ドラゴンは笑わない




甘く苦き一時



カインは、戸惑っていた。


手のひらの上で、カトリーヌがぎぃと鳴いた。熱の増した強い日差しを、湖が反射して眩しかった。
古びた城が水面に映り込み、ゆらゆらと影が揺れていた。なだらかな山を背負い、木々に取り囲まれている。
そこに、巨体の異形が身を沈めていた。三本のツノを生やした金色の単眼で、赤い翼が腰に生えている。
赤紫の肌をした、鋭い牙を持ったその姿に、カインは東方の書物を思い出した。魔物というより、別の何かだ。
前傾姿勢で水に浸かっている異形の巨体は、カインに気付いた。そして、その肩に乗っている彼女も気付いた。
しっとりと濡れた長い髪を肩に垂らし、フィフィリアンヌはカインへ向いた。白い肌が、水気で光っている。

「何だ」

背中の翼を下げ、フィフィリアンヌは濃緑の髪を掻き上げた。少女らしい肉の薄さが、離れていても良く解る。
一糸纏わぬ彼女から目を外し、カインはカトリーヌを差し出した。幼子は、ぱたぱたと羽ばたく。

「えっ、と」

脱皮させようと思いまして、と言いかけて、カインは言葉を飲み込んだ。考えてみれば、予想出来た事態だ。
昨日から、カトリーヌの皮が乾いて浮いてきて、脱皮が始まっていた。成長期だし、季節の変わり目だからだ。
となれば、竜族の脱皮の時期が来てもおかしくはない。亜種であるワイバーンとは、生体系は多少近いのだ。
そして、フィフィリアンヌは半竜半人だが、立派な竜族だ。脱皮を行っていてもおかしくはないし、むしろ自然だ。
だが、まさかかち合うとは思っていなかった。カインはカトリーヌの小さな翼越しに、湖の水面へ目をやった。
ふやけた巨大な皮が、ぷかりと浮かんでいた。うっすらと若草色を帯びて、竜の形を丸々残している。
フィフィリアンヌはちらりと湖面を見、細い足を抱いた。体の前で交差させて、とりあえず前を隠した。

「持って行くか?」

「え、あ、いえいいですとんでもありませんていうか出来ませんそんなこと!」

激しく首を振り、カインは絶叫した。そうか、とフィフィリアンヌは少し意外そうな顔をした。

「竜族絡みの収集を好む貴様なら、入り用かと思ったのだがな」

「…ええ、まぁ」

カインは俯き、表情を隠した。出来るものなら持って行きたかったし、彼女の一部となれば欲しかった。
だが、物理的な問題もあるし、何より理性に阻まれた。そんな変態みたいなことはしたくない、と思ったのだ。
フィフィリアンヌの髪ならばともかく、あれは皮だ。今し方まで彼女を包んでいた、紛う事なき皮膚なのだ。
それも全身の皮だ。途端に溢れ出してきた想像というよりも妄想を、カインはなんとか押し止める。
紙で包んできた大振りの瓶を胸に押し当てると、鳩尾が少し痛んだ。だがそのおかげで、妄想は落ち着いた。
いつのまにか力んでしまった体を緩めるため、深く息を吐く。来たばかりなのに、やたらと疲れてしまった。
ざばり、と赤紫の異形が動いた。水を掻き分けながら近付いてくると、カインに手を伸ばしてきた。

「オ前、誰。ソノ子、ワイヴァ?」

「ええ、はい。この子はワイバーンの幼生です」

カインは、薄黄の目を丸めているカトリーヌを掲げた。異形の大きな手は四本指で、間に膜が張っていた。
その手が下げられ、異形の胸に当てられた。筋肉の張り詰めた厚い胸板には、斜めに大きく傷痕が走っている。

