ドラゴンは笑わない




緋色の刃



メアリーは、涙を堪えていた。


きつく握り締めた拳が痛く、手のひらに食い込んだ爪が骨を押している。息を詰めて、嗚咽を押し殺していた。
視界は水で歪んでいた。破れてしまいそうなほどに噛んだ唇からは、塩気のある悲しみの味がしていた。
目の前の墓標には、イリーサ・コウザ、と名が刻んである。広大な砂地を背景にして、影を伸ばしていた。
無機質なそれは、母が死んだ証だった。長年患っていた病が悪化して、唐突に命を落としてしまった。
家に帰る、ほんの少し前に息絶えていた。誰もいない狭い家の中で死した寂しさを思うと、余計に悲しくなる。
背後にいる男は、僅かばかりも表情を変えていない。武骨な顔立ちには、死を悼むような色は見えなかった。
それが、恐ろしかった。メアリーは父親の影を横目に見ていたが、すぐに目を逸らした。傍にいたくもなかった。
男は、使い込まれた重たい甲冑に身を固めていた。これを脱いだ場面など、数えるほどしか見たことがない。
ガズィール・コウザ。それが、男の名だ。ほとんど家に帰ってこないので、幼い頃は父親だとは解らなかった。
家にはいつも、母だけがいた。穏やかな物腰とゆるやかな雰囲気は、雑然としたダルバドに似合わない人だった。
本を読んでくれて、字の読み書きを教えてくれて、料理も教えてくれて、病弱ながらも精一杯愛してくれた。
記憶のほとんどが母だ。父のものなど、数えるほどしかない。だから余計に、メアリーは空虚さを覚えていた。
これから、この男と生きていくことになる。そう考えただけでぞっとした。生きていけるかさえも、不安になった。
メアリーは手の甲で、涙を拭った。浅く呼吸し、気を落ち着けた。これからは、前以上にしっかりしなくては。
背後で、音がした。メアリーが見上げると、ガズィールは腰から剣を抜いていた。刃が、西日に染まっている。
ガズィールはメアリーの前に出ると、墓の前に剣を突き立てた。ざしゅっ、と砂が剣を飲み、半分ほど埋まる。
そのまま、男は動かなかった。夜が来るまで、石のように固まっていた。メアリーは、ただその場に立っていた。
それが、彼なりの悲しみの表し方だとメアリーが知るのは、大分後になってのことだった。




翌朝。メアリーは、母のいない空しさの中で目を覚ました。
優しい声もせず、のんびりとした足音もしない。ベッドから体を起こして、朝日の差し込む窓を開け、外を眺めた。
同じように、古びて狭苦しい家が連なっている。水を汲みに行く子供達の足音が、砂っぽい道を通り過ぎていく。
メアリーは乱れた髪を掻き、ちらりと鏡に目をやった。生気のない顔をした少女が、長い黒髪をいじっている。
褐色の頬には、涙の筋が残っていた。母に似た顔は悲しみを呼び起こしたが、涙は昨夜のうちに枯れ果てた。
メアリーは手を伸ばし、ベッド脇のタンスの上から櫛を取った。不器用な手つきで梳くと、少しまともになった。
家の中から、物音が聞こえていた。聞き慣れない、金属と金属の擦れ合う硬い音が、居間から流れてくる。
ベッドから下りたメアリーは、扉を開けた。居間は家具が押しやられ、床には武装を広げた男が座っていた。
掘りの深い褐色の横顔は、手元だけを見ていた。メアリーは部屋を出ると、音を立てないように扉を閉めた。
無言のまま、ガズィールは幅広の剣を眺めていた。鏡のように光る銀色の刃が眩しく、異様な美しさを持っていた。
メアリーが突っ立っていると、男は目を向けた。足元に置いていた短めの剣を滑らせ、娘の足元に向かわせた。
がらがらと回転しながら、鞘ごと剣が滑ってきた。それは、丁度メアリーの前で止まり、動きを止めた。
一体、これをどうしろと言うのか。メアリーは不思議に思い、簡素な鞘に納まっている剣を見下ろしていた。
ガズィールは自分の剣を取り、立ち上がった。腰のベルトに鞘を差し込んで剣を納め、娘に背を向けた。

