ドラゴンは笑わない




嗚呼、愛しのシャルロット



それは、少々異質なものに見えた。


封の切られていない白ワインのボトルが、積み重なった本の上に、ぞんざいに転がされていた。
この家でまともにワインを飲むのは、フィフィリアンヌただ一人だ。だが彼女は、赤の方が好きなようだ。
だからこそ、この白ワインがある理由がギルディオスに掴めなかった。ラベルから察するに、質は良さそうだ。
これを持ってきた当のフィフィリアンヌはというと、開けるわけでもなく、その辺りの本を取って読んでいる。
恐る恐る白ワインを手にしたギルディオスは、掲げて眺めてみる。窓から差し込む日光に、緑のボトルが煌めいた。
たぽん、と中で液体が揺らいだ。しばらく見つめていると、ギルディオスは自分の体が恨めしくなってきた。

「飲めるもんなら飲んでやりたいよ」

「私は白は嫌いだ。甘ったるくてどうにも好かん」

「オレは結構好きだな。魚でも食いながら飲むと、旨いんだよ」

せめて体がありゃあな、とぼやきながら、ギルディオスはその白ワインを本の上に戻した。

「で、その白が嫌いなお前がどうしてこんなもん持ってきたんだ?」

「酒蔵を探っていたら見つけたのだ。恐らく、数年前に仕事の報酬と共にもらって忘れていたのだろう」

本から視線を上げずに、フィフィリアンヌは投げやりに答えた。ギルディオスは身を乗り出し、その手元を覗く。
この国の言葉だが、内容はよく解らなかった。読み書き計算を、あまり熱心に勉強しなかったせいだ。
ページの上に細かく押し込められた文字と単語から察するに、古代魔法の考察と研究に関する本のようだった。
小難しい単語と、それを見下ろすフィフィリアンヌの無表情な顔を見比べてから、ギルディオスは尋ねる。

「…面白いのか?」

「貴様には古代魔法の面白さが解らんのか」

学のない奴め、と呟いてから、フィフィリアンヌは背を向けてしまった。長い緑髪が、さらりと滑り落ちた。
ギルディオスは言い返すことを諦め、玄関へ体を向ける。片付けに片付けたおかげで、外は大分まともになった。
窓から見える家の周囲は、伸び放題だった雑草も抜かれ、石の山も家の裏手だ。残るは、井戸と家の中だ。
だが家の中に手を付けるのは一番最後にしよう、とギルディオスは思っていた。ここは、彼女の世界なのだ。
下手に物を動かして、フィフィリアンヌなりに築いてきた秩序を崩すのは良くない。彼は、そう考えていた。
玄関脇に立て掛けておいたバスタードソードを手に取り、背負ってベルトを巻こうとした。が、その手を止める。
ギルディオスは、暖炉前のテーブルに置かれている伯爵のグラスに目を止める。あることを思い付いた。

「伯爵やい」

「なんだねギルディオス。外へは連れ出さないでおくれよ、この季節の外気は乾いていてならぬのだ」

「別に誰も誘ってないんだが」

「それで、貴君は我が輩に何を求めるのかね?」

「白ワイン、飲んでみたらどうだ? フィルが飲まねぇんなら、あんたしか飲むあてがねぇだろ?」

「我が輩は、フィフィリアンヌと酒の趣味は近い。飲んだことはないが、好めそうな味だとは思えぬのである」

「そんなことだろうと思ったよ」

ちょっと肩を竦め、ギルディオスは玄関の扉を開けた。外へ出ると、木々を擦り抜けた風がやってくる。
背中の中程のマントがはためき、布が甲冑に擦れる感触がある。ギルディオスは、腰に下げた剣の柄を握った。
練習相手はいないが、それでも何もしないよりはマシだ。せっかく覚えた戦いの感覚を、忘れたくはない。
がちん、と鍔を鞘から外して引き抜いた。多少傷の付いているバスタードソードに、自分の顔が映る。
腰を落として構え、何度か前に振る。分厚い銀色の刃が振り回され、乾いた空気が風音と共に切り裂かれた。
ざっ、と開いた足を元に戻す。ギルディオスはバスタードソードを肩に乗せ、うんうんと頷いた。

