アンジェリーナは、墓の前に座っていた。 彼の墓石は、いつのまにか過ぎた年月を吸い取っていた。前に来たときよりも、大分くたびれている。 真夏の日差しが、灰色の石を焼いていた。手を押し当てると、内側からは僅かに冷たさが滲み出てきた。 白く細い指先が、石に刻まれた名をなぞっていく。亡き夫、ロバート・ドラグーンの名を愛おしげに撫でた。 アンジェリーナは墓石の周囲を見下ろし、雑草が抜かれていることに気付いた。花も、供えてある。 「割と綺麗になってるじゃないの、うちの人の」 「フィフィリアンヌは部屋の掃除はせぬが、父上どのの墓だけは掃除するのである」 強い日光の下、ごぼりとフラスコの中でスライムが泡立った。墓石の上に置かれた伯爵は、彼女を見下ろした。 切れ長で吊り上がった真紅の瞳に、綺麗に通った鼻筋。薄く形の良い唇と細い顎、白い首筋がすぐ前にある。 色鮮やかな長い緑髪を背中に垂らし、新緑の長いマントが汚れるのも構わずに地面に膝を付いていた。 華奢ながらも豊満な体付きが、派手な魔導師の衣装に包まれている。夏なので、以前より露出は増えていた。 白く艶やかな太股が揃えて地面に付けられ、細身の腰が露わになっている。未だに、彼女は若いままだ。 マントの下から出ている大きな緑の翼が、折り畳まれている。すらりと長い二本のツノが、頭に目立っていた。 アンジェリーナは石に刻まれた夫の名前を見つめていたが、素早く顔を上げた。警戒した目を、後方へ向ける。 墓石の刺さった小高い丘を、じっと睨むように見る。市民共同墓地に、誰かが入ってきた気配がしていた。 彼女の気配と足音が、重たい甲冑の足音を伴って近付いてくる。アンジェリーナはそれを感じ、表情を緩ませた。 アンジェリーナが立ち上がったので、伯爵は視点を上げた。冴えた色の緑のマントが、風を孕んでなびいている。 「母上どの、いいのであるか? 立ち去らねば、貴君はあの女と会うこととなるのである」 「嫌だってんなら、あんたは消してあげてもいいけど? そりゃもう木っ端微塵に粉砕して」 アンジェリーナは、伯爵に指先を向けた。伯爵はガラス越しに指先を見ていたが、笑った。 「はっはっはっはっはっは」 アンジェリーナは意地の悪い笑みを浮かべていたが、それを消した。そして、墓場の小高い丘を見上げる。 青々とした芝が生えた斜面に、無数の墓が並んでいる。ゆるやかな傾斜の頂上に、大小の人影が現れた。 銀色の甲冑を伴った黒衣の小さな影が、青い空を背負っている。弱い風が抜け、少女の黒いマントをなびかせた。 遠くからでも、少女の表情が固まっているのが解った。吊り上がった目を見開いて、呆然と突っ立っている。 その傍らに立つ甲冑は、手にしていた花束を下ろした。魔女のような格好の少女と緑竜の女を、交互に見た。 伯爵は、しきりに二人を見比べているギルディオスを見上げた。すると彼は、墓石の上のスライムに気付いた。 ギルディオスはフィフィリアンヌとアンジェリーナを指して、首をかしげた。どういうことだ、とでも言いたげだった。 アンジェリーナは、無表情ながらも驚いているフィフィリアンヌを見つめていた。また、会えて嬉しかった。 竜神祭以降、その体が元通りに治っているか気が気ではなかった。服に隠れてはいるが、傷はないようだった。 フィフィリアンヌの表情には、ロバートの面影があった。唇を半開きにしている辺りなど、良く似ている。 先の尖った黒い帽子に、同じく黒いマントを羽織っている。いくら竜族とて、真夏にその格好は相当暑いだろうに。 実際、フィフィリアンヌの首筋にはうっすらと汗が浮いている。暑くとも、痩せ我慢をしてしまっているのだろう。 夏ぐらい服を減らせばいいのに、とアンジェリーナは思ったが、そうさせてしまったのは間違いなく自分だ。 人間の中に放り込まれ、人でない人として蔑まれながら生きてきたせいで、警戒心を緩められないのだろう。 アンジェリーナは、ずきりとした強い罪悪感を覚えた。真正面から見てみると、驚くほど、娘は自分に似ていた。 それが、余計に嬉しかった。だがそれを表情には出さぬように、極力神経を張り、普段の強気な顔を作っていた。 不思議な静寂に満ちた墓場を、熱の籠もった風が抜けていった。 