ドラゴンは笑わない




暗き死霊の城



居間の暖炉の炎が、三人と幽霊を照らしていた。
フィフィリアンヌは幅広のソファーを一人で占領していて、脇のテーブルにはうずたかく本が積まれていた。
本棚から手当たり次第に引っ張り出してきたのか、本棚の所々に歯を抜いたような隙間が出来ていた。
暖炉には、日が暮れる前にギルディオスが集めさせられた薪がくべられている。ぱちり、と木が爆ぜて鳴る。
ギルディオスは、暖炉の前に胡座を掻いていた。バスタードソードを抱いて、ぼんやりと炎を見つめる。

「…暇だ」

「本を読めばいいではないか。腐るほどあるのだから」

ソファーに身を預けたフィフィリアンヌは、ぺらりとページをめくる。ギルディオスの隣で、幽霊が頷く。

「そうですよそうですよぅ。私のお気に入りの作家のものばかりですから、外れはありませんよぅ」

「オレ、字ぃあんまり読めねぇんだもん」

「なんということでしょうか。活字を追う悦楽、文章に浸る快感を知らないなんて、生きている意味がありませんよぅ」

首を振りながら、幽霊は大げさに嘆いてみせた。ギルディオスは、ちらりと幽霊を見る。

「オレも死んでるんだよ。気付けよな」

「おやまぁ、そうだったんですか。さっぱり気付きませんでした」

これまた大げさに、幽霊は驚いてみせた。だが、感情の起伏が激しいというより、動きが大きいだけだ。
暗がりに沈む半透明の体は、ほとんど見えないも同然だった。影と重みがないので、存在が昼間以上に希薄だ。
小さいが濁りのない目が、ギルディオスの甲冑の体を見回す。幽霊は、不思議そうに首をかしげた。

「でも、私にはあなたが同類だとは思えませんねぇ。死者にしては生きが良いし、なにより元気すぎます」

「お前に言われたくねぇよ」

「それもそうですねぇ」

けらけらと、幽霊は楽しげな笑い声を上げる。この声だけを聞けば、とてもじゃないが幽霊だとは思えなかった。
この幽霊に同情してしまったことを、ギルディオスは少しばかり後悔した。確かに、鬱陶しいかもしれない。
言動がやたらと芝居掛かっているし、敬語というより、むしろどこか女じみた柔らかい口調なのだ。
ギルディオスとしては、それが鼻に掛かってきていた。高飛車な女と生っちょろい男だけは、どうしても好かない。
だが、先程庇ってしまった手前、今更引き下がれない。そうころころと意見を変えるのは、性分ではないのだ。
しかしそのせいで、幽霊に懐かれてしまった。同情してもらえたのが嬉しくて仕方ないのか、まとわりついてくる。
グレイスだけでも鬱陶しいのに、これ以上増えてほしくない。そう思ったが、ギルディオスは言えなかった。
とにかく嬉しそうな幽霊を突っぱねてしまうのは、あまりにも気の毒だと思ってしまったからだ。
己の中途半端な優しさに苛まれつつ、ギルディオスはフィフィリアンヌを見上げた。彼女は、読書を続けている。
テーブルに置かれた鉱石ランプが淡く光り、少女の横顔を青白く浮かばせている。赤い瞳が、陰っていた。
フィフィリアンヌの目線が本から上がり、暖炉の前の幽霊を捉える。光を受けているせいか、ぎらりとしている。

「しかし、不思議だな。幽霊、貴様からはあまり情念を感じないが、なぜ現世に残っていられるのだ?」

「ああ、それですかぁ。私もそれが不思議でしてねぇ」

ふわりと体を浮かばせ、幽霊はフィフィリアンヌの頭上に滑り込んだ。鉱石ランプの、光の輪の中に浮かぶ。

「無念はないですが、未練があるせいだと思うんですよねぇ」

「あの小説か?」

本に栞を挟んで閉じ、フィフィリアンヌは上半身を起こした。テーブルへ手を伸ばし、ワイングラスを取る。
自宅から持ってきたワインをどぼどぼと注ぎ込むと、一気に呷った。全て飲み干してから、一息吐く。
幽霊はフィフィリアンヌの積み重ねた本の上に乗り、そういうことなんでしょうかねぇ、と首を捻る。