「ちょっと動きが鈍くなったが、まだまだやれるな」

ずしりとした剣を肩から外し、柄を両手で握り締める。先程よりも力を込め、叩き付けるように地面へ振り下ろす。
枯れ葉が数枚散った土へ当たる寸前で止め、同じように数回振り下ろした。だん、と前に出した足を落とす。
その衝撃で葉が舞い上がり、するりと刃を撫でていく。ギルディオスは前方を睨んでいたが、体を起こした。
ふと、後ろを振り返る。あいつがいない背後は隙だらけだな、と思いつつ、バスタードソードの刃先を地面へ向ける。
戦場で背後を守っていてくれたのは、妻だった。指示を出さずとも、呼吸を合わせることの出来る戦士だった。
五年前の戦いでは、彼女を守るために死んだようなものだ。ギルディオスは、なんとなく腹へ手を当てる。
背中合わせに立つ二人の間を叩き切るように、攻め入ってきた敵軍の騎士。馬上から突き出された、騎士の剣。
それを避けきれずに防御の姿勢となったメアリーを、突き飛ばすように割り込んだ。そして、剣は己の腹へ。
あの時の動きは、もう二度と出来ないだろう。ギルディオスはそう思いながら、バスタードソードを握り締めた。
死ぬ間際の記憶は、日に日に再生されつつある。それも全て、フィフィリアンヌが与えてくれる魔力のおかげだ。
彼が倒れたあと、妻は仲間に促されて駆け出していった。喉に血が詰まったせいで、彼女に何も言えなかった。
だがその代わりに、言われた言葉は良く覚えている。返り血と夕焼けに染まった顔で、メアリーは言った。

 すぐに迎えに来るからさ、だから生きていて。お願い、ギル。

甲冑越しに握られていた手が離れて、しばらくした頃にギルディオスの意識は消えた。ここで死んだのだ。
ギルディオスはメアリーに取られていた方の手を見、内心でため息を吐く。彼女の願いは、果たされなかった。
あのあと、メアリーがどうなったかは解らない。だが、彼女は弱い女ではない。必ず、生きているはずだ。
そう願いながら、ギルディオスはまたバスタードソードを振り上げる。また死なないためにも、勘を取り戻さねば。
高々と振り上げた幅広の剣を、思い切り振り下ろそうとした。が、途中でそれを止めざるを得なくなった。
唐突に、妙な声が家の中から聞こえてきた。喜びにむせぶような、だがそれでいて泣いているような声だ。
声から察するに、これは伯爵らしい。ギルディオスはバスタードソードを持ち上げ、がちん、と背中の鞘へ納めた。

「君はなんと素晴らしい女性なのだろうシャルロット! 我が輩は君に出会えたことを、一生の喜びとしようぞ!」

聞き覚えのない名前が混じっている。伯爵の声は、まだ続く。

「ああ、なぜ今の今まで我が輩は君を知らなかったのだろう! 愛しているよ、シャルロット!」

「…しゃるろっと?」

ギルディオスはそう呟きながら、がりがりと頭部を掻く。感傷の記憶を邪魔されたようで、少々気分が悪い。
伯爵はいつにも増して饒舌だった。言う言葉は全て愛の言葉で、それは全てシャルロットに向けられている。
だが、ここまで騒がしい伯爵を咎めるフィフィリアンヌの声は、少しもしてこない。これはいつものことだ。
しばらくしても、声は止まない。それどころか、どんどん伯爵は調子に乗ってきて、饒舌に喋り続けている。
さすがに中のことが気になりだしたギルディオスは、玄関の階段を昇って扉を開け、室内を覗き込んだ。
机に座り、読書を続けていたフィフィリアンヌは、凶悪なまでに不機嫌な形相をしていた。伯爵がうるさいからだ。
体の半分ほどを家の中に入れたギルディオスへ、フィフィリアンヌは顎で伯爵を示した。その先には、グラスがある。
伯爵は、いつのまにか窓枠へ移動していた。その傍らには、封の切られたあの白ワインのボトルがあった。
ごとん、とグラスをずらして前進した伯爵は、にゅるりとワインレッドの体を溢れさせて白ワインのボトルに絡めた。

「ああ、愛しきシャルロット! この我が輩の愛の全てを受け取」

「黙れ伯爵、そいつがシャルロットなのか?」

べったりと白ワインのボトルへ張り付いた伯爵を剥がし、ギルディオスは声を上げる。いい加減に、止めたかった。
普段よりも心持ち色の薄い伯爵は、ぐにゅりと動いた。ギルディオスの手から脱し、どぼんとワイングラスに戻る。

「我が輩とシャルロットの邪魔をしないでくれたまえ、ギルディオス。なぁシャルロット?」

伯爵の先端が伸ばされ、ゆるやかな動きでワインボトルのラベルを撫でる。ギルディオスは、それらを見比べた。
だが、どこをどう見ても、これはただの白ワインだ。コルク栓の抜かれたボトルからは、芳醇な香りが漂っている。
ギルディオスは両者を眺めたが、事態が飲み込めなかった。フィフィリアンヌを見ると、嫌そうに目元を歪めている。
フィフィリアンヌは、本の上に置いてあったワインを飲み干した。だん、とグラスの底を机に叩き付ける。

