ドラゴンは笑わない




飛翔せよ、カトリーヌ



フィフィリアンヌの寝室に、カトリーヌの寝床は移された。一階と同じく、壁は本棚に埋め尽くされていた。
見慣れぬ場所にきょろきょろしているカトリーヌを横目に、フィフィリアンヌはベッドに散乱した本を押し退ける。
出窓にカーテンを引いて閉め、サイドボードの上のランプを灯す。柔らかい光が、薄暗さを消していく。
フィフィリアンヌは数冊の本をまとめ、ぞんざいに机に放る。ばさん、と積み重なった紙が震動で広がった。
ベッドの近くに置かれたタンスを引き出し、中から寝間着を出した。それをベッドに置き、彼女はベルトを外す。
ベルトを放ってから、ローブを頭から引き抜いて脱いだ。フィフィリアンヌは一息吐き、少し首を曲げた。
装飾の少ないズロースも、一気に脱ぎ捨てる。ベッドに放られた黒いローブの上に、白い下着がぐしゃりと落ちた。
タンスの上に吊り下げられた鏡に、フィフィリアンヌは自分の姿を映す。背を向け、小さな翼を広げてみる。
近頃、めっきり空を飛ばなくなった。飛び方を覚えているのか、自分でも少々怪しいと感じていた。
人間とドラゴンが入り混じっている背中から、腰に掛けて目線を動かす。胸に起伏がなく、尻も丸くはない。
いつまで経っても女性らしさの欠片も出てこない体に、フィフィリアンヌは、もう慣れてしまっていた。
成長が止まった原因としては、大体の予想が付いていた。ドラゴンの姿へ戻る回数を、成長期に減らしたからだ。
混血だが、フィフィリアンヌはどちらかといえばドラゴンに近い。よって、巨大な緑竜が本来の彼女だ。
だがそれを見たくがないために、人間の姿を維持し続けた。結果、骨格の発達が鈍り、成長が止まってしまった。
竜族が嫌い、というわけではない。ただ少しでも長く、人の子として父親の近くにいたかっただけだ。
フィフィリアンヌは、振り返る。タンスの上に置いてあるブロンズの女神像に、父親のロザリオが掛けられている。
天に向けて伸ばされた女神の手に、輝きの鈍った銀のチェーンが絡み、円を背負った十字が落ちていた。
新しい下着と寝間着を着込んでから、フィフィリアンヌはロザリオを手に取った。古びた十字架を、握り締める。
金属の冷たさが、次第に体温で温まっていく。それを持ったまま、フィフィリアンヌはベッドに座った。
足元のカゴを枕元へ置き、フィフィリアンヌはカトリーヌへ顔を近付ける。カトリーヌは、鼻先を擦り寄せる。
頬に当たる牙とウロコの感触を楽しんでいたが、フィフィリアンヌは、ぱたりとベッドに体を横たえる。
ちゃりん、とチェーンが鳴る。ロザリオの中心に填め込まれた宝石を、ゆっくりと指で確かめた。

「父上」

天井を見つめながら、フィフィリアンヌは記憶に身を任せる。六十数年前の、父親が健在だった頃の思い出に。
あの頃も今も、上手く笑うことは出来ない。自分のツノと翼のせいで、父親は何度も人間と戦っていた。
その度に、強く抱き締められたことを覚えている。血と泥と、涙に汚れた甲冑が、冷たくて熱かった。
心優しい騎士だった。誇り高く、信念を曲げない人だった。故に父親は、騎士団を徐団され、命を狙われた。
今も昔も、人間にとって竜族は異端の種族だ。その竜族の子供を守る騎士は、取り除かれるのが当然だった。
だから彼女は、人間になろうとツノと翼を切り落とした。だが翌朝には、どちらもすぐに生え揃ってしまった。
父親には怒られる前に、泣かれた。そして、こう言われた。

 フィフィリアンヌ。お前は竜族でもあり、人間なんだ。どちらでもあるんだ。それを、誇りに思え。

 だが、わたしは、ちちうえとおなじひとになりたい。ひとに、なりたい。

そう泣き叫んだフィフィリアンヌへ、父親は何も言わなかった。悲しんでいたのかもしれない。
ただずっと、傷の付いた背中を大きな手が撫でていた。痛みを受け取るように、何度も、何度も。
それから数日して、唐突に父親は隣国との紛争に駆り出された。戦いという名目の、抹殺計画なのは明白だった。
フィフィリアンヌがそれを指摘しても、父親は何も言わず、ただ穏やかに笑うだけだった。そして、一週間後。
このロザリオだけが、血に汚れて戦場から戻ってきた。他には何もなく、王国の兵士は無言でこれを彼女へ渡した。
それから、母親と会う頻度はがくりと減った。気付いた頃には、フィフィリアンヌは一人で生きている状態だった。
幼少の記憶に残る母親の姿は、後ろ姿ばかりだ。立派な翼を広げ、草色の髪を伸ばした緑竜の魔導師。
母親とは、五年前に一度会ったきりだ。そう思いながら、フィフィリアンヌは遅い動きで寝返りを打った。
枕元に置いたカゴから、カトリーヌが這い出してきた。心配げに覗き込み、ぺろりと舌を彼女の頬へ滑らせた。
フィフィリアンヌはカトリーヌの顎を撫で、顔を上げた。ロザリオを胸に押し当て、握り締める。

