ドラゴンは笑わない




傀儡の休日



レベッカは、目を覚ました。


魔力の満ち足りた感覚が優しく、もう少しまどろんでいたかった。軽く手を握ると、修繕された外皮が伸びる。
小さな手を掲げ、窓から差し込む朝日に晒してみた。グレイスが直してくれたので、すっかり元通りだ。
人工外皮だけでなく、木製の骨組みや魔導金属糸製の神経も多少損傷していたので、昨日まで体が痛かった。
だが、もうその痛みはない。魂の軋むような感覚も魔力のすり減った喪失感も、体内から失せてくれた。
体の肉であり液である液体魔導鉱石も減っていたが、その量も戻された。確かな重さが体にあり、安心した。
人造魔導兵器とはいえ、力は無限ではない。摩耗もすれば消耗もするし、生物ではないので自己回復出来ない。
強大な能力を持つレベッカにも、そういった弱点がある。グレイスはレベッカが弱るたびに、直している。
グレイスの留守にひっきりなしに襲撃してくる、いや、襲撃させられるジュリアの相手をするのも大変なのだ。
主の命令は、彼女を殺すな、とある。元々大量殺戮を得意とするレベッカには、かなり面倒な命令だった。
人を殺すのは斬って貫けばそれでいいのだが、死なない程度に抑えるのは、気も遣うし力も出せないしで厄介だ。
なので、ジュリアにまともな攻撃を出来ないので受けっぱなしになり、結果としてかなり損傷してしまった。
ジュリアを動かすイノセンタスは、グレイスを逆恨みしているのだ。ギルディオスを手助けしているから、と。
全くもって、良い迷惑である。だったらなぜ最初にフィフィリアンヌを襲わないのだろう、とレベッカは思った。
薄手の布団をめくり、レベッカは上半身を起こした。左側を見ると、自堕落に主が眠りこけていた。
体を横にして背を丸めているグレイスは、熟睡している。レベッカを直すため、魔力を相当に消耗したのだ。
レベッカの体を成す液体魔導鉱石を精製し、並々と魔力を注ぎ込み、修繕のために徹夜したのだから当然だ。
いくら人間らしからぬ高魔力を持つグレイスでも、一度に大量に使ってしまえば、さすがに堪えるものがある。
修繕作業の最中に暑いと言って服を脱ぎ捨て、そのまま眠ってしまったので、彼は半裸で眠りこけていた。
情事の後のようであるが、さすがに今回は行われなかった。グレイスが力尽きていたからだ。
レベッカは身を屈め、主の顔を覗き込んだ。長い黒髪が首筋に垂れていて、顔を半分覆い隠していた。
それを退けてやってから、頬に軽く口付けた。体を離してから、レベッカは嬉しさが込み上げてきた。

「んふ」

小さく笑みを零してから、ベッドから下りた。床に放り投げてあった、下着や服を拾い集めていった。
こうして直されるということは、大事にされているということであり、主から必要とされているということだ。
それが、何よりも嬉しかった。グレイスの命令通りに動くことが自分の存在意義なのだから、あくまでも道具だ。
彼は、その道具に執着を持ってくれている。百五十年以上も傍にいさせてくれて、捨てずにいてくれる。
ただ単に使い勝手が良いから、だけかもしれないが、それでも幸せだ。形はどうあれ、愛されているのだから。
濃い桃色の長い髪を、軽く手で梳いた。魔力が抜けていたからクセが取れて、あのくるくるがなくなっている。
ひらひらしたメイド服を着て首でリボンを結び、長い髪を二つに分けて頭の両脇で結んだが、丸まらなかった。
レベッカの珍妙な髪型は、体内の魔力で維持されているものだ。魔力が安定していないと、当然維持出来ない。
体内の液体魔導鉱石に充ち満ちている魔力が一定の値を保たないと、その間、戦闘能力も半減してしまう。
レベッカはだらしなく垂れる髪を握り、むくれた。これでは、グレイスの役に立つことが出来ないではないか。

