ドラゴンは笑わない




深夜の密会



セイラは、眠れずにいた。


深い闇を、じっと見つめていた。ひやりとした夜風が湖面を走ってきて、風音を立てて耳元を通り過ぎた。
月光と星以外の光はなく、ずしりと厚みのある暗がりが広がっていた。気を抜けば、何も見えなくなってしまう。
地面と草は、夜露で湿っていた。座っていると尻の下が冷たかったが、元々体温が低いので気にはならない。
虫の甲高い鳴き声と、遠くから聞こえる魔物か獣の咆哮以外は聞こえてこず、ひっそりと静まり返っていた。
セイラは首を回し、後方の城を仰いだ。闇に沈んだ城は、深い眠りに落ちているかのようだった。
眠れない理由は解っている。昼間、いやに眠たくなって昼寝をしたら、目覚めたのは夕方過ぎだった。
寝過ぎてしまったせいで、ちっとも眠気は起きなかった。それどころか、頭は妙に冴え冴えとしてしまっている。
瞼を閉じてみたが、すぐに開いた。セイラは半分ほどに欠けた月を映した湖面を、ぼんやりと眺めていた。
不思議と、怖くはなかった。以前であれば、夜の闇は心底恐ろしいものであり、眠ることすら嫌だった。
だが、もう何も恐れるものはない。セイラはぺたんと座り込んでから、頭を反らして城の左側を見上げた。
ここにはフィフィリアンヌがいる。居場所を与えてくれた彼女の傍にいると、怖かったものは全て怖くなくなった。
いや。怖くとも、怖いと思わなくなった。愛してくれる人がいる安心感とは、なんと素晴らしいものだろうか。
セイラは嬉しくなって、笑った。湖面を見下ろすと、それなりに親しげな笑顔の単眼の魔物が映り込んでいた。
ふと、気配がした。セイラは反射的に顔を上げて森の出口を見ると、木々の間から、金の瞳が光っている。
セイラが首をかしげていると、足音を消して影が近寄ってきた。背中の八本足を折り畳み、身を屈めている。
中腰の姿勢で歩いてきた人型のクモは、額の八つの目を瞬きさせた。セイラに向くと、口元に人差し指を当てた。
静かに、ということらしい。セイラが頷くと、真っ黒なクモ男はゆっくりとした足取りで草を踏み分けてきた。
スパイドは三本のツノを生やした単眼の魔物の足元までやってくると、同じようにぺたっと座り込んだ。

「こんばんは、セイラ」

「スパイド、兄サン」

足元に座った次兄に、セイラは表情を綻ばせた。スパイドは人間のような目を細め、にっと笑う。

「良かった、元気そうで。ここんとこ暑かったから、僕、ちょっと心配だったんだ」

「セイラ、暑イノ、平気。ソレヨリ、兄サン、姉サン、ドコ?」

セイラは体を傾げて、スパイドの背後を見下ろした。スパイドは、逆手に王都の方向を指し示す。

「お兄ちゃんとお姉ちゃんはお仕事。お母さんがいなくなっちゃったから、捜しに行ってるの」

「ソッカ。チョット、残念」

背を丸め、セイラは巨体を屈めた。スパイドは、セイラの肩越しにフィフィリアンヌの住まう城を見上げた。
どの窓も固く閉ざされていて、うっすらと月明かりを映していた。スパイドは、全部の目を瞬きさせる。
フィフィリアンヌが眠っているおかげで、竜の気配は落ち着いていた。背筋を逆撫でする恐ろしさも、今はない。
それに安心し、スパイドは肩を落として息を吐いた。恐ろしいものが、そうそうあっては溜まらない。
イノセンタスの屋敷にいるときも、イノセンタスが恐ろしくて仕方なかった。あの男の、底の見えない目が怖い。
決して手を挙げることはしないが、言葉と態度で蔑んでくる。彼は、ジュリア以外は愛してはいないのだ。
自分すらも愛していないような、そんな気さえした。スパイドはイノセンタスの目を思い出し、ぶるりとした。
すると、セイラがスパイドを覗き込んできた。心配げに、大きな金色の単眼を瞬きさせている。

