雪の中を、彼らは黙々と歩いていた。 数日前から降り続いている雪が、二人の行く手を阻んでいた。白に埋もれた道を、掻き分けるように進む。 いくら分厚いコートと手袋を着込んでいても、寒さは染み入るもので、指先の感覚は失せそうになっている。 彼としては、いい加減に肩と頭に乗った雪を払いたかったが、両手は荷物で塞がってしまっていた。 左手のバスケットが、ずしりと重い。出掛けに母親から持たせられたもので、温かな料理が入っている。 それを持ち直してから、水色の魔導鉱石が先端に填め込まれている、金色で長めの杖を肩に担ぎ直した。 強い風に流されて頬へ当たってくる雪は、冷たく、痛い。杖を持っている方の手で、頬に付いた雪を拭った。 雪がまとわりついて重たくなった足を止め、ランスは一息吐いた。背後の足音が、彼を追い越してから止まった。 ランスよりも頭一つ身長の高い影が、少年の隣に立つ。コートのフードを広げると、下から青い目が覗いた。 血色の良かった彼女の頬は、すっかり白くなっていた。手袋を填めた手で、ランスの肩と頭を払う。 「ランス君、寒くない?」 「そりゃ寒いよ」 容赦のない寒さに少々苛立ちながら、ランスはパトリシアを見上げる。彼女は、少し首をかしげている。 ふわふわした長いブロンドが、フードから落ちて風に揺れた。首に巻かれたロザリオが、しゃりっと落ちる。 パトリシアは、自分の肩や頭の上をばさばさと払った。そして、おもむろにランスへしなだれかかった。 「寒いよねぇー、すっごぉく」 ランスが抵抗する前に、パトリシアは少年の頭を胸へ抱え込んだ。抱き締めつつ、にんまりする。 力一杯締め付けてくる彼女を退けようと、ランスは必死に杖で彼女を遮った。だが、隙間も開かなかった。 妙な笑みを浮かべるパトリシアを杖で押し返しながら、顔を逸らしたランスは、声を上げる。 「だから明日にしようって言ったんじゃないか!」 「寒いから今日がいいのぉ。わっかんないかなぁ、この乙女心」 「解らないよそんなもの! ていうか重たいんだけど!」 次第に斜めになりながら、ランスが叫ぶ。少女とはいえ、年上で十六歳のパトリシアは重い。 このまま行けば、道へ倒れ込んでしまう。仕方なしに、ランスは杖を下ろして体の後ろへ突き立てた。 かっ、と杖の先が雪の下の地面を叩く。その間にも、パトリシアは腕の力を抜こうとしない。 「そんなこと言っちゃいやーん」 「マジで重いんだよぉ!」 がりっ、と杖の先が地面を擦った。ランスは抵抗しようとしたが、彼女の体重と腕力には勝てない。 んー、と声を洩らしていたパトリシアは、仕方なさそうに腕を緩めた。ランスから体を離し、むくれる。 「んもう、残念」 「…何が」 中途半端に後退した姿勢を戻し、ランスは立ち直る。左手のバスケットは、なんとか無事だった。 はあ、とため息を吐いてから、進行方向を見た。地面を走ってきた風が、ごおごおと白い壁を作っている。 ぼんやりとした白黒の景色の先に、高い針葉樹が並んでいるのが見えた。今回の目的地は、あの森の奧だった。 ランスは一度、後方の城下へ振り返る。強固な城壁や中央の城の姿も、さすがに激しい雪に霞んでいた。 そして、隣のパトリシアを見上げる。彼女を守る紺色の長いコートの肩には、白く十字の印が描かれていた。 パトリシアはすかさず振り向いて、満面の笑みを向けてきた。ランスは多少うんざりしたが、歩き出した。 「パティ、さっさと行こうか」 「そんなに急ぐ用事でもないんでしょん?」 素っ気ないランスに不満そうにしながらも、パトリシアは後に続く。足跡のない道を、ざくざくと進む。 振り向くまいとしながら、ランスはしっかりと杖を握って足を進める。これ以上、彼女に構っていたくない。 「急ぎっちゃ急ぎかな。預かってきたのは魔導書簡だから、十日以内に届けないと手紙の本文が消えちゃうし」 「でも、なんでそんなものをランス君が届けなきゃならないのよん?」 「だから、その理由はさっき話しただろ」 遠くに見える針葉樹の森を見据えながら、ランスは大股に歩き続ける。 「母さんと魔導師協会の話だと、今から行くフィフィリアンヌって魔導師の家に、僕の父さんがいるらしいんだ」 「でも、ギルさんは五年くらい前に亡くなったはずじゃなかったっけ?」 並んで歩きながら、パトリシアが問う。ランスは思い出しながら、返す。 「その人に魂だけ蘇らされて、魔導鉱石との融合体になる途中らしい。体は甲冑なんだってさ」 「へーぇ。面白いことするのねぇ、その人」 「で、父さんは、諸々の代金で金貨八百三十枚も借金してるんだと。最近それがまた増えて、金貨九百枚だとさ」 「立て替えてあげる?」 「まさか。僕が成人してたら話は別だけど、いくら自分の親だからってそこまで金は出せないよ」 ランスは、少し肩を竦めた。だよねぇ、とパトリシアが頷く。歩くうちに、鬱蒼とした森が近付いてきた。 二人の前に、並んで歩くには少々狭い道が現れる。木々が雪を遮っているのか、道に積もっている雪は少ない。 