「来い」

メアリーは、ようやく父の声を聞いた。低く掠れた、耳に残る音だった。父は、外へ通じる扉を開けていた。
背を向けたまま、こちらを見ようともしない。メアリーはそれを不愉快に思いながらも、剣を拾って抱えた。
大したことのない大きさのものだったが、子供にとっては重たい。剣を抱えた少女は、ゆっくりと歩き出した。
娘が追いつくより先に、父は外に出ていた。人通りの増えた通りを、足早に歩いて先へと進んでいってしまう。
メアリーは、必死に父の背を追った。だが、いつまで経っても追いつかず、距離は少しも縮まることはなかった。
荒涼とした砂漠の街を、太陽が見下ろしていた。


歩いて歩いて辿り着いた場所は、街外れの廃墟だった。
遠い昔に起きた戦いで破壊されて、そのままになっている宮殿の名残だった。瓦礫は、砂に埋もれていた。
朽ちて崩れた石壁の間を抜けると、僅かな緑地が現れた。泉を中心にして、背丈の短い草が生い茂っている。
ガズィールは、緑地に踏み入る前に足を止めた。メアリーはその背後で止まり、疲れ果てながら父を見上げた。
男は背が高く、彼女はその足ほどまでしか身長がなかった。表情はおろか顔も見えず、まるで壁のようだった。
ガズィールは腰の鞘に手を沿え、柄を握り締めた。鍔を外すと、涼やかな金属音と共に、滑らかな刃が抜かれた。
ぎらりと光った剣に、メアリーは目がくらんだ。消え入りそうな声で、父は呟いた。抜け、とだけ聞こえた。
メアリーは剣を下ろすと、力の抜けた腕で剣を引き抜いた。だが、剣先は砂に埋まり、持ち上がりもしない。
ガズィールは、砂を踏み締めた。メアリーが剣の重たさに苦労していると、男の影は、素早く前にのめった。
どしゃっ、と傍らの砂が斬られた。何が起きたのか解らず、メアリーは呆然としていたが目の前の父に気付いた。
父の剣は、メアリーの足元に埋まっていた。間を置いてから、ようやく、斬り付けられた実感が沸いて来た。
メアリーは、慌てて身を下げた。ガズィールは体を起こすと同時に剣を抜き、また踏み込むと同時に斬り付けた。
ひゅっ、と空気が切れた。逃げ腰になったメアリーの、足のすぐ隣に振り下ろされ、剣がずぶりと砂に埋もれた。
男は表情を変えない。それどころか、何も表情がない。メアリーは強い恐怖を感じ、必死になって逃げ出した。
だが、逃げる前に父は剣を振る。髪の先を切られ、砂の黒髪が散った。声を上げようにも、喉が震えなかった。
メアリーは剣を引きずり、廃墟の中を逃げた。心身ともに疲れ果てていたが、死にたくなくて逃げ続けた。
気付くと、夜になっていた。それが解ったのは、倒れた際の砂の表面が、ひんやりと冷たかったからだった。
乾いた砂が、体に痛かった。


気が付くと、東の空が輝いていた。
メアリーは疲労が濃く残る体を起こし、髪に付いた砂を払った。影を感じて背後を見上げると、それは父親だった。
ぎょっとして飛び退いたメアリーを、ガズィールは無表情に見下ろしていた。疲労など見えず、平然としている。
熱と砂の混じった風が、吹き付けてきた。メアリーは足を引きずって後退し、転がしてあった剣を拾った。
持ち上げようとしたが、やはり無理だった。それを悔しく思いながら柄を握っていると、男は己の剣を取った。

