ドラゴンは笑わない




竜の夏休み



朱鷺メッセの展望施設から、三人は下界を見下ろしていた。
がらんとした室内は、三方向がガラス張りになっていた。そこから見えるのは、無数の民家やいくつかのビルだ。
展望施設とはいえ、大した高さではない。市内を一望出来るわけでもなく、望遠鏡があるわけでもなかった。
信濃川の河口と繋がる日本海の奥の、佐渡島はうっすらとしか見えなかった。快晴でも、良く見えないことは多い。
ギルディオスはやたらと大きな窓の前に備え付けられた手すりに体重を預け、ぼんやりとしていた。

「つまんねぇ…」

「お役所仕事だからなぁ。娯楽施設とは言い難ぇよな、うん」

グレイスは缶コーヒーを飲みながら、やけに高い天井を見上げた。天井は真っ白く、新しさが残っていた。

「これといった見所があるわけでもなし、売店も中途半端と来たもんだ」

「グレイス、てめぇの趣味も良くねぇな。これじゃ、この建物はただの箱じゃねぇか」

ギルディオスが不満げにぼやくと、グレイスはぐいっと缶コーヒーを飲み干し、かん、と手すりに缶を当てた。

「こんな箱物だって知ってたら、ここには来なかったさ。けど、来ちまったものは仕方ねぇよ」

グレイスは手すりに腰掛け、リュックを下ろした。その脇のポケットには、伯爵の入った瓶が突っ込まれていた。
伯爵はにゅるりと迫り上がり、キャップを回した。赤紫のスライムは慎重に体を伸ばし、ぺたりとガラスに当てる。

「おおおおぅ!」

「なんだ伯爵、変なもんでも見つけたか?」

ギルディオスは、先端をガラスにへばりつかせた伯爵を見下ろした。伯爵は、ふるふると身を震わす。

「この海は日本海であるな! ということは、すぐ向こうは某国ではないか! 帝国よりも悪辣で二十一世紀になろうとも独裁を貫いている、あの国があるではないか!」

「ああ、あの国のことね」

グレイスが返すと、伯爵はべちべちと窓ガラスを引っぱたいた。

「ええい、このままでは我が輩は危ういのである! 気高く麗しく素晴らしい魔物である我が輩のこと、きっと怪しげな潜水艦から現れた某国の工作員に拿捕され、新手の兵器として、改造を施されてしまうのである! そして最終兵器となり、地球最後のラブストーリーを繰り広げながら主に北海道で破壊の限りを尽くすのであるぞ!」

「サイカノかよ。改造されたところで、行き着く先は細菌兵器だろ。それに、あんまり不謹慎なこと言うんじゃねぇ」

ギルディオスは、がしゃりと肩を竦めた。伯爵はにゅるっと体を縮めると、瓶のキャップで甲冑を叩いた。

「この我が輩を、細菌と同列に扱うのであるか! 失敬な、我が輩はそんな下等な存在ではないのである!」

「うるせぇんだよ」

ギルディオスは伯爵を、ぴん、と弾いた。おおぅ、と伯爵は声を出して仰け反り、体を瓶の中へと戻した。
グレイスは魔力の気配に気付き、エレベーターへ顔を向けた。直後、展望施設にエレベーターが到着した。
観光客らの間に、不機嫌な少女と茶色い髪の青年が立っていた。竜の少女は青年を引っ張り、足早に出てきた。
ギルディオスらの元へやってくると、フィフィリアンヌは後ろ手にエレベーターを指し、苦々しげにする。

「なんだあれは。狭苦しくて息が詰まるかと思ったぞ」

「近代文明とは不思議ですね。あんな箱が上下するんですから」

フィフィリアンヌとは逆に、カインは平然としていた。フィフィリアンヌは、眉根を歪めている。

「あれだけは好かん。あれだけは我慢がならん」

「でも、帰るときも乗らなきゃダメだぜ。ここの窓は開かねぇし、まさかぶち抜くわけにはいかねぇだろ」

ギルディオスは、ごん、と窓を小突いた。フィフィリアンヌはショルダーバッグを探ると、悔しげにした。

「白墨を忘れた。これでは、空間移動魔法で外へ出ることは敵わんではないか」

「文明の利器に頼ってみるのも面白いじゃねぇか。それに、外に出る手段があるってのに、いちいち魔法を使うのは利口じゃないぜ?」

グレイスは缶コーヒーの空き缶を、ぽん、と放り投げた。途端に消失し、自動販売機脇のゴミ箱に落下音がした。
フィフィリアンヌはにやけるグレイスに、呆れた目を向けた。こめかみを押さえると、口元を曲げる。

