ドラゴンは笑わない




従者の憂鬱



カトリーヌは、少々不機嫌だった。


大きな縦長の窓に背を向けて、ベランダに這いつくばっていた。赤いリボンの結ばれた尾を、軽く振る。
ベランダの柵の隙間から鼻先を出すと、眼下には湖が望めた。空を映した湖面に、巨体の魔物が泳いでいた。
カトリーヌはずりずりと腹を擦って後退し、小さな翼を広げて空気を叩いた。何度か羽ばたき、体を浮かばせる。
ベランダの手すりまで浮かび上がると、その上に飛び乗った。身を乗り出しながら、ちらりと後方を窺った。
綺麗とは言い難いガラス越しに見える研究室には、主人と彼女がいた。幅広の大きな机に、彼女が座っている。
窓に引き出し側を向けている机には、大量の本と書類が積んである。それらの前に、少女が腰掛けていた。
羽根ペンやインク瓶が、二つのワイングラスと共に机の端へ押しやられていた。そのせいで、書類が歪んでいる。
机の椅子には、本来の主ではないカインが座っていた。彼は、嬉しいような困ったような顔をしている。
すらりとした細い足を組んだフィフィリアンヌは、カインを見下ろしている。その表情は、少し緩かった。

「別になんでも良いだろう。貴様がそこに座っているから、私はここにしただけだ」

「見下ろされるのが嫌なだけではないのですか?」

カインが笑むと、フィフィリアンヌはすぐさま顔を背けた。腕を組んで、あらぬ方向を睨む。

「なぜそう思う」

「なんだかんだで僕が優位にいますからね。そりゃあ、あなたは癪に障るかもしれませんけど」

身長差はどうにも出来ませんよ、とカインは机に手を付いて身を乗り出した。彼女は、目だけ彼に向ける。

「癪だとも。貴様の言動に、いちいち乱されるのは癪でないわけがない」

「それと、なんでいつもあなたは変な方向を見ているんです? そんなに僕が嫌ですか?」

フィフィリアンヌに顔を近付け、カインは首をかしげてみせる。言葉の割に、目は嬉しそうだった。
顔を伏せたフィフィリアンヌは、言葉にならない言葉を洩らした。背中の小さな竜の翼が、次第に下がっていく。
椅子から立ち上がったカインは彼女の後ろに座り、細い腰に腕を回した。主の体で、彼女の背が隠れる。
フィフィリアンヌの横顔は、すっかり硬くなっていた。カインはその耳元へ小さな声で、どうなんですか、と囁いた。
狼狽えるように、赤い瞳が彷徨った。フィフィリアンヌは俯いていたが、絞り出すように呟いた。

「…そうではない」

「では、どういうわけですか?」

カインは、フィフィリアンヌの後頭部に顔を寄せる。フィフィリアンヌは、口元を歪めた。

「貴様、私に言えと言うのか」

「言って頂けるものなら言って頂きたいですが」

「やりづらいな」

弱り切った声で、フィフィリアンヌは悔しげに漏らした。とん、とカインの胸に背を預ける。

「なぜ、いちいち理由を求めるのだ。聞いたところで、何になると言うわけでもあるまいに」

「あなたのことを少しでも聞けたら、嬉しいんですよ」

「何が」

「色々とです」

カインは両手をフィフィリアンヌの腰の前で組み、引き寄せる。フィフィリアンヌは、苦しげに小さく唸った。
頬は上気していて、相当に照れていた。懸命に表情を押し殺してはいるが、赤面までは無理なようだった。
カインの指先がその頬に触れると、びくりと彼女の肩が跳ねた。頬に当てられた彼の手を、赤い瞳が睨む。