「お前は」

父の声に、メアリーは身を固めた。ガズィールは、鞘に収まった剣を腕に抱いた。

「今年で、いくつになる」

「八つ」

震える声でメアリーが答えると、そうか、とガズィールは顔を伏せた。

「早いな」

「何が」

「全部がだ」

ガズィールの鳶色の目が、メアリーに向いた。メアリーはびくりとしたが、その目に昨日のような鋭さはなかった。
父は、それ以上は何も言わなかった。単語だけの会話は、これきりだった。だが、内容は頭にこびり付いた。
メアリーは持ち上がらない剣を握り、父を見た。なぜ、母はこの男を愛したのか、その理由が急に知りたくなった。
恐ろしく寡黙なこの男の、どこに焦がれたのか、まるで理解出来なかった。そして、想像も付かなかったからだ。
それからメアリーは、父と毎日のように戦った。幼い体を酷使するうち、父の斬撃を避けるうちに解ってきた。
攻撃をする間合い、避ける間合い、魔力を用いた腕力増強の感覚、そして、父のことが。


ある夜。父は、やはり単語だけで過去を話してくれた。
今から十年以上前に、傭兵であったガズィールは、帝国の貴族の娘であったイリーサと出会った。
ガズィールは、イリーサの一族を滅するように貴族から依頼され、傭兵部隊として彼女の屋敷に襲撃を掛けた。
戦い慣れたガズィールらによって、すぐに屋敷の人間は全て殺された。用心棒も数人はいたが、敵ではなかった。
行き掛けの駄賃に、とガズィールらは家捜しを始めた。貴族だけあり、宝石などの財産はごろごろ見つかった。
そして、衣裳部屋へとやってきたガズィールは、身を隠していたイリーサを見つけた。声を殺して、泣いていた。
最初は、どこかへ売ろうと思って引きずり出した。見かけも可愛らしかったし、娼館に売れば金になる、と思った。
だが彼女は、ガズィールが自分を助けに来たのだと思い、必死に縋ってきた。泣きながら、感謝の言葉を述べた。
ガズィールは、このまま信用させるのも手だ、と思ってイリーサを抱き締めた。それで、彼女は安心したようだった。
それから、ガズィールは彼女を連れ歩いた。雇い主には死んだと言い、仲間には近くで買った女だと説明した。
ガズィールはイリーサを娼館に売るため、王国に入った。その頃には彼女も、ガズィールの正体に気付いていた。
肉親を殺した男であると察しているようだったが、何も言ってこなかった。それどころか、親しげに笑っていた。
王国に連れてきてくれてありがとう、一緒に居てくれて嬉しい、とすら言った。ガズィールは、それに答えなかった。
答えられなかったのだ。これから売ろうという女に情を寄せても、今更信用を得ても何にもならないのだから。
ダルバドまでやってくると、イリーサは言った。私はあなたを殺そうと思ったわ。でも殺せなかったの。なぜだと思う。
解らない、とガズィールが答えるとイリーサは笑った。あなたが私を殺さなかったからよ。だから、殺せないの。
ガズィールは、やはり答えられなかった。イリーサは笑っている。ありがとう、こんなに遠くに来られて嬉しいわ。
私は、それだけで充分なの。帝国の外に出て、色んな場所に行って、ずっとあなたと居られただけで充分なのよ。
その時に、ガズィールの心は決まった。イリーサを、自分の妻にすると決めた。いつのまにか、愛していたからだ。
イリーサは、ほとんど表情を変えないガズィールのことを誰よりも理解し、誰よりも思いやり、愛してくれた。
幸い、イリーサは黒人だったのでダルバドでは違和感がなかった。そして二人は結婚し、同じ家で暮らし始めた。
彼女が身篭った頃、ガズィールは戦いに出た。帝国と王国の紛争に手を貸して、金を荒稼ぎするためだった。
それからかなりの間、ダルバドに帰れなかった。戦いが長引いたのと、帝国軍から目を付けられたせいだった。
イリーサの一族を殺したために、三年ほど帝国軍に追われた。家に帰れば、妻が危ないのは目に見えていた。
事態のほとぼりが冷めてから、ガズィールはやっとダルバドに帰った。その頃には、メアリーは成長していた。
なぜその名にしたのか、とガズィールが尋ねるとイリーサは、この名はあなたが私に付けた偽名だもの、と言った。
それからも、ガズィールはよく家を空けた。金を稼ぐために、帝国の目を妻から遠ざけるために距離を置いていた。
そして。数年ぶりに帰ってきたら、妻が死んでいた。その傍らには、泣きじゃくっているメアリーが立っていた。
そこまで話して、男は黙った。青白い月明かりが冷え切った廃墟と砂漠を包み込んでいて、静まっていた。
メアリーは膝を抱え、父の話を反芻した。小さい頃の、母との記憶が蘇った。一度だけ、母に言ったことがある。
母さんはどこかのお姫様だったから勉強が出来るんだね、と。母は笑い、そうかもしれないわね、とだけ答えた。
ガズィールは、穏やかな目をしていた。あらぬ方向を見つめる娘を見下ろしていたが、ぽつりと呟いた。

