フィフィリアンヌは、僅かばかり緊張していた。 厚い扉に手を当て、ゆっくりと息をする。意識しているという自覚が無くとも、自然と神経が立ってしまう。 背後に感じる視線が、少々やりづらかった。つい先日まで、それほど気にしていた相手ではなかったのに。 いつものクセで伯爵を廊下に放り出したが、出すべきではなかったかもしれない、とちらりと思った。 弱い風が、開いた窓から入り込んでいる。目線を後方に向けると、群青色の影が広がっているのが見えた。 研究室の中程に、きょとんとした顔で彼が立っていた。その手にはカトリーヌが抱かれ、幼子は尾を振っている。 妙な焦燥を感じながら、フィフィリアンヌは向き直った。カインへ手を差し出し、手招くように手首を曲げた。 「カトリーヌもだ」 「え?」 カインが不思議そうに目を丸めると、ぎぃぎぃぎぃ、とカトリーヌは不満げに赤いリボンの付いた尾を振り回した。 フィフィリアンヌは目線を少し外したが、またカインに戻した。口調を和らげ、カトリーヌを宥める。 「他者がいては、少々困る話なのだ。聞き分けてくれ、カトリーヌ」 ぎゅるう、と幼いワイバーンは吠える。 「解った解った。後で穴埋めに、ヘビの身でも裂いてやろう。外へ行って、セイラと遊んでいてくれ」 ぎしゃあ、とカトリーヌは頭を反らす。 「そう、良い子だ。セイラは色々な歌を知っているから、好きな歌を歌ってもらうといい」 腰を曲げ、フィフィリアンヌはカトリーヌと目線を合わせた。幼子の薄黄の瞳と、彼女の赤い瞳が合う。 ぎゅるぎゅる、と頷いたカトリーヌは、ばさりと翼を広げて羽ばたいた。小さな体を、浮かび上がらせる。 カトリーヌはフィフィリアンヌに向けて鳴いてから、するりと滑るように飛び、開いた窓から外に出て行った。 カインは、状況がさっぱり理解出来なかった。フィフィリアンヌが人払いをしたのは嬉しいが、理由が掴めない。 今まで、こういうことはなかった。カインがギルディオスらにせっつかれて、というのはあったのだが。 まさかそれを、彼女からしてくれるとは。嬉しさと共に沸き起こる僅かな不安に、カインは苛まれていた。 一体何の不安なのかはよく解らなかったが、恐らく、先日に毒味をやらされたからだろう、と内心で結論を出した。 カインは何を言うべきか考えていたが、少しも言葉が出てこなかった。表情が強張ったのが、自分でも解る。 フィフィリアンヌは、また目線を彷徨わせていた。赤い瞳がうろうろして、彼女らしくないように見えた。 いつもは他人を射竦めるように見るのに、それが反れている。酔ったときに似ているな、とカインは思った。 フィフィリアンヌは、ようやくカインを見据えた。片手を挙げて、研究室の壁際に置いてあるソファーを指す。 「座れ」 「え、はぁ」 背を向けて歩き出した彼女に、カインは力なく返した。まともに持て成されたのは、初めてかもしれない。 一括りにされた長い緑髪を揺らし、翼の生えた背が遠ざかっていく。その先には、向かい合ったソファーがある。 ソファーの間のテーブルには、いくつか本が載っていた。カインは何の気なしに、それらの題名を読んだ。 甘き日々。春と夏の情景。愛の行方。恋しい人へ。他にも数冊、見覚えのある題名の本が重なっている。 カインはそのどれも読んだことがあったが、かなり違和感を感じていた。あれは全て、甘ったるい恋愛小説なのだ。 それがこの部屋に、フィフィリアンヌの研究室にあること自体がおかしかった。違和感どころか、いっそ不気味だ。 ますます、カインは不安になった。本気で、フィフィリアンヌは大丈夫なのかと疑ってしまった。 それほどまでに、彼女らしくなかった。 向かい側で、一人掛けのソファーに座ったフィフィリアンヌは足を組んでいた。 