「そうかグレイス、貴様だな。貴様が私の荷物から白墨を抜いたのだな」

「おう、そうだ! 悪いか!」

大きく頷いたグレイスに、フィフィリアンヌは片手を向けた。だが、すぐにその手を下ろした。

「貴様が私の荷物に手を出したことは許せんが、今の貴様から魔力を抜くのは得策ではない。これ以上下らんことをされたくはないが、城に帰れなくなっては事だからな」

「そうそう、その通りぃ。実に懸命な判断だぜ、フィフィリアンヌ。オレの魔力がなくなっちまえば、異空間移動魔法の発動が不可能になっちまうからな。だから、今のオレにはだぁれも逆らえねぇってことさ」

両手を上向けたグレイスは、首を左右に振る。ギルディオスは、けっ、と顔を逸らす。

「秋葉系に言われても説得力ねぇよ」

「それで、グレイスさん。次はどこに行くんですか? この場では、あなたが主導権を握っているようなので」 

カインに尋ねられ、グレイスはちょっと不満げな顔をした。

「カイン、お前ってマジでマイペースだよなー。別に悪いとは言わねぇけどさ。この後はずっと海沿いに走って、柏崎でカニでも買おうかなーとか思ってんだよ」

「カニ?」

ギルディオスがきょとんとすると、グレイスは窓の向こうに広がる日本海を指した。

「節足動物の一種さ。これが旨いんだ。お前らは王国の内地に住んでたから、そういうの喰ったことねぇもんなぁ」

「ああくそぅ、こんちきしょう!」

いきなり、ギルディオスは悔しげに叫んだ。ばぎゃん、と拳を手のひらに叩き付ける。

「どうしてこういうときに体がねぇんだ! 喰えるものも喰えねぇじゃねぇかよ! あーもう!」

「生殺しですね、ギルディオスさん」

カインは、ギルディオスに同情した。甲冑はぎちぎちと拳を握り、うぅ、と喉の奥で声を押し殺している。
フィフィリアンヌは上機嫌なグレイスと地団駄を踏みそうなギルディオスを見比べ、グレイスを見上げる。

「グレイス。貴様はこれがやりたくて、ニワトリ頭を連れてきたのだな?」

「おう! 理由はなくても目的はあったのさ!」

グレイスは満面の笑みになり、なぜか胸を張った。

「いくらオレが愛を示そうが、ギルディオス・ヴァトラスは一度だってなびいてくれないんだぜー。カニの生殺しはな、その復讐なのさ!」

「となれば、グレイスよ。こちらの世界に我が輩らが来た意味というのは、フィフィリアンヌらにカニを喰わせ、ニワトリ頭に見せ付けるためなのかね?」

伯爵は瓶を内側から、とんとんと叩いた。グレイスはもう一度、おう、と頷いた。

「どうせ本編が終わっちまって暇だったんだ、暇潰しには丁度いいだろ」

「それもそうだな」

フィフィリアンヌは腕を組んだ。トサカに似た赤い頭飾りを付けた大柄な甲冑は、肩を震わせている。
腰までの長さしかないマントを付けた背には、剣は載せられていない。物騒なので、車に置いてきたのだ。
相当に悔しいのか、歯軋りのような音がしていた。力を込めて項垂れたので、首の関節が軋んでいる。
周囲の観光客から奇異の目で見られていることにも気付かずに、ギルディオスはひたすらに悔しがっていた。




柏崎の鮮魚センターの駐車場に、黒のジープラングラーが居座っていた。
その後ろで、買ったばかりのカニが詰まった発泡スチロールの箱が開けられていた。中身は、既に減っている。
いくつか空になった発泡スチロールの箱が、数個あった。保冷用の氷も残っていて、溶けてもいなかった。
空箱には、身を食い尽くされた殻が放り込まれていた。山と詰まれたカニの残骸の上に、甲羅が放られる。
それを投げたフィフィリアンヌは、ズワイガニを箱の中から取った。ばきりと足を折り、身を引きずり出す。
カニの身を口へ入れてしまってから、後ろを見た。うんざりした顔のグレイスが、後部座席から顔を出していた。