これなら、少しは歩きやすかった。ランスが先に行き、その足跡を追うようにパトリシアが続いてきた。 一歩森へ踏み入れた途端、ランスは畏怖に似た感覚を覚えた。だが、表情には出さずに、足を進める。 雪の日は、水と風の精霊が騒いでいる。彼らのやかましい声が、この森の中ではぴたりと途絶えていた。 精霊に対する感覚が鋭敏過ぎて、常時精霊の声を聞いているランスとしては、この状態は少々違和感があった。 静か過ぎて、逆に勘が鈍ってしまいそうになる。二人が雪を踏み固める音が、いやにやかましい。 たっぷりと雪を乗せている枝が、徐々にしなった。それが大きくたわみ、どさり、と目の前に白い煙が上がった。 思わず足を止め、ランスは辺りを見回す。精霊だけではない、他の生き物の気配も、かなり少ない。 最初に感じた畏怖が、徐々に強くなる。ただならぬ気配があり、この森はただの森だとは思えなかった。 立ち尽くしているランスに、パトリシアが首をかしげた。きょとんとした彼女に、ランスは呟く。 「…なんかさ、この森、変じゃない?」 「何が?」 「いや、いいや」 彼女に聞いたのが間違いだった。そう思いながら、ランスは一直線に伸びている道をまた進み始めた。 迷わないようにするためか、迷わせることなく誘い入れるためなのか。細い道は、ずっと奧へ続いている。 木々が遮っているおかげで風は弱まったとはいえ、それでも雪は降っている。視界は、白に塞がれたままだ。 先が見えないということが、一層不安を掻き立てる。ランスは、寒さではない冷たさを背に感じる。 一体何なのだろう、この感覚は。自分は、何が恐ろしいのだろうか。そして、ここには何がいるのだろうか。 明確な答えを見つけられないまま、ランスは歩き続けた。道を挟んでいる木々が、不意に途切れている。 あ、と後ろでパトリシアがどこか嬉しそうな声を上げる。ようやく到着出来るので、安堵しているようだった。 顔を上げ、ランスは森の中に現れた空間を見上げた。この先に、畏怖を感じさせるものの正体があるようだった。 言い表しづらい感覚的な恐ろしさと、正体を知りたいという妙な好奇心を宿しながら、ランスは少し早足になる。 誰かがいるのか、空間の手前の道は、固く雪が踏み固められている。そして、唐突に灰色の家が現れた。 吹雪を受け、窓をがたがたと揺らがせながら、石造りの家が二人を待っていた。そして、妙な影も。 立派な造りの家の前に、どっさりと雪を被った甲冑が立っていた。赤いマントと頭飾りも、すっかり白い。 それらをばさばさとなびかせながら、巨大なバスタードソードを振り回している。ひゅおん、と空が切られた。 だん、と踏み出しながら、勢い良く剣が振られる。不意に、大きな剣先がランスとパトリシアへ向いた。 「んあ?」 気の抜けた声に、ランスは拍子抜けしそうになった。一目で、これが誰なのか、甲冑が何なのか解った。 真冬の、しかもこんな吹雪の日に、わざわざ外へ出て剣の修練をするような輩は、自分の父親しかいない。 妙な状況にぽかんとしているパトリシアを横目に、ランスは一歩前へ出た。杖を突き出し、向ける。 「何やってんですか父さん」 「寒中稽古」 「そりゃ解るけど…」 呆れているランスへ、バスタードソードを肩に乗せたギルディオスはけらけらと笑う。 「いやー楽しいぜー、これ! 体を動かしてないと雪がどっさどさくっつくし、気を抜くと関節が凍るしよー」 「十年前にも同じこと言って、凍死しかけたのはどこの誰だよ」 「今はオレ、簡単には死なねぇもん」 と、息子に返し、ギルディオスは背中の鞘へバスタードソードを戻す。がちん、と鍔に付いた氷が砕ける。 肩と腕に張り付いた雪をはたき落としてから、がしゃがしゃと甲冑はやってきた。ランスは、父親を見上げる。 母親の言った通りだった。確かにこの甲冑の中身は、ギルディオス・ヴァトラスその人に間違いない。 だが、せめてもう少し落ち着いた再会をしたかった。ランスは、なんだか情けないような気分になった。 「死んでるのに元気だなぁ…」 「ていうか、元気すぎない?」 不思議そうに、パトリシアが呟く。ランスは、何度も頷いた。 ギルディオスはヘルムの隙間に付いた雪を落としてから、逆手に石造りの家を指した。 「んで、ランス。お前、フィルっつーか、フィフィリアンヌに用事でもあるのか?」 「あ、まぁ。でも、なんで解るのさ?」 「オレや伯爵に用事のある奴は、そんなにはいねぇからな。消去法、って奴だよ」 まぁ入れ、と、ギルディオスは家へ向かった。パトリシアは、ランスと顔を見合わせる。 「話が早いわねぇ」 「早すぎて変な気がするけどね」 まぁいいか、と思いながら、ランスは家へ向かうギルディオスの背を見た。昔よりも、少し近くなった気がした。 玄関前に昇ってすぐ後ろに立つと、それはより実感出来た。幼い頃は巨大に思えた父親が、今はそうでもない。 屋根の下に入ったパトリシアは、フードを外してコートに付いた雪をはたき落とす。ランスも、同じようにする。 