「案ずるな。なんでもないんだ、カトリーヌ」

本当に、と尋ねるようにカトリーヌは鳴いた。フィフィリアンヌは頷く。

「ああ、本当だ。だから、大人しく眠れ」

ずりずりと前足と尾を使って前進したカトリーヌは、フィフィリアンヌの胸元へ納まった。体を丸め、目を閉じる。
フィフィリアンヌはよれた布団を引き上げ、自分とカトリーヌの上に掛けた。胸元から、ぎぃ、と小さな声がする。
ロザリオに軽く口付けてから、フィフィリアンヌはカトリーヌごと胸に抱いた。目を閉じ、呟いた。

「おやすみ、カトリーヌ。父上」

もっと、この子を愛してあげられるように。もっと、他者の愛し方を思い出せるように。
そう願いながら、フィフィリアンヌは眠りに沈んだ。懐かしくもあり、痛みのある過去が夢となった。
騎士団の紋章が描かれた朱色のマントを翻し、戦場へ向かう父親の後ろ姿。視界に焼き付いている光景だった。
ロザリオを握る手の力が、自然と強くなっていた。




翌朝、カトリーヌを連れたフィフィリアンヌが一階へ下りると、既にギルディオスは起きていた。
暖炉に火を入れ、その前で剣を手入れしていた。傷の付いた幅広の刃に、彼女の姿が映り込む。
掲げていたバスタードソードを下ろしたギルディオスは、立ち上がる。カトリーヌへ、銀色の手を差し出した。
カトリーヌは鼻先を擦り寄せてから、がぶがぶとガントレットの手を噛む。こちらにも、それなりに懐いたらしい。
かちかちと噛まれるがままにしながら、ギルディオスは階段の上に立つフィフィリアンヌを見上げた。

「フィル、今日は早いな」

「カトリーヌがいては、寝起きの読書も出来んからな」

フィフィリアンヌが手を差し出すと、カトリーヌはそれに従った。ギルディオスの、大きな手に納まった。
脇を抜けたフィフィリアンヌは、まず机の上に置いたワインを取ってグラスに注ぎ、流し込むように飲み干した。
口元を拭ってから、机に広げてある紙を眺めた。その上には、研究の成果と簡単な計画が書いてある。
ごとん、と机の上を伯爵が前進する。紙を押さえるように、大振りのワイングラスの底がその上に乗った。

「この調子で進めば、魔導鉱石の溶解液はあと数日で完成するようであるな、フィフィリアンヌよ」

「そうだな。残るは細かい配合の調整だけだが、そんなことはいつでも出来る」

そうフィフィリアンヌが答えると、伯爵がぐにゅりと溢れる。赤紫の半透明が、すいっと向けられた。

「これはこれはどうしたことであろうか。貴君が研究を二の次にするとは、世界の滅亡の兆しかね?」

「勝手に話を大きくするな。カトリーヌに飛び方を教えるだけだ」

馬鹿にしたように眉をしかめたフィフィリアンヌは、台所へ向かっていった。とんとん、と軽い足音が遠ざかる。
階段の前から身を引いたギルディオスは、伯爵と顔を見合わせた。にゅるん、とワインレッドの先端が膨らむ。
ぱたぱたと翼を上下させるカトリーヌが、銀色の手に縋っている。ギルディオスは、伯爵に呟いた。

「なんてこったい」

「ああ、全くである。あのフィフィリアンヌが、研究ではなく子供に気を取られてしまうとは」

いやはや、と伯爵は首を振るように先端を左右に揺らした。ギルディオスは、手の中のカトリーヌを見下ろした。
構ってもらえることを察しているのか、嬉しそうにきぃきぃと高い声を発した。細長い尾を、振り回している。
ひらひらと揺れる赤いリボンが、実に機嫌が良さそうだった。台所からは、料理を始めた音が聞こえてきた。
ギルディオスは台所から響くヘビの断末魔に、背筋が凍る思いがした。体を縮め、台所に背を向ける。
昨日の記憶が蘇ってきそうになったが、ギルディオスは嫌悪感を無理矢理に押し込め、目を逸らすことにした。
あんな醜態は、もう二度と晒したくはない。


