ドラゴンは笑わない




妄想三昧



デイビットは、考え込んでいた。


砂混じりの埃が厚く積もった机の上には、手付かずの原稿用紙が何枚も散らばっており、机を埋め尽くしていた。
原稿用紙の奧に置いてある鉱石ランプは、昼夜を問わず煌々と輝いている。明かりがないと、不安になる。
湿気て濁った空気は、百数十年前の匂いを多少残していた。地下室の時間は、止まっていたかのようだ。
原稿用紙の隣に置かれたインク瓶には羽根ペンが突き刺さっており、デイビットに使われるのを待っている。
かれこれ、そうして一時間は経つ。時計がないので根拠はなかったが、それぐらいだろう、と思っていた。
座る必要はないがなんとなく座っている椅子に寄り掛かり、重心を整えた。下手をすると擦り抜けてしまう。
積年の汚れが染み付いた石の天井を見上げていたが、目を動かして厚い扉に向けた。その向こうを、想像する。
年季の入った厚い扉を挟んで、編集者がじりじりとしている。扉を叩いて急かしたいが、我慢している。
そんな妄想が、デイビットの意識を掠めていった。そんなことは、生きているうちも一度足りとてなかった。
所詮は道楽の小説家だったのだ。貴族の端くれとして持っていた財産も全て食い潰しながら、書いていただけだ。
デイビットは羽根ペンの刺さったインク瓶に、すいっと手を翳した。独りでに、羽根ペンは浮かび上がる。
インク瓶の右隣には、赤紫のスライムが七割ほど満ちたワイングラスがある。伯爵は、ゆらりと表面を揺らした。

「かれこれ一週間にもなるのである」

「ええ、なっちゃいましたねぇ。こうやって引きこもっているのも、意外に楽しいもんですねぇ」

デイビットはインクの付いたペン先を、すっと原稿用紙に向けて下ろした。指を曲げると、踊るように羽根が動く。
黄ばんだ紙の上に、すらすらと黒い文字が書かれていった。思い描いていた世界を表すために、文章を綴る。
デイビットは二三行書いたが、すぐにペン先が乾いてしまった。羽根ペンを上げ、とぽんとインク瓶に先を浸す。

「盛大にばらしちゃいましたからねぇ、私達」

「うむ。言ってしまったのである」

若干色の濁ってきた伯爵は、にゅるりと体を細長く伸ばした。ワイングラスの中から、触手を掲げる。
一週間も地下にいると、自然と埃や煤が落ちてくる。それを、伯爵は不可抗力で吸い込んでしまったのだ。
大小様々な不純物が混じったスライムは、赤紫の触手を舌のように動かし、するりと幽霊の友人を指した。

「フィフィリアンヌとカインの関係を、思い切りセイラにばらしてしまったのである」

「その話題、これで何度目でしたっけぇ?」

「十七回目である。以前に、ニワトリ頭と似たような会話をした記憶があるぞ」

あれは地下迷宮でのことだったかな、と伯爵は触手をねじる。デイビットは、石組みの天井を見上げる。
この部屋は、牢獄に似た地下室だった。城の最下部に存在しており、明かり取りは地面のぎりぎりに付いていた。
なので、外からでは部屋の存在はほぼ解らないと言っても良い。造られた目的は、牢獄か逃げ場だろう。
たとえ外から解ったとしても、入り組んだ通路の行き止まりの隠し扉を開けた先にあるので探すのは至難の業だ。
つまりこの地下室は、強烈な方向音痴のフィフィリアンヌは絶対に辿り着けないであろう場所なのである。
デイビットがこの部屋の存在を知ったのも、偶然だった。生前に城の中を彷徨っていたら、たまたま見つけた。
原稿用紙と鉱石ランプは、その時に運び込んだものだ。紙には少々虫食いがあったが、使えないことはない。
インクとワインだけは新しかった。逃亡先を探している最中に、デイビットの自室から持ってきたものだ。
隠れ家に相応しすぎる場所を、デイビットはぐるりと見回した。焦げた飴色の扉には、スイセンの家紋があった。

「ここも地下なんですけどねぇ。地下っていう場所は、ことごとく話題の尽きてしまう場所のようですねぇ」

「それには我が輩も同意である。して、引きこもっている理由は何であったかな?」

「えぇー、忘れちゃったんですかぁ?」

「はっはっはっはっは。忘れたのではない、事実の再確認である」

「まぁ、どうせ暇ですから私も付き合いますけどねぇ」

デイビットは頬杖を付き、片手を挙げた。ワイングラスの奧に置かれたボトルのコルク栓が、ぽん、と抜ける。
手を握ると、ふわりとワインボトルが浮いた。ボトルは徐々に傾き、グラスに向けてどぼどぼと赤ワインを零した。
伯爵はぐにゅりと中央をへこませて、体と同じ色の液体を吸い込んでいった。満足げに、低い声が洩れる。
デイビットはワインボトルを机に置いてから、背後の壁にある小さな明かり取りを見上げた。外は晴れのようだ。

