ドラゴンは笑わない




灰色の城主




フィフィリアンヌは、青空を見上げていた。


傍らに置いた布袋からは、がちがちとガラスのぶつかり合う音が聞こえている。それが、少しやかましい。
あれだけ吹き荒んでいた風も、毎日のように降り続いていた雪も止み、雲に隠れていた空が広がっている。
薄暗い家から出てきたばかりで、余計に青さが目に染みてくる。黒い帽子の下で、僅かに目を細めた。
ごとん、と何度目かの大きな揺れが、体と袋にやってきた。その度に、浮かびそうになる布袋を押さえ込んだ。
後方に続いている細い道には、二本の車輪の跡が長く付いていた。また、大きく荷車が揺れる。
フィフィリアンヌは布袋を握り締めながら、後方へ振り返る。巨大な剣を背負った後ろ姿に、声を上げた。

「もう少し穏やかに出来んのか」

ごとり、と荷車を止めたギルディオスは振り返った。荷台に座る小さな魔女に、つやりとしたヘルムが向く。
両手に握っていた持ち手を上げて止めると、その姿は下がった。荷台の上で、フィフィリアンヌは膝立ちになる。
がりがりとヘルムを掻きながら、ギルディオスは肩を竦めてみせる。雪に隠れている道を、逆手に指した。

「仕方ないだろ、地面が見えないんだ。石があっても避けようがねぇんだから」

「あまり無茶苦茶に進んではならぬぞ、ギルディオスよ」

フィフィリアンヌの腰に下げられたフラスコの中で、伯爵がにゅるりと動く。

「薬瓶を一つでも割ってみたまえ。貴君の借金は、途端に何倍になってしまうのである」

「解ったよ。その代わり、急げないからな」

ギルディオスは持ち手を握って持ち上げ、荷車を地面と平行にした。フィフィリアンヌは、また荷台に腰を下ろす。
マントを尻の下に入れて、座り直した。ギルディオスはそれを確認してから、慎重に荷車を引いていった。
煌々と明るい日差しを浴び、伯爵が蠢いた。フラスコの中で、ワインレッドがごぼごぼとうねっている。
城下へ続く道には、彼らの前に幾人か通ったのか、いくつか人間の足跡があった。人家が近い証拠だ。
地面を覆っている雪が照り返し、眩しかった。ギルディオスの甲冑が反射して、影の中に僅かな光が落ちている。
徐々に近付いてきた城下町や、それを囲む高い城壁には、兵士の姿が見えている。それに、彼は少し躊躇した。
足を止めることはないが、このまま城下町を通るべきかどうか。ギルディオスは、内心で迷ってしまった。
いくらツノと翼を隠しているとはいえ、フィフィリアンヌが竜族であることは、髪と瞳の色、耳の形状で解ってしまう。
先日のランスのように、警戒されないとも限らない。もし、そうなってしまったら、彼女が不憫で仕方ない。
だが、フィフィリアンヌが何も言わないため、そのまま進むことにした。ギルディオスは、持ち手を握り直す。
道の先、塀の間で大きく開けられている門を、数人の衛兵が守っていた。フィフィリアンヌは、横顔だけを向けた。
衛兵達の注意がこちらに向けられ、ギルディオスは一瞬動きを止める。目線は、甲冑の背後へ抜けていた。
荷車を引き摺りながら門へ近付きながら、ギルディオスは、少し頭を下げて彼らの前を通り過ぎる。
薬瓶の入った袋を抱えたフィフィリアンヌは、衛兵を一瞥した。表情を固めた若い兵士が、一歩、前に出る。

「見たところ、お前は竜族のようだが、城下への通行証はあるのだろうな」

「見て解るのならば、私が何の職なのか察してほしいものだな。新人め」

フィフィリアンヌは、ローブの襟元へ手を差し込む。ギルディオスを、もう一方の手で制止して止めさせた。
襟元を広げて、首に下がっている金の鎖を手繰り寄せる。しゃりしゃりと金属が擦れ、ちかりと輝いた。
フィフィリアンヌは首を上げ、引き出した鎖の先を掲げる。王家の紋章が、金の板に印されていた。
若い衛兵は表情を固めたままだったが、身を引いた。熟練らしい兵士に近寄られ、彼はたしなめられる。
全く、とぼやきながら、フィフィリアンヌは胸元へ王家の紋章を戻す。ちゃりん、と鎖が服に隠れた。
用事が終わったのだと察し、ギルディオスは再び荷車を引き出した。影から出ると、また眩しさが戻る。
街の中心に伸びる大通りに入り、しばらく進んでから、ギルディオスは物珍しさで尋ねた。

「フィル、お前って結構偉いんだなー。金の紋章なんて持ってる奴、騎士団ぐらいだと思ってたぜ」

「十五年程前は銀だったのだが、私の薬が第二王子の病を治したせいで、昇格してしまってな」

あまり面白くなさそうに、フィフィリアンヌは返した。権力を持つことが、あまり好きではないのだ。
ギルディオスは感嘆の声を洩らしていたが、また前を向いた。フィフィリアンヌは帽子を押し下げ、目を隠す。
住宅の密集した市街には、まばらながら人が出ていた。時折、住民達の好奇の目が、三人へ向けられる。
フィフィリアンヌは、あまり城下が好きではなかった。人や家が多すぎて、どこもかしこも雑然としている。
自分の家は、自分なりの秩序の上で雑然としているが、ここは違う。他人同士の混沌が、混ざり合っている。
それが、この上なく不快だった。フィフィリアンヌは、乱丁の多い本を読んでいるような気分になってしまう。
ふと、近くの家の二階を見ると、窓が半開きになっていた。子供が顔を出していたが、すぐに閉められた。
フィフィリアンヌがため息を吐いていると、ごぼり、と伯爵が気泡を浮かばせる。うるうると、スライムが流動した。

