ドラゴンは笑わない




白き宿命、白き呪い



ずうっと、ずうっと。私は、この時を待っていたの。長い長い間、空の上からこの世界を見下ろしていたわ。
聞こえてくる。舌足らずな可愛らしい少女の声が、感覚に直接響いてくる。いや、内側から語り掛けてきている。
グレイスを見つめたまま、ロザリアは立ち尽くしていた。奇妙な高揚感と、腹の底を探られるような不快感が続く。
突然、視界が失せた。唐突に、ロザリアはグレイスに口付けられていた。唇を割って舌が滑り込み、中を探る。
思いがけないことに、ロザリアはぎょっとして目を見開いた。抵抗しようとしたが、その前に強烈な熱に襲われた。
どろりと重たい熱が、胸の底から沸き上がってくる。酒を飲みすぎたあとのように、痛みを伴ったものだった。
しばらくすると、グレイスは顔を離した。戸惑いと熱のせいで身動きが取れず、ロザリアは逃げる間を失った。
力の入らない足を引きずり、半歩分ほどの間を空けた。ロザリアは、手から滑り落ちそうな拳銃を強く握る。

「…何を」

「安心しな。オレは毒も呪いも含めちゃいない。ただ、ちょっとばかり魔力を貸してやっただけさ」

グレイスは、少しずれたメガネをかちゃりと直した。ロザリアは、力任せに口元を拭った。

「何がしたいのよ!」

「効果が出るまで、少ぉし間があるみてぇだな」

グレイスは、怒りで頬を染めるロザリアを見下ろした。坂の傾斜のせいで、余計に身長差が生まれている。
銃弾の形をした火傷をぺろりと舐め、グレイスは顔を歪めた。銃弾の流れを変えるのは楽だが、後が痛い。
発射された直後に空間を捻じ曲げて、手の中に落とした、までは良かった。だがこれが、予想以上に熱かった。
普段はレベッカにやらせているのだが、自分でやることは滅多にない。だから、こうなるとは知らなかった。
グレイスは火傷をそのままに、右手を降ろした。これ以上、何もやる必要はない。彼女の意志に任せるべきだ。
名を呼んだことで、魔力を与えたことで、彼女の魂は力を得た。後は、彼女の動向をただ見守ってやるだけだ。
ロザリアの体が、がくりと落ちる。地面に膝を付いたロザリアは、息を荒げ、震える手から銃を落とした。
がこん、と鉄の固まりが地面に横たわる。力の抜けた手が地面に付くと、何かが迫り上がり、ずっ、と動いた。
ロザリアは何事かと思ったが、何も出来なかった。白い光を放つ固まりが胸から溢れ、ずるりと抜け出てきた。
冷たさを持った固まりは、ロザリアの頭上に浮かんだ。少女の形をした白い光は、愛らしい顔立ちを綻ばせた。
それは、ロザリアに背を向けた。白い光は蒸気自動車もレベッカもギルディオスも通り越し、フィリオラに向かった。

「なっなんですかぁ!」

フィリオラは飛び退いたが、光は胸を直撃した。魔力中枢に直接響く痛みに、フィリオラは声を上げる。

「いた、いた痛い痛いぃ!」

白い光は、ぎりぎりと押してくる。フィリオラは抵抗しようとしたが、魔力中枢が痺れたせいで力が高まらない。
それでも、少しだけでも抵抗したかった。力の抜けた手をなんとか伸ばし、光に触れると、光は形を変えた。
輝きが弱まり、影が生まれる。色のない肌が出来、絹糸に似た長い髪がふわりと揺らぎ、小さな手が伸びてきた。
がっ、とその手はフィリオラの首を掴んだ。白い少女は微笑を浮かべながら、フィリオラに顔を寄せてきた。
幼い声が、フィリオラの感覚に響く。従いなさい。この私に逆らうつもりなの。私に逆らえば、いいことはないわ。
フィリオラは、首に食い込む白い少女の指を離そうとした。だが、氷のように冷え切った手はびくともしなかった。
あなたは外に出なさい。外は楽しいわよ。うふふふふ。少女が囁くと、フィリオラの意識は外へと弾き飛ばされた。
気付くと、自分を見下ろしていた。手は透けていて、視界が高い。何が起きたのか、すぐには理解出来なかった。
幽体離脱をさせられたのだ、と気付いたフィリオラは、きゃあと悲鳴を上げた。降下し、甲冑の前に出た。