「…私が愚かだった」

「これ、フィルのせいなのか?」

まだ騒いでいる伯爵を指してギルディオスが尋ねると、フィフィリアンヌは顔を背けた。

「ほんの出来心だ。伯爵に白ワインを落としてみたらどうなるか、実験してみたのだ」

「はっはっは、感謝するぞフィフィリアンヌ。麗しいシャルロットに、我が輩を出会わせてくれたのだからな」

「うるせぇ伯爵。フィルでも変なこと考えたりするのなー、ちょっと意外」

「下らん思考はろくな結果を引き起こさないと、知っているはずだったのだがな…」

苦々しげに吐き捨て、フィフィリアンヌはワイングラスへ乱暴にワインを注いだ。それを煽り、息を吐く。
ギルディオスは伯爵から離れ、彼女の座る机の前に立った。机に広げられている本は、先程よりも文字が細かい。
また、彼はその断片だけ読んでみた。今度の本は魔法ではなく、錬金術に関するものようだった。計算式もある。
フィフィリアンヌは、額へ手を当てる。溜め息を吐いて小さな肩を落とし、上目にギルディオスを見上げる。

「それでどうする」

「オレが聞きたいよ。スライムの黙らせ方なんて、知るわけないだろ」

「だろうな。貴様に聞いた私が馬鹿だった」

栞を挟んで本を閉じ、空になったワイングラスをボトルの口に被せる。それを本と一緒に抱え、立ち上がる。
フィフィリアンヌは階段へ向かうと、昇っていった。半分ほど昇ってから立ち止まり、ギルディオスへ振り返る。

「ギルディオス、あとは任せる。仮にも色恋沙汰なのだ、私の手の出せるような問題ではない」

「いや、それもこれもお前のせいだろ」

「薬の納期が迫っているのだ、私は忙しい」

「だったらなんで悠長に読書してるんだよ」

「ええいとにかく、伯爵は貴様に任せた!」

宣言するように叫んでから、フィフィリアンヌは階段を駆け上がっていった。ばたん、と寝室の扉が閉められた。
止めようと思って前に出した手を、ギルディオスはだらりと下ろす。完全に、押し付けられてしまった。
背後では、まだ伯爵が白ワインへ愛の言葉を囁いている。どれもこれも、歯の浮きそうな口説き文句ばかりだ。
君は我が輩の半身、や、シャルロットこそこの世の美、や、君と我が輩の血族はさぞ優秀になることだろう、など。
このスライムは白ワインと結婚するつもりなのか、馬鹿じゃねぇのかお前は、と、ギルディオスは内心で呟いた。
だが、それを口に出していう気力は、とてもじゃないが残っていなかった。




「ごらんシャルロット。我が輩達のことを、月が見ているぞ」

開け放たれた窓際で、ワイングラスが白ワインのボトルへ寄り添った。ボトルの中身は、五分の一ほど減っていた。
ギルディオスはテーブルにへばりながら、窓の向こうの夜空を見上げた。月明かりに、木々が照らされている。
伯爵はすいっと先端を伸ばし、白ワインのボトルの中へ先端を落とした。すると、僅かに中身が吸い上げられる。
白ワインを飲むたびに、伯爵の愛の言葉は調子に乗っていく。つい先程、君こそ世界の全て、と伯爵は言った。
ギルディオスはいい加減にこの場から逃げたかったが、気力が果てすぎて起き上がりたくもなかった。
ちらりと階段の方を見ても、何の気配もなかった。寝室にこもったまま、フィフィリアンヌはまるで出てこない。
薄情だ。あまりにも薄情だ。ギルディオスは泣けるものなら泣きたかったが、肝心の涙が出てこなかった。
仕方ないので、ヘルムの部分を開け放っていた。ぽっかりとした空洞に、冷たい夜風が滑り込む。
それは空っぽのギルディオスへ入り、胸の中心に据えられた魔導鉱石を撫でていく。少し、心地良い感触だ。
かれこれ半日以上、伯爵は喋り通しだ。よくもまあ飽きずに、と、ギルディオスは空洞の顔を上げる。