墓場近くの木陰に座り込んだフィフィリアンヌは、極めて機嫌が悪そうだった。 濃い影が冷え冷えとした木の根元に座り込み、煌々と日差しを浴びている墓地を、腹立たしげな顔で睨んでいた。 魔女のような帽子は脱いで、傍らに置いていた。それでもマントは着ているので、見た目からして暑苦しかった。 その隣で、ギルディオスが胡座を掻いていた。フィフィリアンヌの隣を窺うと、やはり顔を逸らしている母親がいる。 伯爵を胡座の間に置いたギルディオスは、身を縮めていた。空気が張り詰めていて、実に居心地が悪い。 なぜ、アンジェリーナがここにいるのか。そして、なぜ彼女は伯爵を連れていたのか。後者がまるで解らない。 朝から伯爵を見かけない、とは思っていたが、まさかアンジェリーナと一緒にいたとは思ってもみなかった。 がしゃり、とギルディオスはバスタードソードを乗せた背を木に当てた。空を見上げると、気持ちの良い快晴だった。 「なぁ、オレらは帰った方が良くねぇか?」 「まぁそう言うでない、ニワトリ頭よ。貴君が帰ってしまえば、我が輩は身も凍る思いになるのであるぞ」 球体の中で先端を伸ばしているスライムを、フィフィリアンヌはちらりと横目に見た。 「読めたぞ、伯爵」 「何をであるか?」 伯爵は、たぽん、と先端を体の中に落とした。フィフィリアンヌは身を乗り出し、がしっとフラスコを掴んだ。 「彼の者の魂に刻まれし服従の印を、白日と神の元に現したまえ」 途端に、伯爵はごぼごぼと沸騰し始めた。魔力中枢から熱が起こり、ただでさえ温まった体が煮えてしまいそうだ。 必死に抵抗しようとしたが、無駄だった。次第に粘着質の表面が凝結し、発光しながら浮かび上がってくる。 赤紫の波打った表面に、光で出来た魔法陣が現れた。フィフィリアンヌは口元を曲げ、母親を睨む。 「やはりな。貴様、いつのまに母上と契約を交わした」 「契約?」 ギルディオスがきょとんとすると、フィフィリアンヌはフラスコを乱暴に投げ、甲冑に渡した。 「それは召喚の契約印だ。この単純生物は、母上の契約獣に、すなわち召喚の契約をされてしまっているのだ」 「へぇー。あー確かに、セイラの背中にあった入れ墨と似てらぁな」 素直に感心しながら、ギルディオスはフラスコを回した。魔法陣が浮かんだままのスライムは、ずるりと揺れる。 「こ、これ! 魔力中枢が表面に現れているのだ、あ、あまり乱暴に扱うでない!」 「しかし趣味の悪いことだな、母上。あのような者と契約を交わすとは」 フィフィリアンヌは、アンジェリーナに振り向いた。彼女は、目線だけ娘に向ける。 「私の勝手でしょうが。何と契約しようがあんたには関係ないんだし、別になんだっていいじゃないの」 「伯爵を呼び出して、私の様子を聞き出していたな?」 「さーぁねぇ」 アンジェリーナは、つんと顔を背けた。ギルディオスは、まだ光っている伯爵を振ってみた。 「で、実の所は?」 「わ、解った! 話すのであるからもう振るでないぞニワトリ頭め分離する分離する分離してしまう魂と肉体がぁ!」 伯爵は、渾身の力で絶叫した。ようやくギルディオスの手が止まり、だぽん、とフラスコの内側に張り付いた。 ずるりと脱力しながら、液状となった伯爵は球体の中に落ち着いた。視点を上向け、アンジェリーナに会わせた。 彼女は、振り向きもしなかった。どうやら、遮るつもりはないようだ。多少安心しながら、伯爵はうにゅりと蠢いた。 魔力中枢が魂に戻り、光も納まった。地面に置かれた伯爵は、じわじわと体温を下げながら要点だけを言った。 「えー、まぁ、フィフィリアンヌの言う通りである。我が輩は母上どのによって定期的に竜王都へ召喚され、その度に貴君の様子を、半分真実半分誇張で喋っていたのである。これは貴君が幼少時、いや、父上どのの葬儀後からのことであるからもう六十年以上になるのである」 「なるほどな。通りで、時折姿が失せていたと思ったぞ」 そのせいで何度道に迷ったことか、とフィフィリアンヌは苦々しげにした。伯爵は、高笑いする。 「はっはっはっはっは。だがそのおかげで、貴君はカインと出会えたのではないか」 「…なぜ知っている」 思わず身を下げたフィフィリアンヌに、伯爵は更に笑った。