ドラゴンは笑わない




白き宿命、白き呪い



居館の居間で、フィリオラはぐったりとしていた。
長時間、別の魂に体を乗っ取られたのは久々だ。頭の芯が痺れる頭痛と、倦怠感が全身に広がっていた。
ソファーに腰掛けていたが、倒れ込んでいるも同然だった。手前のテーブルの紅茶も、飲むに飲めずにいる。
香りと色合いで上質だと解るから、余計に悔しかった。手を伸ばそうとしても、上がるどころか動かなかった。
隣で力尽きているフィリオラを、ギルディオスは同情しながら見ていた。そして、久々に入った居間を見回した。
二人で住むには巨大な城の、広大な居間だ。暖炉の前に並べられた値の張るソファーに、彼らは座っていた。
盆を抱えたレベッカは、ベランダに面した窓の前に立っていた。氷壁の高さを確かめるように、外を眺めている。
白い幽霊となったロザンナは、物珍しげに居間の中を飛び回っていた。生きていた頃よりも、物が増えたからだ。
対するロザリアは、不愉快げに目元をしかめて紅茶を飲んでいた。隣のグレイスを、睨むような目で見る。

「あなたと一緒にお茶を飲む羽目になるなんて、考えてもみなかったわ」

「オレもだよ。あそこで当局が来なきゃ、外で全部終わらせてたんだがねぇ」

紅茶に砂糖を二杯入れ、グレイスは琥珀色の液体を掻き回した。砂糖を溶かし終えると、スプーンを抜いた。
かちゃり、とソーサーにスプーンを置いた。ぐいっと半分ほど飲んでから、グレイスは一息吐いた。

「まぁいいか。その方が、オレも色々と楽だしな」

グレイスは、紅茶を飲むロザリアを眺めた。顔立ちも年齢も何もかも、ロザンナとは似ても似つかない女だ。
それでも、何かが同じだった。その何かは、魂の波長と色である。グレイスは白い少女を見上げ、笑った。
ロザンナが喜ぶ姿を見るのは、六百五十年ぶりだ。人形じみた少女は、満面の笑みですっかり浮かれている。
グレイスは紅茶を飲み干してから、ティーカップをソーサーに載せた。かちり、と陶器が触れ合い、音を立てる。

「それで、ロザリア。あんたはどうしたい」

「さっきから、そればっかりね」

ロザリアはティーカップを下ろし、ソーサーに置いた。グレイスは、どぼどぼと自分のカップに紅茶を注ぐ。

「いやなに、オレはあんたの意思を尊重したいだけさ。魔法でどうこうしようなんて考えるのは、三流だからな」

「よく言うわ。強引に人の前世を引っ張り出して色々とやったくせに、尊重だなんて。無視の間違いじゃない?」

「いいねぇ、口が悪い女は。下手に触るとぶった切られそうな雰囲気が大好きだ」

「はぐらかさないでちょうだい。あなたは、私をどうしたいのよ」

「どうもこうもしねぇよ」

グレイスは二杯目の紅茶を揺らしながら、ロザリアに笑う。

「あんたは、本能じゃオレを気に入ってるんだろうが、理性じゃそうでもないだろうからな。無理強いはしねぇよ」

ロザリアは俯き、手を握り締めた。グレイスの言う通りだ。冷静になればなるほど、自分の本心が解らなくなる。
他人を殺めることは許せないし、事実、この男に会うまでは信念を持って職務を全うしていた。だが、今は違う。
血の味が、雪に散った血飛沫の美しさが忘れられない。鉛玉で骨を砕き肉を吹き飛ばす感覚が、心地良い。
舌の上に鉄錆の味が蘇った気がして、ロザリアは唇を舐めた。紅茶の味は消え、甘みすら残っていなかった。
今、この城を飛び出せば、元の場所に戻れる。だが、このままならば、またあの味が味わえるかもしれない。
一旦知ったおのれの本性を、また押し込めることが出来るのだろうか。出来たとしても、その行く末は見えている。
衝動を抑えきれずに、快楽殺人者と化すのだ。それこそ、嫌だ。そうなっては、ただの気狂いになってしまう。
今までは、衝動を抑えることが出来ていた。それはひとえに、威嚇射撃の名目で銃撃を繰り返していたからだ。
だが近頃は、上層に過度の銃撃を問題視され始めている。始末書では済まされない事態になる可能性が高い。
ロザリアは、グレイスに目をやった。少女と戯れる彼は、あの雪の日と同じくとても楽しげな顔をしていた。
それが、不思議だった。今までに見てきた殺人犯は、後ろめたさと亡霊に怯え、笑っていても内心は震えていた。
だが、この男は違う。どう見ても、心からの笑顔だ。気に入りの遊び道具を手に入れたような表情をしている。
なぜ、そんな顔が出来るのだろう。ロザリアが訝っていると、グレイスは少年のような顔をしてにっと笑った。

