ドラゴンは笑わない




愛しの我が家



ギルディオスは、突っ立っていた。


城の正面玄関前の水面に、セイラの下半身が没していた。上半身は、ぐったりと仰向けになっている。
その脇で、フィフィリアンヌが心配げに屈み込んでいる。擬態に戻ったばかりなので、後ろ髪は結っていない。
赤紫の巨体は、苦しげに唸り声を洩らしていた。金色の単眼は虚ろで、ぼんやりと虚空を見つめていた。
つい先程、フィフィリアンヌは竜王都から、セイラをこの城へ連れてきた。空間移動魔法を使うことなく。
ギルディオスと伯爵を竜王都に連れていったときのように、竜の姿に戻り、その背にセイラを乗せてきたのだ。
気温が低く空気の薄い空中を四時間以上も飛ぶ上に、フィフィリアンヌの飛行はお世辞にも丁寧とは言えない。
結果、セイラは酔ってしまったのだった。慣れない移動の疲れもあって、すっかりへばってしまっていた。
セイラは三本のツノが目立つ頭を反らし、牙の並ぶ口を少し開いた。ヴァー、と辛そうな声を出した。

「フィリィ、セイラ、頭、ガンガン…」

「セイラ、口を開けろ。鎮静剤だ」

セイラの顎へ手を添え、フィフィリアンヌは優しげな声色になる。セイラは恐る恐る、大きく口を広げた。
フィフィリアンヌは体を起こし、手にしていた瓶を傾けた。色の濃い液体が、牙の並ぶ口の中に注ぎ込まれる。
セイラは太い喉を動かし、飲み下した。半開きの口から長い舌がでろりと伸ばされ、ぐにゃりと曲がった。

「ニガ」

「しばらくそうしておけ。寝て起きてしまえば、楽になっているはずだ」

フィフィリアンヌはセイラの頬の辺りを、ゆっくりと撫でてやった。セイラは舌を戻し、僅かに頷いてみせた。
深く息を吐いたセイラは、体の力を抜いた。水面下で土を巻き上げながら、大きな足が泥の中へ沈んでいった。
良い子だ、とフィフィリアンヌはセイラの首付近に寄り掛かった。腕を乗せて、赤紫の肌に頬を寄せる。
城の正面玄関に立ったギルディオスは、その光景を見下ろしていた。足元には、伯爵の入ったフラスコがある。
すぐ背後で、半透明の固まりが浮いていた。デイビットは湖畔にいる二人の姿を、物珍しげに眺めている。

「なんていうか、物凄い光景ですねぇ。いやしかし、あんな姿をした魔物なんて初めて見ましたよぅ」

「セイラは自然の魔物じゃなくて、人造なんだ。見たこともなくて当然なんだよ」

ギルディオスは、少女に寄り添われているセイラを見下ろした。セイラは辛そうだったが、幸せそうにも見えた。
竜王都に一人残されていたセイラは、十数日間もフィフィリアンヌと離れていたが、特に何もなかったようだ。
セイラを好いているもう一人の竜族、エドワードはやはり信頼出来る男だ。少々堅いが、それは真面目さの証だ。
ギルディオスは空を見上げ、内心でエドワードに礼を言った。次に会ったら、まず最初に感謝をしよう、と思った。
身を乗り出してセイラをまじまじと見ていたデイビットは、にんまりと笑った。そして、妄想を吐き出す。

「きっとセイラは、どこぞの国の将来有望な王子だったんですが、呪いを掛けられてあんな姿に変えられてしまい、その上魔力を奪われて深い森に追いやられて、自分に呪いを掛けた魔女から逃げながら暮らしていたんですね。それを見つけたフィルさんが一発で彼の正体を見抜き、セイラにまだ残っていた王位継承権や王国の莫大な財産をふんだくるために近付いたはいいんですが、うっかり愛し合っちゃって今に至るというわけですね!」

「違うのである。もしそうであったとしても、あの女は地位や名誉には興味がないのである」

ごとり、とフラスコが前進した。デイビットに向けて、伯爵はうにゅりと体を伸ばす。

「フィフィリアンヌが欲するものは活字とワインと金、それだけなのであるぞ」

「そういうこった。しかしデイブ、お前の妄想は外れてばっかりだな」

ギルディオスは振り返り、幽霊を見上げた。デイビットは、楽しげに笑う。

「そりゃあ妄想ですもん。むしろ、当たっている方が怖いですよぅ」

「その割にゃ、外れると残念そうだぞ」

「当たると怖いですが、当たっていた方が何かと面白いじゃないですかぁ」

デイビットはにやにやしていたが、ギルディオスはその感覚が今ひとつ解らず、首を捻る。

「そういうもんかねぇ」

セイラに話し掛けているフィフィリアンヌの声は、いつになく穏やかだった。口調に棘はなく、言葉も優しい。
それに答えるセイラも、ようやく会えた主にしきりに言葉を掛けている。薬が回ってきたのか、少し不明瞭だった。
二人の愛情に満ちたやりとりに、ギルディオスはなんだか嬉しくなった。これで、また二人の幸せが戻ってくる。
背中に乗せた大きなバスタードソードを、がしゃりと担ぎ直した。デイビットの下を擦り抜け、階段を下りる。