「セイラ。オ前ト、ソノ子ハ?」

「カイン・ストレインと申します。この子はカトリーヌ」

「カイン。カトリィ」

セイラは単眼を動かして、カインとカトリーヌを見比べた。それがぎゅうと細められ、笑む。

「セイラ、覚エタ」

「それで。貴様は何の用事なのだ、カイン」

セイラの肩に乗ったまま、フィフィリアンヌが尋ねた。目線のやり場に迷いながら、カインは返す。

「カトリーヌの脱皮が始まったので、どうせだから水の中でさせようと思いまして」

「そうか。だが、一足遅かったな。私はもう終えてしまった」

フィフィリアンヌは自身の皮が浮かぶ湖面を見ていたが、低く喉を鳴らしているセイラに手を触れる。

「すまんがセイラ、カトリーヌを任せても良いか」

「フィリィ。水、上ガル?」

肩に乗る少女に顔を向け、セイラは瞼を下げた。フィフィリアンヌは、彼の頬を撫でる。

「ああ。さすがに体も冷えるし、脱皮も終わったのでな」

「解ッタ。セイラ、カトリィ、見テル」

頷いたセイラは、ゆっくりと体を下げた。どん、と伸ばした腕を地面に付けて肩を下ろす。
するりと滑り降りたフィフィリアンヌは、とん、と軽く草を踏んで着地した。地面に放ってあった服を、拾う。
白い下着を被り、手早く下履きを着込む。見てはいけないような気がして、カインはあらぬ方向へ目をやる。
まだ濡れている肌の上に闇色のローブを被り、頭を抜いて背中から翼を出した。髪の水分が、襟元に染みている。

「それで。他にも用事があるのではないか?」

「あ、ああ、あります」

カインは意識を戻し、紙包みを彼女へ差し出した。フィフィリアンヌは、少し首をかしげる。

「それは何だ」

「遅くなりましたが、お引っ越し祝いです」

「本当に遅いな。私がこの城を持ってきてから、随分と経つぞ」

一月ほどは過ぎたかな、とフィフィリアンヌは後方を仰いだ。青々と茂る木々に守られ、古い城が居座っている。
つい先日まではなかったものなのに、しっくりと景色に馴染んでいた。違和感はなく、自然な光景だった。
それは恐らく、城を成している石が新しくないからだろう。ツタが張っていたり、僅かに欠けていたりする。
あまり大きさのない城は、装飾があったであろう箇所はつるりとしていた。長い年月で、落下してしまったのだろう。
少しも、修繕がされていない。それでいいのかなぁ、とカインは少し思ったが、いいのだろうとも思った。
それが彼女だ。あるがままと言えば聞こえは良いが、要するに手間取ることを嫌うのがフィフィリアンヌだ。
とりあえず中に来い、とフィフィリアンヌは歩き出した。裸足で歩いていたが、途中でブーツを拾う。
カインはセイラに、カトリーヌをお願いします、と言ってからその背を追った。正面の階段へ向かっていく。
階段に登る前、フィフィリアンヌは立ち止まった。片足を挙げてブーツを突っ込み、そしてもう一方も突っ込む。
カインは、あの大きな甲冑の姿がないことが気に掛かった。後ろ髪をまとめている彼女に、尋ねる。

「フィフィリアンヌさん。ギルディオスさんは、どこへ?」

「あの馬鹿は、王都に下りている」

ばさりと長い髪を放り、フィフィリアンヌは目元に掛かった髪を退けた。

「昨日打ち倒した賞金稼ぎに、金貨五十枚の賞金が掛かっていたのだ。それの換金に、軍部に行っている」

「へえ。凄いじゃないですか」

「凄いものか。敵は盗賊崩れの小悪党で、たまに民家を襲っては金を奪い、食いつないでいただけの輩だ」

大したことはない、とフィフィリアンヌは呟いた。生乾きの髪を揺らしながら、階段を昇っていく。
カインはその斜め後ろを、距離を開けて歩いた。あまり間隔を狭めると、動悸が高まってしまいそうだった。
巨大な扉の前に、フィフィリアンヌは立ち止まった。すると、内側からにゅるりと半透明の人影が現れる。

「ありゃありゃあ。フィルさん、お客様ですかぁ?」

「紹介しよう。この城に居着いていた、妄想癖の強い幽霊だ」

フィフィリアンヌは、目線だけカインに向けた。半透明の幽霊は、興味深げにカインへと近寄ってきた。
三十代後半と思しき外見の貧相な男は、へぇえ、と変に高い声を上げた。腰を曲げ、頭を下げる。