深いスリットの入ったローブから、細い太股が出ている。色素の薄い肌を、カインはなるべく見ないようにした。 フィフィリアンヌは、大量の恋愛小説の一冊を取った。ぱらぱらとページをめくっていたが、その手を止める。 「今ひとつ、理解出来んのだ」 「何がです?」 カインが尋ねると、フィフィリアンヌは本から目線を上げた。 「恋愛感情だ」 「あ、はぁ…」 カインは無性に気恥ずかしくなり、顔を伏せた。真顔で言われると、照れて言われるよりも妙な気分になる。 フィフィリアンヌは慣れた手つきで、ページを広げた。活字を目で追っていたが、細い眉をしかめた。 「散々これらの本を読んでみたのだが、理解出来なかった上に腹を壊してな。余計に解らなくなったのだ」 「合わなかったんですね、きっと」 カインは、思わず苦笑いした。恋愛小説特有のくどくて甘い表現が、フィフィリアンヌに合うとは思えない。 そうなのだ、とフィフィリアンヌは本を閉じてテーブルに戻した。人差し指を立て、カインの顔を指す。 「だからいっそのこと、貴様に聞いた方が理解するには早いと思ったのだ」 「他の皆さんは?」 「あの連中に聞いたところで、ろくな答えが返ってくるとは思えん」 「そりゃそうですね」 カインはすぐに納得し、頷いた。彼女の言う通り、この城に住む他の者が恋愛の機微に通じているとは思えない。 ギルディオスは短絡的だし、伯爵は彼女を馬鹿にするだろうし、セイラは子供だし、デイビットは言うまでもない。 矢継ぎ早に妄想を並べ立てられて、それを伯爵が煽るのが目に見えている。それは嫌だ、とカインは思った。 フィフィリアンヌは背を丸めるようにして、頬杖を付いた。華奢な指が、白い頬を支えている。 「だから、教えてくれ。具体的に、恋愛感情というものはなんなのだ?」 「恋愛、ですか…」 そう言いながら、カインは腕を組んだ。具体的に言い表せないものだから、恋愛なんじゃないか、と思っていた。 言い表しようもない衝動、空虚な喪失感、締め付けられるような胸の痛み、泣きたくなるほどの嬉しさ。 それらを含めて、恋愛感情だ。どれか一つだけでは成立しないし、かといってこれだけでも恋愛感情ではない。 カインは、フィフィリアンヌを真正面から見た。吊り上がってはいるが形の良い目が、こちらを見ている。 病的な色の肌に、長い睫毛の影が落ちている。前はただ美しいと思っていたが、近頃は可愛らしいと思えてきた。 見た目が幼いからということもあるが、冷静さを失って感情を表に出した彼女の姿は、本当に可愛らしかった。 寝惚けていた際の表情や、イヌに怯える姿に、酔い潰れた寝顔。それらを一気に思い出し、カインは急に照れた。 カインがにやけた口元を押さえていると、フィフィリアンヌが訝しげに口元を曲げた。何がなんだか解らない。 「なぜそこで照れる」 「いえ、なんでもないです、なんでもないんです」 カインは、手を横に振る。フィフィリアンヌはまだ訝しげにしていたが、まぁいい、と言った。 「それも恋愛感情の一部なのか?」 「一部、といえば一部ですけど、全てだといえば全てです」 「どういうことだ」 「ええと、その、つまり。好きだなぁと思うのは恋愛なんですが、それだけではないんですよ」 カインが返すと、フィフィリアンヌは眉間をひそめる。 「よく解らん。好きだと思っていればそれでいいのではないのか?」 「ええ、はい。好きだ好きだと思っていると、それがどんどん苦しくなってくるんですよ」 「また解らん。好きだと思っていれば、それは幸せなのではないのか?」 「その辺りが、恋と愛の違いのようなものでして。愛は満ちてくるんですけど、恋は苦しくなるんです」 「なぜだ」 「なんて、いうのかなぁ」 カインはソファーに深く座り、天井を仰いだ。