「ええと、そうでしたねぇ。フィルさんとカインさんがくっついちゃったことをうっかり知った私達は、それをフィルさんに口止めされていたのですが、思いっ切りセイラにばらして、逃げてきたんですよねぇ?」

「セイラはあれで素直すぎるのである。ニワトリ頭に話し、挙げ句にあの女に伝わるのは時間の問題なのである」

「みたいですねぇ。で、なんで地下を選んだんでしたっけ?」

「逃亡と言えば地下である。隠匿と言えば地下なのである。それ以上の理由があろうものか!」

「ああ、それだけでしたねぇ」

デイビットは、ふにゃりと表情を崩す。伯爵はワイングラスを少し動かし、ごとん、と前進する。

「時にデイビットよ」

「なんですかぁ?」

「貴君の背後にある朽ちた人骨は、一体何なのかね?」

伯爵はグラスの縁から体をはみ出させ、デイビットの背後を指し示した。幽霊の体越しに、石の壁が見える。
その壁に寄り掛かるようにして、小柄な人骨が座り込んでいた。すっかり朽ち果てており、骨も多少変色している。
あまり身なりの良くない服装はかなり風化していて、触れれば崩れてしまいそうだ。相当に古い死体のようだ。
埃の積もった髪は色が抜けきっていて、生前の姿は想像出来ない。デイビットは、横目に人骨を見る。

「ああ、あれは私ですよぅ」

「ほう、通りで貴君と似た格好をしていると思っておったぞ」

「この会話も何度目でしたっけぇ?」

「八回目である」

「ああ、じゃあまだ回数が少ない方ですねぇ。それじゃあ説明しましょう。なんで私がここにいるのかを」

デイビットは椅子の背もたれに腕を乗せ、人骨を眺めた。骸骨の目は、ぽっかりと暗い空洞になっている。

「私は元々、この城の持ち主であった王国の貴族、バレッティラス家の遠縁の者でしてねぇ。一族の大半が王国によって滅亡させられた後、巡り巡って持たされる羽目になりまして、その結果、知らない間に私がバレッティラス家の当主にされちゃってましてねぇ。挙げ句に、どういうわけだか帝国に狙われちゃってまして、セイヴァス市での戦いが終わって二ヶ月ぐらいしたときに、いきなり帝国の方々が押しかけてきたんですよねぇ」

「前振りがいやに長いのである」

「何度聞いても文句を言いますよねぇ、伯爵さんて。まぁ、私も昔は伯爵でしたけどねぇ」

ほんの一週間くらいは、とデイビットは懐かしげに朽ちた骨を見つめる。

「で、その帝国の方々は私をここに追いつめたはいいんですが、私ってば思いっ切りずっこけたんですよねぇ」

「後頭部の頭蓋骨陥没及び脳挫傷、頸椎損傷が死因である」

「うわぁ、そう言われると生々しいですねぇ。まぁ、そんなところですよぅ」

いやあ痛かった、とデイビットは後頭部を押さえた。傷痕はないが、今でも痛い気がしないでもない。

「で、死んでそのまま百年が経って、今に至るというわけですねぇ」

「百年を一言で省略してしまう辺り、貴君もかなりのずぼらである」

「だってぇ、面倒なんですもん。幽霊になってから、フィルさんが来るまで大した変化はありませんでしたしぃ」

「はっはっはっはっは。起伏のない物語の粗筋が、一行で終わるのと同じである」

「まぁ、そんなところですねぇ。生前も死後も」

デイビットは机に向き直り、原稿用紙を見下ろした。地下に籠もってから調子が出て、面白いように書けていた。
書き上がった原稿が、机の右脇で山と重ねられている。だが今日になって、急に執筆速度が落ちてしまった。
理由は至って簡単で、結末が思い付いていなかった。書きながら考えたが、どれも納得の行く結末ではなかった。
結末はぼんやりと見えてはいるのだが、何かが足りないのだ。決定的な部分が、出てこない状態が続いている。
原稿用紙から目を外し、薄汚れた壁を見上げてぼんやりと結末を考えていた。だが、次第に思考がずれてきた。
デイビットは妄想を巡らせながら、何の気なしに呟いた。考え事をしながら、喋ってしまうクセがある。

「今頃はどうしていますかねぇ、フィルさんは。元は私の寝室だった研究室にカインさんとしけ込んでいますかねぇ」

「しけ込んだところで、カインは手を出せない男なのである」

「ええ、問題はそこなんですよねぇ。その辺がなんとかなれば、もうちょい劇的な展開を望めるんですけどねぇ」

机の下から足を擦り抜けさせ、原稿用紙の上で組んだ。デイビットは、天井を仰ぐ。

「ここはそうですね、あれですね。何が何でも手を出してこない根性なしのカインさんを奮い立たせるために、フィルさんは怪しげな薬をばんばか作って王都へ下り、夜な夜な人体実験を繰り返していたんですが、そのせいで大半の人間が生きながらゾンビになってしまうんですねぇ。世にも恐ろしい地獄絵図を作り出しちゃったフィルさんは、その責任を全て帝国になすりつけ、亡者の海と化した王都を戦火で焼いてしまおうという腹ですね!」