「まぁ、書き上げられなかった小説はもっとありますけどねぇ。それが、よっぽど名残惜しかったんでしょうねぇ」

「他人事のように言うのだな」

「だって、自分のことなのに本当に解らないんですもん」

幽霊はクセの付いている前髪を引っ張りながら、苦笑する。

「別に誰かに殺されたわけじゃありませんし、この城にもそんなに愛着があるわけでもありませんし。まぁー、小説の他にも未練があるとすれば、この部屋の小説を生身で読めなくなっちゃったことぐらいですかねぇ。ホント、どうして私はこんな姿で現世にいるんでしょうねぇ?」

言い終える辺りで、幽霊はギルディオスに向いた。ギルディオスは、顔を逸らす。

「オレに聞くな。知ったこっちゃねぇよ、そんなこと」

「ですけどギルさん、あなたは未練があるんじゃないんですかぁ?」

すいっと浮かび上がり、幽霊は暖炉の前に戻ってきた。炎とギルディオスの間に、するりと入り込む。
目の前に現れた幽霊から、ギルディオスはちょっと身を引いた。膝を立てて、頬杖を付く。

「オレはまぁ、あるっちゃあるけど。女房と子供残して死んだし、借金も返さなきゃならねぇし、色々と引っかかることもあるし。やることやらねぇと、もう一度死ねねぇかもな、オレは」

「借金ですかぁ。うわぁそれは大変ですねぇ」

そう言っているわりには、幽霊は目を輝かせる。そしてすぐさま、己の想像を巡らせ始めた。

「きっとギルさんは、貧しい平民を救うために盗賊と戦って宝物を強奪し換金して平民に配ったはいいものの、実はその宝物がある王族の所有物だったんですね。そして王族から売った分の賠償を迫られて、返済するために戦い続けていたのですがうっかり死してしまい、今は愛する妻子がその借金を背負っているというわけですね!」

「違ぇよ!」

ギルディオスは声を上げ、全力で否定した。幽霊は、不満げに眉を下げる。

「えー、そうじゃないんですかぁ?」

「第一オレは義賊なんかじゃねぇ、剣士で傭兵だ、見て解るだろ! それに借金は、この体になってからなんだよ」

ギルディオスは、後方のソファーに座るフィフィリアンヌを見た。彼女は、ひたすら読書に没頭している。
彼の視線の先を辿った幽霊は、二人を見比べた。ああそうかそうなんですね、と両手を合わせる。

「きっと、フィルさんがギルさんの全財産をふんだくって激しく虐げた挙げ句に、ついには死に追いやったんですね。だからギルさんはフィルさんに復讐するために、冥界の魔王と魂の契約をして、鋼鉄の肉体を持った不死身の戦士として蘇り、復讐のためにフィルさんに近付いたまでは良かったけど、逆に利用された上に振り回されちゃって借金まで背負わされて、終いには下僕扱いされちゃって今に至るというわけですね!」

「違うぞ」

さすがにうるさかったのか、フィフィリアンヌは顔を上げた。細い眉を曲げ、口元を歪めている。
先程の本をテーブルに置いてから、別の本を取った。表紙を開いて、埃の入り込んだページを手で払う。

「私はそのニワトリ頭を、実験として蘇らせただけだ。借金は、その実験の費用と維持費に過ぎん。勘違いするな」

「至って普通で面白くありませんねぇ」

つまらなさそうに、幽霊はギルディオスを見下ろした。ギルディオスは、なんだか疲れてきてしまった。
抱えていたバスタードソードに体重を掛け、がしゃりと背を曲げた。暖炉の火で熱せられ、ヘルムが少し熱い。

「お前なぁ、何を期待してるんだよ」

「だってぇ、暇なんですもん」

幽霊は膝を抱え、暖炉の上に座った。全く、とギルディオスは呟いてから、両開きの巨大な扉へ顔を向けた。
近付いてきた足音が止まり、がちゃりと扉が動いた。荷物を抱えたグレイスが、軽い足取りで入ってきた。
グレイスはフィフィリアンヌの前にやってくると、袋を差し出した。フィフィリアンヌは、灰色の男を一瞥する。

「フィフィリアンヌ。夕飯、買ってきてやったぞ」

「そこに置いておけ。後で食う」

「ほいよ」

グレイスはテーブルに袋を置き、紐を解いて開く。その中から、自分の分の食事を取り出した。
それを持ち、グレイスは跳ねるように暖炉にやってきた。ギルディオスは、体をずり下げて距離を開いた。
グレイスはギルディオスの手前に腰を下ろし、胡座を掻いた。使い走りにされたというのに、上機嫌だ。
無表情に本を読み続けるフィフィリアンヌとは、対照的に思えるほどグレイスは機嫌が良く、にやついている。
ギルディオスはそれが不可解でならず、首を捻った。丸いパンを囓っていたグレイスは、ギルディオスに笑う。