昼間の穏やかな日差しの下、フィフィリアンヌは息を荒げていた。
体格に比べて遥かに大きくなった翼が、地面に幅のある影を落としている。それが、ばさりと広げられた。
久々に翼を飛行用に変化させたため、相当に体力を消費してしまったのだ。今一度、深呼吸する。
玄関の前に座るギルディオスは、カトリーヌを膝の上に乗せながらその光景を眺めていた。大変そうだった。
開け放した窓枠には、ワイングラスに満ちた伯爵がのんびりと日光浴をしている。気楽なのは彼だけだ。
呼吸を整えたフィフィリアンヌは、小柄な体をすっぽり覆うほどになったドラゴンの翼を、力を込めて上向ける。
それを広げ、ばさり、と羽ばたいた。足元の砂埃や枯れ葉が舞い上がり、一瞬、強めの風が吹き抜けた。
フィフィリアンヌは膝を曲げると、どん、と地面を強く蹴って飛び上がった。翼を、更に広げて羽ばたかせる。
次第にフィフィリアンヌは上昇していったが、どんどん息切れが激しくなった。運動不足が祟っているらしい。
ギルディオスは、徐々に浮かび上がっていく少女を見上げていた。不意にその目線が落ち、地面に向かった。
どさん、と着地とは言い難い体勢でフィフィリアンヌは落下した。地面に膝を付き、翼も頭も項垂れている。
ギルディオスの膝の上にしがみついているカトリーヌが、きゅうと鳴く。フィフィリアンヌを心配しているらしい。
顔を上げたフィフィリアンヌの髪は、すっかり乱れていた。固く縛られた髪が、緩んでばらけてしまっている。
ギルディオスはカトリーヌを手の中に納めると、フィフィリアンヌの前に屈み込んだ。少女は、息を荒げている。

「こーれだから学者ってのは…」

「うるさい」

ぐったりした声で答え、フィフィリアンヌは体を起こした。

「翼の形状変化に体力を消耗しただけだ。飛行には、なんら支障はない」

「んじゃ、なんでさっき墜落したんだよ?」

「重心の取り方を忘れていたのだ。だがそれも、思い出した」

体を起こし、フィフィリアンヌは立ち上がる。後ろ髪を縛っている紐を解き、ばらけてしまった髪を結び直した。
気合いを入れるかのように、ぎゅっと唇を噛み締めて、小さな拳を握る。若草色の翼が、大きく広げられた。
ギルディオスの手の中で、じたばたとカトリーヌが動いた。フィフィリアンヌの姿に、触発されたようだ。
ぎこちない動きで、カトリーヌの背の翼が動く。だが風は巻き起こらず、当然ながら体も上昇しない。
フィフィリアンヌは小さなワイバーンから目を外し、駆け出した。勢いを付け、だん、と力一杯地面を蹴る。
跳ね上がると同時に広がった翼は強く羽ばたき、枯れ葉を巻き上げながらフィフィリアンヌの体を持ち上げていく。
上昇すればするほど翻るスカートを、ギルディオスはなんとなく見てしまっていた。中身は、白い下履きだ。
やはりギルディオスは、彼女の下履きに何も感じることはなかった。一ヶ月ほど一緒にいれば、もう慣れてしまう。
フィフィリアンヌの体は、高く伸びた針葉樹の半分ほどまで上り詰めた。周辺の枝が、ざわついている。
羽ばたくたびにめくれ上がるスカートを気にすることもなく、フィフィリアンヌは上空から自宅を見下ろした。
玄関の前に立っているギルディオスが、こちらを見上げていた。その手のカトリーヌは、爪先ほどにしか見えない。
高い視点に昇った開放感を久々に味わいながら、フィフィリアンヌは空を見上げた。雲はなく、澄んだ青だ。
少し高度を上げると、太陽が近付いたような気がした。弱い日光の温度が、僅かに上がったような感覚がある。
だがあまり上昇すると、街からの目隠しになっている森を飛び越えてしまい、下手をすれば人に見つかってしまう。
それを避けるため、フィフィリアンヌは高度を下げる。体を傾けて旋回しながら、くるりと家の上を滑空する。
弱く煙を吐き出している四角い煙突と古ぼけた屋根、山と積まれた薪に、掘り起こされている途中の井戸。
家の後ろ側を回ってから、玄関へ滑り込む。翼を持ち上げて空気抵抗を減らし、足を地面へ擦った。
ざざっ、とかかとに土が固まり、失速した。前傾姿勢になった体を起こし、翼をへたりと下ろす。
フィフィリアンヌが息を吐いていると、ギルディオスが駆け寄ってきた。カトリーヌが、しきりに騒いでいる。

