ドラゴンは笑わない




兄と弟



ギルディオスは、懐かしくなっていた。


実家を訪れるのは十七年ぶりだった。こうして真正面から屋敷を見たのは、十何年ぶりになるだろうか。
固く閉ざされた鉄格子の門の向こうに、ヴァトラスの屋敷がある。弱まりつつある日差しで、屋根が光っていた。
赤茶けた煉瓦で造られた屋敷は、威圧感すらある。それは、父親から感じていた存在感とどこか似ていた。
ゼファードから受け取った屋敷の鍵束を回していたが、ちゃりっ、と手の中に何本もの鍵を受け止めた。
その一つを、門の鍵穴に差し込んだ。黒光りする門に似合う大きな鍵が回され、がこん、と中で錠が動いた。
ギルディオスは片手で門を押し開けながら、背後の男へ振り向いた。相も変わらず、灰色の服を着ている。

「なんでお前が付いてくるんだよ」

「それはオレも疑問だな」

グレイスは、重厚なヴァトラスの屋敷を仰いだ。バスタードソードを背負った甲冑の肩越しに、眺めていた。
頬の傷痕は薄くなっていたが、髪は短いままだった。それを強引に後頭部で引っ詰めて、無理矢理縛っている。
グレイスはギルディオスの後に続いて屋敷に入りながら、前庭を見回した。丸メガネが、日光を跳ねる。

「まぁ、他の連中が付き合わないってんだから仕方ねぇけどさぁ」

「気持ちは解らねぇでもないけどよ…」

ギルディオスは、再び鍵束を振り回していた。そのガントレットは普段のものとは違い、真新しかった。
イノセンタスとの戦闘で破損してしまったガントレットを修理してもらう間、防具屋に借りたものを付けているのだ。
銀色の手首に、じゃらり、と鍵束の付いた金属の輪が引っかかった。鍵を握り締め、ギルディオスは呟いた。

「あれだけイノに痛め付けられちゃあ、イノの遺品整理に付き合う奴なんていねぇよな、普通」

「感謝しろよー、ギルディオス・ヴァトラス。公文書偽造は手間だったんだからな、割と」

と、グレイスは両手を上向けた。ギルディオスは顔を背け、力なく返す。

「へいへい。てめぇがイノの死因を暗殺にしてくれた上に殺害現場まで作ってくれて、おまけに帝国の暗殺者の死体まで見繕ってくれて、挙げ句に王国名義の書類まで、きっちり用意してくれたんだからな。イノの沽券を守ってくれたことには感謝するが、どうしてそこで金を取るんだよ。しかも金貨七十五枚も」

「お前の兄貴のせいで、オレの城がちょっと壊れちまったんだよ。だから、その補償金も込みなんだよ」

「あーもう…」

ギルディオスはぐったりしながら、花がしおれかけた花壇の脇を通り過ぎた。やはり、こういう輩は乾いている。
あの豪雨の日、イノセンタスが死した日から、一週間が過ぎていた。彼の葬儀は終えられ、一段落していた。
兄達の戦いが終わった後に目を覚ましたジュリアは、次兄の剣で死した長兄の姿に、かなり錯乱してしまった。
フィフィリアンヌの鎮静剤で落ち着かせてから、ギルディオスは妹へ、イノセンタスは自殺したのだと説明した。
次兄が長兄を殺したのではないと知ると、ジュリアは少し落ち着いたが、動転していたことには変わりなかった。
自分が受け入れなかったせいでイノセンタスは死んだのだ、と取り乱すジュリアを、ギルディオスは説き伏せた。
イノセンタスが死んだのは彼自身の意思であり、決してジュリアのせいではない、と、何度も言い聞かせた。
それでも、ジュリアが平静を取り戻すまで時間が掛かった。一週間が過ぎた今も、泣き伏せているほどだ。
陰鬱でいるのは、何もジュリアだけではない。デイビットが消えてからというもの、伯爵も塞ぎ込んでいる。
あの饒舌な喋りが聞こえない日々が、何日も続いていた。だがようやく、最近になって喋るようにはなってきた。
それでも、まだ彼は笑ってはいない。予想以上に深い傷を持ってしまった伯爵に、ギルディオスは心底同情した。
他の面々も、以前通りというわけにはいかない。もっとも、フィフィリアンヌだけは普段通りに平然としている。
ギルディオスは屋敷の正面玄関に向かいながら、改めて彼女の図太さを感じた。少々太すぎる気もするが。
正面玄関の扉は、背が高く分厚かった。飴色の木目の上には、金属の輪を銜えた獅子が填め込まれている。
取っ手の下にある鍵穴に、細工の施された鍵を差し込んだ。慎重に回すと、じゃこっ、と扉の中で錠が動いた。
分厚い扉を手前に引くと、ぎいっと蝶番が軋んだ。薄暗く湿気の籠もった室内を、ギルディオスは眺めてみた。
玄関から入ってすぐの広間の床には、スイセンの家紋が大きく書き記してあった。もう、見慣れてきた。
兄が死んだ直後はあれだけ嫌だった家紋も、何度も見るに連れて嫌悪感が薄れてきた。それが、少し嫌だった。
自分や兄を追い込んだ家を、嫌わなくなってしまいそうに思えたのだ。だが、新たに憎む気も起きなかった。
複雑な心境のギルディオスがぼんやりしていると、どん、と背中に足が当たった。見ると、グレイスが蹴っている。

