セイラは、歌っていた。 喉を震わせ、背筋を伸ばし、下半身を浸した水面が揺らいでいる。歌い慣れた旋律が、弱い風に広がった。 深い森に守られた城は、ひっそりとしている。その正面玄関の階段で、彼女は我が子達と共にまどろんでいた。 石組みの階段の最下段に座っている少女は、項垂れて目を閉じていた。呼吸と共に、胸が規則正しく上下する。 竜の少女の膝に、二人の幼児が縋っていた。彼らは頭にツノが生えており、若草色の翼を背に生やしている。 片方は男児で、少女と同じく濃緑の髪をしている。もう片方の女児は、柔らかな茶色の髪を長く伸ばしている。 闇色のローブを着た緑髪の少女は、一見すれば幼子達の姉のようだった。だが、彼女は紛れもなく母親なのだ。 セイラは金色の単眼を動かし、城の玄関に向けた。穏やかに眠るフィフィリアンヌは、とても幸せそうだった。 彼らの眠りを妨げないように、セイラは声量を抑えた。すると頭上に影が過ぎり、くるりと城の真上を一周した。 ばさり、と大きな羽音がした。尾の長い暗青のワイバーンは翼を広げながら、セイラのいる湖面に下降してくる。 セイラが立っている場所のすぐ隣に着水し、ざばぁ、と激しく波を立てた。腹を水の中に浸し、翼を下ろす。 赤紫の巨体の魔物を、ワイバーンの薄黄の瞳が捉えた。その目は親しげに笑み、ぎゅる、と小さく喉を鳴らす。 「オ帰リ、カトリィ」 身を屈め、セイラはワイバーンの鼻に触れた。カトリーヌは首を持ち上げ、鼻先を彼の胸元に擦る。 ただいま、セイラ。 セイラは、立派な成獣となったカトリーヌを眺めた。長く突き出た鼻先と顎は力強く、翼もかなり大きくなった。 鍵爪の付いた前足も、セイラを易々と握れてしまいそうだ。フィフィリアンヌの元の姿と、大差のない体格だ。 ちゃぷちゃぷと打ち寄せるさざ波が、カトリーヌの固い肌を舐めている。セイラは、彼女の首筋を撫でてやる。 「外、ドウ?」 相変わらずよ。王都の方は静かだけれど、他は騒がしいみたいだってカインお兄様が言っていたわ。 にやりと厚い瞼を細めたカトリーヌは、ぐぎゅ、と喉の奥で鳴き声を潰した。軽く尾を揺らし、水面に叩き付けた。 ざばん、と水飛沫が高く舞い上がる。ぱたぱたと肌を叩いて降り注いでくる水滴は、まるで雨のようだった。 セイラはゆらりと動いた彼女の尾に、手を添える。もう一方の手で城の正面玄関を指してから、首を横に振る。 いくつか残っていた水滴が、カトリーヌの鼻先を滑り落ちた。カトリーヌは一度瞬きしたが、目線を水面に向けた。 セイラが頷くと、カトリーヌは水音を抑えながら方向を変えた。セイラの周りを一周して、徐々に首を下げていく。 水面に滑り落ちるように、巨体は没した。とぽん、と僅かに水を撥ねさせ、太い毒針を持った尾が水中に消える。 雲の散る空が映った湖面の下で、音もなく影が滑っていった。泥煙を立てながら、巨体の彼女が泳いでいく。 セイラはそれを目で追っていたが、上半身を傾けた。三本のツノが生えた頭を低くし、四本指の手を広げる。 太い尾を揺らし、腰から生えた赤い翼を折り畳む。揺れ動く水面を映した金色の単眼は、どぼん、と没した。 薄暗い水中に全身を沈めた異形は、どん、と泥の溜まった湖底を蹴った。背後で水が乱れ、泥が散らばる。 重心を低くして加速しながら、なだらかな傾斜の付いた湖底を進んでいく。尾を振って進路を定め、単眼を見開く。 泥ばかりだった湖底が、急に低くなった。岩ばかりになり、ごつごつとした地面のすれすれをセイラは泳いだ。 水草の出す気泡が、水を抜けてきた光で輝いている。セイラの目にぶつかって弾けた光は、水流の中で消えた。 