翌朝。普段通りの朝日が昇り、古びた城は明るく照らされた。 城の前を、二人の幼子が歓声を上げて駆け回っている。兄は必死に逃げ惑い、妹はそれを追っていた。 ほほほほほ、と高笑いを上げながら、リリエールは寝間着を広げて走る。その先を行く兄も、寝間着姿だった。 何度かぐるぐると巡っていたが、アルベールの足がもつれた。兄は顔から転ぶと、起き上がり、しゃくり上げた。 するとその背に、ごん、と小さな足がめり込んだ。リリエールは茶色の長い髪を振り乱し、盛大に高笑いする。 「ほーほほほほほほほ! おにーさま、だめねぇー!」 「カトリーヌぅ、リリィがぁ!」 上半身を起こしたアルベールは、湖に向かって声を上げた。すると、ざばぁ、と水面が割れて巨体が姿を現した。 水滴を散らばらせながら立ち上がったのは、三本のツノを持った巨体だった。セイラは目を開け、単眼を動かす。 その姿を見た途端アルベールは、ひくっ、と喉を鳴らした。セイラは金色の単眼とツノが恐ろしくて、苦手だった。 セイラは水を掻き分けながら歩いてくると、湖畔に上がった。次第に近付く巨体に、リリエールは身動いだ。 「なによぅ、なによぅ! わ、わたしはせーらはこわくないもの!」 のしのしと近付いて来たセイラは、二人の前にしゃがんだ。ぱたぱたと水滴を落としながら、手を出す。 鋭く尖った爪で、ひょいとリリエールの襟首を掴んだ。いきなり掴み上げられて、幼女は手足を振り回す。 「やーん、やぁーん!」 むくれて当り散らしている妹が、頭上に浮かんでいる。アルベールは不思議そうに、妹の姿を見上げていた。 セイラはもう一方の手で、とん、とアルベールを小突いた。単眼の魔物を見上げた彼は、唇を固く結んでいる。 今にも泣き出しそうなアルベールに、セイラはにたりと笑った。恐ろしい笑顔に、アルベールはびくりとした。 セイラは指先を伸ばし、指の腹でアルベールの頭を押さえた。母親に似た髪色が、朝日で明るい色になっている。 「アル。ドウシテ、セイラ、怖イ?」 「だ、だって、せーらはおっきいし」 「カトリィ、モット、大キイ。フィリィ、モ、大キイ」 「それに、せーら、牙、あるし」 「フィリィ、モット、アル」 「目だって、なんか、ぎょろぎょろしててこわいんだもん」 アルベールは、赤い瞳を上向けた。爬虫類じみた瞳孔は朝日を受けて細くなり、線のようになっている。 「…こわいんだもん」 「セイラ、怖イ、何カ、解ル?」 「わかんないよ、そんなの」 アルベールが抗議すると、セイラは返した。 「ドラゴン」 「ますますわかんない。せーら、おかーさまがこわいの?」 「フィリィ、怖ク、ナイ。デモ、ドラゴン、怖イ」 「わけわかんない」 「ドラゴン、デモ、フィリィ、好キ、ダカラ。好キ、ダト、怖ク、ナクナル」 「よく、わかんない」 難解そうに、アルベールは首をかしげた。すると頭上で、きぃい、と甲高い叫びが上がり、リリエールが喚いた。 「なんでもいいけど、はやくはなしなさいよー!」 「リリィ」 セイラはリリエールを持ち上げ、自分の目線まで上げた。真正面に単眼を見たリリエールは、う、と唸った。 「…なによぅ」 「リリィ、兄サン、蹴ッチャ、ダメ。兄サン、一人、ダケ、ナンダ、カラ。大事、シナキャ」 「おにーさまがよわいんだもん。わたしはつよいから、おにーさまをけっとばしてもいいのよ」 胸を張ってみせたリリエールに、メッ、とセイラは語気を強めた。 「強イ、カラッテ、蹴ッチャ、イケナイ。強イ、ナラ、弱イノ、守ル、シナキャ、イケナイ」 「だけど、そんなんじゃつまんないんだもの!」 頬を膨らましたリリエールは、えい、と足を振り上げる。だがセイラには届かず、ばさりと寝間着が大きく広がった。 それを下から見ていたアルベールは、正面玄関の扉が開いたのに気付いた。眠たげな母親が、扉から出てきた。 伯爵の入ったフラスコを手に提げて、悠長な足取りでやってきた。