「ちょっと行ってくらぁ。夜までには戻る」

「これはこれは珍しい。ギルディオスよ、貴君の用事などたかが知れているが、敢えて尋ねてやろうではないか」

にゅるりとスライムが歪み、内側からコルク栓を押し上げた。伯爵は、甲冑の背に振ってみせる。
階段を下りきったギルディオスは、少々面倒そうに振り向いた。こん、と逆手にバスタードソードを小突く。

「こいつの修繕をしてぇから、メアリーに金を借りようと思ってさ」

「メアリーさんて、ああ、ギルさんの奥さんですね。でもそれぐらい、フィルさんに借りればいいじゃないですかぁ」

既に借金してますし、とデイビットが言うと、ギルディオスはがしゃりと大きな肩を竦める。

「だからフィルに借りたくはねぇんだよ。これ以上借金したら、もっとこき使われちまう」

「はっはっはっはっはっはっは、それは違いないのである」

巨大な剣を乗せたギルディオスの後ろ姿に、伯爵は可笑しげな声を上げた。

「長い間家に顔を出さなかった上に、妻に借金の申し出とは。ダメな亭主の典型であるな、ニワトリ頭よ」

「うるせぇ! んなこたぁ解ってるよ!」

力一杯言い返し、ギルディオスは早足で森の方へ駆け出した。がしゃがしゃと、重たい足音が遠ざかる。
フィフィリアンヌとセイラに手を振ってから、甲冑は大股に走り始めた。あっという間に、森の中に消えていく。
次第に足音も小さくなり、聞こえなくなった。あの体格と体重の割に、彼は走るのが速いようだった。
フィフィリアンヌはセイラの肩に身を預け、ギルディオスの去った方を見ていたが、またセイラに向いた。
今は、ギルディオスよりもセイラだった。大きな単眼は硬く閉ざされ、厚い胸が静かに上下している。
眠ってしまった異形を、フィフィリアンヌはついっと撫でる。久々に触れたので、一層愛しさが増していた。
太い筋の張った首筋に額を当て、目を閉じた。冷たく硬い肌の奧から、彼の体温が感じられた。
それが心地良く、フィフィリアンヌは表情を僅かに綻ばせた。




王都の中央通りから離れた位置に、住宅街の通りがある。
一番太い通りから二つの通りを挟んで引っ込んでいて、それなりに財産を持っている家庭の家が並んでいる。
二階建てで窓ガラスの填った、少々の庭を持つ家が多い。ヴァトラス一家の家も、そこに建てられていた。
更に奧に進めば、どんどん家の質は落ち、住民達も貧しくなっていく。一番奥は、貧民街になっている。
なので裏通りの住宅街は、丁度、王都の明と暗の中間にあった。どちらでもないが、どちらでもある街だ。
ギルディオスは商店の並ぶ中央通りを走り抜け、途中で曲がった。家までの道は、今でもしっかり覚えている。
野菜を並べる店の角を曲がり、怪しげな占い師の家の隣を通り、魔導技師の工房の前を通った三軒先。
そこで、ギルディオスは立ち止まった。がしゃり、と背中に剣が当たり、甲冑が少し揺さぶられた。
一歩引いて、家を見上げた。十年前に必死に稼いだ金で建てた家は、年月は経っていたが変わっていない。
二階建てで、横幅のない家。剣術の修練のために庭を広く取ったから、家自体は狭くなってしまったのだ。
庭先には、洗濯物が揺れていた。メアリーは一仕事終えたようで、彼女の甲冑も磨かれて乾かされている。
ランスが育てているのか、魔法薬に使う薬草の鉢植えが庭に並んでいた。どれも、青い葉が伸びていた。
二階の窓は開け放たれていて、カーテンが揺れていた。二階の玄関側の窓は、夫婦の寝室のものだ。
ギルディオスは無性に切なくなりながら、目線を下げた。玄関脇の右側の窓は、台所に繋がった居間の窓だ。