「どうしてオレが機嫌良いのか、そんなに気になるのかー?」

「まぁ、多少はな」

「いいだろう。愛するギルディオス・ヴァトラスのためだ、説明してやろうじゃないか」

パンを半分ほど食べ終え、グレイスはワインボトルの栓を指で叩いた。ぽん、とコルク栓が独りでに抜ける。

「この仕事があまりにもボロいから、浮かれもしちまうんだよ。こんな崩れそうな城をフィフィリアンヌに紹介案内しただけで、金貨がざらざらもらえる。でもって、他人を陥れなくても怒りや恨みが幽霊共からごっそり手に入れられる。幽霊ってのは、それ自体が怨念の固まりみたいなもんだから、効率がいいなんてもんじゃない。マジで楽なんだよ。んで、最後の理由はだなぁー」

グレイスはギルディオスに、実に楽しげな笑顔を向けた。ギルディオスは、ぞわりと背筋が寒くなる。

「…オレか」

「そういうこと。愛する男と一晩を共に出来るんだ、これが嬉しくないわけがねぇよ」

グレイスはにんまりし、ワインを瓶のまま傾けた。ほとんど直角に瓶を立て、喉へと流し込んでいく。
じりじりと後退っていくギルディオスと、とにかく浮かれているグレイスを、幽霊は物珍しそうに眺めていた。

「あの、そちらの黒髪のあなた」

「グレイス。グレイス・ルーだ」

「え、あなた、あの呪殺のルーですか? まだ生きていたんですかぁ?」

「呪殺のルー?」

ギルディオスが幽霊に尋ねると、すかさずグレイスが振り向いた。

「百年ちょい前の、オレの通り名さ。他にも色々とあったんだが、捻りも何もねぇ、一番しょーもないやつだよ」

「なんとまぁなんとまぁ。セイヴァスの戦いで死んだと聞いていたのですが、それは嘘だったんですねぇ?」

幽霊は、意外そうに目を丸める。グレイスが頷くと、丸メガネが暖炉の明かりを反射した。

「まぁな。あの頃、オレは色々と深入りし過ぎちゃって、帝国王国以外の国からも、目ぇ付けられちまったんだよね。んで、帝国のセイヴァス市で起きた帝国と王国の戦争に出されたんだけど、そのセイヴァスで両軍から暗殺されそうになっちゃって。さすがにオレもやばいなーって思ったんで、正直面倒っちかったんだけど、暗殺者共を惑わして、みーんな相打ちにして全滅させて、オレの見た目をした死体を作って切り刻んで、両軍の報告係の記憶をいじって、死亡報告をさせたんだ。だから、王国と帝国の広義の記録じゃ、オレは死んでいるんだ。もっとも、百年も経った今となっちゃ、どっちも信じていないようだがね。オレの死亡報告なんてよ」

「実際、こうして生きていますしねぇ。でもあなたは、セイヴァスの戦いの時点で百を超えていたような」

指折り数える幽霊に、グレイスは面倒そうに返した。

「んなもんどうでもいいだろ。歳なんて、別にオレは気にしちゃいないし。数える気ないし」

「一体いくつなんだよ、お前…」

ギルディオスは、グレイスが空恐ろしくなった。百年前に百歳を超えていたのなら、今は二百以上になるはずだ。
そんな歳だというのに、言動はかなり軽い。外見は魔法で維持出来るが、中身はそうはいかないはずだ。
恐らく、グレイスは相当に気が若いのだろう。その上年齢に無頓着なので、老けるどころか落ち着きがない。
ギルディオスは、改めてグレイスを見てみた。若い外見なので、見ただけでは彼の実年齢を察することは難しい。
さぁなぁ、とグレイスはあっけらかんと笑った。パンと一緒に買ってきたチーズを囓り、食べながら喋る。