「あなたがカインさんですかぁ。どうも、お初にお目に掛かります、デイビット・バレットと申します」

「カイン・ストレインと申します。以後お見知り置きを、デイビッドさん」

と、カインも頭を下げ返した。するとデイビットは、ああ、と嘆きながら頭を反らす。

「ありきたりでベタベタな間違いをしないで下さいよぅ。デイビッド、じゃありません、デイビット、ですよぅ」

「ド?」

「ト、です」

きょとんとするカインに、デイビットはにまりと笑った。カインは小さく、デイビットさん、と呟いた。
デイビットは満足そうに何度も頷き、くるりと体を回してみせた。軽やかな動きで、幽霊は扉に体を没した。
上半身だけ擦り抜けさせて、くいっと中を指す。上機嫌で親しげな笑顔で、カインを手招く。

「どうぞどうぞ。フィルさんの案内じゃ百年経っても辿り着かないでしょうから、私が案内します」

「伯爵さんもいないんですか?」

カインは、扉をゆっくりと押し開けているフィフィリアンヌを見下ろした。重たく、扉が開いていく。

「あれはギルディオスに付いていった。金勘定の補助になるかと思ってな」

「金勘定ですか…」

カインは変な顔をしながら、飾り気のない玄関に入った。フィフィリアンヌは、幽霊を従えて進んでいく。
方向音痴なのに、フィフィリアンヌは意外と足が早い。既に階段を半分ほど昇っていて、小さな背は遠ざかる。
回廊に繋がる末広がりの階段は、あまり掃除されていなかった。うっすらと埃が積もっていて、足跡が見える。
二階の回廊でフィフィリアンヌに追い付いたカインは、彼女の後ろを歩きながら、しきりに喋る幽霊を眺めていた。
死者やスライム、幽霊や異形はいても、執事やメイドはいないのだ。奇妙だが、不思議と違和感はなかった。
フィフィリアンヌが主だから、というだけで、全て納得出来そうな気がした。


カインが通されたのは、主の寝室だった。
最上階の、かなり大きさを取った部屋だった。幅広のベランダを二つ備えていて、日当たりも良い。
古い天蓋付きのベッドがあり、机が備えられていたが、それらは無数の本に埋め尽くされてしまっていた。
机に至っては壁際に追いやられ、本棚の前に押し付けられている。以前にも増して、雑然としていた。
フィフィリアンヌのものである大きな机が鎮座していて、魔法薬調合の作業台が、薬棚と共に置かれていた。
室内に漂っているのは、安眠を誘う香炉の香りではなく、独特の薬臭さだった。まるで、寝室らしくない。
つまりここは、研究室になっているのだ。カインは妙な気分になり、フィフィリアンヌに言った。

「ここ、寝室ですよね?」

「寝室だったのだ」

フィフィリアンヌはカインの隣を抜け、机へと向かっていった。机には本が散らばり、書き物の名残がある。
するりと体を下げたデイビットは、カインの隣で苦笑した。この幽霊も、色々と大変らしい。

「そうなんですよぅ。ここは生前から、私の寝室で書斎だったんですけど、フィルさんに乗っ取られちゃいまして」

「それじゃ、フィフィリアンヌさんの寝室はどこなんです?」

カインが訊くと、デイビットは左側の壁を指した。本棚が並べられ、びっしりと背表紙が連なっている。

「隣の部屋です。ですが、あっちもあっちで凄いですよぅ。本の山です、いえ、あれは海ですねぇ」

「それ、全部前の家から持ってきたんですよね?」

「ええまぁ、はい。ギルさんが前の家から運び出したんですけど、三日経っても終わりませんでしたよぅ」

いやぁ凄かった、とデイビットは可笑しげに笑う。カインは、その様子がなんとなく想像出来た。
デイビットは机を片付けているのか散らかしているのか解らないフィフィリアンヌを見、にんまりとする。