アルベールは、フィフィリアンヌに駆け寄る。 「おかーさま!」 「なんだ」 素っ気無く言い返したフィフィリアンヌに、アルベールはセイラを指して叫ぶ。 「せーら、へんなこという!」 「何がだ」 「だって、せーら、ドラゴンがこわいっていった! でも、おかーさまはこわくないなんて、へんだよ!」 アルベールの言葉に、フィフィリアンヌはセイラを見上げた。セイラの前で暴れるリリエールが、母親に叫ぶ。 「おかーさまぁ! せーらに、はなすようにおっしゃってー!」 「朝っぱらから感覚を突き抜ける声を喚かれて、やかましくてならんのである。何があったと言うのだね、セイラよ」 フィフィリアンヌの手元のフラスコで、伯爵が気泡を吐き出した。ガラスの球体の中で、赤紫のスライムはうねる。 セイラは伯爵を見下ろしてから、フィフィリアンヌに目を向けた。眠気の残った顔のフィフィリアンヌに、笑う。 「フィリィ、ナラ、解ル」 「まぁ、この子らの言ったことで、セイラの言い分は大体想像が付いたからな。説明せんでも良い」 フィフィリアンヌは寝癖の付いた前髪を掻き上げて、広めの額を露わにした。 「アルベール、リリエール。貴様らはまだ幼児だ。知識も経験も、何もかもが足りておらん。時間が経てば、セイラの言わんとするところが理解出来るようになるだろう。だから、心して覚えておけ。セイラは言葉が足りないが、その分実直なことを言うからな」 「おぼえらんないー!」 空中で短い腕を振り回したリリエールに、フィフィリアンヌは吊り上がった目を僅かに細めた。 「ならば覚えておくが良い、リリエール。覚えられなければ、貴様の分のカボチャのケーキはないと思え」 「いーやー! おかーさまのおかし、たべるー!」 「リリィがわるいこにするからだよ」 にんまりしながら、アルベールは宙吊りの妹を見上げた。フィフィリアンヌは、足元の息子を見下ろす。 「貴様もだ、アルベール。靴の左右を間違えたまま外に出るなと、いつも言っておるだろうに」 「えぇ、ぼくも!?」 えー、とアルベールは泣きそうになる。フィフィリアンヌに握られたフラスコの中で、伯爵はごぼごぼと泡立った。 「はっはっはっはっはっはっは。アルベールよ、貴君がこの女の言いつけを守らぬのが悪いのである」 「セイラ、リリエールを下ろせ。着替えさせてやらねばなるまいし、その寝間着をあまり汚すとカインが泣くのだ」 フィフィリアンヌが言うと、セイラは頷いた。ゆっくりと手を降ろし、リリエールの足が地面に付いてから爪を離した。 解放された途端、リリエールは駆け出していった。フィフィリアンヌに向かい、おかーさまー、と走っていく。 娘が抱き付く直前に、フィフィリアンヌは娘を抱き上げた。娘を高く持ち上げ、草と泥に汚れた寝間着を見回す。 「ひどいことをする。せっかくカインが買ってきてくれた服だというのに、感謝するどころか汚してどうするのだ」 「だってー、おにーさまがにげるんだもん」 「人にせいにするな。元はといえば、貴様がアルベールを追い掛け回してどつき回すのが悪いのだ」 全く、とぼやきながら、フィフィリアンヌはリリエールを脇に抱えた。玄関に向かう母と妹を、兄は追いかけた。 フィフィリアンヌの脇で、リリエールはまだ暴れていた。彼らが玄関に入って扉が閉まると、辺りは静かになった。 セイラは体勢を直し、地面に腰を下ろした。朝日と風を浴び、水に濡れていた肌がいつのまにか乾いていた。 カトリーヌは、一連の光景を湖の対岸から見ていた。ざばり、と水から体を上げると羽ばたき、巨体を浮上させる。 水面すれすれを飛び、セイラの背後に舞い降りた。どん、と前足を下ろして着地した彼女は、翼を折り畳む。 城を眺めているセイラの脇に顔を出すと、彼は咳き込んだ。げふ、と苦しげな音を喉の奥で殺し、肩を上下させた。 内側から、徐々に崩壊が始まっているらしい。