「綺麗に飛ぶもんだなー。もうちょい下手かと思ったぜ」

「このくらいのこと、竜族なら出来ぬわけがない」

心外だと言わんばかりに、フィフィリアンヌは胸を張る。ギルディオスの手から、カトリーヌが身を乗り出す。
ばさばさと羽ばたいて、必死に飛び上がろうとする。だが上手く行かず、癇癪を起こして鳴き喚いた。
ぎゃあぎゃあ、と叫び続けるカトリーヌの眉間に指を当て、フィフィリアンヌはじっと幼子の目を見つめる。
するとカトリーヌは、少し叫ぶのをやめた。フィフィリアンヌは背を丸め、カトリーヌと目線を合わせた。

「カトリーヌ」

きぃ、と返事をする。フィフィリアンヌに、カトリーヌの目が向けられる。

「私もすぐには飛べなかったのだぞ。それは、いかなるドラゴンやワイバーンも同じことなのだぞ」

ぎゃあ、とカトリーヌは口を広げて体を起こす。フィフィリアンヌは、くいっとその鼻先を押した。

「上手く飛べるようになるためには、ちゃんと食べて体を作り、練習を怠らなければいずれ出来るようになる」

きゅーん、と幼子は長めに鳴いた。フィフィリアンヌは背中の翼を広げ、指してみせる。

「必ずだ。私が保証する」

その言葉に、カトリーヌは猛った。巨体のドラゴンがするように、首を高く持ち上げて強く声を張る。
これは、竜族が戦う意思を示す仕草だった。この場合は、ちゃんと練習をするということだろう。
ギルディオスは、満足げなフィフィリアンヌとぎゃすぎゃすと意気込むカトリーヌを見比べ、不思議そうに言う。

「会話、出来んのか? カトリーヌは幼児だろ?」

「半分ぐらいは感覚だがな。出来ないことはない」

ギルディオスからカトリーヌを受け取り、フィフィリアンヌは翼を動かした。ゆっくりと、また浮上していく。
身を引いたギルディオスの背後で、風を受けたマントがばさばさと騒ぐ。頭飾りが視界を塞いだので、どけた。
すぐにまた、フィフィリアンヌは高度を上げた。一度飛んでしまえば、すっかり感覚を取り戻したようだった。
大きな翼の間になびく長い緑髪は、まるでドラゴンの尾のように見えた。ぎぃ、とカトリーヌの声が遠ざかる。
家の周囲をぐるぐると飛び回るフィフィリアンヌを、ギルディオスは物珍しさもあってしばらく眺めていた。
だが、一向に降りてくる気配はなく、徐々に飛行する速度は上がっていく。慣れてきて、調子が出てきたらしい。
この分では、新たな仕事を言いつけられることはなさそうだ。確信し、ギルディオスは井戸へ歩いていった。
ヘビの記憶を払拭するためにも、穴掘りをしたい。即興の妙な歌を歌いながら、ギルディオスはシャベルを担いだ。
それから毎日のように、フィフィリアンヌはカトリーヌと空を飛んだ。魔法薬の研究は、二の次になっていた。
フィフィリアンヌはカトリーヌに、翼の広げ方や風の受け方、体の浮かせ方などを、一つ一つ教え込んでいった。
ギルディオスが苦心の末に捕まえてきたヘビは、カトリーヌの体を着実に成長させていき、尾も翼も伸びた。
カトリーヌは上手く羽ばたけるようになったものの、それでもまだ、ほんの少し体を浮かせることで精一杯だった。
だが確実に、幼子が空を飛ぶ日は近付いていた。




「あの」

言いづらそうに、カインは前を歩くフィフィリアンヌの背へ声を掛けた。細い山道を、彼女は突き進んでいる。
すると、カインの肩に乗るカトリーヌが声を上げた。ぎしゃあ、という強い口調に、カインは苦笑する。
聞くなと言うことか。そう勝手に解釈したカインは、ちらりと背後を見た。ギルディオスは、一番後ろだ。
肩の上でぱたぱたと羽ばたくカトリーヌを横目に、カインは今の状況を必死に理解しようとしていた。
親戚への挨拶回りを兼ねた旅行から帰ってきてすぐに、預けていたカトリーヌを受け取りに来たはずだった。
なのに、彼女らはカインを山登りへ誘った。行き先は、あまり人に知られていない山奥の湖だった。
全く、見当が付かなかった。冬が近い湖などに行っても、景色も悪いし寒いだけだというのに、行く意味が解らない。
フィフィリアンヌの考えが何なのか解らないまま、とにかくカインは、彼女の翼のある後ろ姿を追っていった。