「小父様、ギル小父様! あの、私、魂が抜けちゃいましたぁ!」

「ああ、見りゃ解る」

ギルディオスはバスタードソードを下ろし、剣先を地面に向けた。目の前に浮かぶ、透けた少女を見上げる。

「こうなっちまうと、オレじゃどうにも出来ねぇなぁ。後は自分でなんとかしろ」

「ふぁーい」

力なく、フィリオラは返事をした。自分の体の方へ振り返ると、ツノの生えた少女は顔を上げた。

「うふふふふ」

フィリオラの口から、まるで違う声が出てきていた。フィリオラは再び、うきゃあ、と裏返った悲鳴を上げた。
眠たげだった目に力が宿り、背筋を伸ばして立ち上がった。フィリオラの体を得た白い少女は、嬉しそうに笑う。

「嬉しいわ、すっごく嬉しいわ!」

フィリオラの姿をした少女は、くるりと体を回転させた。二つに結った長い髪と、黒いマントが広がって影が落ちる。
彼女はグレイスに向かって、足早に駆け出した。グレイスが振り向くと同時に、勢い良く彼の胸に飛び込んだ。

「グレイス! ずっと、私を待っていてくれたのね! ごめんなさい、なかなか下りてくることが出来なかったのよ!」

「いいさ。気にしてねぇ。それに、待たされるってのもなかなかいいもんだぜ?」

グレイスが笑うと、フィリオラの姿をした少女は目を潤ませた。グレイスの胸に、額を押し当てる。

「ああ、嬉しいわ。私のことを覚えていてくれて。大好きよ、グレイス」

「あのー」

幽体のフィリオラは、おずおずとグレイスと少女に近付いた。座り込んでいるロザリアと、二人を見比べる。

「つかぬことをお伺いしますが、グレイスさんと、そこの幽霊さんはどういうご関係で?」

「見りゃ解るだろ。愛し合ってんだよ」

グレイスは、ぎゅっと少女を抱き締めた。少女はグレイスの胸に縋ると、照れくさそうに頬を染めて頷いた。

「ええ、そうよ。私は、この人の子供を産むために生まれ変わってきたの」

「あ、はぁ…」

幸せそうな二人に、宙に浮かんだフィリオラは変な顔をした。自分の体が他人に扱われているのは、奇妙だった。
ついさっき正体を知ったばかりの男と抱き合って、その上頬を赤らめている。これが、不思議でないわけがない。
フィリオラはこの光景が腑に落ちず、がしがしと頭を掻いた。グレイスは愛しげに笑み、少女に頬を寄せる。

「悪ぃなフィリオラ。少しだけ、ロザンナにお前の体を貸してやってくれ」

「早く返して下さいね。あんまりその状態でいると、元に戻ったときに貧血と悪寒で辛いんですから!」

フィリオラは二人に、お願いですからね、と強調してから下がった。ギルディオスの元に、幽体の少女が戻る。
半透明のツノの生えた少女は、ギルディオスの腕にしがみ付こうとした。だがその手は、するっと通り抜けた。
情けない顔になったフィリオラに、ギルディオスは顔を背けた。あー、と面倒そうな声を洩らし、呟いた。

「オレはどこにも行かねぇよ」

「本当ですね、本当ですからね! 小父様だけが頼りなんですから!」

ギルディオスの腕に寄り掛かったフィリオラに、ギルディオスはやる気なく返した。

「あーはいはい」

フィリオラは、ギルディオスに対する甘え癖が未だに抜けていない。小さい頃から、互いに傍にいすぎたのだ。
ギルディオスは、フィフィリアンヌの子孫達と当然の如く関わってきたが、一番懐いたのがフィリオラだった。
フィフィリアンヌにどことなく似ている外見と、竜の血が発現したということもあり、ついつい世話を焼いてしまった。
その結果が、これである。何がなくともギルディオスを頼り、いつも傍にいたがり、挙句にべったりとくっついてくる。
しかも、それが毎日のように。慕われているのは悪い気はしないのだが、こうも続くとさすがにうんざりしてくる。
ギルディオスはがりがりとヘルムを掻き、幽体の少女を見下ろした。不安げに眉を下げて、グレイスらを見ている。
毎度毎度、強く言おうとは思っている。しかし、言うに言えない。その状態のまま、もう何年も過ぎてしまっていた。
ギルディオスは自分の甘さを痛感しつつ、内心でため息を吐いた。グレイスは、ロザンナという少女を抱いている。
しかし、その体はフィリオラである。なんともいえない感情が湧いたが、ギルディオスは気にしないことにした。
グレイスの影で座り込んでいたロザリアが、身動きした。落とした拳銃を握り締め、ふらつく足で立ち上がった。

