ドラゴンは笑わない




傷の絆




その日の夕方。王国軍は帝国軍の猛攻を受け、劣勢に追い込まれていた。
戦場の東側は、幅の広い川が流れていた。そこだけ兵の配置が手薄だったため、ここぞとばかりに襲われた。
傭兵部隊は、帝国軍の前線を散らしていた。ギルディオスは普段通り兵を薙ぎ払っていたが、一人ではなかった。
彼女は、言われたとおりに背中を守っていた。盾を失って緩んだ左側も、背中の真後ろも的確に援護していた。
呼吸もぴたりと合い、ギルディオスの動きに合わせて戦っていた。よって二人は、普段以上の戦果を上げていた。
気が付くと、周囲には何も生き残ってはいなかった。ギルディオスとメアリーの周りだけ、静寂が訪れていた。
血と臓物の散る地面を見下ろしていたギルディオスは、背後に向いた。メアリーは、鳶色の目を左右に巡らせる。
徐々に足を下げたメアリーは、彼の背に己の背を合わせた。ギルディオスは一瞬驚いたが、振り向かなかった。
戦いの喧騒が、空の下を満たしている。双頭のワシが縫い付けられた帝国の軍旗が、足元で千切れている。
メアリーは、帝国軍旗に視線を落とした。それに重なるようにして、ぐしゃぐしゃになった王国軍の前垂れがあった。
有翼の獅子の王国軍旗と双頭ワシの帝国軍旗は、唐突に貫かれた。ざしゅっ、と金糸が散り、刃の血が染みる。
見ると、ギルディオスがバスタードソードを突き刺している。軍旗から剣を抜くと、彼は彼女の背から離れた。

「気ぃ取られてんじゃねぇ」

「ごめん」

平謝りしたメアリーを置いて、ギルディオスは駆け出した。その先には、乱されていない帝国軍の前線があった。
メアリーはギルディオスを追おうとして、足を止めた。藍色が、視界を掠った。だが、辺りには誰も生きていない。
何かの影が落ち、地面を暗くさせている。背後を見上げると、夕暮れの空の一部が夜と化し、藍に染まっていた。
それは、良く見ると人間だった。王国軍の上位軍人の軍服を着ていて、藍色のマントを羽織った魔導師だった。
その顔は、ギルディオスと同じだった。まるで、鏡で映したかのようだった。上位軍人の男は戦場に舞い降りた。
メアリーが何かを言おうとすると、上位軍人の目はメアリーを通り越した。戦場を駆ける彼の背で、視線が止まる。
ギルディオスの背を見つめ、なるほどな、と無表情ながらも可笑しげに言った。彼はメアリーに背を向け、呟く。

「お前の雇い主に伝えておけ。あれは私でなく、愚かなる片割れだと」

「あんた、誰?」

メアリーが訝しむと、上位軍人は空を仰いだ。

「さぁてな」

メアリーが更に尋ねようとすると、藍色の影は浮いた。ばさり、と鳥の羽ばたきに似た音がし、マントが翻る。
宙に浮いた上位軍人は姿を薄らがせ、ついには見えなくなった。メアリーはすぐさま背を向け、駆け出した。
離れた場所で、ギルディオスが喚いている。遅ぇんだよ、と腹立たしげに叫びながら手近な兵士を叩き殺している。
メアリーは彼の元へ駆けながら、一度後方を見た。藍色の姿はどこにもなく、彼が消えた空間も至って普通だ。
あれは誰なのだろう。そしてなぜ、あのことを知っているのか。不思議に思いながら、メアリーは前線に向かった。
再び盾となるために、彼女は彼の背を追っていった。