「なぜそこでそうなるのである」

「やだなぁ、過激な方が面白いじゃないですかぁ」

上機嫌に笑うデイビットにつられ、伯爵は笑い声を上げた。

「はっはっはっはっは。それもそうであるな。だが、我が輩ならばこう考えるのである。根性なしとはいえ未来の領主であるカインを手に入れたフィフィリアンヌはじわりじわりとカインを魔法と薬で洗脳し、次から次へと金品を貢がせて黄金の山を築き、ストレイン家の財産を全て奪い取った後で、もうざっくりと切り捨ててしまうのである!」

「うわぁ、それもいいですねぇ。悪女だなぁ、フィルさんは」

「時にデイビットよ」

「はいなんでしょう?」

「貴君は悪女悪女と繰り返すが、悪女が好きなのであるか?」

伯爵が尋ねるとデイビットは、そうですねぇ、と首をかしげる。

「どちらかっていうと、聖女みたいな清らかな女性よりも好きですねぇ。あの毒気がたまらないんですよねぇ」

「はっはっはっはっはっは、それは我が輩も同意しよう。外面の整った女ほど、腹の底は汚らしいものなのである。フィフィリアンヌの母親であるアンジェリーナなど、良い例である。外見こそ美しい女であるが、あれはフィフィリアンヌ以上に強欲で名誉欲に充ち満ちており、嫌味を振りまくことを好む悪辣な女なのである」

「うわぁ、いいですねぇ。ですから、最初っから毒と棘を振りまいている女性の方が素敵だと思うんですよねぇ」

うんうんと頷いたデイビットは、胸の前で両手を組む。

「ですからねぇ、あそこでフィルさんがカインさんに惚れてしまうというのが腑に落ちないというか面白くないというか、もうちょっとフィルさんにはカインさんを冷たく突っぱねていて欲しかったんですけどねぇ」

「うむ。フィフィリアンヌに足蹴にされても這い上がるカインの姿は、我が輩も見てみたかったのである」

「まぁ、過ぎちゃったことはどうしようもないって言えばそれまでなんですけどねぇ」

だけど残念だなぁもう、とデイビットはつまらなさそうにした。伯爵は、にゅるりと動く。

「うむ。しかし、ニワトリ頭もどうしているのであろうか。あれは借金を返済したが、未だ自由ではないのである」

「そうですねぇ、あれですねぇ。借金を完済したギルさんは今までの恨み辛みをフィルさんにぶつけるべく、様々な手を使って攻めようとしますが、それを全て逆手に取られて利用されてしまうんですねぇ。罠を張ろうが斬り掛かろうが追い込もうが、くるっと立場を逆転されてしまうんですねぇ。そして面白いように追い詰められたギルさんは、最終的には前以上の借金を背負う羽目となり、永遠にフィルさんの手中から逃げ出せないんですね!」

「はっはっはっはっはっはっはっは! うむ、それは有り得そうであるな! して、その妻はどうなるべきかね?」

「ああ、メアリーさんですかぁ。あの人、ギルさんが借金を返しに来たときに一度だけ会いましたねぇ」

デイビットはメアリーの姿を思い出すように、遠い目をした。

「いやぁ、なかなかもっていい感じの女性でしたねぇ。なんかこー、ぴーんと張り詰めたものがありましたしぃ」

「メアリーは、肝の据わった力強い女であるな。あれは、我が輩も良いと思うのであるぞ」

「ええ、そうですねぇ。けど、私はあんまり好かれていませんでしたねぇ。幽霊だからでしょうかねぇ」

不満げに言い、デイビットはずるりと背を下げた。ただでさえ小柄な体が、椅子と机の間に沈んでしまった。
ごとり、と前進した伯爵は幽霊を見下ろした。デイビットの自堕落な姿勢は、背後の死体と良く似ていた。

「まぁそうであろう。貴君のような亡者を好くような酔狂な者は、そう滅多におるまい」

「そりゃあそうですけど、ちょっと残念ですねぇ。ああ、そうでしたね、メアリーさんの今後ですかぁ」

気を取り直したデイビットは、にんまりした。

「そうですねぇ、あれですねぇ。ギルさんの今後を案じたメアリーさんは、借金を遥かに超える額の秘宝を探しに王国を出て半年ぐらい彷徨うのですが、その結果、密林の奥地に辿り着き、その密林の原住民族に女王として崇め立てられ祭り上げられ、ついにはその気になって女王の座に就いてしまうんですねぇ。ギルさんのことが気になるっちゃ気になるけど、原住民族と帝国との戦いも放っておけないしで、結局は密林の女王として君臨し、いつの日か帝国を滅ぼしてこの大陸を手にするんですね!」

