ジュリアは、風邪を引いていた。 熱を持った頭がずしりと重たく、目が潤んでいるせいで視界が歪んでいる。背筋は寒く、関節はだるかった。 枕に頬を押し当てながら、ジュリアは目を動かした。窓の外は明るくなっており、もう昼になっている。 げほげほと咳を繰り返しながら、背を丸めた。体を横にして胎児のように丸まりながら、目を閉じた。 不意に、幼い頃の出来事を思い出した。まだ年端も行かない少女だった頃、同じように風邪を引いてしまった。 二人の兄は、しきりに心配してやってきてくれた。次兄であるギルディオスは、何度も何度も頭を撫でてきた。 そして、長兄であるイノセンタスは、ジュリアのことが心配だが何をしていいのか解らずに、戸惑っていた。 懐かしく暖かで、平和な記憶だった。ジュリアは目を開けて追憶から戻ると、体を起こし、上着を羽織った。 ベッドの脇の窓からは、新雪が積もってきらきらと光る庭先が見える。庭では、魔物の子達が雪で遊んでいた。 やだよ寒いよぅ、と喚きながらクモ男、スパイドが雪玉から逃げている。それを投げるのは獅子の女、レオーナだ。 歓声を上げて走り回る妹と弟を、有翼の人狼、ウルバードが震えながら見ている。実は、長兄が一番寒さに弱い。 ジュリアは布団の上に広げていた上着を取り、背中に羽織る。優しく微笑みながら、魔物の子達を見つめた。 見ているだけでこちらも元気になってしまうなほど、子供達は明るくなった。だが、こうなるまでは長かった。 あの壮絶な出来事の後に王都を離れ、この東王都近くの研究所にやってきた直後は、三人とも塞ぎがちだった。 だがそれも、時間が和らげてくれた。イノセンタスに対する複雑な思いも徐々に解け、彼らは明るさを取り戻した。 しかし、そうなるまで、何度彼らは泣いていただろう。次兄のスパイドは、特にイノセンタスを哀れんでいた。 なんで解らなかったんだろう、なんで死ななきゃならなかったんだろう、なんで仲良く出来なかったんだろう、と。 ジュリアはその光景を思い出していたが、喉が疼いて咳き込んだ。途端に、現実へと引き戻されてしまった。 こん、と軽く寝室の扉が叩かれた。ジュリアが返事をすると、扉が開かれ、盆を持ったゼファードが入ってきた。 「おはようございます、教授」 「おはよう、ゼフィ」 ジュリアが笑むと、ゼファードは後ろ手に扉を閉めた。盆をテーブルに置き、ベッドの脇に椅子を持ってきた。 丸椅子に座り、ジュリアと向かい合った。ゼファードは多少緊張した面持ちで、失礼します、と手を伸ばした。 ジュリアの額に手を当てていたが、眉をひそめた。彼女の額から手を離しても、手には熱い体温が残っていた。 「まだ熱が下がりませんか。昨日処方した解熱剤が弱かったんでしょうか」 「というより、解熱剤に体が慣れちゃってるのよ」 「教授、そんなに体が弱い方でしたっけ?」 訝しげなゼファードに、ジュリアは肩からずり落ちそうな上着を直す。 「昔の話よ。十歳になる前くらいまで、よく熱が出ていたの。魔力が飽和してしまうせいでね」 「飽和、ですか」 「そうよ。九歳頃まで、私もイノ兄様のような教育をされていたの。大分無理をしていたわ」 ジュリアは、けふ、と抑えた咳をした。 「だから、毎日毎日、山ほど本を読まされてうんざりするほど魔法を使わされて、夜になる頃には、夕飯も食べられないほど疲れたこともよくあったわ。体も心も限界まで疲れ果てた私を動かしていたのは、普通の人よりもちょっと大目の魔力だけだったの。でも、魔力は体力とは直結していないものだから、一時的に疲れを忘れられても、結局は疲れ果てていることに変わらないのよ。おまけに体力が落ちているものだから、魔力の代謝が落ちて、どんどん溜まっていく一方になって、最後には熱になって出ちゃうのよ」 まるでギル兄様みたいね、とジュリアは胸に手を当てた。 