ドラゴンは笑わない




兄と妹



自分の絶叫で目を覚まし、ジュリアは跳ね起きた。しゃくり上げるのを堪えながら、冷や汗の滲んだ額を拭った。
涙が溢れ、顎を伝って滴り落ちる。それを寝間着の袖で拭って呼吸を繰り返し、高ぶった神経を落ち着ける。
久々だ。ここしばらく見ていないと思ったのに、また見てしまった。あの雨の日の、最後の戦いの光景だ。
今にも長兄の血臭が漂ってきそうで、ぶるりと震えた。窓を見上げると、かなり暗かった。深夜のようだった。
荒い息を整えて、ジュリアはぎゅっと自分の腕を握って抱き締めた。熱とは違う寒気が、背中を這い上がってくる。
にいさま、と掠れた声で呟いた。ジュリアが背を丸めていると、肩に手が触れた。ぎょっとして、思わず声を上げる。

「やっ」

身を引いて振り向くと、同じようにぎょっとした顔のゼファードがいた。

「大丈夫、ですか?」

「ええ」

ジュリアはなんとか声を整え、頷いた。

「熱も下がったみたいだし」

「なら、良かったです。大分うなされていたようですけど、何か、悪い夢でも」

「悪夢じゃないわ。でも、目覚めは良くないわね」

ジュリアは彼の渡してくれた上着を羽織ると、息を吐いた。寝室の暖炉には火が入っていて、暖炉だけ明るい。
煌々とした暖かな光が、一角を浮かび上がらせていた。炎の揺らぎで、本棚や標本棚の影がふらついていた。
ゼファードの手が、肩を支えていてくれた。ジュリアは彼に体重を掛け、目が少々赤いゼファードを見上げる。

「ゼフィ。あなた、眠ってないでしょ」

「ええ。教授が心配ですから」

「私は、あなたより年上なのよ。そんなに気に掛けられるほど、脆弱じゃないわ」

ジュリアは笑おうとしたが、口元が引きつっただけだった。ゼファードはジュリアの体重を支えながら、呟いた。

「震えながら言われても、根拠はありませんよ」

「ああ、また泣いちゃったわ。具合が悪くなったから、気が緩んじゃったのかしらね」

ジュリアは目を伏せ、顔を手で覆った。ぱちり、と暖炉で薪が爆ぜる。

「あなたは知らないでしょうけど、兄様達が戦っているところ、私は見ているのよ。一度はイノ兄様の精神衝撃波で気を失ったんだけど、半覚醒ぐらいしちゃって、体は動かないけれど見てしまったの。だから、かなり鮮明に覚えているわ。そのときの夢を、数え切れないぐらい見たの。近頃は、ようやく見なくなったと思ったんだけど…」

「目の前で肉親が死んだら、誰だって平気じゃありませんよ」

「ええ。何度も気が狂いそうになったわ。いっそ、死んでしまいたいとも思った」

怯えたように、ジュリアの声が少し上擦る。

「けど、あの子達がいるから、絶対に死んじゃいけないと思って、ここまでやってきたのよ」

「そんなに辛いなら、なぜ、イノセンタス様の墓を参るという手紙を書いたんですか?」

「ゼフィ、あなた、なんでそれを」

一瞬不思議そうにしたジュリアは、すぐに眉をしかめた。スパイドね、とむっとする。

「あの子ったら。人の手紙は勝手に読まないように、って教えておいたのに」

「答えてください、教授。そこまで苦しいのに、なぜ、王都に行こうと思うんですか」

ゼファードは敢えて、淡々とした口調にした。感情を込めようにも、何を込めるべきかが解らなかったからだ。
ジュリアは少し迷っていたようだったが、抱いていた腕から手を離した。膝の上に手を置き、重ねる。