「なによ」

がちり、と弾倉が回転する。ロザリアの拳銃が、ごっ、とグレイスの背中に押し当てられた。

「なによ!」

「おーおー、大した根性だ。魂の大半がすっぽ抜けたのに、まだ動けるとはな」

グレイスは首を回し、ロザリアを見下ろした。ロザリアはグレイスの服の背を強く握り、眉根を歪める。

「あんたは、それが欲しいだけ? 私は、一体、なんなのよ」

「グレイス。この人、妬いているわ」

くすくす笑いながら、少女、ロザンナはグレイスに腕を回す。ロザリアは、ロザンナを睨む。

「違う! 私は、この男を殺しに来たのよ!」

「じゃあ、どうしてそんなに怒っているの? 私がグレイスを奪ったから、怒っているのよね?」

「下らないわ。私があんたに妬く? 私が、そんな下賤な犯罪者を好いているとでも言うの?」

「あら、違うのかしら」

目を丸めたロザンナは、グレイスを見上げる。

「ねぇ、グレイス。この人、あなたみたいな人よ。公安なんて向いていないわ。とても、無理をしているの」

「嘘ね」

ロザリアが吐き捨てると、ロザンナはグレイスの腕に顔を寄せた。

「嘘吐きはあなたよ。どうして素直にならないのかしら。だってあなた、グレイスを殺しに行くのを凄く楽しみにしてたじゃない。何度も手配書を見て、拳銃を一杯手入れして、わざわざ部下を追いやって、一人でこの人を捜し出して、笑っていたじゃない。やっとこの男を殺せる、やっと追い付いた、って。すっごく嬉しそうに」

「なんで」

「うふふ。どうして知っているのか、でしょ? 私はあなたよ、あなたは私よ。だから、なんだってお見通しなの」

ロザンナは笑う。

「憎悪は愛情の裏返しなの。強い憧れは憎しみに似ている。そうじゃないかしら?」

「憎しみは憎しみよ。私はこの男が許せない、それだけよ」

声を張り上げたロザリアに、ロザンナはにやりとした。

「あら。あなたは、一度だってこの人が犯した犯罪の被害者に同情していないわ。それどころか、とても感心していたじゃない。あらゆる人間に取り入る無駄のなさ、証拠の少なさ、変なところの派手さとかをね。あなたが一番好きな事件は、あの事件よね」

「やめて」

「一年くらい前に、あなたが初めてグレイスに会った事件よ。呪術師を名乗る詐欺師を追い込んでいたグレイスを、あなたは追っていた。そして、あなたはこの人に会った。警官隊によって路地裏に追い込まれた詐欺師の背後に、グレイスとレベッカちゃんが降りてきた。丁度、雪の降る夜だったわ。舞い降りてきたグレイスは、とても楽しそうに笑っていた。彼が背を向けると、レベッカちゃんが動いた。両手から伸びた魔導鉱石の爪が、詐欺師の胸を貫いて飛び出した。一発で心臓が貫かれて、飛び散った血があなたの顔に当たったわ。驚いた警官隊が発砲する前に、二人は警官隊を打ち倒していった。首を刎ね、腹を貫き、内から腐らせ、次々に殺していったのよ。でもグレイスは、あなたには手を掛けなかった。呆然としているあなたに歩み寄ったグレイスは、あなたの顔を拭った。返り血をあなたに舐めさせて、そして囁いてきたの。どうだい、楽しいだろう。絶望に怯えた人間の血の味は、あんたも好きなはずだ、って。違うかしら?」

ロザリアは、引き金に掛けた指を緩めた。記憶が蘇る。一年前の夜、高層建築街から離れた路地裏での事件だ。
街灯の光を受けた雪に埋まる、紺色の服の死体。折られた警棒に、銃声も発さずに潰されたいくつもの拳銃。
赤い模様と赤黒い海の出来た雪の中、男が立っている。彼の手が触れていた警官は音もなく崩れ落ち、死んだ。
ぞくぞくした。恐怖ではなく、悦楽だった。背中に感じるレンガの壁が冷たかったが、体の芯は興奮で熱かった。
雪と死体を踏みしめて歩み寄ってきた灰色の男は、笑っていた。白い息を吐き出し、曇ったメガネの奧で笑う。
何事もなかったかのように、普通の動作でメガネを拭って掛け直した。灰色の目が近付き、指先が顔を拭った。
まだ体温の残る血を付けた指が、ロザリアの唇を割る。半開きの歯を押し開き、舌の上に指が置かれた。
男は笑う。足元にやってきた幼女も、笑っている。手配書に書かれていた呪術師の顔と、同じ顔をした男だった。
呪術師は、ロザリアの舌を押さえたまま言った。楽しいだろう。人間てのは、朽ちたときが一番綺麗だもんな。
男は言う。絶望に怯えた人間の血の味は、あんたも好きなはずだ。いい味だろう。ワインよりもいいと思わねぇか。
何度も夢に見た。何度も味が蘇った。薄暗い路地裏で間近に見た、灰色の目の色と表情を何度となく思い出した。
それから、ずっと彼を追った。同僚も上司も、怪しまなかった。部下を殺されたからだろう、と同情すらしてくれた。
憎んでいたのは確かだ。快楽を示したくせに姿を消して、中途半端に引き込んでおいていなくなってしまったから。
手を伸ばすなら伸ばす、殺すなら殺す。そのどちらもせずに、いなくなるのは卑怯だ。誘ったのはそちらなのに。
だから憎らしかった。だから殺したかった。手に入れてくれないなら、手に入れるまでだ。そう思って、ずっと。