「別にどうだっていいのさ、そんなもん。実年齢がいくつだろうが、オレはオレなんだから」

「喰うか喋るかどっちかにしろよ。フィルも充分年齢不詳だが、お前はもっと凄ぇな」

ギルディオスは、唯一会話に参加していない彼女へ目をやる。ようやく、マントと帽子を脱いでいる。
フィフィリアンヌは先の尖った帽子を外してマントも脱ぎ、ぞんざいに丸めて帽子に入れると、ソファーに放った。
腰のベルトに下げた物入れを探り、細長いガラス製の容器を取り出した。あまり大きさのない、試験管だ。
試験管の細い口を塞いでいたコルク栓を抜き、フィフィリアンヌは中身を確かめるため、鉱石ランプに翳した。
その中身に、ギルディオスは見覚えがあった。赤みの多い赤紫の、粘ついた液体が入っている。

「フィル、そりゃ伯爵か?」

「の、二十分の一だ。意識がないから喋らんが、これだけの量でも充分毒味には使える」

フィフィリアンヌは袋から取り出したパンを千切り、試験管に落とした。ぽちょん、と小さく水音がする。
更に、チーズやワインも入れて蓋をした。試験管を指の間で揺らしながら、フィフィリアンヌは中を凝視する。

「色に変化はない。泡も出ん。腐臭もしない。珍しいな、グレイス。貴様が私に毒を仕込まんとは」

「だーから言っただろ、オレは機嫌が良いんだって」

楽しげなグレイスは、フィフィリアンヌに振り返った。青白い光を浴びた少女の影が、本棚に伸びている。
高い天井まで届いている翼のある影は、手が降ろされた。試験管を下ろしたフィフィリアンヌは、座り直した。
背中でよれていた長い髪を直し、足を組む。空になったワイングラスに、新しく赤紫の液体を注ぎ込む。
フィフィリアンヌはワインボトルをテーブルに置き、グラスを取って揺らした。たぽん、と酒が揺らされる。
幽霊は、ありゃまあ、と上擦った声を洩らした。フィフィリアンヌのツノと翼を見、ぽかんと口を開ける。

「フィルさんはドラゴンさんでしたかぁ。いやぁ、竜族なんて見るのは久し振りですねぇ」

「お前、とことん鈍いんだな。普通は瞳の色とか髪の色とか耳の形で気付くだろ」

呆れながら、ギルディオスは幽霊を見上げた。幽霊は、がりがりと髪を掻きむしる。

「いやぁ、なーんか視界に入ってこなかったんですよねぇ。見えていたはずなんですけどねぇ」

「妄想癖のせいだろ。いっつも下らないことばっかり考えてるから、見えるものも見えねぇのさ」

「あー、ひどいですねぇ。まるで私は、空想を通り越して幻覚を見ちゃうほど夢見がちな少女みたいじゃないですか」

「お前、さっきから少女ばっかりだな。好きなのか?」

「年頃の女性は好きですが、小さいのは趣味じゃありません。だから、フィルさんは惜しいんですよねぇ」

本当に惜しい、と幽霊は唸った。グレイスはチーズを飲み下し、幽霊を見上げた。

「そうかねぇ。オレとしちゃ、フィフィリアンヌはあのまんまの方が良いと思うぜ。見た目は人形みてぇなちっこい貧乳美少女なのに、腹の底は深く黒く粘っこい。その落差が好きなんだよ、オレ」

「私としては、フィルさんには七歳ほど成長して頂きたいですねぇ」

「えらく細かいな」

ギルディオスが言うと、幽霊はフィフィリアンヌを指し示した。

「だって、外見は十二歳ほどですもん。あと七歳、十九歳ほどになって頂きたい。さすればすらっと背も伸びて手足も長くなり、胸も尻も出てくれるでしょう。きりっと目の吊り上がった、刃物みたいな雰囲気の女性になってくれること、違いありません。でもその実は寂しがり屋で心を開けないことを悩んでたりしたら、もう最高ですねぇ」

「あ、それはオレもちょっとは解るかも」

「でしょう? いいと思いませんか、実は弱い吊り目美人」

にやけた幽霊は、ギルディオスに顔を近付ける。ギルディオスは、うんうんと頷いた。
フィフィリアンヌは眉をしかめ、口元を曲げている。ワインを飲み干してから、三人を睨み付ける。

