ドラゴンは笑わない




黒い雨 前



その日は、雨が降っていた。


開け放された門と跳ね橋の先に、灰色の影が見えていた。奧に見える城の中心部、居館は少し霞んでいた。
色のない、冷たい世界のようだった。走るうちにすっかり濡れた体は重く、足取りは鈍っていた。
呼吸を落ち着けながら、杖とカバンを固く握り締めて歩いた。気力だけで、足跡を引き摺りながら前進する。
門に辿り着き、手を付いた。ひやりとした石の壁に縋っていたが、顔を拭ってから灰色の城を睨んだ。
ここに、あの人とあの子達がいる。それを助けなければならない。その一念が、白衣の男を立たせていた。
白衣の男が睨む先に、灰色の男はいた。頭から被った灰色の外套を少し上げ、雨粒の跳ねた丸メガネを拭う。
灰色の隣に、黒く長い外套を被せられた彼女が座らされている。その表情は、俯いていて見えなかった。
ゼファードは、その名を呼ぼうとして息を飲んだ。色のないはずの世界に、黒ずんだ赤が広がっていた。
目線を下げ、焦点を手前に結ぶ。グレイスとジュリアの前に、城と門の間に、巨大な魔法陣が描かれていた。
その中に。片翼を折られた人狼が、土を握り締めている。腕を貫かれたのか、茶色い体毛が赤く染まっている。
彼の血溜まりから遠くない場所で、獅子の女が倒れていた。足と背中に深い傷が走っており、血にまみれている。
一人だけ無傷のクモ男が、腰を抜かしていた。がちがちと震えているせいで、背中の八本足が僅かに揺れている。
返り血をたっぷり吸ったため、赤黒く染まった白いエプロンを付けた幼女が、倒れた魔物達を見下ろしている。
一体、何があったというのだ。人造魔物達を助けようとゼファードが駆け出すと、グレイスが片手を挙げた。

「そう急ぐな。近付いたら吹っ飛ぶぜ」

ゼファードは、グレイスを睨んだ。細身の杖を握り締めたゼファードを見、グレイスはフードを上げた。
外套の襟元から緩く編んだ三つ編みを引き出し、肩に乗せた。子供のような、とても楽しげな笑みを浮かべる。

「そいつらのいる場所には、ちょいと仕掛けがしてあってな。防御壁に触れば、雷撃が走るようになってるのさ」

そう言いながら、グレイスは足元から石を拾った。軽く振りかぶり、魔法陣へ向けて投げ付けた。
小さな石が魔法陣に入った直後、激しい閃光が辺りを照らした。石は消え失せ、薄い煙だけが立ち上る。
ほらな、とグレイスは両手を上向ける。恍惚とした表情で、うっとりとしているようにすら見えた。

「そんなわけだから、入れないし出られないのさ。ああもう楽しいねぇ、ぞくぞくするぜぇ」

ゼファードはその表情に恐怖を感じたが、なんとか震えを押さえた。再び、魔法陣の中へ視線を戻した。
十個の目を全て見開いたスパイドが、座り込んでいる。その目が見る先には、場違いなものが立っていた。
メイド服姿の幼女。極彩色の濃い桃色の髪が頭の両脇でバネ状に巻いてあり、それが軽く上下に揺れた。
目の大きな、可愛らしい子供だった。にこにこと機嫌の良さそうな笑顔で、血に濡れた指先を舐めた。

「うふふ」

血溜まりの残る地面に立った幼女は、一歩、スパイドに歩み寄った。背中には、魔導鉱石の翼が生えている。
ぐっと腕に力が込められ、指先の皮が破れた。鋭く巨大な爪がずるりと生え、小さな手に武器が備わった。
笑みを崩さないまま、幼女はしゃりんと爪先を擦らせた。レベッカは、スパイドに微笑みかける。


「遊びましょー?」


わなわなと震えるスパイドの姿に、グレイスは心地良い快感を感じた。沸き起こってくる笑みが、押さえられない。
最高だった。勝てない相手であるレベッカに、何度倒されても挑むウルバードやレオーナも良かった。
だが、見る分にはレベッカの友となったスパイドが一番素晴らしい。衝撃の度合いも、次兄が一番強いようだ。
グレイスは身を屈め、項垂れているジュリアの顔を上げさせた。恐れおののいている彼女に、囁く。