「そうとも、我が輩の愛は永遠だぞシャルロット。なあに、君の魅力に叶う女性などおらんよ」

と、伯爵は愛おしげな口調になりながら笑った。当然ながら、白ワインからの返答はなかった。
葡萄酒のどこが美しいのか、ギルディオスには見当も付かなかった。そもそも、どの辺りが女性なのか。
確かに白ワインの味は、独特の渋みがある赤ワインよりはまろやかで女性らしいかも知れない。だが、液体だ。
まともに伯爵の感覚を考えようとしたギルディオスは、すぐさま断念した。スライムの感覚など、解るわけもない。
ふわり、と上下式の窓の脇でカーテンが揺らいだ。フィフィリアンヌのローブよりは色の明るい布地が、広がる。
夜風が弱まると、引き戻されるようにカーテンは窓へ近付く。厚みのある灰色の布が、ワインボトルに触れた。
カーテンの布が、ワインボトルの口に引っかかったように見えた。するとまた、夜風が部屋へと入り込んでくる。
ごとん、と重たい音がした。直後、カーテンに引っ張られる形で、白ワインのボトルは大きく傾いた。

「シャルロットォ!」

伯爵の絶叫に、ギルディオスはヘルムを戻して窓枠を見た。ぐらりと傾いたボトルが、窓枠からずれていく。
そして、ついに滑り落ちた。どごん、とボトルが床板に当たって転げ、同時にばしゃりと中身が散る。


「シャァアルロットォォォア!」


ワイングラス一杯分のスライムが発したにしては、かなりの声量だった。ギルディオスは、起き上がる。
鎧で作られた体が揺れたような気がしたが、気にしないことにした。伯爵は、窓枠で呆然としているようだった。
恐る恐る伸ばされた触手が、床に横たわる白ワインのボトルへ伸ばされる。細長い先端が、ぺたりと床に触れた。
ゲル状のワインレッドの先端が、ふるふると震えている。まるで人間のように、スライムは動揺している。

「…ぉおお、おおおおぅ!」

「こぼれたな」

「なぜそれほどまでに冷静でいられるのかね、ギルディオス! 我が輩のシャルロットが、我が輩の女神が!」

びしりと触手をギルディオスへ向け、伯爵は声を震わせる。遂に、女神にまで昇格したらしい。

「半分以下になってしまったではないかぁ!」

「栓もしないで、窓枠に置いてたのが悪いんだろ。後でそこんとこ掃除しないと、べったべただな」

「少しはシャルロットを案じたらどうだね、この木偶の坊め!」

「オレは関係ないぞ。本気で関係ないんだぞ」

「全く…。ああ、なんと哀れな姿だろうシャルロット、ああ、せめてあのでかいだけの馬鹿が君を受け止めていれば」

「無茶言うなよ」

淡々と切り返しながら、ギルディオスは窓とテーブルの距離を眺めた。五六歩分の距離が開いている。
その距離を一瞬で詰めて、あまつさえ落ちかけているワインボトルを受け止めるのは、物理的に無理なことだ。
ギルディオスは、大柄ということもあって身軽な方ではないし、だからこそ重剣士になったようなものなのだ。
彼はその辺りのことを、伯爵へ説明しようとしたが、やめた。ギルディオスは、足音のした階段を見上げた。
ただでさえ吊り上がり気味の目を吊り上げたフィフィリアンヌが、先日研いだばかりの斧を担いで突っ立っていた。
フィフィリアンヌの穏やかでない様子に、ギルディオスは苦笑した。がしゃりと肩を竦め、両手を上向ける。

「オレにあんまり期待するんじゃねぇぞ」

「ああ、よく解った」

とん、と斧の柄を肩に乗せ、フィフィリアンヌは牙の覗く口元を歪めた。

「貴様に期待していいのは、腕力と戦闘能力だけのようだからな」

「で、フィル。どうする気だ?」

「どうもこうもない。ここまで騒がれては、集中出来るものも出来ん」

とんとんと階段を下りてきたフィフィリアンヌは、斧を下ろした。ギルディオスの脇へ抜け、窓へ向かう。
小さなドラゴンの翼が生えた背が、窓の前で止まった。銀色に磨かれた斧の刃が、ランプの明かりでぎらつく。
床に転がされたままの白ワインのボトルに、彼女の影が出来た。その後ろで、伯爵の触手がびくりとする。
するすると縮んだ伯爵は、つるんとワイングラスに戻った。そして、ことん、と小さく動いて後退した。

「…何をするつもりだね、フィフィリアンヌ」

「ふっ!」

息を漏らしながら、フィフィリアンヌは斧を振り下ろした。どがん、と重たい打撃音が部屋中に響いた。
足を大きく広げたため、両方に深いスリットの入ったローブから細い足が出た。だが、彼女はそれを気にしない。
足の間には、床板に深く打ち込まれた斧が見えた。そのすぐ脇には、白ワインのボトルが転がっている。
フィフィリアンヌは体を起こすと、ずっ、と斧を引き抜いた。湿った細かい木片が、ぱらぱらと散る。