「ずっと、わたしは」

ずっと、探していた。追っていた。鉛玉で頭を打ち砕く瞬間を求めて。或いは、あの血の味を味わうために。
ロザリアは、グレイスの背を見上げた。広い背に当てていた銃口を下げ、その腕に抱かれた少女を目に映す。
ツノの生えた、暗緑の髪をした青い目の少女。だが、その中身は自分の半身だ。間違いなく、彼女は自分なのだ。
認めたくなかった憧れを具現化した存在。彼を深く愛していたが、幼くして死した少女。前世というべき魂だ。
グレイスは、ロザンナを抱いた腕を緩めた。中身は彼女なのだが、外見がフィリオラでは、やはり妙な気がした。
振り返ると、ロザリアが拳銃を下ろしている。恍惚とした虚ろな目がグレイスを映し、真っ直ぐに見上げてきていた。
グレイスは少女を放し、ロザリアに向き直った。魔力を送り込んだ際に繋げた感覚が、彼女の思考を伝えていた。
このまま、再度魔力を送り込めばロザリアは陥落する。邪心と悦楽の満ちた世界に、簡単に滑り落ちることだろう。
だが、それでは面白くない。グレイスは魔力を弱め、感覚を切断した。ロザリアは、よろけたがすぐに立ち直った。

「あ…」

今し方まで感じていた憧れが、立ち消えた。ロザリアは奇妙に思いながらも、目の前の男を見上げた。
グレイス・ルー。この男に対する様々な感情が、弱まった。あれだけ強かった血の味への衝動が、今はない。
呆気に取られているロザリアの様子に、甲冑の背後に隠れていたフィリオラは、うあー、と変な声を出した。

「やばいですよいけませんよこんなの」

「見りゃ解る」

ギルディオスが返すと、フィリオラは透けた手を胸の前で組んだ。

「グレイスさん、さっきから警部補さんの精神を引っ掻き回してるじゃないですか。いけませんよそんなの」

「あの馬鹿はな、そういうのが好きなんだ。なんでも、痛め付けるんだったら体よりも精神の方が面白ぇんだとさ」

「なんですかそれぇ。小父様、そういうの許しちゃってるんですか?」

「許せるはずねぇだろ。だからオレも、前にあいつを殺そうとしたんだが」

殺せずじまいさ、とギルディオスは苦々しげに洩らした。

「大分昔のことなんだがな。あの野郎の腹と背中と心臓の真横を、一度、貫いたんだ。だが、死んでくれなかった。だからあいつは、死に損ないなのさ」

「ギル小父様。次があります、次が!」

ぐっと拳を握ってみせたフィリオラに、ギルディオスは少しだけ笑った。

「おう。頑張ってみるさ」

ギルディオスは、グレイスに注意を戻した。ロザリアと向かい合っているので、男の表情は見えず、解らなかった。
何を考えている。何をしようとしている。ロザリアに、敢えて深淵の入り口を開いてみせてどうするつもりなのだ。
ギルディオスはグレイスの腕にくっついている少女、ロザンナに視線を向けた。その名には、覚えがあった。
かつて、グレイスが愛した少女だ。となると、その魂を持つロザリアは、ロザンナの生まれ変わりということになる。
ようやく、ギルディオスは合点が行った。かつての恋人の生まれ変わりならば、グレイスも興味を持つはずだ。
だが、生まれ変わりは生まれ変わりだ。本人ではなく、全くの別人だ。ギルディオスは、死した妻に思いを馳せる。
死ぬ前に、メアリーは言っていた。戦闘で深手を負った体を起こし、甲冑の胸に寄り掛かりながら、呟いていた。
あたしはあたしで、あんたはあんた。生まれ変わったら、そうじゃなくなる。だから、あたしは、このままでいいんだ。
メアリーは、弱々しく笑った。死んじまうのは、寂しいね。あんたもそうだったのかな、ギル。そうに決まってるよね。
ギルディオスは、妻が体重を掛けていた胸に手を当てた。深く愛していた妻の姿は、今でもすぐに思い出せる。
彼女は彼女だ。そして、彼女は彼女だけだ。同じ魂であっても、それは生まれ変わりに過ぎず、他人でしかない。
グレイスは愚かではない。彼も理解しているはずだ。だからグレイスは、それを承知で手を出しているのだろう。
だが、そこまで好きならば、構わないほうがいい。わざわざ前世を掘り起こしても、何にもならないではないか。
わざわざこちらに引き入れて、何になる。ギルディオスはグレイスを殴りたい衝動に駆られたが、堪えた。
かなり納得が行かないし理不尽だという思いはあるが、これはグレイスの問題だ。下手に手を出したくはない。
ギルディオスは胸に当てていた手を放し、下ろした。その手を見たフィリオラは、心配げに覗き込んできた。