ギルディオスは息子とその連れが雪を払い終えてから、扉へ手を掛け、がちゃりと開けた。 家の中に入った二人は、まず暖炉の前に通された。冷え切った体を、温めるためだ。 ランスは凍り付きそうなほど雪の付いたコートを脱ぎ、暖炉の前の椅子へ掛けた。物珍しさで、辺りを見回す。 まるで、図書館のようだった。天井まである棚にびっしりと並べられた大量の本と薬瓶が、壁を埋めている。 本棚が途切れているのは、四つある上下式の窓と、二階へ続く狭い階段と、暖炉の周辺だけしかない。 階段のすぐ手前には、大きな机が置いてある。その上にも、十数冊の本や様々なビンが並べられていた。 暖炉の前で体を丸めていたパトリシアは、テーブルの上に置かれている、中身入りのワイングラスに気付いた。 並々と満ちているワインは、つやりとしている。パトリシアはなんとなく、それに手を伸ばそうとした。 不意に、ワインはぐにゃりと動き、グラスから半透明の中身を持ち上げる。楽しげな、男の低い声がした。 「この暇な日に来客とは、いやはやなんとも丁度良いことであるぞ」 「うぎゃっ」 急に動いたワインにおののき、パトリシアは仰け反った。ランスは、台所の方へ言う。 「父さん、なんかワインが動いたんだけどー」 少し間を置いて、ティーポットとカップを抱えたギルディオスが戻ってきた。テーブルを見、ああ、と呟く。 表情を引きつらせているパトリシアは、おずおずと、笑い声を上げている動くワインを指した。 「…これ、なんですか?」 「そいつが伯爵だよ」 がちゃがちゃと道具をテーブルへ並べながら、ギルディオスは伯爵のはみ出ているワイングラスを押しやった。 テーブルの端に移動させてから、暖炉の手前で湯気を上げていたポットを取り、ティーポットへ湯を注ぐ。 並々と入れてから、またポットを暖炉に戻す。ティーポットに蓋をしてから、天井を見上げた。 「フィルの奴、まーだ起きてこねぇ。もう昼も近いんだけどなぁ」 「ハーフとはいえ、奴もドラゴンなのである。冷血なオオトカゲは、こういった寒さに弱いのだよ」 とぷん、と伸ばしていた体を落とし、ワイングラスに波紋が広がる。ごとり、と伯爵はグラスを動かす。 ランスは、父親と同じように天井を見る。畏怖の正体が解ったので、全てのことに納得が行った。 「それでか…」 「何が?」 パトリシアに尋ねられたので、ランスは面倒に思いながらも説明した。 「この森が変なのは、ドラゴンがいるせいみたいだ。通りで、精霊も動物も静かなわけだよ」 「オレは別に怖くないぜ」 と、ギルディオスが返すと、ランスは少し嫌そうにする。 「父さんが鈍いからだよ。ドラゴンってのは、悪と力の象徴なんだ。大抵の生き物なら、本能で恐れる相手だよ」 悪という言葉に、ギルディオスは一瞬、言い返そうとした。すぐに、そういう考えもある、と思い直した。 すっかり煮出された紅茶を、二つのティーカップへ交互に注ぎながら、五年の間に成長した息子を窺う。 顔立ちは、以前よりも増してメアリーに似てきている。鋭さを持った目の形や鼻筋は、妻のものだ。 肌の色はギルディオスに近いが、それでも僅かに浅黒い。長めの黒髪は、後頭部の高い位置で括ってある。 不意に、薄茶色の瞳が向けられた。ギルディオスに似ているのは、ここぐらいしかない。 「何?」 「いや、別に。メアリーに似てきたなー、って思ってよ」 紅茶を二人に出すと、ギルディオスは向かい合う位置の椅子へ腰掛ける。ランスは、ティーカップを取った。 「良く言われるよ」 「あ、申し遅れました。私、パトリシア・ガロルドって言います」 ティーカップで指先を温めながら、パトリシアは笑む。ギルディオスは、彼女へ振り向く。 「ガロルド…ああ、二丁目の鍛冶屋の嬢ちゃんか。ランスが世話になったな」 「いえいえ、このままずうっとお世話しちゃいますから! ランス君、可愛いしぃー」 きゃあん、とパトリシアは両手を組んで頬へ当てる。体が温まって血色の戻った頬が、更に紅潮した。 ランスはその態度に困りながらも、ギルディオスへ目を向ける。不可解そうに、甲冑は首をかしげている。 説明を求められそうだったので、ランスは父親から視線を外し、紅茶を一口飲んだ。途端に、渋みに襲われた。 ランスは顔をしかめながら、ゆっくりとティーカップを下ろす。強引に飲み下してから、呟いた。 「…何これ」 「渋ぅ」 半分以上飲んでから、パトリシアは表情を歪める。ギルディオスは、がりがりとヘルムを掻いた。 「オレは味見出来ねぇからなぁ…。それ、そんなに渋いか?」 「父さん、紅茶淹れたことあったっけ?」 ティーカップをソーサーへ載せてから、ランスはギルディオスを見上げる。父親は、がしゃりと腕を組む。 「ねぇな。こういうことは、メアリーに任せっ切りだったから」 「悪いけど、後で私が淹れ直してもいいですか?」 パトリシアの懇願に、ギルディオスは頷き、情けなさそうに笑った。 「おう。その方がいいだろ、さすがによ」 「はっはっはっはっは。