ドラゴンは笑わない




昼下がりの襲撃



烈火を得たような気分になる。怒りが高まってくると、魔導鉱石が、魂が、強い感情の炎に炙られる。
白い寝間着姿のフィフィリアンヌは、後ろ手に縛られ、膝も曲げている。手首と足首が繋げられているのだ。
寝込みを襲ったのは間違いない。ギルディオスが賞金稼ぎ狩りのために、王都へ下りた後に襲撃したのだろう。
遣り口が汚い上に、女々しい。その上、フィフィリアンヌを縛り上げている。彼女に、痛みを与えている。
ギルディオスはじりじりとした熱を感じながら、バスタードソードを構えた。眼帯の男を、睨む。
黒衣ばかりが目に入って、その近くに座る灰色が視界に入らなかった。しばらくして、グレイスに気付いた。
ギルディオスがグレイスに顔を向けると、グレイスはにやけていた。手にしている紙の束を、ぱたぱたと振る。

「ここまで予想通りの反応だと、いっそ清々しいもんがあるぜ。ギルディオス・ヴァトラス」

「てめぇかグレイス」

「違う違う。今回はオレじゃあない、オレがここに来たのは偶然さ」

首を振るグレイスに、ギルディオスは剣先を向けた。飄々とした態度が、余計に腹立たしい。

「嘘吐けぇ!」

「うん、嘘。オレの用事は別に明日でも良いかなーとか思ったんだけど、そこの道に罠があってさ」

グレイスは森の出口を、紙の束で指した。

「こりゃ何かあるなーと思って来てみたら、案の定面白いことになってたんだよ」

「そうなんですよぅそうなんですよぅ」

デイビットが、するりとギルディオスの前に滑り込んできた。まるで緊張感のない顔をしている。
真っ直ぐにマークに向いている剣先の前に浮かび、胸の前で両手を組む。後ろの景色が、透けている。

「フィルさんとグレイスさんが言うにはですね、あの賞金稼ぎはギルさんの親友だって言うんですよ」

「んだと?」

ギルディオスが問うと、そうなんですよねぇ、とデイビットはにんまりする。

「マーク・スラウという名だそうで、見たところ盗賊系の賞金稼ぎさんです。彼の後ろに引っ付いてる少年は、養子で息子で部下のジャック・スラウと言うようですよ。いやぁー陰謀の匂いがしますよ、黒幕の影がちらちらしてますよぅ。かつて親友同士だったギルさんとマークさんを敵対する立場に立たせ、戦い合わせて殺し合わせるっていう、厄介で悪辣な算段なのは違いありません。なんとも悲劇的なお話ですねぇ」

「違うだろ」

反射的にギルディオスが否定すると、セイラが身を乗り出してきた。

「違ワ、ナイ。デイブ、今ハ、本当、言ッテル」

「そう…なのか?」

ギルディオスは、セイラを見上げた。セイラは頷き、フィフィリアンヌを指す。

「フィリィ、ソウ、言ッテタ。間違イ、ナイ」

「嫌ですねぇ困りますねぇ。私だって、たまには本当のことを言いますよぅ」

心外だなぁ、とデイビットはむくれている。ギルディオスは、妄想癖の強い幽霊に呆れた。

「デイブの場合、普段の言動が悪ぃんだよ」

「ギリィ、落チ、着イタ?」

身を屈め、セイラは甲冑の前に顔を出した。少し首をかしげて、金色の単眼が覗き込むように見ている。
バスタードソードを下ろし、ギルディオスは胸に手を当てた。若干の熱は残っていたが、それほど激しくはない。

「ちったぁな。だが、フィルが縛られてるのはどうにも許せねぇもんがあるんだよ」

「ああ、それなら大丈夫ですよぅ。フィルさん、自分で脱出出来るって言ってましたからぁ」

ねぇ、とデイビットはセイラと顔を見合わせた。セイラは、やけに嬉しそうに笑む。

「言ッテタ、言ッテタ」

「…マジ?」

拍子抜けしたギルディオスに、セイラとデイビットは声を合わせた。

「マジ」

剣を握り締めていた手が緩み、指の間から抜けていった。ごとん、とギルディオスはバスタードソードを落とした。
がくりと項垂れたギルディオスは、あー、と小さく唸ってヘルムを押さえた。肩を落とし、呟いた。