「楽しかったろ? 当局の連中ってのは、ああやってからかってやるのが一番面白ぇんだ」

グレイスは、ロザンナの透けた髪へ指を滑らせていく。

「最近の人間は科学に奢って魔法を侮ってやがるから、魔法でどうこうした方が煽れて楽しいんだなこれが。だが、レオナルド巡査部長だけは別だな。あの男は堅物に見えるが了見が広いから、レベッカちゃんにもきっちり魔法で応戦してきた。今後もちったぁ気を付けねぇといけないな、あいつは」

「どうして」

ロザリアは身を乗り出し、グレイスを見上げた。

「どうして、あなたはそうも笑うの? 私が知っているだけで十七人は殺しているのに、なぜ笑っていられるの」

「いやいや。オレが殺してきたのはな、そんな人数じゃねぇ。レベッカちゃんのも合わせれば、もっといるぜ?」

「恐ろしくないの? 死者の亡霊が、見えることはないの?」

「見えるさ、いくらでも」

「だったら、どうして」

「見えたところでどうでもいいし、死者は生者に勝てねぇって相場は決まってる」

「それだけ?」

「ああ、それだけだ。このオレを、快楽殺人者とごっちゃにしてほしくねぇなぁ。オレはな、殺しが楽しいわけじゃねぇ。殺しに行くまでが楽しいんだ。天上と見紛うばかりの悦楽を味わわせてから、地獄のような絶望へと叩き落すのが面白いのさ。だから、殺しはついでのお楽しみでしかねぇんだよ」

グレイスはソファーに深く腰掛けて、右手を広げてみせた。真新しい火傷の跡が、痛々しい。

「それにこの通り、オレは不死身でもなんでもない。体も魂もずうっと同じだ。ただの人間に過ぎないんだぜ?」

「悪魔の化身だとか竜の眷属だとか魔族だとか、色々と噂はあるけれど?」

「そりゃまた大層だな。オレはルーロンの末裔だが、れっきとした人間さ。火を浴びたら皮は焼けるし、肉を裂けば血も出るし、骨も砕けりゃ内臓も潰れる。ギルディオス・ヴァトラスに聞いてみろよ、本当なんだから。後にも先にも、オレの腹を破って殺しかけたのはその男だけなんだからな」

と、グレイスはギルディオスを指した。ロザリアが振り向くと、甲冑は頷いた。

「ああ、そういうことだ。警部補さん、試しにそこの馬鹿野郎のドタマを撃ち抜いてみな。即死するぜ、間違いなく」

「まぁ、撃ち抜かれる前に銃は取り上げちまうがね」

グレイスは、軽く肩を竦めてみせた。ロザリアは拍子抜けしてしまい、笑ってしまった。

「話せば話すほど、あなたって人が解らなくなるわ。とんでもない大悪党かと思えば子供みたいだし、そうかと思えば魔法の威力は凄まじいし」

「それがグレイスなのよ。その全部がこの人なの。だから私は、この人が好きなのよ」

ふふ、とロザンナは微笑んだ。ギルディオスは、がしゃりと足を組む。

「付き合うには疲れる男だぜ、この死に損ないはな。何かってーと周りを巻き込むし、自分勝手で強引で無茶苦茶なことばっかりしやがる」

「それが楽しいんじゃねぇか。抑え目に事を運んだって、面白くもなんともねぇよ」

グレイスはギルディオスを見、心外そうにする。

「フィフィリアンヌよりは、まだマシじゃないか。あの女なんて、竜王から金貨五万枚もふんだくって、挙句に頼まれた仕事をしないで踏み倒したっつーじゃねぇか。オレはまだまともだぞ。最低限の仕事をしてから料金を吊り上げて、吸い取れるだけ吸い取ってから残った財産も一つ残らず巻き上げてるだけだからな」

「どこがだ。てめぇの方が、何十倍もタチが悪ぃだろ。てめぇの場合、喰らい付いたら最後まで放さねぇもんなぁ」

「詐欺ってのはそういうもんさ。それによ、オレみたいにあからさまに胡散臭い人間の手を借りようと思う方が、まずどうかしているんだ」

「借りさせるように仕向けてんだろ」

「なんだ、知ってたのか」

グレイスがつまらなさそうにすると、ギルディオスは顔を背けた。

「知ってるよ。長ぇ付き合いだからな」

グレイスを鬱陶しそうにあしらい、ギルディオスは投げやりな会話をしている。かなり嫌なのか、口調に棘がある。
会話を聞き流しながら、フィリオラは目を開けた。なんとか目を覚ましたかったが、気力も体力も戻っていなかった。
そしてそのまま、フィリオラは泥のような眠りに引きずり込まれていった。


