて仕方なかった。 また、竜族に捕らえられるかもしれない。決してエドワードを信用していないわけではないが、不安だった。 ぞくりとした恐怖が背筋に走り、セイラは身を縮めた。彼女がいないだけで、空気がとても冷たくなった。 「フィリィ…」 置いていって欲しくない。また、見知らぬ誰かがやってきて、物として買いに来てしまうかもしれない。 そんなことはない、と思うために歌おうとした。だが、散々泣いていたせいで、喉が痛くて音にならなかった。 途切れ途切れの高音が、辛うじて旋律に聞こえた。しかし普段のような伸びはなく、言葉も潰れてしまった。 怖い。腕を抱いたセイラは、彼女のいない世界から逃げるように、金色の単眼を固く閉ざした。 三人は、森の奧にある滝にいた。 セイラのいない滝壺は、いやに広く感じた。洗ったマントを木の枝に干しながら、ギルディオスは空虚感を覚えた。 汚れてしまった服を洗ったフィフィリアンヌは、何を思ったか水の中にいた。揺らめく水面の下、細い裸身がある。 ほどかれた長い髪が水にゆらめき、水草のようだった。傷跡は残っておらず、元通りの滑らかな肌になっている。 「風邪引くぞ」 ギルディオスの忠告に、フィフィリアンヌは顔を逸らした。ぱしゃり、と水面から緑髪が持ち上がる。 「腹が冷え切ってしまう前に出るとも。そこまで馬鹿ではない」 「しかし、何もセイラの元から離れることはなかったのではないのかね?」 草の上に置かれたフラスコの中、伯爵はにゅるりと体を歪めた。ぽん、とコルク栓を押し抜く。 「あれでセイラは頭が良いのである。きちんと話していけば、納得してくれると思うのだがね」 「感情に理屈は通じん」 フィフィリアンヌは、足を伸ばした。白い肌が、薄暗い岩肌から浮いたように見える。 「混乱した思考を沈めるためには、距離を置くべきなのだ」 「フィル。それ、ちょいと冷たくねぇか?」 フィフィリアンヌの近くに、ざばりとギルディオスは身を沈めた。血の気の失せた少女の顔が、甲冑へ向く。 「冷たいと思うか」 「オレとしてはな。そりゃあ突き放して様子を見るのも必要だし、セイラは賢いから物分かりもいいだろうさ」 けどな、とギルディオスは後ろの岩に腕を乗せた。ごぼり、と甲冑の隙間から空気が漏れる。 「セイラはああ見えてもまだ子供みてぇだし、お前に思いっ切り甘えてる。今遠ざけちゃうのは、いくらなんでもなぁ」 「だが、帰らねばならん」 平面に近い胸を隠すように、フィフィリアンヌは腕を組んだ。 「貴様がグレイスによって賞金首となってしまったのだ、いつまでもここにいるわけにいかん。賞金稼ぎ共が、私の家を嗅ぎ付けるのは時間の問題だ。それの対処も、色々としなければならんのだ」 「うん、まぁ、そりゃそうだと思うけどよ」 と、ギルディオスは他人事のように言った。頭の後ろで手を組み、がしゃりと関節を軋ませながら上体を逸らす。 フィフィリアンヌはギルディオスから目を外し、どおどおと流れ込む滝を見上げた。飛沫が、しきりに飛んでくる。 冷たい雪解け水で体温が奪われ、手足の先がずきりとした。セイラが泣きじゃくる姿が、思い出された。 自分でも、この態度は少々冷たいとは思った。だが、セイラは解ってくれるはずだとも思っていた。 しかし、思っていたよりもセイラの年齢は幼かったらしい。あそこまで泣くとは、予想もしていなかった。 離れたくないのは、フィフィリアンヌも同じだった。セイラの気持ちは痛いほど解るし、辛くないわけではない。 むしろ、辛くて仕方がないほどだった。あのままセイラと共にいれば、振り切って帰ることが出来なくなる気がした。 セイラは、まるで半身だ。生まれも育ちも何もかも違うはずのセイラが、今や思考の大半を占めてしまっている。 傍にいると、それだけで何かが満ち足りる。