「兄サン、寒イ?」

「ああ、ううん、違うの。大丈夫」

スパイドは、手を横に振ってみせた。セイラは体を起こしたが、まだ多少心配げだった。

「ナラ、イイケド」

震えの感触が残る腕をさすり、スパイドは顔を伏せた。セイラにも、ウルバードとレオーナにも後ろめたかった。
自分だけ、逃げ出してきてしまった。イノセンタスに従うのが嫌で、母であるジュリアを捜すことから逃げた。
もちろん、母の身は心配だ。誰に連れ去られたのかは解らないから、無事でいるか不安で溜まらない。
だが、これ以上、イノセンタスの意のままに動くことは嫌だった。主人は、母であるジュリアただ一人なのだ。
なので、たとえ主人の兄であろうと、イノセンタスは主人ではないので命令権限はない。だから、余計に嫌だった。
主人でもない相手に偉ぶられるのも、逆らうとなじられてしまうのも、納得が出来なかったし不愉快だった。
何度、逆らおうと思ったか解らない。しかし、逆らってはいけない、とゼファードが言うので逆らえなかった。
スパイドは、糸に絡められたような現状に気分が陰鬱になった。逃げたのが解れば、またなじられるだろう。
だが、なんとか生きていかねばならない。生きて、再びあの子に会うのだ。スパイドは、そう思い直した。
セイラは顔を上げたスパイドを、じっと見下ろしていた。金色の瞳同士が合い、互いに異形が映る。

「兄サン、元気、ナイ。本当、平気?」

「うん、平気だよ。だからもう心配しないで、セイラ」

スパイドは無理に笑ってみせた。弱音を吐き出してしまいたかったが、言ったら決意が折れてしまいそうだ。
セイラは納得していないようで、不可解そうにしていた。膜の張った四本指の手を、足の間に下ろした。
巨大な末っ子は、本当に優しい。スパイドはその優しさがありがたかったが、今は少し遠慮しておきたかった。
スパイドは、イノセンタスの元から抜け出して、再度少女と遊びたかった。そのためには、戦わねばならないだろう。
たとえ相手がイノセンタスであろうとも、誰かを傷付けるには、自分の意思を貫くには相応の決意が必要なのだ。
それを、少しでも揺らがせることはしたくなかった。揺らいでしまえば、現状に流されてしまうだろうから。
スパイドは、セイラを見上げた。竜族とはいえ新たな主人を得て自由を手に入れた末っ子が、とても羨ましかった。