何度も咳き込むうちに、セイラの牙の間から赤い飛沫が滲んだ。 苦痛に歪む横顔を、カトリーヌは見つめていた。舌を伸ばすと、痛んでいるであろう喉や首筋にぬるりと這わせる。 セイラは背を丸め、ぐっと地面を握り締めた。ぶちぶちと草と根が千切れて土が抉れ、青臭い匂いが鼻を突いた。 げほ、と強く咳をしてから、セイラは荒い呼吸を繰り返した。牙の隙間から滴り落ちた血が、土と草に落ちる。 「…カトリィ」 セイラは、瞼を閉じてから開いた。溢れ出した涙が伝い落ち、僅かに牙が開いた。 「モウ、歌、歌エ、ナイ」 そんなに、痛いの? ぎゅう、とカトリーヌは小さく唸って尋ねた。セイラは悔しげに顔を歪め、頷いた。 「歌エバ、キット、喉、裂ケル。腹モ、アンマリ、力、入ラ、ナイ」 無理しないで。 カトリーヌは鼻先を、セイラの頬に擦り付けた。死に向かう彼の苦しみを表すかのように、血の匂いは強かった。 恐怖と痛みで震える腕を握り締めたセイラは、深呼吸を繰り返した。肩を震わせながら、掠れた声で呟いた。 「カトリィ。ナンデ、カトリィ、傍ダト、涙、出ル。フィリィ、ナラ、我慢、出来ル、ノニ。カトリィ、ダト、我慢、シテモ、無理。ドンドン、出テクル」 それでいいの。あなたはずっと、頑張ってきたのだから。ちょっとぐらい、弱くなってもいいのよ。 「デモ、イケナイ」 どうして? 「セイラ、泣クト、カトリィ、泣ク。好キ、ダカラ、カトリィ、悲シマ、セタク、ナイ」 セイラは奥歯を噛み締め、泣き声を堪えた。カトリーヌはその優しさと思いやりに、泣いてしまいそうになった。 辛いなら辛いと、言えばいいのに。死することが怖いのは、誰だって同じだ。それでも、彼は他人を気に掛ける。 昨夜だって、フィフィリアンヌに我が侭を聞いてもらえる機会だったのに、今までが幸せだったから良いと言った。 彼なりに、愛情に答えようとしているのだ。だが、その深く広い優しさも、今ばかりは痛々しく見えて仕方なかった。 何が出来るだろう。何をしてあげられるだろう。カトリーヌは必死に頭を巡らせていたが、ふと、空を見上げてみた。 早朝の、薄雲が残る青空。それは、水中から見上げた水面に似ていた。だが、あの世界よりも遥かに明るく広い。 出来ることは、空を飛ぶことだけ。ならば、彼に与えられるものもそれだけだ。カトリーヌは、セイラに言った。 セイラ。私に乗って。 「カトリィ、ニ?」 ええ。 「ダケド」 私は、空を飛ぶくらいしか出来ないんだから。それくらいしか、あなたにしてやれることはないの。 カトリーヌに気圧され、セイラはこくりと頷いた。カトリーヌは首を下げて地面に腹ばいになると、翼を下げた。 セイラはフィフィリアンヌに乗ったときのことを思い出し、首にまたがった。翼に近い、太い部分に腰掛けた。 カトリーヌは後ろに目を動かし、彼が乗ったことを確認した。力を込めて体を起こすと、セイラの足が地面から浮く。 ばさり、と大きく翼を羽ばたかせた。風を地面に叩き付け、尾と前足を使って腹を浮かせ、魔力を高めていく。 魔力で浮力を得たワイバーンの巨体は、羽ばたくに連れて浮かんだ。そして強く羽ばたくと、一気に上昇した。 彼女の巻き起こした風は、城の窓ガラスという窓ガラスを揺さぶっていった。その一つから、外を見る姿があった。 廊下で立ち止まったフィフィリアンヌは、カトリーヌの飛び去った方向を見上げていた。伯爵を、窓枠に置く。 赤紫の軟体は、にゅるりと身を伸ばした。触手のように細長くした先端でコルク栓を押し抜くと、それを軽く振る。 「いじらしいことである」 「…ああ」 フィフィリアンヌは窓ガラスに触れていた手を、ずるりと下げて俯いた。セイラの優しさを、痛切に感じていた。 大事な歌声を失うほどになっていようとも、子供らと戯れてくれた。どれだけ苦しくても辛くても、涙を見せずにいた。 