彼女を困らせるのは、非常に楽しい。 「はっはっはっはっはっはっは! 少々煽ってみたら、カインが実に調子よく喋ってくれたのである!」 「カインて、ああ、あんたがたらし込んだ貴族の男だったっけぇ」 好奇心に満ちたアンジェリーナの言葉に、フィフィリアンヌはやりづらそうな顔で更に身を下げる。 「私は…別に、たらし込んだわけでは」 「伯爵、その辺のこともアンジェリーナに話したのか?」 ギルディオスが問うと、伯爵はぐにゅりと身を捩った。楽しげに、笑い声を上げる。 「はっはっはっはっはっはっは、当然であるとも! 終始、母上どのは大爆笑であったぞ!」 「貴様ぁ!」 フィフィリアンヌはフラスコを掴み取ると、高々と掲げた。夏の暑さも手伝って、白い頬はすっかり赤かった。 ああ可愛いなぁ、とギルディオスは内心で笑っていた。色白だから、赤面すると血色が良くなって愛らしい。 フィフィリアンヌはフラスコを日光の下に差し出し、手のひらを下に出した。一言、小さく呪文を唱える。 すると、フィフィリアンヌの手のひらから炎が溢れ出した。めらめらとフラスコの底を舐め、燃え盛っている。 文字通り身を焦がす痛みに、伯爵はもんどりうった。じたばたと暴れ回りながら、なるべく炎から身を遠ざける。 「こっ、これフィフィリアンヌよ! ただでさえ暑い日だというに、何をするのかね! すっ水分が水分がぁ!」 「喋れるということは割と平気なのか」 ふっ、とフィフィリアンヌは手の上の炎を吹いた。直後、炎は激しく燃え上がり、フラスコを丸く包んだ。 「うごぉおおおう!」 「フィル。いい加減にしねぇと、本当に死んじまうんじゃねぇの?」 そうは言いながらも、ギルディオスは平然としていた。そうだな、とフィフィリアンヌは炎を出している手を握る。 ぼぅ、と炎は立ち消えた。煮詰まったスライムがごぼごぼと沸騰するフラスコを、ごろりと地面に転がした。 フィフィリアンヌは小石を取ると、フラスコの周りに二重の円を描いた。魔法文字を数個描き、円を指先で叩く。 すると、フラスコの表面がばきばきと氷に覆われた。冷え切ったスライムが、白いガラスの中で固まっている。 炎で温まっていた空気が冷め、ひやりとした風がやってきた。フィフィリアンヌは立ち上がり、手を払う。 「これで良かろう。温度差で多少は堪えるかもしれんが、これぐらいでは死にはせん」 「フィフィーナリリアンヌ。あんた、またえらくひどいことするわねぇ」 呆れ顔のアンジェリーナに、フィフィリアンヌはかなり嫌そうに眉をしかめた。 「負傷者の枕元で、傷を抉るなどとのたまった貴様には言われたくはない」 「生きてっかー、伯爵ー?」 立ち上がったギルディオスは、こん、と伯爵を小突いてみた。凍り付いたスライムは、僅かながらぶるりと震えた。 伯爵は、しっかり生きているようだった。フィフィリアンヌは、ああ見えてもちゃんと手加減していたのだろう。 氷の張り付いたフラスコを掴み取ったギルディオスは、二人に背を向けた。軽く、手を振ってみせる。 「んじゃ、オレは自分の墓でも参ってくるわ。フィル、後で迎えに来らぁ」 「貴様、何がしたいのだ」 不愉快そうながらも頬の赤いフィフィリアンヌに、そうだなぁ、とギルディオスは笑った。 「せっかくだから、二人だけにしてやろうと思ってよ」 「いらぬ気遣いだ」 顔を逸らしたフィフィリアンヌに、そうかい、とギルディオスは少し残念そうに肩を竦めたが歩き出していった。 日差しの下を、反射のせいで光の固まりのような銀色が歩いていった。次第に遠ざかり、墓の間を抜けていく。 フィフィリアンヌは、ちらりと赤いマントの背を見たが目線を外した。彼の配慮に、喜ぶべきか困るべきか迷った。 背中に感じるアンジェリーナの視線は、気まずかった。母に対してどんな顔をすればいいのか、未だに解らない。 竜神祭の後、もう二度と会うことはないと思っていた。今までは、竜王都に行っても会えることはなかったのだから。 フィフィリアンヌは、竜神祭の記憶を呼び起こした。僅かな記憶だが、抱き締められた腕の温かさは覚えている。 せめて、これくらいは聞いておこう。母が自分を抱き締めたかどうかの真偽を、正すぐらいはしておきたかった。 