「貴君は程良く帝国が嫌いなのであるな。まぁ、我が輩にも解る気はするが。して、ランスは?」

「ああ、ギルさんのご子息ですかぁ。私は結構好きですねぇ、強そうだけど簡単に折れちゃいそうな感じが」

デイビットは、だらしなく表情を緩ませた。すっかり、妄想に浸っている。

「ここはそうですねぇ、こうなりますよぅ。我が道を行き過ぎな両親から離れて自立したランスさんは、王国の王女にでも取り入っちゃうんですねぇ。元々の実力と両親譲りの神経の図太さでどんどんのし上がっていって、王都を魔法本意の国家に変えてしまうんですねぇ。王国軍の主力であった歩兵隊に、魔導師部隊の後ろ盾を付けることで戦力を強化して、そりゃあもう強大な軍事国家に造り替え、挙げ句に世界を我が手に収めるんですね!」

「貴君は世界征服オチも好きなのであるな。して、パトリシアは?」

「あの方はいいですねぇ、女の子女の子してるわりに骨があって」

んー、とデイビットは少し唸った。骨張った指で、顎を持つ。

「そうですねぇ、こうなって欲しいですねぇ。どうしてもランスさんを手に入れたくて仕方ないパトリシアさんは、聖職者でありながらも魔界への入り口を剛腕粉砕で開いて、襲い掛かってきた魔族やら魔物やらを片っ端から千切っては投げて、魔王の元に辿り着くんですねぇ。そこで魔王にランスさんの心を手に入れる方法を聞こうと思ったら、逆に戦いを挑まれて、結局パトリシアさんは魔王を倒してしまうんですねぇ。新生魔王となったパトリシアさんは、不本意ながらも魔族に担がれて、人間界に攻め込んでくるんですが、その際に迎え撃つのがランスさん。パトリシアさんはランスさんが好きで好きでたまらないのに、ランスさんはパトリシアさんを魔王としてしか見てくれません。敵対関係となった悲しみの中、パトリシアさんはランスさんと全力で戦い、世界を滅ぼす勢いで誤解を解いて愛を成就させるんですね!」

「…それは、割と面白そうなのである。して、セイラは?」

「そうですねぇ、どうせならカトリーヌと一緒に考えてしまいましょうかねぇ。魔物同士ですし。フィルさんによって知性と教養を得たセイラは、あの歌声で魔物達の心を掴み取り、ありとあらゆる魔物を配下に従えて魔物の頂点に立つんですねぇ。そこへ現れたるはカトリーヌ。ワイバーンでありながらも擬態に変化したカトリーヌは、セイラの配下で混沌としている魔物達に規律を与えて女王となり、カインさんと離れることを惜しみながらも、魔物の幸せのために新たな国を構築しようとしますが、帝国に阻まれてしまうんですよ。帝国と魔物の間で戦いが起ころうとしたその時、セイラの歌で全ての生き物が沈黙し、その間に魔物達は戦線から離脱して、当初の目的通り魔物の国を目指して旅立ち、無事に魔物の国を造り上げたセイラとカトリーヌは平和な世界を築くんですね!」

「うむ、悪くはないのである。して、グレイスは?」

「あの人は面白いですねぇ、色んなことに首を突っ込んで引っ掻き回してるみたいですしぃ」

いやあ羨ましい、とデイビットは笑う。

「ああそうですねぇ、これですねぇ。帝国も王国も手の上で操っちゃえるようになったグレイスさんは、今度は他国にまで進出して裏で動いて引っ掻き回して戦争を起こしまくるんですねぇ。そこでどういうわけだか天界から神様が下りてきて、グレイスさんに悪行を止めて頂きたいと話をするんですが、そこはグレイスさんですから信用なんてしないで神様を口車で言いくるめ、逆に手中に収めてしまい、今度は天界に乗り出していくんですねぇ。天界のあらゆる神を配下にしてしまったグレイスさんは、今まで以上に世界を引っ掻き回して破壊と再生を繰り返し、ついには新次元を創造してしまうんですが、その途中で飽きちゃって、結局はこの世界に戻ってきて、ギルさんを追っかけ回す生活を続けるんですね!」

「異世界ネタは、二回も続くのはさすがに少々くどいのである。してレベッカは、と訊きたいところではあるが、貴君はレベッカとは面識がなかったのであるな」

「レベッカって、ああ、グレイスさんの作ったストーンゴーレムでしたっけねぇ。ひらひらでくるんくるんの幼女」

面白そうに、デイビットはにやりとした。

「いやあ、知らないなら知らないで妄想は駆け巡りますよぅ、そりゃあもう。石の体でありながらグレイスさんに思いを寄せるレベッカさんは、人の体を欲しいと願って精霊の泉に飛び込み、力技で精霊の女神を引きずり出して強引に願いを果たさせますが、強引すぎたので以前の姿とは懸け離れた人間の姿に、見た目はクマのような大男となってしまいました。精霊の女神の怒りを買ってしまい、元の姿に戻れなくなったレベッカさんは、そのクマみたいな大男のままでグレイスさんに迫ったところ、その気のあるグレイスさんは大喜びしちゃいまして、二人は終生幸せに暮らすんですね!」