「小父様?」

「気にすんな。大したことねぇ」

そう返し、ギルディオスはグレイスを眺めた。灰色の男は、女を見つめている。何を考えているのか読めない。
何も考えてねぇのかもな、とギルディオスは内心で毒づいた。蒸気自動車に座っていた幼女は、あ、と顔を上げた。
レベッカは立ち、たん、とバンパーを蹴り上げて飛んだ。紺色の短いスカートが翻り、腰のリボンがなびく。
エプロンの紐が交差した背が破れ、青紫の結晶が生え、成長した。翼を生やしたレベッカは、両手を前に出す。

「はっ!」

グレイスは二人の頭をぐいっと押さえ付け、強引に屈ませた。ごぉ、と凄まじい風と衝撃波が頭上を抜けた。
直後、坂の下が爆発した。横一線の衝撃波が、地面を炸裂させた。砕けた土が飛び散り、ぱらぱらと降り注ぐ。
グレイスの手の下から、ロザリアは顔を上げた。煙の向こう側に、見覚えのある車両が並んでいるのが見える。
警察車両だった。黒塗りの蒸気自動車が道を塞いで並び、その直前の地面だけが綺麗に吹き飛んでいた。
グレイスは、ちょっと面倒そうな顔をした。ロザリアに顔を寄せると、子供にするような仕草で頭を叩いた。

「お迎えだぜ」

「こんなときに…」

ロザリアがぼやくと、グレイスは小さく呟いた。

「さあて、これからどうする? あっちに戻るか、オレの傍にいるか。どっちが楽しいか、考えてみてくれ」

「楽しい?」

ロザリアが怪訝そうにすると、グレイスは頷いた。

「もしくは、面白いか面白くないか、でもいいぜ。基準は簡単な方が楽だからな、色々と」

構わん、撃て、と警官隊から声が上がった。ほぼ同時に、それを諌める若い男の声が響いた。

「待って下さい、民間人がいます!」

砂煙の向こうから、男が駆け出てきた。それはロザリアの同僚だったので、ロザリアはちょっと目を丸くした。
茶色いコートを羽織った若い刑事が、拳銃を構えた。彼の目線はギルディオスに向かい、見開かれた。

「…あ!?」

「あ」

男の驚愕した声に、ギルディオスは同じような言葉を発した。警察車両の前に立つ刑事の男は、身内だった。
若い刑事は目だけ動かし、ロザリアとグレイス、そしてフィリオラの姿になっているロザンナを窺った。
彼は目線を彷徨わせていたが、ギルディオスに戻した。薄茶の髪と目の青年はギルディオスを指し、叫んだ。

「なんであなたがここにいるんですか!」

「よぉレオ。久し振りだなー、元気してたか」

ギルディオスが親しげにすると、青年、レオナルド・ヴァトラスは銃口を上げる。

「ええ元気ですとも、ですが今はそれどころではないでしょう! なぜ、あなたがグレイス・ルーといるんです!」

「後でちゃーんと話してやるから、今はちょっとばかり放っておいてくれよ」

「そういうわけには行きません。市民を犯罪者から守るのも、我々の仕事なんですから」

レオナルドの銃口が、グレイスを捉える。すると、真上から幼女が飛び降りてきて、刑事の前方を塞いだ。
幼女は飛び上がって足を振り、レオナルドの拳銃を蹴った。強い衝撃が腕を揺さぶり、レオナルドは一歩下がる。
弾かれた拳銃は空中で回った。レベッカは落下してきた拳銃を手の中に受け止めると、ばきり、と握り潰した。
幼女の力に、レオナルドはぎょっとした。レベッカは彼との間を詰めようとしたが、グレイスから声が掛かった。

「レベッカ。無駄に殺すんじゃねぇ、後が面倒だ。そいつらの足止めだけしてから、城に戻って来い」

「はいー、了解しましたー」

レベッカは手から鉄片を落とし、頷いた。グレイスは、頼むぜ、と言ってロザリアを抱え、ロザンナの手を引いた。
城へ駆けて行く三人を追おうと、レオナルドは駆け出した。だが、レベッカに足を引っ掛けられ、派手に転んだ。
ごっ、と顔に衝撃がやってきた。固い土であったため、痛かった。痛みを堪えて顔を上げると、呪術師の姿はない。
痛みと気恥ずかしさの中、レオナルドは起き上がった。真正面の蒸気自動車の運転席に、甲冑が立っていた。
ギルディオスは、がちん、とバスタードソードを鞘に戻した。窯を開いて石炭をいくつか放り込み、火を強めた。
蒸気自動車は、煙を出し始めた。ハンドルを握ったギルディオスは、ぐいっと回した。ゆっくりと、方向が変わる。
城へと向き直った蒸気自動車から、ギルディオスは軽く手を振った。いつも通りの、悪気のない声だった。