見上げると、水面が遠い空のようだった。波の隙間から差し込む日光が、湖底の小石や気泡を光らせていた。 更に進むと、湖底は一気に大きく窪んだ。その中心に、彼女が身を休めていた。ごぼ、と泡を吐き出している。 長い尾と体を丸め、目を閉じている。セイラは牙の生えた口を開き、ごぼり、と空気を吐き出して水を腹に溜めた。 浮力の落ちた体は、徐々に沈んでいった。岩の散らばる湖底を蹴って、巨体のワイバーンの元へと滑り出る。 堆積した泥に腹を沈めているカトリーヌの傍に、ずしゃり、と足を下ろした。セイラは、彼女の顔の脇へと移動する。 セイラが口を開けると、ごぼ、と残った空気がこぼれた。カトリーヌはうっすらと目を開け、鼻先を彼に摺り寄せた。 深い傷の残る厚い胸板に擦り付けてから、赤く細長い舌を出した。泥水の味が残る舌で、ぺろりと首筋を舐める。 こうして、彼女が愛情を示してくれるのはとても嬉しかった。慣れた仕草で、カトリーヌは舌を這わせていく。 首、頬、目元、ツノの付け根、胸、腕。順番に愛しながら、カトリーヌは嬉しそうにしている単眼の魔物を見つめた。 舌を引っ込めたカトリーヌは、セイラの胸へ首を突っ込んだ。筋肉質な腕が回され、大きな手が首を撫でる。 人間に虐げられていた頃の古傷が残る胸は、昔はまるで山のようだったのに、今となっては小さく見える。 すると、セイラはカトリーヌの顎をぐいっと持ち上げた。牙の生えた口を閉じて、同じく牙のある口元に押し当てた。 こぽ、と双方の口元から気泡が漏れた。目を見開いているカトリーヌを離したセイラは、いかつい顔で笑う。 「カトリィ」 多少籠もったセイラの声に、カトリーヌは意識を戻した。呆気に取られていたが、徐々に、何をされたか自覚した。 先程のあれは、カインとフィフィリアンヌがよく行う行為だ。その後、フィフィリアンヌは照れて顔を逸らすのだ。 動揺を抑えながら、カトリーヌは瞬きした。悪気のないセイラの笑顔を見つめながら、ぐる、と小さく呟いた。 セイラ。あなた、何をしたの? 「セイラ、カトリィ、好キ、ダカラ」 にんまりと、セイラは単眼を細める。カトリーヌは戸惑いながらも、ぎゅるう、と言い返す。 違うわ。これは、そういう時にやるものじゃないわ。愛し合っている人達が愛を確かめるためにするのよ。 「イケナイ?」 いけなくは、ないけど。 ぎゅ、とカトリーヌは言葉を濁した。セイラはカトリーヌのがっしりした鼻先を撫でてやり、顔を寄せる。 「セイラ、カトリィ、ミタイナ、舐メ方、知ラナイ。ダカラ、コレシカ、知ラナイ」 ああ、そういうこと。 カトリーヌは、途端に拍子抜けしてしまった。先程の口付けは、セイラなりの愛撫のお返しに過ぎないようだった。 彼にも竜の血は流れているが、竜の亜種であるカトリーヌほど濃くはない。それに、様々な血が入り混じっている。 増してや、魔物の知り合いなどいないので、愛情や感情の示し方はフィフィリアンヌらを手本にするしかない。 カトリーヌはフィフィリアンヌから色々と教えてもらっているし本能で知っているが、セイラはそうもいかないのだ。 ごぼり、と小さな気泡がセイラの口の端から溢れ出ていった。笑っているカトリーヌに、金色の単眼を瞬きさせる。 「何、可笑シイ?」 セイラも、知らないことがあるんだなぁって思って。 ぎゅるぎゅると喉を鳴らしたカトリーヌは、首をかしげてセイラを覗き込んだ。セイラは、同じように首をかしげる。 「知ラナイ、一杯、アル。フィリィ、色々、教エテ、クレル、ケド、マダ、一杯、知ラナイ、コト、アル」 相手の舐め方は、今度、私が教えてあげるわ。