「それでいいのであるかー! それではあまり面白くないのである!」

「相手がグレイスさんだから悪いんですよぅ、この場合。相手がギルさんなら面白くなりそうなんですけどねぇ」

ごとごとと暴れるワイングラスを見下ろし、デイビットは薄い眉を下げた。

「伯爵さぁん。そんなに文句を言うなら、自分で考えて下さいよぅ」

「う…うむ…」

しばし待たれよ、と伯爵は声を落とした。のったりとした動きで、ワイングラスの中を回る。

「そうであるな…そうだな…、うむ、やはりここはフィフィリアンヌである!」

「ほぅ。フィルさんがどうしたんですかぁ?」

「酔狂で素っ頓狂な実験を好むフィフィリアンヌは、ギルディオスのニワトリ頭だけでなく、我が輩にも体を与えたのである。だがその体は、木切れと土塊の寄せ集めで、スライムでありながら魂を持ち、気高い意識を持った誇り高い我が輩が中枢となっていなければ、一日と持たないような物だったのである」

「それでそれでぇ?」

「ええい急かすな、まとまらないのである! 土塊の体を得た我が輩は、日頃の恨みを晴らすべくフィフィリアンヌに戦いを挑むのであるが、そこはまぁ竜族が相手と言うことであっさりと負けてしまうのである。そして我が輩は頭から囓られた拍子に、あの女の腹の中に飛び込み、胃酸とワインに充ち満ちた胃袋の中を彷徨いながらも魔力中枢を探し出し、無事にへばり付いて意識を乗っ取ったのである」

「フィルさんっていうよりも伯爵さんの妄想ですねぇ、こりゃ」

「いいではないか、我が輩の妄想なのであるから。そしてフィフィリアンヌの体と魔力を得た我が輩は、魔法でその体を年頃に成長させて豊満な女となり、貧乳呼ばわりから逃れるのである。麗しい女の体を得た我が輩は、竜王都へ戻って次々に王族や政治家共をくわえ込み、たらし込ませ貢がせ注がせ跪かせ、ついには竜女王として竜王都に君臨するのである!」

「私の世界征服オチと似てますねぇ」

「ええいこれで終わりではない、もう少しあるのである。竜女王となったフィフィリアンヌの魔力中枢からじわりじわりと脳髄に染み込んだ我が輩は、あの女の知能と金と権力を使いまくり、世界の地面で這いつくばる全てのスライムに人権を与え、スライムを切り刻んだ者には即刻死よりも酷な刑罰を与え、恐怖政治で王国はおろか帝国も支配するのである。だが長年に渡る圧政で不平不満の溜まった民により、竜女王であるフィフィリアンヌは捉えられてしまうのであるが、そこで我が輩はフィフィリアンヌの体を捨てて竜王都から脱出し、生き長らえてきた世界中のスライムと共に新たなる世界を構築するのである!」

「どろどろでねばねばの新世界ですかぁ。うわぁ、三流恐怖小説みたいだなぁ」

「…それを、言うでない。我が輩もそう思っていたところである」

伯爵は力を抜き、でろりと崩れた。スライムは液状に近くなる。

「まぁ、そうなったところで、意識を取り戻したフィフィリアンヌに消毒薬で焼き尽くされるのがオチであろうな」

「で、世界を救ったフィルさんは竜女王として祭り上げられ、世界は安泰かもしれない、って結末になりますねぇ」

姿勢を正して座り直したデイビットは、両手を上向けた。伯爵は、ふるりと揺れた。

「うむ。なんだかんだで、我が輩の細胞はあの女には逆らえぬように出来ているようである」

「フィルさんが伯爵さんを造ったからですかぁ?」

「それもあるのかもしれぬが、あの女に逆らって良いことがあった試しがないからかもしれぬ」

「ああ、大方それでしょうねぇ。そういえば、伯爵さん」

身を乗り出したデイビットに、伯爵はうにゅりと先端を伸ばした。

「なんであるか」

「伯爵さんとフィルさんて、どういう間柄なんですかぁ? 今一つ、掴めないんですよねぇ」

「我が輩にも良く解らぬ。フィフィリアンヌとは血と分けた間柄ではあるが、決して愛しているというわけではない」

「でも、嫌いでもないんですよねぇ?」

「そこなのである。我が輩も常々考えているのであるが、未だに明確な答えは出てこないのである」

「私でしたらこう考えますねぇ」

デイビットは両腕を机に乗せて這いつくばり、目線を伯爵と合わせた。半透明の影が、グラスに映る。

「伯爵さんはフィルさんから生み出されたことに恩義を感じてはいるものの、こんな具合に捻くれて気位の高い性格ですから、フィルさん以上にそれを真っ向から示すのが苦手というかダメなんですねぇ。ですから毎度のように罵り合って同居しているうちに恩義のことなんかすっぽーんと忘れてしまったんですねぇ。おまけに、たまに本気で言い合うから、好きだってことが曖昧になって来ちゃって、その上に好意を示す機会も失っちゃったので、フィルさんとはただ皮肉を言い合う関係になってしまったんですねぇ。でも、フィルさんも伯爵さんも、それはそれでいいかなーとか思っちゃったから変わることなく、今に至るという具合じゃないんでしょうかぁ」