しばらく歩いて、目の前が開けた。その先には、薄曇りの空を写し取った湖があった。
湖畔の木々は枯れ果てていて、枯れ葉が辺りに積み重なっている。今朝、霜が降りたせいか、景色は白い。
三人はがさがさと茶色く乾いた葉を踏み散らしながら、湖へ出た。冷え切った水の中には、数匹の魚がいる。
フィフィリアンヌは腰のベルトへ下げた伯爵のフラスコを外し、足元へ置いた。たぽん、とスライムが揺れる。
髪を結んでいた紐を解き、フラスコへ巻き付ける。体を起こすと、弱い風を受けた長い緑髪が広がった。
横顔が濃緑に隠れていたが、フィフィリアンヌは軽く掻き上げる。カインは、ついその仕草に見取れてしまう。
長く尖った耳元へ掛けられた細い髪が、さらりと頬へ滑る。フィフィリアンヌは、カインへ振り向く。

「カイン」

「あ、はい」

「貴様、竜族の形態変化の様を見たことはあるか?」

唐突なフィフィリアンヌの問いに、カインは首を横に振った。

「いえ、まだ」

「ならば丁度良い。よく見ておけ」

背を向けたフィフィリアンヌは、ベルトを外してローブをたくし上げた。傍らに、下着ごと脱ぎ捨てる。
冷たい風に晒された肌は、ただでさえ薄い血の気が更に失せて恐ろしく白かった。その背を、翼が覆う。
ばさり、と翼が動かされた途端、急激に大きさを変えた。フィフィリアンヌの背を隠し、かなりの横幅になる。
頼りなかった骨組みも太く力強くなり、間に張られた皮が、ばしん、と広げられた。強い風が、水面を揺らがせる。
翼の付け根から、ばきばきとフィフィリアンヌの肌の色が変わっていく。若草色のウロコが、白い肌を隠す。
ウロコは徐々にその範囲を広げ、背を覆い、腰を包んでいく。細い腕が骨張り、小さな尻の上に太い尾が現れる。
小さかったツノも存在感を増してきて、ぐいっと長く伸び、太くなる。ばさり、と再び大きな翼が羽ばたいた。
飛び上がったフィフィリアンヌの姿は、竜族と人間の間だった。ウロコに覆われた顔に、赤い目が光っている。
口元も変化を始めていて、顎は強靱なものとなる。突き出てきた鼻筋の両脇には、鋭い牙が現れた。
不意に、フィフィリアンヌは体を水面に傾けた。どぼん、と水飛沫を上げ、冷たい湖に体を没してしまう。
カインは一瞬慌てたが、ギルディオスは首を横に振る。がしゃり、と組んでいた腕を解いて湖を指す。

「形態変化の負荷に耐えるには、水中が一番なんだとよ」

「それ、本当だったんですね」

「なんだよ、知ってたのか」

残念そうなギルディオスへ、カインは嬉しさと興奮を入り混ぜた笑みを向けた。

「いえ、知ってはいたけど本当かなぁって思ってたんで。でも凄い、凄いや!」

目を輝かせたカインは、じっと湖を見つめた。湖面の下で、泥を巻き上げながら巨大な影が動いている。
突然、影が上昇した。水面が持ち上がり、高く水飛沫が上がる。きらきらと、弱い日光の下に水滴が飛び散った。
少々泥臭い水が、ばちゃばちゃと湖畔に降り注いだ。カインはそれをもろに浴びたが、気にしない。
大きく割れた水面から、若草色の竜が姿を現した。すらりとした腹から続く長い尾が、ばしん、と水面を殴る。
巨大な翼の下で、ぐるぅ、と喉が鳴る。野性の光を帯びている真紅の瞳が、じろりと彼らを見下ろした。
普通の大人のドラゴンに比べて小さめだったが、それでも、人間からしてみれば充分に大きな存在だった。
尾を含めた身長は彼女の住まう家よりも大きく、鋭い爪の目立つ四つ指の前足は、人間など軽く掴めそうだった。
ぐわっと広げられた巨大な口から、真っ赤な舌が現れた。翼を上向けて広げたまま、ドラゴンは叫んだ。
空気を震わす猛りが、ひとしきり響いた。口を閉じてから、ドラゴンはゆったりとした動きで湖畔へやってきた。
巨体となったフィフィリアンヌは頭をもたげ、姿勢を低くした。赤い目がカトリーヌを捉え、僅かに表情が緩む。
ギルディオスは歓声を上げ続けるカインを横目に、フィフィリアンヌを見上げる。不意に、彼女と目が合う。

「すげぇな」

「貴様らの語彙は少ないな。この姿を見て、その感想しかないとは」

「声はあんまり変わらないんだな。ていうか、その状態でどうやって喋ってるんだ?」

ギルディオスは、目の前のドラゴンに尋ねた。これだけの体格変化をしても、フィフィリアンヌの声は幼いままだ。
普通であれば、相当に低くなってしまうはずだ。フィフィリアンヌは薄く口元を開き、口を動かさずに喋る。