セイラなら、すぐに覚えられるだろうから。 ぎゅ、とカトリーヌは鳴き声を上擦らせた。セイラはこくんと頷く。 「オ願イ」 無意識に、カトリーヌは尾を振った。ねっとりとした泥の表面が舞い、湖底に沈んだ岩や水草を泥煙が隠した。 冷たくも重たい世界には、音はない。水の流れるざわめきと気泡の湧き出る囁き、そして、相手の声だけだ。 声と言っても、明確な音ではない。魔力を含めた音を出して相手の魂と魔力中枢に働きかけ、感覚で会話する。 十年以上行っている行為なので、慣れていた。どの音ならば、効率良く魔力を込められるかも知り尽くしている。 その音は全て、セイラが見つけてくれた。カトリーヌは彼の指示に従って声を調整し、感覚の言葉を紡いでいる。 水の潜り方も、水中での息の詰め方も、浮上の仕方も、泳ぎ方も、セイラはカトリーヌにじっくりと教えてくれた。 だから、今のようなことは珍しかった。カトリーヌがセイラに物を教えたことなど、前足の指で足りるほどしかない。 カトリーヌは少しばかり悦に浸りながら、尾を下ろした。セイラは、丸まっているカトリーヌの内側にやってくる。 身を丸めたワイバーンの首筋へと泳いでくると、背中のヒレを掴んだ。泥に足を埋めて、湖底に腰を下ろした。 ずぶ、とセイラは自分の尾を泥に埋め、カトリーヌの首に背を預けた。固い赤紫の肌が、ウロコの肌に接する。 セイラはカトリーヌの翼の根元を、四本指の手で掴んだ。こうしないと浮力が生じて、体が浮かび上がってしまう。 遥か頭上に見える水面には、和らいだ太陽がある。淡い色合いの光球が、風になびいた水面に合わせて波打つ。 ここは、二人だけの世界だ。空気のない、薄暗くも穏やかな空間。邪魔をする者がいるとすれば、魚ぐらいだ。 冷ややかな湖水は、二人の体温を徐々に奪っていく。それに合わせて代謝も低下し、使う酸素も大分減ってきた。 そのうち、どちらの口からも気泡が出なくなった。溺れたわけではなく、水中に合わせて代謝を節約しただけだ。 セイラは湖面を見上げていたが、目線を下げた。泥と水草に覆われた巨大な岩が、弱い水流に舐められている。 今頃、フィフィリアンヌとその子らはどうしているだろう。先程寝入ったばかりだから、三人とも夢の中だろう。 セイラは目を閉じ、彼女達のことを回想した。子育てに奔走するフィフィリアンヌは、大変そうだが幸せそうだ。 子供達は、双子の兄妹だ。普通、竜族は一回の産卵で一つの卵しか産めないが、フィフィリアンヌは違っていた。 半竜半人であったせいなのか、一回の産卵で二つも産み落とし、そのどちらも無事に孵化して成長している。 長男のアルベールは、外見はフィフィリアンヌに似ているが、その性格は父親であるカインに似通っていた。 三歳半になった今でも、セイラを見ては泣いている。その度にセイラが切なくなっていることを、まだ彼は知らない。 長女のリリエールは、人間に酷似した竜族だ。ツノはあるがかなり短いし、竜への変化も下手だし、瞳も青だ。 しかし、魔力量は桁外れで、発散させてやらないと身が持たないほどだ。そのせいなのか、彼女は気性が荒い。 祖母であるアンジェリーナに似た高笑いをしながら兄を蹂躙し、その度にフィフィリアンヌから怒られている。 彼らの父であるカインは、政治に関わっているせいであまり城に来られないが、少しでも時間があればやってくる。 妻子を深く愛している彼は、以前以上に幸せそうだ。見ている方も満ち足りるほどの、優しい顔になっている。 十二年。フィフィリアンヌと出会って、それだけの時間が過ぎた。その間に、様々なことが起きて変わっていった。 