「まぁ、そんなわけだから。レオ、今度ばっかりは勘弁してくれや」

警官隊が駆け出す前に、蒸気自動車は城の跳ね橋を渡っていった。運転が荒いのか、車輪の音が大きかった。
ギルディオスの乗った蒸気自動車を、幽体の少女が追う。待って下さいよぉ、と情けない高い声が遠のいていく。
レベッカはレオナルドに、それではー、と背を向けた。レオナルドは捕らえようとしたが、手が届く前に浮上した。
メイド服姿の幼女は、滑るように空中を進む。跳ね橋に向かって飛んでいく幼女を、警官隊が追いかけていく。
古びた橋の上に、とん、とレベッカは足を下ろした。一斉に駆けてくる紺色の警官達に向け、両手を突き出した。

「空の囁きよ、天の瞬きよ! 風に宿りし荒ぶる閃光よ、我が意のままに!」

レベッカは声を上げると、警官隊は怯み、速度を弱めた。レベッカは、片手を振り上げる。

「閃光しょーらいっ!」

「大気より生まれし大気の子よ、大地の御魂にいざ招かれん! 我が言霊により、出でよ、大地の切っ先よ!」

レベッカが呪文を唱えた直後、レオナルドは右手を掲げた。足元の地面が盛り上がり、勢い良く伸びていく。
ばしり、と頭上を走った雷光に、土槍が迫る。レオナルドの身長の倍ほどになった土槍に、雷光が絡んだ。
途端に、炸裂音がした。土槍の先端が弾けるように砕け散り、石の混じった破片がばらばらと降り注いできた。
レオナルドは、深く息を吐いた。髪に乗った土を払いのけてから、右手を突き出し、にやりとした笑みを作る。

「驚いたな。まさか石人形が、初歩とはいえ精霊魔法を使うとは」

「わたしもー、ちょっと驚きましたー。さすがはー、ランスさんの直系ですねー。避雷針とは考えましたねー」

ですけどー、とレベッカは指を弾いた。ぱちん、と乾いた破裂音が響く。

「わたしは石なんですー。ですから土はー、私の眷属みたいなものなんですよー」

「何ぃっ!」

ぐにゃり、と足元が歪んだ。レオナルドは足を抜こうとしたが、地面が水のように溶けてずぶずぶと埋まっていく。
警官達は必死に抜け出そうとするが、這い出そうと手を付くとその手も埋まり、歩こうにも足が抜けなかった。
レベッカはふわりと浮かび上がり、にこにことする。地面に埋まりながらもがく警官達を、少し上から見下ろす。
レオナルドの目前に、紺色のスカートが広がっていた。レベッカは彼の前にやってくると、屈んで目を合わせた。
小さな指が、レオナルドの眉間を指した。射抜かれる、とレオナルドが思わず目を閉じると、レベッカは嘲笑した。

「大丈夫ですよー。御主人様の命令ですからー、殺しませんよー」

レベッカはレオナルドの目を見つめていたが、とん、とその額に指先を当てた。熱い風が、彼の周囲を巡る。

「ですけどー、厄介なのでー、魔力は抜かせてもらいますー」

「ま、待て」

レオナルドはレベッカの手首を掴んだが、その手は滑り落ちた。彼の膝が崩れ、ずぼり、と泥に座り込んだ。
全身の力が抜け、魔力を高めようとしても何も沸き起こらない。奥歯を噛み締めたレオナルドは、泥を握る。
泥に埋まって身動きを取れない警官達は、混乱していた。銃を抜いても、泥が跳ねて銃口を埋めてしまう。
拳銃を振り回して払おうとしても、抜けるどころか滑り込む。意思を持っているかように、独りでに動いていた。
レベッカは跳ね橋に戻ると、城門へ駆けていった。その奥には、蒸気自動車とその上に立つ呪術師が待っていた。
ボンネットの上に膝を付けたグレイスは、ばん、とボンネットを叩いた。ボイラーが開き、一気に蒸気が噴き出した。
熱の篭った空気が立ち込め、視界が奪われた。がちがちと重たい金属音と、木の軋む嫌な音が鳴り始めていた。
レオナルドは泥に埋まりながらも身を乗り出し、目を凝らした。跳ね橋が持ち上がり、蒸気自動車が隠れていく。
その向こうのグレイスは、にやにやしていた。レオナルドは踏み出そうとしたが、少しも進めなかった。
蒸気が弱まって視界が戻ると、城壁の上に着地音がした。見上げると、グレイスが勝ち誇った顔で立っている。