「変わってねぇー…」

居間の窓には、斜めに大きく傷が走っている。あれは、ランスが幼い頃、魔法を暴発させて作ったものだ。
それをなんとか魔法で修繕したのだが、あの頃はランスも魔法の扱いが下手で、完全には修理が出来なかった。
だが今日は、そのランスはいないようだった。二階から物音もしないし、なにより人の気配がない。
ギルディオスは玄関脇の柵に手を掛け、ぐるりと周囲を見回した。メアリーがいれば、すぐに出てくるはずだ。
メアリーは魔力は少ないが勘が良く、人の気配や物音には敏感だ。だから、出てこないということは、いないのだ。
ギルディオスは残念な気分になりながら、玄関前に座り込んだ。大方、買い物にでも出ているのだろう。
帰ってくるまで待つしかないかな、とギルディオスは思い、背中に手を回した。ずっ、と鞘から剣を引き抜く。
真昼の日光の下に晒してみると、思っていた以上に相棒は痛んでいた。所々、刃こぼれを起こしている。
慎重に、刃の欠けた部分をなぞった。かつっ、と銀色の指先が引っかかり、硬い金属音を立てた。

「ちぃとやばいな」

重たい剣を目線まで上げて、横にしてみた。鈍い銀色の線は真っ直ぐではなく、微妙な歪みがある。
使い込めば、いくら鋼鉄とてくたびれてくる。どれだけ強度があっても、綻びが生まれてしまえば崩壊を起こす。
ギルディオスは刃と睨み合いながら、ぎしり、と首を前に倒した。甲冑の関節も、心なしか硬くなっている。
毎日のように関節へ油を差して表面も磨いているが、摩耗や錆は起きてしまうものだ。体も、直さねばならない。
この甲冑の体がなければ、今の自分は戦うことすら出来ない。生身があれば別だが、それが朽ちているのだから。
ギルディオスはバスタードソードを下ろし、ガントレットの右手を開いた。がしゃり、と軽く力を込めて握ってみた。
意思の伝達は鈍っていない。竜王都での戦いの後、フィフィリアンヌに修理と調整をされたので、むしろ良くなった。
だが、ランドを殺した際や、先日の戦闘で血が染み込み、関節が硬くなっている。これでは、戦いに支障が出る。
いざというときに体が動かなければ、そこで一気にやられてしまう。そうなってしまっては、元も子もない。
ギルディオスは右手を広げて指を曲げ、少し計算してみた。どれくらい金を借りれば、剣と体を直せるのか。

「えーっ、とぉー」

鍛冶屋ガロルドで剣を直したとして、鍛え直すために、まずは金貨五枚。研磨には、更に五枚必要だ。
防具屋に甲冑の手入れを頼むと、全身鎧なので通常より値段が高い上に、割増料金となってしまう。
最低でも金貨二十枚は掛かり、諸々の雑費でもう少し増えるだろう。なので、金貨三十五枚は必要と見ていい。
ギルディオスは、情けない気分になってきた。妻とはいえ、妻だからこそ、そんなに借りるのは憚られる。
しかし、整備に手を抜けば賞金稼ぎ達に倒されてしまう。ギルディオスは腕を組み、唸ってしまった。
しばらくそうしていると、メアリーが帰ってきた。買い物カゴを下げ、玄関先に座る夫を不思議そうに見下ろした。

「何やってんだい、ギル」

「あ、お帰りぃ」

ギルディオスは立ち上がり、妻に手を挙げた。足元からバスタードソードを拾い上げて、肩に担いだ。
メアリーは玄関の扉を開けて、いきなり帰ってきた夫に少しばかり訝しげな顔をしたが、中に入るように言った。
暗い赤のエプロンドレスを着た妻の背を見、ギルディオスは申し訳なくなってきた。だが、今更後に引けなかった。
ここまで来たのだから、腹を括って金を借りるべきだと思った。


居間のテーブルで、メアリーは腕を組んでいた。
長い足も組み、じろりと夫を見た。向かい側に座るギルディオスは、精一杯大きな体を縮めていた。
二人の間には、食器ではなくバスタードソードが置かれていた。テーブルからはみ出るほど長い、彼の剣だ。
メアリーは色のくすんだマグカップを取り、ぐいっと紅茶を傾けた。どん、とそれを置き、低い声を出す。

