ドラゴンは笑わない




隻眼の正義



固い床の上で、ジャックは身を縮めていた。
淡い夢の中にいたが、どん、と頭を小突かれた。眠い目を擦っていると、眼帯の男が暗闇に立っている。
開け放った窓から差し込む月明かりがなければ、そこにいることは解らなかった。藍色の闇に、黒がいる。
ジャックがのろついた動きで起き上がると、眼帯の男はジャックの手に短剣を握らせた。顔を寄せ、小さく呟く。

「一緒に来い」

「なんすか?」

眠たい頭のまま、ジャックは返した。手の中にあるずしりとした短剣と彼を見比べていると、男は外を指す。

「夜が明ける前に、カタを付けたいんでな。魔導師がいる場所は解ってるんだ、事は早い方がいい」

「いつのまに調べたんすか?」

ジャックが驚くと、眼帯の男はしれっと返した。

「そんなもん、細かく調べなくても解るさ。荷車の車輪の後を追えば、いいだけのことだからな。お前らがその魔導師とやらに貢いでるんなら、当然荷物を運ばなきゃならない。だが、この街には、魔法で物を軽く出来るような技量を持った人間がいないのなら、移動方法は馬車か牛車か人力かだが、いずれも荷車には違いないってことだ。昨日、荷車の通った後を見たんだが、一番深くて新しいものは街の奥の山に繋がっていた。となれば、話は単純明快だ。三流魔導師はそこにいる」

「けど、山のどこにいるかなんて、オレらは知らないんすよ」

「それも簡単だ。あちらから出てきてもらえばいいのさ」

「どうやって?」

「オレの有り金を貢ぐんだよ。まぁ、どうせ後で取り戻すんだがな」

眼帯の男は、腰に提げた財布を叩いた。ちゃりちゃりといい音がする。ジャックは、徐々に目を見開いた。
立ち上がると、男に詰め寄った。眼帯の男は後退したがテーブルに背が当たり、それ以上は下がれなかった。

「小父さん!」

「なんだよ」

「弟子にして欲しいっす!」

「馬鹿言え。剣術とかじゃあるまいし、オレの弟子になんてなっても」

「いいんす! オレ、小父さんの弟子になりたいんすよ!」

黒い外套を掴んだジャックは、目を輝かせている。眼帯の男は困った様子で、顔を背けた。

「…その、小父さんてのはやめてくれ。オレはまだ若いぞ、三十二だぞ」

「んじゃ、名前」

「仕方ねぇな。予定をちょっと切り上げるが、ここで教えてやろう」

眼帯の男はジャックを見下ろし、自分の胸を指す。

「マーク・スラウだ。だが、まだ他の奴には言うんじゃないぞ。事が終わるまでそれが守れたら、弟子にしてやる」

「はいっす! それじゃあ、まだしばらくの間は小父さんっすね!」

「ああ、まぁ、な」

多少複雑そうにしながら、眼帯の男、マークは少年の手を外套から外させた。背を向けると、扉を開ける。
浮き浮きした足取りで、ジャックはその後に続いた。マークは音もなく外に出ると、足早に路地を歩き始めた。
ジャックは小走りに、黒衣の後ろ姿を追いかけた。マークの足は早く、気を抜けばすぐに遠ざかってしまいそうだ。
路地から通りに出たマークは、先程言った通りに車輪の後を辿って歩いていった。ジャックも、それに続く。
青白い月明かりで、昼間のように明るかった。手渡された短剣を握り、ジャックはわくわくしながら駆けていた。
こんなに嬉しい気持ちになったのは、初めてだった。