照れくさかったが、答えないわけにはいかなかった。 「恋は喪失感みたいなものなんです。どれだけ好きな方を好きだと思っても、どれだけ好きな方に近付けても、少しだって、心は埋まってくれません。それどころか、どんどん隙間は広がります。見てくれないと解っているから、もっと空しくて苦しくなってしまう。けれど、好きで好きで仕方ないんです。痛いぐらい苦しくなっても、辛くなっても、好きだと思うのは止められないんです」 「痛いのか?」 「ええ、痛いです」 カインは、胸の中央を押さえた。今も、少し胸の奥が痛む。 「この辺りが」 「好きなのに、痛くなるのか?」 「好きだから、です」 フィフィリアンヌに、カインは愛しさを込めて笑った。この痛みは苦しいが、心地良くもある痛みなのだ。 己が恋の最中にいるのが、解るからだ。六年も押し込めていた感情を向ける相手を、見つけたから痛むのだ。 一時期は、彼女と会ったのはが夢だと思おうとした。夢で見た相手に叶わぬ恋をしたのだから、諦めてしまえと。 だが、手には冷たい手首の感触が残っていた。叩かれた手の熱さも、赤い瞳の色も、黒いマントの影も。 誰にも話せずに、ずっと胸の奥で燻っていた熱は、彼女と再会したことで蘇った。その開放感といったらなかった。 だから、今はこの鋭く鈍い痛みすら愛おしい。たとえ触れることは出来なくとも、近くにいるだけで良かった。 そして、彼女が酔っていることを良いことに抱き締め、その上口付けてしまった。やはりあの後、何度も後悔した。 カインの目線は、自然とフィフィリアンヌの口元に向かった。血色の薄い、小さな唇がある。 フィフィリアンヌは、その唇を噛んだ。思い悩むように目を伏せて、翼を折り畳みながら背を丸める。 「痛いのか」 フィフィリアンヌは、自分の声に力がないことに驚いた。近頃感じている痛みを思い出したら、気力が落ちた。 カインの話は、不思議と符合する。訳の解らない喪失感と、理解出来ない痛みが、胸を満たしていた。 しきりに過ぎるのは、目の前の男だ。大して親しくもないはずなのに、あまり思い入れなどないはずなのに。 ストレインの屋敷の庭園で、手を取られたことも思い出した。あの時も今と同じく、やけに優しく笑っていた。 なぜ、そう笑うのか。何が面白くて、何が嬉しくて、自分のことなどまるで見ない女に向けて微笑みかけてくる。 その意味はない。愛想を良くされても、愛想良く出来ないのは自分自身が一番良く解っていることだ。 なぜ。先の見えない恋に身を焦がしながら、痛いほどの苦しみに苛まれながらも、カインは笑っているのだ。 笑わないで欲しい。それに、何も返せないのだから。笑い返すことなど、到底出来るはずがないのだ。 フィフィリアンヌは、自分の思考を止めた。あまり考えると、余計に解らなくなってしまいそうだ。 彼のことも自分のことも、元から解ってないのだから、考えて答えを出そうとしても混乱するのは当然だ。 混乱は、苦しかった。鈍く重たい痛みが胸の底で疼き、言い表しようのない不安が湧いてきそうだった。 一体、何に対して不安になっているのかも解らなかった。フィフィリアンヌは、ぐしゃりと前髪を掻き上げた。 「解らん」 「ですけど、どうして急に恋愛の話なんてするんですか?」 カインが首をかしげ、見下ろしている。フィフィリアンヌは目線を落とし、小さく言う。 「解らないのだ。いくら考えたところで、答えも理由も見つからないのだ。これも一つの可能性としては有り得るかもしれんと思って、調べてみたがまるで当て嵌まらない。どれも違うし、同じだと思えば同じかもしれないし、やはり違うのかもしれない。とにかく、何も形が見えてこないのだ」 「形ですか?」 「そうだ。鈍痛の原因だ」 フィフィリアンヌは額を押さえ、目を閉じた。