「フィフィリアンヌよ」

「なんだ」

「貴君という異なる存在を受け入れられる余裕のある者は、この街にはあまりいないようであるな」

「今更、何を下らんことを」

解り切っている、と呟いたフィフィリアンヌは、先の尖った帽子を深く被った。視線を落とし、地面を見る。
家々の前には、押し退けられた雪が山と積まれている。その光景を横目にしながら、荷車は進み続けた。
荷車は城下町から逸れる道を行き、次第に人家もまばらになった。フィフィリアンヌは、帽子を少し上げた。
布袋を落とさないように抱えてから、進行方向に体を向ける。遠くの丘の上に、ぼんやりと巨大な影が見えている。
ゆったりと風が吹き抜け、影を包んでいた朝靄が薄くなった。薄い霧が覆い隠していたものが、露わになる。
高い塔を持った灰色が、塀に囲まれてそびえている。フィフィリアンヌは目を凝らしながら、その城を見据える。
しんと静まり返っている灰色の城が、彼らをじっと待ち受けていた。




灰色の城へは、すぐに到着した。その間、誰とも擦れ違うことはなかった。
深く幅広い堀の前で、ギルディオスは荷車を止めた。堀の向こうでは、太い鎖に吊された橋が裏を見せている。
荷車を下ろしてから、二三歩身を引いた。首を上げて塀と跳ね橋を見比べていたが、腕を組む。

「どうやって入れってんだよ」

「すぐに降りてくる」

荷車から下りたフィフィリアンヌは、布袋をギルディオスへ差し出した。彼は、半ば条件反射でそれを受け取る。
両手で抱えると、中で四十八個の薬瓶が擦れる。かちんかちんという硬い音に混じって、水音もした。
ギルディオスが橋を見上げていると、ぎちぎちと鎖の動く音と、滑車の回る震動が起こって地面に伝わってきた。
ぎぎい、ぎぎいと軋みながら、跳ね橋は三人の前にやってくる。ゆっくりとした動きで、目の前に下りた。
どん、と地面と繋がった跳ね橋とその向こうを、ギルディオスは眺めてみる。だが、兵士の姿は一人もない。
ならばどうやって、この橋を動かしていたのだろうか。フィフィリアンヌに尋ねようとしたが、先に行ってしまった。
黒いマントを翻す小さな背を追いかけて、ギルディオスは城を囲む塀へ付いた。そこには、一人だけ人間がいた。
だがそれは、人間というには小さ過ぎた。八歳くらいの幼い娘が、跳ね橋の滑車に手を掛けて立っている。
メイド姿の幼女は、フィフィリアンヌは挨拶をした。顔を上げると、頭の両脇で特徴的な形の髪が揺れた。
両脇で高く結ばれたピンク色の髪が、くるくると縦に巻かれている。それが、バネのように動いた。

「おはよーございまーすー。お客様、お待ちしておりましたぁー」

「なぁ、お嬢ちゃん」

ギルディオスは、跳ね橋を指しながら幼女を見下ろす。素っ頓狂な髪型と色合いの頭に、少しげんなりした。
幼女は、きょとんと目を丸くしながら首をかしげた。また、縦巻きの髪がぽよんと上下する。

「はいー?」

「跳ね橋を動かしてたのって、あんただけか? 見た感じ、兵士が十人は必要な橋みてぇなんだけど」

腑に落ちない様子のギルディオスへ、幼女は舌っ足らずな声で言う。

「はいー、そーですけどー。それがどうかしたんですかー、剣士さんー?」

「詳しいことは、あの男に聞け。そいつでは、解る話も解らんからな」

と、フィフィリアンヌが歩き出すと、幼女は不満げに頬を張りながら駆け出した。すぐに、魔女の前に出る。
中央の居館に向かう二人を、ギルディオスは追いかけた。石畳を、がちゃがちゃと金属音が走っていく。
背中で揺れるバスタードソードを押さえながら二人に並んだ。歩きながら、ギルディオスは城内を見回した。
まるで、領主の住まう城だった。居館へ繋がる道を挟む庭は、雪に埋もれていたが、手入れが行き届いている。
だが、城壁の挾間窓を見ようとも、居館や他の館を見ようとも、あの幼女以外に人間の気配はなかった。
死んでいる城だ。そう感じながら、ギルディオスは無言で歩き続けるフィフィリアンヌの背を追った。




三人は、幼女に案内されて居館へと通された。
城の中は外以上にひっそりとしていて、足音以外の音はしなかった。なので、余計に生気は感じられなかった。
階段を昇って回廊を抜けた先の居間に、向かって歩いていた。幼女は機嫌良く、にこにこしながら進んでいく。
こつん、と幼女の足が大きな扉の前で止まった。振り返り、フィフィリアンヌを見上げる。