「なんだいそりゃあ」

「いや、ホント、すまん」

「やっと帰ってきたと思ったら、女房に借金の申し出かい」

「うん。死にてぇほど情けねぇ」

がりがりとヘルムを掻き、ギルディオスは小さく呟いた。メアリーは、深く息を吐く。

「金貨三十五枚なんて、あたしも簡単には作れないよ」

「今後のためを思えば、うん、まぁ、安いっちゃあ安いんだが」

「ちっとも安くないよ! あたしの稼ぎくらいはあるじゃないか!」

と、メアリーはギルディオスを睨んだ。ギルディオスは、首をすぼめた。

「賞金稼ぎを倒して稼いだ金に頼ろうと思うとだな、その、多少っつーか、かなり時間が掛かっちまいそうなんだ」

「フィルに、賞金の九割九分ぐらい取られちゃうんだろ」

「…よく解るな。その通りだ」

「あの子の思考は、なんとなぁく掴めるんだよねぇ。複雑そうだけど案外単純だから」

メアリーはマグカップに紅茶を注ぎ、湯気を吹いた。砂糖を入れて、スプーンで掻き回す。

「でもまぁ、やろうと思えば作れない金じゃあないねぇ」

「マジか!?」

身を乗り出したギルディオスに、メアリーは頷いた。片手で、庭の方向を指す。

「物置に、あんたの買い集めた刀剣類がごっそり余ってるだろ? 使ってないのが」

「あ、ありゃあオレの趣味だ! 刀剣の収集は、唯一の趣味なんだよ!」

ギルディオスは、次第に嫌な予感がした。メアリーはにやりと笑み、ギルディオスの顔を指す。

「あれを全部売っ払ちまえば、結構いい金になるんじゃないのかい?」

「ま、まぁ…そりゃあ」

がっくりと、ギルディオスは項垂れた。自宅の物置に詰め込んである刀剣のコレクションは、数だけは多い。
傭兵の仕事で遠出したときに買ってきたものや、知り合いから譲ってもらったものや、衝動買いのものなど様々だ。
いつも使っているバスタードソードに近いものや、絶対に使わないであろう細身の剣や、短剣長剣と色々ある。
大半は使っていないので綺麗だし、中にはごく希に値打ちのある剣もあったりするので、確かに売れるだろう。
しかしそれは、ギルディオスが稼ぎを工面して必死に買い集めたもので、愛着もある。簡単には手放したくない。
だが、メアリーの言うことももっともだ。どうせ使わないのであれば、売ってしまった方が物置もすっきりする。
ギルディオスはメアリーの意見を聞き入れたいのは山々だったが、どの剣にも思い入れがあり、惜しかった。
妥協出来ずにギルディオスが唸っていると、メアリーはずいっと身を乗り出し、顔を寄せてきた。

「まぁでも、他に金を作る手段がまるっきりないってわけでもないんだけどねぇ」

「…本当か?」

ギルディオスは、おずおずと顔を上げた。目の前で、メアリーはにぃっと笑う。

「ああ。でもその前に、まずはうちの手伝いをしてくれないかい?」

「いや、なんでそこでそうなるんだ?」

「ちったぁうちの仕事を手伝っておくれよ、旦那なんだから。そんなこと言うなら、すぐにでも物置を片付けちまうよ」

「解ったよ。んで、何をすりゃいいんだ」

メアリーは満足げに笑み、立ち上がって居間から出て行った。ギルディオスは仕方なく、彼女を追う。
廊下を歩く音がし、メアリーは庭に向かっていった。ギルディオスは居間から出かけたが、一歩後退した。
久々に見る居間は、少しだけ変わっていた。メアリーとランスの食器が増えて、自分のものがなくなっている。
棚には、ランスが好きな砂糖漬けの瓶が増えていた。ああ見えて、ランスはかなりの甘党なのだ。
ギルディオスはあまり好きではなかったが、たまにお土産として買ってやると、息子はかなり喜んでくれた。
棚に並んでいる白ワインの数も、以前より減っていた。ギルディオスは好きだが、メアリーは好きではないのだ。
死していた五年間の月日を、嫌というほど感じた。主であるはずの自分の居場所が、すっかり消え失せていた。
当然のことだと解っているが、寂しいものは寂しい。ギルディオスは扉を開け、庭に繋がる廊下に向かう。
廊下に出て、後ろ手に扉を閉めた。庭に面した扉が開かれていて、その先にメアリーが立っている。
狭い廊下を、外から入った光が照らしていた。廊下の壁に、一際輝きを放つものが立て掛けられていた。
大振りで縦長の、鋼鉄製の盾があった。簡略化されたオオカミの紋章を、見覚えのある傷が切り裂いていた。
ギルディオスはその盾を見下ろしていたが、庭へ向いた。メアリーが、にんまりと笑っている。