開けていると、痛みが増す。 「貴様の言うように、これが喪失感ならば何を失ったというのだ。確かに空虚な気もしないでもないが、痛いだけだ。何をしたところで埋まるものでもないし、目を逸らしても現れる。忘れようとしても、痛みはそこにあるのだ」 いつからなのかは、辛うじて解っていた。フィフィリアンヌは続ける。 「貴様の家の庭に行った後からだ。貴様は、私に何をした」 「僕はただ、あなたに愛を示しただけです」 「それだけか」 「ええ。それに、僕が魔法が下手なのは、フィフィリアンヌさんが良く知っているじゃないですか」 「それもそうだな」 深く息を吐き、フィフィリアンヌは額から手を外した。何もされていないのは、自分が良く知っているはずなのに。 何が欲しい。何が足りない。考えてみたが、今の自分に足りていないものは、感情表現と体格ぐらいなものだ。 竜族としての力も磨き、人としての才も高め、自分なりに魔導を極めた。出来ないのは、父と母を越えることだけ。 金も大量にあり、学もそれなりにはある。それらがなかった頃の喪失感に、胸中の思いは似ている気がする。 だが、違う。欲しいものは手に入れるだけ手に入れたのだから、もう、これ以上は何が必要だというのか。 解らない。答えが、一つたりとて出てこない。痛みは深さを増して、魂に食い込みそうなほどに強くなりつつある。 いや、もう答えは出ている。ただ、その結論を見たくないだけだ。認めてしまえば、終わりのように思えるから。 あれで気の合う伯爵を追いやった時点で、妹のように愛しているカトリーヌを追い出してしまった時に、既に。 フィフィリアンヌは、無意識に胸を押さえていた。心臓の真上辺り、カインとほぼ同じ位置に手を当てていた。 答えを、見たくはない。見てしまえば、今まで否定してきたことを肯定しなくてはならない。 意地も邪魔をしていた。今までの持論をひっくり返してしまうのは、どうにも好かないし面白くなかった。 押し黙ったフィフィリアンヌを見、カインは表情を綻ばせた。ここまで困っている彼女も、初めてだ。 「痛いんですか?」 何も言わず、フィフィリアンヌは頷く。カインは両手を組み、その上に顎を乗せる。 「その痛みが僕と同じものでしたら、楽になる方法なんてありませんよ」 彼女が、恋をしているのだとしたら。その相手が、自分であればどれだけいいことか。 カインは、項垂れている少女を見つめた。手の届く場所にいるのに、やけに遠く感じていた。 「僕が思うに恋愛感情というものは、思いが果たされてそれで終わりではないと思うんです。恋愛小説にあるように、結ばれたら全てが上手く行ったり、今までの苦しみが全て消えてしまうなんてことは、ないと思うんです。好きな方と結ばれたら、もっと苦しくなるような気がしてならないんです。もう痛くないけれど、やはり苦しみは苦しみなんです。愛しているからこそ、不安になると思うんです」 どれだけ愛しても、不安だけは付きまとう。カインは、独り言のように言った。 「愛情というものも、やはり一方通行なんです。自分の感情ばかり相手にぶつけているんですから、返ってくる保証はありませんし、返ってくるとか考えちゃいけないんです。だけど、やはり返ってきて欲しいと思ってしまうから、苦しくなると思うんです」 けれど、とカインは呟いた。 「それでも、求めてしまうんですよね。不思議ですけど」 答えを見たら、何もかもが変わってしまう。フィフィリアンヌはそう強く思い、服の胸元を握り締めた。 苦しいから求めるのではない。苦しくても構わないから、求めてしまう。彼の理論では、そういうことになる。 それは、正しくはない。理に適ってはいないし、わざわざ苦境へと身を投じる意味などあるわけがない。 