「早く行けよな。さっさと終わらせて、オレはレベッカちゃんの修理に戻りたいんだからな!」

ギルディオスは広間に入り、後ろ手に扉を閉めた。右手の廊下に向かいながら、後方のグレイスに振り向く。

「まだ直ってなかったのか。レベッカ、そんなにやられたのか?」

「どうせだから徹底的にやろうと思って、完全にばらして直してるから手間が掛かるんだよ」

広間を通り抜けながら、グレイスは面倒そうに口元を曲げた。ギルディオスに続いて、廊下に入った。

「レベッカが動いてねぇから、城ん中が荒れて荒れて。自分じゃ料理も作れないから、ろくなもんが喰えてねぇしよ」

ギルディオスは屋敷の構造を思い出しつつ、歩いていった。廊下の奥には、二階に続く階段が見えている。
十七年経っていても、屋敷は何も変わっていなかった。まるで、ここだけ時間が止まっているかのようだ。
だが、その中にいた人間は、変わってしまった。両親が死に、二人の兄達が死に、妹は帰ってこなくなった。
歩いていくと、やたらに足音が響いた。主のいなくなった屋敷は、空虚で巨大な箱のように思えていた。
幅広く薄暗い廊下を進みながら、ギルディオスは笑った。その笑い声も廊下に反響し、消えていった。

「家事全般を他人任せにしとくと、いざってときにそうなっちまうんだよなぁ」

だろう、とグレイスは妙に自信ありげに頷く。

「女ってのは、なんであんなに器用なんだろうなぁ。全く、不思議でたまんないぜ」

「同感だぜ」

ギルディオスは、左側の壁に並ぶ窓から裏庭を見てみた。裏庭も、前庭と同じく草木がしおれてしまっている。
掃除も行き届いておらず、廊下にはうっすらと埃が舞っていた。人がいなくなると、家はすぐに荒れてしまう。
廊下を進むと、階段が現れた。それを数段昇ってから、グレイスは階段の手すりをばちばちと叩いた。

「そういやあさ、この屋敷とか資産ってお前の所有物になるのか? イノセンタスが死んだんだしよ」

「いや。オレはもう死んじまってるからその辺の権利なんてねぇし、面倒だからみーんなランスにやった」

グレイスに続いて階段を昇りながら、ギルディオスは、数日前の息子の反応を思い出していた。

「オレにはよく解らねぇけど、結構な量があったみたいでさぁ。ランスの奴、書類見ながら困ってた」

「お前の息子は金の扱いに慣れてねぇみてぇだから、困るのが普通さ。ここにも多少は資産があったからなぁ」

オレに比べりゃ小さいが、と言いながらグレイスは階段を昇り切った。ギルディオスは、その背後で止まった。
一階と同じ幅の二階の廊下は、一見すれば同じように見えた。だが、壁に並ぶ扉の数と形が違っている。
グレイスはいくつか並んでいる扉を見ていたが、んー、と唸った。後ろ手に、階段の上を指し示す。