「綺麗な血の色じゃねぇか。さすがはあんたの血が混じった魔物だ、いい赤をしてるぜ」

「…や」

涙を滲ませた目を、ジュリアはグレイスに向けた。グレイスは、首を横に振る。

「やめられねぇんだなぁ、これが。誰か一人が勝ち残るまで、防御壁が消えないようにしてあるから」

グレイスは目を逸らそうとするジュリアを、真正面に向けさせた。頬に手を当て、目を開かせる。

「良い子達じゃねぇか。あんたを助けに来てくれたんだろ、ちゃんと出迎えてやらなきゃあ可哀想じゃないか。ほら、あんたの助手も来てくれてるぞ」

「グレイス! 教授から手を放せ!」

カバンを足元に置き、ゼファードは杖を地面に突き立てた。雨を吸い込んだ土に、二重の円が描かれる。
魔法文字を描き始めたゼファードに、ジュリアは声を上げた。力のない、弱り切った叫びだった。

「ダメよゼフィ! あなたでは、この男には勝てない!」

「しかし!」

がりっ、と杖の先を土に埋め、ゼファードは悔しげに表情を歪めた。怯えたスパイドが、身を縮めている。

「戦わなければ、あなたを救えません! この子達も、早く治してあげなければ命に触ります!」

「そうだ、そうなんだよなぁ。放っておいたら、いくら魔物でも死ぬ傷を与えたのさ。だが、ジュリアの言う通りだぜ?」

グレイスはジュリアの頭に顔を寄せ、にんまりとした。丸メガネの奧で、灰色の瞳が笑む。

「ゼファード・サイザン。あんたは、学者や医者としては一流かもしれねぇけど、魔導師としては三流以下なんだよ。だから、あんたが戦ったところで勝ち目なんて欠片もねぇ。死体が一つ増えるだけさ」

ゼファードは、悔しさと恐ろしさで震える拳を握り締めた。そんなことは、最初から解り切っている。
だが、ここで戦わなければ、確実にウルバードとレオーナが死んでしまう。あの出血量は、魔物でも危険だ。
早く止血して回復魔法を施し、薬を与えてやらねばならない。焦りそうな心を静め、ゼファードは叫ぶ。

「それでも、私は!」


「一つだけ、早々に事態を解決する方法がある」

グレイスの手が上がった。指先が、スパイドに向かう。

「スパイド。お前がレベッカちゃんを倒せば、兄貴と姉貴は生き延びるし、ジュリアも解放してやるぜ?」


グレイスの指先を、スパイドは呆然と見ていた。雨粒が頭上で爆ぜ、半球体の防御壁に触れて蒸発している。
魔法陣の内側だけ、雨に濡れてはいなかった。だがその代わりに、兄や姉の血が赤黒い水溜まりを作っていた。
がしゃり、と背中の八本足を下げた。緊張と恐怖でずきずきする頭を回し、レベッカの背後を覗き見てみた。
ゼファードが、やりきれない顔をしている。再びグレイスの方を見ると、ジュリアは悔しげに肩を怒らせている。
兄と姉の血臭が、辺りに立ち込めていた。スパイドは、虚ろとなったウルバードの金色の瞳を見下ろす。
そして、俯せに倒れているレオーナを見た。ぐにゃりと脱力していて、細い尾の先さえも動く気配がなかった。