ごぼり、とスライムは小さな気泡を浮かばせて弾かせた。伯爵の内側から沸き起こる感情は、泡となって現れる。
滅多に思い出さない過去の記憶を呼び起こしてみると、確かに、デイビットの言う通りかもしれなかった。
生み出されたばかりの頃は、それなりにフィフィリアンヌへ敬意を払っていたような気がしないでもない。
己の創造主である少女に、僅かながら好意を持っていた。だが、彼女の口の悪さ故に、その好意は薄らいだ。
しかし、消えたわけではない。事ある事に彼女を罵倒するのも、罵倒されるのも、互いの理解故の行動だ。
伯爵は、無性に気恥ずかしくなった。彼女に好意を持っていることを思い出してしまい、ぐにゃりと身悶えした。

「…おおおおぅ」

「フィルさんを好きなことがそんなに照れくさいんですかぁ?」

デイビットは茶化すように笑った。伯爵の表面は、細かく震えている。

「い…いや。別に、我が輩は」

「ああ、あれなんですねぇ。フィルさんの血を分けただけあって、伯爵さんもフィルさんと同じく照れ屋なんですねぇ」

「それは貴君の妄想である」

「じゃあなんで、声が上擦っちゃってるんですかぁ?」

「気のせいである!」

ぐにゃっとワイングラスから迫り出た伯爵は、デイビットへ伸ばした先端を振り回した。

「大体、我が輩はあの女と腐れ縁だから付き合っているだけであって、決して好いているわけではない!」

「本当ですかぁ?」

「本当であるとも! それになんだねデイビットよ、先程から我が輩を煽っているのかね!」

「煽っちゃいませんよぅ。担ごうと思っているだけですよぅ」

「余計に悪いのである! しかし、貴君は我が輩に何をさせるつもりだったのかね!」

「いえねぇ、引きこもり生活は楽しいっちゃ楽しいんですけどぉ、さすがに飽きてきたんですよねぇ」

デイビットは半透明の指先を、ぶるぶると震えるスライムに向けた。

「で、ここから出て、いっそのことフィルさんに謝っちゃいましょうよ。セイラにばらしちゃったことを」

「あの女に頭を下げるのは癪である」

「でしょう? ですからねぇ、謝る代わりに伯爵さんがフィルさんのことを祝ってあげたら、フィルさんはそっちの方に気を取られて忘れちゃうんじゃないかーって思うんですよねぇ」

「怒りを、であるか?」

「ええ。逆に照れられて蹴っ飛ばされるかもしれませんがぁ、まぁそれはいつものことですからぁ」

「まぁ、それは確かにそうではあるが…。だが、だが、我が輩があの女を祝うのかね?」

「フィルさんの気を逸らすには、それっきゃ方法がない気がするんですよねぇ」

「う…ううむ…」

ぐぼ、と伯爵は鈍く泡を爆ぜさせた。思い悩み始めた伯爵は、沸騰するかのようにごぼごぼと泡を立てる。
フィフィリアンヌには多少の好意はある。彼女が生まれて初めて恋をしたことを、嬉しく思っていないこともない。
だが、普段から意地の張り合いのような関係なので、いざ素直になろうとすると意地が邪魔をしてしまう。
意地と好意の狭間で悩んでいるスライムを見つつ、デイビットは内心でにやりとした。これはいい資料になる。
今書いている小説は、身分の高い男女が地位と気位の高さと誇り故に擦れ違う、いわゆる恋愛小説なのだ。
伯爵を素直にさえさせれば、その男側の資料となり、フィフィリアンヌの反応も、女側の資料となるはずだ。
相当に照れくさいのか、妙に高い変な声を漏らしている伯爵は、グラスの中でぐにゅぐにゅと身を歪めている。
デイビットは伯爵の心境を想像しながら、ふわりと羽根ペンを浮かばせた。原稿用紙に滑らせ、文字を書く。
これで、結末が書ける。思い合いながらも気位の高さ故に背き合ってしまう男女の様子を、書き表せる。
魂の底から湧いてくる創作意欲に任せ、デイビットは薄ら笑いを浮かべた。