「書斎はここじゃねぇな。もう一階上だ」

「グレイス。てめぇ、なんで人んちの構造を知ってんだよ」

ギルディオスが訝しむと、グレイスはけらけらと笑った。頭の後ろで手を組み、くるりと背を向ける。

「さあてなんででしょー。考えてみてくれぃ」

「まぁ、ジュリィを攫ったときにでも調べたんだろうけどさ」

ギルディオスは、早々に階段を昇り出したグレイスの後を追った。灰色の背は、軽い足取りで昇っていく。

「いやいや、それよりも前から知っていたさ」

「つーことは何か、てめぇはオレらがガキの時分から出入りしてたってことか?」

ギルディオスは大股に階段を昇り、グレイスに追い付いた。隣にやってきた甲冑を見上げ、呪術師は頷く。

「うん、何十年も前からな。ほれ、デイブの兄貴が言っていたじゃないか。魔法のヴァトラスがどうなってるか調べておいてくれ、ってことをオレに頼んだって。んで、色々とやっていたわけよ。手出しはしなかったがな」

「…気付かなかった」

いやに情けなくなって、ギルディオスは項垂れた。その肩を、グレイスは軽く叩いてやる。

「まぁ、気付けなくても当然さ。オレは絶好調で、お前らはガキだったからな。ついでに言えばだな、ジュリアが読んだヴァトラの本を置いたのもオレだ。いやー、まさかあそこで効果が出てくるとは思ってもみなかったぜぃ」

「嘘ぉ!」

ギルディオスが裏返った声を上げると、グレイスはにやりと笑った。

「嘘じゃあないさ。第一、お前らの上の世代が捨てたはずの、本当のヴァトラの本があるなんておかしいだろ?」

「ま、まぁな」

「最初はイノセンタスに読ませてやろうと思っていたんだが、本を置いた倉庫に入ってきたのはジュリアだったんだ。いやーあの頃は可愛かったなぁ、うん。当初の思惑とは違っちゃったがジュリアが読んでくれたんで、それはそれでいいかなーと思ってそのままにしておいたら、あんな結果になってくれたってわけよ」

数歩先を行くグレイスの背を、ギルディオスは睨め付けた。不可解な気分になりながら、多少乱暴に歩いていった。
二人は、一際大きな扉の前にやってきた。そこは、以前は父親が、現在はイノセンタスが使っていた書斎だった。
ギルディオスは鍵束を探り、書斎の鍵を取り出した。古びた鍵を鍵穴に差し込み、がちゃりと力任せに回した。

「グレイス。やっぱ、てめぇが駒の指し手だろ」

「違う違う。今度ばっかりは、デイブの兄貴の仕業だよ。オレはその手足だっただけ」

グレイスが手を横に振ってみせたが、ギルディオスはそれを見ずに扉に手を掛けた。厚い扉を、引いて開ける。
扉の中は、本棚に壁を占領された書斎だった。仕事の名残なのか、大きな机には書類が散らばっている。
書斎に入りながら、ギルディオスは妙に緊張していた。幼い頃は、父親に呼び出されては怒られていた部屋だ。
おー、と言いながらグレイスは書斎に入ってきた。後ろ手に扉を閉めてから、机の裏に回って窓を開ける。
弱い風が、するりと滑り込んできた。グレイスは裏庭を見下ろしていたが、本棚を見上げる甲冑に振り向く。

「ジュリアって言えばよ」

「んー、ああ。メアリーから聞いたが、ジュリィはちゃんと処女だったんだとさ」

本棚に押し込まれた本の背表紙を撫でながら、ギルディオスは言った。なるべく、素っ気なくしていた。

「イノの野郎、真面目だったんだな。大方、結婚するまで手ぇ出さないつもりだったんじゃねぇの?」

「だが、二十七にもなって処女ってのは、ちょいと問題な気もするがねぇ」

カーテンを押しやって窓枠に腰掛け、グレイスは裏庭を眺めた。高く厚い塀が、広い裏庭を守るように囲っていた。
それを言うなよ、とギルディオスが言ったが、グレイスは返事をしなかった。目を細め、遠くを眺めるようにした。
グレイスの横顔に、ギルディオスはヘルムを向けた。本棚から抜き出した数冊の本を、テーブルに並べる。