何よりも大切な彼だからこそ、わざわざ危うい状況へ誘いたくはない。 自分のせいで命を落とすのは、父親だけで沢山だ。これ以上、愛する者を死なせるわけにはいかない。 フィフィリアンヌは、セイラの嘆きを思い起こした。捨てられるのを、一人になってしまうのを何よりも恐れていた。 ただ、離れるのが寂しいから、泣いていたわけではないのだろう。恐らく、過去に何度も捨てられたのだ。 その様子は、容易に想像が付いた。バロニス一行のように、魔物を人格者として扱わない者は多い。 フィフィリアンヌにも、そういった経験はないわけではない。竜族であるがゆえに、拒絶されたことは多々ある。 今まで思い出すこともなかった過去の記憶が、不意に蘇った。セイラの姿と、己を重ねてしまったのだ。 父親が死して以降は、ろくなことはなかった。良い出来事の記憶など、ほとんどないと言ってもいい。 いくら泣いても父親は帰ってこず、母親は葬儀以来顔も見せず、周囲は竜だからといって近付こうともしない。 殺してしまえ。売ってしまえ。首を切り落として母竜も呼び寄せよう。血を分けろ。肉を寄越せ。喰ってしまえ。 冒険者という名の殺戮者の声は、今でも耳に残っている。これが、冒険者を嫌う理由の一つでもある。 記憶の底に押さえ込んでいたことまで出てきてしまい、フィフィリアンヌはたまらなくなって腕を抱き締めた。 「寒いなら出ろよ。病み上がりなんだから」 ギルディオスの言葉に、フィフィリアンヌは首を横に振る。そうか、と甲冑は岩に寄り掛かる。 「フィル。さっきセイラがお前に甘えてるっつったけどな、フィルも充分、セイラに甘えてると思うぜ」 「何を」 「根拠はねぇよ。ただ、そう見えるってだけだ」 客観的意見ってやつよ、とギルディオスは笑った。フィフィリアンヌは、彼を横目に睨む。 「私は別に、セイラには甘えてはいない。セイラの近くにいた方が、何かとやりやすいから傍にいるだけだ」 「それを甘えているというのではないかね、フィフィリアンヌよ」 離れた位置で暇そうにしていた伯爵が、うにゅりとコルク栓を持ち上げる。言い返される、と思った。 だが、フィフィリアンヌは伯爵に言い返してこなかった。項垂れて額を押さえ、小さな翼を下げてしまっている。 盛大な水音だけが、三人には聞こえていた。どおどおと空気が揺さぶられ、絶え間なく水が跳ねている。 フィフィリアンヌはしっとりと水分を含んだ前髪を掻き上げ、ぐしゃりと握った。髪から落ちた水滴が、腕を伝う。 「そう、思うか?」 「さっきから訊いてばっかりだな。フィルらしくもねぇ」 「仕方なかろう。判断が付かんのだ」 「これはこれはどうしたことか。貴君の判断力が鈍るとは、老化の前兆かね?」 「それともなんだ。腹でも減ったか?」 「貴様らとは違う!」 噛み付きそうな勢いで、フィフィリアンヌは言い返した。ギルディオスは、おっと、と身を引く。 「なんだよ元気じゃねぇか」 「むしろ元気すぎて気色が悪いのである。この女は、常に不愉快そうでなければそれらしくはないのである」 「あー言えてるなー。フィルが喚いたりするのって似合わねぇしなー」 「蹴り飛ばすぞ」 「はっはっはっはっはっは。我が輩達を蹴飛ばしたとしても、貴君の貧相な裸体が晒されるだけである」 「服、乾いてからにしろよ。まぁ、もうちょいしたら乾くだろうけどさ」 ほれ、とギルディオスは木の枝に引っかけられた黒いローブを指した。弱い風に、ひらひらと揺れている。 フィフィリアンヌはむっとして、薄い唇をひん曲げた。無表情なはずのヘルムが、にやついているように見える。 「…貴様ら、何をしたいのだ」 「いやー別にー。珍しく悩んでるみてぇだから、気晴らしになるかなーって思ってよ」 「はっはっはっはっはっはっは。