「ぼくは」

このままでは、皆が死んでしまう。ウルバードやレオーナだけでなく、ジュリアやゼファードまでもが。
スパイドは力の入らない足をなんとか上げ、立ち上がった。多少震えている膝を叩き、背筋を伸ばした。
背中の八本足を広げ、呼吸を落ち着けていた。額と顔の十個の目が動き、足元で笑う幼女に向けられた。
スパイドは、この状況に至るまでの出来事を回想していた。昨日の深夜、この城に三人で辿り着いたのだ。
城へ一歩踏み込んだ途端、記憶が失せた。目が覚めたら、兄妹と共に、レベッカが魔法陣の中にいた。
グレイスがジュリアを傍らに置いていて、戦わないとこの女は死ぬぜ、と上機嫌に笑いながら言った。
そしてグレイスの言われた通り、三人はレベッカと戦った。しかしまるで歯が立たず、いいようにやられた。
気付いたら、兄と姉は負けていた。自分よりも遥かに腕の立つ二人が倒れている姿が、信じられなかった。
ろくに戦えなかったへの憤りを感じながら、スパイドはレベッカを睨んだ。兄と姉を傷付けた、憎むべき敵だ。
レベッカは、スパイドを見上げて笑っている。あの日の表情と変わらぬ、無邪気な子供の笑顔だった。

「わたしはいつでもいいですよー? 待ってますからー」

青紫の瞳が、にやりと細められた。爪先が上がり、スパイドの顎の下に差し出される。

「でもー、早くしないとー、みーんな死んじゃいますよー?」

スパイドは、目の前の青紫の爪を見つめた。

「うん。解ってる」

「じゃあー、さっさと始めましょーかー」

「レベッカちゃん」

スパイドはレベッカから目を逸らしたくなったが、なんとか堪える。

「君は、僕の友達なんだよね?」

「はいー。わたしは、スパイドのお友達ですー」

爪を下げたレベッカは、少し首をかしげてみせる。スパイドは呟いた。

「それ、嘘じゃない?」

「はいー。御主人様はいーっぱい嘘を吐きますけどー、わたしはあんまり吐きませんー」

首を戻したレベッカは、スパイドに笑う。スパイドは、そっか、と少しだけ嬉しそうな声を出した。

「それじゃあ、また、僕と遊んでくれる?」

べきり、とスパイドの指の関節が鳴った。震える手に力を込めて、腕から太い毒針をずるりと押し出した。
泣きたかった。逃げたかった。戦いたくなんてなかった。初めて出来た大事な友達を、傷付けたくはなかった。
だが、ここで逃げたら終わってしまう。それ以前に、逃げ出そうとしても出来ない場所に立っているのだ。
スパイドは、ぱきりと覆面のような口元を開いた。喉元へ粘ついた糸を迫り上げながら、感情を押し殺した。
後で、思い切り泣けばいい。溢れ出してきそうな涙を堪えながら、スパイドは強く地面を蹴り上げた。

「ごめんね!」

レベッカの頭上に躍り出た黒い影は、背を丸めて頭を突き出した。ひゅっ、と風が切られ、粘液が広がる。
巨大なクモの巣がレベッカを包むように広がり、糸の端が地面に繋がる。だが、すぐに青紫の爪で切られた。
くるりと一回転したメイド姿の幼女は、背後に飛び降りたクモの男に向き直る。直後、スパイドは跳ねた。
真下から突き出された巨大な爪を受け止めて、するりとレベッカの懐に入る。腕を振り上げ、毒針を伸ばした。
それを小さな胸へ突き立てようとした瞬間、振り上げた腕が痛んだ。青紫の巨大な爪が、黒い装甲を割っている。
赤い血が、ついっと滴ってきた。レベッカはもう一方の手の爪を、べきり、とスパイドの腕にめり込ませる。

「あなたもー、血の色は赤いんですねー」

「僕は、お母さんの子だもん。人の子だもん!」

苦しげな声を絞り出し、スパイドはレベッカの胸元をがしっと掴んだ。幼女に顔を寄せ、覆面の口元を開く。
のしかかるように、レベッカの唇を塞いだ。ごぼっ、と毒液を迫り上げたスパイドは、それを全て注ぎ込んだ。
顔を放すと、レベッカは爪を引き離して身を下げた。嫌な色の煙を口から漏らしていたが、咳き込んだ。
割られた装甲を手で押さえ、スパイドはレベッカとの間隔を広げた。幼女は、体を折り曲げてむせた。
ばちゃべちゃっ、と足元に毒液が吐き出された。胸を押さえたレベッカは、苦しげに眉根を歪めている。