だが、水の中は変わらない。フィフィリアンヌの背に乗って竜王都から連れ出された頃と、変わらない光景だ。 セイラはカトリーヌの大きさを背で感じながら、単眼を薄く開いた。淡く流れてくる陽光が、瞳に染み渡る。 ずっと、この時間が続いて欲しい。フィフィリアンヌがいて、彼女がいて、彼らのいる時間が永遠であればいい。 セイラは口を広げて喉を広げ、その奥にあるエラを震わせる。水に封じられた世界を揺らがす、音が生まれた。 朝日の一差し、風の吐息、水の一滴、炎の火の粉。どれから生まれた、どこから生まれた。 どこから来て、どこに帰るの。誰も知らない、誰も教えてくれやしない、知っているのは神様だけ。 影の一欠け、枯葉の一枚、海の涙、星の瞬き。どれも生まれた、どこからも生まれた。 どこにも行ける。どこへでも帰れる。誰でも知っている、誰も教えることなんて出来やしない。 神様は知っている。けれど、誰だって知ること。いつか知り得る、誰しもの行方のお話なんだから。 水に、異形の歌が満ちる。途中から、カトリーヌも加わって歌った。彼の節に合わせて、鈍い歌声を響かせた。 それは、魂の行方の歌だった。デイビットが書いた小説の一節に書かれていた歌で、彼が作った歌だ。 作中では節は付いていなかったが、セイラが節を付けた。素朴な歌詞に合った、滑らかで美しい旋律だった。 近頃、セイラはこれを良く歌っていた。子守唄や鎮魂歌などの歌も歌っていたが、特に多いのはこの歌だった。 カトリーヌは多少訝しく思いながらも、歌い続けた。セイラは、淀みなく魂の行方を紡ぎ、最後まで歌い切った。 歌を終えたセイラは、ごぼ、と喉の奥を詰まらせた。普段は喘ぎもしないはずの彼が、肩を上下させている。 セイラの口元から流れ出た水は、色が僅かに赤かった。カトリーヌは心配になり、首を動かして彼を見下ろす。 苦しいのなら、上がる? セイラは首を横に振り、水を吸い込んだ。金色の単眼の瞳孔は大きく開いていたが、それがぎゅっと縮まる。 視界が、弱くなっていた。元々湖底は薄暗くて視界が悪いが、先程まで見えていた地面の起伏が朧になっている。 魔力を高めると修正は出来たが、気を抜けばすぐに元に戻ってしまう。セイラは、痛みの出てきた喉を押さえる。 以前は、かなりきつい歌でなければ痛みなどなかった。だが、数日前から、多少難しい歌を歌っただけで痛む。 セイラは鼓膜を震わせているカトリーヌの不安げな声に、彼女の首筋に手を添えた。安心させるため、軽く叩く。 「平気」 セイラ。苦しいのなら、フィフィリアンヌお姉様に薬を頂いたら? きっと、いいものを作って下さるわ。 「イイ。キット、効カナイ、カラ」 どうして、そんなことを言うの? 身を乗り出すように、カトリーヌはセイラに鼻先を突き出す。セイラは、金色の単眼を細める。 「前ニ、母サン、カラ、手紙、来タ。セイラ、人造、ダカラ、体ノ、組織、無理矢理、作ッタ、モノ。ダカラ、早ク、ダメニ、ナルッテ。普通ノ、魔物、ヨリ、寿命、短イ、ッテ、書イテ、アッタ」 徐々に目を見開いていったカトリーヌは、ぐぉう、と一声吠えた。 何よそれ! 「仕方ノ、ナイコト」 違うわ、そうじゃないわ! なんで、そういうことを早く話してくれないの!? 「言エバ、カトリィ、悲シム、カラ」 フィフィリアンヌお姉様は、このことをご存知なの? 「知ッテル。手紙、読ンデ、クレタノ、フィリィ、ダカラ」 ああ…なんということなの。 項垂れたカトリーヌは、ぎゅっと瞼を閉じた。目元から滲み出た涙は湖水に吸い込まれ、すぐに消えてしまった。 ぎゅるぅ、と苦しげに喉を鳴らしたカトリーヌを、セイラは撫でた。