「フィフィリアンヌ、後で金払えよ。それ、全部オレが買ったんだからな」

「ああ、解っている」

カニの足の中身を食べ終え、フィフィリアンヌは二本目の足を捻り取った。その隣で、カインは苦笑いする。

「良く食べますね、フィフィリアンヌさん」

「甲殻類もそうなのだが、魚介類が好きでな。際限なく喰えてしまうのだ。貴様らはもう喰わんのか?」

フィフィリアンヌは、カニの汁に汚れた指をぺろりと舐めた。カインは顔を逸らし、力なく呟く。

「いえ、もう限界です。こんなに大きいもの、そういくつも食べられるものではありませんよ」

「そうそう。オレだって三つぐらいで気が済んだのに、お前は一体いくつ喰うんだよ、フィフィリアンヌ」

グレイスは、山盛りの残骸を見下ろした。フィフィリアンヌは六本足になったカニを下ろし、指を折る。

「そうだな…。まだ十しか喰っておらんから、あと五は喰うぞ。旨いからな」

「はっはっはっはっはっはっは。後で腹を下しても我が輩は知らぬのであるぞ、フィフィリアンヌよ」

荷台部分に置かれた伯爵は、ごとごとと瓶を揺らした。フィフィリアンヌは、またカニの足を外した。

「惜しいことをした。こんな物があると知っていたらば、ワインも持ってくるべきだったな」

カニの箱は、荷台だけは事足りずに後部座席まで侵食していた。グレイスが、無茶苦茶な数を買ったのだ。
ズワイガニだけでなく、鮮魚も買ったようだった。城に持って帰って、レベッカに料理してもらうのだそうだ。
助手席で膝を抱えるギルディオスは、悔しさと腹立たしさを胸中に渦巻かせていた。カニが、食べたかった。
背後から聞こえてくる会話や、甲殻類独特の匂いが恨めしい。なまじ、匂いで味が想像出来るので余計に辛い。
膝に顔を埋め、ぐぅ、とギルディオスは呻いた。物を喰えないということが、ここまで苦しいとは思わなかった。
かといって、カニを食べられないだけで八つ当たりするのも大人気ないので、膝を抱えているしかなかった。
ギアレバーの隣に横たえたバスタードソードを見下ろしたギルディオスは、いつにも増して固い決心をした。
いつもの世界に戻ったらすぐにグレイスを殴り飛ばしてやろう、と内心で強く誓った。




そして、黒のジープラングラーは海岸へとやってきた。
夕焼けに染まる日本海が、延々と続く砂浜の向こうで輝いていた。水平線の果てには、佐渡島がうっすらと見える。
車を道路沿いの駐車場に止め、砂浜に下りていた。波打ち際には、海草や様々な漂流物が散らばっていた。
ギルディオスは足の関節に入る砂に辟易しながらも、がしゃがしゃと歩いていった。潮風が、頭飾りを揺さぶる。
先に波打ち際にやってきたフィフィリアンヌは、じっと波間を睨んだ。西日を帯びた波が、眩しく光っている。
その間に、白くて柔らかいものが浮遊していた。半透明の物は、波に合わせてふわふわと水中を漂っていた。
フィフィリアンヌはその半透明の物体を見つめていたが、正体を察し、あまり面白くなさそうな顔をする。

「クラゲだな」

「海水浴の時期は見事に過ぎちゃったからなぁ。まぁ、オレらは別に海水浴する気はねぇからいいけどさ」

グレイスは日本海を眺め、腰に両手を当てた。フィフィリアンヌの隣に立つカインは、砂浜をぐるりと見渡した。

「流れ着いているものが人工物ばかりな辺り、いかにも近代文明、という感じがしますね」

「漂流物の多さなんかで感じるなよ、そんなこと」

ギルディオスは、ヘルムを掻いた。シーズンオフになってしまった海へやってきても、やることなどない。
フィフィリアンヌは、ショルダーバッグから伯爵の瓶を取り出した。キャップを外し、海面に突っ込んだ。
うごっ、と伯爵の悲鳴が聞こえた後、ごぼごぼと泡が出た。半分ほどに海水を入れてから、水から上げた。
海水の中に、不定形なスライムが揺れている。蠢いていたが、ずるるっ、と口から飛び出して叫んだ。