せめてもの救いは、セイラが苦しみを表せる相手がいることだった。カトリーヌにだけは、心を全て開いている。 それが少しだけ妬ましかったが、当然だと思った。セイラとカトリーヌは種族こそ違えど、深く強く繋がった家族だ。 フィフィリアンヌとは違う部分を通い合わせて、互いを深く愛し合っている。辛いだろうが、二人とも幸せなのだ。 じわりと滲み出てきた涙を、手の甲で力任せに拭った。長い廊下の奥で待っている二人の幼子に、顔を向ける。 おかーさまー、はやくー、と舌足らずな声でリリエールが急かしている。アルベールは、その隣で行儀良くしている。 フィフィリアンヌはもう一度空を見上げたが、伯爵のフラスコを取って窓に背を向け、子供達へと歩き出した。 「今、そちらに行く」 王都の上を、異形の魔物はワイバーンに乗って飛んでいた。 風を切り、広大な空と雄大な大地の間を滑るように飛行していた。城壁に囲まれた王都が、眼下に広がっている。 石で出来た家々、せせこましく詰め込まれた住宅、それらの間を行きかう人間達。どれも、初めて見るものだった。 セイラは物珍しさと開放感の中、しきりに辺りを見回した。初めて来たときは夜で、その上、酔ってしまっていた。 だから何も記憶しておらず、王都など見たこともなかった。ずっと近くに住んでいたのに、何も知らないままだった。 セイラは、薄い雲の散っている空と目前に見えるカトリーヌの後頭部を視界に納めた。長く鋭いツノが生えている。 「カトリィ」 素敵でしょう? 水の中も好きだけど、私は空の中の方がもっと好きなの。 「ウン、解ル。トッテモ、綺麗」 セイラは、金色の単眼を細めた。体中の痛みと死の恐怖を忘れられそうなほど、清々しい気分になっていた。 初めて見る世界。知らなかった世界。ずしりとした水中とは違った心地良さがあり、爽快感が五感に染み入る。 セイラはカトリーヌにお返しとして歌ってやりたかったが、喉はもう使えない。声すらも、もう出すのが辛い。 どうしようかと思い悩んでいると、カトリーヌが急に首を反らした。セイラはずり落ちそうになり、ヒレにしがみ付く。 カトリーヌはがばりと口を開き、生え揃った牙を見せ付ける。赤く長い舌を出して喉を広げ、咆哮を轟かせた。 大気を震わす、雷鳴にも似た猛りだった。羽ばたいて高度を上げると、カトリーヌは力を込めて更に強く咆える。 いつもの愛らしい唸り声とは違う、生き物の声だった。竜と似ているが、竜よりも音が高く音階の幅が小さかった。 野性の言葉が、空に放たれる。彼女の咆哮は、セイラの全身を揺さぶった。水中よりも、音はずっと明確だった。 それは、歌だった。今までに歌ってきたどんな歌とも違う、不器用で荒々しい、言葉の要らない歌だった。 セイラは、彼女の歌を一心に聴いた。咆哮に込められたカトリーヌの感情が、耳に染みる。それは、愛だった。 単眼の目元から涙が溢れてきたが、今ばかりは、堪える気は起きなかった。堪えようとしても、堪えられなかった。 一時、空は彼女の歌で満たされていた。 二日後。セイラの、十五歳の誕生日だった。 湖畔に下半身を沈めて仰向けに横たわり、彼は、骸となっていた。息を引き取ったのは、朝方のようだった。 静かに打ち寄せる波が、体温の抜けた肌を舐めていく。見開かれたままの金色の単眼が、青空を見つめていた。 昨夜にフィフィリアンヌが投与した鎮痛剤のおかげが、あまり苦しんだ様子はなく、表情も穏やかなものだった。 ギルディオスは、背中に乗せた剣を取った。バスタードソードを引き抜くと、きちり、と刃を地面と水平にする。 「天上のヴァルハラに向かいし者に、どうか、戦女神の加護を」 それしか、逝った者を慰める言葉を知らなかった。適当ではないと思ったが、他の言葉が出てこなかった。 ギルディオスは、セイラの遺体を見つめた。妹からの手紙やフィフィリアンヌの話から、彼の様子は知っていた。 