「いいなぁ、セイラは。お母さんのお兄さんに怒られることもないしさ」

「ウン、セイラ、幸セ。フィリィ、ギリィ、ゲリィ、デイブ、好キ」

セイラが頷くとスパイドは頭を逸らして、ああいいなぁー、と声を上げた。

「おうちも広いし、でっかい湖があるし、遊んでくれる人が一杯いるしぃ」

「兄サン、遊ベ、ナイ?」

「そうなんだよぅ。お兄ちゃんとお姉ちゃんとゼフィさんは、僕と遊んでくれるんだけどさぁ」

スパイドは、数日前のイノセンタスの屋敷の裏庭を思い出した。夜に遊べるはずが、戦いが起きていた。

「外で遊べるの、夜中だけだし。この間なんか遊ぼうと思ったら、お母さんのお兄さんが誰かと戦ってたしさぁ」

「夜、ダケ?」

首をかしげたセイラに、スパイドはむくれた声を出す。

「そう、夜だけなの。やだなぁもう。本当は、昼間にお外で遊びたいのに出ちゃいけないんだもん」

「ソレ、大変」

「でっしょー? ああでもね、一度だけね、お母さんのお兄さんが出掛けたときにだけはお外に出られたんだ!」

うきうきしながら、スパイドは声を弾ませた。セイラは身を乗り出し、楽しげな兄を見つめる。

「楽シ、カッタ?」

「うん、すっごく。王都からちょっと離れた原っぱでね、川が流れてたの。細いんだけど綺麗だったんだ」

スパイドは、思い出すように目を細めた。あの場所の光景は、何度となく思い出していた。

「広くってね、お屋敷の裏庭なんか目じゃないの。色んな草とか花が一杯生えてて、森が近くって、遠くにはでっかいお城が見えてたかなぁ。でね、そこで遊んでたらちっちゃい女の子が来て、僕と一緒に遊んでくれたんだ。おまけに、友達にもなってくれたんだ。また、一緒に遊ぶ約束もしたんだよ」

「友達?」

「そう、お友達。綺麗な色の髪をした女の子で、このくらいなの」

スパイドは片手を挙げて、自分の肩程まで上げた。立っていれば、腰よりも下辺りとなる位置だ。

「とっても可愛い子で、紺色のひらひらした服を着てたんだ。見た目はまるっきり人間なんだけど、中身は魔導鉱石で出来てるって言ってた。信じられないけどね。追いかけっこもしたしおままごともしたし、一杯遊んだんだぁ。でね、その子の名前はね」

「…レベッカ?」

「そう、レベッカちゃん。セイラ、よく知ってるねぇ」

意外そうにスパイドは目を丸め、首をかしげた。セイラはぎゅっと目を閉じ、脳裏に浮かんだ光景を払拭した。
あれは、幼女の姿をした悪魔だ。躊躇いなく人間の首を切り落とし、返り血の付いた爪先を舐めて笑っていた。
竜神祭の夜に、かつての主達を次々と殺した張本人。フィフィリアンヌを苦しめた、グレイスの手先だ。
セイラは、途端に不安になった。スパイドが、あの人間達のように殺されてしまうかもしれないと思ってしまった。

「兄サン。ソレ、人間、違ウ」

「解ってるよぉ。レベッカちゃんは人間じゃないけど、良い子だよ」

「レベッカ、人、殺ス。グレイス、ノ、道具。ダカラ、近ク、イナイ、方ガ」

「大丈夫だよぅ。やだなぁ、そんなに心配しないでよ」

浮かれ気味のスパイドに、セイラはゆっくりと首を横に振った。自分達が敵でなくても、その主は敵同士だ。
セイラは、フィフィリアンヌやギルディオスの会話の端々から物事を知っている。母の兄は、イノセンタスなのだ。
そしてイノセンタスは、過去にギルディオスを殺し、マークやジュリアを操って、蘇ったギルディオスを攻めてきた。
そんな中、グレイスは実質ギルディオス側に付いている。だから、イノセンタスにとっては邪魔な存在であり敵だ。
主が敵であれば、その手下というべき存在のスパイドやレベッカは、自動的に敵対関係となっているのだ。
スパイドは、それを知らないようだった。セイラは、次兄の行く末が本気で不安になり、小さく唸った。

「デモ、兄サン」

スパイドは手を伸ばし、セイラの指先に触れた。厚く硬い爬虫類の皮膚に、甲虫の如き黒い手が乗せられた。
セイラの心配は、痛いほど解る。レベッカは人でない存在だ。何かあるかもしれない、と心配するのは当然だ。
スパイドはセイラの巨大な手を撫でながら、大丈夫、と繰り返した。がしゃり、と背中の八本足を曲げる。

「僕ね、本当に嬉しかったんだ。お友達だーって言われて。だから、何があっても平気だよ。それにさセイラ、僕らは他人から裏切られたのなんて一度や二度じゃないもん。だから、また裏切られたって、別に」