「下らん妄想を並べるな。鬱陶しい」

「あーでもさぁ、こいつの言うことの後半は当たってたんじゃね?」

ギルディオスは幽霊を指し、笑う。フィフィリアンヌは顔を背け、嫌そうに言った。

「当たりもしないし掠りもせん。貴様まで何を言うのだ、ギルディオス」

「えーでも、フィル、竜神祭のときにボロ泣きしてたじゃねぇか。実は弱いっての、やっぱり当たってるぜ」

そうギルディオスが言った途端、フィフィリアンヌは振り向いて声を荒げる。

「余計なことを言うな!」

「そう照れなくてもいいじゃねぇか」

「照れてなどおらん!」

ムキになって喚くフィフィリアンヌに対し、ギルディオスは飄々としていた。それどころか、楽しげだった。
ギルディオスと激しく言い合うフィフィリアンヌが、グレイスにとっては物珍しく、かなり意外な光景だった。
竜神祭の後から、フィフィリアンヌは彼に対して態度を緩めている。感情を露わにするのが、その証拠だ。
これはずるいな、とグレイスは思った。ギルディオスがこうならば、セイラには他の表情も見せているのだろう。
その様を想像してみたが、思い浮かばなかった。今更ながら、竜神祭後も竜王都に留まるべきだったと思った。
フィフィリアンヌとギルディオスはひとしきり言い合っていたが、結局、ギルディオスが言い負かされた。
ギルディオスは言葉に詰まり、項垂れた。悔しげに声を洩らしている甲冑に、彼女は背を向ける。

「それ以上言うと、貴様のニワトリ頭を蹴るぞ」

「…へいへーい」

がしゃりと、ギルディオスは座り込んだ。幽霊は、するりとフィフィリアンヌに近付く。

「あのぅ、フィルさん」

「なんだ。貴様も余計なことを言うならば、魔法で蹴るぞ」

「いえ、あの。私、これからどうなるんでしょう?」

「何がだ」

「いえ、ですから、私をここから追い出すとか言ってませんでしたかぁ?」

「追い出されたいのなら追い出してやるが」

「えー、ですけど…」

「貴様。この本は、全て貴様の所有物なのか?」

「何を唐突に。ええまぁ、はい。苦労して掻き集めた、私の宝とも言える小説の山です」

ぐるりと、幽霊は居間を見回した。鉱石ランプと暖炉の明かりが混じり、黄昏時の空のような色になっている。
黄色混じりの赤と、白っぽい青の光が、ぼんやりと幽霊を抜けていた。幽霊は、愛おしげに目を細める。

「これがあるから、私はここを離れたくないんです。どの本にも、色々と思い入れがありまして」

「全部でいくらだ」

フィフィリアンヌは、幽霊の目線を辿るように見上げた。幽霊は少し考えてから、返す。

「そうですねぇ…。現在の価値に換算するといくらかは解りませんが、当時はこれが一冊で銀貨二枚でして、それが十冊で金貨一枚分の値段にはなりますね。本は全部で七百ぐらいはありますから、それを割る十で金貨七十枚、といったところでしょうか」

「百年前の時価は、不況のせいでちょいと高くてな。その頃の銀貨は、金貨一枚くらいの価値はあったかなぁ」

グレイスは、二人に倣って天井を見上げた。ギルディオスは、銀色の指を折る。

「銀貨二枚が七百だから、掛ける二で金貨千四百枚か。中古だから半額だとしても七百にはなるぜ」

「意外なことに希少な学術書もあるし、これだけの蔵書ならば値段も引き上がる。一千枚にはなるやもしれん」

フィフィリアンヌは、ちらりと幽霊を見た。赤い瞳に、半透明の男が映る。

「買った」

「え、でも、買わないで下さいよぅ、私の本なんですからぁ!」

慌てふためき、幽霊はフィフィリアンヌに詰め寄った。フィフィリアンヌは、細い腕を組む。

「その代金を貴様にやったところで、使い道はあるまい。だから、本の代金、およそ金貨一千枚の代わりに」

「…代わりに?」

怯えたような声で、幽霊は呟いた。フィフィリアンヌの小さな手が、幽霊に差し出される。


「本を私との共有財産とすることと、居住を許可しよう。それでは不満か?」


ぱちり、と薪が火の粉を飛ばした。幽霊の薄い影が、炎の動きに合わせて床の上で揺らめいていた。
幽霊は小さな目を大きく見開き、まじまじとフィフィリアンヌを映した。彼女の手は、するりとまた下げられる。
しばらく、二人は睨み合っていた。幽霊の表情は次第に緩んでいき、とても嬉しそうな笑みとなった。

