ギルディオスは、一人夜道を歩いていた。 がしゃがしゃと、単調ながら騒がしい金属音が響き渡る。右手には、ぞんざいに束ねられた花が握られていた。 森を作る背の高い木々の間から、ばさばさと鳥が飛んでいく。視線を上げたギルディオスは、鳥の影を追った。 だがすぐに、進行方向へ向き直る。藍色の夜空の下に、ずしりとした城壁に覆われた城下町が広がっていた。 夜のうちに霜の降りた硬い土を踏みしめながら、冷えた道を進む。目的地まで、後少し掛かるようだった。 背中に乗せておいたバスタードソードが、歩くたびに揺れる。がしゃん、と鞘が甲冑の体にぶつかって鳴る。 進むに連れて幅の広くなってきた道が、先で二つに分かれていた。右手は、城下へ繋がる道だ。 ギルディオスはしばし右の先を見つめていたが、左の道へ向き直る。今回の目的地は、城下ではない。 冬の匂いの混じる凍った風が、マントと頭飾りをなびかせる。もう数日もすれば、雪が降ることだろう。 次第に地面には傾斜が付いてきたが、辛くなるほどではなかった。薄暗い中、目の前に小高い丘が姿を現した。 丘と地面の境界辺りに、あまり大きくはないが門があり、そこから繋がる低い柵が、丘のふもとを囲んでいた。 門柱には、中央市民共同墓地、と、かっちりした文字が掘られている。さすがにこの時間は、墓守もいない。 固く閉ざされている門から離れ、ギルディオスは近くの柵を跳び越えた。どん、と膝を曲げて中に着地する。 屈めた体を起こしながら、辺りを窺った。人の気配はなく、誰かに見つかった様子もないようだった。 ギルディオスは内心で安堵しつつ、それでも慎重に足を進めた。墓石の列を抜け、幅広の階段を上っていく。 自分の墓の場所は、以前にフィフィリアンヌらと来たときに知り、覚えている。迷わず、一点を目指した。 丘を越えると、その先には平坦な広場があった。弱い風が斜面を登り、右手の花束を揺らしていった。 ここ数年で広げられた共同墓地の、左側に向く。そこは戦死者の墓が並ぶ場所であり、己が眠る場所だった。 「変な感じだよな、自分の墓参りなんて」 緩やかな丘を下って墓地を通り抜けながら、ギルディオスは独り言を洩らしていた。あまりにも寂しいからだ。 右側は一般市民のもので、最近出来たらしい真新しい墓もあった。供えられている花が、白く凍り付いていた。 過去の戦士達の名が印された墓の間を進んでいたが、足を止めた。古びた墓に刻まれた名に、目が止まる。 しゃがみ込み、ギルディオスは墓石の名前を読み上げる。没年度は、現在から六十四年前になっていた。 「騎士、ロバート・ドラグーン、ここに眠る…か」 竜族らしきファミリーネームの割に、墓の大きさは小さかった。中身は、ごく一般的な人間のようだった。 没年度とファミリーネームと職業から察するに、この墓の主は、どうやらフィフィリアンヌの父親らしい。 ギルディオスは、軽く頭を下げた。花束から数本の花を抜いて、ロバートの墓石の前に横たえた。 「フィルの親父さん。あんたの娘には、色々と世話になってるぜ」 立ち上がりながら、ロバートの墓を数回叩いた。知らない人間のはずなのに、不思議と懐かしさがあった。 ギルディオスは辺りを見回してから、自分の墓へ向かった。割と新しい墓なので、墓場の奥の方にある。 彼の墓は、二ヶ月ほど前に掘り起こしたせいで、周辺の土がいびつになっている。なので、すぐに見つかった。 ギルディオス・ヴァトラスの名が刻まれた墓の前に屈み、こん、と拳で叩いてみた。やはり、妙な感じがする。 自分という意識はここにあるのに、朽ち果てた肉体は、目の前の石の下にある。その感覚も、少々感じていた。 馴染んだ剣を扱っているような、しっくりと落ち着いた気分になりながら、ギルディオスは墓に花束を置いた。 その隣には、枯れ果ててはいるが別の花束がある。誰かが、定期的に参ってくれているようだった。 嬉しさと同時に照れくささを感じながら、ギルディオスは枯れた花を取る。それは、彼の好きな花だった。 茶色く縮んでいるが、小振りな花びらにはかすかに白が残っている。