「死ぬ気はないんだな」

メアリーは頷く。ガズィールは、がちりと自分の剣を抜いた。

「ならば戦え。オレはお前を守らない」

「解ってる」

メアリーは振り向き、父を見上げた。ガズィールは、剣を前に突き出した。

「助けもせん。それでいいな」

「うん」

青白い刃が、すぐ傍にあった。メアリーは長い髪を持ち上げ、父の剣に引っ掛けた。父の意図はもう解る。
生きて欲しいから、妻の血を連ねて欲しいから、戦わせていたのだ。生きろ、と言う代わりだったのだ。
髪を切ろうとしている娘を、ガズィールは見下ろしていた。メアリーの顔立ちは、若い頃の妻に良く似ていた。

「死にたくなければ、強くなれ」

ガズィールは続ける。

「生きたければ、強くなれ」

ざっ、と軽い音がし、娘は髪を切り捨てた。メアリーは髪束を放り、砂に散らした。母は、この髪が好きだった。
その髪は、砂を黒く染めている。黒髪は風に広がり、すぐに散らばった。メアリーは、ざんばらの髪を撫でた。
ガズィールは剣を下ろし、手を伸ばした。骨張った厚い手をメアリーの後頭部に回すと、自分の方に引き寄せた。
父は、何も言わなかった。娘も、何も言わなかった。ガズィールが娘を抱いたのは、これが最初で最後だった。
その数週間後、ダルバドは帝国に襲われた。




五年が過ぎ、幼かった娘は成長した。
十三歳となったメアリーは、同年代の少年よりも余程強かった。父との修練と己の才覚で、実力を付けていた。
だが、父娘はダルバドにはいなかった。ダルバドは帝国の襲撃と王国の応戦で壊滅し、廃墟となったのだ。
移民団として各地を転々とし、今は王都に向かっていた。道中では、帝国軍と遭遇したりと、ろくなことはなかった。
ガズィールは、以前にも増して寡黙になった。必要以上は話さないし、長話をするのはメアリーだけになった。
ある日、移民団は竜の谷と称される山間で休息を取っていた。小さな村に身を寄せて、長旅の疲れを癒していた。
その村は、竜王都近くにあった。東王都とも近い場所だった。森に覆われ、木々に守られている場所だった。
メアリーは、物珍しさで村の中を歩き回っていた。父が見繕ってくれた甲冑を身に着けて、剣を腰に提げていた。
手狭で小さな家々は、ダルバドにどこか似ていた。砂に覆われていないという、明らかな違いはあったが。
いくつかの家を過ぎ、奥まった家の前に出た。朽ちかけた家は、石で出来た壁をツタと苔に覆い尽くされていた。
その家の扉が、開いた。メアリーは、住人だろう、と思って身構えずにいた。扉の奧から、男が現れた。
ガズィールと年齢が近そうな、屈強な男だった。農民ばかりの山奥には似合わない、鋭い眼差しをしている。
男は家から出てくると腰の鞘から、がちり、と幅のある剣を少し抜いた。メアリーを、上から下まで眺める。