車輪の後を追った先は、山の入り口だった。
森に入る手前で、車輪の後は切れている。転回して引き返した後もあり、マークの読みは当たっていたようだ。
鬱蒼とした森の前で、マークは立っていた。その背後に隠れたジャックは、虫の鳴き声がする森を見回した。
マークは周囲を窺い、腰に提げた財布を外した。紐を緩めて中身を確かめてから、地面に財布を放り投げた。
緩められた口から、ちゃりっ、と中身が零れ落ちた。青白い光を浴びて、きらきらと金色の硬貨が光り輝いている。
初めて見た金貨に、ジャックは少し見入った。ぼんやりしていると、マークの襟首を掴まれて引っ張り込まれた。
引き摺られて、森から見えない位置に転がされた。ジャックはマークの手によって、太い木の根元に押し込まれた。
マークはジャックの口を手で塞ぐと、入り口を示した。ジャックは、静かにしている、という意味で何度か頷いた。
そのまま、時間が過ぎた。動きも息も殺したマークは木に背を預けて座り、ジャックは自分の手で口を塞いでいた。
夜空の頂点にあった月が傾き、東の空も白み始めた。うつらうつらとしたジャックは、金属音で目を覚ました。
見ると、マークが立っている。ジャックも立ち上がり、マークの背後から、恐る恐る森の入り口を覗き込んでみた。
遠くから、足音が聞こえた。枯葉を踏む乾いた音が、規則正しくやってくる。暗がりの奥から、人影が現れた。
ジャックは出来るだけ目を開いて、人影を凝視した。薄汚れたマントを引き摺り、小柄な男が月明かりの下に出た。
以前見たときよりも、魔導師の男はやつれていた。頬がこけて痩せていたが、目だけは欲望でぎらぎらしていた。
マークの置いた金貨に手を伸ばし、口元を緩ませながら屈んだ。枯れ木のように萎びた手が、数枚の金貨を握る。
その音に、別の音が混じった。左腕から垂らされた鎖が、ひゅおん、と空を切った。マークは、木陰から出る。

「おっと。そいつはオレのだ」

魔導師の男が身構える前に、鎖は素早く投げ付けられた。ぎゃりっ、と顔の脇を抜けたかと思うと、首に絡み付く。
じゃりじゃりと巻き付いた鎖を引きながら、マークは歩み寄っていった。首を押さえる魔導師の男の、腕を取った。
持ち上げて捻ると、だん、と背中から地面に叩き付けた。その拍子に鎖が緩み、じゃらりと解けて滑り落ちた。
マークは手を回して鎖を手に巻き付け、ぜいぜいと荒い息をしている魔導師の男を見下ろし、その額に足を置く。

「せこいことするな。どうせやるなら、もうちょっと派手にやらかしな」

「お、お前は」

マークを見上げた魔導師の男は、ひぃ、と喉を引きつらせた。マークは外套の下に手を入れ、短剣を抜いた。

「嬉しいねぇ、知っていてくれたか」

「た、頼む、命だけは。返す、金は全部返す!」

魔導師の男はマークに手を伸ばし、握っていた金貨を落とした。マークは短剣の切っ先を、男の眉間に向ける。

「さて、どうするかね」

「わ、悪かった、私が全部悪かった、だから、頼む!」

魔導師の男は、マークへと手を差し出した。ジャックは魔導師の男の怯えようが不思議に思え、マークに尋ねる。

「小父さん、今まで何をしてきたんすか?」

「悪党の間じゃ、ツラが割れてるってだけさ」

マークは財布と金貨を拾ってから、ジャックに言った。魔導師の男の頭を、ごりっ、とかかとで踏み付ける。

「そうだな。お前がこの街の人間に掛けた呪いを全部解呪して、奪った金品のありかを洗いざらい話して、その上で街の人間の前で謝罪するってんなら考えてやらんでもないぞ?」

「解った、解った、解ったから!」

必死に声を張り上げ、魔導師の男は森の入り口を指す。痩せ細った指先は、ぶるぶると震えている。

「か、金は私の家にある。呪いも解呪してやる! だから、殺すのだけはやめてくれぇ!」

「ほう。物解りがいいじゃないか」

マークは短剣を下ろし、ジャックを手招いた。ジャックは木陰からそっと出ると、マークの背後に駆け寄っていく。
ぱちん、と外套の下の鞘に短剣を納めたマークは、ごそごそと服を探った。縄を取り出すと、ジャックに渡す。

「きっちり縛っとけよ」

「あ、はいっす!」

ジャックが頷くと、マークは森の奥へと走っていった。僅かな足音が遠ざかり、黒い姿は闇の中に沈んでいった。
マークの後ろ姿が見えなくなってから、ジャックは魔導師の男を見下ろした。脂汗を垂らし、歯を鳴らしている。
こんな男に、今までいいようにされていたのか。そう思うと、憎しみよりも情けなさが湧き、ジャックはむかむかした。
両手に縄を巻き、ぎちぎちに締め付けた。両足首もきつく縛りながら、ジャックは腹立ち紛れに吐き捨てた。