夜になり、灰色の城は重たい闇に沈んでいた。
弱い月光に照らされた前庭の奥、高い城壁の向こうには未だに氷壁が存在している。溶ける気配などない。
氷壁の冷気が運ばれ、夜風は冷え切っていて冬のようだった。ロザリアは、紺色のコートの襟元を合わせる。
客用寝室のベランダから、夜の世界を見下ろしていた。工場街の先にある旧王都も、静まり返っている。
中世の名残である高い城壁の中で、一際目立っている立派な高層建築の建物が、旧王都領内の国家警察署だ。
目を凝らすと、長方形の箱のような建物の窓は明かりが灯っていた。そのどれかに、レオナルドがいるだろう。
きっと彼は、始末書と報告書を並べているはずだ。そして、ロザリアの行く末を案じ、焦燥の最中にいるだろう。
ほんの一時期であったが、彼はグレイス・ルー絡みの事件捜査に身を置いていた。交流のない相手ではない。
ロザリアは、レオナルドの気苦労と心配を思い、申し訳なくなった。もう、その思いは無駄になりそうだからだ。
日が暮れて、少し眠って起きてみたら気分は落ち着いた。熱を伴った高揚感も苛立ちも何もなく、平坦になった。
手の中に銃はない。舌にも血の味はない。冷静な思考で考えを巡らせていくと、次第に、答えが見えてきた。
ロザリアは、赤ワインの入ったグラスをテーブルから取った。滑らかな球形に半分ほど満ちた、赤紫が揺れた。
それを呷ってから、息を吐いた。薄く雲の散らばる夜空を見上げ、ロザリアはぎゅっとコートの襟を握った。
今は、思考を支配していた男の手の中にいる。脱する理由はない。脱しても、後に残るのは強い後悔だけだ。
彼を憎んでいると自分に言い聞かせ、本心から目を逸らしてきた。ロザンナの言っていたことは、正しい。
白いものが、視界の端を掠った。ロザリアが振り返ると、光の固まりのような少女が背後から首に腕を回した。

「そうよ、それでいいの。それがあなたなの」

「あの人の場所に、いなくてもいいの?」

「あなたの近くにいれば、あの人には会えるもの」

ロザンナは、するりと横に滑るように動いた。羽根のように、軽く手すりに腰掛けた。

「いいことを、教えてあげましょうか」

「有益な情報なら、是非とも手に入れておきたいわね」

ロザリアは、テーブルにワイングラスを戻した。ロザンナは、柔らかく笑う。

「私ね、あなたから出るときに、グレイスから魔力を一杯もらったでしょ? その時に、ちょっとだけあの人の記憶も拾ったのよ。といっても、あの人はずうっと長く生きているから、断片って言っても結構な量があったの。おかげで、天上に行った後のことが色々解ったわ。王国も帝国もなくなっちゃったことも、竜族が滅びの道を大分進んだことも、グレイスはあの甲冑の人が大好きだってことも、竜の女の子が今でも欲しくてたまらないってことも、色々とね。そしたら、ここ最近のものが一番はっきり見えていたの。その中でも、一番多かったのは」

「私のこと?」

「さすが刑事さんね、鋭いわ。そうなのよ、あなたのことが一番多かったの」

「ここ一年、あの男を逮捕寸前で逃してばっかりだったもの。嫌でも覚えられるわ」

「そうね。でも、あの人がわざわざ捕まりに行くようなことをすると思う?」

「思えないわね。あれだけの腕を持っているのなら、関係者の記憶もいくらでもいじれるし、証拠なんて残らないわ」

「そうよ。でも、あなたは何度もあの人を追い詰めた。なぜかしら?」

「簡潔に考えて、誘われていたのね。そうじゃなきゃ、事件のたびに鉢合わせなんて有り得ないわ」

ロザリアは、白い少女を見上げた。少女の大きな瞳には、うっすらと赤みが差していた。

「殺人も詐欺も窃盗も、全て現行犯で見つけたわ。でも、その犯行現場で毎度のように容疑者に会うなんて、常識で考えればおかしいのよ。第一、犯罪者がわざわざ警察の到着を待っていると思う? けれど、あの男は待っているのよ。死体の傍で笑っていたり、詐欺の証拠書類を目の前で焼いてみせたり、奪った品を本物であると私に確かめさせてから逃げているのよ。手錠を掛けても魔法封じをしてもレベッカ・ルーを破壊しても、すぐに逃げられてしまう。それだけの技能を持っているくせに、いえ、持っているからこそ待っているのよ。あの男は、私や当局をからかって遊んでいるのよ」

「そうよ。グレイスはそういう人なの」

「全く、いい迷惑だわ。あの男のおかげで本庁の査察官からなじられるし、上司からは無能呼ばわりされちゃうし、部下や同僚は次々に殉職していくし」

「でも、あなたは殺されないのよね」

「ええ。銃を向けられはするけど、レベッカが向かってきたりはするけど、一度だって血も流してないわ」

「あなたが人間だから、あの人はそうしているのよ」

ロザンナは身を屈めて浮かび、ロザリアと目線を合わせた。透けた赤い瞳と、焦げ茶の瞳が向かい合う。

「あなたが竜だったら、あなたが死んでいたら、また別だったんでしょうね。だって、あなたは人間だもの。むやみに傷を付けたら、あっという間に死んでしまう。だから、傷付けずに追い込んでいったのよ。あの人はあなたに、何が何でも手柄を立てさせないことでそうしていたのよ」