誰が置いたのか、すぐに察しが付いた。 その者の名を言おうとしたとき、足音が聞こえた。戦士特有の、鎧と武器の擦れる重たいものだった。 ギルディオスは体を起こし、背中のバスタードソードに手を掛ける。がきん、と鍔と鞘を外し、すらりと引き抜く。 足音は間合いを詰め、そして止まった。かきん、と同じように剣を抜く音がしたあと、足元へランプが置かれる。 柔らかな明かりは煌々と墓場に広がり、足音の主をくっきりと照らし出した。 「あんた」 赤みのある光を浴びて、伸びている影は女だった。大きな胸としなやかな腰を、鈍く光る甲冑が守っている。 身長は高いが、体の全体的な線は細く、その両手が握り締めるバスタードソードは大きすぎるように思えた。 鼻筋と口元を覆い隠すマスクと、ヘルムの間から覗いている鳶色の瞳が、ギルディオスを睨んでいる。 長い足を広げ、腰を落としながらバスタードソードを持ち上げる。強い声が、張り上げられた。 「うちの人の墓に、うちの人の鎧で何の用だ!」 掲げていたバスタードソードを下ろし、ギルディオスは目の前の女を眺めた。忘れもしない、声と姿だ。 ギルディオスは突き付けられている剣先に、己の剣先を向けた。今は、話して解ってくれる状態ではなさそうだ。 猛禽類を思わせる女の目が、僅かに細められた。きちり、とバスタードソードを動かして構えを起こす。 「そうさ、それでいい!」 弾かれるように飛び出し、女は剣を振りかざす。ギルディオスの真正面に突っ込み、剣を振り落とした。 がきん、と鋼同士が競り合う。ギルディオスの目の前に踏み込みながら、女は怒りに満ちた叫びを上げる。 「鎧も剣も返してもらうよ!」 ぎちぎちと噛み合う刃の向こうで、女の叫びは続く。 「墓を荒らして、その上盗みやがって! 死者に対する礼儀ってもんを、知らないのか!」 剣を握る手に力を込め、ギルディオスはぐっと上体を捻った。足を滑らせながら、力任せに女を押し出す。 無理矢理間合いを広げられてしまい、女はずり下がった。だが剣は下ろさずに、すぐさま構え直した。 ギルディオスは二人の間に剣を突き出すと、女の正面へ振り下ろした。だがその前に、女は後退して避ける。 直後、ざすん、と土が切られた。途中で勢いは弱めたが止めきれず、ギルディオスの剣先は深く大地に埋まる。 ざっ、と足を踏ん張って体を止めた女は、振り返り、地面へ剣を突き立てているギルディオスへ向かった。 女はギルディオスの懐に入ると、下からヘルムへ剣先を突き上げる。が、当たる前にヘルムは下がった。 頭を反らしたギルディオスは、今度は胸元に下ろされた彼女の剣を避けつつ、地面からバスタードソードを抜く。 ぐいっと手を捻って剣を翻し、腹部へ飛んできた刃を上へ弾く。ばきん、と激しい金属音と共に女の体が逸れた。 そのまま倒れるかと思われたが、くるりと剣を振り、器用に姿勢を戻した。足を止めながら、息を漏らす。 女は一度肩を上下させたが、息は上がっていない。それどころか、体温が上がって調子が出てきていた。 「やるじゃないのさ」 ギルディオスのヘルムに、ランプの逆光を受けた女の姿が映り込む。彼女の腕は、少しも落ちていなかった。 それどころか、以前にも増して強くなっている。姿勢の戻し方も無駄がないし、間合いの取り方も良い。 さすがだ、と思いながらも、ギルディオスは何も言わなかった。もう少し、彼女に付き合ってやろうと思った。 女はあまり面白くなさそうに、彫りの深い目元をしかめる。バスタードソードの切っ先が、上向く。 「なんだ、だんまりかい」 姿勢を低くした女は、剣を横にした。踏み込むと同時に剣を振り、ギルディオスの足へ刃を叩き付けた。 がこっ、と彼女のバスタードソードが甲冑に叩き込まれた。やった、と小さな声がすぐ傍で聞こえる。 ギルディオスは鎧にめり込んだ剣をそのままに、己の剣を高く上げる。それに気付き、女は素早く身をずらす。 どん、と女の立っていた位置にギルディオスの剣が落ちる。真っ直ぐに、幅広の剣は地面に突き刺さっていた。 女はギルディオスの足と、自分の手を見比べて舌打ちをする。