「うわぁなんということでしょうか!」

両手を広げた幽霊は、高々と上げる。まるで、演劇の主人公のような格好だ。

「フィルさんあなたって人はあれですねぇそうですね! 長い間姫君を虐げてきた意地悪なお后だったと思いきや、その実はわざと突き放して成長させ、立派な女王として即位させるような、そんな方だったんですねぇ!」

「例えがよく解らんぞ」

「まぁとにかく、意外だったから嬉しいってことですよぅ!」

うわぁうわぁ、と幽霊は空中で踊り始めた。下手な動きでくるくる回り、本棚の間を擦り抜けては現れる。
フィフィリアンヌはそれを見上げていたが、夕食を食べ始めた。丸いパンに齧り付き、黙々と食べている。
浮かれている幽霊から目を外し、ギルディオスはフィフィリアンヌを見た。結局、なんだかんだで優しいのだ。
だがそれを示すのが苦手な上に、生来の捻くれた性格のせいもあって、普通に優しくはしてくれない。
相手を一度遠のけておいて、それから引き寄せる。面倒といえば面倒だが、彼女らしいといえばらしいやり方だ。
ギルディオスは、また彼女を茶化してやりたくなったが、先程の言い合いで懲りたので言わないことにした。
長い夜の間に、必ずグレイスが近付いてくるはずだ。それを追いやるために、気力を残しておかねばならない。
ふと見ると、グレイスはにやけていた。今にもギルディオスに抱き付いてきそうな、そんな顔をしている。
ギルディオスは決意を強め、ぐっとバスタードソードの柄を握った。これから、戦いが始まるからだ。
好色な男を相手にした、貞操を守るための大事な戦いが。




翌朝。三人と幽霊は、城の庭にいた。
ギルディオスはがっくりと肩を落とし、バスタードソードを引き摺っていた。一晩中抵抗して、疲れ果てたのだ。
寝入ろうとすればグレイスに擦り寄られ、隙あらば腕を絡められ、走って逃げても追いかけてくる。
フィフィリアンヌに何度か助けを求めたが、彼女は起きることすらしなかった。無視されていたのだろう。
亡霊よりもタチが悪い。亡霊は実体がないからこそ怖いのだが、こちらの場合は生身があるから怖かった。
初めて、ギルディオスは女性の心理が解った。好きでもない、むしろ嫌いな男に追いかけられると本当に怖い。
そのグレイスとフィフィリアンヌは、先程から城の回りを歩いていた。棒を引き摺って、地面に溝を作っている。
二人の描いているものは、線ばかりではない。曲線や魔法文字などで、要するに巨大な魔法陣を書いているのだ。
ギルディオスは魔法陣の描き方など知らないので、仕方なく突っ立っている。隣には、幽霊が浮かんでいた。
幽霊は晴れやかな顔で、朝日を見上げていた。爽やかな日光を浴び、心地よさそうにしている。

「ああ、朝ですねぇ。私は朝が一番好きです、暗くなくて」

「そういやぁお前、暖炉とランプを消したら震えてたなぁ」

「はい。お恥ずかしながら、私は暗所恐怖症の気があるもんでして。どうにもダメなんですよぅ、暗いのだけは」

するりと降下し、幽霊はギルディオスと目線を合わせた。ギルディオスは、仕方なく顔を見合わせる。

「…なんだよ」

「あの、ギルさんはグレイスさんとはなんでもないんですよねぇ?」

「あってたまるか」

「でも、追いかけられてましたよね?」

「嫌いだから逃げるんだよ。あんな変態、誰が好きなもんか」

「ああ、なんだぁ。てっきり私は、ギルさんの前世が美少女でグレイスさんの許嫁だったんだけど、ギルさんが死んでいかつい男に生まれ変わってまた死んで甲冑になって、それでもグレイスさんはギルさんを愛し続けているからこそ追いかけていたのかと」

「…思うな。思っても言うな、気色悪ぃ」

「えー、こっちの方が面白いと思うんですけどねぇ」

「ちっとも面白くねぇ。ていうかどっから湧いてくるんだよ、そんな妄想」

「小説書きの性みたいなもんですよぅ」

幽霊は、悪気のない笑みになる。ギルディオスは、あーそうかい、とだけ言って幽霊から顔を逸らした。
これ以上、付き合ってはいられない。いちいち幽霊の妄想に反応していては、疲れてしまうだけだ。
幽霊は感慨深げに、城を見上げた。高い塀と深い森に囲まれている城は、朝見てもおどろおどろしかった。
左側で魔法陣を書き記していたグレイスは体を起こし、曲げていた腰を伸ばした。右側の彼女へ、声を上げる。