「さぁて」

泥にまみれた警官隊を見下ろしたグレイスは、片手を上げた。

「駒はきっちり詰めねぇとな」

ざばぁ、と堀の水が持ち上がった。滝のように水をこぼしながら、巨大な水の壁が徐々に上へ伸びていく。
レオナルドは、目を見開いた。グレイスは、呪文も唱えていないし杖も持っていない。その上、魔法陣もない。
つまり、この男は魔力だけで全てを操っている。レベッカも、魔法ではなく魔力だけで地面を泥と化した。
レオナルドはぞわりとした恐怖を覚えた。圧倒的な力の差を感覚として感じ、今更ながら恐ろしくなってきた。
グレイスは右手をくるりと回すと、人差し指を立てた。丸メガネがきらりと反射し、表情が見えなくなる。

「高き空より訪れし、広き大地より生まれし水よ、我が声を聞け!」

空気が、急激に冷え始める。レオナルドは無心にグレイスを見上げていたが、嫌な汗が背を伝っていった。
高等な魔法ではない。ごくごく簡単な、瞬間凍結の呪文だ。しかも、増幅呪文も一切使っていない。
ほとんど、グレイスの魔力だけでまかなっている魔法だ。レオナルドは泥溜まりを、ばちゃりと力任せに殴った。
勝てないはずだ。いくら警察が追い詰めても、自分のように魔法を会得した捜査官を配置しても、無駄なのだ。
実力差がありすぎる。経験も技術も能力も何もかも、敵うはずがない。そんな相手を、捕まえられるはずがない。
強烈な悔しさと自分への苛立ちで、レオナルドは過熱してきた。体の周囲が熱くなり、泥から薄い蒸気が昇った。
グレイスはレオナルドの表情を見下ろし、楽しげに笑んだ。右手を下ろすと、すいっと横に動かした。

「数多の命に連なる流れよ、我が意に従い、大いなる氷塊となれ!」

びしり、と滝が凍り付いた。すぐさまその氷は領域を広げていき、硬い音を立てながら水を侵食していった。
それと同時に、成長もしていく。堀の水を吸い上げながら高くなり、白い壁が灰色の城を覆い尽くしていった。
視界が、全て硬い氷に奪われた。レオナルドが足を前に進めると、確かな踏み応えが靴の裏にあった。
泥が、元に戻っていた。それに気付いた警官達は落ち着きを取り戻したが、氷の壁を見上げた途端に落胆した。
超えられない壁だった。警官の一人が弾丸を撃ち込んでみたが、貫通するどころか、穴も開かなかった。
相当に厚い氷であることは、一見して解った。レオナルドは汚れた手を払い、苦々しげに口元を歪めていた。
これでは、ロザリアを救うどころかギルディオスに会うことすら叶わない。先祖の思考が理解出来なかった。
ヴァトラスとルーが腐れ縁であることは、重々承知している。長きに渡る呪いを、与え受け合った関係だ。
歴史によれば、ギルディオスは長きに渡ってルーに振り回されている。この五百年間、ずっとその状態らしい。
しかし、そういう間柄ならば、なぜわざわざルーに付き合うのだろう。レオナルドは、理解に苦しんだ。
そして、グレイスと共にいたツノの生えた少女と、その本体らしき幽体の少女。あれは、ドラグーン家の血族だ。
ギルディオスは、あの一族にも振り回されている。氷の壁を見上げ、レオナルドは次第にむかむかしてきてた。
なぜ、いつも他人にいいようにされているのか。なぜ、ギルディオスはその状態から抵抗していないのか。
レオナルドは、どごん、と氷の壁を思い切り殴り付けた。感情と共に高まった発火の力が、内に漲っていた。

「ええいもう!」

レオナルドの思考は、最早仕事から外れていた。警官達は怪訝そうに、拳を握り締めている巡査部長を眺めた。
魔力が戻り、更に強く熱を発し始めたので、レオナルドは苛立ち紛れと熱の発散のために氷を殴り続けた。
それでも氷の壁は薄くなることすらなく、余計に彼の神経を逆撫でしていた。


灰色の城の前庭から、フィリオラは氷の壁を見上げていた。
分厚く成長した氷は、城壁を軽く追い越している。ふぇー、と気の抜けた声を洩らし、ただただ感心していた。
グレイスが人間離れしていることは、先祖であるフィフィリアンヌから良く聞いていたが、目にしたのは初めてだ。
魔法陣も使わずに、得意な呪術でもない黒魔法で、これだけのものを造り出してしまう。魔力の大きさが桁違いだ。
それだけの力があれば、魔法を使わずとも長命になれるのは当然だ。フィリオラは、素直にグレイスを尊敬した。
が、すぐにぷるぷると顔を振った。あんな悪人に敬意など抱いてはいけない、と思って気を取り直した。
グレイスはロザンナとロザリアを傍に置き、満足げに氷壁を見上げている。ギルディオスは、氷の障壁を仰ぎ見る。