腰の後ろへ手を回し、ぴん、と短剣を引き抜いた。 ギルディオスは右足を上げて、めり込んでいるバスタードソードを引き抜いた。それを、女へ向けて投げた。 がらん、と女のバスタードソードが地面に落ちて回った。二人の剣士の間に、巨大な剣が横たわっている。 女は短剣を腰へ戻しながら、怪訝そうに眉を曲げる。ギルディオスが顎で示すと、彼女はバスタードソードを取る。 「…あんた、ゴーレムかなんかか?」 血の付いていないバスタードソードに、ギルディオスが映っていた。その影は、首を横に振った。 ぎちり、と装甲の擦れる音が鳴った。いつのまにか湿気を帯びてきた風が、甲冑の赤いマントを軽く揺らす。 へっ、と男のするような笑いを漏らした女は、多少汚れているガントレットに守られた手を軋ませる。 「まぁ、別になんだっていいよ。あんたが人間であろうがなかろうが、そんなことはどうだってね!」 掲げたバスタードソードを、振り回すようにして斬り付けていく。その攻撃を、ギルディオスは全て受けた。 ぎん、ぎん、ぎん、ぎん、と高い中にも鈍さの混じる金属音が墓場に響いた。女が、一方的に攻める姿勢になる。 攻めながら、応戦しようとしない相手を、彼女は不審に思った。やろうと思えば、体格差で軽く押し倒せるはずだ。 ぎん、と女の剣が、甲冑の剣の鍔近くへ叩き込まれる。だが甲冑の手は痺れるどころか、下げることもしない。 やはり、この甲冑の中身は人間ではない。身を引きながらそう確信した彼女は、もっと攻めることにした。 地面と水平にしていたバスタードソードを、縦に構えて振り上げた。すると、甲冑はまたもや防御の姿勢になる。 剣は振り下ろされたが、上には叩き込まれず、捻りながら脇へ当てられた。がん、と脇腹の装甲が叩かれる。 それを徐々に押し込んでいくと、分厚い装甲が軋み始める。破れることはないが、次第に歪んできた。 このまま押し切られては、少々まずい。そう思い、ギルディオスは彼女のバスタードソードへ手を掛けた。 指の関節へ刃を滑り入れて噛ませ、空のガントレットに力を込める。そして、ぐっと外側へ押しやった。 引き剥がすと同時に、手前に出されている女の足も軽く払った。放られた剣と共に、彼女は倒れ込んでしまう。 落下の瞬間に上体を曲げてなんとか肩を下にしたが、どん、と固い衝撃と痛みが女の体にやってきた。 痛みと震動で意識が多少薄らいだが、甲冑から染み入る寒さが意識を押し止めていた。彼女は、目を開ける。 剣を立てて支えにしながら、女は起き上がる。ふらついている頭を押さえ、目を凝らして意識を明確にさせた。 呼吸を整えながら、土の付いた頬を拭う。相手は、とどめを刺しに来ない。手加減されているのは、明らかだ。 甲冑の主に哀れまれているようで、いらない同情をされているようで、女は途端に腹が立ってきた。 「そっちにその気がないんなら、良いようにさせてもらおうじゃないか!」 無言の甲冑は、ただ淡々と彼女の感情を受け止めていた。激情の猛りが、銀色に吸い込まていく。 女の剣先が、ヘルムを捉える。柄を握る手に力を込めすぎて、僅かに震えていた。 「この野郎、叩き殺してやる!」 彼女は、ここまで自分が殺気に満ちていることが信じられなかった。 傭兵の仕事のときは割り切っているし、人を殺してもあまり感情は揺れないし、揺れないようにしている。 目の前に立つ甲冑の中身が、例え知っている人間だったとしても、この勢いのままに殺してしまうだろう。 許すことが出来ない。甲冑の中の人間が謝ってきたとしても、命乞いをされたとしても、決して許せない。 汚されたような気がした。今も昔も、心から愛している彼の全てを、奪われたような気がしてならなかった。 守られたことも、そのせいで彼が死んだことも、何もかも。何も言わぬヘルムの奧を睨んでも、何も見えない。 枯れたはずの涙が蘇り、じわりと目元を熱くした。彼は戻ってこない、ならばその道具だけでも取り戻したい。 銀色の甲冑へ据えていた目線を、一瞬だけ外し、ギルディオスの墓を窺った。そして、目を大きく見開く。 