スパイドは、苦しげに声を落とした。闇の中、黒いクモは項垂れる。

「慣れっこだもん」

「兄サン…」

セイラは、直感的に兄の言葉を嘘だと察した。裏切られることは、何度経験しても心苦しい。
僅かでも信じた相手から、僅かでも心を許そうと思った相手から、切り捨てられてしまうことは辛かった。
スパイドが、レベッカを信じたい気持ちも解る。友人だと認めてくれた相手を、友人として思っていたい。
だが、彼女は人でも生き物でもない。無機物から造られた傀儡、グレイスの忠実なる下僕であり道具に過ぎない。
セイラは、兄のようにはレベッカを信じられなかった。グレイスに言われて、スパイドに取り入ったのかもしれない。
その可能性は、全くないわけではない。セイラはそれを言おうかと思ったが、どうしても言うことは出来なかった。
先程のスパイドは、言葉通り本当に嬉しそうだった。それにこれ以上水を差すのも、いけないような気がしていた。
もしも、レベッカがスパイドのように、スパイドを友人だと思っていたら。そうあってほしい、とセイラは思った。
希望であり理想に過ぎないが、思うだけなら構わないだろう、とセイラは兄を見下ろしながら考えていた。
ふと、スパイドは顔を上げた。素早く立ち上がると森の出口へ振り返り、少し驚いたように身を下げた。
セイラも同じ方向を見ると、二つの影が立っていた。一歩踏み出てきた有翼の影は、険しい目をしていた。

「ここにいたか、スパイド」

「…お兄ちゃん」

二歩三歩ずり下がったスパイドは、肩を縮めた。有翼の人狼、ウルバードの影から獅子の女が顔を出す。

「あんたの行くところなんて、他にないもんね。それに、お兄ちゃんの鼻からは逃げられないよ」

レオーナを従えて、ウルバードは静かに歩み寄ってきた。セイラを見上げ、人狼は少し表情を柔らかくさせた。
だが、すぐに目元を強めて弟を見下ろした。スパイドはじりじりと後退し、どん、とセイラに背を当てた。
セイラは、心配げに兄弟を見ていた。ウルバードはスパイドの目の前に鼻先を突き出し、唸るように言う。

「一度ならず二度も逃げ出しやがって。お前は、母さんが心配じゃないのか」

「心配だよ、でも」

泣き出しそうな声で呟き、スパイドは俯いた。ぐいっとその顔を上げさせ、ウルバードは目を合わせた。

「でも、なんなんだ」

ひくっ、とスパイドは小さくしゃくり上げた。首を縮めて肩を震わせ、背中の足を丸めて体を覆おうとする。
ウルバードは、額と顔の目から涙が出たのを見て手を外した。スパイドは座り込むと、目元を拭う。
しゃがんだウルバードは、スパイドと目線を合わせた。泣きじゃくる弟の頭に、大きな獣の手を乗せる。

「泣くんじゃない。そうやって泣かれたら、お前が何を言いたいのかよく解らないじゃないか」

「ごめん、なさい」

手の甲で目元を押さえていたが、スパイドは目を上げた。ん、とウルバードは頷く。

「悪いと思ってるなら、それでいい。だが、何も言わないで行くことはないだろう。本気で心配したぞ」

「そうそう。あたしらは見た目が物騒なんだから、下手に出歩くと危ないんだからね」

兄の隣に屈んだレオーナは、こん、とスパイドの頭を小突いた。うん、とスパイドは申し訳なさそうに頷いた。
ウルバードはスパイドが泣き止むまで待ってから、セイラを見上げた。毛に覆われた口元を上げ、笑う。

「元気してたか、セイラ」

「兄サン、達モ」

セイラは単眼を細め、笑んだ。ウルバードはセイラの単眼を見つめ、寂しげな口調になった。

「また、お前と一緒に暮らせたらいいんだがなぁ。だがもう、お前はあの竜の女の持ち物だから無理だろうな」

「違ウ。フィリィ、友達」

「ああ、すまん。そうだったな」

ウルバードは、セイラの背後の城を見上げた。重たい闇に包まれた城は、物音ひとつさせずに居座っている。
ここには、母はいないようだった。ジュリアの気配があれば感覚で解るし、何より匂いが残っているはずだ。
だが、ここには何もない。無駄足だったな、と思うと同時に、残る場所はただ一つだと思っていた。
王都の中は、レオーナと二人で徹底的に捜した。王都周辺も、魔物や獣達を手懐けて一通りは捜し回った。
しかし、そのどこにもジュリアはいない。念のため王宮にも近付いてみたが、母の気配は感じられなかった。
となればジュリアがいる可能性がある場所は、残るはフィフィリアンヌの城か、あの男の城だけとなった。
だが、ここにも母はいない。とすれば、残る場所はただ一つだけだ。ウルバードは、独り言のように呟いた。