来客すらまともにもてなせないとは。貴君は無能の極みであるな」 ごとん、とテーブルの端からワイングラスが前進する。ギルディオスは、すかさず言い返す。 「うるせぇやい。オレが暖炉に火を入れるまで、がっつり凍り付いてたあんたにゃ言われたくないね」 「はっはっはっはっは。我が輩の八割は水分なのだ、この気温では凍り付くのが自然というものなのである」 「いっそのこと、あのまま凍らせといた方が良かったかもな。その方が、ずっと静かで平和だしよ」 「はっはっはっはっはっは。フィフィリアンヌが起きておらんと、随分と威勢の良いことだなギルディオスよ」 「そりゃどうも。お互い様だろ」 伯爵から目線を外したギルディオスは、視線に気付いた。ランスとパトリシアが、二人を見比べている。 パトリシアは細い眉を曲げていたが、テーブルの上に身を乗り出してギルディオスに尋ねた。 「この不可思議物体とは仲が良いんですか、それとも悪いんですか?」 「良くはないだろ。たぶん」 好かれている気はしないし、とギルディオスは付け加えた。うむ、と伯爵も頷くように揺らぐ。 ランスは、ワイングラスを見下ろす。その中から、ワインレッドのスライムがにゅるりと立ち上がった。 「ほうほう…貴君がこの単純馬鹿の息子というわけか。親に似ず、なかなかもって利口そうな少年であるな」 「ランス・ヴァトラスです」 「いい名だが、我が輩には負ける。我が輩の名はゲルシュタイン・スライマス、伯爵と呼んでくれたまえ」 「あなたのどこが伯爵なんですか」 「はっはっはっは。さすがに親子だ、父親と同じ突っ込み方をする」 面白いものだ、と伯爵は楽しげに笑った。ランスは、ギルディオスを見上げる。 「マジで?」 「おう。それ、二回目だから」 と、ギルディオスは笑った。自分と息子の思考が似ていることが、嬉しくもあり気恥ずかしいような気分だった。 ランスは逆に、少し嫌になった。どこがどう嫌なのかは明確に解らないが、あまり受け入れたくはなかった。 話を逸らすためにポケットを探り、魔導師協会からの手紙を取り出した。淡い紫の封筒を、テーブルに置く。 「で、これが今日の用件。こいつを直に、フィフィリアンヌって人に渡さなきゃ帰れないんだ」 「オレが預かってるんじゃダメなのか?」 「魔導師協会規定、第七項。魔導書簡の配達請負人は、必ずその宛先人へ届けなくてはならない。以下略」 そういう決まりなの、と、ランスは手紙を裏返して封蝋を指す。 「魔導書簡は、差出人か宛先人しか開けられないように、色々と魔法が掛けてあるしね」 「んじゃ、それ以外の奴が開けたら?」 「差出人の掛けた魔法にも寄るけど、とりあえず呪われると思うよ。最低でも二十年ぐらいは」 「へーぇ。知らなかったぜ、そんなこと」 「こんなの常識だよ。父さんが物を知らないだけだよ」 腕を組み、ランスは胸を張った。ギルディオスは息子の態度に苛立つことはなかったが、感心はしていた。 記憶の中にいた八歳の息子は、しっかり五年分の成長を遂げている。しかも、思春期の真っ直中だ。 身の丈ほどもある杖に振り回されていたのに、その身長と体格は、いつのまにか杖を追い越している。 魔導師の衣装を包むマントを、立派な飾りが胸元で止めていた。深い赤の魔導鉱石が、中心に填っている。 マントの下、右胸の当たりには、試験を昇級した証拠のブローチが五つ。あと二つで、一人前になれる。 普通の魔導師でも、そこまで昇級するのは十年は掛かる。なのに、それを半分で済ませてしまった。 ギルディオスは息子の才能に感服していたが、ふと、彼の横に置かれた物に気付いた。 「ランス、そのバスケットは?」 「母さんが持たせたの。父さんは食べられないけど、フィフィリアンヌって人に食べてもらえって」 バスケットを引き寄せ、どん、とテーブルへ載せた。張り付いていた雪が溶け、水滴となって滴り落ちている。 中には、蓋の付いた陶製の鍋がキルトにくるまれている。その上に、紙に包まれた長方形の物があった。 紙包みの物を取って眺めていたギルディオスは、中へ戻してから顔を上げた。これが何なのか、察しが付いた。 「フルーツケーキとシチューか」 「そうだよ。鎧でも、嗅覚はあるってこと?」 「まぁ、多少はな。それに中身を見なくったって、メアリーが作るもんは大抵決まってる」 「おいしいけど種類がないんだよね、母さんの料理って」 ランスは、少し可笑しくなる。ギルディオスは身を引き、椅子に座り直した。 「そうなんだよなー。別に飽きはしないんだが、いつまで経っても同じのしか作らねぇんだよ」 パトリシアは、渋い紅茶を手近なフラスコの中に移し、茶葉を捨ててから、ティーポットへ新しい茶葉を入れた。 しゅんしゅんと湯気を噴き出しているポットを取り、とぽとぽと適量の湯を注ぎ入れていく。 自分のティーカップを取り、パトリシアは少し躊躇したが、ぐいっと飲み干した。が、やはり渋かった。 「うごっ」 一気に喉へやってきた強烈な渋さに、パトリシアはげほげほと強く咳き込んだ。 