「別の意味で腹が立ってきた」

「だろうなぁ」

ギルディオスの姿に、グレイスは可笑しげにする。あれだけ怒ったことが、無駄だと言われたようなものだからだ。
彼が落ち着いてしまうのは、グレイスとしては少し残念だった。これでは、彼の怒りを奪うことが出来ない。
しかし、あの二人の思い通りになるよりはいい、と思った。引っ掻き回さずとも、事態は快方へ向かっている。
脱力しているギルディオスを、デイビットは、励ましているのか追い打ちを掛けているのか解らなかった。
フィフィリアンヌを心配するのは野暮だの、今更何を不安になっているのか、だの。その度に、彼は唸っていた。
がりがりとヘルムを掻きむしっていたギルディオスは、顔を上げた。縛られた少女は、そのままだ。

「なぁ、フィル。縄ぁ解けるんなら、さっさと解いておけよ」

「縛られるのも、たまになら割と面白いぞ」

無表情に、フィフィリアンヌは返した。ギルディオスは溜まらなくなり、声を上げる。

「あーもう、お前なんか助けてやんねぇ! もう心配してやんねぇからなー!」

「はっはっはっはっはっは。まるで子供であるな、三十四歳」

ごとごととフラスコを揺らし、伯爵は高らかに笑う。ギルディオスは、ぷいっと顔を背ける。

「うるせぇやい」

ぼんやりと、マークはこの光景を見ていた。てっきり、あのまま斬り掛かられるかと思っていた。
しかし、あの幽霊と異形の魔物が思わぬ方向で助けてくれた。ジャックもいるので、戦わずに済んで良かった。
背中にしがみついているジャックは、また少し泣いていた。マークが死ななくて済んだから、なのだろう。
少年の頭を片手で押さえながら、マークは拗ねている甲冑を眺めた。あの言動に、覚えがあるようでなかった。
本当に、あの男は親友だったのか。疑問は相変わらず残っていたが、そうであったかもしれない、とは思えた。
自分の名を聞いて、怒りを静めたのだ。いや、まだ怒っているのかもしれないが、理性が戻ってきた。
少なからず、親しい間柄であったのは違いない。マークは、後方で寝転んでいるフィフィリアンヌを顧みた。
背筋を伸ばしたかと思うと、ぶつっ、と手首と足首を繋げていた縄を千切った。手首の縄も、容易く引き千切る。
翼を広げてその縄も切り、起き上がった。顔に掛かった緑髪を退けてから、ふっ、と小さく息を吐いた。
口を塞いでいた布が黒く焼け、ぽとりと落ちた。フィフィリアンヌは胸を締め付けていた縄を引き、握った。

「縛りが甘いな。手加減したのか?」

「まぁな」

マークが小さく呟くと、そうか、とフィフィリアンヌは胸と腹の縄に爪を掛けて切った。

「私の言った通りであっただろう。それで、解呪するのか、しないのか?」

「出来ることなら、呪いを解きたいね。本当に、オレとあの男が親友だったのか、知りたくなってきた」

「最初からそう言えばいいものを」

足首の縄も爪で切り裂き、フィフィリアンヌは立ち上がった。その背丈は、ジャックより低かった。
白い寝間着の裾を直してから、フィフィリアンヌは縛られていない長い髪を背に放り、ばんと翼を広げた。