「これ、まだ残してたのか?」

「懐かしいだろ、ギルの盾さ」

「捨てろって言っただろ。もう、二度と使わねぇんだから」

ギルディオスは、慣れた手つきで盾を取った。左手で持ち手を握り、胸の前に掲げてみた。
この盾は、彼女と知り合う切っ掛けとなったものだ。戦場で、敵だと勘違いされて斬り付けられたのだ。
今まで、どんな相手に斬られても打たれても平気だった盾に、初めて深い傷を付けたのがメアリーだった。
その後ギルディオスは、メアリーと組み、盾を使わなくなった。戦い方を、片手剣から両手剣へと変えたためだ。
片手剣だと力が入り切らないし、彼女と組んで戦うのであれば、盾を持つ必要もなくなったからである。
メアリーが、最高の盾であり武器であったからだ。そしてギルディオスも、彼女の最高の盾であり武器となった。
彼女に背中を任せ、彼女の背中を任せられながら、二人で戦場を駆けていた。だがそれも、過去の話だ。
今は、どちらも一人だ。彼女の背中を、守れてはいない。ギルディオスは物悲しくなりながら、盾を下ろした。
とん、と背中に重量があった。メアリーの腕が腰に回され、ギルディオスをそっと抱き締めた。

「捨てるわけないじゃないか。ギルが生きて、ギルが戦ってきた証拠なんだから」

腹部に当てられた手を、ギルディオスは握った。妻の手には、戦士特有の固さがあった。

「すまねぇ、メアリー」

「何をだい」

「全部だ。お前ら残して死んだことも、今まで帰ってこなかったことも、厄介事ばっかり作っちまったことも」

メアリーは、ガントレットに指を絡めた。握り締めると、彼も握り返してきた。

「いいさ。いつものことだよ」

「これからは、ちゃんと帰ってくる。出来る限り、戻ってくる」

メアリーの手を放し、ギルディオスは振り向いた。妻をそっと抱き寄せ、銀色の腕の中に納めた。
胸に当てられた彼女の手が、固く握られた。ギルディオスは、メアリーの髪へ顔を寄せ、こん、とヘルムを当てる。
軽く、震えているのが解った。恐らくメアリーは、寂しいのも辛いのも、何もかも押し込めてしまったのだろう。
メアリーは、強がりだ。どれだけ痛かろうが辛かろうが、自分だけだからと言って、弱みを見せるのを嫌う。
ギルディオスは、そのことを忘れかけていた自分が嫌になった。なぜ、今まで彼女を気遣えなかったのか。
彼女の胸の内を察し、ギルディオスは手に力を込めた。筋肉質で絞まった体が、押し付けられる。

「痛いよ」

メアリーは、震えそうな声を押さえた。肩を掴んでいたギルディオスの手が緩み、悪ぃ、と聞こえた。
甲冑の胸は硬くて冷たく、鉄臭かった。それでもやはり、ギルディオスはギルディオスなのだ。
気を緩めれば、泣いてしまいそうだった。あとで言ってやろうと思っていた文句を、全て先に謝られてしまった。
どうして、こういうところだけは妙に鋭いのだろう。メアリーは悔しさを感じていたが、腹は立たなかった。
逆に、嬉しかった。忘れられていたわけではないんだ、まだ愛されているんだ、と解ったからだ。
すると、ぽんぽんと頭を叩かれた。ギルディオスは壁に寄り掛かると、メアリーの頬へ手を添えて軽く撫でる。

「これで、生身がありゃあなぁ。もっと、いい声で泣かせてやるんだが」

「ばっ、馬鹿なことを言うんじゃないよ!」

彼が何を指しているのかはすぐに解ったので、メアリーは声を上げた。嬉しいのだが、照れくさい。
頬から指を放して顎に添えると、メアリーの顎を上向けさせる。ギルディオスは素早く、彼女の唇を塞いだ。
いきなりの鉄の感触に、メアリーはぎょっとした。抵抗しようとしたが、その前に解放される。
甲冑は、にやついた声を出した。メアリーの肩を抱いていた手を下げ、細さを保っている腰へ回す。

「惜しいよなぁー。あれでオレが死んでなきゃあ、ランスの弟か妹でも作れたはずなのになぁ」

「昼間っから何を考えてるんだい、このスケベ!」

どがっしゃ、とメアリーはギルディオスの胸を殴り付けた。だが、音がしただけで、彼は平然としている。

「あーでも、やろうと思えばそれなりのことは出来るかもしれねぇぞー? 手ぇあるし」

「誰がやるかい!」

ギルディオスの腕を押し退けて脱し、メアリーはくるっと背を向ける。乱暴に歩いて、庭へ出て行った。
殴られた部分をさすりながら、ギルディオスは可笑しくなった。この辺りも、メアリーは少しも変わっていない。
気が強いせいか、肝心な部分は必要以上に照れてしまう。それが可愛いんだよ、とギルディオスはにやけた。
庭から、メアリーが呼びつける声がしていた。まだ照れているのか、怒ったような声になっている。
ギルディオスは生返事をしてから、庭に向かった。顔があれば、相当緩んでいたことだろう。