「いやーんー」

ベッドの上で、グレイスが身動きした。怠慢に上半身を起こすと、長い髪を掻き上げて薄く目を開けた。
めくった掛け布団の下で胡座を掻き、その間に両腕を放った。無駄なく筋肉の付いた胸には、薄く傷痕が見える。
レベッカはそれを見、少し切なくなった。何十年か前に彼を守りきれず、主の体に付けてしまった傷だ。
グレイスはぼんやりとしていたが、枕元からメガネを取って掛けた。意味はないが、掛けないと落ち着かない。

「一晩経ったのに、まだ落ち着いてねぇのか?」

「みたいですー。くるんくるんてなりませんー」

レベッカは髪を巻いてから手を外したが、するっと落ちてしまう。グレイスはレベッカを見下ろした。

「相当手酷くやられてたな。あんの野郎、レベッカちゃんに無茶苦茶に魔法掛けてたもんなぁ」

「呪い封じとか魔力封じとかだけならまだいいんですけど、魂封じはちょっと困っちゃいましたー」

小さな唇を尖らせ、レベッカはむくれる。グレイスは首筋に手を当て、ぐきりと首を曲げる。

「ああ、そうだなぁ。ありゃー結構きわどかったなー。あの馬鹿兄貴も、伊達に国王付きやってねぇ、ってことか」

「でも、剣士さんの妹さんは三日前に来たばっかりですから、さすがに今日は来ませんよねー?」

「いやあどうかな。なんか、今日は来そうな感じがするんだよなぁ」

良く晴れてるし、とグレイスは窓を見上げた。寝室のベランダ越しに、抜けるような青空が見えている。

「今日ぐらい、レベッカは休め。オレがお人形さんの相手をしてやるから」

「えー、でもー」

「オレもたまには魔法を使わないと、腕が錆びるんだよ。呪いばっかりじゃあなぁ」

掛け布団をめくり上げ、グレイスはベッドから降りた。レベッカの前にしゃがみ、桃色の髪を撫でる。

「一日ぐらい、休んだっていいだろ。散々戦ってきたんだからさ」

「むー」

レベッカが不満げに唸ると、グレイスはむっとする。身を屈め、顔を寄せた。

「なんだその顔はー。敬愛する御主人様の慈悲深いお言葉を聞けないって言うのか、レベッカ?」

「だってそれは、わたしのお仕事なんですよー。御主人様が取っちゃったら、いけませんー」

「だぁから休ませてやろうって言ってんだよ。どんなに丈夫な道具だって、休みがなきゃダメになっちまう」

「でぇもー」

「いいか、これは命令だ! 解ったかレベッカちゃん!」

ぐいっとレベッカの頬を引っ張り、グレイスはにんまりした。レベッカは、渋々頷く。

「ふぁい…」

幼女の頬から手を放すと、いよぉし、とグレイスは満足げに胸を張った。レベッカは、もう一度頷く。
レベッカはベッドの周囲に散らばったグレイスの服を集め、彼に渡した。それを受け取り、主はようやく服を着た。
フードの付いた灰色のローブを頭から被って髪を出し、腰の部分を帯で適当に結び、ブーツを履き込む。
グレイスはベッドに座ると、レベッカを手招いた。レベッカは彼の背後に座り、髪を梳いて三つ編みを始めた。
艶やかでしなやかな黒髪を編みながら、早く朝食を作らないとな、とレベッカは思っていた。
いくら休みをもらえたといっても、最低限の仕事はしなければならない。




