ドラゴンは笑わない




白き宿命、白き呪い



彼女は、うなされていた。


見知らぬ灰色の城。見知らぬ男。見知らぬ幼女。見知らぬ女が、絶望の中で果てる様子が視界を過ぎる。
そして、見知らぬ白き少女が耳元で囁く。私を、外へ連れ出して。あの人が、ずうっと私を待っているわ。
誰だ。誰が。誰を。そう問おうとして、彼女は跳ね起きた。汗の滲んだ首筋が気持ち悪く、息も荒くなっていた。
いやに現実感のある夢だった。最後の白い少女の声など、まだ耳に残っている。眉間を押さえて、深く呼吸した。
昔から何度も繰り返し見ている夢だった。内容はいつも同じだが、今回ほど生々しいものは初めてだった。
きっと、仕事のしすぎだ。あの男を追うのに、熱中し過ぎたのだ。彼女はそう思いながら、ベッドから下りた。
縦長の窓の前に立ち、鋭い朝日を遮っているカーテンに手を掛けて止めた。背後の姿見が、やけに眩しかった。
寝癖の付いた長い黒髪をだらしなく垂らした、己の背が映っている。だが、映っているのはそれだけではなかった。
白が、あった。絹糸のような白く長い髪を揺らめかせ、抜けるような白い肌をした幼い少女が立っていた。
丁度、女と背中合わせに立っていた。女は背後の姿見を凝視したまま動けず、少女から目が離せなかった。
鏡に映った白い少女は、夢の中とそっくり同じ姿形をしていた。白い少女は小さな唇に指を沿え、笑った。
私を、外へ連れ出して。あの人に会うの。あの人がいるわ。私は、あの人に会うのをずうっと待っていたのよ。
少女の幼い声は、音ではなく、感覚として直に伝わった。女は反射的に身を翻し、枕の下に手を突っ込んだ。
小型の拳銃を取り出して構えた瞬間、少女は消えていた。女は拳銃を下ろし、肩を上下させて呼吸を整えた。
なんともいえない複雑な感情が、肩を震わせていた。恐怖とも違う。怒りとも違う。緊張感とも、まるで違う。
懐かしくもあり、嬉しい気がした。様々な感情の奔流に乱されていたが、気を張り詰めさせて打ち消した。
今日は、あの男との決戦だ。回転式六弾倉拳銃のグリップをきつく握り締め、彼女は戦闘意欲を奮い立たせた。
一年、追いかけてきた男の足取りがようやく掴めた。犯罪に犯罪を重ねた、旧世紀の悪党を逮捕しなくては。

「待ってなさい」

掠れた声で呟いた彼女は、ちゃきりと銃口を上げた。その先には、国家警察の作った手配書が貼られていた。
毒気のない笑顔。親しげな目元。東方の血の混じった穏やかな顔立ち。度の入っていない、丸いメガネ。
長い黒髪を緩い三つ編みにして、肩に垂らしている。服装は、一見すれば若手の青年実業家のようだった。
だが、その中身はそうではない。邪心の固まりだ。彼女は手配書を睨みながら、にたりとした笑みを浮かべた。
この男を撃ち抜くことを、どれほど待ち焦がれていたことか。黒光りする銃口は、手配書の中心を睨んでいた。
白い少女のことなど、彼女の思考からはすっかり失せていた。




ぴん、と指先が厚い札束を弾いた。
蒸気自動車の後部座席でだらしなく座っている男の隣には、革張りの大きなトランクが開かれていた。
その中身は荷物ではなく、大量の札束が隙間なく詰め込まれていた。男は札束を振っていたが、眉を下げた。

「つーまんねぇ」

「だったら、強盗なんざやるんじゃねぇよ」

蒸気自動車に寄り掛かる銀色の影が、ため息と共に肩を落とした。男は、札束をぽんと手の中で投げる。

「強盗じゃねぇよ、今回のは金庫破りさ。だけどもっと、こー、さぁ。じゃらじゃらーってした重みがねぇと、大金を手に入れたっつー実感が沸かねぇのよ。ちゃちい紙っぺらが通貨だなんて、味気なくって仕方ねぇ」

「それは解るけどよ」

銀色の影、大柄な甲冑は後部座席へ振り返った。甲冑に寄り添っている少女は、緊張で顔を強張らせている。
蒸気自動車の背後には、灰色の城がそびえていた。年季が入ったが、それでも生気のない姿は変わらない。
緩やかな坂の下には、畑ではなく工場が並んでいた。箱のような平たい建物からは、煙と排水が流れている。
工場街の先には、城壁に囲まれた王都があった。その四方から線路が伸び、地平線の果てに続いていた。
男は、あーあ、と不満げにぼやいてから札束をトランクの中に置いた。運転席に座る幼女に顔を向け、言った。