「金貨三十枚だ」

「なんだそりゃ?」

マークが呆気に取られていると、フィフィリアンヌは小さな手を差し出し、指を三本立ててみせる。

「私が貴様の呪いを解く。そのための代金だ。解きたくば、さあ払え」

「でも…マークさん…」

蚊の鳴くような細い声で、ジャックは言った。怯え気味に、マークを見上げる。

「それ、普通の相場の倍じゃないっすか…。ぼったくってるっすよ、このドラゴンさん」

「いやいや、割と妥当だぞ。平均値よりはちょいと高いが、フィフィリアンヌにしちゃ良心的な値段だぜ?」

グレイスは上体を逸らして、マークを見上げた。人の良さそうな、親しげな笑顔になる。

「フィフィリアンヌは専門じゃないが、それなりに腕も良い。信用出来るから、払っちまいなよ」

「さあ、払うのか払わんのか?」

マークに向けて、フィフィリアンヌは手のひらを差し出した。マークは、色白な手の奧を見下ろした。
にやりとした狡猾な表情が、吊り上がった目元に浮かんでいる。十二歳ほどの外見には、不相応だった。
マークは、ちらりと甲冑を見た。ギルディオスは立ち上がっており、バスタードソードを背中の鞘に納めていた。
足元を見下ろしたマークは、落ちていたままの短剣を拾い、柄をなぞった。傷痕の下に、ギルの文字がある。
もし、本当に呪いが掛けられていて、もし、本当に彼が親友であったのならば。それを、思い出せるならば。
金貨三十枚など、安い値段かもしれない。マークはばさりと外套を広げ、腰の鞘に短剣を差し込む。

「払う」

「契約成立だな」

腕を組み、フィフィリアンヌは目を細めた。マークは頷いてから、徐々に近付いてくるギルディオスへ向いた。
半透明の幽霊と共に、城に歩み寄ってくる。規則正しくうるさい金属の擦れる音が、やかましかった。
ギルディオス・ヴァトラス。マークは、何度となくその名を思い起こし、記憶と重ねてみた。
しかし、どこにも彼の思い出は見当たらなかった。




城の居間は、だだっ広く埃っぽかった。
大量の本に埋め尽くされた壁は、妙な圧迫感を生み出していた。掃除が怠られているのか、空気が汚れている。
しかも日当たりが悪いので、薄暗かった。窓は高い位置にあるが、開けられてはおらず、風も入り込まない。
カビ臭い室内で、ジャックは出来る限り身を縮めていた。ますます化け物じみた城の中が、心底恐ろしかった。
フィフィリアンヌと向かい合う位置に、マークは座り、表情を強張らせていた。ジャックは、右側に座っている。
幅広のソファーに陣取ったフィフィリアンヌは、注文書を見ていた。闇色のローブに着替え、髪も縛ってある。
ギルディオスは、フィフィリアンヌの脇で剣を抱き、床に座り込んでいる。一応は、警戒しているらしい。
グレイスは、大きな暖炉の上に腰掛けていた。頬杖を付いて足をぶらぶらさせ、子供のような格好をしている。
伯爵とデイビットは、話がややこしくなるから、とフィフィリアンヌに言われ、セイラと共に玄関先に残っている。
ぺらり、とフィフィリアンヌは数枚の紙をめくった。訝しげに眉を曲げていたが、グレイスに目を向ける。

「グレイス。貴様、本当に暇なのだな」

「面白いだろ、それ」

グレイスはフィフィリアンヌを見下ろした。フィフィリアンヌは、紙面を指先で撫でる。

「王宮の薬剤及び毒剤の在庫表など、見ても面白いものではない。どうせなら、軍用資金の入出表にしろ」

「オレは面白いと思うんだがなぁ、それ」

と、グレイスはいやに楽しげだ。フィフィリアンヌは紙をまとめ、ばさりとテーブルの上に放った。

「まぁ良いだろう」

「ところでよー、フィル」

がしゃりと背を丸め、ギルディオスは傍らのフィフィリアンヌを見上げた。

「解呪ってどうやるんだ? 呪うのもイマイチ解らないんだが、解くのはもっと解らねぇんだ」

「ひどいなー、ギルディオス・ヴァトラス。そういうことは、本職のオレに聞いてくれよ」

拗ねたように、グレイスはむくれる。ギルディオスは、すぐさま顔を背けた。

「お前に聞いたら、余計なことまで言いそうだからやだ。ていうかそもそも、会話したくねぇ」

「でも、フィフィリアンヌはやる気なさそうだから、勝手に説明させてもらうぜ」

グレイスは腕を組み、フィフィリアンヌへ目をやる。本当にやる気がないのか、注文書を眺めている。
ギルディオスは彼女の様子に、肩を竦めた。大方、説明するのが面倒だと思ったのだろう。
マークとジャックの視線も、自然とグレイスに向いた。グレイスは暖炉の上で足を組み、四人を見下ろした。