ランスは変な顔をしながら、自分のカップの中身をフラスコへ捨てる。 「何やってんの」 「つい…貧乏性で…」 苦しさで涙目になりながら、パトリシアは苦笑した。口中に残った渋みが、少し舌に痛いほどだった。 もう一度咳き込んでから、ティーポットを開ける。湯気と共に、ゆったりと良い香りが漂ってくる。 かちゃりと蓋をして、パトリシアはティーポットを持ち上げた。ティーカップへ傾け、慎重に注ぎ入れた。 先程よりも色は薄いが、香りの良い紅茶が出来上がっていた。琥珀色が、柔らかく湯気を昇らせている。 ランスへ片方を差し出してから、パトリシアも自分の分を取る。少し飲んでから、頷いた。 「ま、こんなもんでしょ」 「うん。父さんのよりは、よっぽどおいしいや」 口直しのように飲みながらランスが言うと、パトリシアはにやりとする。 「ご希望とあらばじゃんじゃん淹れるわよー、愛を込めて」 「そんなにはいらないよ。そもそも、この紅茶は人んちの物だろ」 全く、とぼやいたランスはティーカップを下ろし、砂糖壷を開けて二杯入れた。消えるまで、かき混ぜていく。 ランスが終えてから、パトリシアも一杯入れる。甘すぎると香りが失せてしまうで、この方が好きなのだ。 ギルディオスは紅茶を味わっている二人を眺めながら、言ってみた。親心というか、出来心だった。 「なぁランス、パトリシアとは恋人同士なのか?」 「んがっ」 飲みかけていた紅茶を変なタイミングで飲んでしまい、ランスはむせた。気管に入り、思い切り咳き込んだ。 ランスが苦しんでいる隣で、パトリシアが目を輝かせる。ティーカップを置き、胸の前で手を組む。 「そう見えますぅー?」 「パティが一方的にべたついてきてるだけだよ! それにパティは修道士なんだから、戒律があるだろ!」 そう叫んでからランスは座ろうとしたが、パトリシアが近付いてきたため、椅子から半分ほど身を引いた。 パトリシアは面白くなさそうに膨れながらも、逃げ腰なランスへ体を寄せた。軽く、腕に手を掛ける。 「戒律なんてそんなもの、フリーの修道士にとっちゃ、あってないようなもんよぉ。そんなこと気にしてるのぉ?」 「気にするよ。つうか気にしてくれよ」 「それじゃあ、私が修道士じゃなかったら別なのかしらぁん?」 人差し指を立てたパトリシアは、ちょんとランスの額を小突く。ランスは上げていた腰を下ろし、顔を逸らす。 照れているのか不機嫌なのか解らない表情で、固く唇を締めている。すぐ側で、ふわりと甘い匂いがした。 それどころか、調子に乗って腰と肩へ腕を回してくる。しっかり捉えられ、ランスは身動きが取れなくなる。 さらりと零れ落ちたパトリシアの髪が、ランスの頬を掠めていく。満足げに、彼女は声を上げる。 「いやんもう可愛いー、だからランスきゅんて好きぃーん」 「良かったなー、息子よ。嫁さんが出来てるんなら、お父さんは安心してもう一度死ねるぞ」 「勝手に話を進めるなぁ!」 パトリシアの腕から逃れようともがきながら、ランスは父親に反論する。だが、少しも彼女の腕は緩まなかった。 体格もそうだが、力に差があるせいだった。パトリシアは修道士だが、魔法よりも格闘戦が得意な類の人間だ。 元々腕力の少ないランスが、日々重たいメイスを振り回して戦っている、パトリシアに力で勝てるわけがない。 肩と腕をしっかり握り締められながら、ランスは仕方なく抵抗をやめた。飽きてくれるまで、待つしかない。 うふふふふふ、と笑みを零してパトリシアは頬を寄せてくる。ランスの腕に、ぎゅっと胸が押し付けられる。 露出の少ない修道士の服を着ていても、充分にその柔らかさが伝わってくる。ランスは、戸惑ってしまう。 どうやってこの場を逃れようかと考えながら、ちらりとギルディオスを見上げる。父親は、笑っていた。 「いやー全く、十年後が楽しみだぜ! 子供は作れよ、可愛いぞ!」 「でもぉ、私としてはランス君はこのままの方がいいなぁー。将来も楽しみだけど、今がいっちばん好きぃん」 ランスの肩に回している手を外し、パトリシアはランスの頬へ当てる。ランスは、なんとか顔を逸らした。 締め付けてくるパトリシアとの間隔を広げようと、身を捩る。不意に、背筋がぞくりとした。反射的に、階段を見る。 幅の狭い階段の上に、明かりが見えた。それが、とんとんと軽い足音を立てながら、降りてきた。 ギルディオスも振り返ったので、パトリシアも顔を上げ、三人は揃って二階へ続く階段を見上げていた。 ランプを手に提げた少女が、不機嫌極まりない表情をしながらやってきた。長い緑髪が、だらりと広がっている。 ツノが二本生えている頭部を掻きながら、赤い瞳を吊り上げている。ランプを突き出し、声を上げた。 「ギルディオス、一体何だ、このやかましい連中は。起きてしまったではないか」 「フィル、起きるのが遅過ぎるぞ」 立ち上がったギルディオスに、少女は近付いてきた。ランプを彼へ渡し、手首に巻いた紐を外す。 指で髪を梳いてから、後頭部の下で引っ詰める。