「グレイス・ルーの城に、行ってみるか」

セイラは、思い切り目を見開いた。がばっと身を乗り出し、声を張り上げる。

「アレハ、イケナイ! アレハ、凄ク、悪イ! 兄サン、姉サン、行ッチャ、イケナイ!」

「セイラ。あんた、グレイス・ルーを知っているのか?」

訝しげなレオーナに、セイラは顔を逸らした。歪められた口元から、鋭い牙が垣間見えている。

「アレハ…フィリィ、ギリィ、傷、付ケタ。キット、何カ、アル」

「何か、か」

ウルバードは、ふっと笑った。金色の鋭い瞳を上げ、今にも泣き出してしまいそうな末っ子を見上げる。

「そんなもの、最初から解っている。イノセンタスに王都へ引っ張り出されたときから、オレなりに覚悟は決めているつもりだ。だが、このまま動かずにあの男の手の上にいるのも癪なんだ。見ての通りスパイドは逃げ出しちまいそうだし、レオーナも辛くないはずがない。考えようによっちゃ、これは好機なんだ。イノセンタスの造った盤の上から、逃げ出せる機会かもしれないんだ」

ぎゅっと口元を締めたセイラを、ウルバードは落ち着けるように撫でた。

「ゼフィさんから聞いたんだが、セイラは、竜神祭とやらで竜の女を守ったそうじゃないか。偉いぞ。そのおかげで、あの鎧の男が戦って、お前や竜の女は生き長らえている。オレは、セイラのしたことと同じことをしたいんだ。今までオレは、母さんがイノセンタスに操られてもろくろく何も出来なかった上に、レオーナとスパイドを抜け出させることも出来なかった。だから、いい加減になんとかしなきゃならん」