「ああいう人を女王様と言うんですかねぇ。ギルさんは滅茶苦茶に文句を言ってましたけど、結局従ってましたし」

「…気持ちは解ります」

「私も多少は」

にこにことしながら、デイビットはカインの言葉に頷いた。何はなくとも、状況を楽しむ性分のようだ。
フィフィリアンヌは魔法薬の研究成果を書いた帳面を数冊重ね、本の上に置いた。更にその上に、本が載った。
それが何度か繰り返されたが、まるで机の上は整わなかった。物が減らないのだから、当然だ。
カインは、無表情に本を積み重ねていくフィフィリアンヌを見つめた。目は、一度も合うことはなかった。


柔らかな湯気が、二人の間に立ち上っていた。
ランプに熱せられているフラスコには、茶色い液体が満ちていた。気泡と湯気が、酸味混じりの香りを立てていく。
黒っぽい茶色の湯は対流が起こり、くるくると豆の欠片が舞っていた。フィフィリアンヌは、フラスコを睨む。

「とりあえず煮出してみたが、これは何なのだ?」

「コーヒーです。二番目の兄が南方の遠征から帰ってきたので、そのお土産にもらったんです」

カインは身を屈め、フィフィリアンヌと目線を合わせた。しかしそれでも、目は合わない。

「苦いんですが、少し酸味がします。紅茶とはまた違った味で、おいしいといえばおいしいです」

「魔導拳銃といい、これといい、貴様はやたらに妙な物を持ってくるな」

フィフィリアンヌは、フラスコの脇に置いた瓶を眺めた。これが、カインの持ってきた包みの中身だ。
砕かれた焦げ茶色の豆が、三分の二ほど残っている。国名と品名が書かれたラベルが、貼り付けてある。

「面白いな」

ほとんど表情の出ない横顔を、カインは無心に見ていた。エリカとの婚約を断ってから、随分経った。
この城に来たくとも来られなかったのは、婚約破棄に関わるごたごたが起きてしまい、出るに出られなかったのだ。
ストレイン家とブライトン家は納得し合ったのだが、親戚筋が口を挟んだので、正式な破棄が遅れてしまった。
ここまですんなり話が進むとは、カインとしては意外だった。だが考えてみれば、言い出したのはエリカなのだ。
言い出した者が断るのは妙ではあるが、これほど解りやすいものはない。また、父親同士の性格も幸いした。
カインの父親もブライトン侯爵も、どちらも話の解る人であった。ここでもつれていれば、どうなっていたか。
たまに聞く、貴族同士の血生臭い復讐劇が脳裏を過ぎり、カインは少しぞっとした。婚約などで、死にたくはない。
これで、恋路の障害の一つは取り除かれた。だが、他にも障害はいくらでもある。なにせ、相手は竜族だ。
攻略する、というのではないが、どうすれば彼女の心を開けるか。カインは考えてみたが、思い付かなかった。
いつのまにか、フラスコはごぼごぼと泡立っていた。フィフィリアンヌはフラスコを見、指を弾く。
ばっ、とランプの火が立ち消えた。焦げ付いた芯から細い煙が伸びて、窓から入り込む風に流されていった。
フィフィリアンヌは台所から持ってきたマグカップを引き寄せ、フラスコを器具で掴むと、どぼどぼと注いだ。

「濃いな」

粉状の豆ごと、煮詰まったコーヒーが注ぎ込まれた。まるで泥水のようなコーヒーが、出来上がっている。
半分ほど入れてから、もう片方に残りを注いでいった。空になったフラスコが、ランプの上に戻された。
がちり、と器具をフラスコから離して置いてから、フィフィリアンヌは片方のカップをカインの前に押し出した。

「まず、貴様が飲め」

「それってあの、毒味…ですか?」

「そうだ。伯爵がおらんからな」

真顔で頷くフィフィリアンヌに、カインは断るに断れなかった。というか、断ったとしても押し切られるだろう。
あまり信用されていないのは仕方ないにしても、せめて少しは信じて欲しい。と、カインは切に願った。
どす黒いコーヒーには、豆の破片が浮いていた。それが沈むのを待ってから、カインは熱湯の如き液体を飲んだ。