灰色の城を後にして、レベッカはのんびり歩いていた。
いつのまにか、外の世界では初夏が訪れていた。城の中は季節感がないので、すっかり忘れていた。
道を挟む畑の作物は生い茂り、収穫を待っている。まばらな民家の向こうには、城壁と王都が見えていた。
王都を囲む城壁を、更に運河が守っていた。要塞のような外見の王都は、正に要塞となるように造られている。
度重なる帝国との戦争で、東西南北の分都は攻められてしまったので、いつ王都が攻め込まれるかは解らない。
なので、六十年ほど前の区画整備と共に大改造が行われ、城壁が立てられ運河が掘られ要塞と化したのだった。
レベッカは足を止めると、遠目に見える王都を眺めていた。あの都は、あまり好きな場所ではない。
あの中に入れば、グレイスを疎む者は一気に増える。それと同時に、雇うだけでなく利用しようと近寄る者も。
レベッカはまだクセの付かない髪を握り、眉を下げた。この髪の色は好きなのだが、すぐに正体がばれる。
もっとも、それはレベッカが人造魔導兵器であると知っている人間に限った話なのだが、会わない保証はない。
会ってしまえば、グレイスへの仲介を頼まれるだろう。そうなれば、せっかくの休みが潰れてしまう。
レベッカは髪から手を放し、周囲を見回した。だだっ広い畑の先に道が繋がっていて、低い山が連なっている。

「あっちに行きましょー」

レベッカは独り言を言いながら、低い山へ向けて歩き出した。山を越えたその先には、広大な草原がある。
狂暴とは行かずともちらほらと魔物の出没する場所なので、物好きな輩以外は、人間などほとんど近寄らない。
そこならば、一人遊びでも充分に出来るはずだ。何をして遊ぼうかと考えるだけで、うきうきした。
軽やかな足取りで、紺色のスカートを翻しながら歩いていった。


レベッカは、山を下りていた。
歩くに連れて、森は深くなってきた。青く茂った木々は枝を広げていて、眩しい日光を遮っている。
体が石で出来ているせいか、山の中は不思議と落ち着いた。魔導鉱石の鉱脈が近ければ、もっと落ち着くだろう。
細い道を、鼻歌混じりに進んでいた。城に帰ったら今夜の夕食に何を作ろうか、などと考えていた。
しばらく歩くと、木々が開けてきた。道の幅も広くなり、水の匂いが混じった風が、どこからか漂ってくる。
レベッカは小走りになり、一際明るい方向へ駆け出した。しっとりとした森の空気が消え、乾いた風がやってくる。
森を抜けた先には、草原が広がっていた。まばらに木の生えた緑の間を、幅のある川がさらさらと流れていた。
その川岸に、黒い影が立っていた。それは遠目に見ても、一見して人間でないと解る形相の者だった。
背中から八本の節の付いた足が伸び、ほぼ全身が黒い装甲に覆われている。甲虫に似た、硬そうな皮膚だ。
額には八つの目があり、金色をしていた。その下にある人間のような目が動くと、額の目も同じように動いた。
レベッカを捉え、その者は目を見開いた。レベッカは川岸を歩いて、クモに似た姿をした男へ近付いた。
すると、クモ男は身をずり下げた。真っ黒な手を振りかざし、困ったような声を出して喚く。