ばさりと背中に落としてから、ばん、と小さな翼を広げた。 「起床が遅かろうが早かろうが、別にどうでも良いだろう。それで、この連中は何なのだ、説明しろ」 「んー、ああ。こっちがオレの息子のランス・ヴァトラス、で、こっちの嬢ちゃんがパトリシア・ガロルドってんだ」 「名前は聞いていない。なぜ唐突に、私の家に上がっているのだ?」 「魔導師協会の用事でさ、ランスがフィルに手紙を届けに来たのさ。紅茶、勝手に使ったけど良かったのか?」 「紅茶は構わん、私はどうせ飲まんからな」 ばらけている前髪を整えてから、フィフィリアンヌはギルディオスの座っていた椅子に腰掛ける。 あまり関心のなさそうな目で、ランスとパトリシアを一瞥してから、テーブルの魔導書簡へ視線を落とす。 「そうか、魔導書簡か。ならば、仕方がないな」 「んで、これはランスのお土産。うちの奥さんの料理」 フィフィリアンヌの後ろに立ち、ギルディオスはバスケットを軽く叩いた。蓋を開けて、中身を取り出した。 大きめな陶製の鍋と紙包みが、どん、とテーブルに置かれた。それを一瞥し、フィフィリアンヌは魔導書簡を取る。 宛名を睨んでいたが、裏返し、細い指先で封蝋を撫でる。ぱりっ、と硬い音を立て、独りでに封蝋が破れた。 「こんな面倒なものを使うとは、何事でもあったのやもしれんな」 ごとごとと前進した伯爵は、フィフィリアンヌの前にやってきた。体を細長く伸ばし、彼女の手元へ入れる。 手紙の文面の上で、先端を上下させる。またワイングラスを前進させてから、饒舌に読み上げ始めた。 「親愛なる我が同志、フィフィリアンヌ・ドラグーン女史へ。雪と寒さの厳しくなる昨今、いかがお過ごしでしょうか」 「どうもしていない」 手紙から目を逸らし、フィフィリアンヌが相槌を打つ。伯爵は続ける。 「我らの住まう王国と帝国の緊張状態は、気温とは逆に水面下で高まりつつあります。それと同じくして、あなた方、竜族の血を脅かす者達の動きも活発なものとなり、近頃では、白竜族が狩られたとの情報が入って参りました」 「ドラゴニア家の末弟の話か」 「野心に満ちた帝国より放たれし穢れた狩人、ドラゴン・スレイヤーは、この王国へも迫りつつあります」 「この国は緑竜族が多いからな」 「魔導師協会としても、獣の如き愚行を繰り返すドラゴン・スレイヤーの動きは食い止めたく思います。ですが」 「内通者でもいたのか」 「同志の中に、竜族を快く思わぬ者がいたようです。国境警備が緩められた挙げ句に易々と突破され、その上」 フィフィリアンヌの目線が、手紙へ戻った。伯爵は、軽く先端を曲げる。 「フィフィリアンヌ女史の血族であるドラグーン家の一人、ブレイズ・ラウガ・ドラグーン氏の遺体が見つかりました。尚、彼の遺体は首から先が切り落とされており、ドラゴン・スレイヤーが殺めたものに間違いがないでしょう」 目元を抑えたフィフィリアンヌは、息を吐いた。伯爵は、ついっと便箋を撫でる。 「あなたのような方が容易くやられてしまうことはないと思いますが、どうか、お気を付けなさいますよう…」 「…あの馬鹿め」 間を置いてから、フィフィリアンヌは呟いた。顔を上げ、伯爵のへばり付いた便箋を放る。 ばさり、とテーブルに落ちた便箋の上を、伯爵のワインレッドが滑る。手紙の最後を、読み上げた。 「今はまだ確証はありませんが、裏切った疑いのある同志の名を、別紙へ挙げておきます。ご参考の程までに」 するすると先端を縮めた伯爵は、署名を撫でてからワイングラスへ戻った。 「魔導師協会会長、マリアンナ・サンディーより」 たぽん、と伯爵がグラスへ満ちた。フィフィリアンヌは、手紙の二枚目を取る。それは、名簿だった。 後ろからそれを覗いたギルディオスは、十数名の魔導師の名を見ていったが、どれも見知らぬ者達だった。 丁寧な字で書かれた容疑者達の名前を睨んでいたが、フィフィリアンヌは名簿を放った。深く座り、細い足を組む。 「ランスとやら、貴様もこれを見ておくか? 今後の参考になるかもしれんぞ」 「いや、遠慮しておくよ」 ランスが首を横へ振ると、そうか、とフィフィリアンヌは返した。 「なかなか面白い読み物なのだがな。どれもこれも、実力のある魔導師の名ばかりなのだ」 「ドラゴン・スレイヤーねぇ」 腕を組み、ギルディオスは首をかしげた。ぎしり、と鋼鉄が擦れて関節が鳴る。 「金にはなるかもしれねぇけど、効率が悪いぜー、ドラゴンは。パーティの人数が増えるから、分け前も減るしよ」 「ウロコは固いわ魔法は強いわ空は飛ぶわ頭はいいわ、で、簡単に倒せる相手じゃないですもんねぇ」 うんうん、とパトリシアが頷く。頬杖を付き、ふう、とため息を吐いた。 「こんな人間本意の行動、帝国が許したとしても、神がお許しになるわけがないわ」 テーブルに広げられている二枚目の手紙を、ランスは少し見た。だが、途端に目を逸らしてしまう。 フィフィリアンヌの言った通り、見知った名前が多すぎた。中には、ここ数年で世話になった魔導師もいる。 