「ぅがっ」

味なんてあったもんじゃなく、苦いというより渋い。吐き出してしまいそうになったが、無理矢理飲み下した。
熱さと苦さで舌が鈍り、軽い痛みさえあった。コーヒー豆の異物感に、カインは何度かむせてしまった。
考えてみたら、料理が極めて不得手な彼女に入れさせたのが間違いだった。今更ながら、カインは後悔した。
涙目でフィフィリアンヌを見てみると、平然としていた。上から下まで彼を見回してから、マグカップを手に取る。

「毒はないようだな」

「いえ、あの、気になるのはそこだけなんですか?」

「それだけだ」

呂律の鈍ったカインに、フィフィリアンヌは簡潔に答えた。マグカップを傾ける彼女に、カインは苦笑する。
相変わらずだ。庭園での一件で、少しは気を許してもらえたと思っていたが、気のせいだったようだ。
豆をなんとも思っていないのか、フィフィリアンヌは半分ほど飲み下した。マグカップを下ろし、中身を見下ろす。

「確かに、少々苦いかもしれんな」

どこが少しだ。カインはもう一口だけコーヒーを飲んでから、またむせた。げほげほと、空咳を繰り返す。
せめて、砂糖も持ってくるべきだった。カインは強烈な苦さに顔を歪め、漆黒の液体を見下ろした。
ごとん、とフィフィリアンヌはマグカップを叩き付けるように置いた。持ち手から、細い指がするりと外れていく。
次第に傾いでいった上体が、後ろ髪を広げながら消えた。直後、ごん、と硬いものが床にぶつかった音がした。
何が起きたのか、カインは一瞬理解が出来なかった。視界からフィフィリアンヌが消え、音がした。
すぐに、彼女が倒れたのだと解った。カップを置いてから、カインは慌てて反対側に回り込む。
フィフィリアンヌは、仰向けに転んでいた。強かにツノを打ち付けてしまったのか、眉間が歪んでいる。
しばらく目線が彷徨っていたが、不安げに覗き込んでいるカインに定まった。心なしか、頬が紅潮していた。

「へんだ」

「フィフィリアンヌさん、大丈夫ですか?」

心配になり、カインは顔を寄せた。うー、と小さく唸ったフィフィリアンヌは、体を横にする。

「これは、高揚…興奮剤…いや、即効性の睡眠剤…いや…いや…」

「あの、本当に大丈夫ですか?」

カインが呟くと、フィフィリアンヌは背を丸め、カインを見上げた。

「あつい」

「そうですか? 風も抜けてますし、まだ夏ではありませんが」

「熱いのだ」

拗ねたような口調で、フィフィリアンヌは顔を伏せる。ぺたりと額を床に当て、あー、と声を洩らす。
カインは申し訳なく思いながらも、そっとフィフィリアンヌの頬に触れた。確かに、少し熱いかもしれない。
引っ込めようとしたが、手を取られた。フィフィリアンヌはカインの手を引き寄せ、ぐいっと頬に当てる。

「熱いか?」

「ええ、まぁ少しは」

どくどくと心臓が脈打ち、うるさかった。カインはなるべく声を落ち着けたが、上擦ってしまっていた。
フィフィリアンヌの目は、熱に浮かされたようにとろんとしていた。焦点が定まらず、カインの顔を何度も過ぎる。
これはもしかして、酔っているのではないか。カインはそう思ったが、彼女が飲んだのはただのコーヒーだ。
かなり煮出されて恐ろしく苦くなっていたが、普通のコーヒーだ。カインが平気なのだから、毒も薬も入っていない。
しかし、たかがコーヒーで泥酔するとは思えない。だが、フィフィリアンヌは半竜半人、人間ではないのだ。
有り得ることかもしれない、とカインは思った。ぺったりと頬に当てられている手を離そうと、引いてみた。
一緒に、フィフィリアンヌの手も付いてきた。頬からは離れたが、しっかり握り締められ、離れる様子はなかった。
カインに手を引かれた形で、フィフィリアンヌは少し姿勢を動かした。上半身を捻り、顔を向けてきた。
頬どころか、首筋まで血色が良くなっていた。うっすらと汗が滲み、体が火照っているのは間違いなさそうだ。
ん、と小さく声を洩らしたフィフィリアンヌは、目を細めた。体の下からもう一方の手を出し、伸ばしてくる。