夜になり、戦況は悪化したまま戦闘は収束した。
王国軍第三部隊の動きが鈍いため、王国軍の本陣を攻め込まれた。辛うじて守ったが、被害は大きかった。
何が起こっても、戦況は覆らない。確信のある諦めが、王国軍の本隊だけでなく傭兵部隊にも広がっていた。
野営地で火を囲んで食事を摂る傭兵達は、言葉少なだった。ギルディオスとメアリーも、更に険悪になっていた。
そこに、マークの姿はなかった。今朝から戦場にも野営地にもいなかったので、あまり気にはならなかった。
夕食を終えたギルディオスは、さっさと眠るべくテントに向かっていた。彼女との会話がないと、いやに疲れる。
背中合わせで戦うと恐ろしく効率が良く、やりやすかった。体力も余っているはずなのに、気力が削げていた。
メアリーも同様のようで、あまり浮かない顔をしていた。言い寄ってくる男達をあしらう文句にも、覇気がなかった。
ギルディオスは彼女を窺ったが、すぐに顔を逸らした。悪いのはメアリーなのだ。こちらが折れることもない。
そう思いながら、テントに向かっていった。薄暗い中に張られているテントは大きく、僅かに幕が揺れている。
ずかずかと歩み寄り、乱暴にテントの入り口をめくり上げた。するといきなり、目の前に白いものが突き出された。
良く見ると、それは文書が書き記された紙だった。王国軍の印が右下に押されているので、公式文書のようだ。
ギルディオスが下がると、その紙は下げられる。紙を持っていたのは、黒い外套に身を包んだ眼帯の男だった。
マークは文書をぴらぴらさせ、実に楽しそうに笑っている。無愛想な彼が、これほど楽しげなのは珍しかった。

「ギル。やっぱり、お前は青いぜ」

「その紙、なんだ?」

むっとしながら、ギルディオスは文書を指した。マークはくるくると紙を丸め、その筒で彼の背後を指す。

「その前に、メアリーを呼んできな。二人ともいなきゃ話にならん。情報料は銀貨二十枚でどうだ?」

「ダチに金をせびるのか、お前は」

ギルディオスが嫌そうにすると、マークは意地悪く言う。

「だったらお前は、ずっとこのままでもいいんだな? いっそのこと、メアリーに殺されちまえ」

「解ったよ、呼んでくりゃいいんだろ!」

言い返したギルディオスは、メアリーの元へ駆け出した。彼女は、ぼんやりとしながら夕食を摂っていた。
ごうごうと焚かれる炎を映した鳶色の目は、何も見ていなかった。その横顔は少し悲しげで、寂しそうでもある。
ギルディオスは、足を止めた。やかましく騒ぎ立てる傭兵達の中で、彼女はその存在も表情も浮いていた。
メアリーの周囲だけ、空間が出来ている。意図したものではないのだろうが、かと言って偶然とも思えない。
浮いているのではない、浮かされている。メアリーは、彼らの中からずらされている。ギルディオスはそう感じた。
移民の少女。帝国の血を持つ女。戦いに生きる娘。そして、どんな男よりも強い女戦士。それが、メアリーだ。
浮かされてしまうはずだ。彼女には、王都に馴染む要素を一つもない。それに、彼女自身が距離を置いている。
だから彼女は、ギルディオス以外には心を開かないのだ。開こうとしても、拒絶と差別を恐れてしまうのだろう。
ギルディオスが突っ立っていると、メアリーが振り向いた。寂しげな目は彼を認めた途端に、色を得て光も宿した。
声のない声で、ギル、とメアリーは言った。聞こえていないはずの声は、悲しげだったがとても嬉しそうでもあった。
ギルディオスは大股に歩み寄ると、強引に彼女の腕を掴んだ。無理矢理に立たせ、無言のまま引いて歩き出した。
マークの待つテントに向かいながら、ギルディオスは手の中の感触に驚いていた。筋肉も骨も、遥かに細い。
自然と、握る手に力が篭った。離してはならない、決して放り出してはいけない、とギルディオスは思っていた。
マークはテントの前で、二人を待ち構えていた。二人がやってくると、ギルディオスとメアリーの前に文書を掲げた。

「んじゃ、いいことを教えてやろう。情報料は割り勘でいいぞ」

「やっぱせびんのかよ」

ギルディオスがげんなりすると、マークは淡々と返す。

「オレも商売なんだよ。後で良いからちゃんと払ってくれよ、銀貨三十枚」

「値上がりすんのかよ!」

「まぁそう怒るな」

ギルディオスを宥めてから、マークは文書をメアリーの目の前に突き出した。

「さて。メアリー、あんたはギルよりは字が読める。だから、この中身は解るな?」

「ああ、まぁ。あたしは、読めるけど」

メアリーは文書を見た途端、それが何か理解した。彼女が読むのを躊躇していると、マークは読み上げ始めた。

「王国軍第三部隊隊長、イライザ・カルフォール女史の身辺調査書及び上申書。カルフォール女史の行動に不穏な気配がみられ、当方が独自に調査したところ、魔導師部隊員、イノセンタス・ヴァトラス大尉の暗殺を目論んでいる様相ではあるものの、カルフォール女史が民間人兵士、こりゃ傭兵だな、を利用し暗殺せんとする相手はヴァトラス大尉ではなく、その血縁者であることが判明。よって、カルフォール女史の反逆行為は未遂である、と判断すべきではあるが、最終判断は将軍閣下へと譲渡いたします、だとよ」