「フィフィリアンヌ。こっちは終わったぞ、そっちはどうだー?」

「支障はない」

魔女のような帽子を上げ、フィフィリアンヌは遠く離れたグレイスに向いた。地面を蹴り、体を浮かばせる。
マントの下から翼を出すと大きくさせ、ばさり、と羽ばたいた。小柄な黒い影が、一気に舞い上がる。
高く昇ったフィフィリアンヌは、上空から城の庭に描かれた魔法陣を見回した。うむ、と満足げに頷いた。
するりと下降してくると、その魔法陣の中心である正面の玄関前に降りた。とん、とつま先が地面に付けられた。

「なかなかの出来だ。始めるぞ」

「フィフィリアンヌ。魔力が足りなかったら、手ぇ貸してやっても良いぜ?」

両手を払って土を落としたグレイスは、翼を折り畳むフィフィリアンヌに近寄る。ふん、と彼女は顔を背けた。

「これ以上貴様の手は借りん。あとで何を要求されるか、解ったものではないからな」

「解ってるじゃねぇか」

にやりと笑み、グレイスはフィフィリアンヌに背を向けた。小走りに、ギルディオスらの元へ寄っていった。
グレイスは二人の死者の隣に立ち、遠くに小さく見える少女を見た。呪文を唱えているのか、風が起こっている。
闇を切り取ったようなマントが広がり、ぶわりと上がっている。長い後ろ髪が、踊るように乱れている。
やはり、彼女が心を許しているのは、彼らだけのようだ。伯爵とセイラ、そして、ギルディオスにだけだ。
肝心なところで信用されないのは、いつものことだ。むしろ、そうあることが、フィフィリアンヌと自分の関係だ。
しかしそれでも、少しばかりギルディオスが羨ましかった。グレイスは、軽い嫉妬心すら覚えていた。
フィフィリアンヌの空間移動魔法の詠唱は、順調に進んでいる。魔法陣の内側を、しなやかな風が暴れている。
グレイスがギルディオスを見上げると、彼はすかさず顔を逸らしてしまった。もう、条件反射だった。
城の足元から空間が揺らぎ、硬い土が柔らかな綿のようになった。城が消える直前、グレイスは彼の手を掴んだ。
荒れ果てた古い城が姿を消すのと同時に、ギルディオスの悲鳴が轟いた。




城は、再び空間へと現れた。
軽い震動があった後、足元が固まった。鬱蒼とした森が消え去り、目の前には、澄んだ水を称えた湖がある。
ちぃちぃちぃ、と小鳥の声が聞こえてきた。眩しく煌めく湖面には、城の姿が映り込み、景色を変えていた。
見覚えのある光景に安心しながらも、ギルディオスは腰が抜けていた。どん、と傍らの男を蹴り飛ばす。

「…何しやがる」

直後、無抵抗に蹴られたグレイスが湖に没した。どぼん、と水が跳ね上がり、水面に波紋が出来た。
灰色の影はすいっと浮上してくると、ざばりと顔を出す。水が冷たいのか、笑顔が少し強張っている。

「いいじゃねぇか、手ぐらい握ったって」

「魔法が発動する直前にやるんじゃねぇよ。正直、気が緩んでたときにあれはきっついぞ…」

ギルディオスは、力なく洩らす。グレイスはずり落ちそうな丸メガネを外し、濡れた髪を掻き上げる。

「相手の気が緩んだときに、仕掛けねぇのはただの馬鹿さ」

「そりゃそうだけどよ…」

はぁ、とギルディオスはヘルムを押さえた。上空からは、幽霊の歓声と絶え間ない喋りが聞こえてくる。
冷たい湖から上がってきたグレイスは、ぼたぼたと水を落としていた。服の裾を絞り、三つ編みを解いた。
長い黒髪を捻って水を出し、簡単に後頭部でまとめた。水の入った靴のつま先で、足元に簡単な魔法陣を描く。