フィフィリアンヌは、アンジェリーナに向き直った。母親の強気な目は、どこか不安げにこちらを見ていた。 「母上」 「何よ」 アンジェリーナはつっけんどんに返してから、まだ機嫌の悪そうな娘を見上げた。やはり、嫌われているようだ。 フィフィリアンヌの右耳には、夫の葬儀の日にあげた銀のピアスが光っている。娘は、身に付けてくれていた。 このピアスに、どれだけ思いを込めて渡したのかは知らないだろう。教えていないのだから、当然だ。 アンジェリーナは、優雅な仕草で長い髪を掻き上げた。緑髪の下から現れた左耳には、同じものが付いていた。 「たまにはこっちに来てもいいじゃないのよ。別にあんたに迷惑掛けてるわけじゃないんだし」 「西の守護はどうなっている。今、母上が抜けたら竜王都の西は、帝国側はがら空きになるぞ」 言ってしまってから、フィフィリアンヌは後悔した。なぜ、こんな味気ないことしか口に出来ないのだろうか。 アンジェリーナは頬杖を付き、西へ目をやった。淡々とした娘に合わせるように、口調を静める。 「ああ、あんなの平気よ。一日ぐらい抜けたって、弱りまくった帝国は攻めてこないわ。それよりも今は王国ね、注意すべきはこっちよ。力があるくせにそれを隠して、息を潜めているみたいだしね。いつ、王国が帝国と竜王都に侵略戦争を吹っ掛けてくるか解ったもんじゃないわ」 「王国の軍人共は、竜族の手を掴もうとしている。だが奴らは、手を組んだ時点でそれをひっくり返すつもりなのだ」 フィフィリアンヌは、王都の方角を見た。小高い丘の向こうに、強固な城壁がそびえている。 「穏健を気取っている王族共も、内心は野心が渦巻いている。今まで、帝国の影に潜んでいただけなのだ」 「やんなっちゃうわよ全く」 アンジェリーナは、長い足を投げ出した。真っ直ぐな髪を掻き上げると、さらりと流れる。 「これだから戦いって嫌。下品で汚いし、政治家共の薄汚い根性ばっかり見えて。ああもう、反吐が出るわ」 「王国の急進派は、中心に高位魔導師共がいる。王族をそそのかしているのも、間違いなく奴らだろうな。真に警戒すべきは、軍人でも政治家共でも王族でもなく、魔導を極めし者ということだ」 「帝国の皇族連中を囃し立ててドラゴン・スレイヤーを仕立て上げたのも、魔導師共だものねぇ。魔導師共は魔導師協会の横の繋がりがあるから、手を組んでてもおかしくないわ。今もそんなんってことは、魔導師協会の役員連中の尻尾がまだ掴まれてないわけね」 アンジェリーナは、心底嫌そうに顔を歪めた。フィフィリアンヌは、母親から少し離れた位置に腰を下ろした。 「まぁ、あれらが腐っているのは今に始まったことではないが、近年はそれが著しくてな。その元凶が誰なのかは、解らないでもない。大方、イノセンタス・ヴァトラスの思想が魔導師共に受け入れられて浸透した結果だろう。あれの思想は解り易い上に人間本意だから、芯の弱い連中が簡単に浸ってしまう。奴は魔導師協会の役員だが、政治に掛かりきりでこれといったことはしてはおらんが、暗に影響は与えているようだな」 「どいつもこいつも、むかつくわ」 毒づいたアンジェリーナは、腹立たしげに王都を睨んだ。すっかり、話したいことから反れてしまっている。 それを言い出せない自分が、情けなくて仕方なかった。どうして、少しだけでも素直になることが出来ないのか。 元より意地の強い性格は、ロバートの死後、更に度を増した。彼がいない寂しさが、心に鎧を作ったかのようだ。 娘にまで、意地を張る必要はないはずなのに。弱い部分を見せても良い相手に、強きを見せようとしてしまう。 アンジェリーナは、娘を見下ろした。フィフィリアンヌは相変わらずの無表情で、じっと墓場を見つめている。 娘との視線は、交わりそうにない。それがいやに寂しく物悲しく思えて、アンジェリーナは俯いてしまった。 それを、フィフィリアンヌは少し覗き見た。悲しそうな顔をしている母親など、初めて見た気がした。 きゅっと締められている形の良い唇には、色が乗っていない。あの強烈な赤の口紅が、塗られていなかった。 よく見ると、他もそうだ。化粧は一切されておらず、甘ったるい香水の匂いもしない。