「ところでよ、グレイス。てめぇとデイブが兄弟だっての、本当か? まるで似てねぇぞ」

「異母兄弟なんだよ」

振り向かずに、グレイスは答えた。思い入れがあまりないはずの兄の姿が、視界を過ぎった。

「オレの親父も呪術師だったんだが、それが色狂いでよ。ルーロンの血は増えた方がいいとかほざいて、至るところから女を拾ってきては囲みやがるんだ。だから、母親だらけ子供だらけの、無茶苦茶な家になっちまってたんだよ。デイブの兄貴は、最初の女房の長男なんだ。オレは、二番目の女の三男。オレよりは二十も上だったから、オレが物心付いたときには、もう出て行った後だったんだ。で、オレは十四の時に家出して、実家とはそれっきりだ」

「なるほどな。で、他の兄弟とかは?」

「百年前のバレッティラス家滅亡後に帝国が一掃したから、ほとんど死んだよ。まぁ、別にどうでもいいんだが」

グレイスは、生温い風に流された前髪を掻き上げた。

「結局、デイブの兄貴の目的は呪いの完成じゃなかったんだよなぁ。呪いの完結だったんだ」

「完結?」

ギルディオスが首をかしげると、そう、とグレイスは頷く。

「要するに、終わらせるってことさ。ヴァトラスとルーの呪いを解呪するのは骨だが、双方に真相を知らせて、呪いを終わらせれば、これ以上は悪くならねぇし発展もしなくなるからな。兄貴は、最初からそのつもりだったのさ。自分が消える覚悟で、どっちの呪いも終わらせてやろうってな。まぁ、オレにはルーの呪いを完成させるーって言っていたけど、ありゃあ建前だったみたいだしな」

「それが、デイブの未練の正体なのか?」

「うん、まぁな。前に一度だけ聞いたんだが、兄貴の未練は、ヴァトラスを騙し続けていたことなんだってよ」

グレイスは、横目にギルディオスを見た。大柄な甲冑は、隙間の空いた本棚に背を預けている。

「つまり、本当のことを言いたかったと?」

「そんなところだな。変なところで根が良かったみたいだからなぁ、デイブの兄貴は。ルーらしくねぇけど」

窓枠に背を預けたグレイスは、メガネの奧で灰色の目を伏せる。その表情は、いつになく物悲しげだった。
ギルディオスは、ここ最近考えていたことを言った。何度考えても、こうだとしか思えなくなっていた。

「なぁ、グレイス。てめぇ、なんだかんだでオレを助けていたんだろ?」

「やっと気付いたか。この鈍感め」

ちらりと目線を向けてから、グレイスはむくれた。ギルディオスは、がしゃりと肩を竦めてみせる。

「鈍いのは認めるが、理由を教えてくれ。まぁ、大体の予想は付くが」

「じゃあ言ってみろよ、んー?」

やたらと不満そうなグレイスに、ギルディオスは返した。

「てめぇは捻くれているから、先祖とか親の考えに従って生きるのが嫌で、ヴァトラスを呪うことを放り出したんだろ。だが、デイブの手助けをしてたら、なんだかんだで先祖の意思に従ってるのが解って、それが気に食わなくなったんだろ。ルーロンの命令に何が何でも逆らうために、オレの味方に付いたってところじゃねぇのか」

「半分当たりだな」

「じゃ、残りの半分は?」

ギルディオスの問いに、グレイスはにんまりした。窓枠から下りて机の後ろから出ると、歩み寄ってきた。
その表情に、ギルディオスは仰け反ってしまった。グレイスはにこにこしながら、次第に距離を詰めてくる。
グレイスの好色な笑顔に、ギルディオスは後悔した。理由なんか聞かなきゃ良かった、と思ったが遅かった。
後退しようと思っても、本棚に遮られてそれ以上は下がれなかった。グレイスは、甲冑の前を塞ぐように立った。
目の前の男から顔を背け、ギルディオスは出来るだけずり下がった。顎の部分に、色白で大きい手が添えられる。
ぐいっと向き直らされたギルディオスは、グレイスと顔を見合わせた。グレイスは、徐々に顔を寄せてくる。