「御主人様はぁ、こちらでーす」

こん、と軽く、幼女の手が扉を叩いた。すると、蝶番を軋ませながら、厚い扉が中へ開いていった。
暖炉に温められた空気が、隙間から廊下に漏れてきた。内側に開き切った扉は、ぴたりと動きを止めた。
絨毯が敷き詰められた広い居間が、目の前に現れた。立派な調度品の数々が並ぶ室内へ、幼女は進んでいく。
ギルディオスはフィフィリアンヌに従うように、彼女に続いて居間に踏み入れた。ここだけ、人の気配がする。
今まで通ってきた廊下やどの部屋も静かすぎたせいか、人の気配があることに、彼は妙な安心感を覚えた。
それとは逆に、フィフィリアンヌの目はどこかを睨んでいた。神経が立っているのか、唇を固く締めている。
四人が居間に入ると、大きな扉は独りでに閉じていった。ゆっくりと慎重な動きで、隙間を狭めていく。
ばたん、と閉じ切った扉の内側には、魔法陣が描かれていた。独りでに動くように、魔法が掛けてあるらしい。

「御主人様ーぁ、お客様をお連れしましたよーぅ」

暖炉の方へ、幼女はとたとたと頼りない足音を立てて駆け出した。その方向には、一人の男が待っていた。
人の良さそうな顔立ちの青年で、城のような灰色のローブを着ている。長い黒髪が、緩い三つ編みにされている。
鼻の上に掛けた丸いメガネの奧で、灰色の優しげな目が笑っている。ギルディオスは、少し嫌な気分になった。
よくある戦法だ、と感じていた。初対面で笑っていれば、それだけで相手を油断させられるからだ。
魔導師にしては雰囲気が柔らかい。軍人にしては態度が緩い。一般の人間にしては、住まいが大きすぎる。
そうした微妙な違和感の連続が、ギルディオスに警戒心を起こさせた。普通ではない怪しさが、あるように思えた。
手にしていた本をテーブルに置いた男は、屈み込み、幼女の頭を撫でた。そして、顔を上げる。

「これはこれは嬉しいね、フィフィリアンヌ。オレの興味を、早々に察していてくれたのか?」

「勘違いするな。ギルディオスを連れてきたのは、貴様の注文の品を運ばせるためだ」

フィフィリアンヌが不快そうに眉根を曲げると、男は少し笑う。彼の目線が、ゆらりと甲冑に向いた。
薬を抱えているせいで、ギルディオスは身構えることが出来なかった。抜けるものなら、剣を抜きたかった。

「フィル…。オレ、こいつ嫌いだ」

「初対面で嫌わないでくれよ、悲しいじゃないか。オレはグレイス・ルー、で、こっちのは」

ぽん、と男の手が足元の幼女の頭に置かれる。その下で、幼女は笑む。

「レベッカ・ルーと申しまーす」

「…ギルディオス・ヴァトラスだ」

礼儀として、ギルディオスは仕方なしに名乗った。身を引き、手前の彼女を見下ろす。

「オレさぁ、こういう人種が一番ダメなんだよ。軍師とか参謀とか、とにかく腹に一物抱えてる奴がさ」

布袋を抱きかかえたギルディオスは、肩を竦める。フィフィリアンヌは、後方の甲冑を見上げた。

「貴様らしい嫌い方だな。私も奴は嫌いだ」

「はっはっはっはっはっは。我が輩も、この男だけはどうやっても好きにはなれんなぁ」

笑い声と共に揺れたフラスコから、フィフィリアンヌは目を上げる。グレイスが、少しむくれていた。
不満げな表情を作り、腕を組んでいる。ギルディオスは、改めてグレイスの様相を眺めてみた。
表情と体格だけを見れば青年のようだし、体の線はしっかりしている。顔付きは、二十代後半といったところだ。
だが、それほど若い感じはしない。年齢を掴めないと察したギルディオスは、余計に嫌な気分が増してきた。

「うげ」

「皆さんはー、御主人様がそんなに嫌いなんですかー?」

しゅんとしたように、レベッカは眉を下げる。肩を落とし、少し瞳を潤めた。

「わたしは御主人様のことー、大好きなのにー」

「それは貴様が従者だからだ。従うように作られた者が、己の創造主に嫌悪感を持つはずがなかろう」

フィフィリアンヌがはねつけるとレベッカは、きゃん、とグレイスの影に隠れてしまう。まるで、妹か娘のようだ。
ギルディオスは、納得が行った。レベッカが一人で跳ね橋を動かせたのも、人間ではないからだろう。
人の気配がない理由も、簡単だ。グレイスがそうした従者を造り出しているから、人間を雇う必要がないのだ。
おずおずと顔を出したレベッカは、ギルディオスを見上げる。くるんとした大きな瞳は、濃い青紫をしている。
その頭を撫でてやりながら、グレイスはにやりとした。嫌味にならない程度に、口元を上向ける。

「ギルディオス・ヴァトラス。このレベッカは、構造的にはあんたに近い存在なんだ」

「フルネームで呼ぶなよ、鬱陶しいな。…魔導鉱石に魂を入れてるんだろ?」

渋々答えたギルディオスに、グレイスは頷く。レベッカの傍らにしゃがみ、小さな肩を抱いた。

「といっても、あんたみたいな天然物の魂じゃないがね。経験と記憶を重ねて生み出した、人造の魂なんだ」

「わたしの本体はあっちですー。この体はー、思念で遠隔操作してるんですー」

レベッカの手が上がり、暖炉の上を指した。壁に掛けられた金属板に、紅色の大きな魔導鉱石が埋まっている。
銀色の金属板には、魔法陣と思しき装飾が施されている。なんとなく、ギルディオスは胸元を押さえた。
構造が同系統のギルディオスに親近感を持ったらしく、レベッカは甲冑へ親しげな笑顔を向けた。