「何がそんなに怖いんすか。あの人はいい人っすよ」

「いい人間なものか、あの男は外道だ!」

掠れた声で喚いた魔導師の男は、少年に身を乗り出す。

「いいか、よく聞け。お前ら田舎者は知らないだろうが、あの男は、マーク・スラウはな、とんでもない奴なんだ!」

ジャックは聞く気がなく、顔を背けた。魔導師の男は、更に叫ぶ。

「マーク・スラウは、賞金稼ぎとは名ばかりで、殺しを楽しんでいるんだ! 賞金首だけじゃなく、その妻や子供まで手に掛けた話なんてごろごろある! 年端の行かない子供まで、あの鎖で締め上げて首をへし折ったんだぞ!」

腹立たしさを押し込めたジャックが黙っていると、魔導師の男は声を上擦らせる。

「いくら賞金稼ぎと言ったって、中身は盗賊だ。殺しと盗みが楽しくって仕方ないのさ!」

「…違うっすよ! あの人は、あのひとはそんなひとじゃない!」

ジャックは我慢出来なくなり、短剣を魔導師の男に顔に突きつけて叫び散らした。

「あの人は盗賊なんかじゃない! 正義の味方なんだ!」

「正義だと? あの男が正義ならば、なぜ私を助けない!」

ジャックの向けた刃の切っ先を睨み、魔導師の男は掠れた声を張り上げる。

「私はな、昔は帝国でもちったぁ名の知れた魔導師だったのさ! だがな、功名心に付け込まれて灰色の呪術師に騙され、挙句に魔力を抜かれて魔力中枢も乱されてこの様だ! 使える魔法といったら下らん魔法に役に立たない呪いだけになって、魔導師としての資格も失った! だから私は、あの灰色の呪術師に復讐するまでは長らえなくてはならんのだ! こんな田舎でみみっちく金を稼いでいるのも、やりたくもない詐欺をしているのも、全ては忌々しい呪術師に復讐するためなのだ!」

魔導師の男の言葉に、ジャックは唖然とした。ただの悪だと思っていた男に、こんな過去があるとは思わなかった。
ジャックは震える手で、短剣を固く握り締めた。先程まで多少はあった殺意が薄れ、同情に変わりそうになる。
魔導師の男は身を下げて、にやりとジャックを見上げた。怯えと哀れみの混じった顔の少年に、笑いながら言う。

「ほれ、解ったら縄を切れ。私は生きなければならんのだ、お前もマーク・スラウに殺されたくはないだろう」

「だ、だけど」

ジャックが数歩後退すると、なぁに、と魔導師の男は笑う。

「あの男が戻ってきたら、私も加勢してやろうではないか。あの男もなかなかの賞金首でな、切り落として軍に持って行けば金貨五百枚だぞ。マーク・スラウを倒したら、その半分をお前にやる。本当だぞ、嘘ではないぞ」

日が昇り始め、朝焼けが東の空を焦がしていた。朝の日差しが、魔導師の男の目を一層ぎらつかせていた。
ジャックが何か言おうとすると、どっ、と衝撃で魔導師の男の体が揺れた。喉から突き出た銀色が、眩しく光る。
血の伝う短剣が、魔導師の男の首を後ろから貫いていた。息を漏らしていたが、がぼっ、と喉の底で血が泡立つ。
黒い影が、近寄ってきた。前のめりになっている魔導師の男の背後に立つと、その首から短剣をずぶりと抜いた。
前後の傷口から血が溢れ、べちゃっと地面を汚した。マークは男の肩を蹴って倒し、忌々しげに眉根を歪めた。

「うるせぇな。家捜しに集中出来なかったじゃないか」

「あ…」

ジャックは腰が抜け、ぺたんと座り込んでしまった。死体を踏み越えてやってくるマークは、何かを背負っている。
がちゃがちゃと金属音のする、膨らんだ袋だった。マークは血溜まりを避けてジャックの前に立ち、手を差し出す。

「立てよ。戻るぞ」

「あの、小父さん」

「ん?」

「子供、とか、殺した…んすか?」

怯えを隠しながら、ジャックは呟いた。マークは伸ばしていた手をそのままに、ああ、と頷く。

「ゲイリードっつー山賊一族の息子で、七歳ぐらいだった。その妹もいたな。どっちも狩りの道具に使われてて、囮にするために手が切り落としてあったんだ。オレがそいつらの親やら親戚やらを殺したあとに、どこからか出てきて、オレに言ったんだ」