十数日前に自分が供えた花の傍に、真新しい花束がある。しかもそれは、彼と自分しか知らない、彼の好きな花。 柄でもないことは解ってる、だから絶対に笑わないでくれ、と、前置きされて告白された花の名は。 「…白スイセン」 漲っていた殺気が、涙に変わる。ぼやけてきてしまった視界の先で、一際目立つ白い花弁が揺れている。 力の抜けそうな手に、無理に力を込める。固く握りしめたバスタードソードを、高々と振り上げた。 偶然だ。この鎧の主が、あの人のことを知っているわけがない。ただ、他の誰かが供えただけだ。 だけど、誰だ。昔の仲間も、息子ですら父親の好きな花のことなど知らない。知っているのは、自分と、そして。 他でもない、ギルディオス・ヴァトラスただ一人。 女の視線が、目の前の甲冑へ戻された。物言わぬ無表情なヘルムに、表情があるように見えた。 右足の膝下に叩き込んだ傷口からは、血も出ないが、土も腐肉も液体鉱石も溢れ出して来ない。空洞だけだ。 構えを外した甲冑は首を前に傾け、するっと背中の鞘へバスタードソードを戻した。足も戻し、顔を上げる。 彼女の手から、次第に力が抜けていく。何度も繰り返して思い出した、生前のギルディオスと同じ動きだ。 戦闘後に、ああして剣を戻してから笑うのだ。終わったんなら、さっさと帰ろうや。ランスは良い子にしてるかねぇ。 がしゃん、と足元にバスタードソードの剣先が落ちる。震え出しそうな指で、そっとマスクを外した。 冷たい外気と共に吸い込んだ空気で、涙を堪えている喉の奥が余計に痛む。彼女は、ぎゅっと手を握った。 「…ギル?」 彼女にしては弱気な声に、ギルディオスは内心でほっとしていた。これ以上は、戦わずに済むようだ。 潤んだ鳶色の目が、真っ直ぐにこちらを見上げている。彼女は、ようやく甲冑の正体に気付いてくれたらしい。 愛すべき妻は、少々鈍い。そのせいで結婚に至るまで苦労したことを、ギルディオスは思い出してしまう。 指輪を渡そうがドレスを渡そうが、素直にそれに対して喜ぶだけで。その中の真意には、気付こうともしない。 実直に結婚して欲しいと言わなければ、彼女はいつまでも気付かないままだった。そういう人なのだ、この人は。 徐々にバスタードソードが彼女の手から外れていき、どん、と倒れた。あれを振り回せるのも、この人だけだ。 ヘルムを外して放り投げ、中に押し込めていた長めの黒髪を広げながら、彼女は顔を上げる。 東の空から差し込んできた柔らかな光が、浅黒い肌の頬を照らす。その上を、さらりと髪が撫でた。 「ああ、オレさ」 妻の不安げな眼差しに、ギルディオスは答えた。 「五年ぐらい振りだな、メアリー」 「ギル!」 勢い良く飛び込んできた彼女の重みに、ギルディオスはよろけた。倒れることはないが、一二歩下がってしまった。 胸よりも少し下で俯き、ぼたぼたと涙を落としているメアリーを支えた。これから戦いに行くらしく、重装備だ。 ギルディオスは妻をなだめるように撫でながら、地面に置いてあるランプの下に、影があることに気付いた。 大きく開いた白い花は、自分の持ってきたものよりも立派な白スイセンだった。本数も多いようだった。 やっぱりか、と思いながらギルディオスはメアリーを見下ろした。落ち着いてきたのか、涙を拭っている。 メアリーは、ギルディオスを愛おしげに見上げた。その目からは、先程までの殺気も鋭さも失せていた。 「どうして」 縋り付くように、冷たい甲冑へ頬を押し当てる。メアリーは、握り締めていた手を緩ませた。 「どうして、最初に言ってくれないのさ。そしたら、あたしは」 目線が落ち、彼の右足へ向かった。攻撃を受けて歪んで破れた装甲の奧から、深い闇が覗いている。 言葉を詰まらせてしまったメアリーの肩を、ギルディオスは叩いてやった。妻は、僅かに身を震わせている。 「お前、死人っつーか死霊が嫌いだろ?」 「うん。あんな未練がましくて鬱陶しいのは嫌いだけど…」 「オレは生き返ったわけじゃないんだ。魂だけが蘇って、死んでることには変わりない。