「知っているくせにぃ」

「知りたくねぇっ!」

ギルディオスは蹴りを放とうとしたが、その前につま先を踏まれて上げられなかった。右腕も、押さえられている。
彼の左腕を体で押さえながら、グレイスは楽しげに笑う。甲冑の太い首筋に、ついっと指を滑らせた。

「言わせたいのなら言ってやってもいいぞー?」

「言わなくていいっていうか離れろこの野郎! 蹴るぞ殴るぞ首折るぞー!」

ギルディオスは頭を反らし、嫌悪感に苛まれながら必死に叫んだ。グレイスは、甲冑の首筋に頬を当てる。
その生温い体温に、ギルディオスはぞわりとした。あまりの気色悪さに硬直し、抵抗することすら忘れた。
更に、柔らかな濡れた感触が触れた。それが舌であると解り、ギルディオスはあまりの恐ろしさに声を漏らした。

「…ひぃ」

「愛してるぜぇ、ギルディオス・ヴァトラス」

グレイスの幸せそうな声が、耳元から聞こえた。ギルディオスは力の抜けた足が、今にも崩れてしまいそうだった。
それを保つのに精一杯で、解放されても動けなかった。身を引いたグレイスは、少し照れくさそうだった。
ほんのりと頬も赤らんでいて、少女のような表情をしている。ギルディオスには、それが心底おぞましかった。
グレイスはギルディオスに背を向けると、俯いてしまった。その後ろ姿を見ながら、ギルディオスは後悔した。
なぜ、こんな男と一緒に来てしまったのか。がしゃり、と床に座り込んだギルディオスは背を丸めた。
情けなさと同時に、兄に対して申し訳なくなってきた。


グレイスと距離を保ちつつ、ギルディオスは本棚から出した本を眺めていた。
それは数年分に渡るイノセンタスの日記だったが、中身の文章はなく、どのページを開いても白紙だった。
日記の表紙をめくると、表紙と題名の間の遊び紙に魔法陣が描いてあった。恐らく、この魔法のせいだろう。
隠すぐらいなら書くなよ、と思いながら、ギルディオスは日記をめくっていった。何枚も、白紙が続いていく。
横幅の大きな机に足を投げ出して座っているグレイスは、手当たり次第に書類を出しては読み上げていた。
イノセンタスが書いたものであるため、やたらと文章が硬かった。ギルディオスは、聞いているだけで疲れた。
単なる暇潰しなのか、朗読する声にはやる気がなかった。それでも、その中身が仰々しいことは傍からも解った。
帝国の政権の大部分は、魔導師に渡っているということ。王国の政権も、実質的には魔導師が握っているらしい。
冒険者達をドラゴン・スレイヤーに祭り上げていたのも、帝国の皇族ではなく、実はその背後にいる魔導師だった。
血気盛んで名誉欲に溢れている若人に竜を殺させて、両国の注意を議院の腐敗から逸らさせていたようだった。
近頃は帝国も王国も不況気味であるため、景気回復のために戦争を起こす気でいるということも書いてあった。
そして、その全ての裏にいるのは魔導師協会であるとも記してあった。これらの書類は、告発文書らしかった。
イノセンタスは両国を担ぎ上げながらも、両国の悪事を書き連ねていた。どうやら、二重の密偵をしていたらしい。
帝国にも王国にも信用を得ていたから、疑われなかったのだ。ただ一人で、両国の裏を調べ上げたようだった。
一通り読んでしまってから、グレイスはずるりと椅子にへたり込んだ。頭の後ろで手を組み、んー、と唸る。