「半分は魔法だ。この状態になると、声帯の動きが鈍くてな。魔法で補助をせぬと、まともに言葉にもならん」

「器用なもんだな。ドラゴンだからこそ出来る技、ってやつか」

素直に感心しながら、ギルディオスはフィフィリアンヌを眺める。水を浴びたウロコが、つやりとする。
紐を巻き付けられたフラスコが動き、伯爵が流動する。コルク栓が押し抜かれ、ワインレッドが溢れた。

「だが逆を言えば、魔力を失ったドラゴンはただのオオトカゲに過ぎん、ということだ」

「竜族が完全に魔力を失うのは、命を落としたときだけだ。下らんことを」

フィフィリアンヌは、翼を折り畳む。上半身を傾けると、前足を湖畔の地面へ付いて前傾姿勢になった。
カインの肩から、必死にカトリーヌが飛び立とうとしていた。フィフィリアンヌは、カインへ鼻先を下ろす。

「首の上へカトリーヌを乗せろ。前方は後方よりも気流が起こりにくいから、この子の飛行の妨げにはならん」

言われるがままに、カインはカトリーヌをフィフィリアンヌの首へ乗せた。首の上を、よたよたと幼子が進む。
首に並ぶヒレにも似た部分にしがみついたカトリーヌは、ぎぃ、と一声上げた。大丈夫だ、という意味だろう。
頷くように瞬きをしたフィフィリアンヌは、翼を何度か上下させた。水面が揺さぶられ、ざばぁ、と高く波が立つ。
飛沫を浴びながら、若草色の巨体が持ち上がる。ゆらりと揺れた長い尾から、ぱらぱらと水滴が零れた。
しばらく上昇してから、すいっと前身を下へ向けた。上向いていた翼が水面と平行になり、滑空の姿勢になる。
空中を滑り、湖の半分程まで行ってしまう。速度を落とすためなのか、次第に翼の角度がきつくなった。
彼女の飛んでいった名残のように、強い風が吹き抜けた。二人のマントが、冷えた風にめくり上げられる。
呆然としているカインを見下ろしていたが、ギルディオスは笑う。ここ半月の出来事を、思い出していた。

「フィルの奴、これでカトリーヌを飛べるようにするんだと。教育の成果が出るといいがね」

「そんなに、フィフィリアンヌさんはカトリーヌを気に入ってくれたんですか?」

きょとんとするカインに、ギルディオスは頷く。

「かなーり、な。あれであいつは子供好きみたいだせ、種族は限定されてるようだがね」

「へえ…」

意外そうな顔をして、カインは湖を悠々と飛び回るフィフィリアンヌを見つめた。水が、さあっと波打った。
鼻先を持ち上げた若草色のドラゴンは、今度は高度を上げ始めた。ばしん、と強く空気が叩かれる。
そしてまた、湖面へ体を近付けるように滑空する。どうやら、カトリーヌに風の掴み方を教えているようだった。
ぐるりと巡ってきたフィフィリアンヌは、ギルディオスらの前に滑り込んだが、すぐに遠ざかっていった。
その首の上に乗るカトリーヌは、必死に翼を広げていた。浮かび上がろうとしているが、なかなか上手く行かない。
薄黄色の目が、怯えるようにカインへ向いた。名残惜しそうに見ていたが、距離が開いたため、仕方なく前を向く。
湖の中央辺りへ進んだフィフィリアンヌは、少し首を下げる。カトリーヌは翼を広げ、何度も動かした。
小さな体は勢いと共に持ち上がったが、すぐに落下してしまう。幾度も飛び上がったが、結果は同じだった。
何度かそれを繰り返していたが、着地点であるフィフィリアンヌの首が少しばかり横へずれてしまった。
着地しようとしたカトリーヌだったが、前足でヒレを掴み損ねた。ずるっと外れ、首の上から滑り落ちてしまう。
きゅー、と悲痛な叫びが水の中へ没した。すぐさまフィフィリアンヌはその位置へ滑り込み、鼻先を水中へ入れた。
救出されたカトリーヌは、くしっと水を吐き出した。フィフィリアンヌを見上げたが、赤い瞳は何も言わない。
また、ばさりとフィフィリアンヌは上昇した。きゅうん、とカトリーヌの声色は泣きそうなものになる。
強い風と巨体が遠ざかり、カトリーヌも遠ざかっていった。切ない鳴き声が、小さくなる。
カインは、思わず駆け出していた。ざばざばと水を掻き分けながら泥の中に進み、カトリーヌに叫んだ。