マークは、苦々しげに眉間をしかめる。

「生きていても仕方ない。生きているぐらいなら死ぬ、だから殺してくれ、ってな」

「…それで?」

「ああ。あいつらの気持ちは痛いほど解るから、その通りにしてやったよ」

「でも、小父さんは」

生きているじゃないか、とジャックは言おうとしたが声にならなかった。マークは、自虐的に笑う。

「オレは、死にたくなかったんだよ。何がなんでも生きていたくて逃げ出したんだが、誰も彼も、そんなに強くはねぇ。オレも、死んじまおうかって思ったことはあるさ。でもよ、生きるんだ。生きてなきゃいけない気がするし。それに」

マークはジャックの手を掴むと、ぐいっと立ち上がらせた。

「オレは、死ぬんだったら戦って死ぬつもりなんでな」

手袋を付けた大きな手は、温かかった。ジャックは彼に立たせられた格好のまま、眼帯の男を見上げていた。
お前はどうなんだ、と言われてジャックははっとした。無性に泣き出したい気分になっていたが、何度も頷いた。

「死にたくないっす。小父さんの弟子になって、強くなって、生きて、もっと、もっと色んなことがしたいっす!」

「具体的には?」

「えと、その、笑わないっすか?」

ジャックが気恥ずかしげにすると、マークは首を横に振る。ジャックは少し黙っていたが、意を決した。

「小父さんがオレのお父さんになってくれるぐらい、立派になりたいんす!」

マークは意表を突かれたのか、きょとんとしていた。ジャックの言葉を理解すると、複雑そうな顔になる。

「だが、オレは親父になんてなったことないぞ」

「オレだって、息子なんてなったことないっす。だから、やってみるんすよ!」

満面の笑みのジャックに、マークは釣られたように笑った。

「そうだな。やってみると、案外面白いかもしれないな」

「きっと面白いっすよ!」

ジャックは、マークの外套を掴んだ。引っ張って歩きながら、早く帰るっすよー、と嬉しそうに声を上げている。
少年に引き摺られて歩きながら、マークは苦笑した。こんなことになるとは思ってもいなかったが、悪い気はしない。
朝靄と砂埃に霞んでいる街が、遠くに見えていた。飛び跳ねるように歩くジャックの背は、とても楽しげだった。
マークは肩に乗せた袋の重みを感じながら、後方を窺った。魔導師の男は、己の血溜まりの中で息絶えている。
街に帰れば、事態は変わっているはずだ。失言の呪いの術者が死んだことで、住民達は言葉を取り戻している。
そうなれば、自分の正体も話されていることだろう。彼らがどんな行動に出るか、マークには予想が付いた。
浮かれているジャックの後ろ姿を見、マークは少し哀れむような目をした。




街に戻ると、人々が立ちはだかっていた。
通りを塞ぐように横に並び、全ての人間が手に武器を持っている。仰々しく物々しいが、滑稽な眺めだった。
ジャックは、状況がすぐには理解出来なかった。目を丸めるジャックの背後に立ったマークは、袋を放り投げた。
がしゃっ、と重たい袋は倒れて口から銀貨がこぼれ出た。険しい表情になったマークに、住民の一人が叫ぶ。

「その子供はやる! だから、すぐに出て行け!」

え、とジャックは唇を半開きにした。言われた言葉が頭を上滑りして、理解するの拒んでいた。だが、言葉は続く。

「貴様はマーク・スラウだろう! 魔導師を倒してくれたことはありがたいが、我々の生活を乱すことは許さん!」

ジャックは、目を動かした。見慣れているはずの人々が、別人に見えた。彼らは、親しくしてくれた人達だった。
遊んでくれていた子供達も、家の窓や扉の影からこちらを窺っている。顔を出した子供が、舌足らずな声で叫ぶ。

「でーてけぇ! しんじゃえー! こっちくるなー!」

「な」

何がどうなってるんすか、と言おうとしたが声が出なかった。震えるジャックの肩に手を置き、マークは呟いた。

「ジャック。お前は、捨てられるために生かされていたみてぇだな」

「どうして」

呆然としたジャックに、マークは感情の失せた声で続けた。

「盗みの先頭にさせられていたし、お前がオレを連れ込んでも何も言わないんだ。何かあるとは思っていたが、予想通りだったよ。ジャック、お前は、この街のトカゲの尻尾なんだ。厄介事が起きたらその真っ先に立たされて犠牲になってもらうための存在だったんだ。田舎ってのは、良くも悪くも仲間意識が強いからな。捨て子のお前は、トカゲの尻尾にするには丁度良かったんだろうさ」