「ちょっとは、やりますねー」

「やだなぁ、効かないんだ。人間だったら、それで腹が溶けちゃうんだけどね」

スパイドは口元を拭い、レベッカを見下ろす。幼女はにこっと微笑み、片手の爪を高く掲げる。

「ええ、あんまり効かないんですー。でもってー、わたしだったらこーしますー」

青紫の巨大な爪が、内側から色を変えていった。どす黒く艶やかな色となった爪を、しゃりんと擦り合わせる。
レベッカは黒くなった両手の爪を振り下ろし、スパイドへ向ける。にやりとした表情が、目元に浮かぶ。

「さあてー。これで、もうあなたの毒は効きませんー。馴染ませちゃったので、もうなんでもありませんー」

「やだなぁもう、なんてことするんだよ」

スパイドは、にじり寄ってくる幼女から身を下げた。もう数歩下がろうとしたが、背後には防御壁が迫っている。
ばちり、と背中の足の一本が触れた。焼け焦げてしまった足を下げてから、スパイドは右腕から手を外す。
口元に手を添えて、照準を定める。迫り上げてきた粘液を喉で絞り、細く長いものが出るようにする。
一歩、レベッカが踏み出した。スパイドは背を曲げると、勢いを付けて粘液の糸を吹き出した。
レベッカはそれを切ろうとしたが、振り上げた小さな腕に糸が巻き付いた。もう一方も、同じく糸が巻き付く。
ぱちん、と口元を閉じて糸を切ったスパイドは、糸の根元を握って引こうとした。が、逆に引っ張られた。
どん、と地面を蹴り上げたレベッカは高く跳ね上がり、緩んだ糸ごとスパイドを持ち上げる。両腕を、くるりと捻る。
身を翻し、レベッカは落下した。その反動と勢いで、スパイドは軽々と防御壁の天井付近まで持ち上げられた。
振り飛ばされてしまったスパイドは、真下に幼女の姿を見た。いつまにか、レベッカとの上下が逆転している。
両腕の糸を切ってスパイドに投げ付けたレベッカは、とん、と着地した。頭上には、黒い姿が貼り付いた。

「あぐあぁあああっ!」

次の瞬間、スパイドは強烈な雷撃に襲われていた。防御壁に背を埋めたクモ男の手足に、べちゃりと糸が絡まる。
自身の糸で縛り付けられたスパイドは、がくがくと体を震わせていた。全身を、強烈な過電流が駆け抜けていく。
背中どころか腕も足も焼けただれ、右腕の傷口からはだくだくと血が落ちる。糸を切りたくとも、手が動かない。
喉の奧から叫びを絞り出しながら、スパイドは必死に体に力を込めた。徐々に、糸が電流で焼けてきている。
次第に糸が焼け、自重で緩んできている。スパイドは背中に渾身の力を込め、がしゃっ、と八本足を広げた。
防御壁を突き抜けた八本足は、激しい電流を伝わせてきた。だがその直後、体を戒めていた糸が引き千切れる。
鈍い音を立て、スパイドは地面に叩き付けられた。着地しようと思っても、足が動いてくれなかった。
電流の痺れと焼け付く痛みが、感覚を支配していた。視界も少々霞んでいて、レベッカの姿が良く見えない。
ぜいぜいと荒く息を吐きながら、スパイドは膝を起こした。戦わなければ、勝たなければ兄と姉は死ぬ。
目を強めてレベッカを見据えると、幼女は笑っていなかった。どこか辛そうな目で、スパイドを見上げていた。
スパイドは、薄く煙の出ている体を起こした。ゆらりと立ち上がり、レベッカを見下ろした。

「まだだよ」

スパイドは、痺れの残る手を握り締める。

「まだ、終わっちゃいないんだからね!」

レベッカは、そっと唇を噛んだ。グレイス以外の者に口付けをされたのは、スパイドが初めてだった。
渋く刺激のある毒の味が、まだ残っていた。全身に回した彼の毒が、異物感と共に軽い痛みを生んでいた。
体の痛みではない。胸に納めた魔導鉱石が、疼くような感覚。苦しいような辛いような、悲しいような感情だった。
痛め付けられながらも、スパイドは敵意と闘志を漲らせている。彼は、友達だからこそレベッカを許せないのだ。
ずしゃっ、とスパイドが左足を引きずりながら踏み出した。恐らく、落下したときに捻りでもしたのだろう。
レベッカは、少しぼんやりしていた。どごん、と衝撃を感じて意識を戻すと、スパイドの拳が腹を抉っている。
血と土に汚れた黒い拳が、深々と白いエプロンを付けた腹に埋まっていた。すると、腕から毒針が伸ばされた。
太い針は、拳のすぐ下を貫いた。内側から染み出してくる毒が、レベッカの腹とエプロンに染み渡ってきた。