「え、あっ、やだよう、ダメだよぉ!」

「何がですかー?」

レベッカが立ち止まると、クモ男は逃げ腰のまま数歩後退した。

「やだなぁ、見れば解るでしょ。僕は魔物だし、近付かない方が…」

「わたしも人間じゃありませんがー」

「やだなぁもう、嘘でしょ。君って、どこからどう見ても人間じゃないの」

少し羨ましげに、クモ男はレベッカを見下ろした。レベッカは首を横に振る。

「いいえー。わたしは御主人様に造られたストーンゴーレムの一種でして、構造も人間とはかなり違いますー」

覆面のような装甲に覆われたクモ男の顔に、レベッカは笑ってみせる。その表情に、クモ男は目元を緩めた。

「僕と同じだ」

「あなたは、どこのどなたなんですかー? 魔力の感じが似てる人は知ってますがー」

「ああ、それはきっと僕のお母さんか、お母さんのお兄さんじゃないのかな」

クモ男は川岸に腰を下ろし、背中の八本足を縮めた。レベッカもその隣に座り、足を放り出す。

「あなたのお母さんのお名前は、なんていうんですかー?」

「それを言ったら、僕はのたうち回っちゃうから言えないの。やだなぁもう」

「不便ですねー」

「それじゃ、今度は僕の番。君を造ったのは誰? 言えるようなら言ってみて」

クモ男は、目の大きな幼子を見下ろした。レベッカは、平たい胸に手を当てる。

「わたしの御主人様は、グレイス・ルーと言いまして、わたしはレベッカ・ルーと申しますー」

「ふぇ…」

クモ男は驚いたようだったが、気の抜けた声を出した。不思議そうに、首をかしげる。

「君みたいなのが、あのグレイス・ルーの? なんか、しっくり来ないって言うか、変な感じぃ」

「良く言われますー。それで、あなたのお名前はー?」

レベッカは、クモ男を覗くように見上げた。クモ男は笑うように、金色の目を細める。

「スパイド」

「ファミリーネームはないんですかー?」

「あるんだけど、言っちゃいけないの。お母さんのお兄さんが、そう命令してきたから言えないの。やだよもう」

「また不便ですねー」

「僕もそう思う。けどね、お母さんがお母さんのお兄さんに逆らっちゃいけないって言ったから」

いやんなっちゃうよもう、とスパイドは嫌そうに付け加えてから、レベッカを見下ろす。

「レベッカちゃんは付いてなさそうだけどね、そんな呪い。いいよなぁ、そういうのって」

「わたしに呪いは掛けられてませんけど、わたしは呪いに掛かっているようなものですー」

「何それ?」

変だと言わんばかりに、スパイドは全部の目を瞬きさせた。レベッカは、うふふ、と笑む。

「御主人様はわたしを呪っていませんけど、わたしはわたしを呪ってるんですよー。御主人様が大好きだから従う、従ってるから大好き、って具合にー」

「訳解んない」

「スパイドさんはー、そういうの、ないんですかー?」

「スパイドでいいよ。別に僕は、誰かを好きになったことないし、お母さんやお兄ちゃん達はそういうのじゃないし」

「お母さんのこと、好きじゃないんですかー?」

「前はちょっと好きだった。でも、今は嫌いだな」

遠くを見るように、スパイドは顔を上げた。草原を走ってきた風が二人に吹き付け、レベッカの長い髪を揺らす。
青空が、金色の目に映っていた。スパイドは覆面に似た口元を僅かに動かし、低めだが幼い声で話す。

「前から厳しかったけど、お母さんは今よりずっと優しかった。三本ツノを、セイラを手放さなきゃいけなくなったときだって、セイラがいなくなっちゃった後で泣いてたぐらいだもん。でも、お母さんのお兄さんが来て、お母さんや僕達を王都に連れてきてから変になっちゃったんだ。ううん、連れてこられるときからお母さんは変になっちゃったんだ。いつも眠たそうだし、目が覚めたと思ったら怒ってばっかりで。変な命令もするし、いきなりどこかに行っちゃうし…」

「悲しいんですかー?」

「うん。僕も悲しいけど、お兄ちゃんとお姉ちゃんの方がもっと悲しいんだ」

スパイドは手の甲で、目元を拭った。声が涙混じりになる。

「二人とも僕より先に造られたから、お母さんの色んなところを知ってるの。たまに凄く優しかったこととか、いきなり一杯謝られたこととか、お母さんが笑うと綺麗だとか、僕の知らないことを沢山知ってるの。だから」

レベッカがスパイドの足に触れると、スパイドは肩を震わせてしゃくり上げる。

「やだよぉ、やだよぉ。このままじゃ、お母さんがおかしくなっちゃうよぉ。僕、そんなのやだよぉ!」

「大丈夫ですよ、スパイドー。きっと、なんとかなりますよー」

レベッカが笑うと、スパイドは涙の伝う頬の辺りを拭った。ぐしゅり、と啜り上げる。

「…ほんとに? うそじゃない?」

「嘘じゃありませんよー。本当に、大丈夫ですよー」

「うん…そうだよね。きっと、大丈夫だよね!」

「そうですよー。大丈夫なんですよー」

レベッカがぽんぽんとスパイドを叩くと、スパイドは何度も頷いた。とりあえず、安心したようだった。
顔から涙を拭い取ってから、スパイドは立ち上がった。広い草原を指し、浮かれた声を出す。