「魔力が熱に変換されるのは、ヴァトラスのクセね。でも、やっぱり熱は熱だから、そりゃあ辛かったわよ」 「大変だったんですね」 「ええ、とっても。熱が出れば苦しいし、熱が引けばまた勉強だし、逃げ出してしまいたかったわ」 ジュリアは掠れた声で、普段より慎重に言葉を紡いだ。 「そうやって熱が出た日は、夜になると、イノ兄様が私の部屋にやってくるの。私が一番好きな物語の本と、魔物の辞典を持って枕元に座るのよ。苦しくてぐずってる私を宥める代わりに、眠るまで本を読んで聞かせてくれたのよ。愛想なんて欠片もない声で、ただ黙々と本の中身を読み上げるだけだったけどね。イノ兄様が私と遊んでくれることなんてほとんどなかったから、本を読んでもらえたのが嬉しくって嬉しくって。ギル兄様より解りづらいけど、イノ兄様にも、ちゃんと優しいところがあったのよ」 ゼファードは、複雑な心境で話を聞いていた。イノセンタスのことは、何も知らない。知ろうとすらしていなかった。 冷酷で孤独な男だとしか、思っていなかった。魔物の子達の話からもそうとしか窺えず、他は何一つ解っていない。 強引に妹を得ようとしていた彼の優しい姿など、想像も付かない。表情も、冷ややかな笑みしか浮かばなかった。 「今にして思えば、イノ兄様は、小さい頃から私を見ていたわ。ギル兄様が剣術の稽古で外に出るようになったら、解ったの。ギル兄様と一緒に遊んでいると、いつも窓からイノ兄様が見ていたの。最初はギル兄様を睨んでいるのかな、と思ったけれど、ギル兄様がいなくなってもイノ兄様はこちらを見ていたのよ。あの冷たい目で、じぃっとね」 懐かしげに、ジュリアはイノセンタスの記憶を話していた。いつになく穏やかな目で、遠くを見ていた。 ゼファードは、その光景が目に浮かんだ。窓から庭を見下ろす少年と、その視線を受けて駆け回る少女。 薄暗く重苦しい空気の満ちた部屋と、明るい日差しの注ぐ庭。愛する妹と遊ぶ弟は、兄と同じ姿形をしている。 そんな状況なら、嫉妬が生まれるのは必然的なことだ。イノセンタスの境遇ならば、一層嫉妬は激しくなるだろう。 だが、だからといって弟を殺すほどの憎しみが生まれるとは想像しづらかった。恐らく彼は、内に秘めすぎたのだ。 イノセンタスは、何もかもを自分の中に押し込めて、冷たく硬い氷の奥底に情念を閉じ込めてしまったのだろう。 だが、氷は氷に過ぎない。内からの熱情で徐々に溶け、それが最悪の形となって発現してしまったに違いない。 ゼファードは、窓を眺めるジュリアの横顔を見上げた。薄茶の髪は日光で艶めき、薄茶の瞳は熱で潤んでいる。 研究所に戻ってきてからは、ゼファードはジュリアの傍にいる。以前にも増して、彼女を目で追ってしまう。 それは、ジュリアが精神的に不安定だったから、というものもあるが、半分以上は自分自身の劣情からだった。 グレイス・ルーの城に行く直前に、イノセンタスが言いかけたことは正しい。ゼファードは、ジュリアを好いている。 最初は、学者としてだった。年齢も三つしか変わらないのに、見解も知識も幅広く、魔物達を誰よりも愛していた。 魔力のない人造魔物を生み出し、彼らを我が子とし、母となっている。そして、己の脆弱さから目を背けていない。 支えてやりたかった。守ってやりたかった。だが、やる事成す事が全て裏目に出て、結果として彼女を追い詰めた。 何度、そのことを詫びただろうか。しかしジュリアは、そのたびに首を横に振った。そして笑い、こう言ってくれた。 あなたはやることをやっただけよ、それにあなたはセイラを助けてくれたわ、それだけで充分過ぎるくらいなのよ。 だからゼフィ、もう自分を責めないで。ゼファードは情けなくなったが、その言葉に甘えて、何も言えなくなった。 何もしていない。