無論、疑いがあるというだけで、彼らが裏切ったという証拠ではない。しかしそれでも、充分過ぎる衝撃だった。 ランスはなんとか払拭しようと思ったが、出来なかった。彼らを信じたい気持ちと疑いが、混ざってくる。 裏切りは許せない。ドラゴンを無意味に殺すことも許せない。だが、魔導師達を信じたい。 混乱しそうな思考を整えるため、ランスは額へ手を押し当てる。すると、伯爵が封筒の中を指した。 「フィフィリアンヌよ。もう一枚、手紙があるぞ」 「魔法薬の注文書か」 人差し指を封筒へ差し入れ、フィフィリアンヌはすいっと取り出した。白い紙を広げ、眺める。 「魔導鉱石溶液を大瓶で三十、魔物用睡眠薬が大瓶で五、人間用魔力減退剤が小瓶で十三、か」 「どっちゃり買うなぁ、そいつ」 感心しながら、ギルディオスは魔法薬の注文書を見下ろした。注文主の名前を、何の気なしに読む。 「グレイス・ルー? いや、ルウか?」 反射的に、ランスは顔を上げた。魔導師であれば聞き覚えのある、いや、ありすぎる名だった。 魔導師を標的としたあらゆる悪事に絡むのが、この男の名だ。正体は解らないが、至る事件に現れている。 だが、フィフィリアンヌは平然と注文書を読んでいる。細かい指定が多いのか、時折眉をしかめていた。 ランスは注文書越しに、赤い瞳の少女を見据えた。やり場のない感情が、溢れ出してしまった。 「あなたも魔導師なら、その男がどういう人物か知っているはずだ。なのに、その注文を受けるんですか?」 「受けるとも。商売だ」 「自分の作った薬が、どんな目的で使われるかは知っているのですか?」 「それなりにはな」 「悪事に荷担する可能性があると知っていて、あなたは薬を売るのですか?」 「売ったあとのことは知らん。使い方にまで口出ししては、付く客も付かんからな」 「…やはり、あなたも悪なのですか」 「短絡的、かつ俗な考え方だな」 「僕の父さんを蘇らせてくれたことは、感謝します。だけど、それ以外は決して許せない!」 「別に許してもらわずともいいが」 「あなたの半分は人間かもしれない、だけど、やっぱり!」 ランスの目が、ぎっとフィフィリアンヌを睨む。その先で、赤い瞳が細められた。 「悪と力に生きる、凶悪なドラゴンでしかないんだ!」 「黙れ、ランス」 ひゅおん、と差し込まれた銀色に視界が遮られた。ランスは、そこに映った自分の顔から目を上げる。 すぐ隣に立ったギルディオスが、バスタードソードを抜いて掲げていた。きちり、と首元で刃が動く。 「お前はまだ若い。枠に填った考えしか出来ねぇのは解るが、言って良いことと悪いことがあるだろ?」 「だけど」 力なく呟いた息子を、ギルディオスは見下ろした。 「何事も、上っ面で判断するのは良くないぜ。落ち着いたら、ちゃあんと考えてみな」 暖炉の明かりに照らされながら、ヘルムが頷く。 「何が良くて、何が悪いのか、をさ。お前は頭が良いんだからよ」 項垂れていくランスと剣を下ろさないギルディオスを、パトリシアは戸惑いながらも、じっと見上げていた。 フィフィリアンヌは無表情ながらも、きゅっと固く唇を締めている。ぱちり、と彼女の背後で薪が爆ぜる。 家の外を、雪が吹き荒れていた。窓を叩く無数の雪と強い風が、静かな部屋をうるさくさせている。 暖炉の火を受け、ちらちらと輝くフィフィリアンヌの目が、ランスを捉える。舐めるように、視線が動いた。 「そうか。ランス、貴様は私が恐ろしいのだな。だから、私を悪としか捉えられないのだな」 びくり、とランスの肩が動く。怒りで誤魔化していた竜に対する恐怖が、胸の底に蘇ってきた。 部屋が薄暗いせいで一層濃くなった影の中に、鋭い目が浮かぶ。落ち着いた口調が、恐怖を増長させる。 「見たところ、貴様は精霊魔導師のようだな。ならば余計に、その恐れと迷いは切り捨てるべきだ」 すいっと上げられた手が、真っ直ぐにランスを指す。 「感じるな、というわけではない。精霊と言葉を交わせる貴様なら解るはずだ、判断が鈍れば魔法も鈍ることを」 ぎらついているフィフィリアンヌの目が、強められた。 「覚えておけ。感情の揺れは、魔の力を扱う者にとっては弱点にしかならぬことを」 手を下ろしたフィフィリアンヌは、母上の受け売りだがな、と言いながら手近なワイングラスを取った。 テーブルの下から赤ワインのボトルを取り出し、ぽん、とコルク栓を引き抜く。赤紫を、だくだくと注いだ。 軽くワイングラスを揺らしてから、すいっと傾ける。ランスは力が抜け、すとん、と椅子に腰を下ろした。 剣を引いたギルディオスは、背中の鞘に戻す。張り詰めていた緊張がほどけて、パトリシアは深く息を吐いた。 自分の足元に目線を落としていたランスは、横目に父親を見上げた。そして、フィフィリアンヌへ向ける。 「…頭じゃ、解ってる。簡単に物事を括っちゃいけないのも、竜族が全部悪いわけじゃないってことも。けど」 「理解しているのであれば、飲み込んで己の物にするがいい。魔法のようにな」 ワインを半分ほど飲み、フィフィリアンヌは呟いた。