何も言えなくなり、ジャックはへたっと座り込んだ。今までの生活は、貧乏だけど楽しかった生活は嘘だったのか。
考えてみれば、思い当たる節がないわけではない。長く暮らしているのに、大人達はいつまでも他人行儀だった。
子供達も遊びの最後には、除け者にした。それはいつも、孤児だから、だと自分に説明して飲み込んでいた。
ジャックは涙を堪えようとしたが、次から次へと溢れ出てきた。悔しいよりも悲しくて、押さえられなかった。
声を殺して泣いていると、担ぎ上げられた。突然視界が高くなったのでぎょっとすると、そこはマークの肩だった。
ジャックを肩に担いだマークは、住民達に背を向けた。左腕の鎖をじゃらりと緩めると、住民達が身動ぎする。

「言われなくても、こんな場所からは出ていくさ。ジャックはもらっていくつもりだが、そいつは本人の意思なんでな。お前らの指図で、オレはこいつを連れていくわけじゃない。そこのところ、勘違いするんじゃないぜ」

住民達へ眼帯を向けたマークは、吐き捨てた。

「あの魔導師よりも、お前らの方が余程タチが悪いぞ」

ばさり、と視界の下で黒い外套が翻った。マークの肩の上で、ジャックは脱力していた。だらりと、手足を垂らす。
マークと共に行けることが嬉しいはずなのに、少しも気分が高揚しなかった。涙は、だくだくと溢れ続けている。
足音もなく歩くマークは、無言だった。朝日がジャックの顔を照らし、涙で冷たく濡れている頬を暖めてくれた。
その温もりは、彼の手に似ていた。




あの街から大分離れた森の中で、ジャックは呆けていた。
涙は止まり、頬に塩気が張り付いている。ごしごしとそれを拭っていると、爽やかな初夏の風が吹き付けてきた。
ざあ、と木々の枝を擦りながら通り抜けた。濃密な葉の隙間から注ぐ日差しは、水面のようにきらきらしている。
膝を抱えて、木の根に腰掛けていた。苔や土から立ち上る有機的な匂いが鼻を突き、あの街とは空気が違う。
甲高い鳥の鳴き声が聞こえ、ばさばさと羽音が飛び去った。その方向を目で追うと、視界に黒が飛び込んできた。
細い山道を、黒衣の男がやってくる。ジャックの前で止まると、手にしていた紙袋をジャックに差し出した。

「喰え。大したものじゃないが、腹の足しにはなるだろう」

「あ、はいっす」

ジャックは紙袋を受け取り、開けてみた。小麦の甘い香りがふわりと立ち上り、まだ温かなパンが入っていた。
マークはジャックの隣に座ると、もう一つの袋を開けた。緑のワインボトルを出し、ごとん、と足元に置く。

「今頃、あいつらは困っていることだろうな」

「…厄介払いが出来て、せいせいしてるんじゃないんすか?」

焼き立てのパンを、ジャックは軽く齧った。マークはワインボトルのコルク栓に針を刺し、ぽん、と引き抜いた。

「あいつらの前に放った袋の中身は、金じゃなくてガラクタだ。金なんて、銀貨五枚しか入っちゃいないんだ」

「どういうことっすか?」

ジャックは口の中のものを飲み下してから、尋ねた。マークは赤ワインをぐいっと飲み、口元を拭う。

「奴らの魂胆は透けて見えていたから、どうせなら、やり返してやろうと思ったのさ。あの銀貨は、お前の家から掻き集めたものなんだ。上だけしっかりしてれば、一見すればそれっぽく見えるからな。それにあいつらは、オレがいるせいで大分びくついてたみたいだし、騙されて当然だな。一人でもまともなのがいれば、ばれたんだろうが」