「熱いな」

小さな手が、カインの頬を押さえた。その手の感触はトカゲではなく、温かな人間らしいものだった。
カインは、固まった。動悸の激しさで胸が痛くなり、焼けるように熱くなった。身動きしようとしても、出来ない。
焦点の合わない目が、真下にある。赤い瞳は睨み付けることはなく、穏やかで棘のない表情をしていた。
頬に当てられている手を外させてから、小さな肩を取って起こした。カインは、彼女が倒れないように支える。

「床は、硬いですよ」

「そうか?」

かくんと首を曲げ、フィフィリアンヌは甘えるような声を出した。酔いのせいで、覇気がないだけかもしれないが。
力が入らないのか、彼女はカインにしなだれかかった。背中の翼もへたりと下げられ、腰が落ちている。
胸元にあるツノの生えた頭に、カインは顔を背けてしまった。若干高めの体温と共に、少女の匂いが感じられる。
それが、少し動いた。フィフィリアンヌはカインに胸に額を擦り付け、ぎゅっと胸元の服を握ってきた。

「この腑抜け」

「はい?」

ゆっくりと、カインはフィフィリアンヌを見下ろした。フィフィリアンヌは、上目に彼を見る。

「貴様、なぜ手を出さなかった。貴様、本当に私に欲情しておるのか?」

「また答えづらいことを…」

カインは反応に困り、とりあえず苦笑いした。あまり重みのない肩を押し、フィフィリアンヌを離す。
くいっと首を傾げ、フィフィリアンヌはカインを睨んだ。さらりと髪が滑り落ち、僅かばかり湖水の匂いがした。

「答えろ。私が聞いているのだぞ。私の問いには、答えるのが義務であり必然なのだ」

「本当に、女王様ですね…」

「答えろ。答えねば蹴るぞ」

「女王様は否定しないんですね」

「私に逆らわぬ者共が腑抜けなのだ」

「開き直りましたか」

呆れ気味に、カインは笑った。目元の赤いフィフィリアンヌは、薄く色づいた唇を曲げる。

「それで、答えるのか、答えぬのか」

「えっ、と」

カインは、言葉に詰まった。そんなこと、言えるわけがない。恋情ならともかく、劣情など言えるはずがない。
好きだ、愛している、は言えないことはない。しかし、彼女のどこにどう欲情したかなと、言葉には出来ない。
というか、したくない。そういう目で見ている、と示すことになってしまうし、相当に無礼でもある。
散々迷って、カインは決意した。さすがにこればかりは、彼女の願いでも、逆らわないわけにいかない。