こんなことも、初めてだった。 フィフィリアンヌは、まじまじとアンジェリーナを見つめた。自分を取り繕わない母など、見たことがなかった。 「母上?」 「馬鹿みたい」 アンジェリーナは、深くため息を吐く。目元を押さえて上体を逸らし、木に寄り掛かった。 「あんたとそんな話をしにきたわけじゃないってのに。あーもう、むかつく」 「化粧はどうした」 「あの人とあんたに会うのに、媚び売ってどうなるってのよ。身内にへつらう意味なんてないじゃない」 アンジェリーナは、手の下でにやりと口元を上向けた。 「で。あんたこそ、何よ」 「私は、父上に会いに来たのだ。したらばそこへ母上がいて、あの単純生物を連れていたから、それを」 「ゲルシュタインを回収しに来ただけってわけね。あんたらしいわ、フィフィーナリリアンヌ」 顔を背けたアンジェリーナに、フィフィリアンヌは少しむっとした。 「そうではない」 「じゃあ何よ。あんた、私が嫌いなんでしょ。だったら、さっさと帰ればいいのよ。私も帰るから」 「だから、そうではない!」 フィフィリアンヌが立ち上がろうとすると、アンジェリーナは顔を押さえた。肩を震わせ、翼を下げている。 指の間から見える目は、僅かに潤んでいた。口を押さえて目を閉じていたが、小さく呟いた。 「あぁもう…やんなっちゃう」 本当に、情けない。何度自制しようとしても、嫌味ばかりが出る。好きな相手は、余計にそうなってしまう。 照れてしまうのを隠してしまいたいから、弱い部分を出すのが苦手だから。そんなものは、単なる言い訳だ。 自分の性格の悪さを、いいように誤魔化しているだけだ。アンジェリーナは身を縮め、亡き夫に思いを馳せた。 ロバートは、それを愛嬌だと言ってくれた。本気で言っているわけじゃないんだから、と笑ってくれもした。 だが、フィフィリアンヌはそうは思っていない。間違いなく、嫌いだから言っているのだと思っているはずだ。 母親らしいことをしようと思って来たはずなのに、いつもと変わらない。変わることが出来ない。 アンジェリーナは自己嫌悪と悔しさで、胸がきつく痛んだ。自然と滲んでくる涙が溜まり、視界が歪んだ。 座り直したフィフィリアンヌは、黙ってしまった母親を眺めた。すっかり、強さが影を潜めている。 この人にも、弱い部分があるらしい。それがかなり意外であり、少し不思議なことのように思えた。 いつも過剰なほど自信に満ち溢れていて、己の美しさと才を誇り、事ある事に高笑いをしている女なのに。 なのに、今日は一度もその高笑いを聞いていない。それどころか、気弱な言葉ばかりを口に出している。 相当、アンジェリーナらしくない。フィフィリアンヌは違和感を感じながらも、少しだけ、親しみを感じた。 高みにいる母が、地上に降りてきてくれた気がした。気高き竜として生きる母が、人となっている。 きっと、ロバートの生きていた頃は、彼にこんな姿を見せていたのだろう。愛する男の前では、女は弱るものだ。 フィフィリアンヌは、母親の横顔に己を重ねてみた。カインが見る自分の表情と、恐らく似ているのだろう。 そう思ったら、血縁を感じずにはいられなかった。あれだけ嫌がっていた母に、計らずとも似てきているようだ。 言動も性格も、客観的に見れば近いものがある。そう考えれば、アンジェリーナの嫌味は意地なのかもしれない。 そうだとすれば。いつかはどちらかが折れないと、解り合うことは出来ない、とフィフィリアンヌは悟った。 父親が、ロバートがいればどうしていただろう。間に入るか、どちらにも付かないか、ただ笑っているだけか。 ちらりと墓場を窺うと、ロバートの墓をギルディオスが見下ろしていた。花束が、ぞんざいに供えられている。 フィフィリアンヌは、意を決した。前々から聞いてみたかったことを、アンジェリーナに尋ねた。 「母上は、竜神祭の最後を覚えているか。母上が降りてきた後のことを、あまり良く覚えていないのだ」 祭りの夜は、痛みと熱さばかりが記憶にある。ギルディオスの魂を込めた魔導鉱石は、炎の如く熱かった。 彼に娘だと言われたこと。セイラの猛りと歌声。そして、母の腕の感触が、ありありと残っていた。 