「どうしたの」

スパイドの左手が、幼女の細い首を固く締める。

「まだ遊ぶって言ったでしょ!」

半開きになったレベッカの口元を、スパイドが強引に塞ぐ。毒を注ぎ込んでいたが、幼女を放して身を下げた。
苦しげに咳き込みながら、曲がりそうな膝を立てている。その後ろ姿を、ゼファードは目を見開いて見つめた。
スパイドは、自分の毒にやられてきている。彼の出す毒は溶解液と同系統だから、あまり使うと喉が焼ける。
先程、レベッカに注ぎ込んだ量は相当なものだったのだろう。まだ二回目なのに、かなり辛そうだ。
居たたまれなくなり、ゼファードは魔法陣の傍まで駆け寄った。ばちゃり、と水溜まりを蹴散らして叫ぶ。

「もうやめるんだ、スパイド! それ以上は君がもたない!」

「平気だよ。心配しないで」

スパイドは、ゼファードへ振り向いた。足元に目線を落とし、毒で腹部が溶け始めたレベッカを見下ろした。
泡立ちながらエプロンが溶けて崩れ、その奧の白く滑らかな腹も溶けていた。人工外皮の下に、青紫がある。
ゼファードに背を向けてから、スパイドは背を曲げた。ごぼり、と毒を出したが、口元から煙が細く昇った。

「もう少し」

喉が焼けたせいで、スパイドの声は掠れていた。レベッカの胸倉を掴み、高々と持ち上げる。

「もう少し、だからさ」

襟元を握る黒い装甲の手には、あまり力が入っていなかった。負傷のせいで、入れられないのかもしれない。
レベッカはスパイドの頭上から、スパイドを見下ろしていた。金色の瞳は表情が失せていたが、潤んでいた。
ふっ、とスパイドは軽く息を吐きながらレベッカを振り上げた。直後、レベッカの背は防御壁に叩き付けられる。
雷撃から脱しようとしたが、がきん、と鉱石の翼に膝が打ち込まれた。応戦する前に、側頭部を強く蹴られる。
その勢いで、ずしゃっ、とレベッカは顔から地面に転げ落ちた。立ち上がると、砕けた片翼が背後に落ちた。
液体魔導鉱石を凝結させようとしたが、その前に追撃がやってきた。スパイドのかかとが、右肩を強く抉った。

「いやぁっ」

甲高い悲鳴を上げ、レベッカは半身を下げた。べちべちっと服の肩が千切れ、皮が破れて肩の骨組みが折れる。
途端に爪が液体となり、ずちゃりと崩れ落ちた。力を失った青黒い液体魔導鉱石が、でろでろと流れた。
レベッカの片腕は、肉のない皮だけとなった。木組みの骨と魔導金属糸の神経が、傷口から覗いている。
その腕を、スパイドは掴んだ。木製の骨組みを強く握り締め、ぐいっと自分の側へ引き寄せた。
良いようにやられているレベッカの姿に、グレイスは片方の眉を上げた。動きが鈍いどころか、躊躇っている。
グレイスはレベッカに指示を出そうかと迷ったが、出さないことにした。たまには、こういうのもいいだろう。
涙を溜めながら戦うスパイドを見ていると、かなり損傷したレベッカの姿に、背筋にぞわりと快感が走った。
ああ、楽しい。グレイスは丸メガネの向こうから、陶酔したような目で魔法陣の中を見つめていた。
レベッカの壊れた腕を握ったスパイドは、人工外皮の張り付いた木の骨組みをぐいっと捻り、へし折った。