「手を」

「離したら、言って頂けますか?」

「取引にしては下らんぞ」

「その割には、思い切り動じてらっしゃるようですが」

「言ったところで貴様は離さんだろうが」

「ええ」

「ならば余計に言わん。言ったら、言ってしまったら」

フィフィリアンヌは口籠もり、目元を押さえてしまった。その横顔を、カインが覗き込む。

「まぁ、僕も大分あなたに慣れてきましたから、言われなくても解りますが。要するに、照れているんですよね?」

「貴っ様ぁ…」

覇気のなくなった声で洩らし、フィフィリアンヌは体を縮めた。カインの腕の中に身を沈め、顔を押さえてしまう。
カインはにこにこと笑っている。フィフィリアンヌをからかうのが楽しくて仕方がない、といった様子だ。
彼女があそこまで弱った姿を見せるのは、カインにだけだ。カインもそれを知っていて、敢えてからかっている。
後ろ目に二人が接する光景を見ていたが、カトリーヌは居たたまれなくなった。口元を締め、ばさりと羽ばたく。
二人の会話は続いていたが、離れると聞こえなくなった。空中へ滑り出した幼いワイバーンは、くるりと飛んだ。
豊かな水を湛えた歪んだ楕円形の湖が、深い森に囲まれている。古びた城の姿が、水鏡に映り込んでいた。
カトリーヌは飛びながら湖を見下ろしていたが、水面に向かってするっと降下した。彼が、こちらを見上げている。
金色の単眼を瞬きさせて、三本のツノを持った頭がこちらに向いている。水の波紋の中心に、巨体が立っていた。
カトリーヌは、ぎゅるう、と唸りながらセイラに向かっていった。彼なら、きっと解ってくれるはずだ。
同じように、主が他の者を見ているのだから。


カトリーヌは、セイラの膝の上にちょんと乗っかっていた。
湖の浅瀬に胡座を掻いたセイラは、泳いでいたので全身が濡れている。赤紫の肌が、つやりとしていた。
カトリーヌはぱたぱたと尾を振りながら、単眼の魔物を見上げた。セイラは、耳元まで裂けた口を少し開いた。
恐ろしげな外見をしているが、彼はとても優しい。頼めば歌を歌ってくれるし、一緒に遊んでくれたりもする。
だから、カトリーヌはセイラが大好きだった。歳の離れた兄のように思い、巨体の異形を慕っていた。
セイラは大きな指先で、カトリーヌの頭をそっと撫でた。ぎゅるぎゅる、と声を漏らす幼子に単眼を細めた。

「カトリィ。今日、歌、何ヲ、聴ク?」

 違うわ、セイラ。今日は、歌を聴きに来たのじゃないの。

ぐぎゅ、とカトリーヌはカエルを潰したような音を出した。意思を込めた鳴き声は、彼には言葉として伝わる。
すぐにそれを察し、セイラはきょとんと金色の単眼を丸めた。首を捻ると、三本のツノから水滴が零れ落ちた。

「ジャア、何?」

 カインお兄様とフィフィリアンヌお姉様のことよ。

カトリーヌは、きゅう、と切なげに高い鳴き声を発した。首を上げて、城の上階に迫り出したベランダを見上げた。
左上部奧の部屋は、フィフィリアンヌの研究室だ。カトリーヌに従って、セイラもその方向を見上げる。

「フィリィ、カイン、仲、良イ」

 ただのお友達じゃないわ。フィフィリアンヌお姉様は、カインお兄様の心を奪ってしまったのよ。

きゅーん、とカトリーヌは目を伏せる。セイラは背を曲げて巨体を縮め、カトリーヌに顔を近付ける。

「心、奪ウ?」

 そうよ。カインお兄様とフィフィリアンヌお姉様は、恋仲なのよ。愛し合っているのよ。

「知ッテル。ゲリィ、デイブ、ソウ、言ッテタ」

 セイラは、恋が何か知っている?

「アンマリ。聞イテモ、ギリィ、笑ウ」

 ギルディオスさんに聞いてはダメよ。あの人はもう、恋なんてしていないんだから。

「ジャア、カトリィ、知ッテル?」

 私も良くは知らないわ。でも、カインお兄様はいつも仰っているの。恋は辛いけれど幸せなものだって。

「ジャア、フィリィ、カイン、幸セ」

 ええ、私もそう思うわ。でもね、私、とても寂しいの。

「ナゼ」

 カインお兄様が、フィフィリアンヌお姉様を見ているからよ。セイラは寂しくはないの?