落ち着かせるために、背中を何度も撫でる。 カトリーヌは己の体格も忘れ、セイラに鼻先を押し付けた。泣き喚きたい衝動を堪えたが、尾は止められなかった。 どぉん、と湖底の泥が尾で殴り付けられ、舞い上がった泥が二人を包む。カトリーヌは、セイラに圧し掛かる。 なんで、セイラが死ななければいけないの!? あなたは、もっと生きていていい人なのよ! 何も言わずに、セイラはぽんぽんと首筋を叩いてくる。その優しい手付きに、カトリーヌは余計に感情を煽られた。 嫌よ、嫌よ! 私はずっとあなたの傍にいる、あなたもずっと、ここにいるべきなのよ! 「ウン。セイラ、ズット、一緒、イタイ」 じゃあ、どうして諦めたようなことを言うの? あなたらしくもないわ! 「アンマリ、色々、言ウト、辛ク、ナル」 セイラの手に力が込められて、カトリーヌを固く抱き寄せる。鋭い牙の生え揃った口元が、歪む。 「怖クテ、仕方、ナクナル」 死んでしまうのが怖いのは、誰だって一緒。私だって怖いわ、世界からあなたがいなくなってしまうのが。 カトリーヌは、涙が溢れるのを感じていた。湖水よりも熱く、泥よりも重たいものが流れ出るが、水に消えてしまう。 彼女の首を抱き締めたセイラは、泣いていた。押さえ込んだ泣き方で声も出さなかったが、苦しさは伝わってきた。 カトリーヌは、彼の涙がウロコの肌に触れるのを感じた。体温の籠もった塩気のある水が、肌に触れて砕けていく。 その悲しみは、どれほどのものだろうか。カトリーヌはちらりと考えてみたが、想像など付くはずもなかった。 この場所を、彼は誰よりも愛している。だが、誰よりも愛している彼が、いるべきはずの彼が、消えてしまう。 カトリーヌは翼を広げ、セイラの体を包んでやった。愛おしさを込めて舌を這わせ、彼にだけ聞こえるよう囁いた。 ずっと、私はここにいるわ。 セイラは、僅かに頷いた。カトリーヌは首を下げてセイラの腕から脱すると、そっと、口付けた。 愛しているわ。セイラ。 冷たいはずの爬虫類の肌が温かく思え、息苦しかった胸が少し落ち着いた。セイラは、カトリーヌの顎を支える。 離れたくないのか、カトリーヌはずっとセイラに口付けていた。セイラが身を離そうとしても、逆に間を詰めてきた。 セイラには、その気持ちは痛いほど解った。幼い頃から傍にいた相手の気持ちなど、手に取るように解ってしまう。 死にたくはない。だが、運命からは抗えない。これ以上長らえることが出来ないのは、感覚で悟っていた。 母は、ジュリアは、精一杯の治療を施してくれた。王都を訪れるたびに薬剤と魔法を与え、長らえさせてくれた。 生み出されたことには、いつも感謝している。生を受けなければ、何も知らないままで、何も歌わないままだった。 後悔はない。だがそれでも怖いものは怖く、悲しいものは悲しかった。死にたくなんてないし、もっと生きていたい。 セイラはカトリーヌを押し、唇を離した。カトリーヌは低く悲しげに唸りながら、名残惜しそうに離れていった。 歌に耐えられなくなった喉は、鋭い痛みを生じていた。 その夜。静まり返った湖畔に、竜の少女と異形がいた。 湖畔に腰を下ろしたセイラは、単語で話した。以前にも増して体が弱ったこと、もう、歌えないことなどを。 金色の単眼は、虚空を見つめていた。その先にある湖には、仰向けに浮かんでいるワイバーンの姿があった。 満月に照らされたセイラを見上げていたが、フィフィリアンヌは目を伏せた。セイラの太い腕に、手を添える。 「そうか」 感情を押し殺したフィフィリアンヌの声に、セイラは笑った。泣きたかったが、彼女を不安にさせたくなかった。 