「でも、ホムンクルスじゃないんですー。どちらかっていうと、ストーンゴーレム。剣士さんとおんなじですー」

「けど、別にそいつは石には見えねぇけど」

ギルディオスは、首をかしげた。グレイスはレベッカの柔らかな頬を、すいっと軽く撫でる。

「液体魔導鉱石の上に、きれーいに人工外皮を被せてあるからな。一見しただけじゃ、可愛い可愛い女の子さ」

「中身はちょーっとえげつないんだけどねー、御主人様に似てー。うふふふ」

頬を押さえたレベッカは、少女らしからぬ怪しげな笑みを零す。見た目と実年齢は、かなり違うようだ。
グレイスはレベッカを放し、立ち上がる。メガネの下から動かした目線を、フィフィリアンヌで止めた。

「しかし意外だな、フィフィリアンヌ。あんたみたいな半端なドラゴンが、まだ殺されていないとはな」

フィフィリアンヌはグレイスの言い草に少し目元を歪めたが、ふん、と腕を組む。

「奴らが国境を越えたのは、やはり貴様の仕業か」

「ドラゴン・スレイヤーを、この国に招き入れたのはオレじゃないさ。間違いなく、魔導師連中だよ」

ただ、とグレイスは笑う。至極楽しげな、明るい笑顔だった。

「一言、言ってやっただけさ。この世界の主が誰かは、あなた方がよく知っているはずだ、とね」

「なんつうやり方だ…」

ギルディオスは、たまらず仰け反った。グレイスは、ひょいと両手を上向ける。

「勝手に調子に乗ったのはあいつらさ。オレはほんの少しだけ、人間本意なあいつらをそそのかしただけだよ」

「日頃から、竜族の存在に疑問と畏怖を感じている魔導師は多い。貴様の息子のようにな」

フィフィリアンヌの目が、背後の甲冑に向かう。ギルディオスは、先日の出来事を思い出した。
息子が恐ろしさに任せて怒る姿など、あの時まで見たことがなかった。何が、そこまで恐ろしいのだろうか。
答えが解らないから、余計に恐ろしいのかもしれない。そうだという根拠はないが、ギルディオスにはそう思えた。
フィフィリアンヌは罪悪感の欠片もない態度のグレイスを睨みながら、腹立たしげに言い放った。

「魔導を極めれば極めるほど、その疑問は深くなる。故に奴らは、いとも簡単にグレイスに揺らがされたのだ」

「別にオレは、人間が主だなんて言ってないんだがねぇ。おーやだやだ、自己中心的で」

他人事のように言いながら、グレイスは暖炉の前のカウチへ腰掛けた。レベッカは、小走りに部屋を出る。
テーブルに散乱している本をまとめて床に置いてから、立ち尽くしている彼らを手招きした。

「ま、ひとまず座ってくれ。薬の代金も、払わなくちゃならねぇしな」

フィフィリアンヌは辟易したような目をしていたが、仕方なさそうに暖炉へ向かう。
ギルディオスは出来ることなら近付きたくはなかったが、薬を抱えているため、嫌々ながら付いていった。


温かく湯気を浮かばせているミルクティーが、フィフィリアンヌの目の前にかちゃりと置かれた。
レベッカはその隣に、クリームのたっぷり付いたケーキの皿を並べた。盆を抱え、グレイスの隣へ座る。
フィフィリアンヌはフラスコをベルトから外し、ぽん、とコルク栓を引き抜いた。テーブルに、ごとりと置いた。
おもむろにティーカップを取ると、フラスコの口へ当てる。そして、だばだばと流し込んでいった。
思わぬことにギルディオスがぎょっとしていると、フィフィリアンヌはミルクティーを流し込むのを止めた。
ティーカップをソーサーに載せてから、白っぽくなった伯爵の様子を眺めた。彼は、ごぼり、と湯気を噴き出す。

「うむ。少々温度が高く砂糖が多いが、問題はなさそうであるぞ」

「…それ、もしかして毒味なのか?」

おずおずと、ギルディオスは尋ねた。フィフィリアンヌは答えずに、ケーキをフォークで小さくした。
クリームを付けられたケーキ片が、とぽん、とフラスコの中に落とされる。伯爵は、それも取り込んでいく。
しばらくして、伯爵は動きを止めた。少し唸り声を上げていたが、にゅるりと体を伸ばし、先端を出した。

「ううむ、これはいかんぞ、フィフィリアンヌ。砂糖で誤魔化してはあるが、魔法薬が感じられるのである」

「伯爵って、結構便利なんだなー」

ギルディオスは、予想外の活用法に感心していた。まさか、こういう役割があるとは思ってもみなかった。
ケーキに薬指を伸ばしたフィフィリアンヌは、てろりとした白いクリームをすくい取る。軽く、その匂いを嗅ぐ。