「良い値で売れそうだなぁ、これ。王族を担いで皇族を揺さぶれば、十万、いや三十万枚は軽いかなー」

「どっちも隠してぇと思うようなことばっかりだからなぁ。イノが死んで、どっちの国も戦々恐々かね」

ソファーに腰掛けたギルディオスは、三冊目の日記をばらばらとめくった。グレイスは、机の上で足を組む。

「たぶんな。明日辺り、オレんちに物騒なお客さんも来そうな気がするし」

「オレらがそれを知ったことは嗅ぎ付けられただろ、間違いなく。帝国にも、王国にもな」

また忙しくなりそうだ、とギルディオスはため息を吐いた。グレイスは書類の束を丸め、胸元に差し込んだ。

「暗殺者の相手って嫌いなんだよなー、鬱陶しくて。こりゃ、レベッカちゃんも早急に直さねぇとな」

「兄貴の野郎、面倒なもんばっかり残しやがって。こんな厄介な書類なんざ、屋敷を出る前に焼いておけってんだ」

ばん、と日記をテーブルに叩き付けたギルディオスに、グレイスは苦々しげに笑った。

「ほんっとにお前の兄貴は堅気だよなぁ。どうでもいいことにきっちりしてて、悪事のやり方ってのを知らねぇ男だ」

「それがイノのいいとこっちゃーいいとこなんだが、悪いとこでもあるんだよなぁ」

がしゃり、とギルディオスは足を組んだ。上体を逸らしながら、グレイスの頭上にあるスイセンの家紋を見上げる。

「だから、少し引っかかってんだよなぁ。なんでイノは、フィルの城に来たときに家紋に気付かなかったんだ? 馬鹿みたいに几帳面で律義なイノだから、いくら城の中が薄暗いとしても気付かないはずがねぇよ」

「ああ、それか。あの城のヴァトラスの家紋はな、寝室の扉以外はひっくり返せるようになってるんだ」

グレイスは体を起こし、座り直した。身を乗り出すようにしながら、頬杖を付く。

「そこで嘘ぉとか言うなよー、本当なんだからな。寝室の扉に付いているやつ以外の家紋は全部引っこ抜けるようになっていて、その裏側は至って普通な石になっているんだ。だから、裏返して壁に填め込んでおけば、ヴァトラスの家紋は隠せるって寸法なのさ。デイブの兄貴が、暇潰しに作った小細工なんだとさ。大方、イノセンタスが来ている間だけ、家紋をひっくり返していたんだろうな」

「デイブって…そんなに器用だったのか」

ギルディオスが呆気に取られていると、グレイスは胸元に下げたペンダントを掴んだ。

「器用っていうか、それが本職だったんだよ。デイブの兄貴は元々、魔導技師だったんだ。魔導技師ってのは、魔導拳銃とか魔力測定器とか、魔導鉱石と魔導金属を用いた機械を作ったり直したりするのが仕事なのさ。呪いの役目を引き継ぐと同時に呪術師に鞍替えしたが、腕は錆びてなかったぜ。ちなみにこのペンダントも兄貴の作で、正式名称は魔力充填板と言う。薄っぺらくした魔導鉱石を金に似た魔導金属で挟んで魔法陣を描いて、充填魔力容量を馬鹿みたいに増やした、まぁ要するに魔力充填の出来る魔導鉱石の拡大版だ」

「なるほどなぁ」

感心半分疑い半分で、ギルディオスは腕を組んだ。いきなり言われても、まるで実感が沸いてこなかった。
そもそも、魔導技師という職業が概念として掴めていないし、その仰々しい職名がデイビットに結びつかなかった。
いつもへらへらとしていて、何を考えているのか解らなかった。というより、自分の考えを見せることをしなかった。
今にして思えば、デイビットの矢継ぎ早で根拠のない妄想は、真意を悟られないための防御壁だったのだろう。
グレイスのやり方と似ている。なぜそれに気付けなかったのかと思うと、ギルディオスは少し悔しくなってしまった。
机に上半身を迫り出したグレイスは、ギルディオスの手元を見下ろした。片手で、テーブルの上を指す。