「あの女かとは思ったが、いやに小さいな。娘か」

「何が?」

メアリーがきょとんとすると、男はしゃりっと剣を引き抜いた。

「そうか、お前はあいつとあの女の娘だな。一緒にいなくなったと思ったら、随分といい思いをしたみてぇだな」

ただならぬ雰囲気に、メアリーは後退した。メアリーが剣を抜いて構えると、男はにっと笑った。

「ガズィールの野郎は賢くねぇな。綺麗なツラだってのにこんなことさせやがって。傷でも付いたらどうすんだ」

男は、メアリーとの間を詰めた。メアリーは振り下ろされた男の剣を受け止めたが、止まってしまった。
手が、胸の甲冑を引き剥がそうとしていた。男の指が内側に押し込まれて成長途中の胸が潰され、痛かった。
一瞬、何がなんだか解らなかった。男の剣が上げられたかと思うと手首を押さえられ、背中から転ばされた。
重量が、メアリーの上にのしかかってきた。メアリーは押し返しながら膝を曲げ、男の腹に力一杯叩き込んだ。
男はうめいたが、退くことはなかった。それどころか更に体を寄せ、甲冑を剥がそうと手をねじ込んできた。
メアリーは胸の痛みと恐ろしさで、声が出なかった。膝を上げて間を開けていたが、あまり長く持ちそうにない。
せめて、傷は負わせなければ。そう思い、押さえられた手首を曲げようとしたその時、影が頭上に現れた。
影は、男を一気に持ち上げた。メアリーは男の手を跳ね除け、身を反転させた。すると、背に何かが当たった。
見上げると、ガズィールが立っている。珍しく表情が違い、不機嫌に見えた。父は、男を乱暴に放り投げた。
地面に転げ落ちた男は姿勢を直したが、立ち上がる前に顔を歪めた。ガズィールは男を見下ろし、静かに言う。

「久しいな」

「十五年ぐらいぶりか、ガズィール? あの女はどうなった」

下卑た笑みを浮かべ、男は立ち上がった。ガズィールはメアリーの前を塞ぐように立ち、剣を抜いた。

「答える義理はない」

「その娘はお前とあの女のガキだな、そうだな? いい具合に育ったじゃねぇか、五十枚でどうだ」

ガズィールが黙っていると、男は嫌そうに目元を歪めた。

「変わらねぇなぁ、お前は。オレと同じような悪党だったくせに、どうでもいいところだけきっちりしてやがる」

「必要な部分だけだ」

ガズィールは、足を広げた。右足を前に出して踏み出したかと思うと剣を振り、男の首筋でぴたりと止めた。
銀の刃が、皮を裂いていた。ついっと細長く赤が伝い落ち、剣を汚していた。ガズィールの声色は、変わらない。

「堕ちたな、ディザス」

音もなく、剣が引かれた。ガズィールは服の袖で血を拭うと、腰の鞘に剣を納めた。娘の腕を取り、立たせる。
ディザスという名の男が唸ったが、メアリーはそれを見なかった。父によって、移民団の方へと向かわされた。
背後からは、戦いの音が聞こえてきた。鋼のぶつかる硬い音、怒り狂った叫び声が山間を騒がしくさせている。
メアリーは家々の間を歩きながら、次第に起こる嫌悪感に苛まれた。欲望の滾った男の顔が、頭から離れない。
払拭しようとしても、消えなかった。胸にめり込んできた指の感触も消えず、鈍く重たい痛みはまだ残っていた。
無性に泣きたくなった。犯されそうになったことよりも、自分の力が通用しかなかったということが悔しかった。
メアリーは荒く歩きながら、嫌悪感と腹立たしさを押し込めた。道の奥には、移民団の寝床であるテントがある。
そこに帰ろうかと思ったが、足を止めた。修練でもしないと、気が紛れない。振り返ると、大きなものが立っていた。
見上げると、それは父だった。返り血は、全く浴びていなかった。あの男の声は、もう聞こえてこなかった。
殺したのか、とメアリーは思った。ガズィールは片手を上げてみせた。表情は変わらないが、声は得意げだった。