「イノ兄様に、返しに行くのよ。あれだけは、どうしても返しておかなきゃならないから」

「何を、ですか」

ゼファードの問いに、ジュリアは表情を硬くした。


「指輪よ」


ぎゅっと手を握り締め、ジュリアは顔を伏せる。その横顔を、ゼファードは眺めるしかなかった。

「いつのまにか、私の荷物の中に入っていたのよ。イノ兄様の名前と、私の名前が裏に彫ってある金の指輪がね。きっとイノ兄様は、全てを片付けてから私の暗示を解いて、見つけさせるつもりだったのでしょうね。何度も捨てようかと思ったけど、捨てるに捨てられないし、かといって、持っているわけにもいかないし…。だから、イノ兄様の墓に行って、ちゃんと返してこようと思っているの」

ジュリアは、徐々に項垂れる。

「イノ兄様が生きている間に、断れなかったから。だから、ちゃんと結婚を断っておきたいの」

「だから、あんなことを言ったんですか」

ゼファードは、昼頃のやり取りを思い出した。ジュリアがゼファードの思いを遮った真意は、これだったのだ。
ええ、とジュリアは小さく頷いた。気を静めるために腕をさすりながら、ゼファードに振り向いた。

「怒った?」

「いえ。別に」

「良かった」

安心したように、ジュリアは笑んだ。ゼファードは、情けなさそうに苦笑いする。

「妬けはしますけどね。イノセンタス様が、教授の心の中にそこまで根深く存在しているかと思うと」

「これからも、ずっとそうでしょうね。イノ兄様もギル兄様も、大事なお兄様だから」

ジュリアは、目を細めた。そして、ゼファードを眺めてみた。律儀なことに、彼はまだ白衣を羽織っている。
昼間のものと同じもののようで、ジュリアの涙の染みが残っている。着替えれば良いのに、と思った。
着替える気も失せるほど、気に掛けてくれていたのだろう。それがありがたくもあり、少し、照れくさくもあった。
イノセンタスの策略で、人造魔物の研究資金が打ち切られたときも、彼はジュリア以上に粘って大学に意見した。
それでも大学が折れないので、背後を調べようとしたが、やはりイノセンタスの手が回っていて何も出なかった。
そうこうしているうちに研究資金があっという間に底を付き、ウルバードらを生かし続けることが難しくなってきた。
人造魔物達は、見た目以上に不安定だ。定期的に魔力安定剤を投与してやらないと、すぐに命が危うくなる。
セイラは奇跡的に状態が良かったので魔力安定剤を投与せずとも長らえたが、他の子達はそうもいかなかった。
一番最初に生まれたウルバードは、特に危なっかしい。外見的には問題はないが、魔力の値が安定していない。
魔力中枢の手術をするほどではないが、それでも、魔法を使ったり使われたりすれば不安定さは増してくる。
レオーナもスパイドも、それぞれに不安定な部分を持っている。レオーナは、両性具有である点もその一つだ。
外見は女性的で女性器も持っているが、同時に男性器も持っている。本人は、完全な女性として振舞っているが。
だが、性器があるからと言って、繁殖が行えるというわけではない。レオーナは、排卵と射精のどちらも出来ない。
なので、幼い頃はかなり情緒が不安定だった。今は教育と薬剤投与で落ち着いているが、油断は出来ない。
スパイドは、体と毒が一致していない。彼の土台の魔物であるオオグモの毒は、本来、己を痛めることはない。
しかし彼は毒の吐出を続けると、自分の口内や喉を焼いてしまう。オオグモの血と、人間の血が合わないのだ。
その上、視力が相当弱い。魔力の感覚や聴覚で補ってはいるが、暗闇の中で遠くの物を視認するのは難しい。
工面して使ってきた研究資金が遂に底を付いてしまった頃、ジュリアとゼファードはかなり苦心した。
薬剤の投与が欠かせない三人と、巨体に生まれたことで栄養失調気味のセイラを生かすのは大変だった。
ようやくセイラが落ち着いた頃には、もうほとんど金はなかった。薬剤の在庫もなく、研究所の倉庫は空だった。
このまま薬剤が足りなかったら、どの魔物の子も死んでしまう。しかし、いつまでたっても金は手に入らない。
迷いに迷って、ジュリアは決断した。セイラにありったけの処置と魔法を施して、金貨百五十枚で族に売り渡した。
もちろん、研究資金が再開さえすれば取り戻すつもりだった。だが、何度掛け合っても大学の答えは同じだった。
理由は話せない、しかし、君達に金を渡せない。そればかりが繰り返され、ゼファードは焦燥を溜め込んだ。
そしてある日、気付くと彼の姿がなかった。書き付けが一枚あり、三本ツノを取り戻してくる、とだけあった。
今にして思えば、イノセンタスの所業は凄まじい。妹に振り向いてもらいたい一身で、強い圧力を掛けていた。
なんとか状況を凌げて、セイラが無事であったから良いものの、そうでなかったらどうなっていたことだろうか。
長兄を憎んでいたかもしれないが、憎めなかったかもしれない。ジュリアは、薬品棚のガラス戸に目をやった。
標本棚の隣に据え付けてある薬品棚には、薄茶の髪と目をした女がいた。兄とよく似たその色を、じっと見据える。
次兄は、長兄を憎み切れなかった。それどころか、愛しているとさえ言った。自分も、そう言えるかもしれない。
いや、言える。あれだけの目に遭わされていても、深淵へ引き摺られそうになっても、嫌えなかったのだから。
暗示と昏迷剤で薄らいだ意識の中、視界に入るイノセンタスを睨んでも、虚ろな夢の中で兄に声を荒げても。
甘ったるい、と自分でも思う。ジュリアは兄に似た自分の色から目を外し、肩を支えているゼファードに向いた。