「んで、それはなんだ。ああ、紙面消失の魔法付きの日記か。中身を見られるようにしてやろうか、金貨五枚で」

「うるせぇな。別に中身なんて、見られなくてもいいんだよ」

ギルディオスは、四冊目の日記を手に取った。めくられていくページには、半月型に似たへこみが出来ている。
少し厚みのあるものが、挟まれていた痕跡だった。どうやら、ギルディオスは何かを捜しているようだった。
だらしない姿勢で椅子に座りながら、グレイスは机の上に足を投げ出した。ごん、とかかとが板を叩いた。
まともに残っていた身内は、デイビットだけだった。たとえ幽霊であろうとも、いなくなれば物悲しかった。
そして、グレイスをまともに家族として扱ったのもデイビットだけだった。生前は、ただ一度の交流だったが。
父親も母親も、もうほとんど姿を覚えていない。家族がいすぎたせいで、ろくに構われなかった記憶がある。
どの兄弟もルーロンを追うことに終始していて、呪術で他者を食い物にすることなど、馬鹿げていると言った。
他人になど構っているのであれば、せめてヴァトラスを呪って殺せ。そう父親に命令されて、逆らった。
家の中では父親が脅威であり絶対であったから、以前から少なかった居場所はなくなり、必然的に家を出た。
それから九十年ほどが過ぎて、呪術師として力を付けてから、グレイスは魔導技師である兄の元を尋ねた。
ただ、魔力充填板を作ってもらうだけだったのに、長々と話をされた。その中で、兄は何度も褒めてきた。
グレイスの魔導師としての腕や、呪術の技術など。最初は何か担がされると思っていたが、それはなかった。
兄は、純粋にグレイスを認めていた。グレイスはそれが嬉しかったが、最後まで疑いは消えなかった。
その疑いが消えたのは、ここ最近だった。百年前とは逆に、デイビットはグレイスに仕事を頼んできた。
デイビットが帝国から奪ってきた金塊を元出に、ヴァトラスを追いつめてあの城に招くよう、依頼をしてきた。
グレイスは彼の指示を聞きながら、細部まで突き詰めて指示をしない彼を、訝しむようなことを言った。
するとデイビットは、にこにこしながらこう言った。グリィの手腕を、信用しているってことですよぅ。
今までのどんな雇い主とも違う、反応であり言葉だった。大抵の人間は、グレイスを信用すると言って疑っていた。
だからそれが、いやに嬉しかった。初めて血族から認められたということも相まって、やけに気分が良かった。
詰まるところ、寂しかったのだろう。家族を捨て、レベッカを作るまで一人で生きてきたから寂しくないわけがない。
これが、あの日の自分らしくない思考の根底だろう、とグレイスは思った。寂しくなるから、駒を詰めたくなかった。
半分しか血の繋がらない兄に同情したのも、駒を進めるのを躊躇ったのも、一人になるのが怖くなったからだ。
愛しい白化の少女、ロザンナも消えてしまい、レベッカも修理の途中だ。間違いなく、今は一人になっている。
グレイスは、空虚感を覚えた。かつてこの椅子に座っていたであろうイノセンタスも、同じ思いをしたのだろうか。
弟は去り、愛する妹からは拒絶され、上り詰めても近付いてくるのは政治家ばかり。そんな日々は、寂しかろう。
グレイスはイノセンタスに同情しながらも、羨ましくなった。彼も一人だったが、ずっと弟に思われていた。
内心で深くため息を吐き、グレイスは目を伏せた。早く事を終えて城に帰り、レベッカを修理したくなっていた。
あの舌っ足らずな声が聞こえなければ、余計に寂しさは深くなる。押し込めていた感情に、支配されてしまう。
思考を鈍らせて、グレイスは感情の波から逃避しようとした。すると、ギルディオスが声を上げた。

「やっぱりここだったか! イノの野郎、昔とやることが変わってねぇな」

グレイスは首だけを上げ、机の向こうを見た。きらりと光る半月状のものが、銀色の手に握られている。
真ん中からひび割れている、古びた小さな鏡だった。懐かしげに、ギルディオスはそれを裏返したりしている。
気力の抜けた声で、グレイスはギルディオスに尋ねた。少しでも、重苦しくなった胸中を紛らわしたかった。