「産業革命して久しいが、こういう部分は寂しいねぇ。そう思わない、レベッカちゃん」

「そーですねー、御主人様ー」

幼女は、紺色のスカートから出た足をぶらぶらさせていた。その髪色と髪型は、かなり奇異なものだった。
濃い桃色の髪が、バネのように巻いてある。それが頭の両脇にあり、一見して常人でないと解る外見である。
青紫の丸っこい瞳が、後部座席の後ろに向いた。剣を背負った大柄な甲冑の影に隠れている、少女を捉えた。
その途端に、少女はびくりと肩を震わせた。甲冑の太い腕にしがみ付いて恐る恐る顔を出し、小さく呟く。

「あ、あの。ギル小父様。この人達って、間違いなく、あれ…ですよねぇ?」

「おう、あれだ。知ってたら言ってみろ、フィオ」

甲冑、ギルディオスは少女の頭をぽんと叩いた。黒に近い緑髪の間からは短いツノが生え、耳も少し尖っている。
黒いマントを羽織っている少女は、幼さの残る青い目を彷徨わせる。ギルディオスの腕を掴む手に、力が入る。

「ええと…私の記憶と、大御婆様のお話が正しければ、この人達は紛うことなき、ルー…ですよね?」

「正解正解ー。んでもそれが間違ってるといけねぇから、改めて名乗ってしんぜよう。女性には丁寧にしねぇとな」

後部座席から立ち上がった男は、長い黒髪の三つ編みを背に放った。灰色のベストの、襟元を整える。

「グレイス・ルーと申します。悠久の時を永らえ、悪行に悪行を重ねて参りました呪術師にございます」

「そしてー、私はその傀儡にございますー、レベッカ・ルーと申しますー」

運転席から立ち上がると、幼女は頭を下げた。ツノの生えた少女は、おずおずと二人を見上げる。

「ええと、その。フィリオラ・ストレインと申します」

「ああ。ジョゼット・ストレインの次女だな。先祖返りとはいい傾向だな、うん。さすがはあの女の血統だ」

グレイスは黒いネクタイをぐいっと捻って緩めると、怯えた表情の少女を見下ろす。

「フィフィーナリリオーラ・フィフィーナリリアンヌ・ドラグーン・ストレインだな。今年で十六になる駆け出しの魔導師だ」

「えっ、あっ、その」

フィリオラが狼狽すると、グレイスは両手を上向けてみせる。

「解ってる解ってる。世間様にゃ言えない名前だよな。なんせ、未だに現役の竜族の名前が入っているもんなぁ」

「あ、でも、なんで」

「オレ様を誰だと思ってる。天下の大呪術師、中世の大いなる遺産、グレイス・ルーだぜ?」

にやにやしているグレイスにギルディオスは、けっ、と顔を背けた。

「アホか。フィオのことなんざ、生まれたときから知ってただけだ。そんなもん、凄くもなんともねぇよ」

「あ、そう、なんですかぁ」

ふにゃりと表情を緩めたフィリオラは、ギルディオスにもたれた。ギルディオスは、少女の頭に手を置く。

「あんまりからかうんじゃねぇぞ、グレイス。こいつはオレらと違って真っ当なんだ、慣れてねぇんだよ」

ふぇ、とフィリオラは甲冑の腕に縋った。外見はフィフィリアンヌに近しいものがあるが、中身は相当違う。
気弱な表情と情けない言動に、ギルディオスはカインを思い出した。彼の血も、この一族に受け継がれている。
フィリオラはフィフィリアンヌの末裔で、竜の血が現れた娘だった。ちなみに、フィフィリアンヌ自身は存命している。
竜の姿に変化することも可能だが、ほとんど変化はしない。ウロコが嫌だし裸は恥ずかしい、というのが理由だ。
先月十六歳になったばかりだが、心身ともに幼い。体形だけ見れば、十四歳といっても通用してしまいそうだった。
ギルディオスは、魔導兵器のような存在として現存していた。時代に翻弄されながらも、無事に生き残っていた。
一度は離別したフィフィリアンヌの元に、流れ流れて戻り、いつのまにか五百年前と同じような状態になっていた。
現在は、フィフィリアンヌの城に居候している。伯爵も未だに存命しており、更に饒舌に拍車が掛かっていた。
だが、外の世界は大分変わった。王国と帝国は世界的な産業革命のあおりを受け、揃ってあっけなく崩壊した。