だが、ここまで早いとは思ってもいなかった。同じ人造魔物であるセイラの兄や姉達は、未だに健在だというのに。 原因はやはり、ドラゴン・スレイヤー達だろう。彼らがセイラを痛め付けなければ、死期はもっと遅くなったはずだ。 強い憎しみが湧いたが、すぐに払拭した。ドラゴン・スレイヤー達はとっくに死んでいるのだから、憎んでも無駄だ。 ギルディオスは、後方のフィフィリアンヌに向いた。力なく座り込んで肩を震わせ、唇を噛んで嗚咽を堪えている。 その足元に転がるフラスコは、黙っていた。いつかの日、幽霊の友人が消えた時と同じく、伯爵は脱力していた。 すると、彼女の子達がギルディオスの元にやってきた。アルベールはきょとんとした顔をして、甲冑を見上げる。 「ねー、おじさん。なんで、せーら、おきないの?」 「そうそう。せーら、おっきしないとおかーさまにおこられちゃう」 と、リリエールは首をかしげた。ギルディオスはバスタードソードを背中に戻すと、二人の頭に手を置いた。 「いいか、アル、リリィ。あれが死だ」 「し?」 二人が同時に言ったので、そうだ、とギルディオスは頷いた。 「痛くて、辛くて、苦しいことだ。誰にだってあることだし、誰にだって来るものだ。オレも、一度死んだんだ」 「でも、ぎるおじさんはいきてるよ?」 アルベールは、へんだよ、と顔をしかめる。ギルディオスは、首を横に振る。 「オレはもう、生きちゃいない。ただ、死んでないってだけさ。だがな、セイラは死んだんだ。昔に苦しい思いをして、やっとそれから解放されて、フィルとカトリーヌの傍で幸せになって死んだんだ」 「せーら、しあわせだったの?」 「そうだ。セイラはな、とっても幸せだったんだ。これからもずっと、幸せなんだ」 ギルディオスは、リリエールの茶色の髪をぐしゃりと乱した。リリエールはまだ解っていないようだったが、笑う。 「しあわせなら、しあわせだからいいんだよね!」 「ああ、そうだ」 ギルディオスは二人の頭をぽんぽんと叩いてから、立ち上がった。フィフィリアンヌは、声を殺して泣いている。 重たい足音を立てて近付き、その前に立った。顔を上げようともしないフィフィリアンヌの前に、屈んだ。 ギルディオスが少女の肩に触れると、フィフィリアンヌは体を傾げた。甲冑に額を当て、ぼたぼたと涙を落とす。 「本当なら、カインの役目なんだがな」 ギルディオスは腰を下ろし、しなだれかかるフィフィリアンヌを支えた。彼女は、押し殺した声を漏らす。 「この際、貴様でも良い」 「オレもそう思うよ」 ギルディオスは、フィフィリアンヌの小さな体を腕に納めた。だん、と拳が甲冑を殴り、竜の咆哮が放たれた。 絶叫を上げ、フィフィリアンヌはギルディオスの胸を殴り続けた。感情の捌け口が、他に見つからないからだ。 理性も何も、なくなった。彼がいない喪失感が悲しみと涙を押し出して、思考も少しもまとまってくれなかった。 濡れた頬を甲冑に押し当て、フィフィリアンヌは拳を固めた。皮膚に食い込む爪の痛みが、理性を僅かに戻す。 ギルディオスを見上げると、ギルディオスは幼子達にしたのと同じように、フィフィリアンヌの髪を乱した。 「泣け。オレもそうしてぇんだが、そうもいかねぇから。代わりに、頼むわ」 「…言われずとも」 苦しげな声で呟いたフィフィリアンヌは、目元を拭う。言葉にならない言葉と嗚咽を洩らして、彼に縋った。 二人の幼子は、互いの顔を見合わせた。あの冷酷なまでに冷静な母が泣きじゃくる姿など、初めて見た。 あまり状況が解らなかった。しかし、母の悲しく苦しげな泣き声を聞いていると、次第に二人は悲しくなってきた。 セイラが死んだ。セイラはもう目を覚まさない。セイラはもう歌わない。セイラが死んで、母が悲しんでいる。 感覚として、大変なことだと悟った。アルベールはじわりと湧いた涙を拭ったが、先に声を上げたのは妹だった。 