「…あ?」

ギルディオスは、声を裏返した。要するに第三部隊隊長は、ギルディオスとイノセンタスを取り違えていたらしい。
もしくは、ギルディオスがイノセンタスの身代わりになっており、立場を逆にしている、となど考えていたのだろう。
見りゃ解るだろうに、とギルディオスは呆れた。外見こそ似ているが、兄と弟は雰囲気も表情もかなり違う。
そのカルフォール女史とやらは、ヴァトラス家の事情に明るくないのだろう。ギルディオスは、一年前に家を出た。
離別する際に兄と決別したし、そもそもギルディオスには魔力がないので、兄の身代わりなど出来るはずがない。
腹が立つ前に、馬鹿馬鹿しくなった。こんな人間が隊長では、勝てるはずがない。戦局の結末は見えたも同然だ。
マークは文書を丸め、服の胸元に入れた。両手を黒い外套の下に入れてから、全くなぁ、と変な顔をした。

「オレがこいつに雇われかけた理由も、たぶんこいつだろうな」

「てぇ、ことは」

ギルディオスがメアリーに振り返ると、メアリーは力なく項垂れた。マークは続ける。

「ここから先はオレの推測に過ぎないんだが、メアリーはそのカルフォールとやらにギルの暗殺依頼をされていたんじゃないのか? ギルを斬り付けたことは偶然かどうかは置いておいて、ギルから盾になれ、って無茶苦茶なことを言われてもメアリーが逆らうに逆らえなかったのは、その辺の負い目があったからじゃねぇのか? そうでもなきゃ、メアリーがギル如きにいいようにされるわけがないもんな」

「如きって…マーク、お前さっきからひどくねぇか?」

ギルディオスが眉根を歪めると、マークは突き放すように言った。

「お前の方がひどいさ。知らなかったとはいえ、メアリーにあそこまで言うことはねぇだろ」

「いいよ、マーク。あたしが悪いんだ」

メアリーは、顔を上げた。苦しげに、口元が歪んでいる。

「あたしが、その人からギルを殺すのを引き受けたのは確かだよ」

「後は二人でやってくれ。オレは最初から関わってないからな」

マークは外套を広げ、二人の脇を抜けた。軽い足取りで、テントに背を向けて焚き火の方に向かっていく。
その背に振り返り、ギルディオスは訝しげに言った。マークの言い草が、理不尽に思えて仕方なかった。

「だったら、なんで金を請求するんだよ?」

「後で払えよ、銀貨三十五枚」

「いい加減にしろぉ!」

ギルディオスが叫ぶと、マークは足早に去っていった。音もなく、黒い外套の男はテントの後ろ側へと消えていく。
からかわれているのか、それとも本気なのか。どちらであるとも取れ、ギルディオスは判断に迷っていた。
慎重に、足元のメアリーを見下ろした。メアリーはいつになく気落ちした表情をしていて、目を伏せていた。
ギルディオスは彼女を引っ張り、歩き出した。このままここにいては、目立ってしまって話せることも話せない。
しばらく歩き、焚き火からもテントからも離れた木の傍までやってきた。明かりも遠く、ほとんど暗闇だった
ギルディオスは手を離そうとすると、あ、とメアリーは漏らした。表情は見えなかったが、声は気恥ずかしげだった。

「そのままでいいよ」

「ああ」

ギルディオスは、彼女の腕を掴んでいた手を少し緩めた。後ろへと向き直り、闇に沈む彼女を見下ろした。
メアリーは、顔を逸らしていた。弱い光で輪郭が浮かび、良く通った鼻筋と形の良い口元の縁取りだけが見える。
少女の面影は消えて、女性らしくなっていた。出会ったときから一年ほどしか経っていないのに、見違えるほどだ。
ギルディオスは、思わず見入っていた。時折、彼女の言動の端々を女らしいと思ったが、外見では初めてだった。
むしろ、そう見ないようにしていた。女扱いすると面白くなさそうにするから、自然と見方を変えていたのだ。