大陸の北部で勢力を広げた共和国に、王国と帝国は揃って取り込まれ、王都は旧王都という名称になっている。
そして、時代と共に魔法技術は廃れ、それに変わって蒸気機関を初めとした近代技術が頭角を現し始めていた。
体制を大きく変えた王国、もとい、共和国王国地方は、五百年前のような栄華はなくなってしまっていた。
土地が広く水量が豊富な川が流れているため、様々な企業が工場を立て、気付けば一大産業都市と化していた。
工場が建ち並んだせいで、旧王都の周囲は、常に煙と蒸気に包まれている。水も空気も、かなり状態が悪い。
産業革命の弊害の、公害だった。故に、昨今では旧王都に住まう人間も減りつつあり、大分寂れてきていた。
旧王都に住むのは、基本的に出稼ぎの工夫や日雇いの流れ者、ならず者達だった。治安は、決して良くない。
よって、国家警察の警戒も厳しかった。そんな中で、グレイスは警察をからかうために犯罪を起こしていた。
魔法や呪術に慣れない警官達を出し抜いては、けらけらと笑っている。全くもって、酔狂で厄介な男なのである。
ギルディオスは、時と場合によってはグレイスの手伝いをしてしまう。五百年来の腐れ縁で、関わってしまうのだ。
以前は事ある事に後悔したのだが、近頃はもう諦めた。こいつからは逃れられないんだ、と思うようになった。
今回もそんなものだ。グレイスは、悪辣な魔導鉱石加工業者に取り入ったが、すぐに裏切って逃げてきた。
フィリオラと共に買い物に出ていたギルディオスは、グレイスとレベッカの逃げる道筋に、不幸にも通り掛った。
何事かと戸惑っている間に、レベッカの操る蒸気自動車に二人とも引っ張り込まれ、逃避行に付き合わされた。
そして、一日半ほど国家警察の追跡から逃げ回り、灰色の城へと戻ってきたのだった。実にいい迷惑である。
フィリオラは、肩を竦めた。飄々とした男の正体がグレイス・ルーであると知り、次第に怖くなってきた。

「あの、ギル小父様。この人達、何もしませんよね?」

「時と場合によるが、今はたぶん平気だろ。暇になればお前にちょっかい出しに来るかもしれねぇけどな」

ギルディオスはフィリオラを見下ろし、茶化すように笑った。途端に、フィリオラは泣きそうになる。

「嫌です、怖いです」

「まぁでもよ、そうなったらオレがこいつの顔を真正面から殴ってやるから」

「え、本当ですか!」

フィリオラはすぐに表情を明るくし、身を乗り出してギルディオスに顔を近寄せた。おう、と甲冑は頷く。
歓声を上げる少女に、グレイスは変な顔をした。見た目はフィフィリアンヌに近いのに、中身は昨今の若い娘だ。
それが、どうにも違和感があった。すぐにへたる吊り上がり気味の目もころころ変わる表情も、しっくり来ない。
グレイスは不可解極まりない顔をして、後部座席の背もたれに腕を乗せた。ギルディオスの、広い背を見上げる。

「ギルディオス・ヴァトラス。お前も充分、フィリオラをからかってるじゃねぇか」

「グレイス。てめぇ、フィオが気に入らないのか?」

ギルディオスは、グレイスに振り返る。グレイスは、そうじゃねぇけど、と髪を掻く。

「なんかこー、違和感があるんだよなぁ。ツラがフィフィリアンヌに似てるからさぁ、変な気がしてさぁ」

「一週間もすりゃ慣れる」

素っ気無く返したギルディオスは、フィリオラの頭をぐしゃりと撫でた。フィリオラはちょっとむくれた。

「それ、どういう意味ですか」

「聞いたままに決まっているじゃないですかー」

にこにこしながら、レベッカは少し首をかしげる。ふと、レベッカは振り返り、緩やかな坂の先を見下ろした。
人の気配と、僅かな魔力の気配が感じられていた。レベッカはハンドルを踏み越えて、バンパーに着地した。
メイド服の両腕をめくると、ぐっと拳を握った。滑らかな肌に線が生まれ、じゃこっ、と機械音がして開いた。
腕の中から、二連式の銃が両腕に現れた。黒光りする銃身は、幼女の腕に合わせてあまり長さはなかった。
グレイスは面倒そうな動きで、蒸気自動車から下りた。扉を力任せに閉めてから、腰から拳銃を抜く。