「そいつは?」

「これは、小せぇ頃にイノとオレで見つけたものなんだ。丁度半分半分だったから、二人で分けて持っていたんだ」

ギルディオスは、半分の鏡を裏返した。拙い文字で、イノ、という名が削ってある。

「良かった、捨ててなくて。よぉし待ってろイノ、うちに帰ったらオレのと貼り合わせてやるからな!」

「お前のも捨ててなかったのか?」

グレイスが言うと、ああ、とギルディオスは嬉しそうに頷いた。

「家を出るときに持ち出して、保管してあるんだ。ジュリィと約束したんだ、もう一人にしねぇからな馬鹿兄貴!」

やたらと嬉しそうなギルディオスとその手に握られている半分の鏡を見、グレイスはあまり面白くなかった。
これで、イノセンタスは一人ではなくなる。しかも、ギルディオスと実質一つになる。そう思ったら、妬けてきた。
はしゃぎだしてしまいそうなほど喜んでいるギルディオスの姿に、グレイスは居たたまれなくなってきた。
グレイスは考えるより先に、体が動いた。机に両手を付いて体を起こし、どん、と机を蹴って飛び上がった。
真っ直ぐに、ギルディオスの上に落ちていった。膝を曲げて甲冑の胸に滑り込ませ、叩き付ける。
ごっ、と鈍い打撃音が響いた。どがっしゃ、と激しい金属音を立てて、ギルディオスは背中から床に転げた。
仰向けに倒れたギルディオスは、胸の痛みを感じながら顔を上げた。グレイスが、不機嫌そうにしている。
彼の座っている位置は、下半身の上だった。押し倒された格好であると解り、ギルディオスは血の気が引いた。

「うぉおうわぁっ!」

「なーんか腹立つー」

グレイスはギルディオスの手に握られている半分の鏡を、妬ましげに睨んだ。

「イノセンタスの野郎め。あれだけギルディオス・ヴァトラスを痛め付けたくせに、最後には仲良くなっちゃったみたいなんだもんなぁ。これが妬けなくてなんだってんだよ」

「きょっ、兄弟が仲直りして何が悪いー! ていうかイノは死人だろうが!」

ギルディオスは背中に手を回し、バスタードソードの柄を握った。だが、三分の一ほどしか引き抜けなかった。
どがっ、と本棚の下段に剣の柄がぶつかった。これでは剣が抜けない、と思い、ギルディオスは恐ろしくなった。
グレイスは、甲冑の胴の上で足を組んだ。かなり不機嫌そうでありながらも、楽しげな目をしている。

「死人だろうが何だろうが、妬けるもんは妬けるんだよ」

「てめぇにゃ、あの幽霊の女の子がいるんじゃないのかー!」

「ロザンナは天上に行っちゃったの。だから、生まれ変わってくるまでオレは独り身なのさ」

天井を指し、グレイスは首を横に振ってみせる。ギルディオスはずり下がろうとしたが、重みで動けなかった。

「この浮気性め! オレは嫌だぞ、てめぇとまぐわうなんて絶対に嫌だぞ!」

「そんなに嫌がられると、余計にやりたくなってきちゃうじゃないか」

グレイスは身を屈め、ギルディオスの胸元に手を置いた。ギルディオスは、恐怖と嫌悪で叫んだ。

「いやだぁああ!」

「兄貴も親父も見てるぞー、ギルディオス・ヴァトラス。ともすりゃ、ご先祖様も見てるかもしれねぇぞー」

すいっと、グレイスの手がギルディオスの胸を撫でていく。ギルディオスは、ぶんぶんと頭を振る。

「いやだぁいやだぁ、誰も見るなぁー!」

「見せつけてやろうじゃないか。背徳感と羞恥心に苛まれながら、嫌いな男に蹂躙される快楽をとくと味わえぃ」

グレイスは、ギルディオスのヘルムの顎をしっかりと掴んだ。すると首の動きは止まり、僅かに震え始めた。
嫌だぁ、とギルディオスの地獄のような絶叫が書斎から響き、静かだったヴァトラスの屋敷を揺さぶった。
必死の思いで抵抗したギルディオスは、なんとか一線を越える前に脱出し、ヴァトラスの屋敷から逃げ出した。
半泣きでフィフィリアンヌの城に戻ったギルディオスは、しばらくの間、恐ろしさで足腰が立たなかった。
結局、ギルディオスが持ち出せたイノセンタスの遺品は、幼い頃に兄と分け合った鏡の半分だけだった。
他にも色々と整理をする必要があったのだが、どうしても行く気が起きず、遺品の整理はかなり遅れてしまった。
以前にも増して、ギルディオスが実家を嫌うようになったのは言うまでもない。




弟達は、それぞれに兄の記憶を持っている。
それぞれの兄の遺した物を手にし、彼らは新たなる日々を行く。
決して忘れることのない家族の思い出と共に、世界の中で生きていく。

その記憶がある限り、彼らは決して一人ではないのである。






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