「私を誰かが抱き起こしたのだが、それが誰なのか、教えてはくれまいか」 「やだ、あんた、あれ覚えてたの」 僅かに震える声で言い返し、アンジェリーナは手を外して顔を上げた。てっきり、知らないと思っていた。 母になれなかった自分が、娘のために戦ってやることも出来なかった自分が、ようやく出来た母らしいことだ。 それを、フィフィリアンヌは覚えていてくれた。それが無性に嬉しくて、アンジェリーナは笑った。 「あれは私。親が、子供の心配しちゃいけない?」 母は、愛おしげな微笑みを浮かべていた。目元は潤んでいて、嬉しそうだったが少し苦しげでもあった。 フィフィリアンヌは、アンジェリーナと見つめ合っていた。竜女神の笑みと良く似た表情で、母親は笑っている。 かつて、何度もこの顔を見たことがある。フィフィリアンヌは、いつのまにか封じていた記憶が緩むのが解った。 父と並んで、海辺に立つ母。幼い自分を膝の上に乗せて、本を読んでくれた母。そして、抱き上げてくれた母。 忘れていたわけではない。ただ、思い出さなかっただけだ。歳を重ねるにつれて、嫌われたと思っていたからだ。 あの温かさと感触は、夢でも思い違いでもなかった。本当に、アンジェリーナは抱き起こしてくれていたのだ。 それが信じられず、そして嬉しかった。フィフィリアンヌは目を見開いたまま、込み上げてくる感情を押さえた。 アンジェリーナは、自分の手を見下ろしていた。綺麗に磨かれた長い爪が、つやりと光っている。 「随分大きくなったわねぇ、あんたも。結構、重かったわよ」 「母上。ならば、なぜ」 フィフィリアンヌは、項垂れた。嫌われていない、と知った途端、気が緩んでしまいそうだった。 「私を置いていったのだ。ほとんど、会いに来なかったのだ」 「だから、今、会いに来てるんじゃないの」 アンジェリーナは、俯いた娘に笑んだ。どれだけ寂しい思いをさせていたか、考えただけで苦しくなってしまう。 「ゲルシュタインから聞いたわ。随分と、色々あったみたいねぇ」 母は娘を慎重に抱き寄せて、腕に納めた。竜神祭の時とは違い、フィフィリアンヌは血にまみれてはいない。 フィフィリアンヌは、アンジェリーナの腕から脱しようと思った。だが、体がまるで動いてくれなかった。 母に対しての苛立ちや腹立たしさは、まだ残っていた。言ってやりたい文句も、いくらでもあったはずだった。 しかし、腕の中にいたら、それらは弱まってしまった。怒ろうと思っても、まるで感情は昂ぶってくれない。 頭上で小さく、ごめんなさいね、と聞こえた。フィフィリアンヌは言い返そうと思ったが、喉が詰まっていた。 アンジェリーナは、体を強張らせている娘を抱く腕に少し力を込めた。これで、罪が消えるとは思ってはいない。 娘に対する贖罪は、これから始まるのだ。償いきれるとは思えないが、償わないでいるよりは余程良い。 フィフィリアンヌは、母の胸に頬を当てていた。すぐ傍から聞こえる鼓動の音が、心中を落ち着かせていた。 いつか、竜の血を忌んで翼を切り落とした日のことを思い出した。あの時は、父親がこうしてくれていた。 間近から、冷ややかな体温が感じられる。夏場でも、生粋の竜族は体温がそれほど上がらないようだった。 アンジェリーナは、フィフィリアンヌの後ろ髪を指で梳いた。梳いてはあるが、あまり手入れをされていない。 「ちったぁ綺麗にしなさいよ、フィフィーナリリアンヌ。名前負けしてるわよ」 「今に始まったことではない」 押し潰した声で、フィフィリアンヌは呟いた。アンジェリーナは、娘に頬を寄せた。 「フィフィーナリリアンヌ、いいことを教えてあげるわ。あんたも知っての通り、私はあんた以上に捻くれてるのよね。だから、私の言うことは、真っ正直に額面通り受け取ったりはしないで。大体のことは反対の意味に取ってくれたら、大分上手いこと行くはずよ」 「父上は、そうしていたのか?」 「ええ。惚れたの認めるの癪だから、嫌いだ嫌いだって言ってたら、あの人から言われちゃったわよ」 アンジェリーナは、気恥ずかしげにむくれる。それは、どこか少女じみていた。 「そんなにオレが好きかー、ってねぇ」 「そういうことか」 目を閉じて、フィフィリアンヌは母親に少し体重を掛けた。本当に、この人は器用でないようだ。 