何も出来てすらいない。自己嫌悪は日々増してきたが、何も出来ないまま、ここまで来てしまった。 ゼファードは、ジュリアの横顔から目を外した。情けなさと歯痒さで、無意識のうちに表情が歪んでいた。 振り向いたジュリアは、助手の表情に気付いた。けふ、と小さく咳をしてから助手へと顔を向け、心配げにする。 その目線から逸れるために、ゼファードは盆の上から薬瓶を二つ取った。コップに注いで、軽く混ぜ合わせた。 ゼファードが薬の入ったコップを差し出すと、ジュリアは起き上がって受け取った。咳が納まってから、少し飲む。 「調合が違うわね」 苦味の強い味には、普段とは違う味が混じっていた。ジュリアはもう一口飲み、その配合を確かめた。 「どちらかというと、魔法薬ね? ウサギノメモドキの粉末と半漁人のウロコの味がするわ」 「解りますか」 「解るわよ。たぶんこれは、フィフィリアンヌさんの作り方ね?」 薬を全部飲み終えたジュリアは、コップをゼファードに渡した。ゼファードは、空のコップを盆に戻す。 「ちょっとだけ、真似をしてみたんですよ。ですが、あの人の調薬技術にはとてもじゃないですが敵いません」 「いい感じじゃない。良く効いてくれそうよ」 ジュリアはそう返してから、どこか悔しげなゼファードの目が気になった。 「ゼフィ?」 「なんでもありません」 苦々しげに、ゼファードは洩らした。ジュリアは背筋を伸ばし、彼と視線を合わせる。 「嘘ばっかり。あなたは、機嫌が悪くなるといつもそう言うんだもの。あの子達だって知っていることよ」 「本当に」 なんでも、と言おうとしてゼファードは口を噤んだ。ジュリアの手が、ゼファードの白衣を掴んでいる。 「ねぇ、ゼフィ。あなた、私のこと好きでしょ?」 悪戯っぽく、ジュリアは笑う。思いがけないことに、ゼファードはきょとんとした。 「え…」 「だって、同じなんだもの。ゼフィの顔が、イノ兄様が私を見ているときの顔と」 白衣の胸元を握り締める手の頼りなさに、ゼファードは戸惑った。体が硬直して鼓動が早まり、息が詰まる。 距離は、ないにも等しかった。ベッドから身を乗り出したジュリアとゼファードの間には、僅かな隙間しかない。 ジュリアは、何度か咳をした。上着を乗せた背が上下し、潤みがちな目が更に潤った。じわりと、目元に溜まる。 「でも、今はダメ。今はまだ、何も言わないで」 彼女の声の最後は、震えていた。ジュリアは口元を締めながら、硬く目を閉じる。いくつか、涙が溢れて落ちた。 それが、床とゼファードの膝に滴った。ゼファードはジュリアの肩にそっと手を回したが、抱き寄せられなかった。 ジュリアの脳裏に、兄達の姿が過ぎる。家を出て行く次兄の背。剣を背負った次兄の影。暖かな、次兄の手。 雨と泥に汚れて帰って来た長兄の顔。冷たくも激しい怒りを宿した長兄の瞳。深い絶望に満ちた、長兄の声。 なぜ、あの時。ちゃんと言えなかったのだろう。真実を話していれば、兄達はあれほど苦しまなかっただろう。 今更後悔しても、どうにもならない。そう解っていたはずなのに、優しかった長兄の記憶が自制を緩めてしまった。 長兄の最後は、見ていた。焼け付きそうな空の下、戦い合う二人の兄は凄絶で荒々しく、そして、汚れていた。 それでも、二人はとても満ち足りていたようだった。お互いの感情を真っ向からぶつけ合い、言葉を交わし続けた。 意識はあった。だが、精神衝撃波の余波と目の前の光景の凄まじさのせいで、ちっとも声なんて出せなかった。 頬を撫でてくれた長兄の手が、優しかった。皆を傷付けてきた手なのに、不思議と憎しみは少しも湧かなかった。 むしろ、嬉しかったほどだ。なぜ嬉しいのかは解らなかったが、落ち着いた気分になったのは確かだった。 そして。長兄は、己の腹を弟の剣で貫いた。