だからよ」 「だからって…死んでたって生きてたって、ギルはギルじゃないか」 変な気を遣わないでよ、と、メアリーはギルディオスの手を掴む。大きなガントレットが、握られた。 ギルディオスは、戦いで上気した妻の頬をもう一方の手で軽く触れた。感覚に、彼女の温度が伝わってきた。 涙の筋を拭ってやると、メアリーは目を閉じる。ギルディオスの手に、そっと妻の手が重ねられる。 「嬉しいね、そう言ってくれると」 「だって、そうじゃないか」 あまり明瞭でない口調で、メアリーは呟いた。温かみのようなものが、彼の胸から感じられる。 それを確かに感じるために、寄り掛かる。内側から発せられる魔力の熱が、甲冑越しに伝わってきた。 「ごめん。色々、ひどいこと言って。おまけに、足と腹まで斬っちゃって…」 「いいさ、大した傷じゃねぇし。都合の良いことに痛みは感じないんだ、この体」 右足に出来た深い傷口を見、ギルディオスは笑う。借金が増えることが予想出来たが、考えないことにした。 脇腹の傷も、あとで修繕しなければならない。帰ったらフィルに馬鹿だと怒られるかな、とも思っていた。 今はそれよりも、目の前の妻だった。五年振りに再会したメアリーは、記憶の中の姿とあまり変わっていない。 彼より二歳年下だから、今年で彼女は三十二歳になるはずだが、出会った頃と同じく若々しいままだ。 ギルディオスは申し訳なさそうに俯く妻を見つめていたが、彼女が顔を上げたので目が合った。 「でも、動けるんなら、なんでさっさとうちに帰ってこないのさ」 「色々と事情がな。借金抱える羽目になっちまったし、魂がこの体に安定するまでもう八ヶ月は掛かるんだよ」 「そりゃあ帰るに帰れないねぇ」 呆れた、というか半笑いのような顔になったメアリーに、ギルディオスは苦笑する。 「だろ? いやー良かった、解ってくれて」 「で、借金はどのくらいなのさ。立て替えられそうなら、してやってもいいけど」 どうせ今は金は稼げてないんだろ、と、にやりとしたメアリーはギルディオスの胸を軽く殴る。 ギルディオスは躊躇したが、彼女の好意を無下には出来ないと思い、小さく言ってみた。 「…金貨八百三十枚」 「はあ!?」 怒りと戸惑いの形相になり、メアリーは後退る。ギルディオスは溜まらなくなり、身を縮めた。 「立て替え、られそうにないよな、さすがに…」 「当たり前じゃないか! 敵方の将軍の首でも一発跳ねるぐらいしないと、返せやしないよそんな大金」 メアリーは額に手を押し当て、ため息を吐いた。あー、と洩らしながらぐしゃりと髪を握る。 「そんなに何に使ったのさ」 「この体に」 「そんな体、ただの中古の甲冑じゃないか。売っても、いいとこ金貨三十か四十枚だよ」 「胸んとこにさ、でかくて上物の魔導鉱石があるんだ。その中に魂が入ってるんだけど、それが…」 「めちゃめちゃ高いんだね」 「そういうことです…」 情けなくなりながら、ギルディオスは次第に声を小さくしていった。逆に、妻の声は厳しくなる。 「もっと安い魔導鉱石に入れてもらえば良かったじゃないか」 「オレに言うなよ。フィルに言え」 「そいつがあんたを蘇らせたわけ? まーたえらい物好きなんだねぇ、こんな木偶の坊をさぁ」 「なんだよその言い草は。ていうか、あんなにオレのために怒ってくれてたのは嘘なのか!?」 「嘘じゃないけどさ。本当のことじゃないか」 ぷいっと顔を背けたメアリーは、不機嫌そうに目を吊り上げる。ギルディオスは、その表情を窺う。 身を傾げて覗き込みながら、彼女が再び怒り出した理由を考えた。すぐに思い当たったので、ああ、と頷いた。 「フィルってのはさ、女だけどガキみてぇな見た目したハーフドラゴンなんだよ。気にするな」 「誰も気にしてやいないよ!」 「じゃあなんでそこで怒るんだ、うん? メアリーやい」 こん、とギルディオスはメアリーの額を小突く。頬を張っていたメアリーは、上目に彼を見る。 「…本当に、ガキなんだね?」 「ああ。だーから下らねぇ心配するなって。それにお前が気にするほど、オレは女には縁はないんだから」 「それじゃあ今度、そのフィルに会わせてくれないか。