ウルバードは、にやりと笑った。オオカミの顔に、兄らしい表情が浮かぶ。

「少しはオレも、兄貴らしくしたいもんでね」

「あたしもお兄ちゃんと同じ意見だよ。お母さんを助けても、このままじゃどうしようもないしね」

セイラの目の前に立ち、レオーナはにんまりとした。ぱしん、と手のひらに布を巻いた拳をぶつける。

「なぁに。ちょっとぐらいやられたって、そう簡単には死にゃあしないって。また会いに来るからさ」

「うん、僕もお兄ちゃんに付き合う」

涙を全て拭ってから、スパイドは立ち上がった。兄達の後ろから、セイラを見上げる。

「大丈夫大丈夫。お兄ちゃん達はね、セイラよりもずっとそういうのに慣れてるから」

不安げなセイラに、スパイドは笑った。これ以上心配を掛けては、末っ子はきっと泣いてしまう。
グレイス・ルー。それは、レベッカが主と言った男の住まう城だ。すなわちそこには、レベッカがいるはずだ。
そして、グレイス・ルーは母を攫った男だ。つまり、グレイス側にいるレベッカは、敵ということになる。
生まれて初めての友達。恐れずにいてくれた幼女。人ならざる彼女を打ち据える様子が、頭を過ぎっていった。
たとえ、レベッカが敵となろうとも。今までのように、何も考えずに戦っていけば終わってしまうはずだ。
スパイドは、そっと手を握った。だが、この拳となる手は彼女の手を取った。共に花を摘み、遊んだ手だ。
果たして、戦えるのか。だが相手は、母を攫った男の手下だ。戦わなければ、ジュリアを救い出すことは出来ない。
スパイドはぐっと拳を握り締めていたが、胸に強い痛みを感じた。だが、それを押さえ込み、セイラに背を向けた。
兄と姉は、セイラに手を振ってから森へと歩き出していた。その背を、スパイドは慌てて追いかけていった。
森の中へ消えた三つの影を、セイラはずっと目で追っていた。だがそのうち、木々の間からも見えなくなった。
彼らの足音は、すぐに消えた。草を踏む音も枝を折る音も聞こえなくなり、いつしか匂いも風で掻き消えていった。
セイラは腰を上げたが、また下ろした。どうせ、追いかけたところで、何も出来やしないし追いつけるはずもない。
ウルバードの判断が正しいのかどうか、不安で仕方がなかった。確かに、イノセンタスの手中からは動けるだろう。
だが、その先がグレイスの城とは。グレイスは、兄達をおびき寄せるためにジュリアを攫ったのかもしれない。
大方、そうなのだろう。そして罠に填めて、今度はあちら側の手駒にするつもりなのだ、とセイラは考えていた。
兄達の会話をなぞるように思い出していたが、違和感を感じた。なぜ、ウルバードが竜神祭の話を知っている。
そして、誰が竜神祭の話をしたと言っていた。ゼフィ、など、今まで聞いたことのない名前だった。
いや。似た語感の名を持つ者は、一人だけ知っている。竜神祭の戦いの生き残りであり、かつての主の一人。

「ゼファー、ド、サイザン」

セイラは、虚空を見つめた。なぜ、ここで符合する。なぜ、ゼファードがイノセンタスと関わっている。
彼は、ギルディオスに生かされた男だ。王都にいても不思議ではないが、イノセンタスに関わる理由が見えない。
セイラは、必死にゼファードの記憶を呼び起こした。だが、あの男は、ほとんど前面に出てこなかった。
常にバロニスやシルフィーナ、エリスティーンなどによって後ろへ追いやられていた。あまり、印象がない。
更に記憶を探り、過去を辿った。魔導師達にいたぶられた記憶ばかりが過ぎったが、それを堪えながら続けた。
戦いの日々。魔物を屠り、血濡れた手が恐ろしくなった瞬間。人を殺した感触。そして、彼らに買われた日。
ああそうだ、これが私達の新たな前衛だ。都合が良いわね、ついでに後衛も手に入ったわ。ほらいらっしゃい。
バロニスとシルフィーナが会話する。セイラが彼らの前に晒された後に、エリスティーンが手招いてきたのは。
修道士か、なら都合が良いな。そうだな、エリスティーンの回復魔法だけじゃ頼りなくてどうしようもないもんな。
ナヴァロとランドが笑い合い、その男は曖昧な笑顔になっていた。修道服の首元には、真新しいロザリオが。
まるで、セイラを追ってきたかのように、買われたその日に現れた。いや、本当に追ってきたのかもしれない。
だとすれば。彼は、一体何者なのだ。セイラを追い、兄弟達には優しくし、その上でイノセンタスに付く。
セイラは、ゼファードの目的や母やイノセンタスとの関わりを必死に考えたが、少しも想像が出来なかった。

「何ガ」

彼は、人造魔物にとって一体何なのだ。そして、ジュリアやイノセンタスにとって、どういう存在なのだ。
セイラは思考を巡らせていたが、結論は出ず、次第に眠気が襲ってきた。厚い瞼が、自然に下がってきた。
兄弟と会って、気が緩んだのだろう。セイラは立ち上がり、足を引きずるようにしながら玄関脇に向かった。
地面に横たわって太い尾を抱き、目を閉じた。とろりとまどろんだかと思うと、すぐに深く寝入っていた。
巨体の魔物が熟睡した頃、するりと白い影が降りてきた。小柄で貧弱な男の幽霊は、魔物の寝顔を見つめる。
口元に手を添え、ごく小さな声で呟いた。虫の羽音にさえ掻き消されてしまいそうな、僅かな音だった。