意味があったとしても、その先に待つのは決して明るい未来ではない。苦しみの果ての、底も有り得るのだ。 なぜ。そればかりが、頭を巡る。思考の筋を外れさせて、そこまでして答えから逃れようとしたいのか。 答えから逃れたい理由は、解っている。感情を真っ向から放ったり、受け止めたりするのが苦手だからだ。 表情が出てしまいそうだ。痛みを放ってしまえば楽になると、今だけは楽になれると解っている。 だが、出したくはない。これ以上、この男に弱い部分を見せてしまいたくない。 広い窓の手前で、影が揺れている。薄手のカーテンが風を孕み、視界の端でゆらゆらと揺らめいていた。 目線を上げると、群青色がある。ソファーに座る彼の背から、濃い青のマントが垂れ下がっている。 フィフィリアンヌは、そっと胸から手を放した。あの青を握ってしまったのも、一度ではない。 二度も縋って、握り締めてしまった。それほど頼りになるとは思えないのに、父親とは似ても似つかないのに。 すると、カインが体を前のめりにさせた。フィフィリアンヌと目線を合わせて、覗き込むようにしている。 「痛くなくなったんですか?」 「いや」 フィフィリアンヌは、カインの青い目から目を逸らした。真っ向から見られると、更に痛みは増してくる。 そうですか、とカインはどこか残念そうにする。フィフィリアンヌは手を下ろし、膝の上に置いた。 「痛いものは痛い。だが、貴様の言うように、これが喪失感というものならば」 ぎゅっと手を握り、胸の奥の痛みを誤魔化した。 「それを、埋めてしまえばいいのか?」 「埋められるものならばね」 少し、カインの声が落とされた。フィフィリアンヌは目を上げ、カインを見上げる。 「多少、埋めてみようと思うのだが」 「どうするんですか?」 カインが問うと、フィフィリアンヌは片手を挙げた。細い人差し指の先が、カインの隣を指し示す。 彼が座っているソファーは、三人掛けである。フィフィリアンヌの座っている方よりも、相当に幅がある。 右側の空間を示され、カインはなんとなくその場所を指してみた。彼女は、やりづらそうに頷いた。 フィフィリアンヌは、挙げてしまった手を下ろしたかった。だが、もうそれは出来ないことだ。 結局、答えを認めてしまった。認めてしまえば、恐怖に似た喪失感を埋めてしまいたい欲望が湧いて出てくる。 だが、認めた途端に痛みは少し和らいでくれた。そしてそれは、胸の底でじわりとした熱さに変わり始めた。 それらを総称して何と言うのだろうか、とフィフィリアンヌは考えたが、思い当たった言葉をすぐに払拭した。 真正面から見ると、気恥ずかしいどころか逃げ出したくなる。自分らしくない感情が信じられず、少し恐ろしかった。 カインは嬉しそうに、顔を緩ませる。立ち上がると頭を下げて胸に手を当て、マントを広げながら礼をする。 「私めの隣などでよろしければ、どうぞお座り下さいませ」 フィフィリアンヌは立ち上がると、顔を伏せた。口元が固く締められていて、相当に苦しげだった。 しかし、白い頬が心なしか色付いている。カインは顔を上げてから、彼女が照れているのだなと察した。 彼女に好かれているのかもしれない。身を固めて突っ立っている少女を見つめ、カインはまた胸が痛くなった。 嬉しさと戸惑いが、空虚な感覚を埋めていた。 傍らに座る彼女は、小さかった。 多少距離を開けて、フィフィリアンヌはカインの隣に座っていた。俯いたまま、一言も発しない。 カインは身を屈めて、そっと彼女の顔を見てみた。唇を固く締めて顔を強張らせ、目線を床に落としていた。 可愛かった。普段の張り詰めた美しさは消え失せてしまっていたが、これはこれでいいものがある。 薄紅色に染まりつつある頬に、触れてみたい衝動に駆られた。