「すまん」

ギルディオスは、メアリーから目を逸らした。

「知らなかったとはいえ、色々と言い過ぎた。言っちゃならねぇことも、言っちまって…」

メアリーは、いいよ、とやっと聞こえるような声で返した。

「ギルの言うことも、間違っちゃいないから。あたしがギルを殺そうとしたことは、間違いないから」

「本当に、悪かった」

「だから、もういいんだよ」

暗闇の中、メアリーはなんとか笑った。だが、声に滲み出ている感情は、表情に比べてかなり気落ちしていた。
メアリーはギルディオスの手の熱さを感じながら、目を伏せた。彼が誤解を解いてくれたことは、嬉しかった。
だが、そのせいで予想以上に関わりが深くなってしまった。成り行きとはいえ、共に戦う間柄にもなってしまった。
これ以上、深くなってはいけない。あまり触れ合うと、戦いに躊躇いが生じる。死んでしまうのが怖くなってしまう。
戦うために生きると決めた。刃となることを誓った。そのためには、ギルディオスの手を振り払う必要がある。
あまり触れられていては、寂しいということを認めてしまう。一人は嫌だ、戦うのは嫌だ、と思うようになってくる。
その思いからは強引に目を逸らしていたが、次第に胸を満たしてきた。重たい苦しさが、涙を滲ませそうになる。
このままではいけない。泣いてしまう。メアリーはギルディオスに背を向けて、腕を振り解こうと歩き出した。
一歩も進まないうちに、引っ張られた。腕ごと引き寄せられたメアリーは、背中から抱かれ、腕の中に納められた。
がしゃり、と二人の甲冑が擦れた。肩を掴まれ、腕を掴んでいた方の手は彼女の腰に回され、引き寄せられた。
ギルディオスはメアリーを抱えたまま、木に背を預けた。痛々しくて、とてもじゃないが見ていられなかった。

「逃げるんじゃねぇ」

「ごめん」

何をすんのさ、あたしは平気だよ。そう言う代わりに、怯えたような声が出た。メアリーは、目をきつく閉じた。
この刃はなまくらだ。肝心なときに切れ味が落ちる。彼を跳ね除けさえすれば刃に戻れるのに、何も出来ない。
戻りたくない、とすら思ってしまった。戦い続けることは予想以上に辛くて苦しくて、もう嫌になっていた。
ギルディオスを殺したい、と思ったのはある意味では本心だ。彼を殺せば、生きたい未練が消えて死にやすくなる。
だが、殺せなかった。そして、戦っていても死ねなかった。条件反射と本能で、戦い続けて生き残ってしまった。
彼の腕に納まっていると、ますます死にたくなくなった。堪えようとしても、次から次へと涙が溢れ出てくる。
気付いたら、メアリーは声を漏らして泣いていた。父と母に対する申し訳なさと、自分の弱さがとても情けなかった。
ギルディオスはメアリーを抱く腕に力を込め、離さないようにした。離してしまったら、一生後悔しそうだった。
今になって、彼女に言い放った言葉が突き刺さってくる。なぜあれほどひどいことを言えたのか、解らないほどだ。
謝罪しようにも、的確な言葉が思い浮かばない。それでもギルディオスは、彼女に謝らずにはいられなかった。

「本当にすまねぇ。お前がどれだけ辛いかも考えねぇで、オレの言いたいことだけ言っちまって」

刃は、相手だけを刻むものではない。刃を振るった相手も、同時にその刃によって傷を与えられている。
ギルディオスはメアリーの手を固く握り、顔を伏せる。すぐ傍にある彼女の肩装甲に、がしゃりと額を押し当てた。

「嫌ってくれて構わねぇ。今度こそ、頭っから叩き割ってくれても構わねぇ。だから、オレは」

これしか、思い浮かばなかった。ギルディオスは、声を絞り出す。

「お前の盾に、なってやる」

「…あたしなんか、守らないでくれよ。あたしは、あんたを殺そうとしたんだよ?」

泣き声混じりで、メアリーは呟いた。

「本当だよ。あたし、本当にあんたを殺そうとしたんだ。あんたがいなくなりゃ、死んでも寂しくないって思って」

刃は、刃になれなかった。温かな彼の手によって、切れ味が落ちている。これでは、人どころか己も切れない。
メアリーは自嘲気味に、言い続けた。言いながら、どれだけ自分が脆弱な人間なのか痛いほど思い知った。