「いいところに気付きましたねぇ、セイラ。ですが彼も、所詮は手駒なのですよぅ」

デイビットは闇に身を沈め、くすくす笑った。

「さあて、どうなりますかねぇ。大体は、思った通りに運んできましたがねぇ」

半月を見上げた幽霊は、目を細めた。

「なんともなんとも。楽しみですねぇ」

弱い月光の下、デイビットは穏やかな気分でいた。彼があの男を引きずり出せば、今回のことは終わるだろう。
それこそ、何よりの未練だ。長年、気になっていたことが成し得ているかどうか、ちゃんと確認したかった。
だが、それを確認してしまえば、未練は消えてしまう。この世に現存するための理由が、なくなってしまう。
デイビットは城を見上げ、ちょっと眉を下げた。未練を果たしてしまいたいが、彼と別れるのは辛い。
すみませんねぇ伯爵さん、と、デイビットは申し訳なさそうに呟いた。再び夜空を見上げ、星の運河を眺めた。
自分はあの星のどれかになるのだろうか、と、幽霊は想像を巡らせていた。




夜が明けた頃。重たい鉛色の空を、ゼファードは見上げていた。
イノセンタスの屋敷の、自室の窓から、分厚い雲の隙間を探すように見つめていた。雨が、降り出しそうだ。
夜が明けても、人造魔物の兄妹は帰ってこなかった。夜が明ける前に戻って来い、と言っておいたはずなのに。
カーテンを握り締める手に、自然と力が籠もる。やはりあの男が、この屋敷からジュリアを攫っていったのだ。
そして、あの子達はそれに気付いた。誘われるがまま灰色の城へと進み、ジュリア共々捉えられてしまったのだ。
ごっ、とゼファードは額を窓にぶつけた。なぜ、あちらに行ってしまう。こちらには、最低限の安全はあるのに。
わざわざ危険に身を投じて、無事でいられるはずがないだろうに。ゼファードは、居たたまれなくなっていた。
ランプも灯さずに荷物を探り、魔法の杖と薬の詰まったカバンを手にした。本来、魔法よりもこちらが得意だ。
従者としての服を脱ぎかけ、一瞬、手を止めた。だがすぐに脱ぎ捨てて、久々に取り出した白衣を羽織った。
ここしばらくで伸びてしまった髪を引っ詰めながら、窓に映る自分を見た。やはり、この服の方が落ち着く。
修道服や従者としての格好は、自分ではないような気がして違和感があった。慣れた格好の方が、しっくり来る。
カバンと杖を担いで、勢い良く扉を開けた。廊下には、窓際に寄り掛かった藍色の影がゼファードを待っていた。
イノセンタスは、腕を組んでいた。ゼファードは表情を固めていたが、イノセンタスの表情はどこか寂しげだった。
壁から背を外すと、ふわりとマントが揺れた。イノセンタスは背を向けていたが、ぽつりと呟いた。