「次は外さん」

「ま、待ってくれ、フィフィリアンヌ! 我が輩の女神を、シャルロットをどうするつもりなのであるか!」

「伯爵。貴様が黙れば、私の斧がそのシャルロットを砕くことはないぞ?」

「…なんということだ」

やけに深刻な声を出し、伯爵は押し黙った。フィフィリアンヌは斧の先を、伯爵へ向ける。

「さあ、選択は二つに一つ。貴様が黙るか、シャルロットが消え去るか、そのどちらかだ!」

「ううむ…。我が輩の創造主たる女が、我が輩の敵となろうとは…。だが、恋に障害は付きものなのだ」

にゅるっとワイングラスから溢れた伯爵は、ぐいっと体を持ち上げる。月明かりで、表面が少し青白い。
突き付けられている斧の刃先へ、ワインレッドが近付く。銀色の刃先が、伯爵の半透明な体にぐにゅりと埋まる。

「覚悟を決めたぞ、フィフィリアンヌよ」

「ほう?」

片方の眉を上げ、フィフィリアンヌは伯爵を見据えた。伯爵は、声を上げる。

「我が輩は、シャルロットの犠牲となろうぞ。シャルロットのために、黙ることを今ここに約束しよう!」

「なかなか見上げた心掛けだぞ、伯爵。その誓い、忘れるなよ」

「忘れるものか。我が輩とシャルロットは、生きるも死ぬも一緒なのだ」

「んな大袈裟な」

やる気のない声で、ギルディオスは呟いた。この寸劇のせいで、もうこのことからは興味が失せ始めていた。
おまけに、フィフィリアンヌまで調子に乗っているようだった。あまりにも、口調が芝居がかっている。
さすがにこれ以上、付き合っていられない。そう思い、ギルディオスはテーブルに突っ伏すことにした。
明日は、フィフィリアンヌが打ち砕いた床板を直さなければ。彼の思考は、もうそちらに移ってしまっていた。
ギルディオスが寝入り端に聞いたやり取りでは、この妙な事態にはなんとか収拾が付いていたようだった。




数日後。
例によって、ギルディオスは外にいた。白ワインの染み込んだ床板をばらして砕き、薪にしているところだった。
近頃の伯爵はフィフィリアンヌとの誓約を守っているため、静かになっていて、とりあえず平和が続いていた。
穴の開いた床板の切れ端を、ギルディオスは半分に折り曲げて割った。すると、不意に空気が揺れた。



「おおおおおぉぉぉう!」



「今度は何なんだよ…」

ギルディオスは数日前の出来事を思い出しながら、面倒そうに腰を上げる。状況だけは、確認しておきたい。
木片を薪置き場へ放ってから、扉を開けて中へ入る。作業台には、乳鉢を抱えているフィフィリアンヌがいた。
彼女は陶製の乳鉢の中に、いくつか並べてあるビンから何かの粉末を入れる。そして、それをがりがりと砕く。
妙な色の粉を乳棒で混ぜつつ、フィフィリアンヌはテーブルの方を指した。ギルディオスは、そちらを見る。
栓を開けられたままの白ワインのボトルの前に、伯爵がいる。ワイングラスが、がたがたと僅かに震えていた。
ボトルの中身は空で、どうやら蒸発してしまったようだった。ギルディオスは、呆れ果てながら呟く。

「だから、蓋くらいしろっての」

「シャアァァルロットォォゥアアア!」

ごぼごぼと気泡を溢れさせながら、伯爵は叫ぶ。声からして、これはどうやら泣いているらしい。
乾き切った緑色のボトルを、ギルディオスはしばらく見つめていた。そして、彼女のいる作業台へ振り向いた。
無表情に作業を続けるフィフィリアンヌは、ちらりとギルディオスを見たが、また手元へ目線を戻す。

「ギルディオス。何があっても、白ワインを持ち込んではならんぞ」

「ああ、そんくらい解ってるさ」

ギルディオスは、沸騰し続ける伯爵を眺めた。

「オレもそこまで、馬鹿じゃねぇよ」




静かな森に、絶叫が響き渡っていく。
石造りの家の回りから、ばさばさと鳥が飛び立っていった。
そして、もう一度。叶うはずのない相手に恋をした、スライムの嘆きが広がって消えた。

彼と彼女の逢瀬は、二度と訪れることはないのである。






04 10/13