「セイラモ、少シ、寂シイ」

 だったら解るわよね。私の気持ちも。

「解ル。セイラ、フィリィ、大好キ、ダカラ」

そう言いながら、セイラは再び研究室のベランダを見上げた。窓が日差しを反射していて、中の様子は見えない。
それでも、和やかな雰囲気であることは肌で解った。時折聞こえるフィフィリアンヌの声は、弱っていたが。
セイラは城を眺めながら、主であるフィフィリアンヌに思いを馳せた。彼女と接する時間は、以前と変わっていない。
毎日長々と歌を聴いてくれるし、水浴びにも付き合ってくれる。本を読んで聞かせてくれるし、言葉も教えてくれる。
だが、その優しく愛情の籠もった眼差しが外れるときはある。遠くを見据えて、困ったように眉をしかめる。
誰を思ってそうなっているのかは、解っていた。不意にカインの姿を思い出しては、淡い恋心に照れているのだ。
確かに、それが寂しいとは思う。けれどセイラは、彼女が幸せであるならそれでいいと思っていた。
こうして自分を傍に置いていてくれるし、愛情も惜しみなく注いでくれて、穏やかな幸せを与えてくれている。
だから、次はフィフィリアンヌが幸せを得るべきだと思っていた。幸せの順番は、巡るべきものだと考えていた。
彼女が時折話してくれる自身の過去は、どれも痛みと苦しみに満ちていたから、余計にそう思っていた。
なので、寂しくてもそれを言ってはいけないと思っていた。フィフィリアンヌの幸せを、邪魔立てしてはならないと。
カトリーヌの気持ちは、セイラには良く解った。主を奪われたような気がして、やりきれないのだろう。
セイラは、人差し指の腹でカトリーヌの頭を撫でてやる。つるりとしたウロコの肌が、硬い指先に擦れた。

「カトリィ。カイン、好キ?」

 ええ、大好きよ。愛しているわ。カインお兄様は、私のお兄様で御主人様だけど、お父様でもあるのよ。

「カイン、カトリィ、父サン?」

 私が卵だった頃から、ずうっと育ててくれているの。だからあの人は、私の本当のお父様なのよ。

「カトリィ、フィリィ、好キ?」

 もちろん大好きよ。フィフィリアンヌお姉様はとても聡明でお美しいし、お優しくて気高い立派な竜だわ。

「デモ、寂シイ?」

 ええ。大好きな人達が愛し合っているから、幸せなことだとは思うのだけれど…。

ぎゅう、とカトリーヌは細く鳴いた。俯くと、セイラの指先が顔の脇をなぞるように撫でてくれた。
カインがフィフィリアンヌを愛していることは、前々から知っていた。彼女への思いを聞かされたことも多い。
だから、カインがフィフィリアンヌと心を通じ合わせることは、とても喜ばしいことだと思っているし解っている。
誰に対しても頑なだったフィフィリアンヌの心が開いていく様は、見ている方も心地良いものがある。
しかし、やはりどこかが寂しかった。カインと接する時間は以前と同じなのに、何かが変わってしまった。
触れてくれる手の優しさも、愛情に満ちた笑顔も同じだというのに。フィフィリアンヌも、同じであるはずなのに。
自分は二人を兄と姉のように思っているが、彼らは兄と姉ではなく男と女だ。仲が深まれば、変わるのは当然だ。
カトリーヌは、それを受け入れられない自分が嫌だった。二人を素直に祝福出来ない自分が、情けなくなった。