「レベッカちゃん。当局か?」

「はいー。あの女ですー」

「んじゃ、丁重にお持て成ししねぇとな」

じゃきり、と回転式六弾倉拳銃の弾倉を開いたグレイスは、ポケットから出した弾丸をかちりと押し込んだ。
六つの穴を金色の底で埋めると、じりっと回転させてから叩き込んだ。撃鉄を起こし、引き金に指を掛ける。
そして、真っ直ぐに構えた。銃口は、緩やかな坂の下を見据える。グレイスは片目を閉じて、照準を合わせた。
照準の先には、女が立っていた。紺色のコートに身を固めた黒髪の女が、真っ直ぐにグレイスを狙っていた。
グレイスは引き金を絞っていた指を緩め、にかっと笑った。銃口を上げ、これはこれは、と親しげな声を出す。

「ロザリア・ウィッシュ警部補! お早いご登場ですなぁ!」

「警部補?」

フィリオラは、背伸びをして蒸気自動車の向こうを見た。じっと目を凝らしていたが、きゃあ、と身を下げる。

「小父様ぁ、どうしましょうどうしましょう当局の人ですよ警官さんですよ! このままじゃ私、逮捕拘留されて極刑になっちゃいます!」

「フィオがグレイスと共犯だったら、そうなるかもしれねぇな。だが、今回はそうじゃねぇだろ。むしろ被害者だ」

思いっ切り誘拐されてるし、とギルディオスは返した。フィリオラははっとしたように、目を丸める。

「ああ、そうですね! 考えてみたら、そうですよね!」

「警部補、ねぇ…」

ギルディオスは、気持ちだけ目を細めた。といっても顔はヘルムなので、外見上は表情の変化などまるでない。
凛とした、張り詰めた空気を纏った女。鋭さを含んだ焦げ茶の瞳が一片の迷いもなく、灰色の男を射抜いていた。
この女に、ギルディオスは見覚えがあった。グレイスによって振り回された後に、事情聴取を求められた相手だ。
仕事熱心で正義感の強い刑事との評判だが、ギルディオスは、その評判と事実は違うと半ば直感で感じていた。
銃口越しにロザリアを見つめながら、ギルディオスは追憶した。数日前に、この女刑事を街中で見かけたのだ。
ロザリアは高層建築街で強盗を犯した男を、路地裏に追い込んだ。までは良かったのだが、その後が悪かった。
威嚇射撃の範疇を超えた乱射をし、結果、容疑者に重傷を負わせた。ギルディオスは、その現場を見ていた。
銃弾を放つロザリアの目には、狂気に似た愉悦があった。無意識のようで、彼女は気付いていないようだった。
ギルディオスは背中のバスタードソードに手を掛けながら、嫌な予感がしていた。あの目には、既視感がある。
目の前に立つ男の背を、睨まずにはいられなかった。あの時のロザリアの目は、グレイスの目と良く似ていた。
フィリオラは、ギルディオスの赤いマントを握り締めていた。睨み合う両者の間に、何かを感じていた。
あやふやでうっすらとした、それでいて冷たさのある存在感が流れてきていた。形としては、掴めなかった。
フィリオラはロザリアを見つめながら、唾を飲み下した。存在は、次第に明確になる。これは、誰かの意識だ。
魔力を高めて、感覚を研ぎ澄ませる。そして、フィリオラがそれを感じ取ると、喉が自分とは違う声を発した。

「そうよ、この人よ。嬉しいわ、やっと私を外に連れ出してくれたのね」

その声に、グレイスはがばっと振り向いた。それを発したフィリオラは、笑っている。

「ずっと、一緒にいたかったわ。ずっと、一緒にいられるわ」

目を見開いたグレイスは、明らかに動揺していた。レベッカも動きを止め、ロザリアではなくフィリオラを見ている。
フィリオラは、愛おしげに笑う。つい先程までの幼さは消え失せて、艶然とした微笑を口元に浮かべていた。

「ずうっと待っていてくれたのね。嬉しいわ。とても、嬉しいわ」

フィリオラの手が、グレイスに伸びようとした。直後、鋭い破裂音が響き、つんとした硝煙の匂いが漂ってきた。
その銃声に、フィリオラはびくりと肩を震わせた。伸ばしかけていた手を下ろし、戸惑いながら辺りを見回す。