貴君が悩む姿など、ニワトリ頭が本を読むくらいおかしいのである」 「私とて悩むことはある」 「やっぱり切れがねぇなあ。なんかそれっぽくなくて変だと思わねぇか、伯爵?」 「うむ。変で変で仕方がないのである」 「鬱陶しい」 フィフィリアンヌは、ざばりと水面を割って片手を挙げた。一言二言唱え、伯爵へ指先を突き出す。 途端に水面が歪んで水が噴き出し、うねりながらフラスコへ向かった。どばん、と草むらの上で砕けた。 しゅわしゅわと水が地面に染み込み、水溜まりの中心でフラスコが転がる。球体の中で、伯爵はぐにゅんと動く。 「手加減するなど更に貴君らしくないのであるぞ、フィフィリアンヌ。追撃もないのかね」 「先程から、らしくないらしくないと言うが、ならば何が私らしいというのだ」 「そうだなぁ。具体的に言えば、いっつも真上どころか空から見下ろしてるくらい態度がでかくて」 むくれているフィフィリアンヌへ、ギルディオスはヘルムを向けた。表情が出た少女は、なんだか愛らしい。 「がめつくて根性曲がってて言うこときっつくて、つんけんしてる。でも、たまぁーにちょっとだけ優しい」 「自分以外をあまり信用しない上に周囲を手足と扱い、常に物事を利益で計って考えているような女である」 伯爵は、ギルディオスに続けた。ぐるりとフラスコを回し、器用に立ち上がる。 「寝起きが悪く料理が地獄の如く下手で、方向音痴で音感皆無で味覚もおかしい。それが貴君であるぞ」 「言いたい放題だな」 「はっはっはっはっは。あまり気にするでない、フィフィリアンヌ」 伯爵は、ふるふると赤紫を震わせた。フィフィリアンヌは、ギルディオスへ目をやる。 「しかし、貴様ら如きが気付くほど私の調子は狂っていたというのか?」 「自覚してたのかよ。まぁ、そいつの原因はセイラだろ、間違いなく」 そう言いながら、ギルディオスは腰を上げた。ざばぁ、と関節の隙間から水を落としながら立ち上がる。 「んで、お前はどうしたいんだ、フィル?」 「どう、とは」 「いちいち聞くなって言ったろ、らしくねぇから。あーつまりなんだ、セイラを突き放して帰りたくねぇんだろ?」 フィフィリアンヌは答えずに、目を伏せる。ギルディオスは、あー、とやりづらそうな声を出した。 「そんなにセイラと離れるのが辛いんだったら、どっちも納得するまで一緒にいりゃいいじゃねぇか」 「我が輩達とて愚かではない、それの邪魔はせん。貴君とセイラだけで、話すがいいのである」 「貴様らの方がおかしいぞ、らしくない。そこまで物分かりがいいと、いっそ不気味だ。気色悪くてならん」 無表情に言い放ったフィフィリアンヌに、ギルディオスはちょっと肩を竦め、伯爵を見下ろした。 「落ち着いたらしいぜ」 「はっはっはっは。実に解りやすい女であるな」 ごぼごぼと、伯爵は泡を吐き出した。ギルディオスは滝壺から上がると、まだ濡れているマントを木の枝から取る。 近くの岩に立て掛けておいたバスタードソードを取って背負ったギルディオスは、伯爵のフラスコを拾った。 「んじゃ、後は自分で考えてくれや。フィルに訊かれると、どうも調子が狂っちまう」 宿にいるから、とギルディオスはひらひらと手を振りながら遠ざかっていった。大柄な甲冑が、森の中に消えていく。 フィフィリアンヌは水から上がり、岩に腰を下ろした。二人がいなくなったせいで、周りの音がやけに良く聞こえる。 自分が方向音痴だということを、忘れてはいないか。一人では辿り着けるはずがない、と内心で憮然とした。 濡れた肌に風が触れ、ひやりとした。空には薄い雲が大きく広がっており、鮮やかな青が目に眩しい。 セイラの元へは行きたい。だが、行く途中で迷ってしまう。空を飛んでも、必ずどこかで迷ってしまうだろう。 しばらく考えて、フィフィリアンヌは立ち上がった。