そして、ギルディオスは様々な仕事をやらされた。
薪割りから始まり、壁の補修、棚の造り付け、メアリーの武装の整備、果ては夕食の下ごしらえまで手伝わされた。
暮れていく空を窓越しに見つつ、ギルディオスはイモの皮を剥いていた。料理は出来ないが、これだけは出来る。
皮を剥き終えたイモを水の張った鍋に落とし、次のイモを取った。ナイフを当てて滑らせ、皮を剥く。

「ランスと二人だけなのに、こんなにイモ喰うのか?」

「あんたが持って帰る分も作るんだよ。フィルの分も作るから、そりゃあ増えもするさ」

ほつれたランスの服を縫いながら、メアリーは言った。テーブルの向かい側に座り、裁縫をしていた。

「ついでに豆のスープも持たせてやりたいけど、さすがにそればっかりは無理だぁねぇ」

「鍋が足りないのか?」

「あんたがいなくなって、作る料理の量もかなり減ったから、大掃除のときにいくつか処分しちまったんだよ」

捨てなきゃ良かった、とメアリーはむくれた。褐色の指を動かし、器用に縫い目を作っていく。
イモの皮を剥く手を止め、ギルディオスは妻を見た。その背後の棚を見上げ、呟く。

「オレの食器ごとか?」

「うん。帰ってくるって知ってたら、どっちも捨てなかったんだけどねぇ」

棚を見上げるギルディオスを見、メアリーは少し笑った。寂しげに、目が伏せられる。

「というか、やっと捨てられたんだけどね。あんたが死んで、ずっとそのままにしちまってたから」

「すまん」

「いいよ。気にしないで」

あんたのことなんだし、とメアリーはギルディオスに笑ってみせたが、無理をしているのは明らかだった。
ギルディオスはメアリーを抱き締めてやりたくなったが、テーブルがある上にイモを持っているので無理だった。
イモに残っている皮を、しゃっとナイフを滑らせて削り取る。瑞々しく白いイモの表面を、じっと睨んだ。
フィフィリアンヌの言う通り、自分を殺した者がいるならば、その者をすぐにでも殺し返してやりたくなっていた。
その者がギルディオスを殺したせいで、妻子に深い傷が出来たのは間違いない。ランスは、見せないだけだ。
なぜ、殺されなくてはいけなかったのか。姿の見えない、記憶にない殺人者に対して、強い怒りを覚えた。
めきり、とイモの表面がへこんだ。気付いた瞬間には無惨にイモは砕け、どぼどぼん、と鍋に落ちる。

「うげ」

「何やってんだい」

メアリーは変な顔をして、狼狽えている夫を見上げた。ギルディオスは、ちゃぷりとイモの破片を取り出す。

「結構、簡単に砕けちまうもんなんだな…」

「あんまり変なこと考えないでおくれよ。ギルは、考え事をすると他が疎かになっちゃうんだから」

「そんなにか?」

「だってそうだろ?」

メアリーは結び目を作って縫い終えると、余った糸を糸切りバサミで切った。針を針山に刺し、ランスの服を畳む。

「ギルは考えて戦ってるときは足が止まるし、動きも大分鈍っちゃうじゃないか」

「それとこれとは別な気がするんだが」

「なんだって一緒だよ」

裁縫箱に道具を入れ、ぱたんと閉じた。メアリーは頬杖を付き、ギルディオスを眺める。

「生きていても死んでいても、生身でも鋼鉄でも、ギルはギル。それと同じさ」

愛おしげな眼差しに、ギルディオスは殺意が薄れていくような気がした。胸の魔導鉱石が、徐々に熱を失う。
いつのまにか、魂の器が焼け付くように熱くなっていた。ギルディオスは、改めて妻の顔を眺めてみた。
切れ長の鳶色の目に、闇のように黒い髪。濃い褐色の肌が、彫りの深い整った顔立ちを艶めかしくさせている。
長身で肩幅もあり、華奢とは言い難いが、決して女性らしさは失っていない。良い意味で、中性的なのだ。
フィフィリアンヌやアンジェリーナの美しさとは、真逆にある美貌だ。力強さと色気を、併せ持っている。
皮を剥いていないイモは、数個ばかり残っていた。ギルディオスは、その一つを掴み取る。