「え、あ、あれ?」

「こら」

ごん、とギルディオスはフィリオラの額を小突いた。フィリオラは、しゅんと肩を落とした。

「…やっちゃった」

その声は、元に戻っていた。フィリオラはごしごしと目元を擦っていたが、情けなさそうに俯いてしまった。
ギルディオスはフィリオラの頭を押さえ付けながら、発砲した姿勢のままで立っているロザリアを見下ろした。

「悪ぃな、驚かせたか。こいつ、多少霊媒の気があってよ。たまーにこんなことになっちまうんだよ」

ロザリアは、煙の昇る銃口を下ろした。その顔には今までの緊張感とは違う、戸惑いが浮かんでいる。

「ねぇ、あなた。今の、何?」

「はい?」

小突かれた部分を押さえながら、フィリオラは不思議そうにする。ロザリアは一歩踏み出すと、声を上げた。

「答えなさい! あなたに入ったのものは何なのよ!」

「えーと、それは、ちょっと…」

フィリオラは苦笑いしながら、ロザリアに返す。

「私は、その、幽霊さんに体を貸すことが出来るだけであって、正体とか未練とかを知ることは出来ないんですよ」

「いや」

グレイスは拳銃を下ろし、口元を広げた。先程の動揺はなくなっていて、代わりに喜びが満ち充ちていた。
丸メガネを外したグレイスは、ロザリアを見据えた。子供じみた表情になり、灰色の目が細められる。

「オレは、知ってるぜ?」

「嘘ね。私の注意を逸らさせて、その間に逃げてしまおうという魂胆に決まっているわ」

ロザリアは、がちりと拳銃の撃鉄を起こした。小石の転がる道を慎重に登り、徐々に城へと近付いていく。
紺色のコートが翻る様に、ギルディオスは再び既視感を覚えた。まるで、兄のマントのようだと思った。
これで雨だったら完璧なんだがな、と思ったが、生憎ながら快晴だった。気持ち良く晴れた、初春の青空だ。
蒸気自動車の前までやってきたロザリアは、足を止めた。銃口を上げて引き金に指を掛け、きちり、と絞る。
照準の先で笑うグレイスは、拳銃を指に引っ掛けて回していた。するとそれが、ぽん、と高く放り投げた。
黒い鉄の武器は、くるくると空中を回った。放物線を描きながら落ちていった先は、ギルディオスの頭上だった。
甲冑は銀色の手を伸ばし、拳銃を受け取った。ギルディオスは手の中の拳銃を下ろし、呪術師の背に尋ねた。

「いいのか?」

「いいのいいの。そんなおもちゃより、呪いの方が確実だし。それに、暴発でもして警部補に傷が付いたら事だ」

グレイスは、背後のギルディオスに向けてひらひらと手を振る。

「レベッカちゃん。お前も休んでろ。こればっかりは、オレがやらなきゃならねぇ」

「了解しましたー」

レベッカは不満げだったが、逆らうことなく両腕の銃を納めた。グレイスはネクタイを外し、ポケットに押し込んだ。

「さぁてと。物は相談なんですがね、警部補。オレと勝負でもしましょうや」

「あら、珍しいわね。いつも私から逃げているあなたの方からお誘いがあるなんて。やっとなびいてくれたのかしら」

ロザリアが嘲笑すると、グレイスは襟元も緩めた。

「まぁ、そんなところですな。警部補、一つ、オレと戦ってくれませんかねぇ。警部補が勝ちましたら、オレを逮捕して下さいな。それがお仕事なんですから」

「当然じゃないの。それで、あなたが勝ったらどうなるの?」

「オレが勝ったらば、ロザリア・ウィッシュ嬢はこちらに来てくださいな」

「悪党になれとでも言うの?」

ロザリアが唇を引きつらせると、いやいや違いますよ、とグレイスは首を横に振る。

「そんな面倒なことじゃない。もっと簡単なことですぜ」

グレイスは、表情を僅かに変えた。



「どうぞ、私めの花嫁とおなり下さい」



何がなんだか解らず、ギルディオスは呆気に取られた。なぜ、そこでそうなるのか、まるで理解出来なかった。
グレイスは、筋金入りの幼女趣味であり男色を好む。そんな男が、いきなり普通の女に惚れるはずがない。
確かに、ロザリアは一見すれば美人の部類に入る女だ。研ぎ澄まされた刃物のような、美しさを持っている。
しかし、グレイスは成人女性は歯牙にも掛けないのが普通だ。女を利用するために口説きはするが、口だけだ。
絶対に何かある。ギルディオスはフィリオラを背に隠してじりじりと後退しながら、背後の少女に言った。