生乾きのローブを枝から掴み取ると、頭から被る。 下履きを着てベルトを締めてブーツを履き込み、地面を蹴って飛び上がった。両翼を大きくさせ、羽ばたく。 たとえどれほど迷っても、必ず会いに行かなくては。そう思いながら、森の上空を滑空した。 飛行しながら髪を結い忘れていることを思い出したが、それどころではなかった。 日が暮れても、彼女は戻ってこなかった。 朧気な意識を次第に強めて、セイラはうっすらと目を開けた。夕暮れた空が、炎に似た色合いになっている。 あれは、あの戦いの色だ。炎を受けながら彼女のために戦うギルディオスは、力強く猛々しかった。 そんなことを思いながら、セイラは岩肌から背を外した。変な姿勢で眠ったせいで、節々が痛む。 ばきり、と背骨が鳴った。喉の痛みはなんとか治っていたが、顔に付いた涙の筋はそのまま残っていた。 手の甲で擦ると、ざらついた塩の感触があった。それを少々気恥ずかしく思い、セイラは頬の辺りを拭った。 暗さを増した洞窟は、無性に寂しかった。セイラは胸中の苦しさと寂しさを紛らわすため、歌った。 空よ空よ、高くあれ。草木よ花よ、強くあれ。風よ光よ、清くあれ。炎よ、温かく穏やかにあれ。 東方の言葉で、子守歌を繰り返した。歌い慣れた節がすんなりと声に乗り、高音と低音で波が生まれる。 しなやかに響く己の声を楽しみながら、セイラは歌い続けた。西の山の奧で沈みゆく太陽が、赤く眩しかった。 その太陽が、小さく陰った。橙色の逆光を受けた有翼の影が、ばさりと羽ばたき、ぐんぐん近付いてくる。 影は次第に輪郭を表したが、やはり小さかった。森の木々の上を飛び抜けてきたそれは、洞窟の前へ来た。 翼を広げた少女が、真っ直ぐに飛び込んできた。セイラが避ける間もなく、どん、と首元に縋り付く。 荒い息が聞こえた。大きく肩を上下させながら、彼女は顔を上げ、セイラを見上げた。 「フィリィ」 彼女の名を、セイラは自然に口にした。戒めのない長い髪は、飛行していたせいで乱れている。 フィフィリアンヌは眉を下げ、こん、と額をセイラの首筋に当てた。彼女の体温と共に、小さく声がする。 「セイラ」 「ナンデ、今マデ、来ナ、カッタ」 セイラはそう言ってしまってから、強く後悔した。彼女が来てくれて、とても嬉しいはずなのに。 すまない、と切なそうにフィフィリアンヌは呟いた。首筋に腕を乗せて体を上げ、肩へよじ上って座った。 目を合わせようとしないセイラへ身を預け、大きくしていた翼を縮めた。少女は、息を整える。 「迷ってしまったのだ」 「捨テルカ、ドウカヲ?」 「違う。そういうことではない。私の方向感覚のことだ」 情けなさそうに、フィフィリアンヌは顔を伏せた。言いづらいのか、目線が彷徨っている。 「その…あの馬鹿共が行ってしまってな、私一人でここへ向かったのだが、私は方向感覚が皆無でな。飛び立ったのはいいのだが、延々と迷って、今まで辿り着けず終いだったのだ」 「道、迷ッタ?」 「飛んでいたから道というべきかどうかは解らんが、平たく言えばそうだ」 「ジャア、ドウシテ、来ラレタ?」 「セイラが歌ってくれていたからだ。音を辿れば、なんとか辿り着けないことはなかった」 感謝するぞ、とフィフィリアンヌは手を伸ばしてセイラの頬の辺りに触れた。硬く滑らかな、爬虫類の肌だ。 セイラは小さな手の温かさに安心していたが、黙ってしまった。なぜか、彼女に意地を張ってしまった。 あれだけ会いたかったのに、いざ会えると、今まで来てくれなかったフィフィリアンヌに腹が立ってしまう。 方向音痴というのも言い訳なんじゃないか、などとも考えてしまう。今度は、そんな自分が嫌になってきた。 大好きなはずなのに、なぜこんなことを思ってしまうのだろう。自己嫌悪が、尽きたはずの涙を呼び起こした。 