「呪いってのはな、魔法と似てるが根本から違う。魔法陣を見てみりゃ一目瞭然なんだけどな。使う言葉も違うしな。だから、解呪もそう簡単じゃねぇんだ。その相手にどんな呪いが掛けられたか、その威力がどのくらいなのか、どこに適応されるものなのか、全部解らないと、ろくに出来るもんじゃねぇんだ。解呪の呪文と魔力の出力を間違えて、更に呪いを深めちまうなんてこともザラだ。とにかく、解呪ってのは呪詛よりも面倒なんだ。経験と知識と魔力と才能とその他諸々、まぁ色々と必要なんだ」

グレイスは張りのある声で、饒舌に喋る。

「だがな、失敗しないための手段もないわけじゃない。呪いってのはどんなに威力が弱くても、被術者の魔力中枢に働きかけることで効力を発揮している。要するに、魔力を土壌にしているのさ。ということは、被術者の魔力中枢に触れることが出来れば、何が掛けられたかは察することが可能なのさ。といっても、その魔力中枢に触れることが、まず面倒なんだがね。だからオレはやらない。そうやって魔力中枢に触れて、直接解呪する方法が割と一般的だ。失敗が少ないし、何より確実に呪いに触れることが出来る」

ずり落ちそうな丸メガネを、グレイスは中指で直した。

「魔力中枢ってのは、要するに魔力の心の臓だ。肉体の心の蔵と同じく、胸にある。丁度、ギルディオス・ヴァトラスの魂入り魔導鉱石が填められている位置と同じだな。そこに触れるってのは、無論素手でやるのが一番確実だが、これは被術者が死ぬので却下。仕方ないんで、解術者が被術者の魔力中枢に、魔力の触手というか、感覚で接触するんだが、その方法ってのがなぁ…」

グレイスはフィフィリアンヌを見、笑う。

「本当に良いのか、フィフィリアンヌ? いくらカインが初めてを奪ってくれたからとはいえ、二番目がマーク・スラウでいいのか?」

「…なぜ、知っている」

言いづらそうに、フィフィリアンヌは口元を曲げた。グレイスはにやける。

「ほら、最初にこの城に来たときに、べたべた本に触ったろ? あのどれかに盗聴と盗視の呪いを掛けたんだが、それが丁度フィフィリアンヌの研究室にあったみたいでさ。いやー、いいもん見させてもらったぜぃ」

「うわぁ悪趣味ぃ」

上機嫌なグレイスに、ギルディオスは内心で舌を出した。フィフィリアンヌは、俯いている。

「貴様という男は…」

「ま、この分だと結構知られてるみたいだがね。でもまぁ、出来るだけ他人にゃ言わないでおいてやるよ」

片手をひらひらさせるグレイスを、フィフィリアンヌはじろりと睨んだ。だがそれ以上言わずに、深く息を吐いた。
いつになく気力の削げているフィフィリアンヌの横顔に、妥協したんだな、とギルディオスは思った。
グレイスと関わっている時点で、こうした事態になることは予想出来ている。というか、こうなるのが自然だ。
ギルディオスは、心底フィフィリアンヌに同情した。きっと今は、恥ずかしさと不甲斐なさで一杯に違いない。
しかし、グレイスの口振りから察するに、魔力中枢に接触するための方法というのは、恐らくあれなのだろう。
ギルディオスは、眼帯で左目を塞いだ屈強な男と、顔をしかめて恥じらっているであろう少女を見比べた。