大声を上げて、動かないセイラへと駆け寄っていく。アルベールもその後を追って、セイラの骸へと駆け寄った。 リリエールはセイラの肩に縋り、おきてよぉおきてよぉ、と喚いている。小さな拳で叩くが、反応は返ってこない。 涙で滲んだ視界の中、アルベールはセイラを見上げた。あれほど怖かったのに、今はむしろ、寂しくて悲しかった。 アルベールは、勝手に足が動いていた。リリエールの隣で、セイラに縋り付いた。赤紫の肌に、体を押し当てる。 皆が泣く姿を、カトリーヌは湖の水面から見ていた。セイラの下半身が沈んでいる手前に浮かび、顔を出した。 ああ。 あなたの死で、皆が悲しんでいるわ。あなたはまだ生きるべきなのよ。神様って残酷ね、あなたの命を狩るなんて。 それらを言葉にしたかったが、出来なかった。カトリーヌは前足を使って湖から上がると、セイラの傍らに沿った。 冷え切った肌に舌を滑らせ、愛してやる。生きているうちに伝え切れなかった思いを、全て込めて舐めてやった。 結局、彼に舐め方を教えてあげることは出来なかった。だが、むしろ、舐め方を教えなくて良かった気もする。 同じ愛し方など出来ないのだから、同じようにしてもらわなくても良い。彼なりの愛し方でこそ、愛情は伝わる。 カトリーヌはセイラのツノやヒレを愛おしんでいたが、顔を上げた。彼らの泣き声は、少しばかり落ち着いている。 フィフィリアンヌお姉様。私、思うの。 「…何をだ、カトリーヌ」 くぐもった声で返したフィフィリアンヌは、ギルディオスの胸の下から顔を出した。カトリーヌは、湖に目を向ける。 セイラは、水の底で眠るべきではないのかしら。彼は水の子よ、だから、土の中では眠れないわ。 「そうだな。頼むぞ、カトリーヌ」 フィフィリアンヌは目元を擦り、頷いた。幼子達はカトリーヌの言わんとするところが解ったのか、身を下げた。 セイラの肩は、アルベールとリリエールの涙で濡れていた。その部分を舐めてから、カトリーヌは体を起こす。 水に浸かっているセイラの下半身を前足で掴み、ずるりと水中に引きずり込んだ。どぼん、と水柱が勢い良く昇る。 冷たく圧迫感のある湖水に全身を浸したカトリーヌは、セイラを前足の間に抱え直し、尾を使って方向転換した。 向かう場所は、解っている。尾を揺らして湖底を直進していくと、目の前が急に低くなり、窪んだ湖底が現れた。 岩の散る湖底の中央までやってくると、カトリーヌは止まった。腕の中のセイラを見ると、目が開いたままだった。 カトリーヌは鼻先で、金色の単眼に瞼を閉じさせてやる。少し迷ったが、彼の唇へと口元を押し当て、口付けた。 セイラの遺体を抱き直してから、カトリーヌは湖底を見据えた。ごぼ、と気泡を吐き出してから、渾身の力で咆える。 強烈な音波となった咆哮は泥を抉り、茶色い煙が立ち込めた。しばらく続けると、湖底には巨大な穴が出来た。 カトリーヌはその穴に向かうと、泥の底を尾で均してからセイラを横たえた。軽く押し、ずぶり、と泥に埋めてやる。 周囲に散った泥を掻き集めて、赤紫の体を覆い隠した。ツノの先まで埋めてしまってから、カトリーヌは浮上した。 一度振り返ったが、すぐに水面を見上げた。きらきらと輝いて波打っているそれは、朝焼けの空の色に似ていた。 水の空に向かいながら、カトリーヌは歌った。セイラの教えてくれた歌を、咆哮にしか聞こえない声で歌い続けた。 彼が聞いていることを願いながら、彼に聞こえていることを思いながら、カトリーヌは無心に吼え続けた。 それは、荒々しくも優しい鎮魂歌だった。 異形の歌い手は、水より生まれ水へと還る。優しき歌に包まれて、朽ちてゆく。 造られた命と造られた体に宿っていた魂は、あるべき場所へと去ってゆく。 彼に愛され、彼を愛したワイバーンを残したまま、彼は永久なる眠りの歌を歌い続ける。 その歌は、安らかで穏やかなものなのである。 05 9/29 |