「やはりな。白ヘビの皮をノコギリバナの根と共に蜜へ漬けたものが混ぜてある。入れすぎだぞ、レベッカ」

「もう解っちゃったなんて、つまんないですー。もうちょっと減らしたら、ばれませんでしたかねー?」

残念そうなレベッカを、フィフィリアンヌは一瞥した。薬指を、手元のナプキンで拭う。

「いや。調理をした貴様の手と服から、既に匂いがしていたからな。ばれない方がおかしいのだ」

「なぁ、フィル。混ぜてあった薬って、どんなんなんだ?」

ヘビの皮におののきながら、ギルディオスはケーキを指す。ケーキを食べていたグレイスが、フォークを置いた。
ミルクティーを傾けて流し込んでから、にやりとした。グレイスは、ティーカップでケーキを指す。

「白ヘビには若干の魔力があって、効能は身体能力の活性化。で、ノコギリバナもそんな感じのものさ」

「竜族の擬態を解くために使う、一種の興奮剤なのだ。更にマヒルコウモリの目玉と血を混ぜれば、効果は絶大だ。擬態が解けた時点で高ぶっている神経を更に逆撫でし、ごく一時だが混乱状態に陥ってしまう」

説明しながら、フィフィリアンヌはミルクティーのカップを取る。中身は、半分以下に減っていた。

「極めて単純だが、ドラゴンを狩るためには効率的な手段だ。グレイス、貴様は私の血が欲しいのか?」

「オレじゃない。帝国のお偉方さ」

少し嫌そうに、グレイスは眉を下げた。ギルディオスは頬杖を付き、顔を逸らす。

「…まだあんなもん信じてんのか、あの国は」

「偉大なる皇帝陛下は、未だに信じているのだ。いくら魔導師協会が否定しようとも、理解しようとせん」

フィフィリアンヌはティーカップを唇から放し、ほう、と小さく息を吐いた。

「ドラゴンの血には、不老不死の力などないというのに」

「そりゃドラゴンの血ってのは、魔力の固まりで便利かもしれねぇ。でもよ、なんでそれがそうなるんだ?」

変な声を出したギルディオスに、にゅるりと伯爵が先端を高く上げた。ほこほこと、湯気が立ち上っている。
甘ったるいミルクティーの匂いを辺りに漂わせながら、白濁したワインレッドがすいっと動かされた。

「ドラゴンの老化の遅さ、自己回復能力の高さが、連中の勘違いの原因なのである」

「根拠のない妄信に過ぎん。ただ血を飲んだだけで、異種族の能力を手に入れられるわけがない」

愚かな考えだ、と呟いたフィフィリアンヌに、うんうんとグレイスは頷いた。

「全くだよ。短絡的というか、なんというか。十七代目皇帝陛下様は、学がおありでない方だねぇ」

「でもお前、そんなに馬鹿にしてる相手から、なんで仕事を受けるんだよ?」

ギルディオスに言われ、グレイスはけらけらと笑う。

「それとこれとは別さ、ギルディオス・ヴァトラス。ドラゴンの生き血を一瓶手に入れたら金貨三千枚、ってんだから、ぼろいと思わねぇか? 多少色を付けて吹っ掛けてみたら、軽く一万枚まで引き上げられそうだしよ」

「そーりゃぼろいかもしれねぇけど…」

言動の一致していない男に、ギルディオスは困惑してしまった。何を考えているのか、まるで解らない。
今し方馬鹿にした相手から、金を毟り取ろうとしている。しかも、依頼された代金の倍以上の金額を。
ギルディオスも商売柄、少しはその気持ちは解る気がした。だが、あまり理解はしたくなかった。
絶対に反りが合わないであろうグレイスが、なぜ自分になど興味を持っているのか、少しも見当が付かない。
むしろ、それが嫌で嫌で仕方がなかった。深く関わりたくないし、良い結果が待っているはずがない。
へらへらしているグレイスから顔を背けたギルディオスは、一刻も早くここから帰りたい、と切実に願った。
無表情なヘルムの横顔を眺め、グレイスは少し目元を細める。組んでいた足を解き、身を乗り出した。

「ギルディオス・ヴァトラス」

「んだよ」

話したくなさそうに返したギルディオスに、グレイスはにまりとしながら迫った。

「どうせなら、あんたが生きていた頃に会いたかったぜ。魔力が欠片もない人間なんて、割に珍しいしよ」

「オレは今も昔も会いたくはなかったよ」

「そう邪険にしないでくれよ。あんたの生身がここにあったら、骨から筋まで徹底的にばらしてやりたいね」

「殺してからか?」

「いや、半分くらい眠らせてからだな。意識があった方が、魂も起きているから色々と調べやすいじゃないか」

「えっげつねぇなぁ」

ずるりとへたり込んだギルディオスは、高い天井を仰いだ。話せば話すほど、嫌いになる相手も珍しい。
えげつないと言われても、グレイスは笑っていた。むしろ、そう言われた方が良いらしい。
鼻先に乗せられている丸メガネを少し直し、舐めるように甲冑を見下ろしていたが、残念そうに呟いた。