いなかったみたいだな、とマークは嫌そうにした。ジャックはもくもくとパンを噛んでいたが、ごくりと飲み下した。
寂しげなジャックの横顔に、マークはぐしゃりとその頭を掻き毟った。ジャックは目を上げ、眼帯の男を見上げる。
マークは、少年の目と己の目を合わせた。濁りのない青緑の目は、泣いていたせいで目元が赤くなっている。
出会ってたった一日なのに、不思議と親近感が湧いていた。父親になって欲しい、と言われたからかもしれない。
そんなことを言われたのは、初めてだ。弟子になりたい、とまで言われたのも、誰かに慕われたのも初めてだった。
それが無性に嬉しかったが、表情には出さなかった。というより、気恥ずかしくて出すことが出来そうにもなかった。
ジャックは、刃物のようだったマークの目が穏やかなことに気付いた。パンを食べ終えてから、彼を見返す。

「あの、小父さん。小父さんの言う正しいことって、なんなんすか?」

「自分で正しいと思うことに決まってるだろ。それが、オレの正義だ」

マークはジャックの頭から手を離し、ワインボトルを足元に置いた。ごとり、と重たい音がする。

「そういうお前は、何が正しいと思う?」

「小父さんは正しいと思うっす。そりゃあ、人を殺してきたのは悪いかもしれないっすけど、でも、間違っちゃいないと思うんす。他の人から見れば間違いかもしれないけど、少なくとも、オレは正しいと思ってるっす。あの兄妹を殺したことだって、いけないことかもしれないけど、いけないってことと間違ってるってことは違うと思うんすよ!」

途中から、ジャックは声を張り上げた。マークの黒い外套を掴み、握り締める。

「オレだって、小父さんが来なきゃあのままだったっす! ずっと、トカゲの尻尾のままだったんすから!」

「ジャック。オレの手は、お前が思っている以上に血みどろだぞ。それでも、オレが正しいと思うんだな?」

「少なくとも、オレにとっちゃ正しいんす!」

身を乗り出し、ジャックはマークに詰め寄った。真剣な顔をしている少年を、眼帯の男は無表情に見下ろす。

「オレと一緒に来れば、人を殺すことになるぞ。いつどんな輩と顔を合わせて、殺されるかも解らんぞ」

「それでもいい!」

「それじゃ、覚悟しとけよ。あの魔導師の死体が可愛く思えるほど、えげつない目に遭うからな」

マークの答えに、ジャックは表情を明るく弾けさせた。

「んじゃ、オレ、小父さんの息子か弟子になれるんすね!」

「オレの言ったことも守れたし、約束だったからな。面倒だからどっちにもなれ」

「はいっす!」

「それと、もうその小父さんてのはやめろ。名前で呼んでくれ」

「はいっす、マークさん!」

マークの外套から手を離したジャックは、大きく頷いた。マークは少し笑うと、服の胸元に手を入れる。

「んじゃ、あの魔導師のところから持ってきた金をさっさと洗っちまうかな。お前とオレの装備と食糧にでもして」

「…盗んできたんすか?」

そのしたたかさに、ジャックは呆気に取られてしまった。マークの口調は、罪悪感の欠片もない。

「盗んだとは穏やかじゃないな、持ってきたって言ってくれよ。あの街で食糧の調達でもしようと思っていたんだが、それが出来なくなったんだから仕方ないだろう。それに、お前からもらった報酬も置いてきちまったからな。タダ働きは好きじゃないんでね」

「マークさん…。そういうのは、あんまり正しくないと思うっすよ?」

「かもな」

そう返してから、マークはワインボトルを傾けた。ジャックは複雑そうにしていたが、また木の根に腰掛けた。
もう一個入っていたパンを取り出し、噛み付いた。少し冷めてはいたが、甘い小麦の味が口の中を満たす。
先程食べたおかげで空腹は落ち着いてきたので、今度は味わった。こんなに美味しいものは、初めてだった。
パンの味もさることながら、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。胸が一杯に詰まって、また涙が出てきそうだった。
初めて、居場所を得たような気分だった。マークという人間がいかなる人間かはまだ解らないが、心地良かった。
マーク・スラウが、他人が言うように相当な悪党だとしても。あの手の温かさは、間違いなく本当のものだ。
少年にとっては、それがなによりの正義だった。




隻眼の賞金稼ぎと、孤独なる少年。偶然の出会いは、互いを埋める。
正しいことは正しくないことであり、間違っていることは間違っていないこと。
それを決めるのは彼ら自身の信念であり、揺るぎない信念こそが、彼らの正義なのだ。

しかし、その基準は、彼らに都合良く出来ているのである。







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