すまなかったな、ギルディオス。その言葉は、耳の底に残っている。 ギルディオスの猛りは、夕日に染まった世界を揺さぶった。悔しさと悲しさと、苦しさの詰まった叫びだった。 二人を、敵対させたのは。二人を、戦わせてしまう切っ掛けを作ったのは。二人の、憎しみを増長させたのは。 何もかも自分だ。ジュリアは涙で濡れた顔をゼファードの白衣に埋め、白衣を力一杯握り締めて嗚咽を堪えた。 体が、傾いた。柔らかな衝撃が背に当たり、視界が動いた。窓がすぐ頭上にあり、体の上には彼がいる。 ジュリアは、ゼファードの体に倒されていた。ベッドに横たえられて、押さえ込まれるような態勢になっている。 間近には、ゼファードの顔があった。ジュリアは何が起きたのか理解したが、泣いていたせいで反応が遅れた。 「ゼフィ?」 「嫌んなっちゃいますよ」 すぐ傍で、ゼファードが呟いた。熱を持ったジュリアの体を、抱き竦める。 「少しは、頼って下さい。私も、これで色々と背負ってきたつもりです」 ゼファードは、声を低くした。セイラを助けるためだったとはいえ、ドラゴン・スレイヤーになってしまった。 図らずも、セイラを苦しめた。魔物の子供達をイノセンタスの支配から解放することも、何も出来ないままだった。 「私なりに、重さも痛さも知っています。ですから」 ゼファードは、絞り出すような声で言った。 「私は、教授を助けていきたいんです」 ジュリアは、やっとゼファードの体を押した。ゼファードは腕の力を緩めると上体を起こし、身を引いた。 「…すいませんでした。いきなり、こんなことをしてしまって」 「ゼフィ…」 ジュリアは体を起こし、げふ、と咳をした。申し訳なさそうに、ゼファードは苦笑する。 「おまけに、変なことも言ってしまって。本当に」 「いいの」 気にしないで、とジュリアは言おうとしたが、激しく咳き込んでしまった。口元を押さえながら、横たわる。 ゼファードは立ち上がると、薬瓶とコップの載った盆を取って扉に向かう。顔が合わせづらく、逸らした。 数歩進んで、取っ手に手を掛けた。なんとなく気になって振り返ると、ジュリアはゼファードを見上げていた。 何か言いたげだったが、彼女は言う前に目を閉じた。ゼファードは扉を開けて廊下に出、一瞬ぎょっとした。 寝室の壁際に、いつのまにか魔物の子達が立っていた。ばつの悪そうな顔をして、レオーナが苦笑いしている。 レオーナの左右に立っていたウルバードとスパイドは、素知らぬふうを装ってあらぬ方向に顔を向けていた。 「だから僕、やめようって言ったんだよ? なのにお姉ちゃんたら、無理矢理引っ張って来るんだもん」 やだなぁもう、とスパイドは覆面じみた顔の中で唯一動く、人間のような金色の目を伏せた。ウルバードは頷く。 「大体なぁ、一般常識ってもんがあるだろう。そりゃオレ達の耳じゃ一部始終は綺麗に聞こえるが、だからってなぁ」 「いいじゃないかよぉ。お兄ちゃんもスパイドも、なんだかんだ言って聞いてたんだし」 レオーナは二人に言い返してから、ゼファードを見上げた。金色の瞳を輝かせながら、ネコに似た耳を動かす。 「で、どうなんだいゼフィさん! お母さん、口説けそう!?」 「…聞いてたんなら解るんじゃないのか?」 ゼファードはレオーナの目から逃れるように、顔を逸らした。スパイドは、額の八つの目をぱちりと瞬きさせる。 「えーでもー、お母さん、なんだか嬉しそうだったよ? 僕が計算出来るようになった時と同じくらいにさぁ」 「他人の色恋沙汰なんざ、別にどうでもいいと思うがなぁ。少なくとも、オレは興味がない」 ウルバードは爪の伸びた大きな手で、がしがしと尖った耳を掻いた。レオーナは、不満げにする。 「だぁけどさぁー。ここで進展してもらわなきゃ、つまんないじゃないか」 「お前らなぁ」 ゼファードが呆れると、レオーナは細長い尾をぱたぱたと振る。 