 私って、嫌な子ね。カインお兄様やフィフィリアンヌお姉様は、悪くないのに。

「カトリィ、悪ク、ナイ」

 ありがとう。だけど、どうしてこんなに寂しくなっちゃうのかしら。

「カトリィ。フィリィ、カイン、好キ、ダカラ」

 好きなのに、どうして素直に喜んであげられないのかしら。

「カトリィ、小サイ。ダカラ、妬ケテ、当然」

 そうね。私って、本当に子供ね。ああ、もっと大人になりたいわ。

「大人、ナル、時間、掛カル。セイラ、カトリィ、付キ合ウ。一緒、イレバ、寂シク、ナイ」

 うん。ありがとう、セイラ。あなたも大好きよ。

「セイラモ。カトリィ、大好キ」

いかつい顔を綻ばせ、セイラはなるべく優しくなるように心がけて笑みを浮かべた。カトリーヌは、きゅうと鳴く。
短いながらも鋭い爪でしがみつき、カトリーヌは大きな手に頭を擦り寄せた。彼の心遣いが、とても嬉しかった。
少しだけ、締め付けてくるような寂しさは薄らいだ。尾を揺らすたびに、ふわふわと赤いリボンがなびいた。
セイラの冷たく厚い赤紫の肌に、カトリーヌは小さな体を伏せた。首をかしげて、セイラを見上げた。
カトリーヌから見れば、セイラはまるで山のように巨大だ。真下から見れば、顔を見ることすら出来ない。
セイラの低い体温を感じていると、空気が僅かに震えた。頭上でセイラが顔を逸らし、赤い舌を伸ばしている。
静かに、穏やかな歌声が伸びていく。その歌詞は子守歌とも鎮魂歌とも違う、カトリーヌが初めて聴くものだった。
少し歌った後、セイラは声を止めた。カトリーヌを見下ろし、くいっと首を曲げてみせる。

「カトリィ、歌ウ」

 私は歌なんて上手くないわ。声もセイラみたいに綺麗じゃないわ。

「イイ。一緒、歌ウ」

 それに、言葉もよく知らないし喋ることが出来ないのよ。私はセイラとは違うのよ。

「ソレデモ、イイ。構ワ、ナイ」

セイラは顔を上げて胸を張り、腰から生えた赤い翼を広げた。澄んだ空へ向けて、再び最初から歌い出した。
カトリーヌもその節に合わせて、歌とも唸り声とも付かない声を張り上げた。言葉など、出なかった。
それでも、セイラに付いていこうと頑張った。並外れた歌唱力を持っているセイラに沿うのは、かなり難しかった。
竜族と同様に声帯の動きが鈍いワイバーンにとっては、高音を出すことすら相当に苦しかったが、堪えた。
言葉にしようとしても音にはならず、ぐぎゅう、という不可思議な鳴き声しかカトリーヌは出せなかった。
そうやって、何度も同じ歌を繰り返した。歌っているうちに、この歌は音程の穏やかなものであると気付いた。
普段のセイラであれば、もっと難しい歌を歌う。歌詞も長く音程も複雑な歌を、さらりと歌っているはずだ。
だがこの歌は音の上下が少なく、むしろ平坦だ。セイラなりに、カトリーヌに気を遣ってくれているのだ。
五度目の歌を終え、カトリーヌは口を閉じた。喉が乾いて痛くなってしまい、けほっ、と咳き込んだ。

 やっぱり、上手く行かないわ。

「カトリィ」

セイラはカトリーヌを見下ろし、牙の並ぶ口元を緩めた。赤く長い舌を引っ込めて、背を丸めた。
巨体の影の中、カトリーヌはもう一度むせた。じっとこちらを見つめる金色の目を見上げ、首をかしげる。

 なあに?