「ねぇ、ゼフィ」

ジュリアは首を曲げ、ゼファードの顔を真正面から覗き込んだ。

「私がもし、あのままイノ兄様の手中に堕ちていたら、どうしてた?」

「イノセンタス様と戦っていたことでしょうね」

ゼファードはすぐ目の前にいる彼女に、少し笑う。

「グレイス・ルーの城で戦わせてもらえなかった分、限界まで戦ったんじゃないでしょうか」

「嬉しいわ。そこまで思っていてもらえるなんて」

ジュリアは肩を掴んでいるゼファードの手に、自分の手を触れさせた。細い指が、大きな手に絡む。

「だけど、私はきっとそれを止めるわね。変な話だけど、イノ兄様のことは、今でも好きだもの」

「寛大ですね」

「甘いだけよ。子供みたいな生温い考えを抱えたまま、こんな歳になっちゃっただけ」

ジュリアはゼファードの腕に背を預け、目を伏せる。

「あんなことをされても、イノ兄様をまるで憎めないもの。兄妹揃ってこんなんじゃ、ヴァトラスってダメね」

「そうでしょうか」

「そうよ」

寝乱れた髪を掻き上げて、ジュリアは呟く。

「良くも悪くも理想主義者。人間の根本は常に善良。血を分けた存在は裏切らない。なんて、思っているのよ」

「私は、それは違うと思います」

「そうかしら? 私やギル兄様がイノ兄様を憎めないのは、そんな感じの甘ったるい思想が原因だと思うのよ」

「ですが」

「愛情だったら、もっと大きいわ。劣情だったら、結果は違っているわ。だから、あなたの考えている結論は」

「ですからそれが、家族というものなんじゃないですか?」

ゼファードの言葉に、ジュリアは顔を上げた。ゼファードは続ける。

「私は帝国に親兄弟がいますが、十三のときにヴェヴェリスに出てきてからというもの、一度も顔を合わせたことはありません。だから肉親が傍にいる状況はあまりなかったんですが、それでも、教授の感情に対して感じた結論がそれなんです」

「家族…?」

「ええ、そうです。例えば、あの子達。教授の趣味で見た目もごっついし性格は良いけどまだまだ子供だから、悪戯が絶えません。一昨日だって白墨で至るところに落書きをしていたし、本能で変な生き物を捕まえてきてはその場で喰ってしまうし、ウルバードは聞き訳が良いけど調子に乗っておかしなことをしでかすし、レオーナはしょっちゅう床に転がって寝ているし、スパイドはどうでもいいことでいちいち泣くし、反抗期でやかましい。私達は、そんなのと七年以上過ごしているんです」