「なぁ。お前の言ってた、金を作る方法って」

「あれを売るんだよ」

メアリーは、素っ気なく答えた。ギルディオスは皮にナイフを差し込み、しゃっと薄く切り裂く。

「そうだよな、忘れてた。お前が持ってる金目の物って言ったら、あれしかねぇもんな」

「母さんの形見は、あれだけじゃないしね」

と、メアリーは天井を見上げた。ギルディオスはそれに倣い、寝室のある方の天井へ顔を向けた。
彼女が持っている宝石箱には、僅かながら貴金属が入っている。その中には、大きさのある宝石もあった。
それは、メアリーが父親や同郷の者達と共に、王移民団として王都に移り住んだ際に持ってきたものだった。
元々、メアリーは王都の出身ではない。東方の砂漠都市に生まれたのだが、帝国の侵略から王都へ逃れてきた。
そのとき、傭兵であった父親が家の財産を掻き集めて彼女に持たせ、その中で一番高価なものが宝石だった。
そしてそれは、メアリーが幼い頃に死した、彼女の母親の形見でもある。ギルディオスは、申し訳なくなった。

「やっぱ、物置のを売ろうや。元々オレのだし、どうせ使わねぇんだし」

「あたしの気遣いを無下にするっての?」

「そうじゃねぇよ。ありがてぇんだけど、ありがた過ぎるんだよ」

ギルディオスはナイフを置き、剥き終えた芋を水に落とした。ぼちゃん、と水が跳ね、波打った。

「あんなもん、やろうと思えばまた集められる。だけどな、お前の奴は、売っちまったらお終いだろ?」

「買い戻せばいいことさ」

「良くねぇよ」

布で手を拭き、ギルディオスはどっかりと椅子に座った。メアリーは、不満げにしている。

「なんだい。せっかく人が決心したってのにさ」

「だからオレも決心したの。それに、オレの刀剣類も形見のつもりで残してたんだろ?」

「うん、まぁ」

「オレ自身がこうしてここにいるんだし、形見なんざ、あんなにあってもどうしようもねぇだろ?」

「仕方ないじゃないか、手放せなかったんだから!」

だん、とテーブルを叩き、メアリーは立ち上がった。気恥ずかしいのか、頬が染まっている。
ギルディオスは笑い気味に、目を逸らしているメアリーに言った。愛されている実感が沸き、嬉しくなる。

「どうしても欲しいのがあれば、残しといてやるぞー?」

「別にいらないよ。剣なら事足りてるし、それに、残すんだったら」

急に、メアリーは口籠もってしまった。相当に照れくさいのか、顔を背けて俯いてしまっている。
ギルディオスは、彼女が何を言いたいのか解った。あの盾だけで充分、とでも言いたかったのだろう。
それを言ってやろうかと思ったが、言わないことにした。言ってしまえば、きっと怒り出してしまうだろうから。
ギルディオスとしては怒った彼女をからかいたかったが、さすがに悪い気がしたので、我慢することにした。
メアリーはやりづらそうにしていたが、足早に台所へ向かっていった。くぁー、と変に高い声が聞こえる。
ギルディオスは、また愛しさが込み上げてきた。彼女の体も、愛してやりたくて仕方なかった。
生身の体がないことが本当に惜しい、とギルディオスは思った。




空が赤く染まった頃、メアリーの夕食は出来上がった。
ギルディオスはバスケットに入れられた料理を抱き、熱を感じていた。急げば、冷める前に帰れるだろう。
久々に帰ってきた父親に、帰宅したランスは変な顔をした。だが、それでも嬉しいのか、態度が柔らかかった。
玄関先まで父親を見送りに出たランスは、小型の鉱石ランプを下げていた。手を翳して、呪文で魔力を注ぐ。
すると、ランプの中の魔導鉱石に青白い光が灯った。それをギルディオスに渡し、ランスは父親を見上げた。

「父さん。それ、近いうちに使うから早めに返してね」

「地下にでも潜るのか?」

「違うよ。夜行性の魔物討伐を頼まれたから、それでね」

春先は忙しいんだよね、とランスはため息を吐く。ギルディオスは、息子の黒髪をぐしゃりと撫でた。

「じゃあな、ランス。早く寝ろよ」

「魔導師試験の課題があるから無理」

「お前なぁ」

ギルディオスは呆れ、笑ってしまった。ランスも、つられたのか笑った。

「まぁでも、区切りの良いところで寝るよ。明日も早いし」

「そいじゃ、またな」

ギルディオスは背を向けると、歩き出した。ランスはその背に軽く手を振っていたが、すぐに下ろした。
青白い光を持った甲冑が、がしゃりがしゃりと歩いていった。西の森への近道なのか、曲がり角に消えていった。
ランスは父親を見送った後、しばらく玄関先に突っ立っていた。あっちに帰る必要ってあるのかな、と思っていた。
ギルディオスの自宅はここであって、フィフィリアンヌの城には居候をしているだけだ。立場は、かなり違う。
ランスは少し考えてみたが、結論は出なかった。あちらに戻る理由はあっても、利点は見当たらなかった。
だが、ギルディオスとしては利点があるのだろう、とランスは思っておくことにした。