「加虐快楽者、ってこと? 残念ね、私は痛め付けられても気持ちよくはならないから」

「それはちょっと違うわ。グレイスは、人が絶望に沈む姿を見るのが大好きなの。そういうことが好きだから、呪いの仕事なんてしているのよ」

「つまりあの男は、私を突き落とそうとしたわけね」

「ええ。でも、あなたは堕ちなかった。堕ちるどころか、一心にあの人を追いかけていたわ」

「むきになってたのよ。捕まえられるかと思ったら逃げられてばっかりだったから、ついね」

「グレイスは、それが面白かったみたいよ。普通だったらとっくに陥落してるから、余計にね」

くすりと笑ったロザンナは、ロザリアの横に回りこんだ。

「だから、一年もあなたと遊んでいたのよ。ずるいわ。私なんて、あの人に会って一年もしないで死んだんだもの」

「結局、私はあの男の手慰みに過ぎなかったってわけ?」

ロザリアが苦々しげにすると、ロザンナは首を横に振る。

「違うわ。私があなたの前世だった、というのも遊んでいた理由だけど、まだあるのよ」

「これ以上、どういう理由があるっていうのよ。確かに私は、あの男に本心を暴かれてその挙句に惹かれたけれど、あいつはそうじゃないんでしょ? 話の端々だけで、グレイス・ルーは幼女趣味で男色だと解るわ。だったら余計に、私みたいな成長した女には興味なんて欠片もないし、あったとしても暇潰しのおもちゃに過ぎないじゃないの」

「最初はそうだったかもしれないわ。でも、もう違うのよ」

ロザンナは、灰色の城を仰いだ。夜空に向かって、高く尖った屋根が突き出ている。

「あなたがあんまり堕ちないから、あの人はあなたが欲しくなったのよ」

「おもちゃからの延長じゃない」

「それがね、あの人、少し変なの。あの人は、愛しているから欲しくなるの」

「何よそれ」

「甲冑の人を追い回すのも、竜の女の子にちょっかい出すのも、そのまま手元に引きずり込みたいからなのよ」

「独占欲の固まりね」

「そうとも言えるわね。本当に、子供よね。子供に子供って言われちゃ、どうしようもないわね」

ロザンナが可笑しげにすると、ロザリアは吹き出した。

「それもそうね。今までで、一番ろくでもない男だわ」

「きっと、グレイスは愛情表現が下手なのよ。自分が欲しいから他人にも欲しがればいい、とか思っていそうね」

「有り得そうね」

「だとすれば、きっと、あっちの方も下手なんじゃないかしら。グレイスってあんな性格だから、たぶん、すっごく独り善がりなはずよ。それに、あの人のお相手はレベッカちゃんしかいないのよ」

「それじゃあ、私は覚悟しておかなきゃならないかしら?」

ロザリアがにやりとすると、ロザンナは頷く。

「ええ、それがいいわ。グレイスと一緒にいると楽しいけど、きっと、大変なことの方が多いと思うから」

ふと、ロザンナは部屋の扉に顔を向けた。重たい扉は固く閉ざされており、廊下の様子は解らなかった。
扉を見ながら、ロザンナは内心で笑った。彼の魔力で意識と姿を保っているから、彼の気配を感じやすかった。
部屋の中に入ってくればいいのに、と思いながら、ロザンナは生まれ変わりのである女に目をやった。
成人した女性の顔立ちと気の強そうな表情は、似ても似つかない。けれど、彼女は自分であると思えていた。
同じ男に思いを寄せていることが、何よりも強い確信だった。


女と少女の会話を、彼らは扉と背中越しに聞いていた。
胡坐を掻いて座るギルディオスは、傍らのグレイスに向いた。すっかり、表情がだらしなく緩んでいる。
きちんとしていれば男らしいのに、こうなってしまうと見る影もない。よくもまぁこんな男に惚れるよな、と思った。
グレイスは二人の会話を聞き、一人で喜んでいる。ギルディオスは、成り行きで付き合った自分が情けなくなった。
フィリオラを隣の部屋に寝かせた後に、強引に引っ張り出されたのだ。逃げる間もなく、盗み聞きの相方となった。
ギルディオスはぐったりしながら、頭を反らした。せめてもの嫌がらせをしよう、と思い、ぽつりと呟いた。