やましいことがないんならさ」 「解った解った。しかし、ほんっと可愛いなーお前って」 子供にするように、ギルディオスはメアリーの頭へ手を置く。その下で、彼女は目を逸らした。 「あんまり言わないでくれよ。あたしは凄く恥ずかしいんだから」 「そうだよなー、勢いで亭主を叩っ殺そうとするし、ガキに妬いちゃうし」 「それ以上言うと頭を貫くよ」 腰から短剣を外し、メアリーは剣先を夫のヘルムへ突き付けた。朝日を受け、切っ先がぎらりとする。 ぎゅっと唇を締めながらそれを向けているメアリーは、気恥ずかしさと情けなさで、すっかり頬が紅潮していた。 ああ、可愛いな。ギルディオスは彼女を抱き締めたい衝動に駆られたが、短剣が刺さるのでやめた。 メアリーは短剣を下ろし、腰の鞘に戻した。あまりの大人げなさに、また恥ずかしくなってしまった。 昇ってきた朝日が、二人の影を墓場に長く伸ばしていた。ランプからこぼれる明かりが、弱まって見えた。 メアリーは所在なく視線を動かしていたが、目を止めた。自分の持ってきた白スイセンの花束を、見下ろした。 供えられていない花は、寂しげに通り道へ転がされていた。小走りに向かい、それを取ると彼の元へ戻る。 メアリーは白スイセンとギルディオスを見比べたが、顔を背けながら花束を突き出す。 「本人がいるんなら、墓に置くこともないだろ」 「オレが先に供えちゃったしなぁ」 「だから、あげる。枯れるよりもいいだろ」 メアリーは、ぐいっと花束を押し付けた。それを受け取り、ギルディオスは嬉しげな声を出す。 「ありがとな。墓、参ってくれて」 「死人が礼を言うんじゃないよ、気色悪い」 「いいじゃねぇか。オレは嬉しいんだから」 白スイセンの花を下ろし、ギルディオスは照れ隠しにむくれている妻を見下ろした。 「忘れないでいてくれてよ」 「誰があんたを忘れるもんかい。自分の旦那なんだから」 表情を緩め、メアリーはギルディオスを見上げる。甲冑は、以前の彼よりも少し身長が高い。 ギルディオスは妻がどうしようもなく愛しく思えて、にやついてしまった。だが、その表情は出ない。 甲冑の顔であることを、ギルディオスは内心で感謝していた。何がおかしい、と怒られなくて済むからだ。 バンダナに押さえられている黒髪が数本こぼれて、広めの額に細い影を作っていた。メアリーは、呟く。 「それじゃあ、その、まだあんたはうちに帰ってこられないんだね?」 「ああ、まぁな。自分の魔力で魂を維持出来ないから、フィルから魔力をもらわないとくっつけていられねぇんだ」 「あたしが魔導師なら良かったのにねぇ」 そしたらそれが出来るのにさ、と、不満げにメアリーは唇を尖らせる。彼女も、魔力が少ない人間なのだ。 ギルディオスは苦笑し、がりがりと頭部を掻いた。赤い頭飾りが、へたりと顔の横に落ちる。 「まーさかランスに頼むわけにもいかねぇしなぁ」 「そのランスも、しばらくは戻ってこないしねぇ」 「修行にでも出たのか?」 と、ギルディオスが尋ねると、メアリーは頷いて城下の先を指した。 「南西の魔法都市に、近所のパトリシアちゃんとパーティ組んでさ。精霊魔導師の昇級試験も兼ねてね」 「よーくやるぜ」 他人事のように、ギルディオスは感心した。幼かった息子、ランスの姿が彼の記憶に浮かんできた。 両親の容姿を程良く混ぜたおかげで、どちらかといえば可愛らしい外見と、人懐っこさを持った少年だった。 ランスが精霊魔導師の資格を手に入れたのは、ヴァトラス一族でもかなり早い八歳の頃。才能の固まりだった。 小さな頃から英雄譚や冒険譚が好きだった彼は、自分の力を正しいことに使うんだ、と、張り切っていた。 パトリシアという少女は、ギルディオスはあまり覚えがなかった。息子の、幼馴染みだったことは覚えている。 彼女には、息子が帰ってきたときに一緒に会えるだろう。そのときにでも、交流を持てばいい。 ギルディオスはそう思いながら、白く染められていく東の空へ顔を向けた。遠くに、竜のいる森が見えた。 屈んだメアリーは、地面へ寝ていたバスタードソードを取った。