「フィリィ。ホントニ、色々、アリガト」 「礼を言うのは私の方だ、セイラ。お前がいなければ、知らなかったことも色々とある」 フィフィリアンヌはセイラの腕に体を預け、額を当てた。厚く固い魔物の肌に手を当て、握り締める。 「出来ることなら、お前を治してやりたい。だが、こればかりは、私にもどうにも出来んのだ。お前の体を成している細胞は、魔法と投薬で著しく成長速度を高めてある。だからその分、老化も衰弱も早い。十五年も体が持ってくれたのは、いい方だ。そうか、お前はもうすぐ十五歳になるのだな、セイラ」 目元を拭ってから、フィフィリアンヌはセイラを見上げた。細い眉が、悲しげに歪んでいる。 「子供らにかまけていて、お前の誕生日が近いことを忘れていた。すまない、セイラ」 「イイ。セイラ、気ニ、シテナイ」 セイラは、首を横に振った。今のフィフィリアンヌにとっては、幼子達が全てだ。気を取られても、仕方がない。 読書や研究を差し置いてまで育児に奔走しているのだから、当然のことだ。寂しくはあったが、理解している。 フィフィリアンヌは、地面に置かれていたセイラの手の上に座ると、愛おしげな眼差しで異形を見上げる。 「セイラ。何か、したいことはあるか?」 「シタイ、コト?」 「そうだ。私に出来ることがあれば、やってやろうではないか」 「ンー…」 セイラは、夜空を仰いだ。改めて聞かれると、思い付かない。毎日が満ち足りていたから、不満はなかった。 冷たくて綺麗な水で泳ぐことが出来て、食べるものもあって、歌を歌うことが出来て、愛情も注がれていた。 それ以上の幸せはないと思う。愛してくれる人がいて、愛する人がいて、生きているだけで最高だと考えていた。 だから、やりたいことなど差し当たって思い当たらなかった。十五年間の記憶を思い起こしても、不満はない。 真相を知った当初はしこりのあったゼファードとも落ち着いたし、今となっては、母の夫である彼も大好きだ。 セイラは、フィフィリアンヌを見下ろした。悲しげな表情をしているフィフィリアンヌなど、久々に目にした気がする。 近頃は子供達を叱責しているか、愛情に満ちた微笑を浮かべているか、だったから、余計に物悲しく感じられた。 セイラは身を屈め、竜の少女に顔を寄せた。月明かりを浴びてた白い肌が美しいが、悲愴な面持ちをしている。 「思イ、付カナイ。セイラ、ズット、幸セ、ダッタ、カラ」 「…そうか」 フィフィリアンヌは、表情を和らげた。潤んだ赤い瞳が、金色の単眼を映す。 「そう言ってもらえると、私も幸せだ」 「ドウシテ?」 「好きな相手が幸せであると、好いている方も幸せになるのだ」 フィフィリアンヌの手が伸ばされ、セイラに向かう。セイラは腰を曲げて体を折り、少女の手の位置へと下げた。 温度の低い手が、赤紫の頬を撫でていく。骨張った固い頬を、何度も何度も慈しむような手付きで撫でていった。 その光景を、カトリーヌは横目に見ていた。月明かりを揺らがせている水面が目の下に当たり、水音がする。 城を背景にした二人の姿を眺めていたが、目を上げた。煌々と輝く満月を見つめていたが、そっと目を閉じた。 何も、出来ない。長い間セイラの傍にいたが、いただけで、フィフィリアンヌのように何かが出来たわけではない。 彼女のように、事態をすぐに飲み込めてもいない。セイラがこの世から消えることなど、理解も納得もしたくない。 魂が締め付けられる苦しさに、涙が押し出された。落ちた滴は、ぽちゃん、と水面を叩いて波紋を作り、消えた。 水の世界は、無言で悲しみを受け止めていた。 05 9/29 |