「そうかぁそうかぁ。グレイス、てめぇは素人童貞だったのか」

「人が幸せに浸ってるっつーのに、そういうこと言うか、普通?」

グレイスがむくれると、ギルディオスは茶化すように言う。

「だってそうだろ。相手がずーっとレベッカだったってことは、普通の女とやったことなんざ一度もねぇんだろ?」

「普通の女じゃな、その気になれねぇんだよ。そんなんじゃ、やるにやれねぇだろうが」

グレイスが言い返すと、ギルディオスはへらへらと受け流す。

「ほーれやっぱり素人童貞じゃねぇか。情けねぇなー、フィルに言っちゃうぞー」

「…それだけは言うんじゃねぇ。フィフィリアンヌのことだからたぶん気付いてるんだろうけど、言ったら死ぬまで馬鹿にされるのが目に見えてるから」

声を落としたグレイスに、ギルディオスはけらけらと笑った。

「さぁてどうしてくれようか」

「ギルディオス・ヴァトラス。お前さー、歳喰って性根歪んだんじゃねぇ?」

「てめぇほどじゃねぇよ」

苦々しげなグレイスに満足し、ギルディオスは声の調子を戻した。

「んで、グレイス。詰まるところ、てめぇはあの女刑事に気があるのか、ないのか?」

「欲しいね」

すぐに表情を変えたグレイスは、神妙な面持ちになった。足を組み直し、扉に寄り掛かる。

「いや、最初はな、ロザンナの魂を持ってたから欲しかったんだ。実際、オレはずっとあの子が生まれ変わってくるのを待っていた。だから、これだけ長く生きてたんだけどな。んで、ロザンナが生まれ変わってロザリアになったわけなんだが、これがまた厄介な女でよ。普通なら、オレがちょいと引っ掻き回しただけで大抵の人間は揺らぐだろ? でもな、やたらめったら意思が硬くって強くって、何度オレが追い込もうとしても、起き上がってくるんだ。蹴り落とそうとしても叩き潰そうとしても向かってくるから、いっそのこと遊ぼうって決めたんだ。んで、遊び始めたら、これがまた楽しいんだ。どれだけ馬鹿にしてもどんなに虚仮にしても、あいつはオレに向かって来るんだよ。どうしてかなーとか思ってレベッカに聞いたら、惚れられてるんじゃないですかー、と来たもんだ。御主人様もあの刑事さんに惚れてるから遊び倒してるんじゃないですかー、とも言われたよ。真偽のほどはいかにと思って、フィフィリアンヌにも意見を求めてみたら、似たようなことを言われてよ。遊び倒しても捨てないのは、貴様はその女で遊ぶだけでは飽き足らんということだ、ってさ」

グレイスは、ずるりと姿勢を崩した。だらしなく座り、天井を見上げる。

「んで、オレは考えに考えた。一年経って、やっと結論が出たのさ。オレはロザリアが欲しい」

「簡潔に好きだって言えよ」

「だから、好きだから欲しいんだよ。それなのに、お前だけはなびかないんだもんなー。こんなにいい男なのに」

グレイスが悔しげにすると、ギルディオスは変な声を出した。

「自分で言うなよ。気色悪ぃ」

「言えちゃうのがオレなの」

頭の後ろで手を組んだグレイスは、僅かに目を伏せた。

「自分でも、変だと思うぜ。小せぇ子と男にしか興味がなかったってのに、いきなり普通の女に引っかかっちまったんだから。でもな、嫌じゃないんだ。ずっと誰かしらを追いかけてばっかりだったから、追いかけられるのが新鮮だったのかもしれねぇなぁ」

「まぁ、後は勝手にしてくれや。オレには関係ねぇことだからな」

ギルディオスが素っ気無く言うと、グレイスは面白くなさそうにする。

「ここまで付き合ってくれたくせに、最後は見たくねぇのかよ」

「勘違いすんじゃねぇ。オレはてめぇに付き合うためにこの城に入ったんじゃねぇ、フィオを守るために来たんだ」

ギルディオスは、右隣にある扉を指した。フィリオラの眠る部屋は、ロザリアがいる部屋の右側の部屋だった。
ああそうかいそうかい、とグレイスは体を起こした。立ち上がってからギルディオスを見下ろし、語気を強めた。

「お前なぁ、人のことを素人童貞呼ばわりするくせにそれはねぇだろ。お前みたいなのをな、超子煩悩っつーんだ」

「はぁ?」

ギルディオスが声を裏返すと、グレイスは意地の悪い笑みになる。

「だってそうだろ。フィフィリアンヌがお前の娘なら、その血縁のフィリオラも似たようなもんだろ?」

「まあ、な」

「だったら、いい加減に子離れしろよなー。きっと今頃、空の上でランスが呆れてるぞー」

くるっと背を向けたグレイスは、足取りも軽く歩き出した。立ち上がったギルディオスは、声を上擦らせる。

「そういうんじゃねぇ! オレはただ純粋に、フィルの子供らも好きなだけであってなぁ!」

「にしたって、肩入れしすぎは良くないぜぇ」

グレイスはにやつき、小走りに廊下を進んだ。ギルディオスは言い返してやろうと思ったが、堪えた。
廊下を進んだグレイスは、途中で立ち止まった。追いかけてこないギルディオスに振り返り、不満げにする。

「ほらほら、そこで追って来いよー。怒ったんだろー?」

「絶対に追わねぇ。てめぇみたいなのを追いかけるなんて絶対に嫌だ」

ギルディオスは、グレイスに背を向けた。がちゃがちゃと硬い足音を鳴らしながら、甲冑は遠ざかる。
グレイスは、赤いマントを羽織った背を見つめていた。未だに堕ちないギルディオスが、面白くなかった。