「フィオ。絶対に、オレの傍から離れるんじゃねぇぞ」

「あ、はい、小父様」

フィリオラは、ギルディオスの腕に抱き付いた。ギルディオスは、すらりと剣を抜いた。

「やばいことになるかもしれねぇ」

切っ先は、蒸気自動車の向こうで睨み合う二人に向けられた。ちかり、とバスタードソードの刃が日光を撥ねた。
ロザリアは、侮辱された気分だった。グレイスは、明らかにロザリアが負けることを前提にしている口振りだ。
負けたら妻になれ、など低俗もいいところだ。悪党の考えることなど、どれも単純なのだと痛烈に感じた。
そんな相手に、負けてなるものか。そこまで言うのならば、必ず勝って手錠を掛け、射殺してやろうではないか。
ロザリアはぐっとグリップを握り締め、浮かんでくる笑みを押さえた。正義感とは違う感情に、流されそうだった。
銃を撃つことが、いや、人を撃ち抜くことが溜まらなく楽しいと思うようになったのは、いつからだろうか。
最初からだ、とロザリアは内心で呟いた。幼い頃に手の中で暴発した拳銃の反動に、身を震わせた直後からだ。
発射の快楽は、相手が悪ければ悪いほど心地良い。犯罪者を射殺するために犯罪捜査をし、地位を高めてきた。
ロザリアは、笑う呪術師を見上げた。旧世紀の化石のような存在。得体の知れない、罪を好む不思議な男。
引き金を最後まで絞り、発砲した。どぉん、と小気味良い炸裂音の直後、反動がロザリアの腕を痺れさせた。
真正面に向けて撃った。だが、鉄錆の匂いも何もしない。避けたのか、と思ったが、彼はそのまま立っている。
硝煙の煙が晴れてから、グレイスはくつくつと笑った。肩を震わして笑い転げる男の手は、何かを握り締めている。
グレイスはロザリアに向けて、右手の拳を出した。わざとゆっくりと手を開き、その中に握っていたものを見せた。

「丁度いい。魔法ってやつを、教えてやろうじゃねぇか」

呪術師の手の中には、鉛玉が転がっていた。弾丸の熱で、手のひらの皮膚が焼け焦げている。

「変幻自在、かつ応用の効く技術だ。魔力という名の能力で物質に変化させ、意のままにする方法だ。例えば、だ」

確かに、正面に撃ったはずなのに。ロザリアは、しばらく呆然とした。気付くと、グレイスは姿を消していた。
慌てて周囲を窺うと、灰色の城を囲む堀が浮かんでいた。堀の形をした水が、ゆらゆらと空中で揺れている。
それは、まるで宙に浮かぶ川だった。魚や水草や泥を含んだ長方形の水には、ぐにゃりと歪んだ城が透けている。
ぱちん、と乾いた破裂音が響いた。途端に堀の水は形を失い、一気に崩れ落ちて堀の中へと落ちていった。
空中から川が消え失せ、城を囲むものはなくなった。ほぼ数秒の出来事だったが、気を取られるには充分だった。
灰色の城を見上げていたロザリアは、背後の体温に気付いた。自分より背の高い人間が、体に腕を回している。

「あんなふうにな」

すぐ傍で、グレイスの声がした。ロザリアがぎょっとして身を捩ると、グレイスは彼女を解放して一歩後退する。
ロザリアの銃口が、グレイスの額に向かった。屈辱と動揺で震える銃口に見上げられ、灰色の男は笑う。

「そうか、面白かったか」

「そ」

そんなわけないでしょ、と言おうとしてロザリアは声を失った。叫ぼうとしても言葉にならず、空気だけが抜ける。
グレイスは、銃身を掴んだ。ぐいっと押し下げ、うっすらと汗の滲んでいるロザリアの首筋に手を触れる。

「失言の呪いだ。どうだ、気付かなかっただろ? そしてこれは、傀儡の呪いだ。初歩の初歩の簡単なやつだから、魔法陣も必要ねぇ」

弱い熱が、首筋に染み入る。ロザリアはグレイスの手を振り払おうとしたが、首を動かすことすら出来なかった。
グレイスの手から熱が消え、体温だけとなった。グレイスはロザリアの顎を持ち上げ、頬を指先で撫でる。