「飛べ、カトリーヌ!」

ぎぃ、と返事がある。だがすぐに、それはフィフィリアンヌの羽ばたきの音に消された。
水滴に濡れた前髪を強い風に乾かされながら、カインは力を込めて叫んだ。

「飛ぶんだ!」



ばん、と小さく風を叩く音がした。



フィフィリアンヌの巨体から、小さな影が浮かぶように離れる。細い尾が揺れ、風を裂く。
幼いワイバーンは、恐れを打ち消すように猛り続けていた。目一杯首をもたげて、大きく口を開いている。
ぎしゃあ、という叫びに答えるように、フィフィリアンヌの叫びが重なった。二人の声が、空の下に広がる。
再び彼らへ近付いてきたドラゴンに寄り添うように、ワイバーンが滑空していた。頼りないが、羽ばたいている。
フィフィリアンヌの傍らから滑り出たカトリーヌは高度を下げてきた。カインの頭上を、くるりと回ってみせる。
飛べたことが嬉しいのか、しきりにばさばさと翼を動かした。カインは、カトリーヌへ手を伸ばした。
するりとカインの周りを飛んだカトリーヌは、勢い良く主の腕の中へ身を投じた。その重みに、カインはよろける。
なんとか転ばずには済んだものの、少し胸が痛かった。身を乗り出したカトリーヌが、嬉しそうに喚いた。
ぐいぐいと頭を擦り寄せるカトリーヌを、カインは力一杯抱き締めた。動きを休めた翼を、そっと撫でてやる。

「偉いぞ、偉いぞカトリーヌ!」

褒められて嬉しいのか、ぎしゃあ、とカトリーヌは吠える。カインの手を確かめるように、軽く噛む。
硬い牙の痛みを感じながら、カインは何度も頷いていた。カトリーヌの成長が、とても嬉しかった。
よしよし、と顎を撫でてやると気持ちよさそうに目を閉じた。張り詰めていた小さな翼が、へたりと下がった。
水を吸って重たくなった尾のリボンを外して水を絞ってから、カインが結び直してやると、尾がぱたりと揺れた。
一度湖を回ってから戻ってきたフィフィリアンヌは、ゆっくりと体を水面へ落とした。ばしゃん、と波打つ。

「これで、もう充分に飛べるはずだ」

「フィフィリアンヌさん、あなたのおかげです」

カトリーヌを撫でながらカインが笑うと、フィフィリアンヌは首を横に振った。

「来るべき時が、来たまでに過ぎん。それにカトリーヌは、貴様のために飛んだのだ」

「僕ですか?」

「そうだ。その子は体を浮かすことは出来たが、飛ぶことまでは出来なかったのだ。だが」

にやりとするように、フィフィリアンヌの鋭い目が細められた。

「貴様の命令に逆らわぬために、必死になって飛んだのだ。忠実なことだな」

思ってもみないことに、カインは面食らった。カトリーヌとフィフィリアンヌを、見比べてしまった。
いくら幼くても、契約獣は契約獣ということだ。主人から、召喚術師の命令はカトリーヌにとって絶対なのだ。
だがカインにとっては、それは意外な事実だった。カトリーヌが幼いために、契約の意味を知らないと思っていた。
契約時の言葉は常用言語ではなく魔法言語で、人間でも理解は難しい。カインも、細部までは理解出来ていない。
大方、本能的なものなのだろう。カインはこの理屈に少々無理を感じながらも、とりあえずそう納得した。

「カインよ」

湖の水が入り、上澄みが出来ている伯爵が言った。その声は、どこか水気がある。

「カトリーヌは、貴君のような三流の召喚術師に唯一従ってくれる存在である。生涯大事にせねばいかんぞ」

「当然です! でも、僕を勝手に三流にしないで下さいよ。これでも、一級の試験を通ったんだから」

不服そうにむくれ、カインは伯爵から目を逸らす。だばだばと水を吹き出しながら、伯爵は笑う。

「はっはっはっはっは。ワイバーン一匹を召喚するのに魔力強化の陣を使う者が、一流であるはずがなかろう」

「しかも字が下手だ。呪文の発音もおかしい」

フィフィリアンヌに付け加えられ、カインはぎょっとした。腕の中で、カトリーヌがきゅうと鳴く。
ギルディオスはカインをフォローしてやろうかと思ったが、上手い言い訳が思い付かず、やめることにした。
それに、この二人が相手では絶対に口では勝てない。逆に、言いくるめられてしまうのがオチだ。
ドラゴンとスライムに言い負かされているカインを眺めていたが、ギルディオスはふと、反対側を見下ろした。
枯れた木々の向こう、細く流れている川の先には高い城壁に囲まれた城と、それを取り囲む城下町が確認出来た。
城下町の外れには、自宅があるはずだ。ギルディオスは家々の中から探そうとしたが、見当たらなかった。
どれもこれも似通っていて、見分けが付かないのだ。見つけることを諦め、目線を空へ向ける。
夕暮れ始めてきた空は、西日によって赤く焼かれていた。まるで、彼が死んだ日のような色をしていた。
ギルディオスは、傷のない腹へ手を当てる。冷たい痛みが蘇ったような、そんな気がした。