「そんなこと言うなら、地獄の果てまで追いかけてやるぞー。でもって、一度ぐらいは貞操を」

「奪われる前に、てめぇのをぶった切ってやらぁな。ていうかよ、惚れた女がいるんなら、まずはそっちに行けよ」

ギルディオスは、ロザリアのいる寝室を指した。グレイスは、にんまりとする。

「初夜の前に浮気をするのは常套じゃないか」

「あーもう…」

やってらんねぇ、と口の中で呟いたギルディオスは力なく廊下を進んだ。フィリオラの部屋の扉を開け、入った。
部屋の壁際に置かれたベッドで、フィリオラは眠りこけていた。ギルディオスが扉を閉めると、彼女は目を開けた。
眠たげな顔のまま起き、欠伸をかみ殺した。脱力し切っているギルディオスに、フィリオラは不思議そうに尋ねた。

「小父様。何かあったんですかぁ?」

「フィオ」

「へい?」

フィリオラは目を擦りながら、気の抜けた返事をした。ギルディオスはヘルムを押さえ、呟いた。

「…何があっても、グレイスの野郎にだけは惚れるな。お願いだから」

「解ってますよぉ。それに私が好きなのは、ギル小父様だけですもん」

くふふふ、と照れくさそうに笑ったフィリオラは、ベッドに横たわった。ギルディオスは、ヘルムから手を外した。
ベッドの上を見ると、フィリオラは目を閉じていた。穏やかな寝息を立て、また寝入ってしまったようだった。
ギルディオスは扉の前に腰を下ろし、笑った。このままじゃいけない、と思いながらも、嬉しいものは嬉しかった。
そして、参ったな、と気恥ずかしげに小さく洩らした。


扉の叩かれる音に、ロザリアはまどろみから目を覚ました。
ベッドから起き上がると、ふわりと傍らの少女も浮かんだ。同じように眠っていたのか、ロザンナは惚けている。
ロザリアが返事をする前に、扉が開いた。グレイスは、よぉ、と言いながら入ってくると、後ろ手に扉を閉めた。
グレイスは手にしていたランプをテーブルに置くと、ロザリアの前に立った。ロザリアは、彼を見上げる。

「浮気は終わったの?」

「なんだ、聞いてたのか」

グレイスが驚いてみせると、ロザリアは変な顔をした。

「聞こえるわよ。扉一枚隔てただけの会話なんて、聞こえないはずがないでしょ」

ランプの明かりが、二人の影を伸ばしていた。白い少女は光が透過しており、一層影が失せて幻のようだった。
グレイスはロザリアの座った位置と反対側に座り、身を乗り出した。ロザリアは身を下げたが、ベッドに留まった。
彼が身を乗り出すと、衣擦れの音がした。少しだけあった間が完全に詰まり、すぐ目の前に相手の顔が現れた。
平たいレンズはランプの光を撥ね、奥が見えなかった。暗がりのせいで、口元の表情すら窺えなくなっている。
頬に、手が触れた。ロザリアは緊張してしまい、身動きが出来なくなった。はっきり意識すると、ダメだった。
底の見えない灰色の目が、じっとこちらを映す。表情のなくなったグレイスは、どこか異様にも思えた。

「聞こえてたんなら、解ってるよな?」

飄々とした雰囲気も、子供のような明るさも、掴みどころのなさも消えていた。彼の声は、落ち着いている。

「オレは、ロザリアが欲しい」

鼓動が暴れ、胸が痛くなった。ロザリアの心中には、嬉しさと戸惑いと、恐ろしさと開放感が一気に押し寄せた。
不意に、冷たいものが体内をすり抜ける。ロザリアの体を通り越したロザンナが、二人の間に入り込んだ。
白い少女は、嫉妬と羨望の眼差しをロザリアに向けた。いくら魂を共有した存在でも、妬けるものは妬けてしまう。
ロザンナは、グレイスを見上げた。彼が表情を消しているのを見るのは、自分が死した直後以来だった。
魂の抜けたロザンナを抱いて泣き始めるまでの間の、絶望と悲しみに満ちたグレイスの目は、忘れたことはない。
だが、今は違う。ロザリアを手に入れたい欲望が漲っている。ロザンナはそれが羨ましく、そして、悲しくもなった。
体があれば、とは思った。だが、体があっても、もう違うかもしれない。グレイスは、年月と共に変わっている。
ロザンナは、グレイスを滅したい衝動に駆られた。手に入れてくれないなら逆に、と思ったが、無理なことだ。
元々の魔力も少なく、死した魂などでは生者の魂を引きずることは出来ない。それに、彼を恨んではいないのだ。
心の底から愛している。一時も忘れることはなく、死してからも思い続けていた、何よりも愛おしい呪術師だ。
ロザンナは恨みたい気持ちと愛情に挟まれ、魂が痛んだ。彼から与えられた魔力も、そろそろ限界のようだった。
すると、グレイスはロザンナに手を伸ばしてきた。グレイスは、魔力を込めた腕で白い少女を抱き締めた。

「空を忘れ、大地を離れ、時を見失い、光を受けぬ者よ。眠りの奥より、我は呼ぶ」

死体よりも温かく、氷よりも儚い手触りが確かにあった。グレイスは、ロザンナを胸に埋めた。

「その御魂に、安らぎと幸せのあらんことを。温かき器は我で在り、我が魂は汝を乞う」

次第に、少女の感触が弱まっていく。グレイスは呪文を中断してロザンナを見下ろすと、少女は服を掴んできた。
小さな手が、灰色の服を握り締めている。ロザンナは溢れ出してきた涙を頬に伝わせ、震えた声を出した。