「おかしいよね。あたしさ、あんたがいるから戦ってたんだ。ギルがいたせいで、必死に戦ってなんとか生き残って、今日まで生きてきたんだ。父さんと母さんには本当に悪いけど、あたし、もう、嫌なんだ。誰も殺したくなんてないし、誰かを殺して金もらって生きていくのって辛くって苦しくって、どうにかなりそうで、さっさと死んじまおうとか思ってたんだけど、死んだらギルに会えないのが寂しいなぁとか思ったらその気になれなくて、そうしたらあのイライザ隊長とかいう人があたしにギルを殺せ、って頼んできたんだ。丁度いいかなとか思って引き受けて、でもギルだけはどうしても殺せなくって、おまけにあんたに思いっ切り嫌われちゃったし、このままじゃ折れちゃいそうだとか思ってたら、マークがさぁ…」

最後は、絶叫に近かった。メアリーは涙をぼろぼろと落としながら、ギルディオスの腕を握り締めた。

「ごめん、ごめん、ごめんよぉ! あたし、ギルだけは殺せない! ギルだけは、ギルだけは!」

「もういい」

「嫌なんだ、嫌なんだ、もう、全部」

しゃくり上げながら、メアリーは脱力した。力を入れようにも入ってくれず、そのままギルディオスに寄り掛かった。
ギルディオスは、メアリーの嗚咽を全身で受け止めた。怯えたように震えるメアリーを、逃がすまいと抱き締める。
戦場で見た、あの目の持ち主とは思えない。殺戮の罪悪に苛まれ、血に汚れた手に怯える、十六歳の少女だ。
ギルディオスが家を出たのは十七歳だが、彼女はそれより前に一人になった。たった二つでも、その差は大きい。
辛くて当然だ。辛くないはずがない。ギルディオスはメアリーの後頭部を見、前よりも伸びた後ろ髪に気付いた。
前に言ったことを、守ってくれている。ほんの些細なことだったが、そのことが場違いなほどに嬉しく思えた。
ギルディオスはメアリーの肩から手を外し、しなやかな黒髪を持ち上げた。首筋から、甘ったるい汗の匂いがする。

「結構、伸びたな」

「あんたが、伸ばせって言うから」

呂律の鈍ったメアリーは、少々声を上擦らせていた。ギルディオスは、慣れない手つきで彼女の髪を指で梳く。

「気が済むまで、ここにいてやるよ。それぐらいしか、出来そうにねぇからな」

「…いてくれるの?」

メアリーは、信じられないような気持ちで彼を見上げた。

「だって、本当だよ? あたし、あんたの頭、叩き割ろうとしたんだよ?」

「今は殺せねぇだろ。どっちも丸腰だしよ」

「だけど、さぁ」

「それともなんだ。今からでもオレの首を切り落として、カルフォールとやらに持っていくか?」

「そんなの、出来ないに決まってるじゃないか! やれるはずがないじゃないか!」

「なら、いても平気だな。むしろ、いなきゃダメだ」

ギルディオスはメアリーの頭をぐしゃりと撫でた。

「そんな状態じゃ、いくらお前でも戦えねぇからな。やられたら事だもんな」

頭に置かれた彼の手は、大きく固いものだった。メアリーは気恥ずかしさと嬉しさが入り混じり、顔をしかめた。
嬉しいはずなのだが、照れくさい。言い返したい気もあるのだが、このままでいたい気持ちの方が強かった。
彼が触れるのは慣れているはずなのに、やけに緊張した。心臓が脈打ち、次第に頬が熱くなってくるのが解る。
寂しくはなくなっていたが、やりづらかった。それどころか締め付けられたように胸が痛んできて、苦しくなる。

「ギル」

「ん?」

「あたし、なんか変だよ。ギルがいてくれて、すっごく嬉しいんだけどさぁ」

メアリーは胸元に手を当てて、ぎゅっと握り締めた。訳の解らない動揺の感覚は、体を芯から鈍らせてくる。

「ここんとこが、苦しい」

「オレもだ」

ギルディオスはずるりと背を下げて腰を落とし、メアリーの目線に合わせた。間近から、甘い匂いがする。

「心中したいほど好きだって言われたら、その気になっちまうよ」

「え、あ、ええっ!?」

途端にメアリーはぎょっとして、素っ頓狂な声を上げた。彼の言葉に動揺してしまい、涙も引っ込んでしまった。
ギルディオスは、ぐしゃぐしゃとメアリーの髪を掻き乱した。言ってしまってから、言った方も照れくさくなった。