「やぁああんっ」

魔導金属糸の神経が歪む激痛に、レベッカは身を捩った。魂に通じている核石までもが、痺れてしまいそうだ。
ばつん、と金属製の神経が断ち切れた。色白な皮がへばり付いた作り物の腕を、スパイドは後方へ投げ捨てた。
胸苦しさと全身に走った痛みに耐えられず、レベッカは腰を落としてしまった。腕のない肩を、左手で押さえる。
口の端が緩み、スパイドから流し込まれた毒液がついっと零れた。げほっ、と数回咳き込んで吐き出した。
レベッカがそれを拭っていると、目の前に長身の黒い影が立った。胸元を掴まれ、力任せに押し倒された。
幼女を地面に押し付けたスパイドは、乱れた襟元を握り締めた。傷のない左手を拳にし、振り上げる。
追撃が来る。そう思い、レベッカは顔を背けた。だが、いつまで待っても衝撃は来ず、代わりに雨が降ってきた。
落ちてきた水滴が、レベッカの頬を滑った。目を開いて見上げると、スパイドは握った拳を震わせていた。
ぺたんと座り込んだスパイドは、レベッカの襟元を握る手を緩めた。全ての目から、涙が流れ出ている。
汚れた覆面のような顔を、幾筋もの水が清めていた。顎を伝った悲しみが、ぼたぼたと胸の上に落ちている。
スパイドは、がしゃりと背中の足を全て下げた。しゃくり上げていたが、両手で顔を覆って叫んだ。

「やだぁ!」

液体魔導鉱石が付いた手が、目の前にある。攻撃に次ぐ攻撃で、片腕を失った彼女が目の前に倒れている。
罪悪感と恐ろしさで、肩はがくがくと震えている。戦わなければ、と思っても、体が少しも動いてくれない。
兄と姉は倒れている。このままでは、確実に死ぬ。だが、これ以上戦えば、レベッカを壊してしまいそうだ。

「やだよやだよやだよぉっ!」

頭を抱えて、スパイドは声を張る。死ぬのは怖い。戦うのも怖い。だが、彼女が消えるのが一番怖い。
初めて、親兄弟以外で親しくしてくれた。初めて、一緒に遊んでくれた。初めて、友達だと言ってくれた。
そんな彼女を、殺すことは出来ない。だが、兄と姉は彼女に。その思いの狭間に揺れ、スパイドは泣き叫んだ。

「もうやだよぉ!」

やだよやだよ、と連呼するスパイドから目を外し、レベッカは後方の主を見上げた。指示を請いたかった。
どうすればいいのか、解らなくなった。これ以上友人を痛め付けたくはないが、戦うことが自分の使命なのだ。
グレイスは、笑っている。普段とまるで様子の変わらぬ主は、やはりいつも通りの飄々とした口調で言う。

「レベッカ。そいつをどうするかは、お前が考えろ」

「…え?」

レベッカが目を丸くすると、雨に包まれた灰色の男はかちゃりとメガネを直した。

「命令だ」

「はい」

レベッカは頷き、泣き伏せるスパイドを見上げた。今、ここで彼を殺してしまうのは容易いことだった。
左腕は失ったが、液体魔導鉱石は七割程度残っている。凝結させて腕を作り、魔力を高めれば力は戻ってくる。
痛みの感覚が残る体を起こし、傷の少ない左手を上げた。手を伸ばすと、雨のように降り続く涙が当たった。
傷付いたスパイドの胸が、すぐ前にある。爪を出して貫こうと思えば、簡単に内蔵まで切り裂けるだろう。
だが主の命令は、考えろ、であり、殺せ、ではない。今まで、そんな命令をされたことは一度もなかった。
どうすればいいのだろう。戦いに戻るのは簡単だが、そうしたくはない。しかし、自分は戦うための傀儡だ。
戦わなければ、意味がない。主に代わって手を汚すことが、なによりの生き甲斐であり動き続ける理由だ。
しかし。これ以上戦えば、スパイドはじきに死ぬだろう。致命傷を敢えて外してきたが、深い傷は多い。
顔を覆って泣いているスパイドの右腕からは、まだ血が流れ出ている。赤い滴が、ぱたりと落ちて涙に混じる。
初めての友達。一緒に遊んでくれた魔物の子。初めて、主以外で口付けをした相手。そして、主の敵の手駒だ。
だが、それ以前に彼は。レベッカはそっと左手を伸ばし、スパイドの傷口に触れた。ぬるついた血が、温かい。