「それが、どうかしたの?」

「苦労して書いた研究論文に紅茶をぶちまけるし、三人揃って悪食だから普通の食事はよく残すし、ちょっと怒ればいじけてしまうし、魔物の体力と腕力で遠慮なくじゃれついてくるし、おかげで肩の関節が外れかけたこともあるし、後ろからどつかれたせいで実験器具に頭から突っ込みそうになったこともあります。憎らしいとは思いません?」

「たまにはね。でも、ちゃんと言い聞かせれば言うことも聞いてくれるし、三人ともいい子よ」

ジュリアが言うと、ゼファードはにんまりとする。

「そうなんですよね。それがあるから、ずっと一緒にいてしまうんです。不思議なもんですよ」

「ああ、あなたの言いたいことが解ったわ。つまり、こういうことなのね?」

ジュリアは、ゼファードの胸に頭を預けた。白衣の下から、体温が伝わってくる。

「無意識の連帯感とでも言うのかしら。その感情が根底にあるせいで、私はイノ兄様を憎めないのね?」

「ええ。といっても、私の一方的な見解に過ぎませんし、明確な根拠はないんですが」

胸に当たっているジュリアの頭に困惑しながら、ゼファードは返した。ジュリアは、ゼファードを上目に見る。

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないわ。ちゃんとした結論が出るには、もう少し時間が必要ね」

暖炉の炎が、ゆらりと揺れた。赤味掛かった光が、ベッドに座るジュリアとその傍らのゼファードを照らしている。
窓の外を、無数の雪が落ちていく。張り詰めて冷えた空気が寝室を満たしていて、二人の息も僅かに白かった。
ゼファードは、自分の鼓動が彼女に聞こえないか心配だった。気温とは裏腹に、体の奥底は焼けるようだった。