金色の単眼が潤み、目の端からこぼれ落ちていった。フィフィリアンヌの手の傍へ、その滴が流れてきた。 「すまない。なるべく早く来ようと思ったのだが」 「フィリィ、行ク、嫌」 「私とて、セイラを置いて行きたくはない。だが、これは仕方のないことなのだ」 「フィリィ、戻ッテ、来ナイ」 「必ず戻って来るとも。約束する」 「セイラ、嫌。一人、嫌」 「本当に、すまないことをした。セイラの気も考えず、私の都合ばかりを言ってしまって」 フィフィリアンヌの手が、そっとセイラの目元を拭った。セイラは右手を挙げて、左肩に乗る彼女へ添える。 握り潰してしまえそうなほど、彼女は小さい。竜の血を持っているとはいえ、擬態した姿は頼りなかった。 指先を伸ばし、爪を引っかけないようにしながら彼女に触れた。柔らかく温かな、頬へ当てる。 濡れていた。汗だけでなく、熱く体温の残る水があった。セイラは目を動かし、フィフィリアンヌに向ける。 西日が赤い瞳に映り込み、普段以上に色を強くさせていた。目元には光を宿した滴が浮かび、彼女は。 「ナンデ、泣イテル」 「悲しいのだ。セイラを悲しませてしまったから」 フィフィリアンヌは身を乗り出し、セイラの牙の並ぶ口元へ顔を寄せた。柔らかな舌が、涙の筋を拭う。 涙がなくなっても、舐め続けた。胸の詰まるような感覚に任せ、フィフィリアンヌは半ば本能的に舌を滑らせた。 一際丁寧に舐めてやってから、フィフィリアンヌは気付いた。竜族の愛情表現が、舐めることだということを。 無性に気恥ずかしくなり、身を引いた。舌を口の中に納めても、セイラの涙の味はありありと残っていた。 口元を押さえ、俯く。思っていた以上にセイラを愛していることを自覚して、照れくさかった。 セイラの指先が、優しくフィフィリアンヌの肩を押さえた。フィフィリアンヌは顔を逸らし、太い指に縋る。 「…すまん」 頬に、ぺちゃりと温かなものが触れた。フィフィリアンヌが振り向くと、セイラが舌を伸ばしている。 彼女がしたのと同じように、長く赤い舌を出していた。先細った舌先が、慎重に目元を撫でた。 舌を口に戻し、セイラは彼女の涙を味わった。夕陽に染まっている少女の頬は、心なしか色が赤い。 「違ウ。悪イ、セイラ。我ガ侭、言ッタ。イケナイ、コト、言ッタ」 自分の都合ばかり押し付けていたのは、自分の方だ。ただ怖いから、過去と今を重ねてしまった、というだけで。 彼女は、今までの人間達とは違う。それを解りきっているはずなのに、彼女を信用することが出来なかった。 心から愛している彼女のことを疑ってしまった自分が嫌になり、セイラは奥歯を噛み締めた。ぎちり、と擦れる。 増して、戻ってこないはずがない。自分のために怒ってくれるような彼女が、今更捨てることなんかあるものか。 信じられるはずなのに。これからも信じていけるはずなのに。セイラは己への憤りで、猛りたくなった。 ぐるぅ、とセイラの喉が低く鳴る。フィフィリアンヌは太く逞しい首筋を、なだめるように撫でてやった。 「気にしてはいない。セイラが人間を、他者を信じられぬのは仕方のないことだ。私も、若い頃はそうだった」 「デモ、フィリィ、父サン、人間」 「父上は立派な人だった。だが、そうでない人間も多かったのだ」 思い出したくもないが、と、フィフィリアンヌは目を伏せて小さく呟く。 「セイラ、私を信じてくれ。私はお前を捨てることはしない。置き去りになどしない」 「解ッテ、イル。ダカラ、モウ」 「言わせてくれ。不安にさせてしまったのは、私のせいだからな」 フィフィリアンヌはセイラの首に寄り掛かり、上目に単眼を見上げた。西日で、ぎらりと光っている。 「必ず、ここへ迎えに来る。そして、共に暮らすのだ。あの馬鹿共二人と一緒にな」 「ギリィ、ゲリィ、一緒?」 