「だってそうじゃねぇか。違うか、うん?」

「そりゃ、まぁ、うん、あたしは」

ぽつぽつと呟きながら、メアリーの頬はどんどん高潮してくる。

「ギルが、好きだよ」

「んじゃ、決まりだな」

「何が?」

メアリーがきょとんとすると、ギルディオスはメアリーの腰をぐいっと抱き寄せた。

「メアリー。お前、オレの女房になれ!」

「なんだいそりゃあ!」

思わずメアリーが声を上げると、ギルディオスは顔を寄せた。とても楽しげな声が、すぐ傍から聞こえる。

「お前みてぇなじゃじゃ馬、オレぐらいしか嫁にもらわねぇだろうしな」

「あっ、あんたみたいな馬鹿、あたしぐらいしか惚れないよ!」

「なら、決まりだ」

彼に填められた気がして、メアリーは喉の奥で呻いた。それでも嬉しさの方が勝り、強い高揚感を感じていた。
背中越しに感じるギルディオスの存在は、戦場の時よりも頼れていた。寂しさどころか、悲しさも埋めてくれている。
メアリーは、そっと彼の手に自分の手を重ねた。改めて比べてみると、ギルディオスの手は相当な大きさがあった。
作ったばかりの傷は、まだ血を流していた。心の中で、どくどくと痛みを吐き出して開いたままになっている。
それでも、傷の痛みが僅かに心地良かった。胸の奥底から生まれ出てきた熱さが、痛みを和らげてくれていた。
苦しさを伴う熱情が、二人の傷と心を繋げていた。




数日後。傭兵部隊は王国軍と共に、王都に向かっていた。
結局、王国軍は帝国軍に敗北した。引き際を見極めての撤退だったので、王国軍の損害は最小限だった。
第三部隊隊長、イライザ・カルフォール女史は王都に戻り次第処刑される、との情報がマークから知らさせた。
なんでも、暗殺されようとしていたイノセンタス・ヴァトラス本人が、カルフォール女史の計画を暴いたらしい。
暗殺の理由は、単なる私情だった。カルフォール女史は、年下の少年、イノセンタスに恋い焦がれていたのだ。
魔法学校の後輩であった頃から誘っていたらしいが、イノセンタスが釣れないので業を煮やした結果だった。
マークがべらべら喋る機密情報を聞き流しながらギルディオスは、イノも大変だな、と内心で苦笑いしていた。
もっともそれ以外にも理由があったようなのだが、後半は耳に入らなかった。前半が、衝撃的過ぎたせいである。
疲れ切った様子で歩き続ける傭兵部隊は、黙々と進んでいた。ギルディオスは黙っていたが、そっと傍らを見た。
ギルディオスの腕を握ったメアリーが、表情を固めていた。照れと恋心の間で、迷いに迷った結果だった。
近くにいたいが照れくさい、だが離れたくない、と彼女なりに考え抜いた挙げ句、こうすることに決めたのである。
マークは喋るのをやめて、二人を見比べた。どう見ても顔が緩んでいるギルディオスに、メアリーがくっついている。
こうなることは、最初から予想していた。煽ってやったのも、なかなか縮まらない二人の距離に焦れていたからだ。
銀貨三十五枚の支払いは、なんだかんだでうやむやになった。元々冗談だから、きっちり払われないほうがいい。
美しく力強いメアリーに、マークも惹かれていた。生まれて初めての恋心はあったが、明かさず終いになりそうだ。
せっかく結ばれた二人の心に、茶々を入れてはいけない。そう思い、マークは黒い外套の下で拳を握り締めた。
こんな些細な傷は、誰にも見せる必要はないのだから。




刃は、切り裂くためにある。傷は、痛みを得るためにある。
その刃によって生まれた大きく深い傷は、閉じた心を開くための痛みでもあった。
そして、刃と痛みを癒すのは、彼からの温かく優しい愛情だった。

互いへの愛こそが、二人の重剣士を繋げる絆なのである。







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