その夜、フィフィリアンヌは遠い目をしていた。
人間の姿に戻り、体を温めるために暖炉の前に座っていた。空のカゴを見ては、あらぬ方向へ目線を泳がせる。
暖炉の前で放心しているフィフィリアンヌに、ギルディオスは何を言うべきなのか、少しも思い付かなかった。
どうやら彼女は、本気で母親になっていたらしい。放心しすぎて、グラスのワインは減っていなかった。
切なげに目を伏せていたフィフィリアンヌは、ちらりとギルディオスを窺った。ほう、と軽く息を吐く。

「貴様のような者には、到底解るまい」

「少しは解るぜ。オレも親だし」

「可愛い娘だったな…」

そう呟いたフィフィリアンヌに、ごとん、とワイングラスが近付く。伯爵は、にゅるんと先端を伸ばした。
手を付けられていないワイングラスへ自分の体を落とし、ごっきゅごっきゅと吸い上げていく。相当、異様な光景だ。
それに気付いたフィフィリアンヌは、伯爵をグラスごと引き剥がした。ぐにゅる、とスライムがテーブルに落ちる。
うるうると動き回るスライムから目を外し、フィフィリアンヌは立ち上がる。小さくなった翼が、折り畳まれる。

「仕方がない、研究を再開するか。他にやることも見当たらないようだしな」

立ち上がったフィフィリアンヌは、作業台へ向かっていった。薬瓶や実験道具を、がちゃがちゃと並べ始めた。
資料や本を広げると、机の上から途中経過を書いた紙を持って行く。それを広げると、少し唸る。
普段通りの小難しい顔をして本を睨み始めたフィフィリアンヌに、ギルディオスはどこか安心していた。
これでこそ、だ。そんなことを思いながら、ずるずると自分のグラスへ戻っていく伯爵を眺めていた。
暖炉の炎から伝わる熱で、じんわりと甲冑の体が温まる感覚を楽しんでいると、不意に声が掛けられた。

「ギルディオス」

甲冑が顔を上げると、試験管へ薬液を注ぐフィフィリアンヌが目線だけ向けてきた。

「貴様はなぜ、私を恐れない。元の姿を見ても、なんとも思わんのか?」

「すげぇな、ってそれだけさ」

「またそれか」

呆れたようなフィフィリアンヌに、ギルディオスは笑う。

「ああ、それだけだ。お前が何もしないって解ってるし、そもそもオレはドラゴンは嫌いじゃないしよ」

「そうか」

視線を試験管へ落としたフィフィリアンヌは、それをくるくると回す。程良く混ぜて、別の試験管の中身を注いだ。
青緑色に液体が混ざり合い、紅色の液体が満ちたランプの上のフラスコへ注がれる。中身が、青紫になる。
弱く立ち上る湯気の向こうで作業を続けるフィフィリアンヌに、ギルディオスは思ったことを言ってみた。

「もしかしてお前、オレが恐れるかどうか心配だったのか? 今更、何を気にしてんだか」

「…悪いか」

間を置いて、言いづらそうにフィフィリアンヌは洩らした。かなり気恥ずかしいのか、顔を逸らす。
吹き出すまいと思っていたが、ギルディオスはつい笑ってしまった。途端に、笑うな、と彼女に叫ばれる。
だが、一度笑ってしまったものを止めることは難しい。口元のマスクを押さえたギルディオスは、肩を震わせる。
機嫌を損ねたフィフィリアンヌは、腕を組み、背を向けてどっかりと作業台に座った。無性に、腹が立った。
ギルディオスに釣られる形で笑い出した伯爵は、ごぼごぼと泡立つ。その都度、湖の泥の匂いが漂ってくる。
窓に映る不機嫌な自分の顔を睨みつつ、フィフィリアンヌは背中に二人の笑い声を受けていた。
何がそんなに可笑しいのか、自分ではさっぱり解らない。だが、理由を聞けば更に笑われるに違いない。
意地になって黙り込み、フィフィリアンヌは二人の笑い声を聞き流した。納まるのを、待つしかなさそうだった。
背後のうるささを無視しながら、彼女は何の気なしに窓の外を見上げた。大きな影が、飛んでいる。
どこぞのドラゴンが、羽ばたきの音を押さえながら、ゆるりと月明かりの下を滑空して通り抜けていく。
青白い月光によって僅かに見えたその肌の色は、夜に溶ける青だった。




夜は更ける。
何事があろうとも、何事もなかったように。

それが、この世界なのである。







04 11/16