「あの、教授」

「寒いんだもの。あなたは寒くないの?」

ゼファードに体重を預けたジュリアは、笑う。ゼファードは、上擦りそうな声を落ち着ける。

「いえ、まぁ、なんとか」

「ねぇ、ゼフィ」

「なんでしょう、教授?」

「その、教授、というのはやめてくれない? あなたと私はずっと一緒にいるんだし、なんだか余所余所しいわ」

「ですが、私はあなたの助手に過ぎませんし」

「助手じゃなくなったら、そう呼ばなくなるのね?」

「ええ、恐らくは」

「もう少しだけ、待って。イノ兄様に指輪を返してからじゃないと、そういう気分になれないから」

ジュリアは気恥ずかしげに、目線を彷徨わせる。

「春になって、イノ兄様に指輪を返した後にでも、あなたの方から言って。私からは、たぶん言えそうにないから」

ゼファードが呆気に取られると、ジュリアは顔を背ける。間を置いてから、ゼファードはようやく事態を理解した。

「あの、それじゃあ」

「気に入ってなきゃ、七年以上も助手にしておかないわよ」

ジュリアは顔を逸らし、小さく呟いた。その声はかなり照れくさそうで、無理矢理冗談めかした口調になっていた。
ゼファードは緊張しながら、ジュリアをそっと抱き寄せた。暗がりで表情は解らなかったが、頬は染まっていた。
ジュリアは彼の優しい体温を味わいながら、助手を見上げた。嬉しそうではあるが、どこか困った顔をしている。
彼は、知らないだろう。イノセンタスの暗示がジュリアの心を染め切らなかったのは、彼の姿を求めていたからだ。
長兄の手の上で踊らされるゼファードを救ってやりたくて、枷を付けられた子供達を守ってやりたい一心だった。
それでも、何も出来ずに操られてしまった。その悔しさと情けなさで、つい、彼らの機嫌を取るように笑ってしまう。
不安にさせまいと笑うほど、彼や子供達が不安がるのは解っている。それでも、笑顔を作らずにはいられない。
だが、これからはそうしなくても良くなる。すぐには元には戻れないかもしれないが、彼がいれば、心は安らぐ。
愛する兄達を追い込んでしまった罪からは逃れられないし、逃れるつもりもないが、気は静まってくれるだろう。
それに、今までは長兄への後ろめたさがあった。深く愛してくれたイノセンタスを、裏切るような気がしていた。
だから、事が全て終わってもゼファードに何も言えなかった。長兄からの指輪が、更にそれを強めてしまった。
ずっと支えてきてくれたゼファードを愛したくとも、いつもどこかに兄がいた。イノセンタスの影が、心を占めていた。
だが、その間にいることは苦しかった。ゼファードへの愛情とイノセンタスへの罪悪感に、押し潰されそうだった。
それでも、ゼファードへの愛は増した。押し止めようと思っても自制が効かずに、心の中はどんどん彼が支配した。
長兄を裏切れない、だけど、彼を愛している。先程見た夢は、ゼファードへの愛を選んだことによる罪悪感だろう。
ジュリアは彼の白衣に縋り、内心で長兄へと呟いた。ごめんなさい、イノ兄様。私は、この人が好きでならないの。
寒さで結露が凍り付いたガラスが、炎の明るさを映して鏡のようだった。ゼファードは、それに見入ってしまった。
薪の爆ぜる音が、寝室に響いた。窓の向こうで音もなく降る雪を見ていると、その奥に、何かあるような気がした。
炎の鏡の奥に、藍色を身に纏った影が立っていた。それは、ここにいるはずのない存在であり、人物だった。
白い雪に覆われた地面の上に、イノセンタスが立っていた。夜の闇に似た藍色のマントが、風でぶわりと翻った。
藍色の魔導師の幻影は、ガラス越しにゼファードを見定めた。固く引き締められていた口元が緩み、こう動いた。
そうだ、それでいい。そうあるべきなんだ。イノセンタスは名残惜しげにこちらを見ていたが、背を向けた。
ゼファードが身を乗り出すと、藍色の魔導師は失せていた。地面を見ても、真新しい雪に足跡は残っていない。

「どうしたの?」

外を凝視するゼファードに、ジュリアは尋ねた。ゼファードは身を引き、座り直す。

「…イノセンタス様が」

「ええ、そうね。きっといるわ」

ジュリアは窓の外を見たが、寂しげにする。

「でも、私には見えないみたい。きっと、見えないようにしているんだわ」

ゼファードは、雪の降る光景を見つめていた。イノセンタスの幻影の表情は、別人のように穏やかだった。
きっとあれは、ジュリアにだけ見せていた表情だ。あの笑みは、妹に兄らしくあろうとした頃の顔に違いない。
彼の氷は、溶けたのだ。深淵から逃れることが出来たのだ。ゼファードは無性に嬉しくなり、口元を綻ばせた。
また、薪が爆ぜて火の粉が散った。




雪解けの季節になり、初春の風が暖かな土の匂いを運んでいた。
王都の市民共同墓地の周囲は、青々とした木々が生い茂っている。丘を越えると、眼下には墓石が並んでいた。
喪服姿のジュリアは、背後のゼファードを見上げた。さすがに今日は白衣ではなく、堅苦しい喪服を着ている。
緩やかな傾斜を下り、墓場を見回しながら進む。奥まった場所に、イノセンタスの名が刻まれた墓石があった。
ジュリアが兄の墓の前で止まると、ゼファードも立ち止まる。抱えていたスイセンの花束を下ろし、後方に向いた。

「あの子達、どうしてますかね」

ジュリアは、彼の目線の先を辿る。森の奥にあるフィフィリアンヌの城へ、人造魔物達を預けてきたのだ。
スパイドは一緒に行くとごねていたが、ウルバードに殴られて大人しくなった。今頃、セイラと戯れているだろう。
穏やかな春風に乗って、清らかな旋律が遠くから聞こえてくる。どうやら、セイラが鎮魂歌を歌っているようだった。