「ねぇレベッカちゃん、一緒に遊ぼう! 僕が怖くないなら、遊んでくれるよね!」

「わたしも一人より、そっちの方がいいですー」

レベッカは立ち上がり、スカートを払った。スパイドは歓声を上げる。

「ホント!?」

「本当ですよー。スパイドは疑り深いですねー」

レベッカが少し変な顔をすると、スパイドは顔を伏せた。情けなさそうに、肩を落とす。

「ごめんなさい。今までに何度か、一緒に遊ぼうって言われて殺されかけたことがあるから…」

「薄っぺらな手段ですねー。三流ですよ、そんな相手はー。いっそ、殺し返しちゃえばいいんですよー」

「うん。とっても怖かったから、思わずやっちゃったんだけどね」

スパイドは手を開いたが、握り締めた。レベッカは背伸びをして、少しだけ身長差を詰める。

「やるじゃないですかー」

「良くないよ。いくら仕方なかったからって、簡単に人を殺しちゃうのは良くないんだよ!」

叫んだスパイドは、声が多少上擦っていた。良くないんだよ、と繰り返した。
彼に手を差し出して、レベッカは笑った。邪気のない、子供らしい表情になる。

「いけないのは、人間の方なんですー。襲われたら、誰だって殺し返しますよー」

「前に、お母さんもそう言ってた。でもね、やっぱり、いけないことはいけないんだよ」

レベッカの手を取らず、スパイドは顔を逸らした。レベッカは伸ばした手で、スパイドの腕に触れた。
滑らかで硬質な甲冑じみた肌は、少し冷たかった。スパイドはおずおずと顔を戻し、レベッカを見下ろす。

「なあに?」

「わたしも、色々とやってきましたー。だけどやっぱり、いけないのは利用してくる人間なんですー」

レベッカは笑みを消し、表情を少し硬くした。

「御主人様は、楽しいから呪術師をやってるだけなんですー。他人の不幸な姿を見るのが大好きだったから呪術を極めただけなのに、勝手にどこからか人間が近付いてくるんですー。御主人様はお金も好きだからお仕事を受けるんですけど、たまに踏み倒そうとする人がいて、わたしはそういう人を何十人と相手してきましたー。そういう人は、いっつも最後にこう言うんですー。裏切ったなー、ってー。だけど、おかしな話なんですー。最初に利用してきたのはあっちなんだから、別に御主人様は裏切ったりなんかしてないんですよー。そりゃあたまに、嘘を吐いたり関係者を殺しちゃったりはしてますけど、それはそれなんですー。だからいけないのは、最初から人間なんですー」

「だからって、殺してもいいってことにはならないと思うけど」

「倒される前に倒すのは、当たり前ですよー」

けどさぁ、と返すスパイドに、レベッカはにんまりと笑う。

「獣に襲われたら剣を振るう、賊に襲われたらやり返す、それと同じですよー」

「…なんか腑に落ちないんだけど」

「あんまり言うと、遊んであげませんよー?」

むっとするレベッカに、スパイドは慌てて声を上げた。

「えー、それはやだ、やだよぉ! 僕と一緒に遊んでよぉ!」

「じゃ、あっそびーましょー」

レベッカが手を伸ばすと、スパイドは彼女の手を恐る恐る掴んだ。

「いい…んだよね?」

「いいんですよー。もう、お友達ですからー」

「じゃ、行こう行こう!」

ぐいっとレベッカを引っ張り、スパイドは駆け出した。スパイドは予想以上に腕力があり、レベッカは浮いた。
スパイドはそれに気付かないのか、上機嫌に駆けていく。文字通り、レベッカは振り回されていた。
彼の走る調子に合わせて上下する視界に、レベッカは少し酔ってしまい、抵抗しようにも出来なかった。
しばらく走って草原の中に来ると、スパイドは立ち止まった。スパイドは高く掲げていた手から、幼女を離した。
高い位置に振り上げられていたレベッカは、がくんと落ちた。スパイドの背中に、強かに顔をぶつける。