「呪術ってのはな、魔力の方向を変えてやる魔法なんだよ。物質そのものに作用を与える魔法、一般的に言われている黒魔法とは訳が違う。形のない力、不定形な人間の感情、現実には見えない情念ってやつを操るものなんだ。だから、あんたの声は失われたわけじゃないし、あんたの体は間違いなくあんたのものだ。ただ、その命令系統を、オレが軽ーくいじっただけなんだ。まぁ、後で解呪してやるから安心してくれ」

悔しさで、ロザリアは奥歯を噛み締めようとした。だが、顎に力が入らない。感情も高ぶらず、涙も滲まなかった。
グレイスは、ロザリアの焦げ茶の瞳を覗き込んだ。灰色の瞳は先程と同じように、愛おしさを帯びていた。

「さて、ここで話を変えようじゃねぇか。魔法が生まれたのは、なぜだか解るか? 解らねぇよなぁ、最近の人間は」

ロザリアは内心で言い返す。そんなこと、知っていても意味はないわ。グレイスは、にんまりと笑む。

「そうだ、知っていても意味はない。だが、今後のためにも知っておくべきだと思うぜ。魔法の知識は、犯罪捜査に役立つからな。では、教えてやろう。魔導技術の始祖たる古代魔法を発明したのは、今の時代じゃ公然の事実だが、滅亡しかけている竜族なのだ。まぁ、五百年前は学者の先生方に否定されていたがね。それでも、調べれば調べるほどその事実が明らかになり、確定要素も見つかった。かつての帝国領土の山奥にあった、数万年前に造られたと思しき竜族の都市の壁に刻まれていた、荒削りの魔法文字の数々が証拠だ。生物に潜在する魔力を操り、物質に変化の作用を与えることの出来る言葉が、人が文明を得る以前から、竜族の世界に存在していたからな。それが魔法陣となって広がった文明の道筋も見つかっているから、否定なんて欠片も出来ねぇのさ。ジュリア・ヴァトラスは鋭かったぜ。そして、その竜族の古代都市、いわゆる始まりの都だが、そこで新たなる発見もあった。古代文字で書かれた、魔法の基本理念だよ。常日頃から己の体格と能力を持て余していた竜族は、己の存在について悩んでいた。なぜ炎が吐けるのか、なぜ空を飛べるのか、ってな。研究を繰り返した結果、炎が吐けるのは大気を燃やすための力があるから、空を飛べるのは体を浮かす力があるから、と確定したんだ。そして更に、そんな能力がなぜ備わっているのかも調べた。その結論は今も出ていないが、竜族は出ないなりに答えを出して、力に名を付けた。生物にとっては過ぎた能力、神には届かぬが神に近しい能力、操り方によっては邪悪になる能力、不確定で不安定ながら魅力の多い能力。だから竜族は、この力を魔力と名付けたんだ。神でもなく竜でもなく人でもなく、悪の道へと誘いかねない力だからこそ、魔、としたんだ。その魔を操る方法を魔法とし、その力で魔を導いてしまうであろう者達を魔導師とした。つまり、魔導師ってのは昔から危険視されてたんだな」

グレイスがフィリオラに目をやると、少女はびくりと肩を跳ねた。

「まぁそれはそれとして、続きを話そうか。竜の世界から流れてきた魔法の技術を得た人間達は、その力に歓喜し、こぞって杖を振るった。結果、人は奢るようになった。人は己を世界の支配者と思い、魔法を造り出すほどの文明を持った竜族の知性と人格を認めずに否定した。結末は、言うまでもない。歴史の授業で習ったよな? 乱れた内情から民衆の目を逸らさせるために二度も竜を狩った帝国が、竜王軍に襲われたのさ。三百八十二年前、共和国暦七百十八年。ガルム・ドラグリク将軍率いる竜王軍が、帝都を襲撃した。皇居である城も、一時間で瓦礫と化した。王国も多少の被害はこうむったが、両国の被害は、最小限に留まった。その理由も、知っているだろう。エドワード・ドラゴニア副将軍だ。帝国の国家機能を完全に滅した後に、エドワード副将軍はガルム将軍を正面から斬り付けて首を刎ねたんだ。その真相は、謀反や下克上なんかじゃない。昔々に二人が交わしていた約束だったんだそうだ。ガルムが、エドワードに頼んでいたんだそうだ。人を滅ぼしそうになったら殺してくれ、とな。エドワードはその約束を果たした。それだけなのさ。歴史の真相ってのは、そんなもんだったりするのさ。どうだ、ちったぁ勉強になったろ? さて、この黒竜戦争の後、急速に魔法技術は衰退を始める。いくら魔法で戦っても人は竜に勝てない、ってようやく解ったからさ。つまり魔法は、人間の使うものじゃないってことさ。竜族が己のために編み出した技術なんだから、人間になんて操れなくて当然だ。そして、科学技術が発展し、現在のような産業革命時代へと突入したわけなのさ。何千年も掛けて、やっとこさ人間は自覚したって訳よ。この世を支配するには、魔法よりも科学の方が都合がいい、ってことをな」