「いい子にしているはずよ。ギル兄様も、フィフィリアンヌさんもいるんだもの」

ジュリアはゼファードから花束を受け取ると、しゃがみ、墓の前に横たえた。指輪を取り出し、花束の手前に置く。

「久し振りね、イノ兄様。今まで、顔を見せなくてごめんなさい。今日は、指輪を返しに来たの」

ジュリアは冷たい墓石に手を当て、兄の名を撫でた。氷のようにひやりとした表面が、次第に体温で温まる。

「ごめんなさい、兄様。私は、イノ兄様とは一緒になれないわ」

ジュリアは一度ゼファードを見てから、表情を緩ませる。

「私は、この人と一緒になるから」

白いスイセンの花束から、甘い香りが漂っていた。それが風で柔らかく広がり、長兄の墓の周囲を満たした。
ジュリアの背後にしゃがんだゼファードは、墓石を見据えていた。すると、視界の端に藍色が掠めていった。
ふと気付くと、ゼファードの背後に彼が立っていた。雪の日に見た幻影と違い、影も濃く、存在感は強かった。
ゼファードはジュリアへと向いたが、気付いてはいないようだった。イノセンタスの藍色のマントが、ゆらりと動く。
イノセンタスは俯いていたが、顔を上げた。少々悔しげな、それでいて晴れやかな顔をして、笑っていた。

 そうか。ならば、仕方のないことだ。

その声は、確かに聞こえていた。ジュリアはすぐさま振り返り、背後を見上げるゼファードの視線の先を見た。
だが、そこには何もなかった。いくつも並ぶ墓石の奥で、眩しく煌いている木々の葉がさらさらと擦れ合っている。
ジュリアは、ゼファードの横顔を見上げた。なんともいえない表情をしている彼に、ジュリアは尋ねた。

「兄様が、いたの?」

ゼファードは頷き、イノセンタスの立っていた場所に向いた。藍色の姿はなく、声の余韻も掻き消えていた。

「ええ、いました。どうやら、お許しも頂けたようですよ」

「そう。なら、良かったわ」

ジュリアは立ち上がると、薄い雲の散らばる空に声を上げた。

「イノにいさまーっ! あっちの世界でも、どうかお元気でーっ!」

墓地に不似合いな、子供じみた叫びだった。こんなに声を出したのは久々だ、と思い、ジュリアは墓に向いた。
花束の手前へと目線を下げると、置いたはずの指輪がなくなっていた。花束を持ち上げてみても、どこにもない。
草の間にも、土の上にも、金の指輪は見当たらなかった。イノ兄様が持っていったのね、とジュリアは確信した。
森の奥から流れてくるセイラの歌は、いつのまにか変わっていた。今度は、竜女神を称える歌になっている。
ジュリアの肩に手を添えたゼファードは、慣れない手付きで腕の中に納めた。彼女は、軽く体重を掛けてきた。

「解ってますよ。もう、教授とはお呼びしません」

ゼファードは声を落ち着けてから、言った。

「ジュリアさん。私は、あなたが好きです。心から、愛しています」

「それだけ?」

ジュリアは顔を上向けて、ゼファードを見上げる。すると、彼はちょっと臆したような顔をする。

「これ以上、何を言えって言うんですか?」

「一生幸せにする、くらいのことは言いなさいよ」

照れくさそうなジュリアに、ゼファードは苦笑いした。

「はぁ」

腕の中で身を捩ったジュリアは、ゼファードと向き直った。兄達ほどではないが背が高く、見上げる必要がある。
かかとを上げて首に腕を回し、視線を合わせた。戸惑いながらも嬉しそうなゼファードに、ジュリアは笑ってしまう。
いつからだろうか。昔はただの後輩だったのに、気の合う助手でしかなかったのに、気付いたら好いていた。
同じように魔物の子を愛してくれる彼が、我が身を省みずにセイラや自分を救おうとしてくれた彼が、愛おしい。
身を乗り出そうとすると、逆に引き寄せられた。ゼファードはぎこちない動作で、ジュリアの唇を塞いでくる。
互いを確かめるように、深く口付け合う。ゼファードの手がジュリアの背に回されて、しっかりと抱き締めてきた。
二人に注ぐ春の日差しは、長兄の眼差しのように穏やかだった。




緩やかなる、時間を経て。妹は心を溶かし、長兄は天上へと消えた。
長兄との幼き日の思い出は忌まわしき記憶を安らがせ、優しい出来事を蘇らせた。
消えない罪を背負いながらも、癒えない傷を持ちながらも、それでも彼女は生きてゆく。

それこそが、なによりの贖罪なのである。







05 9/22