肩に乗せられた母の手から、じわりとした温かさが流れてきた。それなりに愛されているのだな、と思えた。 アンジェリーナは、娘の体を離さぬように抱き締めた。黒いマントに覆われた背中に、翼があるのが解る。 「これからは私も、もうちょっと努力するわ。お互いにいい歳なんだし、いつまでも意地張ってるってもねぇ」 「母上。そのうちでいい、私の城に来てくれ。色々と、問い詰めておきたいことがある」 「穏やかじゃないわねぇ。まぁいいわ、あんたがそこまで言うなら行ってやろうじゃないの」 アンジェリーナは、そっとフィフィリアンヌの頭に手を置いた。胸の奥が、心地良い温もりで満ちていた。 精一杯、愛してあげよう。今まで与えてやることの出来なかった愛情を、やれる限り、愛しい娘に与えてやろう。 それに、娘も娘で少しは母親を愛していたようだ。無愛想な言葉尻からそれが解って、心底嬉しかった。 ずっと示してこなかった愛情を、少しずつでも示していこう。時間は掛かるが、それしか贖罪の方法はない。 アンジェリーナは、内心で彼に感謝していた。今日、ここにフィフィリアンヌが来ることを教えてくれたのだ。 後で、年代物の上等なワインでも開けてやろう。そう思いながらアンジェリーナは、そっと目を閉じた。 そのまま、竜の母娘は言葉を交わすことはなかった。 太陽が傾き始めた頃、ギルディオスは墓場を歩いていた。 アンジェリーナと思しき緑竜が空へ姿を消したので、頃合いだと思ったのだ。手には、フラスコを持っている。 乾いた土を踏み締めながら、ギルディオスは再度小高い丘を登っていた。結局、半日ほど墓場にいた気がする。 緩やかな坂を昇り、頂上付近で立ち止まる。ギルディオスは、スライム入りのフラスコを手近な墓石に置いた。 「なあ伯爵」 「なんであろうか」 氷結した部分も解け、ワインを新たに注がれたスライムはぐにゃりと蠢いた。すっかり、回復している。 ギルディオスは、墓場の左手奥に広がる森を見下ろした。木陰に、小柄な黒い影が座っているのが見えた。 「今回の、お前の差し金だろ。フィルの都合も知ってるし、アンジェリーナには通じてるしよ」 「そうであれば、どうするのかね?」 うにゅっと迫り上がった伯爵は、内側からコルク栓を押し抜いた。ギルディオスは、両手を上向ける。 「どうもしねぇよ。ただ、ちょっと不思議な気がしてな。いつもは我関せずを気取ってるから、余計にな」 「はっはっはっはっはっはっは」 高く掲げたコルク栓を、伯爵は振ってみせた。しなやかに、粘着質が揺れる。 「確かに我が輩は、母上どのにフィフィリアンヌの動向の情報を渡した。だが、あの二人を引き合わせているのは、我が輩ではない。二人自身が、会いたい、解り合いたい、と思っていなければ、顔を合わせても言葉を交わすことはないのである。我が輩は、特に何もしてはおらん。フィフィリアンヌの元で罵倒されながらのたうち回り、母上どのの元に召喚されては半日ほど喋り通しているだけである。所詮、我が輩は、地べたに這いつくばり湿気を好む魔性の存在に過ぎんのだから、出来ることなど最初から限られているのである」 「そりゃそうだな」 ギルディオスは、伯爵のフラスコを引っ掴んだ。にゅるんとスライムはフラスコに戻り、きゅっとコルク栓を閉めた。 丘を降りると、眼下に墓場が広がった。墓石の間には雑草が生え、青々とした中に灰色が生えているようだった。 その間の踏み固められた道を歩きながら、ギルディオスは木陰に座るフィフィリアンヌへ手を挙げてみせた。 彼女はこちらに気付き、振り向いた。立ち上がるとローブの裾を払い、先の尖った帽子を拾って被る。 ギルディオスは足早になり、墓場を囲む柵を跳び越えた。少女に歩み寄ると、フィフィリアンヌは帽子を下げた。 幅広の黒い鍔の下から、少しだけ目を出した。フィフィリアンヌは、上目にギルディオスを見上げた。 「ギルディオス」 「んあ?」 ギルディオスが首をかしげると、フィフィリアンヌは少々気恥ずかしげにした。 「その、親というものは、何をされたら喜ぶのだ?」 「ああ、そうだなぁ。まぁ、別に何だって良いんだが、やっぱ一番はあれさ」 ギルディオスはフィフィリアンヌの頭を叩くような気分で、帽子をぽんぽんと叩いた。 