パトリシアは、ランスの肩へ手を置く。 「まだまだ時間はあるんだし、ね。急がなくったって、いいじゃないの?」 小さく頷いたランスは、肩を落とす。その肩を、パトリシアはぽんぽんと叩いてやった。 聞こえなくなっていたはずの精霊の声が、ランスの感覚に訪れた。それは、暖炉の炎からだった。 そうよ。わたしたちのこえは、いつもあなたにきこえているのよ。ちいさいからって、こわがってききのがさないでね。 フィフィリアンヌの肩越しにゆらゆらと揺れる炎が、ランスの目に映る。精霊達は、やかましいほど喋っていた。 もう一度、魔導師協会からの容疑者名簿を見下ろした。その字は、丁寧すぎて無機質に感じるほどだった。 だが、先程のような困惑は沸き起こらず、それらはもう、ただの文字にしか見えなくなっていた。 ティーカップを取ったランスは、冷め切って甘みの弱まった紅茶を飲む。風に混じって、吹雪の精霊の声がした。 わたしはみず、それともかぜ? いいえ、どちらでもないのよ。どちらでもあり、どちらにもなれるのよ。 ランスとパトリシアが帰ったあとに、フィフィリアンヌは朝食を兼ねた昼食を摂っていた。 暖炉のレンガの上に鍋を載せ、温め直したシチューを黙々と食べる。パンを千切り、皿に滑らせていく。 少しばかり残っていたホワイトソースを刮げ取ってから、口へ入れる。咀嚼し、ワインで流し込んだ。 「貴様の妻の料理は、割に旨いものだな」 「だろ? 後でケーキも食えよ、いけるから」 足を組んで椅子に巨体を沈めながら、ギルディオスは頷いた。フィフィリアンヌは、傍らのフラスコに目をやる。 空だったはずのその中には、並々と赤茶けた液体が満ちている。訝しみながら、空のワイングラスへ注ぐ。 それが何かギルディオスが言う前に、フィフィリアンヌは彼の淹れた紅茶を飲んだ。くいっと、飲み干してしまう。 ことん、とグラスをテーブルへ置いたフィフィリアンヌに、ギルディオスは恐る恐る尋ねた。 「それ、紅茶なんだけどさ…渋くねぇ?」 「いや。至って平気だ」 けろりとしているフィフィリアンヌに、ギルディオスは思った。もしかして、味覚が鈍いのかもしれない、と。 そう考えれば、あのカオスのようなスープにも納得が行く。食事に頓着しない理由も、説明が付く。 ギルディオスの言いたいことを察しているのか、伯爵はひたすら笑っていた。さも可笑しげに、高らかに。 フラスコに残っていた紅茶を、全てワイングラスへ移した。フィフィリアンヌは、また少し紅茶を飲む。 「ギルディオス」 「ん?」 「昔、父上に言われたことがある。お前は人間でもあり、ドラゴンでもあり、どちらでもあるのだと」 渋い紅茶を傾けながら、フィフィリアンヌは甲冑を見上げる。銀色に、炎が映り込んでいた。 「その通りだった。私には、どちらの感覚も解ってならない」 空になったワイングラスを置いてから、フィフィリアンヌは両手を組んで肘をテーブルに乗せた。 その上に顎を置き、目を伏せる。肩に落ちていた長い髪が、さらりと滑って広がった。 「人間の浅ましさも、ドラゴンの愚かさも」 不意に、頭に重みが加わった。フィフィリアンヌの頭に、ギルディオスが手を乗せている。 ツノの間をがしがしと撫でてから、ぽんと軽く叩いた。その手を置いたまま、言う。 「そこがお前のいいところさ、フィル。いいこと言うじゃねぇか、お前の親父さんはよ」 「勝手に子供扱いするな」 ギルディオスの手を押し退け、フィフィリアンヌは顔を逸らした。ついでに体も背け、椅子へ横に座る。 不愉快そうに眉を吊り上げてしまった少女の横顔を見ていたが、ギルディオスは座り直す。 暇そうにふるふると蠢いている伯爵を一瞥してから、玄関の扉に顔を向ける。風が吹き付け、少し騒がしい。 そこから出て行った息子の後ろ姿を思い出しつつ、ギルディオスは笑む。無性に、嬉しくなりながら。 「ランスの奴、良い魔導師になってくれそうな気がするぜ」 「きっちり修練を積めば、の話だがね」 と、伯爵に添えられ、ギルディオスは肩を竦める。 「そりゃそうだけどよ…。少しは、親に夢を見させてくれてもいいじゃねぇか」 ずしりとした味わいのあるフルーツケーキを食べながら、フィフィリアンヌは雪に覆われた窓を見た。 竜を狩る者の影は、じわりと近付いてきている。だが、それに対しての恐怖は湧かない。 頭のどこかで、予想していた事態だ。父親が戦場に行く前に見せた、あの笑顔の意味が解った気がした。 ひっきりなしに吹き付けてくる白い風が、まるで、世界と自分を隔てているように感じてしまう。 この吹雪が止み、切り込むような光が差し込んでくる、その時は。 闘いが、始まるときなのかもしれない。 ごおごおと、家の周囲で吹き荒む吹雪のように。 先行きの見えない事ばかりが、いつのまにか、周りで進んでいってしまう。 気付かぬうちに、気付かぬようにしていた危機は、ゆっくりと足音を立てずにやってくる。 だがそれは、まだ遠いところにあるのである。 04 12/7 |