「魔力がないのは、呪いの類じゃあなさそうだな。その方面であれば、何か出来るかと思っていたんだが」

「そんなにオレを調べて、どうするってんだよ?」

「いやなに、大したことじゃない。あんたに魔力がない仕組みを参考にして、呪殺術の強化をだな」

「大したことじゃねぇかよ!」

思わず声を上げたギルディオスに、グレイスは面食らったように目を丸める。

「そうか? ただオレは、魔力を減退させながら相手を殺しちまう呪いの性能を、更に高めたいだけなんだがね」

「物騒っつーか、なんつーか…」

うんざりしながら、ギルディオスは力なく洩らす。空のティーカップを下ろし、フィフィリアンヌが呟いた。

「ギルディオス。あまりこの男と話し込むな、手駒にされるぞ」

「だろうな」

はあ、とため息を吐いたギルディオスは項垂れる。この男は絶対に、ランスには会わせてはいけないと思った。
程良く力を付けてきた駆け出しの魔導師は、こういう輩にとって、一番動かしやすい手駒でしかない。
勢いはあるが考慮に欠けていて、理性的な判断が出来ないことが多いのだ。先日のことも、それだった。
ギルディオスは珍しく、神に祈っていた。このえげつない男と妻子が引き合うことがありませんように、と。
普段は神など一切信じてはいなかったが、この時ばかりは、神に願わずにはいられなかった。


いつのまにか姿を消していたレベッカが、巨大な袋を担いで戻ってきた。
歩くたびに、その麻袋からはちゃりちゃりと金属音がする。テーブルへやってくると、それを肩から降ろした。
どがん、と重たくテーブルが揺れる。あれだけの重量を運んできたというのに、レベッカは涼しい顔をしている。
麻袋の口をフィフィリアンヌの方に向けたレベッカは、紐を解いた。中からは、金色の輝きが溢れてくる。

「どーぞー。薬の代金の、金貨一千二百五十枚でーす」

「…あれっぽっちの薬で? フィル、お前はぼったくってるのか?」

相当な金額に、ギルディオスは訝しんだ。自分の借金もそうだが、あまりにも現実離れした金額だった。
金貨を取り出したフィフィリアンヌは裏表を確かめ、指で弾いている。また、金貨同士もぶつける。
かちんかちん、と何度か叩き合わせる。本物であることを入念に確かめてから、ずるっと麻袋を引き寄せた。

「そういうわけではない。本当に金が掛かるのだ」

「そうだともそうだとも。二ヶ月以上もフィフィリアンヌの近くにいて、まだ気付かないのかね」

フラスコから体を伸ばした伯爵が、ギルディオスを指す。

「魔法道具商から掻き集めた希少な薬草や骨を惜しげもなく使うのだ、それくらいは取るのが当然なのだよ」

「オレ、薬草の見分けなんてつかねぇもん」

「馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、そこまで馬鹿だとは」

呆れ果てているフィフィリアンヌに、ギルディオスは諦めながらも言い返した。

「仕方ねぇだろ、本当のことなんだから」

布袋を開けたグレイスは、がちゃがちゃと薬液の満ちた瓶を並べていった。様々な色の薬が、たぽんと揺れる。
一つ一つ蓋を開けて中身を確かめてから、満足げに頷く。注文通りの仕上がりになっていたからだ。
これだけの量がありながら質の高い薬を作れるような者は、フィフィリアンヌしかいない。しかも、効果は確実だ。
殺さずにいて良かった、と内心でグレイスは笑った。六十四年前の自分の判断に、少し嬉しくなる。
帝国と王国の紛争後、帝国の皇族から言い渡された命令が思い出される。竜の子を殺し、血を寄越せ、と。
王国の兵士が形見として彼女に渡す、父親のロザリオを媒介として呪いを掛け、殺すのは簡単なことだった。
それを留まったのも、甘言で皇族の命令を変えさせたのも、単なる気紛れに過ぎなかったのだが。
強いて理由を挙げるとすれば、幼き日のフィフィリアンヌが、殺すには惜しい容姿をしていたからだった。
少女の成長が止まってしまえばいいと思っていたら、呪いも掛けていないのに、本当に止まってしまった。
嬉しい反面、後悔もしていた。どうせなら、十歳くらいで止める呪いを掛けておけば良かった、と。
そんなことを考えながら、グレイスは薬瓶を袋に戻していく。全て入れ終えてから、彼らへ目をやる。
フィフィリアンヌは表情を固め、薄い唇を締めている。グレイスは、整った顔立ちの少女へ目線を据えた。

「フィフィリアンヌ」

だが、彼女はこちらに向かない。グレイスは続けた。

「ギルディオス・ヴァトラスを蘇らせたのは実験だそうだが、ならば本番はあるのか?」

フィフィリアンヌは答えず、目を伏せる。少女の反応に、グレイスはにやりとした。

「相手は誰だ、親父さんか? その様子だと、まるで考えたことがないというわけじゃあなさそうだがな」

予想通りの反応だった。フィフィリアンヌは六十四年過ぎようが、父親の面影から離れられずにいるのだ。
前々から知っていた、彼女の弱点だ。だがその弱みは、固く締められた表情によって隠されていた。
だが、今はその警戒が自然と緩んでいる。感情的な性格のギルディオスに影響されて、表情が増えたからだ。
こんなフィフィリアンヌで、遊ばずにはいられようか。冷静な者が揺らぐ姿は、見ていて楽しくてならない。
傍らで目線を泳がせているフィフィリアンヌを見ていたが、ギルディオスはグレイスを睨み付ける。