「しかしフィル、本当に良いのか? つーことはつまり、あれだろ、口付けなんだろ?」

「この際、仕方のないことだ。いくら呪いが何か解っていても、確実に解呪出来ねば意味がない」

抑揚なく、フィフィリアンヌは言い放った。顔を伏せていたジャックは、上目に少女を見上げる。

「…やるん、すか、ドラゴンさん。その…マークさんと」

「やらずにどうとする。この状況を打開出来ねば、貴様らも不都合だろうが」

ソファーから立ち上がり、フィフィリアンヌはマークを指した。

「魔法陣を描く。しばし待て」

くるりと背を向けたフィフィリアンヌは、軽く指を弾いた。すると、ごとん、とテーブルに小箱が落ちてきた。
フィフィリアンヌは年季の入った木箱を開け、中から白墨を取り出した。広い場所に出、しゃがみ込む。
床に膝を付けて、白墨を滑らせている。黙々と魔法陣を描くフィフィリアンヌに、マークは呟いた。

「なんか…急にやる気が削げたなぁ」

「まぁそう言うな。フィルの中身はあんなんだが、ツラぁ悪くない。だから、そんなに悪い気はしねぇだろ?」

マークを見上げ、ギルディオスは笑ったような声を出す。マークは、ずるりとソファーに座り込む。

「そりゃあまぁそうなんだが、子供を手込めにするようで気が進まないんだ」

「あー、いいなぁ。フィフィリアンヌとやることやれるなんてさぁ」

羨ましそうに、グレイスはため息を吐いた。マークはグレイスを見たが、また視線を少女に戻す。
黒いローブの裾が汚れるのも構わず、がりがりと床に描いている。深いスリットから、細い太股が覗いていた。
これで、あと十歳ぐらい成長していれば遠慮はしないのに。そんな考えが過ぎったが、口には出さなかった。
半泣きになって動揺しているジャックに、これ以上の刺激を与えてはいけないと思った。


ギルディオスは、少年の目を塞いでいた。
フィフィリアンヌとマークは、魔法陣の中に立っていた。向かい合う二人は、どちらも表情が硬い。
ギルディオスは首を動かそうとするジャックを押さえ、身を屈めた。ジャックの耳元へ、声を落として言う。

「いいかー少年、何も見るんじゃねぇぞー」

「えっ、あっ、でも」

ジャックはギルディオスの手を外そうとしたが、びくともしない。銀色の手の下で、口元がへにゃりと曲がる。
背後のギルディオスを見上げるように、顔を上げた。マークが心配なのか、不安げに声が弱っている。

「マークさんが心配なんすよぉ。せめて、手だけは外してほしいっす」

「ダメったらダメだ。五年は早ぇ」

ギルディオスはぐいっとジャックの頭を押し、座り込ませた。だけどぉ、と情けない声が聞こえたが無視した。
フィフィリアンヌの座っていたソファーに座り、グレイスはつまらなさそうにしている。本気で羨ましかったようだ。
高い位置の窓から差し込む弱い日光が、本棚を照らしていた。その光の一部が、白墨の魔法陣まで届いていた。
黒衣の男と、黒衣の少女が向かい合っている。部屋が薄暗いせいで、まるで、色が失せたような光景だった。
こつん、と少女が一歩踏み出した。マークはやはり気が進まなかったが、足を曲げて身長を合わせた。
フィフィリアンヌの手が伸ばされ、マークの頬を挟んだ。彼が何か言おうとしたが、ぐいっと引き寄せられた。
冷たくも柔らかな唇に塞がれたかと思うと、舌が割って入ってきた。ぬるりとした感触に、思わず身を下げる。
一二歩後退してから、荒くなってしまった息を落ち着けた。年甲斐もなく、マークは緊張してしまった。