「セイラ、フィリィ、来ルマデ、ズット、闇ノ、中、イタ。痛クテ、狭イ、闇ノ、中」

悲しげに、セイラは厚い瞼を下げた。ぐぅ、と喉が鳴った。

「皆、セイラ、化ケ物、言ウ。化ケ物、ダカラ、斬ル。ズット、ソンナン、ダッタ」

カトリーヌは何も言えずに、セイラを見つめた。ぐしゃりと目元が歪んでいて、金の瞳が潤んでいる。

「ダカラ、セイラ、歌ッタ。歌エバ、寂シク、ナクナル、カラ。辛イノ、弱ク、ナルカラ」

セイラは幼子に、強張った笑顔を見せる。

「ダカラ、カトリィ、一緒、歌ウ。ソウ、スレバ、平気」

 うん、そうね。一緒に歌えば、もう寂しくないわ。

カトリーヌはぱたぱたと尾を振り、甲高く鳴いた。セイラの表情が緩み、笑顔が穏やかになる。

「次、モット、遅イ、歌、ニスル。カトリィ、辛ク、ナイ、歌、ニスル」

 ありがとう。私も、頑張ってみるわ。

「無理、シナイデ」

 うん。

カトリーヌは頷くと、セイラも頷き返した。セイラは何か考えるように、首を曲げてじっと空を見上げた。
歌を思い出しているのか、時折歌詞を呟いていた。小さく節も付けて音の高さを確かめたが、すぐに止めた。
歌の冒頭をいくつか歌っていたが、セイラは不意に黙った。背後で尾をゆらりと動かすと、水がざばりと鳴る。
弱い波が起こり、カトリーヌのすぐ傍までやってきた。セイラの膝の下で、ぱちゃぱちゃと水滴が跳ねた。
セイラは、カトリーヌへ巨大な手を差し出した。指の間に膜が張った四本指の手に、カトリーヌはよじ上った。
その手は上がり、肩に向けて差し出された。カトリーヌはばさばさと羽ばたいて、大きな肩に飛び移った。
セイラの肩の上から見た湖は、広大だった。細かく波打つ水面がきらきらと輝いていて、とても綺麗だった。
湖面が遠ざかり、風が強く感じられる。初夏の熱と湿り気を含んだ風が、カトリーヌを撫でていった。
この湖には、フィフィリアンヌとの思い出がある。竜に戻った彼女の首に乗って、空を飛ぶことを教えられた。
一緒になって飛んでいると、まるで母親のように思えた。記憶にない母の姿を、自然と彼女に重ねていた。
フィフィリアンヌは、姉のようでもあり母のようでもある。いや、実際に母となってくれるかもしれない。
カトリーヌが父親と思っているカインと愛し合っているのだから、それが母でなくてなんであろうか。
生まれる前に死した両親には悪いが、カトリーヌにとっては、フィフィリアンヌとカインこそが本当の両親だった。
だから、あまり妬いてはいけない。両親が思いを寄せ合っているのだから、妬くことすら野暮なことだ。
カトリーヌは心中に残った寂しさを消そうとしたが、まだ出来なかった。前にも増して、早く大人になりたいと思った。
すぐ隣で、セイラの太い喉が動いた。東方の言葉に訳された歌が、ゆったりとした節で湖畔に広がっていった。


夜明けは遠く、夜は深く。星も黙る冷たい冬には、涙を拭って眠ってしまおう。

目覚めれば春が訪れ、小鳥がさえずる朝が来る。太陽の下で、喜びを歌おう。

温かき風を受け、光を浴びて命を放とう。再び眠りが訪れるまで、空の下を駆け巡ろう。


精一杯、カトリーヌは声を言葉にした。端から聞けば鳴き声にしか聞こえなかったが、彼女にとっては言葉だった。
東方の言葉はよく解らない。綺麗な音だとは思うけど、一緒に歌っていても内容はさっぱり解らなかった。
それでも、歌えるだけ歌った。詰まった部分も無理矢理歌にして、セイラに続いて声を張り上げた。
緩やかな旋律に身を任せていると、確かに満ち足りたような気分になる。次第に、楽しいとすら思えてきた。
セイラの言うように、こうして歌っていれば辛くない。たとえ一時でも、気分が紛れると楽になってくる。
カトリーヌは、無心に歌い続けた。歌にすらなっていない鳴き声を節にして、喉を震わせ続けた。
二人の不協和音は、ひとしきり湖畔に響いていた。




日も暮れ始めた頃、カトリーヌは眠り込んでいた。
カインが抱え上げても、くうくうと気持ちよさそうに寝息を立てている。散々歌ったので、疲れてしまったのだ。
夕暮れに染まる湖畔に、セイラが跪いていた。身を屈めて、カインとその手の中のカトリーヌを見下ろしている。
フィフィリアンヌがセイラを見上げると、金色の瞳と目が合った。セイラは、カトリーヌを指さした。