「言えません」

「ほう?」

「申し訳ありませんが、それだけはどうしても言えません。フィフィリアンヌさんのお願いでも、命令でも」

「無理なのか」

「はい。無理なものは無理です、ていうかそんなことを聞かないで下さい、お願いですから」

「牙を突き刺しても、爪を食い込ませてもか?」

「はい!」

「私に逆らうなど、良い根性ではないか」

「…すいません」

「なぜ謝る。私は褒めているのだ」

体を捩り、フィフィリアンヌはカインへ身を乗り出してきた。カインが身を下げると、間を詰めてきた。

「あ、あの」

「なぜ逃げる。私が愛しいのではないのか?」

「いえあの、それはそうなんですが、ですけどあの」

「嫌いではない」

「え?」

「私は貴様を気に入った。だから、嫌いではない」

「本当、ですか?」

「嘘を言ってどうする」

しなやかに曲げた背を伸ばし、フィフィリアンヌはカインの目前に顔を出した。尖った耳が、髪の隙間に見える。
恐る恐る、カインはフィフィリアンヌの背に手を回した。翼の根元に触れないよう、肌に触れないようにする。
フィフィリアンヌは、体から力を抜いた。くたっとカインの上にへたり込み、カインの腰辺りに腕が滑り込んできた。
少し上半身を起こしたフィフィリアンヌと、目が合った。至近距離で、カインは彼女の目を改めて見つめた。
赤に映るのは、自分だった。吊り上がった目が、カインを映している。それが、すいっと瞼に閉ざされた。
フィフィリアンヌがカインに寄り掛かったので、体重が掛かってきた。眠ってしまったのか、かくんと首が落ちた。
胸の上に身を任せているフィフィリアンヌは、寝息を立てている。よく眠る人だなぁ、とカインは内心で笑う。
このままではいけないと思い、カインはフィフィリアンヌを起こした。抱き上げるために肩へ手を回し、思った。
先程彼女は、手を出せ、とも取れることを言っていた。カインの不甲斐なさに、苛立っているのかもしれない。
しかし。酔い潰れた女性に手を出すのは、いくらなんでも情けない。だが、こんな機会はそうそうない。
小さな唇は、半開きになっていた。カインは顎を押して閉じさせてから、一度、固い唾を飲み下した。
ばれたら、気付かれたら。本当に、牙を突き刺されて爪を食い込まされ、挙げ句に喰われるかもしれない。
だが、そうなっても構わない、とすら思った。一時だけでも、彼女と繋がっていたかった。

「もう少し、逆らってもいいですか」

カインは己の理性の無さを内心で責めながら、身を屈めた。フィフィリアンヌの額に、軽く口付けた。
そして、今一度彼女の唇の位置を確かめてから、目を閉じた。慎重に重ね、柔らかなものを潰さぬように押した。
フィフィリアンヌの唇に苦みが残っているのか、舐めるとその味がした。だが、飲んだものよりは甘く感じた。
カインは彼女の下唇を軽くはみ、舌でなぞって味わう。薄く目を開くと、少女の睫毛が長いのが解った。
フィフィリアンヌの唇を離すのは名残惜しかったが、あまり長引くと気付かれる。カインは、顔を離した。
自分の唾で濡れてしまったフィフィリアンヌの口元を拭ってやってから、何をしたのか、思い知った。

「すいません、フィフィリアンヌさん」

そのまま、カインはフィフィリアンヌを抱き締めて座り込んでしまった。体が熱く、言うことを聞かない。
許してもらえるだろうか。怒られないだろうか。嫌われないだろうか。好いて、くれないだろうか。
次々と過ぎる結末が、現実になりそうで怖かった。カインは強い後悔に、胸がぎしりと軋んだ。だが、それでも。
嬉しくて、幸せだったのは違いなかった。




西日の差す正面玄関に、カインはギルディオスと共に座っていた。
脱皮を終えたカトリーヌが、ぎぃぎぃと上機嫌に鳴いている。幼子が見上げる先に、単眼の異形が座っている。
形相に似合わぬ澄み切った歌声を紡ぎ、セイラは歌っていた。カトリーヌは、楽しげに尾を振っていた。
カインは、傍らの小さなワイバーンから目を外し、頭を抱えた。声にならない声を洩らして、がくりと項垂れた。
金貨の袋を脇に抱えたギルディオスは、カインの肩を軽く叩いてやる。やったことは、後悔しても仕方ない。

「腹ぁ括っとけ、カイン。やることやっちまったら、行き着く先は二つだけだ」

「…はぁ」

「好かれるか嫌われるか、それだけだ」

「そんなの大雑把すぎて、慰めにもなりませんよ」

ああ、と弱々しく嘆いたカインは、脱力してへたり込んだ。ギルディオスは腕を組み、城を見上げた。
左側の最上階の部屋が、フィフィリアンヌがいる研究室だ。まだ、彼女は目を覚ましていないようだった。
ギルディオスの脇の袋の上に、フラスコが置かれていた。中で伯爵が動くと、下からちゃりっと金貨の音がした。

「良いではないか、思いを果たしたのであるのだから。たとえ死しても、残る未練が一つ減ったのであるぞ」

「悔いが増えただけです」

カインが返すと、はっはっはっはっはっは、と伯爵は上機嫌に高笑いする。

「しかしやはり、貴君はふがいないのである。せっかくなのであるから、あの女を押し倒すぐらいはやりたまえ」

「余計なお世話です」

カインが呟くと、するりとデイビットが下りてきた。半透明の影が、頭を抱えるカインの前を過ぎる。

「そうですねぇ、ということはあれですねぇ。このままフィルさんが目覚めずにいたら、カインさんはもう一度フィルさんに口付けて目を覚まさせ、屋敷に連れ帰って妻にしたはいいけど、あっという間に一族の利権や財産を掌握されてしまい、フィルさんに資産を食い潰されて滅亡しちゃうんですね!」