グレイスの目が、ギルディオスに向いた。ギルディオスは剣を構えたまま、顔を逸らす。

「オレに意見を求めるな」

「相変わらず付き合いが悪いなぁ、ギルディオス・ヴァトラス。慣れちゃいるけど、寂しいんだぜーそういうのって」

グレイスは、拗ねたように言った。ロザリアに目を戻すと、ロザリアは力一杯グレイスを睨んでいた。

「そんなに恐い顔するもんじゃないぜ、せっかくの美人が台無しだ。さて、魔法というものが何か解っただろうから、本題に入ろうか」

「…前振りだったのかよ」

ギルディオスがぽつりと呟くと、フィリオラは嫌そうに顔をしかめた。

「その割には、随分と長ーくお話ししてましたね」

「フィフィリアンヌはオレよりも凄ぇぞ」

フィリオラに言ってから、グレイスはロザリアを見下ろした。ロザリアは、早く手を放しなさい、と内心で叫んだ。

「後で放してやるから、今はちょっとだけ我慢してくれ。んじゃ、続きな。魔法は、魔力で生み出されているものだってのは理解出来たな? じゃあ、その魔力の根源は一体何なのか。肉体か魂かで意見が分かれていたんだが、それも近頃になってようやく結論が出たんだ。答えは両方だ。魔力は魂があってこそ生まれ出てくるが、肉体がなければ力として成り得ることはない。両者は等しい関係にあるんだ。相手がいてこそ、己が成り立つのさ。簡単に言えば、背中合わせで戦う戦士みたいなもんだな。もしくは、犯罪者と刑務所だな。んで、魔力が何であるかという研究は、意識と精神の発現体である魂は何なのか、という研究に及んだ。そして、一つの結論が出た。魂は、思念の総合体なんだ。人の記憶や感情がまとまって出来上がっているのさ。魔力の心臓である魔力中枢を、支えていたりもする。だが調べたら、魔力中枢と魂そのものは関連性がないことが解った。魂は肉体を媒介にして、魔力中枢に繋がっていただけだったんだ。すなわち、魂の出所は誰にも解らないのさ。どこから来たのかなんて調べようがないし、神様の知り合いもいねぇしな」
 
グレイスは手を下げて、彼女の喉に手を添える。

「オレは神も悪魔も信じてねぇが、こういうときばっかりは信じるね。いや、ちったぁ信じてみたくもなっちまう」

「何を」

声が出た。体に力も戻ってきた。ロザリアは後退し、グレイスとの間を広げた。呪術師は、弾丸を足元に転がす。

「あれから六百五十年ちょいかぁ…。オレが殺してきた連中が、オレの恋路を阻んでいたとしか思えねぇな」

「さっきから、あんたは何を言っているのよ!」

ロザリアが叫ぶと、グレイスは火傷の残る手のひらを彼女に差し出した。

「結論までもうすぐだから、あと少しだけオレの話を聞いてくれ。最初に会ったときから、あんたには引っかかるものがあったんだ。確信はあったんだが、踏ん切りが付けられなかった。だが、フィリオラのおかげで、踏ん切ることが出来た。あんたは間違いなく、あの子の生まれ変わりなんだ」

「なにが」

理由の見えない感情に揺られ、ロザリアは膝が震えていた。こんなはずではない。この男を、撃ち抜くはずなのに。
拳銃を持ち上げようとしても、腕が言うことを効かない。一年間の苦労と執念を思い出しても、奮い立たない。
仮初めの正義感も、殺戮と乱射の衝動も、沸いてこなかった。目の前の男に、全てを奪われたような気がした。
グレイスは、ロザリアとの間合いを詰めた。弾丸の形の火傷が付いた彼の右手が、ロザリアの頬を撫でる。

「お帰りなさいませ、お嬢様。あなたに雇われ、あなたの両親を屠り、あなたに心を奪われた呪術師にございます」

グレイスは、笑む。


「お帰り、ロザンナ」






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