きっと今なら温かいのだろうな、と思った。 カインはそれを堪えるため、手をソファーの上に置いた。そこそこに質の良い皮が張られている。 「埋まりました?」 いちいち聞くのは悪いだろうとは思ったが、聞かずにはいられなかった。彼女の心を、少しでも覗きたかった。 フィフィリアンヌは、ちらりとカインを見た。困ったように眉が下がっていて、心なしか目元も弱い。 「解らん」 フィフィリアンヌは背中の小さな翼を下げ、膝の上で両手を組む。 「埋まったような気もするが、それでも痛いのだ」 「手伝いましょうか」 カインは、フィフィリアンヌの手を見下ろした。固く組まれた白い指先が、僅かに緩む。 フィフィリアンヌは躊躇していたが、手を解いた。顔を背けてから、慎重な動きで右手を伸ばした。 「好きにしろ」 「僕としては、こちらを見て頂いた方が嬉しいのですが」 「やりづらいのだ」 「そんなにですか?」 「いちいち聞くな。貴様なら、少しは解るだろうが」 「少しですよ。全部は解らないから、聞いているんじゃないですか」 カインは左手でフィフィリアンヌの右手を取り、手のひらに納めた。小さいが、指の長さはそれなりにある。 案の定、その手は少し温かかった。ひやりとした冷たさはなくなっていて、手触りがトカゲではなくなっていた。 軽く握ると、少女の手から力が抜ける。フィフィリアンヌは首を動かし、カインに横顔だけ向けた。 「少し…埋まったやもしれん」 「なら、いいのですが」 カインが手を緩めると、フィフィリアンヌは急に振り向いた。 「離すのか?」 「ええ、まぁ。あまり長いことしていると、蹴られてしまいそうな気がするので」 「それは時と場合による」 「では、今はどういう時なんです?」 「そこまで答える義理はない。貴様、私を愚弄したいのか?」 「いいえ、別に」 カインはにんまりと笑ったが、それは嘘だった。困っているフィフィリアンヌを更に困らせるのは、楽しかった。 いちいち答えに詰まるし、何より態度が緩い。こんな姿の彼女は、滅多に見られるものではないだろう。 フィフィリアンヌはカインを見ていたが、また顔を伏せてしまった。悔しげに、口元を曲げる。 「情けないな」 「何がです?」 「我ながら、己が全く理解出来ん。私の理想は父上であって、貴様のような男ではないはずなのに」 「お父様、ですか」 「そうだ。私の父上は騎士をしていてな、それは力強く誇り高い男であった。貴様とは相当に懸け離れている」 「はぁ…」 「だからこそ、納得が出来ん。なぜ貴様などに、ほだされてしまったのだ」 「僕に聞かれましても」 「腑に落ちん」 不機嫌な表情になり、フィフィリアンヌはカインを見上げた。弱さが消え失せ、普段のような顔に戻っている。 しかしそれでも、頬は紅潮していた。カインは睨まれながらも、なんだか満ち足りた気分になっていた。 フィフィリアンヌの小さな右手は、離されたくないのか少し力が入っている。握るべきか、迷っているらしい。 カインがその手を引くと、フィフィリアンヌの腕が伸びた。不意のことによろけて、彼女はつんのめった。 「何をする!」 自分の手を引っ張り上げているカインに、フィフィリアンヌは声を上げた。距離が、すっかり詰まっていた。 間近に迫ったカインの体に、フィフィリアンヌは身を下げようとしたが無理だった。腕が伸び切っている。 あまり下がると、逆に寄られてしまうだろう。フィフィリアンヌは奥歯を噛み、焦燥感に似た感情を堪えた。 カインは空いている方の右手で、フィフィリアンヌの細い顎を持ち上げた。途端に、頬の色が濃くなる。 「貴っ様ぁ!」 「今度は、僕の方を埋めて頂ければ嬉しいのですが」 「調子に乗りおって…」 「気を許したのはあなたの方です。それに、あなたがその気になれば、僕なんか噛み砕けると思うのですが?」 