「ずっと、ずっと、待っていたの。ずっと、ずっと、一緒にいたかったの。わたし、ずっと、だけど」

「ああ。オレも、長いこと待っていた。だから、こうしてやるんだ」

グレイスは、ロザンナに笑む。

「オレはな、ロザンナもロザリアも好きだ。だから、どっちもオレのものにするんだ」

「だけど、わたし、あなたのたましい」

ロザンナはそこまで言ったが、わなわなと手を震わせる。グレイスはロザンナの頭を撫でてやった。

「そうだ、喜べ。オレとお前は一つになるんだ。凄ぇだろ」

「いけないわ。グレイスは、あの竜の子とは違う。私は、あなたの中に入ったら、ずっと」

「おう、そうだ。ずうっと一緒だ。オレが死んでも分離しねぇように、強い魔法を掛けてやるから安心しろ」

「だけど、そんなことしたら、グレイスは」

「オレは平気だ。第一オレの魂は、レベッカの魂を造ったときに切って少し欠けてるんだ。丁度いいじゃねぇか」

「でも」

「大丈夫だ。心配なんてすんな。オレを誰だと思ってる」

グレイスは、ロザンナの顔を上げさせる。

「それに、まかり間違ってロザンナがオレの体を乗っ取ることになったら、それはそれで面白いじゃねぇか」

「…それは、大丈夫。私、あなたには絶対に勝てないから。きっと、そんなことにはならないわ」

泣き顔のまま、ロザンナは弱々しく笑った。グレイスはロザンナの額に軽く口付け、笑ってやる。

「そうそう。そうやって、ずっと笑ってな。それが一番可愛いぜ」

頷いたロザンナは、グレイスの体温を味わうように体を当てた。華奢な肩を、グレイスの手が包んだ。
別れを惜しんで抱き合う白い少女と灰色の呪術師の姿を、ロザリアは無性に悲しくなりながら、眺めていた。
勝手に、涙が滲んでくる。ロザンナの悔しさと嬉しさが魂を通じて伝わり、心臓がきつく締め付けられた。
グレイスは淡く光を放つロザンナを腕に納め、目を閉じた。数百年ぶりに起きた涙が、滑り落ちていった。

「我、汝を乞う。汝、我を乞え。神より与えられし御魂よ、我と汝の願いを受け、永久に重ならんことを」

光が、消えた。少女の影が失せ、グレイスの腕に隙間が出来る。光の粒子が浮かんでいたが、それも消えた。
グレイスは、胸を押さえた。魔力中枢がずしりと熱い。ロザンナに自分の魔力を与えたので、馴染んでくれた。
計算通りだ。まるで別人の魂同士を混ぜるのは過酷で激痛を生じるが、魔力の具合が近ければ痛みは軽減する。
魔力が同じであれば、尚更だ。ロザンナの意思もグレイスに向いていたこともあり、拒否反応はまるでなかった。
これで、もう離れることはない。生も死も肉体も魂も、全てを共有することこそ、ロザンナの願いを叶えた結果だ。
ふと、手の上に手が重なった。グレイスが目を開けると、声を抑えて泣くロザリアが、グレイスの手を握っていた。
グレイスはロザリアの手を両手で包み、涙に濡れた彼女の頬を舐めた。ロザリアは、途端に身をずり下げた。
生温い涙の味は、どこか血の味に似ていた。グレイスは真っ赤になったロザリアに顔を寄せ、囁いた。

「さぁて。まだ、答えを聞いてなかったな。ロザリア、お前はオレの所有物になる気はあるのか?」

「その前に」

ロザリアは、上擦りそうな声を押さえた。腰のホルスターを開けて拳銃を取り出し、かちり、と弾倉を回した。
グレイスの胸元に銃口を押し付け、きち、と引き金に指を掛けた。精一杯の虚勢を張り、ロザリアは笑った。

「まだ、決着は付いていないんじゃなくて?」

「お堅いこったな。んじゃ、きっちりと付けてやろうじゃないか」

グレイスは彼女の手から片手を外すと、銃の格好にさせた。その人差し指を、ロザリアの胸元に当てた。

「ばっぎゅーん」

「致命傷だわ」

ロザリアは、照れた笑顔になる。拳銃を下げ、ぼすん、と布団の中に放り投げた。

「私の負けよ」

「それでは約束通り、行かせてもらおうか」

グレイスは、ロザリアの両肩を掴んだ。ロザリアは抵抗することもなく、容易く押し倒された。

「早急すぎない?」

「このままでいるとさ、あのニワトリ頭が素人童貞ってうるせぇんだよ」

グレイスは顔をしかめ、右側の壁を指した。ロザリアはやけにおかしくなり、笑い出してしまった。

「何よそれぇ」

「あっ、笑うな、笑うんだったら言わなきゃ良かった!」

グレイスは慌てて声を上げたが、遅かった。ロザリアは感情が高ぶっているせいで、笑い転げている。
結局、ロザリアは笑い続け、何事もなく夜は終わった。グレイスは、自分のことだけに笑うに笑えなかった。
ロザリアの笑い声を聞きながら、グレイスは内側からも言われている気がした。言わなきゃ良かったね、と。
グレイスは情けなさに苛まれながらも、欲していたものを手に入れられた充実感に、満ち足りていた。
その感覚は、六百五十年前に感じていた感情、愛情に良く似ていた。