「私には、君を止める理由はない」

ゼファードはぐっと唇を締め、イノセンタスに背を向けた。数歩ばかり歩いたが、途中で振り返った。

「私は、あなたに感謝しています。イノセンタス様がいなければ、あの子を助けることは出来なかったでしょう」

こつり、と背後でイノセンタスの足音が止まった。ですが、とゼファードは語気を強める。

「それとこれとは別です! 教授を弄んで、あの子達を苦しめて、一体何が楽しいんですか!」

怒りに満ちた白衣の背を、イノセンタスはちらりと見た。そして、少々掠れた声で言った。

「そうか。君は、ジュリアを」

「ええ、尊敬しています。教授は己の過ちを正すために自分に掛けた呪いを解いて、過去と向き合っていました」

ゼファードは、目を伏せた。廊下の窓が、ぽつぽつと小さな水滴に叩かれ始め、次第にばらばらと鳴った。

「教授は、常々言っていましたよ。イノセンタス様、あなたが哀れだと」

失礼します、と言ってから、ゼファードは静かに歩いていった。足音が消えてから、イノセンタスは振り向いた。
白衣の後ろ姿は、もう見えなかった。イノセンタスは、開いたままだったゼファードの部屋の扉を閉めた。
その音は、いやに廊下に響いた。広い屋敷は雨音に包まれていたが、家の中はひっそりと静寂していた。
まるで自分のようだ、とイノセンタスは思っていた。外側ばかりを固めたせいで、内側が空虚になっている。
雨音を聞いていると、不意に泣きたい衝動が起こっていた。幼い日の出来事を、無意識に重ねていた。
死んだはずの、父と母の声が聞こえる。外へは出るな、本を読め、魔法を覚えろ、それがヴァトラスなのだ。
日の光の中で駆け回る弟が、窓から見えていた。幼い妹を連れて、屋敷から出ていく姿をいつも見ていた。
それが、羨ましかった。日に日に逞しくなる弟が、父親に逆らえるほど気の強い弟が、妬ましくもなった。
イノセンタスは窓に手を当て、外を眺めてみた。裏庭は、昔からあまり代わり映えはしていない。
そこに、弟はいない。鏡写しの片割れは、自分が殺してしまった。羨ましくて、妬ましくて、そして憎かったからだ。
ぎゅっと手を握り、イノセンタスは奥歯を噛み締めた。甥に言われた言葉が、痛烈に心中へ突き刺さっていた。
深淵へは、一人でなど堕ちはしない。ジュリアを引きずり込んで、同じ世界で愛する妹と生き続けるのだ。
冷たい窓に額を押し当てて、目を伏せた。この屋敷から出たら、暗き深淵から抜け出てしまいそうな気がした。
弟は、詫びれば罪を許しはしないが認めはするだろう。妹は、泣いて怒って、そして更に泣くのだろう。
ならば、父と母は。きっと、褒めるのだろう。穢れた忌まわしい息子を殺してくれた、と褒めてくれるはずだ。
それが、ヴァトラスだ。力なきを忌み、力ありし者を誇る。誇り高き魔導師の一族は、そうあるべきなのだ。
だが、その通りに生きてきて、果たして自分は幸せだったのだろうか。イノセンタスは、窓を見つめた。
弟と良く似た、弟とはまるで違う男が映っている。ギルディオスとは違い、めっきり表情が減ってしまった。
その顔を、外から雨粒が殴っていた。次第に激しくなってきた雨は窓を伝い、縦に筋を付けながら滴っている。
イノセンタスは、思考した。恐らく、ジュリアはグレイスの城にいる。ゼファードは、人造魔物達と妹を救いに行った。
その後、グレイスはどう動くのか。こちら側の手駒を掻き集めて、一体何をしようというのだろうか。
イノセンタスは、ぐっと拳を握った。手元から駒のなくなった指し手は、自分で動くしかない。

「出ろと言うのか」

この屋敷から。深淵の底から。そして、己の世界から。灰色の男から、誘い出されているのは明白だ。
イノセンタスは僅かな恐怖を感じてはいたが、打ち消した。今更、何を恐れる必要があるというのだ。
弟を殺した。妹を愛した。竜を殺し、人の世界を成すようにさせてきた。罪など、既に積み重ねている。
窓に背を向けて、薄暗い廊下を歩き出した。迎えに行ってやろう。ジュリアを、我が手に取り戻すために。
解け始めてきた暗示を更に強めて、こちらを見させてやる。体を重ね、優れた血を持つ子を成してやる。
藍色を翻しながら廊下を進み、階段を下りた。正面玄関の前に立って指を弾き、ばん、と扉を大きく開かせた。
すると、風雨が吹き込んできた。夏だというのにそれはいやに冷たく、ばらばらと肩を叩いてくる。
鉛色の下に歩み出たイノセンタスは、笑った。あちらに奪われたなら、取り戻すまでだ。
外の世界は、霧と雨に包まれていた。




駒は動く。盤上を、指し手の意図のままに。
こうして、長きに渡る物語の終焉は、雨と共に始まることとなった。
様々な情念の絡んだ糸は、一本の筋となる。

行く末を知るのは、手駒の指し手のみである。





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