と、カインは首をかしげた。フィフィリアンヌは唇を曲げていたが、それを少し緩めた。 「…一度、だけだぞ。舌は入れるな、噛むやもしれんから」 「心得ました」 カインは浮かんでくる笑みを押さえ切れず、満面の笑みになる。フィフィリアンヌは、固く瞼を閉ざした。 困っているようで泣きそうにも見える表情のフィフィリアンヌを見ていたが、カインは身を屈めて近付いた。 こんなことが、あっていいのだろうか。まさか、彼女がこちらを見てくれていたとは思ってもみなかった。 右手で持ち上げている顎の感触で、これが夢でないと解る。愛すべき竜の少女は、確かに目の前にいる。 恋が叶ったとは言い難いが、それでも充分だった。カインは自分の唇を、フィフィリアンヌの唇に優しく重ねた。 固くなっていたフィフィリアンヌの腕から力が抜け、カインの手に任せた。その手を、カインは握り締める。 カインの手に、そっと指が絡んでくる。フィフィリアンヌの指に少し力が入り、カインの手は握り返された。 柔らかな唇を少し吸ってやると、フィフィリアンヌは喉の奥で小さく声を洩らした。慣れていないのだ。 カインは軽く噛むような気持ちで彼女を味わってから、唇を離した。目の前の少女は、恐る恐る目を開いた。 戸惑いと不安の入り混じった視線に、カインは笑ってやる。フィフィリアンヌは、左手を伸ばしてきた。 彼女の手が、カインの胸元を握り締めた。カインはその手に自分の手を重ね、ツノの生えた頭に顔を寄せる。 フィフィリアンヌは少しだけ唸ったが、唇を噛んだ。強い感情が、胸の奥に沸き起こっていた。 鈍い痛みは、強い熱に変わっていた。 冷たい廊下の床に、フラスコが置いてあった。 ごとり、と伯爵が身動きすると、その硬い音が廊下全体に反響した。外気温は高いが、城の中はひやりとしている。 赤紫のスライムは、高めていた感覚をそっと低下させた。扉は厚いが、やろうと思えば中の会話は聞こえる。 元は寝室であった研究室の扉には、スイセンの紋章が印されている。それが、白い日光でぎらりと光っていた。 それを見上げるように視点を上げ、伯爵は呟いた。中の会話が信じられず、恐ろしい気分になっていた。 「…世界の終わりである」 「奇跡と言うよりも、なんだか悪夢ですねぇ」 声を潜め、デイビットは身を下げた。伯爵のフラスコの真上に、半透明の男は顔を寄せてくる。 「フィルさんはがめつい悪女だと思っていたのですが、実は純情でしたか。ああ嫌ですねぇ、しっくり来ませんねぇ」 「我が輩はあの女と長い付き合いであるが、あそこまで弱った声は初めて聞いたのである」 絶望しきった声で言い、伯爵はでろでろと体を溶かした。スライムが、液体となって球体に満ちる。 「おおおおおお…おおおおぅう…。一体どこでほだされおったのであるか、フィフィリアンヌよ…」 「婚礼に行く娘を見送る父親の心境ですかぁ?」 「いや。反乱軍の頭の女が、うっかり敵の頭と恋仲になって寝返ったのを見たような気分である」 「ああ、そんな感じですねぇ。そりゃあ、やりきれませんねぇ」 へらへらとだらしなく笑うデイビットに、伯爵はぐにゅりと先端を伸ばした。 「うむ。全く持って、面白みが欠けるのである!」 ぎぃ、と重たい扉の蝶番が軋んだ。徐々に開いた扉の隙間から、フィフィリアンヌの無表情な顔が覗いた。 うひゃあ、とデイビットは飛び退いたが、伯爵入りのフラスコは床に転がったままだった。それを、彼女は拾った。 フラスコを握り締め、赤い瞳を強めた。ふるふると表面を震わせながら、伯爵はごぼりと空気を吐き出す。 「はっはっはっはっはっはっはっはっは!」 「貴様らが聞いたこと全て、口外するな。たとえ一言であろうとも洩らしおったら」 「呪う…のであるか?」 