背中に乗せている鞘へ、するりと納めた。 「それじゃ、あたしはこれから仕事があるから」 「おう。敵はどんなんだ?」 「ただの野党だよ。王国軍の討伐隊に加勢してくるのさ」 「そうか。なら、別に心配はいらないな」 ギルディオスが頷くと、メアリーは親指を立てた手を突き出す。 「あんたが後ろにいない分、強くなったからね」 おもむろに、ギルディオスはメアリーの手首を掴んで引き寄せた。ガントレットに守られているが、細めだった。 甲冑に包まれた細身の腰に、手を回した。きょとんとしたように半開きになっている、彼女の唇へ視線を据える。 生前の時と感覚は違うが、位置は同じだ。ギルディオスはヘルムを少し上へ動かして、マスクの部分を出す。 そこに、メアリーから唇が当てられる。途中で何をされるか解ったので、自分からしたまでだった。 冷たい鋼鉄から、そっとメアリーは顔を放す。気恥ずかしげに口元を押さえ、目を細める。 「鉄臭い」 「当然だろ、甲冑なんだから」 「それもそうだね」 くすりとメアリーは笑い、ギルディオスから離れた。足元に放り投げていた、ヘルムを取った。 マスクを戻して鼻と口元を覆い、髪を後ろにやってからヘルムを被る。腰の短剣の、鞘の位置を整えた。 装備を直す妻を見ていたギルディオスは、先程彼女がしたように、親指を立ててみせる。 「じゃ、行ってこいや」 「ん」 軽く手を振りながら、メアリーはギルディオスへ背を向けた。ランプを取り、城下の方向へ駆け出す。 バスタードソードを乗せた背が、墓地を囲む低い柵を軽く跳び越える。外へ着地してから、一度振り返った。 何か言おうとしたようだったが、言葉に詰まってしまう。だが意を決したように、彼女は声を上げる。 「愛してるよー、ギル!」 ギルディオスは返事をしようとしたが、間合いを逃した。妻の後ろ姿は、既に墓地から遠ざかっていた。 何もそこまで走らなくても、戦いの前に無駄に体力を消費しなくても、と思いつつ、彼は妻の去った方を見つめる。 王都の周辺を取り囲む広大な畑には、まばらに作業をする農民の姿があった。夜は明け、朝になりつつあった。 ギルディオスは妻からの花束を大事に握り、墓地の敷地から出ることにした。そろそろ、帰らなくてはならない。 入ってきたときと同じように柵を跳び越えてから、西の森へ向かう。鳥の鳴き声は、至るところから聞こえていた。 がしゃがしゃと足音を響かせて歩きながら、ギルディオスは妻と会えた幸せに浸っていた。 朝日の差し込む森を抜け、フィフィリアンヌの家に戻ると、既に家主は起きていた。 暖炉には火を入れたばかりのようで、火は弱く、薪は丸々焼け残っている。その前で、少女が丸まっていた。 フィフィリアンヌはまだ起きたばかりのようで、目はとろんとしていた。眠たげな顔を、ギルディオスへ向ける。 テーブルの上に置かれた伯爵は、うっすらと結露の浮いたグラスに満ちている。ごぽん、と大きい気泡が浮かぶ。 マグカップを握り、弱い湯気の立ち上るワインを傾けていたフィフィリアンヌは、欠伸を噛み殺しながら呟いた。 「ギルディオス、どこへ行っていた」 「自分の墓参りにさ」 ギルディオスは扉を閉め、メアリーからもらった花束を伯爵の隣へ置く。物珍しげに、伯爵がにゅるりと動いた。 つるんと伸ばされたワインレッドの触手が、白スイセンに触れた。ぺたりと撫でてから、引っ込められる。 「これは珍しいのである。この無粋で色気のない家に、花が持ち込まれるとは。何十年ぶりであろうか」 「たまにゃいいだろ、潤いがあってよ。フィル、花瓶かなんかないか?」 テーブルから身を乗り出してギルディオスが尋ねると、フィフィリアンヌは下を指した。 「あるとすれば地下倉庫だ。勝手に探せ」 「おう」 返事をし、ギルディオスは扉へ向かった。振り返り、フィフィリアンヌはマントを乗せた背を見つめた。 いつになく浮かれているようで、足取りも軽かった。墓参りの最中に何かあったのは、明らかだった。 ふと、フィフィリアンヌは目線を落とす。寝起きのせいでぼけている視界を強め、彼の足元と脇腹を眺める。 