「子供が元気に生きてりゃ、親にとっちゃそれが何よりなのさ」 「そう、なのか」 「ああ。ちったぁ参考になったか?」 「それなりにな」 フィフィリアンヌが返すと、ギルディオスは満足げに頷いた。くるりと背を向けると、先を歩き出した。 赤いマントの背を見ていたが、フィフィリアンヌはふと空を見上げた。西の空が、焼けるように赤く染まっている。 次はいつ頃、母親に会えるだろうか。いや、次はこちらから竜王都へ行って会うことになるかもしれない。 フィフィリアンヌは、左耳に填めた銀のピアスを指先で撫でた。母との繋がりは、これ一つだけではなかった。 ずっと、繋がっていたのだ。胎内に包まれて命を与えられたときから、愛情を与え合う機会を窺っていた。 ただそれを、逃し続けていただけだったのだ。互いが噛み合わなかったから、愛が示せなかっただけだ。 努力するのは、どちらも同じだ。下らないことで、意地を張ってしまわないようにしなければならない。 アンジェリーナが城に来たら、どうやって持て成そうか考えていた。こんなことを考えるのも、初めてだった。 フィフィリアンヌはギルディオスの背を追っていたが、父親の墓前で立ち止まった。そして、暮れゆく空を仰いだ。 そこに母の姿はなかったが、母の温かさは心中に残っていた。 その頃。フィフィリアンヌの城には、来客がいた。 正面玄関の階段に、半透明の男が腰掛けていた。傍らには、大量の薬瓶の詰まった袋が置かれている。 デイビットはにこにこしながら、階段の下に立つ二人を見下ろしていた。灰色の服の男と、妙な髪型の幼女だ。 幼女は、軽い足取りで階段を昇ってきた。頭の両脇でバネ状に巻かれた濃い桃色の髪が、びよんと上下する。 レベッカは肩に担いでいた金貨の袋を、がちゃりと薬袋の横に置いた。とんとん、と金貨の袋を手で叩く。 「どうぞー。魔法薬のお代、金貨七百十三枚ですー」 「後でフィルさんに渡しておきますよぅ。すみませんねぇ、私しかいないものですからお届け出来なくてぇ」 デイビットがだらしなく笑うと、グレイスは腕を組んだ。緩い三つ編みが、肩に乗っている。 「まぁいいさ。どうせオレも外に用事があったんだ、ついでにすりゃ楽だからな」 「セイラはお休みしてますからー、静かに行きましょー」 小さな唇に人差し指を当てて、レベッカは湖を指した。巨体の魔物が身を縮め、湖の浅瀬で眠り込んでいる。 グレイスはセイラを見ていたが、再び目線をデイビットに戻した。度のない丸メガネに、幽霊が映り込んだ。 幽霊は、締まりのない笑みを少しだけ消した。いつになく落ち着いた眼差しが、灰色の男を捉えた。 「グリィ。首尾は上々なようですねぇ」 「手駒は揃った。後はそいつらに、オレらの盤上に乗っているって自覚を与えてやるだけだ」 グレイスは片手を広げて挙げ、ぎゅっと手を握ってみせた。うんうん、とデイビットは満足げに頷いた。 「なんともなんとも、いい感じですねぇ。わくわくしますよぅ」 「ああ、オレも楽しみだ。どれだけの絶望を見られるか、考えただけで楽しくなってくらぁ」 グレイスは、古びた城を見上げた。デイビットはするりと身を下げ、グレイスの隣に浮かんで城を見上げた。 レベッカは二人を見比べていたが、つられて同じようにした。西日を浴びた城は、明暗がくっきりと分かれている。 三人は、主のいない城を前にそれぞれの思いを巡らせていた。レベッカは、少々辛そうに眉を下げていた。 グレイスはレベッカの頭に手を乗せ、横目に幽霊を見た。城を見上げる横顔は色がなく、景色が透けていた。 盤上に乗っているのは、自分も同じだ。ただ、少しばかり遊びのある位置付けに立っているだけだ、と思った。 デイビットは、にやりと笑った。今後、ここで起こるであろう展開を想像し、ぞくりとした心地良い快感を感じた。 未練を果たす日は、そう遠くないうちに訪れそうだった。 竜の母と娘が、互いの心を通わせていた頃。 灰色の男とその傀儡と過去の亡霊は、密やかに通じていた。 静かに、穏やかに。陰謀の糸は寄り合わされ、終焉への道標となる。 世界が一つであるように、全ての物事は繋がっているのである。 05 7/4 |