「んじゃ、オレは帰るわ。仕事も終わったし、早く帰らないとレベッカちゃんに心配されちゃうし」

「二度と来るなよ」

「やだなぁギルディオス・ヴァトラス、本当は来て欲しいくせにぃ」

「誰もそんなこと思っちゃいねぇ!」

どん、とギルディオスが地面を殴った直後、グレイスの姿は掻き消えた。魔法陣も消え、水溜まりだけが残った。
怒りによって力が戻ったので、ギルディオスはなんとか立ち上がった。城の手前には、彼女が踞っている。
フィフィリアンヌは魔力を使い果たしたのか、眠たそうにしている。不意に、かくんと項垂れてしまった。
小さな姿はよろけると、草むらに倒れ込んだ。ギルディオスが駆け寄ると、フィフィリアンヌは既に眠っていた。
硬く目を閉じて、小さな寝息を立てている。倒れた拍子に帽子がずれて、あまり長さのないツノが覗いていた。
ギルディオスはほっとしながら、フィフィリアンヌを抱き起こした。考えてみれば、彼女は朝食を食べていない。
しかも、巨大な魔法陣を描くために早く起きたため、いつもより睡眠時間は大分削られてしまっている。
そんな状態で魔力を大量に使えば、寝入ってしまうのも当然だ。ギルディオスは、慎重に少女を持ち上げた。
膝の裏と肩を抱き、落とさないようにする。こん、と額が胸元に当たったが、起きる気配はなかった。
ギルディオスはまるで重みのないフィフィリアンヌを抱え、少し笑った。寝顔だけは、あどけない。

「こりゃ、夜まで起きないかもな」

「ありゃありゃあ」

降りてきた幽霊は、するりとフィフィリアンヌの前に出た。穏やかな寝顔と、甲冑を見比べる。

「フィルさん、寝ちゃいましたねぇ。これから、どうするんですか?」

「ひとまずオレらも帰るさ。悪いが、しばらく城を頼むぜ」

「それはもう、頼まれなくとも守りますよ。私の住み処ですし、フィルさんの買ったものですし」

「いやに素直だな」

「なんだかんだで私を受け入れてくれましたからねぇ。がめつくて性根曲がってますけど、一応は恩人ですから」

どうもありがとうございました、と幽霊は頭を下げた。ふわりと上昇し、城へと向かっていく。
ツタの絡み付いた石壁が透けており、陰影が濃く見えた。ギルディオスは、ふとあることに気付いた。

「そういや、お前、名前はなんて言うんだ? まだ聞いてなかったな」

「ああ、そうでしたねぇ忘れていましたよぅ」

振り返り、幽霊は胸に手を当てた。上半身を曲げ、礼をする。

「デイビット・バレットと申します。以後、お見知り置きを」

「じゃあな、デイブ。また来るぜ」

力の抜けたフィフィリアンヌを抱え上げ、ギルディオスは後ろ手に手を振った。深い森へと、歩き出した。
デイビットはしばらくの間、赤いマントの目立つ背に手を振っていたが、すぐに城へ向かっていった。
あの森から抜け出た城は、晴れやかな空の下にいる。大量の亡霊も全て消えたので、雰囲気はとても穏やかだ。
聞こえるのは亡霊の出す騒音や泣き声ではなく、湖の波音や木々の葉音、鳥や虫の小さな声だけだった。
デイビットは勢いを付けて飛び、軽々と城の頂点まで浮かぶ。城の左側にある塔の天辺に立ち、周囲を見回した。
東側の奥に見える巨大な都市は、王都であるようだった。百年前に比べてかなり発展していて、建物も多い。
水辺が近いので、湿気を帯びた風がやってきた。空気が体を擦り抜ける感触が心地良く、清々しかった。
デイビットは、新たなる同居者が戻ってくるのが楽しみで仕方なかった。人が多いと、それだけで日常は楽しい。
フィフィリアンヌとギルディオスの他にも、伯爵とセイラという者も加わるらしく、更に楽しみになってきた。
塔の上で座り込み、デイビットは想像を巡らせ始めた。自分と四人の生活を、思考の中に思い描いていく。
久々に、新しい小説が書き出せそうな気がした。今までは、過去に書いたものを書き直してばかりだったのだ。
何か、いいものが思い付きそうだ。デイビットは沸き起こる創作意欲が押さえられず、意味もなく笑った。
そして、誰に聞かせるでもない妄想を、止めどなく喋り始めていた。




三人と異形に、平穏をもたらすための城。そこには、死霊が憑いていた。
そしてその死霊は、新たなる同居人として、彼らの日々に加わることとなった。
元より奇妙な生活は、更に混迷することは間違いない。

何かしらの騒動が起こるのは、時間の問題である。








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