「別にお前にゃ関係ないだろ、フィルの実験も本番も」

「いやあ、あるさ。事と次第によっては、手を貸してやらないでもないんだがね」

グレイスの言葉に、ギルディオスは顔をしかめるような気持ちでヘルムを押さえた。

「白々しいこと言いやがって…」

「別に嘘じゃあないさ。オレは少女の味方だからね」

得意満面、といった様子のグレイスは頷いた。彼の隣から、レベッカが身を乗り出してきた。
テーブルに手を付いて、ずいっとフィフィリアンヌの前へ顔を出す。大きな目が、少し細められる。

「フィフィリアンヌがやろうと思えば、ホムンクルスなんて簡単ですよねー? 魂の器なんて、すぐに出来ますよー」

「魂を呼び起こし、自己意識を蘇らせる魔法は完成しているはずだろう? この甲冑が、動いているんだからよ」

グレイスの手が、フィフィリアンヌへ向けられた。手招くように、徐々に長い指が曲げられていく。
少し、フィフィリアンヌの目がグレイスへ向いた。だがすぐに逸らされ、ギルディオスを捉える。
ギルディオスは、思わず彼女と見つめ合ってしまう。改めて眺めてみると、整いすぎた顔立ちの少女だった。
少々戸惑いながらも、ギルディオスは目線を逸らさずにいた。逸らしてはいけないような、そんな気がした。
だが、フィフィリアンヌは顔を逸らした。膝の上のローブを握り締め、白く細い指が、固く闇色を掴んでいる。
表情はあまり変わってはいないが、動揺しているようだった。ギルディオスは、なんとなく伯爵を見下ろす。
白濁した彼は、フラスコから体をにゅるりと伸ばしていた。引き寄せられたコルク栓が、かぽん、と填められる。
我関せず、といった態度のスライムに、ギルディオスは面食らいそうになったが、何も言わないことにした。
こいつはそういう奴なんだ。湿った体をしているわりに、乾いていて辛辣な男なのだ。ギルディオスは、そう思った。
思考を誘導するように、二人の言葉は続いている。どの言葉も、フィフィリアンヌの父親を匂わせるものばかり。
調子良く喋り続けているグレイスとレベッカを、フィフィリアンヌは正視しようとしない。詭弁から、逃れるためだ。
その様子に、ギルディオスは多少心配になっていた。身を屈め、俯き加減になっている少女を覗き込む。

「フィル」

「…案ずるな」

垂れ落ちて顔を隠していた髪を掻き上げ、フィフィリアンヌは呟いた。横に座る甲冑は、心配げにしている。
ふと、フィフィリアンヌはギルディオスの胸元に視線を止めた。その奧の魔導鉱石から、少し魔力が感じられる。
惑わされることはないが、揺らぎそうになっていた思考を止めて、しばらく鈍い銀色を見つめた。
そうしていると、あることが思い当たった。グレイスの狙いが何なのか、フィフィリアンヌは予想が付いた。
グレイスに、切り返してやらねばなるまい。そう思いながら、フィフィリアンヌは横目にギルディオスを窺った。

「そこまでして、父上に会いたいとは思わん」

体を起こして、フィフィリアンヌは顔を上げた。動揺は消え、目には鋭さが戻っている。
ほう、と顎へ手を当てたグレイスは、笑う。気丈な切り返しを、崩してやりたくなっていた。

「これはこれは。フィフィリアンヌは、お父上を愛してはいないのか?」

「愛しているとも、今も昔もな。だからこそ、蘇らせるなどという愚行の犠牲にしてはならんのだ」

「それならば、このギルディオス・ヴァトラスはどうなんだ? この男は、愚行の犠牲者じゃねぇのか?」

「ただの実験台だ。私がこの馬鹿に目を付けたのも、付けられたのも、単なる偶然に過ぎん」

「ならばその偶然の延長で、お父上の墓を掘ってもいいじゃあないか。誰も文句は言わんさ、無論、お父上もな」

「父上の感情を、貴様如きが勝手に決め付けるな」

「喜ぶんじゃないのか? 娘に会えて」

「恐れるかもしれんぞ。何十年も時間が過ぎようとも、まるで姿形が変わっておらんのだから」

「さあて、そいつはどうかな。そいつは、フィフィリアンヌの決めることじゃあない」

「それもそうだな。父上を蘇らせることは、母上も行わなかったのだ。私が行っていいはずがない」

「そいつも、どうだかね」

少し声を落としたグレイスに、フィフィリアンヌは返す。

「グレイス。貴様が先程から欲しがっているものを渡す気など、私は毛頭無いぞ」

「欲しいとは?」

「私の血ではないのであれば、本番を終えたら用済みとなる実験台しかあるまい。先程から絡んでおるしな」

「の、魔導鉱石さ。オレが買おう買おうと思ってたやつを、フィフィリアンヌが買ってっちゃうんだもんなぁ」

「早く買わなかった貴様が悪い。あれほどの純度で大きさのあるものは、あと三十年は出てくるまい」

フィフィリアンヌは、満足げな口調になる。グレイスは、恨めしそうにギルディオスを見上げた。

「魂の方は適当な体に突っ込んでやるから、胸んとこの石を売ってくれないか?」

「…いくらだよ」

ギルディオスは、一応訊いてみた。グレイスは、すぐさま声を上げる。

「金貨二千枚でどうだ?」

「どうせ金を払う前に、オレの魂を消すつもりだろ? だから嫌」

ぷいっと顔を逸らしてしまったギルディオスに、グレイスは悔しげに舌打ちして指を弾く。

「ちぃ、ばれたか」

「交渉は、始める前から決裂している。早いところ諦めて、鉱石商にでも話を付けてくるがいい」

立ち上がったフィフィリアンヌは、フラスコを取って腰の金具に挟む。かちん、と固く止められる。
ギルディオスも立ち上がり、ずしりと重たい金貨の袋を担いだ。背中の鞘に、じゃりんと中身が当たって鳴る。