夜道を歩いて、ギルディオスは城のある森へ向かっていた。
抱えているバスケットは重たく、中の料理は温かい。どんどん暗くなる視界を、頼りない光が照らしていた。
夜の匂いが混じる風が、頭飾りとマントを少し揺らしている。細い路地を抜けて、森へ繋がる道へ出た。
影があった。ギルディオスは足を止めて体を固めると、バスケットを足元に置き、右手を背後へ回した。
森の入り口に、闇に紛れるような色があるのが解った。それは間違いなく、人の形をしている。
賞金稼ぎか。ギルディオスは、気分的にだが息を潜めた。魔導鉱石のランプが、煌々と明かりを作っている。
左手の鉱石ランプを、徐々に持ち上げた。月明かりに似た柔らかな光が、木々を照らし、土の色を冷たくさせる。
知った感覚が、魂を込めた魔導鉱石に起こる。ずきりとした痛みが走り、嫌な感情が染み出してきた。
影が、一歩踏み出た。夜空のような藍色のマントを広げながら、男はギルディオスとの間合いを詰めた。

「久し振りだな、片割れ」

「…兄貴」

感情を殺した声が、甲冑の中に反響した。ギルディオスは、バスタードソードの柄を固く握りしめる。
鉱石ランプを上げると、顔が浮かび上がった。生前の自分と良く似てはいるが、まるで違う顔と雰囲気の男だ。
声も、背格好も、何もかもが同じだった。大きく違っていたのは、魔力の有無と、生まれ付いた性格だ。
精悍で凛々しいが、瞳の色は暗い。ギルディオスを睨み付けるイノセンタスの目は、肉親を見るものではない。
イノセンタスは、音もなく歩いた。抱えていた杖を下ろし、歩くたびに装飾品が揺れ、金属音を立てる。
そのまま、ギルディオスの脇に止まった。真横に立った双子の兄は、甲冑の弟へ吐き捨てた。

「墓へ戻れ。お前の居場所など、この世界には最初からない」

「こんな時間に、こんな辺鄙な場所で、一体何をしてたんですかねぇ。国王付きの魔導師様?」

ギルディオスは、ちらりと兄を見た。イノセンタスの横顔は硬く、ほとんど表情はなかった。

「お前こそ、未練がましいな。今更会ったところで、お前の妻は喜びはしない。苦しむだけだ」

「うげぇ見てたのかよ。なんともなんとも、お優しいお言葉だな。だがな、そいつは兄貴の決めることじゃねぇ」

がちり、とバスタードソードが抜かれた。ギルディオスは剣を振り上げ、兄の首筋で止める。

「オレらの問題だ!」

「そうだな。そして、これも私達の問題だ」

すいっと、イノセンタスは弟の横を過ぎ、言った。



「ジュリアが帰ってきた」



ジュリア。名前しか覚えていない、己の存在を消していった妹。
顔も姿も何もかも覚えてはいないが、その名を聞くと、不思議な懐かしさがあった。そして、同時に。
強い罪悪感が溢れ、魂を満たした。悲しみにも似た重みが胸を締めてきたが、この感情の理由は解らなかった。
顔のない、少女の影が浮かぶ。泣き伏せて、ただひたすら、ギルディオスを責める言葉を吐き出している。
きらい、きらい。ぎるにいさまなんて、きらい。だいきらい。どうして、ぎるにいさまは。

わたしを、あいしてくれないの。

記憶にない映像が、記憶の底から現れる。また、呪いが綻んだようだった。
ギルディオスは顔を上げ、次第に遠ざかっていく兄へ振り返った。藍色の背は、遠くにある。

「…なんだと?」

「そうか。お前は、ジュリアの記憶がないんだったな」

横顔だけ向いたイノセンタスは、うっすらと笑みを浮かべていた。冷え切った、嫌な笑い方だった。
呆然としながら、ギルディオスは兄の背を見送った。やはり足音は立てず、静かに闇へと沈んでいった。
なぜ、イノセンタスが。追憶を禁ずる呪いが、ジュリアに関する記憶を封じていることを知っているのか。
混乱し切った思考の中、ギルディオスは剣を握り締めた。ただ一つ、解るのは。
事態が、思っていた以上に面倒だということだけだった。




久々の帰宅は、思い掛けぬ再会をも引き起こした。
同じ生まれを持つが、決して交わらぬ兄弟の、束の間の接近。
それは、闇の如き過去の謎を、一層深くさせるものだった。

暗闇が明ける時は、まだまだ先のようである。






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