三ヶ月後。フィリオラの下宿先に、レベッカが訪ねてきた。
共同住宅である部屋を見たレベッカは、狭いですねー、と言ったが事実なのでフィリオラは言い返せなかった。
手狭な食堂兼居間で、フィリオラはレベッカと向かい合って座った。離れた位置に、ギルディオスも座っていた。
レベッカはエプロンのポケットから、二通の封筒を出した。灰色の封筒は、テーブルに並べられ、差し出された。
フィリオラは、自分宛の封筒を取った。便箋を取り出し、文面を読んだフィリオラは、素っ頓狂な声を上げた。

「ひゃあああっ!?」

「レベッカ。そいつの中身は?」

ギルディオスは大体の予想が付いたので、レベッカに尋ねた。レベッカはにこにこしている。

「はいー。御主人様とロザリアさんのー、結婚通知状ですー」

「…早ぇなおい」

予想通りだったので、ギルディオスは驚くこともなく言った。フィリオラは、どうしましょどうしましょ、と喚いている。
レベッカは短い足を揺らしながら、上機嫌に笑っていた。混乱しているフィリオラを無視し、ギルディオスに返す。

「なんでも御主人様はー、さっさとルーの血を薄めたいからなんだそーですー」

「んで?」

ギルディオスが聞き返すと、はいー、とレベッカは首をかしげた。

「ロザリアさんはー、先月から月のものが止まってますー。毎日、悪阻で苦しそうですよー」

「ぶはっ!」

ギルディオスは、たまらずに吹いた。これには、さすがに驚いた。展開が急激すぎて恐ろしかった。
フィリオラは、丸っこい目を限界まで見開いていた。驚きに次ぐ驚きで二乗になり、固まってしまっている。

「どれだけ…急いだんですか」

レベッカが説明しようとしたので、ギルディオスは慌てて遮った。これ以上、フィリオラを混乱させてはいけない。
ギルディオスは、自分への通知状を取った。封筒には、レベッカの字でギルディオスへの宛名が記してあった。
一見すれば、結婚の報告の手紙には見えなかった。むしろ、誰かの葬儀や命日のお知らせのようだった。
この分だと、フィフィリアンヌや伯爵の元へも届けられたはずだ。さすがにフィルも驚いただろうな、と思った。
ギルディオスは封筒を開けずに、ぽいっとテーブルの上に戻した。普段と変わらぬレベッカが、少し不思議だった。

「なぁ、レベッカ。お前、グレイスがああなって、寂しいとかはねぇのか?」

「あるかもしれませんけどー、ありませんー」

レベッカは、上目に甲冑を見上げた。

「それに私はー、御主人様の一部みたいなものなんですー。なのでー、御主人様が幸せだと私も幸せなんですー」

「そうか。そうだよな」

「はいー」

レベッカは、こくんと頷いた。ギルディオスはその説明で納得してくれたようで、それ以上は尋ねてこなかった。
狭い窓から、外を見てみた。旧王都の町並みは、昼でも蒸気と煙に満たされ、視界はあまり良くなかった。
レベッカは街の景色を眺め、主と同化した白い少女のことを思った。彼女は唯一、グレイスに呪いを掛けた女だ。
ロザンナの存在は、六百五十年以上もグレイスの心を占めていた。恋とは名ばかりの、強烈な呪いではないか。
そして、その呪いは来世であるロザリアにも継続され、遂には果たされた。こうなると、宿命とすら言えよう。
レベッカは胸の中心、人造魂の意思を受けている核石に意識を向けた。魂の土台には、主の魂が使われている。
だから、多少はグレイスの思念を読み取ることが出来る。レベッカはここ三ヶ月の、主の思考を思い起こた。
長年に渡るロザンナの呪いから開放されて、念願であったロザリアを手に入れて、とても嬉しそうだった。
だが彼は、新たな呪いを受けた。妻に執着を、いや、愛着を持ち始めたのだ。そのせいで、無謀さが弱まった。
夫としてはいい傾向なのだろうが、レベッカとしては面白みに欠けた。主から、過激な部分が消えるのは物寂しい。
それでも、幸せではある。家族というものをまともに知らなかったグレイスが、ようやく手に入れた家族なのだから。
フィリオラとギルディオスの会話を聞き流しながら、レベッカは笑った。それは、グレイスの表情に似ていた。
遠くに見える灰色の城は、明るい日差しの中にそびえていた。




悠久を長らえる呪術師の心を占めてやまなかった、白き少女の呪い。
気の遠くなるほどの年月を超えて、魂の転生と輪廻を経て、ようやくそれは成就する。
人ならざる彼が探し追い求めた先にあったものは、人並みの幸せだった。

愛情は、何にも勝る快楽なのである。






05 9/5