「ごめんなさい、御主人様ぁ」

肩を落とし、レベッカは項垂れる。とん、とスパイドに体を預けた。

「お友達はぁ、殺せませんー」

胸に掛かった体重は、あまり重たくなかった。スパイドは顔を覆っていた手を外し、慎重に見下ろした。
レベッカは、声を抑えて泣いていた。石で出来ている子も泣くんだな、とスパイドは妙な部分に感心した。
両手を幼女に回そうとしたが、霞んだ視界が歪んだ。スパイドは堪えようとしたが、気を失い、後方へ倒れた。
どっ、と黒い影が頭を反らして倒れた。レベッカは目を見開いて声を上げると同時に、防御壁が掻き消えた。
今まで遮られていた雨が、降り注いできた。無数の水滴が、傷付いた魔物達を冷やすかのように落ちてくる。
レベッカはスパイドの隣に座り、覆面じみた顔に触れた。金色の十の目は見開かれ、あらぬ方向を見ている。
雨音が、灰色の城を包んでいた。ジュリアは、怒りと焦燥で、魔力が沸き起こってくる感覚を味わっていた。
ジュリアが立ち上がっても、グレイスは何も言わなかった。それどころか、妙に満足な顔で笑っている。
それを一瞥してから、ジュリアは駆け出した。黒い外套を脱ぎ捨てて、巨大な魔法陣の中に踏み入った。

「ウルバード、レオーナ、スパイド!」

レベッカを無理矢理押し退け、ジュリアはスパイドを抱き起こした。声にならない声が、覆面の口から漏れた。
スパイドを抱き締めたジュリアは、毒液で焼けた口元を拭ってやった。装甲の付いた胸に手を当てる。

「彼の者の血潮に眠りし命の鼓動よ、我が言霊の前に力を示し、そして従いたまえ」

手のひら越しに、スパイドの鼓動が伝わってくる。ジュリアは、力一杯叫ぶ。

「生への脈動よ、癒しの力と成り変われ! 発動!」

スパイドの鼓動が、高まった。ジュリアは少し安心し、すぐにウルバードとレオーナの手を取る。

「あなた達も、すぐに楽にしてあげるわ。お願いだから死なないで! 彼の者の血潮に眠りし命の鼓動よ、我が言霊の前に力を示し、そして従いたまえ。生への脈動よ、癒しの力と成り変われ。発動!」

人造魔物達は、僅かに身動きした。その様子に、ジュリアは表情を緩めた。

「ああ…良かった」

スパイドを大事そうに抱えたジュリアを、レベッカはぼんやりと見ていた。やはり、彼女は母親なのだ。
駆け寄ってきたゼファードに、ウルバードとレオーナも起こされている。先程の魔法で、一応は回復したようだ。
意識が戻ったのか、ウルバードは小さく唸っている。有翼の人狼を抱き起こし、ゼファードは嬉しそうにしている。
レベッカは罪悪感と同時に、無性に寂しさを感じていた。彼らは、自分のいる世界とは別の世界にいるのだ。
すると、頭に布が被せられた。灰色の布を引っ張り下げて顔を出し、見上げると、背後にグレイスが立っていた。

「それでも着てろ。後でちゃんと直してやるから、しばらく我慢しててくれ」

グレイスの大きな手で頭を撫でられ、レベッカは顔を歪めた。

「ごめんなさいー、御主人様ー」

「気にすんな」

にっと笑ったグレイスは、レベッカの頭を軽く叩く。幼女から手を放すと、さあて、と言いながら立ち上がった。
ジュリアとゼファードが、魔物達を背に隠すようにしていた。魔法を放つ気なのか、ジュリアは手を挙げている。
グレイスは魔法陣を見下ろしていたが、血に汚れた泥を足で擦って文字を消した。そこに、新たに文字を書く。