「変なこと言わないで下さい。ていうか、どうしてそこでうちが滅亡するんですか」

「やだなぁカインさん、本気にしないで下さいよぅ」

へらへらと笑うデイビットに、伯爵が笑った。西日で赤く光ったスライムが、ぐにょりと歪む。

「はっはっはっは。だが、フィフィリアンヌならば有り得そうな話であるぞ。素晴らしい妄想であるな、デイビットよ」

「フィルだもんなぁ」

うん、とギルディオスが頷いた。セイラは歌うのを止め、城の左手を見上げた。

「フィリィ、ダモノ」

「否定はしません。フィフィリアンヌさんから責任を取れと言われたら、取れるだけ取ってやりますよもう」

カインは自虐的に笑い、顔を上げた。もう、自棄である。何がどうなっても構うものか、と腹を決めた。
多少落ち着いた気分で、カインはセイラの視線の先を辿り、昔は寝室だった部屋のベランダを見上げた。
ベランダの奧で、緩やかにカーテンが揺らいでいる。物音はせず、彼女が起きる気配はなかった。
半開きになっている背の高い窓が、夕陽を眩しく反射していた。


彼らの話し声を、フィフィリアンヌは虚ろな意識で聞いていた。
頭が割れるように痛く、胃が重たく痛んでいる。天蓋付きのベッドの、本の間に横たわっていた。
薄暗い部屋を見回し、作業台の上に残されているコーヒーを見つけた。カインのカップには、たっぷり残っている。
滑り込んでくる冷たい風が心地良く、頭痛を和らがせてくれた。だが、胃はきりきりと刺激で痛んでいた。
まさか、あんなもので酔うとは思わなかった。フィフィリアンヌは回転の鈍い頭で、コーヒーを強く恨んだ。
幸い、記憶は残っていた。泥酔した後に、カインに何を言ったかは覚えているが、寝入った後は解らなかった。
しかし、彼らの会話を繋ぎ合わせれば、おおよその想像は付く。フィフィリアンヌは、そっと唇をなぞった。
なんであんなことを言ってしまったのか、解らない。酔いが回って、理性が緩んだのかもしれない。
嫌いではない。それは、本心だ。だが、迫るようなことを言ってしまったというのは、自分の事ながら理解に苦しむ。
あれは、果たして自分だったのか。酔いに浮かされていただけの、別の自分の言動であったような気もする。
しかし、やはり自分で言ったことなのだ。カインに迫ったのも、嫌いではないと言ったのも、間違いなく自分だ。
フィフィリアンヌは後悔と苛立ちを覚え、埃っぽいベッドカバーに顔を埋めた。埃を吸い、少しむせた。

「…なんなのだ」

利益はない。力もない。利用価値も少ない。嫌悪すべき行為をされたのに。そんな、男の事なのに。
あまり、嫌ではない。そう思う必然や理由はどこにも見当たらないのに、なぜ、彼を。

「好いて」

ぎゅっと、フィフィリアンヌはベッドカバーを握り締めた。

「いるのか?」

夜が訪れても、フィフィリアンヌは思考を続けた。コーヒーの酔いが抜けない頭を、必死に動かした。
ベッドカバーを握り締めていた手を放すと、なんだか物寂しくなった。なので、またすぐに、布に縋り付いた。
うっすらと感覚に残る人間の体温が、消えてしまうのが惜しかった。温かみのない体に、熱が戻って欲しかった。
思考はまとまらず、眠気は起きなかった。月明かりの差し込む研究室で、フィフィリアンヌは目を閉じる。
口中の味は、苦かったが、僅かに甘かった。




彼の勇気は、彼女の戸惑い。熱と痛みが、彼女に起こる。
苦いはずの恋路に、先の見えないはずの恋路が、徐々に色を帯びていく。
赤き瞳が、彼を見る日は。竜の心が、人を映す日は。

そう、遠くはないのかもしれないのである。





05 5/27