「叩き割ってくれる」 「それならば、まだ良いのである」 はっはっはっは、と伯爵は粘着質を揺らした。フィフィリアンヌの手刀が、ぴたりとフラスコに当てられる。 「ならばやるぞ。即刻やってやろうではないか単純生物め」 「待て待て待て待ちたまえ、我が輩は何も口外していないのである! 貴君はただ怒っているだけではないか!」 「そうだ。それだけだ。悪いか」 「悪いに決まっているのである! 貴君らの会話を聞いたのは、不可抗力なのであるぞ!」 べちゃべちゃと、スライムがフラスコの中で暴れている。それを高く掲げ、フィフィリアンヌは胸を張る。 「聞こえ辛いはずの扉越しの音をわざわざ聞いたのは、貴様自身の意思だろうが。さぁてどうしてくれようか」 「フィフィリアンヌよ! 他者への愛情に目覚めたのであれば、もう少し優しくなれぬのかね!」 「それはそれだ。これはこれだ」 ぎっと目を吊り上げて、フィフィリアンヌは語気を強めた。伯爵は、まだフラスコの中で荒れている。 極めて横暴である、と切実な叫びが廊下に響いた。それを聞き流しながら、カインは扉の内側に立っていた。 出るべきか出ざるべきか、迷っていた。扉に寄り掛かっていると、幽霊がすいっと扉を抜け、隣に現れた。 「なんともはやなんともはや。茨と刃物の散らばる恋路に、今度は魔物が待ち受けているようですねぇ」 「今に始まったことじゃありませんから」 デイビットの言い草は引っかかったが、カインはふにゃりと笑った。先程の余韻が、まだ残っている。 あまり面白くなさそうに、デイビットは腕を組んだ。なんてことでしょうか、と薄い眉をしかめる。 「ご都合主義じゃないですかぁ、この展開は。あのフィルさんがいきなり落ちるなんて、不自然ですよぅ」 「そう言われましても」 カインが変な顔をすると、デイビットは不満げにむくれた。 「物語というものは、もう少し捻りを利かせていかないと面白くないんですけどねぇ」 「現実と妄想を混ぜないで下さい」 「混ぜていませんよ。ただ私は、希望を言っているだけですよぅ」 と、デイビットは拗ねたように言う。カインは、どちらも同じではないかと思ったが、言うに言えなかった。 廊下から聞こえる伯爵の反論が、いよいよ刹那的になってきた。フィフィリアンヌの掛け声が、それに混じる。 直後、伯爵の声が遠ざかっていった。うぉおおおおぅ、という鈍い声に、カインはぎょっとしながら廊下を見た。 長い廊下の床を、ごろごろとフラスコが転がっていった。フィフィリアンヌは前屈みになっていたが、姿勢を戻す。 薄暗い廊下の奥まで転がっていったフラスコは、悲鳴を上げながら視界から失せた。階段に落ちたらしい。 フィフィリアンヌは背筋を伸ばすと、腕を組んだ。つんと澄ました顔で、言い放った。 「黙らぬからだ」 ばん、と小さな翼を広げた後ろ姿を、カインは何の気なしに見つめていた。きっとこれも、照れの延長なのだ。 しかしそれにしては、少々過激な気がする。何も転がすことはなかったんじゃないかなぁ、と思った。 フィフィリアンヌはカインに気付いたのか、ちらりと振り向いた。だがまたすぐに、廊下の奥を睨んでしまった。 その頬はもう色が失せていたが、それでも表情は残っていた。ほんの僅かばかり、目元が緩んでいる。 カインは、それがどうしようもなく愛おしかった。照れの対象が自分であることが、嬉しくてたまらない。 ようやく開いてくれた彼女の心が、垣間見えた気がした。 六年越しの初恋は、思わぬところで光を掴んだ。 小さな水滴が巨大な岩を砕くように。一心に注がれ続けた彼の愛は、彼女の心に触れた。 高貴な青年と竜の少女の淡き恋は、こうしてゆるやかに始まった。 本当に、男女というものは解らないものである。 05 6/14 |