「うごぉおおう!」

「やはりか」

フィフィリアンヌの呟きに、伯爵は少し萎んだ赤紫の触手を振り回した。

「解っているのであればやるでない! 我が輩の水分が、浸透圧で抜けてしまうではないかぁ!」

「カニの味はしたか?」

「するはずがなかろう! 塩と砂と有機物質の味だけである!」

水分が抜けたせいか、伯爵の声には覇気がなかった。フィフィリアンヌは伯爵の瓶を、ざしゅりと砂に置く。

「そうか、それは残念だ」

「さぁーて、とぉ」

ジープラングラーのキーをポケットに押し込めたグレイスは、にやりとした。灰色の目が、甲冑を捉える。

「夕暮れ時、波打ち際、ときたらもうあれしかねぇだろう!」

「…あ?」

ギルディオスは、反射的に数歩後退した。グレイスはだらしない笑顔になり、ギルディオスに駆け出した。

「待てよぅこいつぅー!」

「そう来ると思ったぁー! ていうかそれしか思い付かねぇのかよー!」

ギルディオスは身を翻し、グレイスに背を向けて走り出した。半泣きになりながら、砂に足を取られつつも走る。
真横に見える海は美しかったが、それどころではない。グレイスから逃げるのに必死で、景色など見えなかった。
グレイスは上機嫌に笑いながら、速度を出さずにギルディオスを追っていた。すぐに追いついては、面白くない。

「ほらー、捕まえてごらんなさーい、って言えー」

「だぁれが言うかぁ!」

背後に振り向いたギルディオスは、渾身の力を込めて叫んだ。グレイスは、つまらなさそうにする。

「えぇー。ノリが悪いなぁーもうー」

うぎゃああ、と本気で嫌がっているギルディオスの猛りが波の音に混じった。それを、グレイスが追っていく。
ラブコメじみた二人の姿に、カインはグレイスの戦略を察した。間を空けたほうが、相手の恐怖は倍増する。
しばらく見ていると解るのだが、グレイスの方が明らかに足が速い。だから、追いつくのは時間の問題に思えた。
しかし、グレイスは敢えて追いつかずにいるようだ。散々ギルディオスを追い掛け回し、へばらせる算段なのだ。
グレイスらしい、と思うと同時にえげつなさに辟易した。好きな相手を恐怖に駆り立てるなど、理解出来ない。
フィフィリアンヌは海水に濡れた手をハンカチで拭っていたが、顔を上げた。駆け回る甲冑と呪術師を指す。

「今、思ったのだが」

「なんでしょう?」

カインがフィフィリアンヌを見下ろすと、フィフィリアンヌは淡々と言い放った。

「この状態は、こちらの世界で言うところのダブルデートというやつなのかもしれんぞ」

「…メアリーさんがいなくて、良かったですね」

必死に逃げ回る甲冑を見つつ、カインは呟いた。フィフィリアンヌは頷く。

「ああ。あの女は心身共に強いのだが、多少思い込みと嫉妬が激しい部分があるから、ここにいたらばまた面倒なことになっていただろうな」

「そうですか、今日のことはデートでしたか。良く考えてみれば、そうかもしれませんね」

カインは、少し残念そうな顔になる。

「そうだと知っていれば、もう少しちゃんとあなたをエスコートしたかったですよ」

「貴様の場合、三半規管を鍛えねばどうにもならんと思うぞ」

「それを言わないで下さいよ」

「次があるではないか」

「それもそうですね」

カインは彼女へ向き、頷いた。頬の染まったフィフィリアンヌは、赤い瞳を少し彷徨わせたが、青い瞳へ向けた。
彼女に向き直ったカインは、小さな手を両手で包み込んでやる。フィフィリアンヌはびくりとし、顔を伏せる。
二人は、そのまま動きを止めた。瓶から這い出た伯爵はでろりと体を崩すと、フィフィリアンヌの横顔に、呟いた。

「…貴君ら、我が輩を忘れていやしないかね?」

遠くからは、ギルディオスの悲劇的な叫び声とグレイスの好色な声が聞こえていた。




異世界の住人達が一時の夏休みを終えて、元の世界に帰った翌日。
ジープラングラーの持ち主である神田葵の元に、無事な車両とキーと共に大量のズワイガニが送り届けられた。
カニを全て持ち帰りたがったグレイスをカインが強引に言いくるめ、お詫びに、とカニを半分ほど残したのである。
神田は物凄く不可解であったが、事の真相を知るブルーソニックインパルサーは喜び、それをカニ鍋にした。
季節外れのカニ鍋を黙々と食べながら、神田はしきりに首をかしげていたが、彼が真実を知ることはなかった。


夏の終わりの、ある日のことである。







05 8/31