「あーもう、お前嫌い! もう二度と会いたくねぇ!」

「はっはっはっは。しかしだね、ギルディオス。関わりたくない相手ほど、関係が深まるというものだぞ」

機嫌良く、伯爵は笑った。それにつられるように、グレイスも笑う。

「ゲルシュタインの言う通りさ、ギルディオス・ヴァトラス。いつでも会いに来いよー、石を奪い取ってやるから」

「うるせぇやい!」

そう言い返してから、ギルディオスは扉へずかずかと歩き出した。一刻も早く、ここを出たかった。
フィフィリアンヌは彼ら言い合いに呆れているのか、あらぬ方向を見ていた。伯爵は、まだ笑っている。
グレイスはギルディオスの仕草を真似て、ちょっと肩を竦めた。レベッカは、主と顔を見合わせる。

「御主人様ぁー、お帰りみたいですねー」

「だな。送り出してやらんと」

腰を上げたグレイスに気付き、扉の前でギルディオスが振り返って声を上げた。

「いらねぇよそんなもん!」

「まあそう言うなよ。見送りついでに、ちょいと呪いを掛けてやるだけなんだから」

「余計にいらねぇ! ていうか近付くな!」

じりじりと後退るギルディオスへ、グレイスはにやにやしながら近付いていった。反応が面白いのだ。
フィフィリアンヌは、どうするべきか解らなかった。実際、ギルディオスの過剰なまでの反応は可笑しいほどだ。
もう少し、見ていたい気もしたほどだ。だが、それを顔に出すことはなく、無表情に眺めていた。
結局。フィフィリアンヌは見物を決め込み、ギルディオスをグレイスから救うことはなかった。




跳ね橋を渡り切ったギルディオスは、恐る恐る背後を窺った。
レベッカを従えたグレイスが、機嫌良く手を振っている。丸メガネが、きらりと日光で輝いた。

「また来いよー、ギルディオス・ヴァトラス」

「二度と来るかぁ!」

力一杯叫んだギルディオスは、道ばたへ放置していた荷車に金貨の袋を置いた。どがん、と板が揺れる。
それを起こしていると、フィフィリアンヌが何やら地面に書いている。木切れで、線を引いていく。
荷車と甲冑を取り囲むようにして、二重の円が出来上がる。その間に、いくつもの魔法文字が書かれていった。
細かい文字も書き足してから、フィフィリアンヌは魔法陣の中心に立った。顔の前で、右手の人差し指を立てる。

「全てを忌み全てを戒める言霊より生まれし力よ、魔を生み出す言霊に、その力を飲み込まれん!」

赤い瞳が見開かれ、ぶわりと魔法陣から風が起こった。

「解呪!」

「あーあーあー…解いちゃったよ」

跳ね橋の向こうで、グレイスが残念そうに声を洩らした。レベッカも、不満そうにむくれている。
フィフィリアンヌの黒いマントが落ち着いた頃、妙な声が聞こえた。フラスコの中で、伯爵が泡立っている。
白んでいた体が徐々に透き通り、元のワインレッドに戻っていく。フィフィリアンヌは、グレイスへ目をやった。

「貴様の趣味は解らん。なぜいつも、私ではなく伯爵を呪うのだ?」

「そりゃ決まっている。ゲルシュタインが、面白いからさ」

悪気なさそうに、グレイスは答える。苦しげな伯爵の唸りが、フラスコから辺りに響いていた。
ギルディオスは気疲れして、ため息を吐いてしまった。グレイスの性癖を、理解出来ることはないだろう。
ぎりぎりと鎖が軋み、跳ね橋が持ち上がっていった。徐々に橋の板が上がり、二人の姿が隠されていく。
最後まで手を振り続けるグレイスに背を向け、ギルディオスは歩き出した。早く、ここから離れたかった。
昼の日差しを受けて少し溶け気味の雪道を進みながら、ごろごろと荷車を引く。とん、と軽い重量が加わった。
フィフィリアンヌは、行きと同じように荷車へ腰掛けた。まだ沸騰している伯爵を見つつ、呟いた。

「また会うことになるぞ、ギルディオス。あれでいて、グレイスはいい客なのだ」

「フィルにとっちゃな」

城下町へ続いているなだらかな坂道を見下ろしながら、ギルディオスはげんなりした声で返した。
この体になってからというもの、いいこともあったが、良くないことの方が遥かに多い。しかも、敵が増えた。
未だに少しも返せていない借金の返済方法や、グレイスに対する対処法を考えてみたが、嫌になるだけだった。
がっくりと項垂れたギルディオスは、ついこんな言葉を洩らした。

「…もう嫌、こんな生活」




魂の器を取り戻した死者の、苦悩は続く。望まぬ運命に、身悶えながら。
泣けるものなら泣いてしまいたいが、その涙は、鋼鉄に形作られた体から出てくることはない。

重剣士の不幸は、もうしばらく続きそうである。






04 12/15