「まぁ、そういきり立つなよ」

「この子達をこんな目に遭わせて、ただで済むと思わないでよ!」

ゼファードの杖を掴み取ったジュリアは、グレイスに突き付けた。グレイスは、ちょっと肩を竦める。

「おーおー。アンジェリーナと同じような反応だなぁ。母親ってのは、どこも似たようなもんなのかねぇ」

「人の話を聞きなさい!」

魔法陣を書き直していくグレイスに、ジュリアは怒り混じりに叫んだ。グレイスは、足を止めずに返す。

「まぁそう言うな。暗示を解いてやった上に兄貴から逃がしてやるんだ、感謝して欲しいぐらいだぜ」

「誰があなたに感謝なんてするもんですか!」

かっ、とジュリアは杖の先を地面に突き立てた。グレイスは顔も向けずに、そちらに手を挙げた。

「ちったぁ黙ってろ。集中出来ねぇんだよ」

ひゅおん、と熱の籠もった風が抜けた。それらは全てグレイスの手に向かい、灰色の男の周囲を巡る。
風が抜けるにつれて、魔力と強い感情が一気に吸い出されていった。ジュリアは、意識が薄らぎそうになった。
喪失感と脱力感に、ジュリアはしゃがんでしまった。ばちゃり、と水溜まりに膝を付き、肩を大きく上下させる。
その肩を支えたゼファードを見、グレイスはにやりとした。泥を削っていたつま先を、ずぼっと抜く。

「よぉしそこにいろよ。下手に動くと、変な場所に行くかもしれないからな」

「私達をどうするつもりだ」

辛そうなジュリアを守るようにしながら、ゼファードはグレイスを見上げた。グレイスは、笑う。

「竜の城にご招待さ。事の起こりはあの女なんだから、終わりもあの女ってのが一番相応しいだろ?」

ゼファードが声を上げようとした瞬間、グレイスのつま先は魔法陣を叩いていた。円の中だけ、空間が歪む。
弱い風が吹き抜けたあと、彼らの姿は消え失せていた。それを確認してから、グレイスは魔法陣に足を滑らせる。
ざりっ、と二重の円が途切れ、文字も泥に馴染んで消えた。足を動かしていたが、むくれながらぼやいた。

「あれだけの人数を一度に送ると、さすがに魔力を喰うぜ」

血溜まりを擦って広げ、水溜まりに馴染ませた。しばらくグレイスは魔法陣を消していたが、足を止めた。
城門の向こうに、藍色の影が見えた。灰色の城に繋がる緩やかな坂を、男が真っ直ぐに登ってくる。
グレイスは、雨に濡れた男に向き直った。羽織っている藍色のマントは、すっかり水を吸って重たそうだった。
城門の下に入り、男は足を止めた。ぱたぱたと水滴を落としながら、薄茶の切れ長の目を上げる。

「ジュリアを、どこへ飛ばした」

「さぁてね。教えて欲しけりゃ、オレを倒しな」

なぁんてな、とグレイスはけらけらと楽しげに笑った。藍色の男、イノセンタスは片手を挙げる。

「荒事がお好みとあらば、そうしよう」

「あんたもその気なら、ちょいと付き合ってあげても良いぜ」

グレイスは片手を挙げ、ぱちんと指を弾いた。頭上に現れた杖を受け止め、構えた。

「オレも時間稼ぎをしておきたいところなんでね」

「杖と使うとは。グレイス・ルー、お前は呪術師としては一流かもしれんが、魔導師としては三流だな」

一笑したイノセンタスに、グレイスは灰色の目を細める。

「そう見えるか? だがな、道具ってのは、程良く使えば最高なんだぜ」

降り止まぬ雨が、二人の間に入っていた。魔力を高めるイノセンタスから起こる風は、ひやりと冷たい。
イノセンタスの感情の波が大きいのが、肌で感じられる。ジュリアよりも、大量の感情が吸い取れるはずだ。
グレイスは魔法に使うための魔力を高めつつ、杖を握り締めた。時間稼ぎと共に、暇潰しも出来そうだ。


「楽しいねぇ」








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