外へ出ようとしているギルディオスを、フィフィリアンヌは立ち上がって制止し、テーブルへマグカップを置く。 「待て。なんだ、その派手で仰々しい傷は」 「え、ああ。墓場でメアリーに会ってさ、一戦交えてきた」 うっかり負傷しちまってよ、とギルディオスは茶化すように笑った。フィフィリアンヌは、腕を組む。 少し唸りながら、ギルディオスの傷をじっと見据える。眠気の失せた目の上で、細い眉がしかめられた。 扉を開けた姿勢のまま突っ立っている彼へ詰め寄りながら、フィフィリアンヌは顎へ手を添える。 「右足の割れは、交換せんと直せそうにないな。脇腹の歪みも、修繕よりも交換の方が手っ取り早いと思うぞ」 「ギルディオスよ。貴君の装甲一枚の値段は、大きさにもよるが、一枚で金貨七枚から十二枚と見て良い」 ぐにゅ、とワイングラスから伯爵が溢れた。フィフィリアンヌは、ギルディオスを指す。 「さてここで、簡単な計算だ。貴様が私に支払っていない金の合計は、金貨八百三十枚。そして、今し方破損させた装甲の枚数は、右足の前後の二枚と腹部の五枚。それらの値段の平均は、単純計算で、金貨十枚だと思われる。して、その答えは?」 「…五足す二かける十は七十で、七十足す八百三十は」 答えながらギルディオスは項垂れ、力なく手を上げた。 「金貨九百枚」 「正解だ。さあ払え」 すいっと、フィフィリアンヌはギルディオスに手を差し出す。催促するように、軽く手首が前後した。 小さな白い手を見つめていたギルディオスは、足を床に擦り付けながら後退した。恐る恐る、顔を上げる。 固く唇を締め、きっと眉を吊り上げている。鋭く赤い瞳が、ギルディオスを射抜くように睨み付けていた。 ギルディオスはいつのまにか竦めてしまっていた肩を下ろし、かなり情けなくなりながら呟いた。 「…もう少し、待ってくれ」 「せめて一割は返してもらおう」 「はい」 泣きそうな声で頷いたギルディオスにフィフィリアンヌは、必ずだぞ、と強調してから机へ向かっていった。 伯爵の笑い声を背に受けながら、ギルディオスはよろよろと扉を開けて外へ出た。日が昇り、少し風が温かい。 ばたん、と扉を閉めてから、呆然としながら雲の散らばる空を見上げた。行き場のない憤りが、物悲しさになった。 メアリーを責めるわけにはいかないし、責めるつもりもない。彼女は、自分を愛するが故に剣を振り上げたのだ。 それにギルディオスは、それを解った上で攻撃を受けた。予想していた結末じゃないか、と己に言い聞かせる。 だが、借金が増えた事実に気が滅入らないわけがない。金貨九百枚の値段の体が、いつもより重たく感じた。 どうやって返そうかとぼんやり考えながら、ギルディオスは花瓶を探すために地下倉庫へ向かっていった。 朝日で霜が溶け、枯れ草をきらきらと輝かせていた。ふと、ギルディオスは近くの木の根元に気付いた。 つぼみを開いたばかりの白スイセンが、いくつか咲き誇っていた。朝露に、花が美しく光っている。 しばらくそれを見つめていたが、ギルディオスは顔を上げた。うん、とあらぬ方向に頷く。 「ま、なんとかなるだろ」 根拠のない自信を取り戻したギルディオスは、足取りが一気に軽くなった。 地下倉庫へ駆けていく甲冑の姿を、二人は窓から見下ろしていた。ことん、と窓枠にグラスが置かれる。 フィフィリアンヌは、伯爵へワインボトルを傾けた。どぼどぼとワインを注がれ、スライムは表面がつやりとする。 燦々とした日差しが半透明の体を抜け、色の付いた影が出来ていた。伯爵は先端を伸ばし、彼女へ向けた。 「花如きで持ち直してしまうとは。いやはや、単純の極みである」 「全くだ」 そう返したフィフィリアンヌは、窓枠へ腕を乗せ、頬杖を付いた。 「あれが死人であることを、忘れてしまいそうになるな」 五年振りに交わした口付けを、二人はそれぞれに思い返していた。 その味は、死の冷たさと鉄の苦み。生者と死者の、越えられない隔たりを感じさせた。 だが、それでも。 二人の重剣士は、それなりに幸せなのである。 04 11/22 |