「堕ちた輩は、片手で充分だ」

メアリーはそれがいやに嬉しかったが、笑えなかった。鍛えられたのに、勝てなかったことが情けなかった。
ガズィールは俯いた娘の頭に、手を置いた。決して撫でることはしなかったが、温かく大きな手だった。
父は、メアリーを見下ろしていたが、何もしなかった。言葉を掛けることも腕を回すでもなく、ただ立っていた。
ガズィールは、何をすれば有効なのか知らなかった。いくら考えても、慰める手立てなど見当たらなかったのだ。
しかしメアリーにとっては、それがありがたかった。慰められても、悔しさが紛れるはずがないのだから。
父と娘は、しばらくそのまま立ち尽くしていた。




その後。メアリーは、移民団と共に王都に辿り着いた。
王国の首都は、城壁に取り囲まれていた。家々もその中に押し込められていて、ダルバドよりも窮屈に思えた。
王国軍から割り当てられた移民団の住居は、裏通りだった。だがそれは、貧民街と差し支えのないのものだった。
それでも、居場所をくれるだけありがたかった。帝国とダルバドから離れれば、帝国軍に脅かされずに済む。
初めて都会らしい都会にやってきたメアリーは、浮かれていたが抑えていた。また、前のようにはなりたくない。
しかし、好奇心だけは抑えられなかった。移民団からあまり離れないようにしよう、と思いながら、裏通りを抜けた。
狭い道を抜けて広い通りに出た。気を張っていたが、楽しいものは楽しく、少々浮かれた足取りで進んでいった。
王宮に近付くに連れて、次第に家が立派になる。板張りからレンガ造りへ、二階建てから三階建てに変わった。
更に進むと、広大な屋敷の前に出た。塀に囲まれた重厚な屋敷は前庭を持っており、花壇には花が咲いている。
鉄柱で造られた大きな門の間から、少し中を覗いてみた。中がどうなっているのか、まるで想像も付かなかった。
きっと貴族か何かの屋敷だろう、とメアリーは背を向けた。離れるつもりで歩き出したが、足が勝手に塀に沿った。
メアリーは自己嫌悪と好奇心の狭間でぐるぐるしていたが、少しくらいならいいだろう、と思ってそのまま進んだ。
角を曲がると、塀の下に小さな扉があった。裏口のようで、人一人がやっと通れるほどの大きさしかない。
スイセンの家紋が浮き彫りにされた、鉄製の扉だった。メアリーがそれを眺めていると、突然、内側から開いた。
ばん、と開けられた扉の中から、剣を背負った少年が転げ出てきた。ずしゃっ、と膝を擦って勢いを止める。
独りでに扉は閉まり、かしゃり、と内側で鍵の動く音がした。少年は扉を見つめていたが、ぐっと拳を握る。

「いよっしゃ!」

メアリーがぽかんとしているとと、少年は土を払って立ち上がった。その身長は、見上げるほどだった。
脱色した薄茶の髪の少年は、メアリーを見下ろした。メアリーが身構えていると、彼は得意げな様子で笑う。

「いやな、あそこから出るのは面倒なんだよ。親父の趣味で、魔力感知式の機械がごろごろしてんだ」

ここはどんな家なんだ。メアリーは呆気に取られ、塀を見上げた。少年は、大きな剣を背負い直す。

「だが、オレに突破されるようじゃ、親父も大したことねぇなぁ」

「あんた、何なの?」

ようやく、メアリーは少年に尋ねた。少年は、ああ、と返して塀の中を指す。

「ここの次男。そうか、あんたは移民かなんかだな。ここらの人間で、オレんちのことを知らねぇのはいねぇもんな」

少年は、メアリーが背負っているものに気付いた。身長ほどもあるバスタードソードが、背に乗せられている。

「あんた、剣術やんのか?」

「まぁ、うん」

あまり親しくする義理はない、と思い、メアリーは素っ気無く返した。少年は自分の剣を指す。

「んじゃあさ、オレと手合わせしてくれよ! お師匠さんとばっかりだったから、他の人ともやってみたかったんだ!」

「けど」

メアリーが渋ると、少年はぐいっと腕を掴んだ。振り解こうとしたが、がっちりと腕を握られていて解けなかった。
そのまま、メアリーは少年に引きずられいった。あれよあれよという間に王都を抜け、城壁の外に出てしまった。
逃げなければならない、と思っていたが、ついに逃げられなかった。