「おーおーおー。イノみてぇなことしやがるなー」

「名付けて、イノセンタスに学ぶ引きこもり戦法だぜぃ!」

自慢げに笑うグレイスに、ギルディオスはげんなりしてしまった。

「人の兄貴を、勝手に引きこもりにすんじゃねぇよ。まぁ…否定はしねぇけどさ」

「それで、小父様。これからどうします?」

フィリオラは、ギルディオスの前にやってきた。ギルディオスは蒸気自動車に背を預け、んー、と首をかしげる。

「さぁな。当局の連中が諦めてくれるまで、ここにいるしかねぇだろ。幸か不幸か、旧王都領内の連中はレオ以外に魔法に長けた奴ぁいねぇ。グレイスがこしらえたんだから簡単に壊せるはずがないし、生半可な魔導師じゃどうにも出来ねぇから安心しろ」

「小父様、しばらくここにいるつもりなんですか?」

フィリオラが嫌そうにすると、おうよ、とギルディオスは頷いた。

「オレも嫌だけど、こうなっちゃったらそれしかねぇだろ。下手に外に出たら、レオに怒られるだろうし。それにオレ、レオはちょいと苦手なんだよな」

「なんでですか?」

「身内でも、苦手なのはいるさ。それにあいつ、なーんかイノみてぇなところがあってなぁ。それがちょっとなぁ…」

「小父様は、お兄様がお嫌いだったんですか?」

「いや、愛してるぜ。でもな、好き嫌いと得意不得意は別だろ? そういうもんさ」

「そういうものなんですか?」

「そういうもんなの」

ギルディオスの答えに、フィリオラは理解しかねた。解らないわけではないが、すぐに腑に落ちるものでもない。
フィリオラにとって、嫌いと苦手は同列だ。好きと得意も近いものがあり、好きだから魔法が得意になったのだ。
納得が行くようで行かない気分になったフィリオラは、首を捻って体を傾けた。幽体なので、すぐに斜めになる。
首を曲げると、グレイスの背と二人の女性が目に入った。その片方は自分の体だが、さすがにもう慣れてきた。
グレイスは、城門の手前で服の汚れを払っているレベッカに向いた。レベッカの背中の翼は、消えている。

「レベッカ、お茶の用意でもしてくれねぇか? あ、毒は入れるなよ。相手はフィフィリアンヌじゃねぇんだから」

「わっかりまーしたー」

レベッカは、足早に正面の居館に向けて駆けていった。グレイスはそれを見送ると、ロザンナに顔を向ける。

「ロザンナ。オレの魔力を大分あげたから、姿を保てるだろ。フィリオラの体、そろそろ返してやってくれないか。もし足りなきゃ、いくらでも足してやらぁな」

「平気よ、グレイス」

ロザンナはグレイスに微笑み、目を閉じた。かくっと首が落ち、背中から白が出てきた。それは、少女の形を成す。
白い髪を広げた幽霊は、スカートを広げながら浮上した。魂の抜け落ちたフィリオラの肉体は、ぐらりとよろけた。
グレイスはその体を支え、フィリオラを手招いた。フィリオラが自分を指すと、グレイスは急かすように頷いた。
フィリオラはグレイスの前にやってくると、自分の体に魂を重ねた。魔力中枢に力を注ぐと、元の位置に収まった。
慎重に目を開いたフィリオラは、すぐ隣のグレイスを見上げた。うきゃあ、と叫んでグレイスを突き飛ばした。

「何するんですかぁ!」

「不可抗力だろうが!」

グレイスが言い返すと、フィリオラはむっとした。グレイスに言い返そうとしたが、鋭い頭痛が走った。
額を押さえたフィリオラの肩を、ギルディオスは抱いた。とんとんと叩いて落ち着かせながら、呪術師に向く。

「この馬鹿。オレに渡してからやりゃあ良かったんだよ」

「いいじゃねぇかちょっとぐらい。これであと、七年ぐらい前の状態だったら好みだったんだがなぁ」

グレイスが拗ねたように言うと、ギルディオスはフィリオラを抱え込んだ。

「下らねぇこと言ってないで、てめぇは自分の女をなんとかしやがれ。いくら前世とその生まれ変わりっても、二つもいちゃ面倒だろ」

「ああ、そうだな」

グレイスは、ロザリアとロザンナに向き直った。肩に乗っていた緩い三つ編みを、ぽいっと背に投げた。
白い輝きを放つ少女が、浮かんでいる。その傍らに、不愉快さと気恥ずかしさの混じった顔をした女が立っている。
グレイスは、灰色の目を僅かに細めた。


「面倒臭ぇ三角関係になんて、するつもりはねぇよ」





 


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