その翌日。八日ぶりに、デイビットと伯爵は日の光を浴びていた。
城の地下から抜け出した幽霊の両手にはフラスコが包まれており、ふわふわと上下しながら浮かばされている。
一階の廊下を通り抜けていると、裏庭が見えた。鬱蒼とした草むらに囲まれた、そこそこ広い薬草畑がある。
原色の気味の悪い植物がうねる畑には、フィフィリアンヌの几帳面な字で書かれた看板が突き立てられている。
入るな危険。命の保証はなし。入ったらフィフィリアンヌに怒られるのか、それとも魔法植物の毒性で死ぬのか。
看板の意味はそのどちらでもあるように思えたので、そのどちらでもあるのだろうとデイビットは自己完結した。
廊下の角をいくつか曲がり、正面玄関に繋がる広間へ出た。末広がりの階段の脇を抜け、大きな扉に向かう。
普段は冷たいほど空気が沈んでいる城の中にしては珍しく、空気が流れていた。扉が、少しばかり開いていた。
湖の上を滑って入り込んできた空気には、若干の熱がある。どうやら、暑いから開けているようだった。
デイビットは、それをありがたく思った。死してから念動力が備わったとはいえ、威力は大したことはない。
だから、あの扉を開けるためには僅かばかりの魔力を使い果たしてしまう。元々、魔法は得意ではないのだ。
デイビットは扉に近付きながら、ずっと押し黙ったままの伯爵を見下ろした。意外にも、緊張すると黙るようだ。
縦長の光が差し込んでいる扉の隙間に、するりとデイビットは滑り込んだ。外へ出ると、見慣れた背があった。
腰までの赤いマントを羽織った、大柄な甲冑が座っている。ギルディオスは振り返り、お、と声を出した。

「デイブに伯爵じゃねぇか。ここんとこ見かけねぇと思ってたら、どこに行ってたんだよ」

「いえねぇ、少しばかり事情がありましてぇ」

デイビットは愛想笑いをしながら、ギルディオスの脇を通り過ぎた。階段の下の段に、少女が座っている。
照り付ける太陽が暑いらしく、闇のように真っ黒なローブの長袖はまくり上げられ、華奢な腕が露わになっていた。
フィフィリアンヌの前には、胡座を掻いたセイラが座っている。黒く平たい石版が、二人の間に置かれていた。
白墨を持ったフィフィリアンヌは、石版に文字を書いていく。石版を見ていたセイラは、それを読み上げている。
どうやら、勉強をしているようだった。デイビットはフィフィリアンヌの背後に浮かび、彼女を見下ろす。

「あのぅ、フィルさん」

「なんだ」

上目にデイビットを見、フィフィリアンヌは眉根を曲げた。デイビットは、慎重に伯爵を差し出した。
コルク栓の填ったフラスコの中で、濁ったスライムがごぼりと泡を出した。未だに、一言も発していない。
デイビットはフィフィリアンヌの手の上に、フラスコを浮かばせた。念動力を緩め、彼女の手に向けて落とす。

「伯爵さんがぁ、お話があると言うことなので」

「単純生物が?」

怪訝そうに、フィフィリアンヌは伯爵のフラスコを受け取った。階段を下りてきたギルディオスは、それを見下ろす。
フィフィリアンヌの肩越しに顔を突き出し、関節を軋ませながら首をかしげた。頭飾りが、ぱさりと落ちる。

「こうも黙ってると、なーんか伯爵らしくねぇなぁ。酒精の抜けた酒みてぇだぜ」

「喋らぬか。喋るだけが貴様の芸当であろう」

ぱちん、とフィフィリアンヌはフラスコの表面を叩いた。びくり、と中で伯爵が跳ねる。

「ふぃっ、フィフィリアンヌよ!」

「なんだその変な声は。貴様、何か後ろめたいことでもあるのだな?」

裏返った声を出した伯爵に顔を近付け、フィフィリアンヌは赤い目を強める。

「い、いや、そうではない。そうではないのだ」

「ならばなんだ。はっきりと言え」

ガラス越しに、伯爵は無表情な主を見上げた。こういう状況になると、改めて彼女の無表情が恐ろしい。
何を考えているのか解らないし、内心を見透かされたような気分になってしまう。実際、されているのかもしれない。
伯爵はぎゅっと体に力を込め、ぶるりと凝結した。見透かされているのであれば、覚悟を決めるまでだ。

「フィフィリアンヌよ。人間の男などにほだされるなど貴君らしからぬことではあるが、それは進歩である!」

ますます、伯爵の声は上擦る。

「無表情で無愛想で守銭奴で性根のねじ曲がっている貴君が、他者への愛に目覚めることは天変地異のようなことであるが、喜ばしいことには変わりないのである! だから我が輩は、ここに貴君を祝そうではないか!」

本来は低く響きのある伯爵の声は、すっかり甲高くなっていた。


「フィフィリアンヌよ! 貴君とカインの、茨と刃物の恋路の未来に、幸あらんことを!」


ごとん、とフラスコが小さな手から滑り落ちた。フィフィリアンヌは大きく目を見開いて、ぎゅっと唇を締めている。
白かった頬はみるみる朱に染まり、真っ赤になってしまった。それを見、ギルディオスは本当なのだと直感した。
階段に転げ落ちた伯爵を、セイラが心配げに覗き込んだ。中身が動いたので、ガラス製の球体がごろりと回った。
ギルディオスはフィフィリアンヌを指すと、裏返った声で叫んだ。唐突な話に、かなり驚いてしまった。

「おっ、お父さんは聞いてないぞー!?」

「誰が父だぁ!」

素早く振り返り、フィフィリアンヌはギルディオスに声を上げた。照れと怒りで、口元を歪めている。
フラスコの円筒部分を掴むと、高々と掲げた。細い眉を吊り上げて、伯爵を腹立たしげに睨み付けた。