「そうだ。腐れ縁だからな」 フィフィリアンヌは、少しだけ口元を綻ばせた。セイラはそれを見、嬉しくなって笑う。 「嬉シイ」 「そうか。ならば私も嬉しいぞ、セイラ」 「フィリィ、モウ、泣カナイ?」 「ああ。泣く理由もないからな」 それに、とフィフィリアンヌは膝立ちになって、セイラへ顔を寄せる。 「私が泣くのは、お前のためだけだ。いや、セイラの前でしか、泣けないのかもしれん」 「嬉シイ」 彼女が、心を開いてくれて。セイラは言葉にしようとしたが、上手く発音出来ずに結局言えなかった。 フィフィリアンヌはそれを解ってくれているようで、何も言わずに口付けてきた。セイラの硬い唇に、唇が触れる。 体を離してから、フィフィリアンヌはセイラを見つめた。三本のツノを生やした単眼の異形が、愛おしかった。 「愛しているぞ、セイラ」 「セイラモ、フィリィ、好キ」 少女の深い緑の髪を、セイラは慎重に指先で撫でた。髪の隙間から、甘い匂いが漂う。 「大好キ」 いつのまにか日は暮れて、森は藍色に包まれていた。弱々しい月明かりが、辛うじて明かりとなっている。 暗がりの中、二人は寄り添って言葉を交わし続けた。セイラが眠ってしまっても、フィフィリアンヌは傍にいた。 眠りに落ちる寸前まで、セイラはずっと目を開けていた。彼女の姿を、一時でも逃したくはなかった。 空気どころか体中が温かく、とても心地良かった。 夜明け前、がしゃがしゃとうるさい足音がした。 フィフィリアンヌとセイラの様子を見るために、ギルディオスは伯爵を連れて、森の奧の洞窟までやってきた。 ランプを持った手を掲げ、洞窟の中を照らした。赤っぽい光に照らされ、赤紫の巨体が浮かび上がる。 項垂れて眠るセイラの肩には、フィフィリアンヌが座っていた。まとめられていない髪が、横顔を覆っている。 二人とも、起きる気配はなかった。ギルディオスはランプを下ろし、腰に下げているフラスコに向けた。 「フィル、なんとか辿り着いたみてぇだな」 「うむ。迷っていたなら案内してやろうと思ったのだが、無駄足だったようであるな」 なぜか残念そうに、伯爵は返した。にゅるんと軟質を歪め、フラスコの内側を巡る。 「いやはや。これではもう友人というより親兄弟、いや、むしろ」 「恋人同士ー、ってか?」 ギルディオスは肩を竦め、少し笑った。二人を起こさないように、声を落とす。 「だがなぁ、そういうんじゃねぇと思うんだよなぁ、フィルとセイラは」 「うむ。言うならば、愛である」 「…言ってて恥ずかしくねぇか、伯爵?」 「この女に愛という言葉を使ったことが、恥ずかしくてならないのである」 「あっそ」 解るような解らんような、とギルディオスは伯爵を見下ろした。ごぼり、と明かりで透けている赤紫が蠢いた。 ギルディオスは再びランプを掲げて、フィフィリアンヌへと向けた。白く幼い横顔が、闇の中に浮かぶ。 その表情は心なしか穏やかで、優しかった。ここまで幸せそうなフィフィリアンヌを見るのは、初めてだった。 セイラも、涙に濡れていた頬は乾き、口元は緩んでいた。戦いのときに見せた、笑顔に似た表情だ。 ギルディオスは慎重な動きで、数歩後退った。眠り続ける二人の邪魔をしてはいけないような、そんな気がした。 銀色の拳が伯爵を小突くと、こぽん、と気泡だけで小さく返事があった。なんとも察しがいいスライムだ。 そのまま、二人は異形達を見守っていた。夜明けと共に二人が目覚めるまで、彼女と彼の傍にいた。 弱い風が吹き抜けて、森の木々を歌わせていた。 愛は傷を癒し、涙は温もりとなる。信ずる心は、彼女と彼を繋ぐ。 眠りに安らぐ二人の異形は、ただ、互いを思い合う。 手の届く場所に、愛する者がいることが。 何よりの、幸せなのである。 05 4/21 |