「カトリィ、歌ッタ。ダカラ、キット、疲レタ」

「ああ、聞こえていたぞ。セイラもカトリーヌも、いい歌声をしていたぞ」

フィフィリアンヌはセイラの指先に触れてから、隣に立つカインの手元を覗き込んだ。幼子は、熟睡している。

「後で薬を混ぜたジャムでもやろう。あれだけ歌えば、歌い慣れないカトリーヌは喉が痛むはずだからな」

「おいくらですか?」

カインが尋ねると、フィフィリアンヌはカトリーヌの丸っこい腹を撫でながらカインを見上げる。

「どうせカトリーヌはそれほど喰わんのだ、大した値はせん。金貨三枚だ」

「…それでも、金貨なんですね」

「良い材料を使ってやるのだから、それくらいはするのが当然だ」

平然としているフィフィリアンヌに、カインは苦笑いした。関係は変わっても、彼女の金銭感覚は変わらない。
きゅう、とカトリーヌは小さく寝言を漏らした。フィフィリアンヌが手を出すと、カインはそっと幼子を渡した。
フィフィリアンヌは毒針の生えた尾を丸めてから、翼の生えた背を腕に乗せて抱いた。多少、重みがある。
最初に会ったときよりも、随分と大きくなっていた。一歳を越えたはずなので、これからますます成長するだろう。
少女の腕に抱かれ、小さなワイバーンは細長い尾をゆらりと揺らした。西日に染まったリボンの色は、濃く見える。
前足がきゅっと握られ、フィフィリアンヌの胸元を掴む。フィフィリアンヌは、少しばかり表情を穏やかにした。

「すまんな、カトリーヌ。お前の主を借りてばかりいて」

「僕は構いませんが」

カインがにんまりすると、フィフィリアンヌはぷいっと顔を逸らした。

「貴様に言ったのではない。カトリーヌに言ったのだ」

「セイラ。僕はフィフィリアンヌさんを取ったわけではないので、どうぞご安心を」

カインはセイラを見上げ、微笑んだ。セイラは、こっくりと深く頷いた。

「解ッテ、イル。セイラ、平気」

「良い子だな。セイラもカトリーヌも」

フィフィリアンヌはカトリーヌを抱き上げ、暗い青色の肌に頬を寄せた。セイラはその様子を見、笑った。
二人の主は、本当によく解っている。カトリーヌは寂しくなんかはない、逆に、とても幸せな場所にいる魔物だ。
セイラも、決して寂しくなかったわけではない。フィフィリアンヌが幸せだと解っていても、離れた気がしていた。
だが、それはもう消え失せていた。二人が思っていることを示してくれた安心感で、心中は落ち着いていた。
すると、ぎゅるぅ、とカトリーヌが身動きした。フィフィリアンヌの腕の中で体を捩り、ぐいっと首を伸ばす。
大きな目を瞬きさせていたが、目の前のフィフィリアンヌを見上げる。驚いたように、高い鳴き声を上げた。

 まぁ、お姉様! 嫌だわ、眠ってしまったのね。

「起こしてしまったか。すまんな」

フィフィリアンヌは、カトリーヌの顎の下を指先で撫でた。カトリーヌは、ぎゅる、と唸った。

 いいえ。気になさらないで。私こそ、嫌な子だったわ。

「何を言うか。お前は良い子だぞ、カトリーヌ」

フィフィリアンヌはカトリーヌの背を、軽く手で叩いた。カトリーヌはフィフィリアンヌの肩に、首を乗せる。
彼女の翼越しに城を見上げ、左上奧の研究室のベランダへ目をやった。縦長の窓は、西日を反射している。

 フィフィリアンヌお姉様。あの後、カインお兄様とどうなされたの?

「…いきなり何を聞くのだ」

 だって、気になってしまったの。ねぇお姉様、カインお兄様はあの後、お姉様に何かなさってきたの?

「何もないぞ。考えてもみろ、お前の主はそこまで意気地のある男だと思うのか?」

フィフィリアンヌはカトリーヌを抱き直し、カインへ向いた。カインは、ぎょっとしたように身を引く。

「なっ、何を話してるんですか!」

「ほれ見ろ、カトリーヌ。この男は、調子に乗っておらんとすぐにこれなのだ」

フィフィリアンヌはどこか残念そうに、カトリーヌの首筋に白い頬を寄せた。カトリーヌは、ぎゅるん、と鳴く。
カインは顔を押さえ、困ったように口元を歪めた。消え入りそうなほど小さな声で、呟くように言う。