「こうも盛大にばらしてくれるとはな。覚悟は良いか、単純生物」

「良いわけがなかろう! そもそもこれはデイビットが言い出したことであり、我が輩は、担がれただけであり」

伯爵は視点を後方に動かし、セイラを見上げた。単眼の魔物は、きょとんとしている。

「その、先にセイラにばらしてしまっていたのであるから、公然なものであるとばかりに…」

「セイラ、カトリィ、言ッタ、ダケ。ギリィ、言ッテ、ナイ」

セイラは身を屈め、フィフィリアンヌに掴まれているフラスコを覗き込んだ。金色の単眼が、ガラスに映る。
ギルディオスは、何度も頷いた。多少驚きが残っているのか、その声はあまり覇気がなかった。

「そういうこった。オレはセイラからなーんにも聞いてねぇし、ここで初めて知ったんだよ」

「ありゃありゃあ。それはちょっと、計算違いでしたねぇ」

いやぁ参りましたねぇ、とデイビットは手入れの悪い髪をいじった。フィフィリアンヌは、幽霊を睨む。

「そうか。貴様のせいか、デイビット」

「やだなぁフィルさん。私はただ、伯爵さんが素直にならないから担いで煽っただけですよぅ」

へらへらと笑うデイビットに、伯爵は声を上げた。べちべちと、スライムがフラスコの内側を殴る。

「貴君も同罪であるぞ、デイビット! 大体なんだね、我が輩ばかりに喋らせおって!」

「喋るのはあなたのお得意でぇ、私が得意なのは書く方なんですよぅ。いやぁ、いい資料になりそうですねぇ」

胸の前で両手を組むデイビットに、伯爵はぐにゃりと脱力した。

「…貴君の本命は、それであったか」

「ええ、そうですよぅ。引きこもり生活に飽きていたのは本当ですけどねぇ」

悪気の欠片もなく言ったデイビットは、ふわりと身を屈めてフラスコを見下ろした。そして、にんまりと笑む。

「どうもご協力、ありがとうございましたぁ。これでいい感じの結末が書けそうですよぅ」

「全く。下らんことをしおって」

フィフィリアンヌは、フラスコをぽいっと放り投げた。ゆるやかな放物線を描き、草むらに転げ落ちた。
フラスコが落ちた直後に、地面から鈍い悲鳴が響いた。青々と茂った雑草の間から、罵倒が聞こえてきた。
それを無視しながら、フィフィリアンヌはデイビットを見上げた。幽霊は、にこにことしている。

「貴様も程良く腹が悪いな」

「いえいえ。あなた方ほどではありませんよぅ」

デイビットは、満足げにしている。ギルディオスはがりがりとヘルムを掻き、呆れたように言う。

「にしたって、しょーもねぇことしやがるぜ」

「あれは後で回収しておこう。不純物も混じっているようだから、面倒だが濾過してやらねばなるまい」

草むらに落ちたフラスコを一瞥し、フィフィリアンヌは呟いた。ギルディオスは、傍らの少女を見下ろす。

「なぁフィル。伯爵から祝われたの、なんだかんだで嬉しかったりするのか?」

「虚妄だ」

フィフィリアンヌは、甲冑から顔を背ける。ギルディオスは、笑ったような声を出す。

「そうかねぇ。それにしちゃ、伯爵に優しくねぇか?」

「鬱陶しい」

フィフィリアンヌは白墨を箱に戻し、石版を手で拭った。それらを抱えて立ち上がり、足早に階段を昇っていった。
セイラは残念そうにその背を見送っていたが、ちらりと後方を見た。雑草に囲まれて、フラスコが光っている。
そして再び、翼の生えた小さな背を見上げた。つかつかと階段を昇る彼女は、どこか雰囲気が穏やかだった。
やはり、フィフィリアンヌは嬉しいのだ。それを感じ取ったセイラは、やけに嬉しくなって笑った。
地面からセイラを見ていた伯爵は、その横顔が綻んだことに気付いた。セイラは、彼女の感情を解ったのだ。
フィフィリアンヌは、他人に感情を示すのが苦手だ。だから、今回のように態度で示すことが常である。
それは少々荒っぽいが、優しさが滲み出ている。結局のところ、フィフィリアンヌは不器用なのだ。
伯爵はごぼごぼと泡を吐き出しながら、内心で笑っていた。意地を緩めることは、難しいが面白かった。
だが、明日からはまた以前と同じ。事ある事に言葉でなじり合い、嘲笑と皮肉の応酬の日々が戻ってくる。
それでこそ、だ。伯爵は妙な安心感と心地良さを覚えながら、古びた城を見上げていた。
友人の浅はかな策略に乗るのも、たまにであれば悪くなかった。




竜の少女とスライムの、六十四年来の腐れ縁。
とうの昔に腐り果てているのだから、これ以上腐ることはない。
互いを思いやるでもなく、愛するでもなく。ただ、そこにいるのみ。

それが、二人の関係なのである。






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