夕方になって、メアリーは痛む腕を押さえながら歩いていた。
王都の外で、剣の修練に付き合わされた結果だった。予想以上に彼の腕力が強く、腕がまだ痺れていた。
薄暗い裏通りを歩きながら、メアリーの剣の腕を素直に感心していた少年の姿と、修練の様子を思い起こした。
少年の名は、ギルディオス・ヴァトラスと言った。メアリーより年上の十七歳だったが、かなりの腕だった。
身長も体格も腕力も技能でも、勝てる要素はなかった。事実、一度も勝てないまま、帰ってきてしまった。
メアリーはそれが悔しかったが、どうにも出来なかった。馬鹿にされた気分だったが、当たるものも相手もいない。
気持ちを持て余しながら、メアリーは家に戻ってきた。ダルバドの家よりも小さな家には、明かりが付いていた。
扉を開けてすぐの部屋に、ガズィールが座っていた。いつかの朝と同じように、自分の甲冑や剣を広げている。
だが、様子は前と違っていた。新しい傷が腕に出来ていて、布が巻き付けられている。戦ったのは明白だった。
メアリーがそれを言おうとすると、ガズィールは左腕を上げた。痛みもあるはずなのに、平然とした様子で言う。

「大したことはない。すぐに治る」

「でも、ここは王都だよ。どこの誰にやられたのさ?」

メアリーは、変な顔をした。戦場ならともかく、こんな都会に父ほどの剣士を脅かす人間がいるとは思えなかった。
ガズィールは一言、気にしなくていい、とだけ言った。メアリーは、それ以上問い詰めることもなく、剣を置いた。
ごとん、と壁に立てかけられたバスタードソードは、鞘が汚れていた。ガズィールは娘の横顔に、呟いた。

「誰かとやり合ったのか?」

「一度も勝てなかったけどね」

悔しげに言いながら、メアリーは甲冑を外した。重たい装甲を床に放ってから、乱暴に椅子に腰掛ける。

「あんな相手、初めてだよ。でかいくせに動きが速くて、間を詰められなかった。悔しいったらありゃしない!」

「そいつは良かったな」

「なんでだい! あたしは負けたんだよ、いいわけがないじゃないか!」

メアリーが声を荒げると、ガズィールは少しだけ目を上げた。

「手を抜かれなかったんだろう。いいことじゃないか」

「そう、なのかい?」

「そうだろう。手を抜かれたら、お前は余計に怒るだろうからな」

ガズィールは、娘を見上げた。成長するにつれて、イリーサの面影が濃くなってきている。

「お前は、そういう人間だ」

「まぁ、そりゃあねぇ」

メアリーは、壁に立てかけたバスタードソードに目をやった。鞘には、乾いた草と泥が少し付いて汚れている。
ギルディオスとの戦いは、とても悔しかった。懐に飛び込むことも出来ず、ただ逃げていただけだった。
何度も斬ろうとしたが、その前にかわされた。大柄なのに俊敏なギルディオスが、羨ましくもあり憎らしかった。
メアリーがいくら鍛えても手に入れられない破壊力を、最初から持っている。男と女は、こうも力に差があるのか。
目を下に向けると、張り詰めた胸が突き出ていた。こうして体が丸くなってくるのも、戦いには邪魔になるだけだ。
なぜ、男に生まれなかったのだろう。男ならば妙な下心を向けられることもないし、こんなに悔しくないはずだ。
メアリーは、短い髪を掻き上げた。もう少し、髪を切り詰めてしまえば、見た目だけは男に近づけるかもしれない。
力も何もかも敵わないのであればそれぐらいは、と思った。外からは、ぱたぱたと屋根を叩く小さな音がしていた。
暗くなった窓の外を、縦の線が走って降り注いでいる。雨は徐々に勢いを増して、次第に激しくなり始めた。
砂漠には降らないので、物珍しかった。王都に注ぐ雨はどこか色が重たく、鉛色の水が世界を覆っていた。
まるで、行く末を隠しているかのようだった。







05 9/8