「いえその僕だって、出来るものなら、まぁそのえぇと…」

「カイン、大変?」

セイラは、カインの頭上に顔を出した。それを見上げ、カインは照れくさそうに笑った。

「ええ、まぁ。ですけど僕より大変なのはフィフィリアンヌさんじゃないかなぁと思うんですよ。だって、あの人は」

「余計なことを言うな!」

途端にフィフィリアンヌは声を上げ、カインの言葉を遮った。カインはきょとんとしたが、また笑う。

「ほらね。いい加減に慣れてきたと思うんですけど、まだ照れられてしまうんですよね」

「だから私は」

「じゃあ、照れていないとでも?」

どこか意地の悪い笑みになり、カインはセイラと共にフィフィリアンヌを見下ろした。彼女は、顔を逸らす。
カトリーヌもぱたぱたと尾を揺らしながら、続きを期待した。フィフィリアンヌは、ぎゅっと唇を締める。
フィフィリアンヌはカトリーヌを抱き締めたまま、押し黙ってしまった。彼の言う通り、かなり照れてしまうのだ。
カインに触れられたりすると、愛情を向けられるのとはまた違った気恥ずかしさで居たたまれなくなってくる。
堪えようとしてもダメで、下手に抑圧すれば更にひどくなってしまう。今までに抑えてきた感情とは、強さが違う。
フィフィリアンヌはカインの視線から逃れるため、背を向けた。こうでもしないと、胸の苦しさに耐えられない。
顔のすぐ脇で、カトリーヌが低く唸り声を上げた。フィフィリアンヌの尖った耳元へ、意思を込めて鳴く。

 フィフィリアンヌお姉様。お姉様は、カインお兄様がお好きでないの?

「…答えろと?」

フィフィリアンヌが苦々しげに呟くと、カトリーヌは頷いた。ぎゅ、と鳴いて整った横顔を見上げる。

 ええ。答えて欲しいわ。だって、大事なお兄様と大好きなお姉様のことなんだもの。

「全く」

フィフィリアンヌは、思い切り渋い顔をした。すっかり赤らんだ頬の色を、西日が更に赤く染めていた。
ぎゅるぎゅると鳴いているワイバーンを抱く腕に力を込めて、フィフィリアンヌは胸が疼くような感覚を堪えた。
横目にカインを見ると、セイラと一緒にまじまじとこちらを見ている。優しげな笑顔に、更に胸がずきりと痛んだ。
胸の痛みが熱を帯びてきたため、フィフィリアンヌは意を決した。言わないよりは、言った方が楽かもしれない。
次第に暮れていく空を背負った城を睨み、フィフィリアンヌは出来る限り感情を押し込めた。


「まぁ…それなりには、好きやもしれんぞ」


若草色の翼が生えた背を、翼よりも濃い色合いの髪が覆っていた。小さな背は、頼りなかった。
カインは、彼女の声で言われた言葉を反芻した。一瞬夢かとは思ったが、確かにあの平坦な口調で言ってくれた。
背を向けているフィフィリアンヌの肩には、カトリーヌが顔を出している。カインは、内心で幼子に感謝した。
カインはフィフィリアンヌの背後に歩み寄り、彼女を見下ろした。すると、彼女は上目に睨んできた。

「ありがとうございます、フィフィリアンヌさん」

「二度と言わんぞ、もう二度と言わんからな! カトリーヌの頼みでなかったら、絶対に言わんぞこんなことは!」

カトリーヌを高く掲げ、フィフィリアンヌはむくれた。カインはカトリーヌを彼女の手から取り、抱きかかえた。
フィフィリアンヌは気恥ずかしげに顔を歪め、硬く拳を握っている。カインは、そこまで照れなくても、と思った。
カトリーヌのおかげとはいえ、好きだと言ってもらえた。好かれているのだと知ることが出来て、嬉しかった。
着実に、彼女は心を開いてきている。だが開いた部分を見せるのに慣れていないから、照れてしまうのだろう。
カインは翼の生えた少女の背を見、笑った。照れているフィフィリアンヌは、やはり可愛らしかった。
このまま彼女を抱き締めてしまいたかったが、触れたら逃げられてしまいそうだったので、仕方なく我慢した。
主の腕の中から首を上げ、カトリーヌは薄黄の目を動かした。セイラを見上げてみると、彼もこちらを見ていた。
幸せだ、と言いたげな顔で笑っている。カトリーヌもやれる限り表情を動かして、笑ってみせた。
もう、歌っていなくとも寂しくはなかった。




幼い従者は主を思い、主もまた従者を思う。
血の繋がりも種族の繋がりもなくとも、心は深く繋がっている。
主と従者の絆を強めるものは、温かき愛情に他ならない。

愛を得た魔物は、同時に心も得るのである。






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