「だって、じれったくって溜まらないんだよ。王都から出てきて半年にもなるのに、なんにも進んでないなんて」 「まだ半年だぞ」 「もう半年なんだよ!」 レオーナはゼファードを指し、声を上げる。ゼファードは一歩後退したが、言葉を濁す。 「人を指差すな、レオーナ。それにまだ、教授はあの出来事の整理が付いていないみたいだし」 「お母さん、お手紙書いてたよ」 えぇとね、とスパイドは思い出すように首を捻った。ああそうそう、と両手を叩き合わせる。 「ギルさんに! 十日くらい前だったかなぁ、うん。春になったらイノ兄様に会いに行きます、って書いてたよ」 「だが、それを」 出すとは限らない、とゼファードが言おうとするとスパイドはにこにこと笑う。 「そのお手紙、僕のと一緒に出してきたんだよ。僕のはね、レベッカちゃんに宛てたんだけどねー」 ゼファードは、目を動かした。閉ざされた寝室の扉を見つめているとその奧から、咳き込む音が聞こえてきた。 ひやりとした空気が肌に染み入り、底冷えしてくる。廊下側は日陰になっているので、窓は朝と同じく凍っている。 じっと扉を見つめていると、研究所にやってきたばかりの頃を思い出す。あの頃は、近付くことも出来なかった。 夜が来るたびに、ジュリアは声を殺して泣いていた。兄達への罪悪感からの謝罪の言葉を、聞いた覚えがある。 だが、ゼファードは扉を開けることが出来なかった。開けたらいけないような気がして、一度も入れなかった。 そのまま時間が過ぎ、ジュリアは泣かなくなった。以前と同じように笑い、魔物達と研究を愛するようになった。 それでも、悲しげな色は目に残っていた。傷が癒えていないことは明白で、やはり近付くことは出来なかった。 近付いたら、砕けてしまいそうな気がしていた。ヒビの入った心に下手に触れでもしたら、傷を深めそうだった。 今なら、開けるべきかもしれない。ゼファードは扉に手を伸ばそうとしたが、躊躇し、結局伸ばせなかった。 魔物の子達の急かす声が聞こえていたが、彼は背を向けて立ち去った。白衣を着た背は、奥に消えていった。 壁と扉越しに聞こえてくる残念そうな魔物の子達のやり取りを、ジュリアは淡く薄らいだ意識の中で聞いていた。 次第に離れていく彼の足音が、聞こえなくなった。ジュリアは一度扉を見たが、そのまま、目を閉じた。 そして、いつしか意識は眠りの底に沈んでいった。 泥のような眠りの中で、夢を見た。何度も何度も繰り返し、長兄が果てる姿を見続けて、次兄の猛りを聞き続けた。 何も出来ずに横たわっていた。石組みの階段の冷たさが体に染み入り、次兄の怒りの熱さを肌で感じていた。 そして。長兄の手の優しさも、感じていた。雨に濡れて泥に汚れ、氷の刃で弟と戦ったはずの手が暖かかった。 誰よりも愛されていた。誰よりも思われていた。あの冷たい目がいつもこちらを見ていて、いつもそこにあった。 決して、嫌ではなかった。だが、どうしても受け入れられなかった。長兄の目は、妹を女として見ていたからだ。 好きだけど、愛しているけど、兄の愛とは違っている。言おうと思ったけど、言えず終いで、次兄が言ってくれた。 それは、自分で言わなければならなかったのに。言いたかったのに。最後になっても、言えることはなかった。 夢は続く。下半身を血に染めた長兄を、次兄が抱き止めている。イノ。次兄の声で、それだけが聞こえてきた。 言えなかった言葉が、自分の声で聞こえてくる。イノにいさま、ごめんなさい。わたしは、にいさまとはちがうの。 にいさまとはちがうけど、わたしは、にいさまがだいすきよ。イノにいさまもギルにいさまも、だいすきなのよ。 だけど、わたしは。わたしが、あいしているのは。 にいさまじゃ、ないの。 05 9/22 |