「きゃん!」

どごっ、と不意の衝撃にスパイドはつんのめった。

「うきゃあ!」

どさり、とスパイドは顔から思い切り転んだ。その少し後ろで、レベッカが仰向けにひっくり返っている。
地面に転がる両者の上を、風が抜けていった。さわさわと擦れる草の葉音が、倒れた二人の周囲を包んでいた。
先に起き上がったのは、レベッカだった。レベッカは顔と服を払って、正面から転んでいるスパイドを起こした。
草と土に汚れた顔を上げたスパイドは、いきなり吹き出した。背中の足をがしゃがしゃさせて、胸を反らして笑う。
何が可笑しいのかとレベッカは思ったが、つられて笑い出した。二人の甲高い笑い声が、ひとしきり響き渡った。
スパイドは散々笑ってから、顔の目元を擦った。まだ笑いが収まっていないのか、多少肩が震えている。

「僕、なんで笑っちゃったんだろ?」

「わっかんないですー」

立ち上がったレベッカは、口元を押さえて笑う。理由のない可笑しさが、まだ残っていた。
まぁいいや、とスパイドは立ち上がり、泥と草を払った。レベッカの頭も払ってやってから、空を見上げる。

「ちょっと、忘れてたかも」

「何がですかー?」

「笑うのを。すっごく楽しいや」

「じゃ、もっと笑いましょー」

スパイドに背を向け、レベッカは軽快に駆け出した。両手を振り、跳ねるように駆ける。

「んふふふ、わたしを捕まえてごらんなさーいー」

「待てようこいつぅ、って僕ら何言ってるんだよぉ!」

笑い気味の声を上げたスパイドは、レベッカの背を追った。途中でレベッカが立ち止まり、二人は並んで走った。
それから二人は妙に気が合い、遊んだ。川に入ってみたり、花を摘んだり、ままごとをしたり、色々と遊んだ。
初めての友達に浮かれるスパイドと、久方ぶりに子供らしい行動を取れて喜ぶレベッカは、とにかくはしゃいだ。
クモの魔物とメイド姿の幼女は、日が暮れるまで草原で遊び回り、また遊ぶ約束をして二人は別れた。
その次がいつになるかは約束しなかったが、約束は約束だった。




灰色の城にレベッカが帰ると、すっかり夜になっていた。
居館の居間に戻ると、グレイスがソファーにへたり込んでいた。三つ編みも緩んでいて、眠たげな顔をしている。
久々に使った魔導の杖が、ぞんざいに床に転がっていた。魔導書もいくつか散らばっており、すっかり荒れていた。
レベッカが近付くと、彼は上半身を起こした。だらしなく座ってから前のめりになり、力無く声を洩らす。

「あーもう、面倒だー。殺さないようにするのって、何度やっても骨が折れるぜ」

「剣士さんの妹さん、来ましたかー?」

レベッカはグレイスの隣に座ると、彼を見上げた。グレイスは頬杖を付き、こっくりと頷いた。
片手で、真っ暗な窓の外を示した。レベッカが目を凝らしてみると、居館の前の地面が多少抉れていた。
グレイスはぼんやりと暖炉を見つめていたが、視線はその先に行っていた。何か、考え事でもしているようだ。