「お前、その、舌…」

「入れなければ魔力中枢は掴めない」

手の甲で口元を拭ってから、フィフィリアンヌはマークとの間合いを詰めた。

「逃げるな。別に貴様を喰いはせん」

「いや、そういう、問題じゃあ…」

更に後退したマークは、魔法陣から出そうになった。フィフィリアンヌは、彼の外套を掴んで引き戻した。

「金貨三十枚で女を買ったと思え。それで良かろう。私もそう思うことにする」

「オレに幼女趣味はないんだが」

「案ずるな、私は幼女ではない。実年齢は貴様を遥かに超えている」

黒い外套を離したフィフィリアンヌは、唇を少し舐めた。マークは、深く息を吐き、気を落ち着けさせた。
考えてみれば、こんな少女に戸惑うのがおかしい。いくら人外でも、見た目は十二歳ほどでしかないのだ。
すっかり、彼女の雰囲気に飲まれてしまっていた。気を取り直し、マークはフィフィリアンヌを真正面から見下ろす。
片膝を付いて、視線を合わせる。一歩間を詰めたフィフィリアンヌは、目を閉じることなく、手を伸ばした。
マークの首の後ろへ、ひやりとした手を重ねた。引き寄せられるままに、マークは少女と唇を合わせた。
意識しなければ、それほどのものではない。固く閉じた唇を、フィフィリアンヌの舌が割り、歯もこじ開けられた。
マークの口内を探るように、ぬめったものが動いていく。少女独特の甘ったるい匂いが、間近に感じられる。
動悸ともまた違った、熱が起きた。胸の奥で、久しく使っていなかった魔力が高まり、徐々に熱を発し始めた。
視界が揺らぎ、熱が増す。マークの意識はフィフィリアンヌから外れ、内側へと向けられた。
覚えのないはずの光景が、蘇る。ギルディオス・ヴァトラスの名が、次々にその光景と重なり始めた。


炎に似た、夕焼け空。血溜まりに沈んだ、彼の亡骸。

彼の妻。その泣き顔と、勇ましき背中。

銀色の甲冑。巨大な剣。

灰色の城。灰色の男。

そして、女。


よけいなことをしないで。

これで。わたしは、にいさまはらくになる。

らくになれるのよ。

だから。


影の騎士。闇の騎士。高々と掲げられた刃に、美しく跳ねる夕陽。

間違えていたのだ。間違えてしまったのだ。

だから、彼を。だから、ギルを。だから、親友を。


フィフィリアンヌから離れ、マークは口元を拭った。その手は震えていて、力を込めても落ち着かなかった。
忘れてはならないはずの、忘れてはいけないはずの過去が溢れる。なぜ、今まで彼のことを忘れていたのか。
しかも、彼を狩ろうとしてしまった。強烈な自己嫌悪、己への憎しみが胸を満たす。骨が、軋んでしまいそうだ。
贖罪を出来ずに、ここまで来た。力になれなかったことが何よりの罪だと、日々思って生きてきた。
そのはずだった。だがそれを、今し方まで失っていた。五年もの間、失わされていた。
竜の少女の瞳が、外れた。その先を辿ると、あの日と変わらぬ姿で立っている、甲冑の彼がいた。

「ギル」

掠れた声で呼ばれ、ギルディオスは頷いた。ヘルムの隙間からは、空虚な闇しか見えない。
死なせたのは、自分だ。判断を見誤って、彼を罠に陥れ、救うことすら出来なかった。
ギルディオスを死なせてしまったのは。間違いなく。

「オレが」

マークは、魔法陣から踏み出た。白墨が擦れ、円が途切れる。


「ギルを殺したんだ」


音もなく、黒衣の男は崩れ落ちた。黒が白い文字を覆い、暗がりの中に隠してしまった。
いつのまにか赤らんだ日差しが、高い窓から切り込むように差していた。壁と床、本棚を焼け付かせている。
その、色は。五年前の空に、良く似た色だった。




綻ぶ闇は、過去に繋がっている。それは、彼の死の記憶。
途切れた時間を紡ぎ直し、破れた記憶を貼り合わせ、年月は蘇る。
親友が失ったものは、失わされていたものは、再び彼の中に舞い戻った。

こうして、追憶を禁ずる呪いは破られたのである。








05 5/30