「来た。だが、レベッカが言ってたよりも魔法が弱かったな。さすがに暗示が緩んできてる証拠だ」

「それじゃあ、そろそろやっちゃいますかー?」

レベッカはグレイスの膝に縋った。グレイスはクセのない、濃い桃色の髪を撫でる。

「もう少しだ。もうしばらくしたら、引っ掻き回してやろうぜ」

「どんなふうにですかー?」

「それはまだ内緒だ。お楽しみは取っておいた方がいいだろ?」

「御主人様の意地悪ー」

ぷうっと膨れたレベッカの顔を、グレイスは両手で挟んだ。じっと青紫の目を見つめ、んー、と唸る。

「まーだ魔力が落ち着いてないのか…。それとも、落ち着けようとするのを忘れたのか?」

「忘れちゃってたかもしれませんー。お友達と遊んでたのでー」

「そうか、友達が出来たのか」

にっと笑ったグレイスは、レベッカに深く口付けた。軽く唇を開かせて、その間に舌を滑り込ませていった。
レベッカは目を閉じて、身を任せていた。主の体温と共に注ぎ込まれる魔力と、柔らかな舌の感触が心地良い。
体内が温まり、徐々に力が満ち溢れてくる。グレイスが離れたので目を開けると、レベッカの髪が跳ねた。
くるくると丸まった濃い桃色の髪が、ぽよんと上下した。バネのような髪を引っ張って離すと、何度も揺れる。
レベッカは無性に嬉しくなって、グレイスに飛び付いた。主の腰に短い腕を回し、頬を寄せて笑う。

「もっどりましたー」

温かな主に体を寄せながら、レベッカはグレイスを見上げた。大きな手が頭を押さえ、撫でてくる。
グレイスがどういう人間であるかは知っている。彼の嗜好が相当ずれていることも、一応は理解している。
それでも、この手は優しいと思えた。彼の手がどれだけの血に汚れているかも知っているが、嫌悪感は湧かない。
むしろ、それすらも愛おしいと感じていた。無条件の愛しさは、兄弟、或いは親に対して感じる感情に近かった。
もっとも、レベッカには親兄弟がいないので想像に過ぎなかったが、そんなところだろうと思っていた。
ふと、レベッカはスパイドとの会話を思い出した。グレイスから体を離し、おずおずと上目に見る。

「御主人様ー。剣士さんの妹さん、殺しちゃったりはしませんよねー?」

「なんだいきなり」

「剣士さんの妹さんは、お友達のお母さんらしいんですー」

どこか不安げなレベッカに、グレイスは幼女の頭をぽんぽんと叩いてやる。

「そういうことか。心配するな、オレはギルディオス・ヴァトラスを苦しめやしねぇよ」

「それじゃ、剣士さんの妹さんは苦しめるーってことですねー?」

「兄貴の手駒だったとはいえ、オレの楽しみを利用しやがったからな。死なない程度に苦しめてやるのさ」

楽しげに、グレイスの声が弾む。レベッカは少し不安になったが、殺しはしないだろうと思った。
今後の展開を想像してにやつくグレイスに、レベッカは寄り掛かった。暖炉の上には、魔導鉱石があった。
円形の金属板に填め込まれた紅色の魔導鉱石が、輝いていた。あの中に、レベッカの人造魂が込められている。
どうせなら、あれも持って外に行くべきだった。今更ながら、レベッカは本体を忘れていたことに気が付いた。
次に遊びに行くときは、ちゃんと魂も連れていこう。またスパイドに会えるなら、今度は別の遊びをしよう。
けれど、彼はあちら側の手駒だ。イノセンタスに操られたジュリアの子であり下僕たる、人造魔物の一人。
レベッカはそうだと解っていたが、スパイドは解っていないようだった。ああ見えて、彼はかなり幼いようだ。
グレイスの名を聞いても驚いただけだし、敵対関係にあるとは知らなかったようだ。何も、知らされてないのだ。
同じ傀儡かいらい、操り人形でも違っている。レベッカは最低限の自由を与えられているが、彼は何もかも縛られている。
なんだか、スパイドが哀れに思えてきた。何も知らないからこそ、それが余計に可哀想で仕方なかった。
次に会うときは、彼と戦うときかもしれない。そうなったとしたら、真っ向からスパイドと戦うまでだ。
少しだけレベッカは切なくなったが、決意など元より存在していた。誰かと戦うことは、いつものことだ。
主に代わって手を汚し、血にまみれて踊るのが傀儡の役割なのだ。




ほんの一日、主から離れて自由を得た異形の人形達。
思い掛けず出会ったクモと幼女は、手を取り合って友人となった。
その手が拳となり、互いを打ち据える日は。

遠からず、訪れることとなりそうである。





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